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【相良頼房26_功臣の死】

深水宗芳が犬童頼安の嫡男・頼兄を養子にしようとしたのは、深水自身の保身だったかもしれない。
相良家御家存続の大功労者の深水だが、その時に重大な越権行為をしているからだ。
仮の話だが「秀吉が相良家に含むところがあれば」「深水の行動を利用して」「相良家を分断していたかも」しれないんです。

深水の越権行為とは?まず(* ̄・ ̄*)b島津への不義・・・島津から関白へ乗り換えたのは深水の独断です。
当主の頼房は日向国にいたので、連絡してたんじゃ時期を逸する・間に合わない~~というのは解る。

だが、あくまでも結果オーライなだけで、タイミングが悪ければ(島津にバレるなど)日向にいる頼房の身に危難が及んだかもしれないのだ。

これは序の口で、序の前も序二段もないが、一番問題な行動~~
頼房弟・藤千代クンを「頼房に無断で」「頼房の前に」「秀吉に拝謁させていること」です。
相良家存続を訴えるためには「相良家の誠意(人質)」が必要なのは解る。手ぶらでは行けない。

だがそれが藤千代クンである必要があっただろうか?
島津の筆頭家老・伊集院忠棟は、自分自身を人質としているし、
後年の関ヶ原の戦いで前田家が生母を江戸に人質に出したのは有名だ。

普通の生母ならトウが立ってるが、若年の頼房ママンなら秀吉が喜びそうな熟・・・ゲホグホ失礼!
とにかく秀吉の女好きは知れ渡ってて、女性を人質として差し出す国人は少なくなかったんです。


源平合戦・南北朝の戦い・戦国時代・関ヶ原・・・大きな政変・戦になると庶流が嫡流を凌いだり、弟が兄を差し置いて当主になる「逆転劇」が、しばしば見られる。
相良家そのものも元を糺せば庶流で、南北朝で嫡流を凌ぎ、戦国時代で嫡流を倒した歴史がある。
関ヶ原以降に伊達政宗が「豊臣家に近すぎる」という理由で、長男を家督から外し次男を跡継ぎにした話も知ってる人は多いだろう。
(おかげで親子関係の修復に時間を要した)

吉川家でも元春(父)・元長(嫡男)が相次いで亡くなり「家督をどうする?」って話になった。
他家に養子に出してた次男を戻そうか・・・という話が出た時に小早川隆景が言った。
小早川「家督は次郎五郎(広家)だ、関白殿下が見知った者を当主にすべき(大意)」この発言で末弟の広家が当主になった。

管理人が言わんとすることが解るでしょうか?
万が一「頼房が島津加担の罪は勘弁ならぬ」となったら、弟・藤千代を当主に戴き御家存続を願い出るm(_ _)m
深水宗芳が藤千代クンを伴ったのは、そこまで考えたからだ・・・と思います。

逆に「もし秀吉が相良家の力を削ぐこと」を考えたなら、「藤千代クンを当主にして球磨を安堵」します。
さらに、頼房を処断(強制隠居など)しないまでも、日向か筑後あたりに飛ばして与力大名にしてしまう。
これで完全にノックアウト。相良は頼房派と藤千代派に分裂し二度と和合することはない。

だが秀吉は島津ほど相良家を危険視してはおらず、自ら関白の下知に従う姿勢を見せたことを喜んだ。
何より目の前の深水宗芳を気に入ってしまったことが、深水にとって有難くも気苦労な事態になる。

深水を気に入った秀吉は、蔵入地(=直轄地)の代官とした。
ウィキペディアには簡素に「水俣の代官」としか書いてない(ほんと大雑把なんだから!)
これでは相良を知らない人や土地勘無い人は、現代の水俣市規模を連想してしまう^^;

水俣だけじゃないんです。葦北郡全部・・・深水は郡代官だったの。
城代も2つ兼務。水俣城と津奈木(つなぎ)城です。
葦北郡の石高は慶長9年で17000余で、相良家の球磨郡は約2万。

天正年間の石高は解らなかったが、主君である頼房と深水の代官地に大差がない。
代官ともなれば任地に赴かねばならず(城代だし)、都度主君へ「行ってきまつm(_ _)m」挨拶しただろう。
葦北は相良領だったのに・・・|次の間/襖 |_T)じぃ・・・by相良家臣

