【相良義陽73_元・関白下向 】

天正1(1573)年・・・天正年間の始まりで最初に起きた激震が「信玄公の死去」です。
信玄公という反織田勢力の希望☆★が潰えたため、足利義昭が織田信長に o( ̄ー ̄θ★ケリッ京都を追放される。

天下の動きが激しくなるのと比較すると、九州は未だ国人領主たちが元気一杯でして、各有力戦国大名たちは、彼らのコントールに苦慮していました( ̄ー ̄A 汗フキフキ

後年の「暗君無し・戦国最強伝説」の島津からはイメージが湧かないと思いますが、天正1年(1573年)の段階で、島津は抵抗する国人を鎮圧出来てなかったんです。

天正2(1574)年~大隅の国人・肝属氏が(やっと)島津家に降伏する。
これで薩摩国・大隅国に島津に逆らう国人はいなくなり、薩摩隼人の有り余るエネルギーは外へと向けられます。
逆を言えば、島津を潰すチャンスは天正1(1573)年までが限界ギリギリ、とも言えるでしょう。

天正2(1574)年5月4日~義陽の次男・頼房誕生~秋月竜子のダーリン&後の人吉藩初代藩主です\(≧▽≦)ノ

地図・天草関連
(天草地方地図~中央下部にある出水は島津義虎の城)

さて、この天正2(1574)年ですが天草地方の国人・天草鎮尚と島津分家筆頭の島津義虎が不仲になった。
もともと天草地方は相良家の勢力下でした(明との交易ルート保全のため16代当主の頃から介入)

永禄8(1565)年に島津義虎が天草諸島のうち長島を攻撃して堂崎城を抑えます(城主は天草一族で討死)
ところが頼みの相良は名和氏の豊福城攻略⇒ゲッツの方を優先した(義陽が直々に出陣)
おまけに相良と島津は「和睦⇒相良裏切り⇒交戦」を繰り返すこと3度で、周辺国人には去就が難しいったらありゃしない!!!

その後、永禄12(1569)年には大口城が降伏、元亀3(1572)年に同盟相手の伊東が木崎原で大敗北、
てな感じで相良ジリ貧が香ばしくなってきてて、この流れなら天草氏が島津に靡いても不思議じゃなかったんだが、
不仲理由は天草鎮尚がキリシタンの洗礼を受けたせいです。

天草鎮尚の弟が洗礼に大反対で、ついに戦になってしまい、天草鎮尚弟は義虎を頼ったの。
だが結局、天草鎮尚弟は兄・天草鎮尚に敗れてしまい、弟は天草を長年バックアップしてた相良の方を頼って亡命した。

てことで天草鎮尚と島津義虎の気まずい空気だけが残った^^;

ただ、天正4(1576)年に天草氏は島津と一旦は和睦します。
いっぽう肥前佐賀ですが、熊さんが起きて来ました( ̄ko ̄)チイサナコエデ

天正3(1575)年に龍造寺隆信(別名・肥前の熊)が北肥前を平定。
天正4(1576)年には南肥前に侵攻。

戦国島津(の分家筆頭の薩州家)が天草介入した歴史的経緯から、明治の県境を決める時に天草は鹿児島県所属。
だもんで道産子の管理人には、ますます地理がピンと来ないが、天草は肥前と意外に近所。
肥前のクマーの動きと、天草氏が島津と和睦した動きは無関係ではないと思います。

家紋・島津
ロン様作成:島津家紋ロゴ

天正3(1575)年5月21日~長篠の戦いで織田信長が武田勝頼を破る。
このちょい前の4月に島津4兄弟末弟・家久が上洛してて「信長を見た」そうです^^

天正3(1575)年~前(さき)の関白・近衛前久が織田信長の依頼で九州へ下向。
九州各地の争いを止めさせ和睦させ、毛利攻めに協力させよう!