深水は和歌が堪能・・・つまり空気読む能力スペックが高いから、すごい気まずかっただろうなぁ。

年若い主君・頼房は(この時点では)深水にどうこうは無いと思う。
深水は島津義久との関係融和に努めてたし、深水の独断専行のお蔭で御家存続だし、肥後一揆のチョンボもフォローしてもらったし・・・・・それでなくとも祖父の代からの功臣だから頭が上がらない。

功績が大きいのは悪くない、だが秀吉から貰う見返りが大きすぎて、非常にバランスが悪い。
藤千代クンを当主うんぬんは管理人の推測で、そんな意図は深水に無かったかもしれない。

だが管理人が勘ぐったように、相良家臣が勘ぐる可能性はある。
もし深水が「秀吉死去~関ヶ原まで」存命していたら、間違いなく失脚していたことだろう。

天正18(1590)年8月21日・・・深水宗芳死去・享年59歳・・それは・またの話 by^-^sio
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【相良頼房25_対立】

自分は武将の評価・分析をする時に「好悪・善悪」を、一切判断基準には入れない。
武将の行動・作戦に対し「是非」も判断基準に入れない。
昔と今とでは価値観が違うのだから、今日感覚が入ったら解釈を間違う。

ただ一つだけ・・・・管理人は「やっぱり女」なので「主役となる人物に惚れない」と記事が書けない。
(調べても記事にする気が湧かないんです)

相良義陽は解りづらくて惚れるのに時間がかかった。
ゆっくり熟成しクライマックス(響野原の戦い)まで、気持ちを盛り上げたので、
今では義陽&相良が、筑前・秋月ファミリーくらいまで好きな武家だし、肥後戦国史は最高に面白いと思う。

あ、もちろん日向も~大好きな国人いるし~大隅も薩摩も~大友家臣団カッコイイ~
結論・管理人は惚れっぽい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

惚れた贔屓目ではないが、自分の中で相良義陽は「ひとかど以上の人物・人柄!」<( ̄^ ̄)/ビシ★
ただ名門当主らしく最前線に出たのが一度だけ(死んだ響野原の戦い)なのと、
どうやら基本性格も文治タイプのようなので、他の戦国武将に引き比べると華々しさに欠ける部分はあると思う。

管理人が惚れたように、相良の面々も義陽の気性を愛していたと思う。
不穏な動きは感じられるものの、獺野原(うそのばる)の戦いクラスの内乱は無い。

義陽は領内統治に関し、生母や深水ら重臣らの力を借りながら、その人柄で上手く家中を纏めていたに違いない。
(ただし、見方を変えれば義陽は優柔不断でもある)

だからこそ相良家御家騒動の遠因は「義陽の死」になると思う。

義陽が何とか抑えていた(後回しにしてたとも言う)相良の不満が死後に噴出した。

相良家中の不満とは、深水一族と犬童シンパとの対立だ
深水一族と犬童一党の対立は義陽生前には表だってないし、死後直後も大きな動きはない。
というより相良家存続は、深水宗芳と犬童頼安が協力し合っていたからこそのものだ。

だが、ぜ~~~~~~~~~たい根っこの部分で燻っていたはず |壁 |_ ̄)じー

「そう思う根拠」は、深水宗芳が自分の後継者に犬童頼安の息子・頼兄を据えようとしたからです。

深水宗芳の嫡男・深水摂津介は父に先立ち戦死した。
それも島津配下となって戦った阿蘇合戦(島津VS阿蘇)に従軍してた時で、なんというか実にやるせない話で、
お悔みの言葉が出て来ない「名誉の戦死」とでも言うしか。。(ω・`))シュン

ウィキペディアだと「当初、深水長智(宗芳)は一族に優れた者がいない為、既に死去していた嫡子・深水摂津介の代わりに犬童頼安の子・犬童頼兄を自らの後継にしようとした」
と、簡素に書いてるが、それがそもそも不自然ではないか。

犬童頼兄は頼安の嫡男なのだ。
他家へおいそれと出せる道理ではない~
しかも深水家には宗芳に連なる血縁者がいる・・・それを差し置いて他家から所望?

九州の役直後の難しい舵取りを任せられる人物がいないから・・・一見、尤もな理屈だが、
一族から見れば超失礼「馬鹿な話だ!当主が未熟なら一族の者が支えれば済むこと!」なんです。
家中の反対を押し切り犬童頼兄が来たとしても、孤立して身動き出来なくなるのがオチだ。

そもそも犬童頼安(既に剃髪し名前を変えているが便宜上このまま)が、嫡男を出すことを承知していたのか?
養子の件を頼安が承知していたなら・・・犬童一党と深水一族の対立があったことの傍証になります
家中の不和を抑えるには「犬童家」と「深水家」が一つに統合されるのが一番の早道だからです。

深水家は代々奉行職を務める譜代の家柄。

犬童頼安は「帰り新参」
犬童頼安は祖父母の代で相良家御家騒動に加担し敗れ、一族郎党が処断され幼少の頼安だけが助命された。

頼安自身にも「一族の仇討ち」のため謀反に加担し出奔した黒歴史がある。
その犬童頼安を赦免し抜擢したのが相良義陽だ。

人物・相良義陽
(久々の相良義陽~)

家臣の推薦でなく、義陽自身が犬童の才覚を見出したのなら「人物眼」に秀でていたことになる。
細部のツッコミはともかく、犬童は義陽と出会い「一族の仇討ち」を止めた。
犬童は義陽の人柄に心酔してたんじゃないだろうか。
義陽の死後剃髪してるし戦死場所に廟所を立てている。

黒歴史の新参者が重用されるのを、譜代家臣・一族が快く思うはずがない。
犬童が活躍できたのは義陽の後ろ盾だけでなく、重臣の深水宗芳の器量が半端ないんで、頼安の存在を受け入れていたからだろう。

深水宗芳が一族から後継者を選ぶのを危ぶんだのは、単に器量の問題ではなく、
「犬童を快く思ってない者」が当主になれば、禍根になるのを恐れたからではないだろうか。

だが深水一族の竹下監物に「養子話」を反対される。(当然です)
宗芳は諦め甥の頼蔵(よりくら)を後継ぎとしたが、なおも不安で、
主君・相良頼房の許しを得て、深水頼蔵と犬童頼兄の両人を自らの後継の奉行とした。

譜代家臣と新参で武功厚い家臣が、タッグを組めば当主若年でも大概の難局は乗り切れるだろう。
だが、そのカップリングが上手くいった試しは・・・・あまりない( ̄ー ̄A 汗フキフキ

譜代と新参が二人三脚出来る時⇒⇒⇒仕える主君も度量・器量が優れている時。
主君・義陽+譜代・深水+新参・犬童・・・・このゴールデントリオが奇跡だったのだ。
なまじ養子ウンヌンが持ち上がっただけに、深水頼蔵と犬童頼兄は歯車が噛み合わなくなるのだが それは・またの話 by^-^sio話 

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【相良頼房24_決着~天草国人一揆5】

前回の一騎打ちで対決予感O(▽ ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワクの引きで、次回に続く・・としましたが、
実は出展元の「北肥戦誌」では、描写が非常にクール^^;

木山弾正の大将同士・一騎打ちの求めに、加藤清正は十文字槍を掴んで応じると、槍を突き入れ弾正の高股を突き通した。
木山「ぐはぁ」
(木山の膝が崩れたのを見て)後に続く木山家臣が駆け寄るが、清正が再び突き伏せると、
清正側にあった浪人・阿波鳴門という者が木山の首を取る。

大将首をとった大手柄の阿波鳴門だったが、流れ矢に当たり戦死する。
木山家臣は清正を逃がすまいと一斉に切り掛かったが、清正の旗本衆に悉く突き崩され、大将を失った木山勢は敗走した。


木山VS加藤清正は辰の刻(AM8頃)に始まり、午の刻(PM14頃)に終わる。
清正方が討ち取った首級460余、味方の戦死は士分11人・雑兵279人。

清正はこれら首級を海辺に並べたが、このとき一揆勢が清正の乗船を奪おうとするのを、加勢の龍造寺勢(成冨茂安勢)が追い払った。
ちなみに成冨さんは、感謝した清正から感状を貰ってます^^b