というのが目的でして相手の都合スルーなとこが、いかにも戦国^^

これは相良家にとってビッグイベント~~元とはいえ関白・摂関家の使者じゃなくて本人が来るなんて~
初めてだぉ~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ~仕度・仕度~~

義陽と近衛前久との会談ですが、前久が薩摩へ下向する途中、白木妙見社へ立ち寄った為に実現しました。
感動した義陽は前久に臣下の礼を取った。m(_ _)m
その際、前久の先祖が、義陽の先祖である武智麻呂の弟であると知ると、前久の方が畳一枚分下座に降りたとの事。

さらに福善寺で義陽が前久を招待し、前久が「庭の面(も)に池の玉水ながむれば類なかりし萩の下露」と読むと、
義陽は「水の上に立つ朝霧は曇りても磨け鏡の池の秋風」と返歌したというのが「求麻外史」に伝えられている。

これまで官位目当ての連中ばかり見てきた前久にとり、義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動した。
(こんな風に本心から敬ってもらって気持ちいい~~~*人 ̄▽)♪)

前久は義陽を余程気に入ったらしく、近衛家の家紋入り装束の使用を許可している。
更に相良への好意として、島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであった。

もっとも、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出した事でようやく実現している。
島津は島津で義久が伊東との和睦を渋ったものの、前久の顔を立てる為にと、相良との和睦にすり替えたようだ。

細かい交渉に前久が奔走したかは不明でして、身分から言って家臣の伊勢貞知が代わりをやったんじゃなかな?
前久自身は鹿児島に居室を造営されて、そこに逗留していたそうです。
摂関家ともなると接待慣れしてるからなぁ~長逗留されたら大変そうだ^^;

とにかく!織田信長の思惑通りには行かなかったが、島津と相良は近衛前久の仲介で和睦した。

これで4度目の和睦・・・が、破たんするのは言うまでも無いが、それは・またの話 by^-^sio
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【相良義陽72_木崎原の戦い5_クライマックス 】

武田信玄公も愛読の「人国記」より~大隅・薩摩編

大隅・薩摩の風俗、違う事なし。
これも皆、死を以って表とし、唯男子は死するを道とすと覚えて、五常(仁・義・礼・智・信)の道と云うこと、一段外の事と覚え、
仏法といへば、死して後の穿鑿(せんさく~細かく調べること)にして、生死を知るべき為となれば、用ふるに足らずと自見(自己流のこと)して遠ざかり(~中略~)
武士の戦場に於いて死するも、忠義に因って死する所の節を以って善とする工夫なく、
唯武士は戦場に於いて死を致す者とのみ覚えて、死するは論ずべき様なし。(~後略)」

意訳「大隅・薩摩武士は主の忠義云々に関係なく、戦場で死ぬ事を最上として、仏法なんざ死んでからでいいや!・・・っていう気風」

超意訳~大隅・薩摩の連中って、どいつもこいつも戦で死にたがってるんだぜ!

主君が突撃野郎で大変そう~~~って心配しないくていいみたいです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

新納さんの苦情も(* ̄□ ̄*)<主君が本陣にいてくれないと(義弘が活躍するせいで)家臣たちが手柄を立てられない!

って理由だし~~佐賀の武士道とは一味違う!戦国のスーパーサイヤ人とは薩摩隼人也(爆

以下、ウィキペディアを参照に管理人補正~木崎原の戦い、決戦のクライマックス。

遠矢ら6人が身代わりとなって討たれるが、その間に島津義弘隊は木崎原に至り、加久藤城からの援軍を吸収し隊列を整え再び伊東軍と交戦。
島津軍の立て直しの速さに伊東軍は虚を突かれた。

そこへ追い討ちを掛けるように伊東軍の背後から鎌田隊が攻撃、伏せていた五代隊が側面から攻撃を加えた。
これが結果的に島津得意の戦法「釣り野伏せ」の形となり、伊東軍は隊伍を乱し崩れ始めた。

援軍の新納は親指武蔵だし、鎌田も歴戦の強者。
事前打ち合わせ無しでも、自然に「そうなる」ように本能的な戦場勘が身についてるんだろうなぁ。

崩壊した伊東軍は小林城へと退却を始めるが、本地原まで差し掛かったときに伏せていた村尾隊の攻撃を受け(伊東軍涙目)
そこで総大将・伊東祐安は脇下を射ぬかれ、真っ逆様に落馬し絶命した(異説あり)