天草からの援軍である木山勢は敗退したが、志岐城の志岐麟泉は籠城続行。
かといって先行きのアテがあるわけじゃない。ヤバイ感が漂うなかに助け舟を出す者あり。

それは猛将・島津義弘(* ̄・ ̄*)Vブイ

義弘「麟泉は中務大輔(亡き出水薩州家の島津義虎のこと)の婿にて某にとっても縁者に候。
(『本藩人物誌』では、島津義虎の娘の婿・親重が麟泉の次男(養嗣子とも)
(島津義虎は義弘の兄・義久の娘が正室で義弘から見て、義理の甥になる)
願わくば御赦免を賜り、さすればすぐさま下城させますm(_ _)m」と求めて、これが秀吉に許された。、

11月10日~志岐麟泉は有馬修理大夫政純を頼って下城、小西行長へ城を明け渡した。

※本渡市教育委員会刊『天草の歴史』では、麟泉は出水へ逃れ、
養嗣子の親重は有馬晴純の実子なので有馬へ戻った後、加藤清正へ仕えた。
後の加藤家改易に伴い、親重の子・親昌は母方の縁を頼り島津家臣となったとある)

人物・島津義弘
島津義弘画像

11月20日~清正と行長は天草種元の本渡城を討つべく、有馬・大村・平戸・五島を合わせた25,000余人で向かった。
翌21日より竹束で仕寄りを形成しつつ、夜毎に少しずつ攻め近付く |竹束|゚Д゚)))コソーリ!!!!
24日~鉄砲を撃ち方始め~~。

同日・未の刻(PM14頃)~天草種元とその子・太郎次郎は、数百人を率いて城から打って出、激しく戦った後に無事、城へと戻った。

翌25日~寄せ手が城内へ入り、二の丸を奪った。城兵700余人が討ち死に、種元は矢倉へ上がって妻子を斬り殺すと、自身も切腹して果てた。

これに譜代の家臣21人が後を追って切腹、残りは悉く逃げ散った。
清正勢にも570余人の戦死者が出、他の小西や有馬らの勢も討死が多かった。

でもって、北肥戦誌には記載無しですが、地元に残る伝承では本渡城に木山弾正の妻・お京の方がいたとされています。
彼女にまつわる秘話・延慶寺(えんけいじ)の兜梅~興味のある方は検索してみてください^^

さて、本渡市教育委員会刊『天草の歴史』によると、天草(一族の久種だけが別の場所にいたらしく生き残った)に続いて大矢野・栖本・上津浦も降伏。
その四氏は領地を召し上げられ、小西の家臣に組み入れられた。

その後に行長は、同じ豪商出身で切支丹の家臣「ビンセンゾ・兵右衛門」を志岐に置き、本渡や上津浦にも切支丹武士を配置。
この翌年、上津浦氏も信者となり3,500人が領主に続いて洗礼を受けたとしている。

さらに朝鮮出兵の際、行長はこの天草・栖本・大矢野のメンバーで構成された水軍で渡海。
これに松浦・大村・有馬、対馬の宗・五島といった水軍の得手が加わったことで、一番乗りに繋がった。

小西(旧天草国人)水軍の大島子村の益田日向兵衛、町山口村の大谷諸兵衛らが、水夫の統率者として従軍し功があったとあります。

天草国人一揆は鎮圧された。

ウィキペディアによると天草の石高は1万石とある。
(天正16年の時点で、大矢野氏は1,755石、栖本氏は850石、天草氏は一族と併せて3,000石ほど)

太閤検地以前の検地は、指出(さしだし)検地と呼ばれ・・・早い話が領主の自己申告。
さらに内容も米の収穫からの算定のみで、他の穀物の収穫や運上金などの別途税収はカウントされていない。

+プラス豊臣政権以前は石高制ではなく、貫高(現金決済)制な上に秤の基準数値が各地でバラバラ~という感じなので極めて不正確だった。

慶長13(1608)年の検地で、天草郡は21,616石とされる。
だが米以外の収入を入れても、果たして倍になるものなのだろうか。
いまさらだが天草郡は大小の島からなる。

季候がどれほど温暖であっても、島である以上は風雨による塩害が避けられず、耕地に出来るのは内陸部に限定されるだろう。
そもそも天草郡は山地が多く耕地にできる場所は少なかった。こりゃ2万も怪しい(--;

仮に21000石あったとして、それが江戸期には更に4万2千石だ。
(領主・寺沢広高が田畑収穫で37000←絶対無理+漁獲・茶・桑・塩など別途歳入5000とした・・・)

とてもじゃないが租税率のアップに民度(生産力)が追い付かない。一揆(島原の乱)が起きるはずだ。
離島の歴史というのは、悲惨・悲哀がつきまとう。本島に近い遠いは関係ない。

さて、個人的な拘りで5話に至るまで国人一揆に御付き合い頂き感謝に堪えませんm(_ _)m
次回より、我らが相良家に戻ります。

御家騒動がキナ臭くなってきますよ~それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房23_一騎打ち!~天草国人一揆4】

天草国人一揆では小西(キリシタン)と清正(法華信者)の間に「宗教的対立」があった・・・という話を度々耳にする。
管理人は逆に「天草一揆まで」は「清正はキリシタンを好きでも嫌いでもなかった」と考えている。
なぜなら加藤清正が「こよなく信頼・尊崇」する「黒田官兵衛がキリシタンだから」だ

人物・黒田如水
幸麿さん作画:黒田如水イメージ画像

過酷な牢生活は、単なる智者(時には智慧自慢)だったクロカンの保身感覚を研ぎ澄ませた。
故に黒田官兵衛は「デウスを語る」「時」と「相手」と「場所」と「内容」を選んだだろう。
従って「熱心な法華信者の清正」であるに対し「礼拝に誘ったり」「受洗を薦めたり」「問われもしないのにデウスを語ったり」などしなかったと思う。
心から信頼していれば、相手の宗教が何であろうと関心はない。(※自分に勧めたりしないのが大前提)

清正:ワシは肌に合わぬが、知恵者の官兵衛殿が熱心ならば、悪いものではなかろう←くらいの認識
だから「清正が天草の国人たちに果断」であったのは「彼らがキリシタンだったからでは無い」と思う。
清正が即断即決で攻撃したのは「何よりも一揆の飛び火が怖い」佐々の二の舞は真っ平御免
(加藤の元には旧佐々家臣がいる)
そして「天草が清正領ではない」ということだ。

一揆を殲滅しても清正自身は困らない。
志岐城下や天草の田畑が兵火に焼かれても、清正への租税が滞ったりはしないのだ。
(今後の人間関係が気まずくなるのは、同じキリシタンの小西だけ~^^;)

肥後着任早々で一揆を鎮圧すれば、清正の武勇を満天下に鼓舞できる「関白殿下に褒められるのね( ̄∀ ̄*)ポワ~ン」
人間とは「感情の動物だ」
冒頭とは矛盾するが「嫌いな奴が信じていれば」「その宗教も嫌いになる」
清正が「ガチでキリシタン嫌い(てか憎悪に近い)になった」のは「天草国人一揆以降」ではないだろうか。

ネタバレになるが一揆鎮圧後、天草は正式に小西行長領になった。
小西は「今までの殿様を失い」「不安に陥ってる領民」の「慰撫に務めた」のだろう。
アフターケアの結果~小西領になった天草で「キリシタンの受洗者急増↑」その数、一気に3500名(* ̄・ ̄*)Vブイ゙・小西「ガンバリマシタ」~
清正「ぶべっ!?Σ( ̄  ̄ノ)ノ 彼奴らめ、増えおったぁ~~~キモッ!」

一定数のキリシタンが一揆に加担したのは「天草国人一揆」が最初だ。
急増するキリシタンは、清正の眼には「一揆予備軍」と映ったのではないだろうか。
一揆では天草国人にコテンパンだった小西兵だが「朝鮮の役」では小西水軍が大活躍。
その水軍というのが「旧天草国人」だったんです(関ヶ原でも加藤水軍は小西水軍に敗れている)