また、伊東祐安の嫡子・伊東祐次と祐安の弟・伊東右衛門ら160人は小林城とは反対方向の丘へ逃げ、そこを遅れて到着した新納忠元の150騎に討たれたとされる。

島津軍は鬼塚原(現・西小林)後に粥餅田と呼ばれる場所まで伊東軍を追い柚木崎正家、肥田木玄斎を討ち取ると、そこで全軍に追撃中止の法螺貝を鳴らさせた。

熱闘10時間(am4:00-pm14:00)~~~~文字通り、戦い終わって日が暮れて・・・だなぁ

その後、義弘は木崎原まで戦跡を巡検し、負傷者の手当て、戦死者の片づけ、首実検を行った後、飯野城へ帰還し祝杯を一同に与え軍を解いた。

さらに激戦地であった三角田に六地蔵塔を建てさせ、敵味方双方の戦没者を供養させた。
また、伊東方でも小林に伊東塚をつくり、戦死者を弔ったそうだ。

この戦いで伊東軍は幹部クラスの武士128人、それを含めた士分250余人、雑兵560人余りを失い、これが結果的に伊東氏の内部崩壊につながったと言われている。
また、島津軍も士分150人、雑兵107人と参加した将兵の半数を失うという壮絶な戦いとなった。
死体は平地のみではなく付近の山々にも及び、4ヵ月経っても全ての死体を片付けきれなかったという。

この結果を相良義陽は、どう受け止めたのだろうか・・・
大口城を失い、天草地方は長嶋を失った・・・さらに手を組んだ伊東家は島津に大敗北。
島津を裏切った代償は、後になればなるほど大きくなって行く。

義陽は、木崎原の戦いが起きた翌年天正1(1573)年から人吉城の大修築を開始する。
城の修築は義陽の死後も継続され文禄2(1593)年まで続き、最終的に現在の形になるのは寛永16(1639)年です。

元亀4(1573)年最大の出来事~4月12日・・・信玄公53歳で病没(脳内イメージ・中井貴一さん
同年7月28日~元亀から天正へ改元
同年8月~9月にかけて織田信長が越前朝倉氏と浅井氏を滅ぼす!
戦国の総仕上げ~~怒涛の天正年間が幕を開けたのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽72_木崎原の戦い4_ピチピチ♪チャピチャプ♪(伊東)~ランランラン♪(島津) 】

この木崎原の戦い(元亀3・1572年5月4日)の事前工作で盲人をスパイに使った島津義弘ですが、
これは義弘だけでなく、島津家そのものが多用してまして、
日新斎ジーちゃんが天文2(1533)年に盲僧をスパイに使ったのが始まりだそうです。

昔は眼病を患うと、良い薬や効果的な外科的処置が無かったために失明する人が多く、
伊東領だけでも盲僧寺が多数あり、つまりウロウロしてても目立たなかったらしいんです。

ウィキペディアに出てくる島津の間者~三徳院・菊一(盲僧)ですが、
木崎原の戦いの下工作の功績として小林郷からの毎年の年貢米のみならず、真幸院五ヶ郷の家督を許された。

更に関ヶ原の戦いの際にも祈祷を任され、義弘が(とにかく)無事に生還すると、日向十三ヶ郷の家督もゲッツ、一郷につき一屋敷を許されました。
鹿児島にも常楽院という大きな盲僧寺があったそうですが、それに次ぐ大勢力になる。

よく伊賀者とか甲賀衆とか、相良家にも相良忍衆の伝説(丸目さんが作ったとかなんとか)があり、
「島津は山潜り衆やぁ(by科白は彦摩呂風で)」なんてあるらしい。

が、マニアには悪いが島津忍軍は存在せず「山潜り」とは、島津における隠語のようなもので、
「隠密行動」そのものを「山潜り」と呼んでいたそうです(ソース「本藩人物誌」)

加久藤城攻撃が上手く行かず、やむなく退却した伊東祐信の隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息。

旧暦の5月といえば現在の初夏。
兵の多さによる油断と、また折からのむし暑さのため川で水浴びする者が多かった。
伊東軍ではガッツリ水浴び「ちゃぷちゃぷ♪気分」で甲冑を脱いでいる馬鹿者もいたそうだ。
ちなみに川の水位は膝が浸かるか、浸からないかです。

島津義弘は放っていた斥候・沢田八専からその情報をもたらされ出陣、正面からこれに斬り込み沢山の将兵を討ち捨て(つまり首を落とさない)とした。

ここで大将(隊の大将で軍総大将とは別)の伊東祐信は義弘との一騎討ちに敗れ三角田の地で討ち取られる。
その一騎打ちの際、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、祐信の突き出した槍の穂先が義弘を狙ったとき、膝をつき曲げこれをかわしたという(柚木崎正家との交戦のときとの説もあり)