黒田親子は禁教令で表向き(と睨んでる)キリシタンを棄教している。
それだけに小西憎しがキリシタン憎悪に繋がったのでは・・・と考えてました^^



清正自身が援軍として着陣したのを聞いた天草種元は、籠城する志岐城へ天草主水と木山弾正を援軍として派兵した。

11月初旬~天草主水・木山弾正は話合いの上で志岐麟泉(しき りんせん)へ「明朝一斉に切って出て、三方より押し包んで加藤・小西を討ち取るべし」と伝える。
だが、志岐城内の者の中に小西との和平を望む者もおり、軍議が纏まらない。
麟泉「(悩)(;-_-;) ウーム(黙然)」
天草主水~(#゚Д゚)y-~~イライラ~「(怒)ならば我らは本渡(天草の主城)へ帰城する!」と言い捨て、その翌日に陣を引き払った。
天草主水~結論出すの早っ!、(*;^-^)ゞ マイッタネコリャ、
一方の木山弾正は(勝負を極めなければ二度と本渡へは帰らない)と誓っていた為、敢えて引かず陣所へ留まった。

清正は小西行長へ遣いを出し、
「木山は我らと一戦交える心算(つもり)に見える。(* ̄ー ̄*)ニヤリ。

 我らは明朝彼らの陣を切り崩す。御辺は志岐城を堅固に囲んで戦の動向を見られよ!」
{{清正から小西への痛烈な皮肉です「悠長に和睦交渉なぞするタワケは、指を咥えて眺めていろ」ということだ}}
と伝えると、夜のうちに木山の陣の上へ旗指物を隠しながら登ると、その夜は静まり返って合図を待った。

11月5日の黎明~加藤善右衛門の一番備え3,000が敵陣と谷を隔てて合図を待っていた。
すると善右衛門の家臣・伊東次右衛門という者がただ一人、槍を掲げて抜け駆けすべく進み出る。|゚Д゚)))コソーリ!!!!
だが清正は見ていた「(#゚Д゚)ゴルァ!! 誰だ、勝手に槍を振るうのは! あやつを止めよ!」


と使者を出して留めたが、伊東次右衛門は既に山の6,7分を登っており、
(木山方に気付かれ)「あっ」という間に徒歩立ちの者3名が、刀を抜いて伊東に切り掛かった。

伊東次右衛門~初めは槍で支えていたが、更に20~30人の敵が現れ取り囲まれ、あえなく討死。
(抜け駆けは成功すると一番槍の功名だが、敵にフルボッコ戦死のリスクと背中合わせ)

善右衛門先手3,000が(味方が討たれたのを見て)これに堪え切れず(軍令を無視して)進み出た!
木山勢は勝ちに乗じて、坂落としに襲い来る。


先手3000は軍令に背いての進軍である為(善右衛門隊だけが突出したため陣容のバランスが崩れた)坂の途中で突き立てられてしまい、あろうことか清正の旗本勢へ崩れかかる。

清正は床几に座してこれを見ると歯噛みして「(あいつらアホか!)どこまで逃げる心算か。返せ返せ!ヽ(`Д´#)ノ ムキー!!」
と下知したが、いったん崩れた陣を(しかも戦闘中に)立て直すのは容易ではない。
ことごとく討ち負け左右の谷へ落とされた。


だが、さすが清正の旗本勢は退かない。
彼らが馬印を立てたまま留まっていた所へ、木山勢20人ほどが一群を為して襲ってくる。
これに清正自ら槍を掴んで、敵二人を討ち取ると、(; ̄ ヘ ̄)=3 フン! 再び床几へ座った。


清正旗本衆もこれらを討ち取り敵を退かせたが、今度は木山弾正本人が槍を掲げ20人程を連れて現れた。

木山「足元に居るのは加藤主計頭(かずえのかみ=清正のこと)と見える!我と一遣り合わせ、大将と大将の勝負を仕らん!」と駆け寄った。
清正は眼を「くぁっ!」と見開くと、手練の十文字槍を掴んだのだが
・・・それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房22_清正出陣!~天草国人一揆3】

ネット上では清正と小西が不仲になったのは「天草一揆」がキッカケだ・・と、見かける。
だが今回出典の「北肥戦誌」では言い争いになったような記述はなく、ネットにありがちな風聞だったかもしれない。

ただし「一揆の終わらせ方」で両者の意見が違ったのは確か。
小西領である肥後・八代郡で、旧相良家臣(八代衆)が清正幕下という「変則的飛び地」状態だったことが重なり、
じょじょに関係悪化してたところに「朝鮮の役」での「小西が抜け駆け一番乗り」だ。
超負けず嫌いの清正は小西を赦さず「関係修復不能」になったと思う。


志岐城の目と鼻の先にあった富岡城。(城郭から互いを遠望できる)
長年、寺沢広高が江戸初期築城~と、なっていたのだが「どうやら築500年以上らしい」ってことが判明した。
(つまり寺沢は築城ではなく改築^^b)
じゃ天草国人一揆の時は?となると、そこまでは解ってない。

最初に小西が派兵した伊地知隊は、志岐麟泉の夜襲に遭う。
私見だが、それは富岡兵と志岐兵の挟み撃ちだったかもです。
それならば3000もの兵が全滅・大将の伊地知討死・・・というのが頷けます。

その後、志岐城は天草勢の援軍とともに籠城するのだが、加藤清正の援軍到着で富岡勢も志岐城に収容されたんじゃないかなぁ~と推測(素人の辻褄合わせ)してました^^b

要害の地である志岐城は容易に落ちず、小西勢・加藤勢も手こずった。
そこへ松浦久信・有馬政純・大村嘉前・波多親・五島(宇久)盛家ら、更に龍造寺家より【成富家為】の500余人が寄せ手の援軍に入る

(成富家為ってなってるけど、成冨茂安のことです。)

小西行長は、志岐麟泉の縁者である有馬政純を通して「城を降って和睦すれば関白殿下に執り成す」と伝える。

志岐と小西は同じキリシタンだから、便宜を図るのは本気だったかもです^^
とにかく志岐麟泉が「(-_-)ゞ゛ウーム」と 思案する間、合戦は行われなかった。

すると前回、志岐勢の囃子歌の仕返しとばかりに、今度は寄せ手が囃子歌で城方を嘲笑。
「城衆城衆なぜ切って出ぬぞ♪志岐しや♪志岐しや♪へのこしきしや♪( ̄∀ ̄)6mプギャー」


これも方言で古語で隠語なんだけど・・・「へのこ」って殿方のナニのことなんです(/▽*\)キャ
だから・・・その・・・「出て来やがれ、このヘタレ、チ○コ野郎~」って感じ^^;

10月下旬~隈本城に居た加藤清正は、志岐城の堅固さに小西行長が和平に及ぼうとしていると聞いた。
清正「ならばワシが馳せ参じて打ち崩すべし」
10月29日~手勢1万余騎を率いて、志岐浦へ船を着ける


清正は志岐麟泉へ「主計頭(かずえのかみ=清正)が、和談を調えんが為こちらへ着船します」と使いを出した。
志岐麟泉は家臣10余人と海辺へ出迎える。


すると清正は志岐の湊へ着くなり鉄砲を放ってその内の14人を打ち倒し、
城へ向って禿山へ陣を布き【斎藤伊豆守】らに1500を与えて小西勢へ加勢させた。


清正に騙し討ちされた志岐麟泉は無事です( ̄ー ̄A 汗フキフキ
清正「武士のウソは武略でござるな」 ( ゚Д゚)y─┛~~

斎藤伊豆守~~加藤家・弐番備頭・知行5002石余。
なんと春日局の弟です~フルネームは斎藤利宗~元明智光秀家臣(* ̄・ ̄*)Vブイ
年は伊達政宗や立花宗茂と同じ1567年産まれ。

山崎の戦いのゴタゴタ時に「秀吉の命を鉄砲で狙った」という疑いで細川忠興預かりでした。
その後に赦免され加藤清正に仕えました。
加藤家改易後は、3代将軍家光に旗本として取り立てられました。


清正着陣、これが天草の本渡城へ伝わると、天草種元は志岐勢の後詰(援軍)として、天草主水助に700を与えて差し向けた。
天草主水は甲浦から比々尾へ陣を布いて小西勢と対陣。
また天草氏・本渡城に木山弾正という無双の剛の者がいたが、これも志岐を救うべく弓・鉄砲の500人を率いて、禿山の上の山に陣を取り加藤勢と相対した。

木山弾正・・・元肥後益城の城主、島津の肥後侵攻で城を失った後は、天草種元の客将として本渡城に留まっていた。
別名「どもりの弾正」・・・・次回清正VS木山弾正~「一騎打ち!」 それは・またの話 by^-^sio

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