木崎原1

・・・・・・・・・・・・大将同士の一騎打ちなんて、そうそうあるもんじゃないんだが(爆

このお馬さんは”膝突栗毛”と呼ばれ大事に扱われ、
人間の年齢にして83歳まで生き、
帖佐(鹿児島県姶良町)の亀泉院に墓碑を建てられ葬られたそうな。

ただ「膝突き」に関しては諸説あって「別の人物との一騎打ちの時だ」とか
「槍じゃなくて弓だぉ」とか
「馬から降りて一騎打ちで膝突いてないし」とか色々です^^

これって斜面のぬかるみかなんかで、たまたま馬が膝突いたのを、カッコ良く言ってるだけなんじゃ(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

お馬さんは、さておき島津義弘は頃合いを見て一時退却。
そのあと伊東軍は、伊東祐信の隊と本隊が合流、白鳥山を抜けるコースで高原城へと退却を始めた。

伊東軍が白鳥山に登ると、白鳥神社の座主が僧侶と農民合わせて300人余りの者に、鉦・太鼓を打ち鳴らさせ、更に白幟を押し立てさせて伏兵を装わせた。

慌てて戻る伊東軍に対し島津義弘は、鎌田政年に兵60人を預け敵の背後に廻らせ、自ら(つまり義弘)は伊東軍に正面から突撃するも破れて後退する。
島津義弘を退却させるために、遠矢良賢を含めた6人が犠牲になってます。

なんていうか・・・・義弘は猛将ではあるけど、名将か?となると考えちゃいますね~~
日本の戦って大将が討たれると兵が生き残ってても負け認定。

だからこそ大将を必死で家臣が守るわけで、
それなのに島津義弘ときたら最前線大好き!やたら弾ける突撃屋だから、義弘を守る為に家臣が身代わりで犠牲にならざるを得ない。
木崎原2
島津義弘だろうか?誰が作成したか不明^^;

代表的な例が「関ヶ原の退き口」での島津豊久だ。
後年の話だが義弘が関ヶ原から脱出し、鹿児島に戻る前に豊久の佐土原に入った。

ここも危険だって知らせに、佐土原から鹿児島に移動することになった時、義弘の裾を捕まえ引き留める者がいた。
義弘の身代わりで討死した豊久の生母だった。

豊久生母「貴方(義弘のこと)様という御方は、、、息子を上方に置き捨てていながら、今また佐土原をお見捨てになられるのですか!?!!。゜゜(´□`。)°゜。」

戦国の女は強い・・・・でもこれが母としての本音の叫びだろう。
これを日記に書きとめたのは樺山氏(豊久生母の兄)だが、義弘が豊久生母に何と答えたのかは解らない。
(戦国ちょっといい話悪い話まとめブログには載ってなかった)


正直言って、管理人が仕えたくないタイプの一人は実は島津義弘タイプ。
単に大将だからというだけでなく、戦場で男たちが命を投げ出すことも厭わない魅惑的な武将。

自分が男で義弘のために死ぬなら「武士として本望」かもだが、
妻や母の立場だった場合は、待つ身としては堪らないわぁ( ̄ー ̄A 汗フキフキ

頼むから大人しく本陣にいてくれ~~~~~~~~~~
だからといってヘタレ無能でも困るしなぁ~~バランスって難しい・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)


ちなみに相良義陽は最前線に出たことは無い。
常に安全圏の本陣で大将らしく構えてます^-^
これが普通なんです!!!

島津義弘や蒲生氏郷や黒田長政が、弾けすぎなの!!
普通じゃないから記録に残るのよ!

それと余り知られてないが、島津久保(義弘次男)も島津忠恒(薩摩初代藩主)も突撃タイプ。
まぁあのオヤジと一緒にいれば、似ちゃうわよね~~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!!

相良義陽が前線に出たのは、彼が死んだ時ただ一度きりなのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽72_木崎原の戦い3_加久藤城攻城戦】

主要参戦武将(ウィキペディアより)~×マークは戦死

島津軍
島津義弘(総大将)、鎌田政年、上井覚兼、宮原景種、川上忠智、×遠矢良賢、村尾重侯、五代友喜、
鎌田政近、黒木実利、町田忠辰、西田武蔵守、赤塚重増、×樺山浄慶、富永万左衛門
(援軍)新納忠元

伊東軍
×伊東祐安(総大将)、×伊東祐信、×伊東又次郎、伊東祐青(伊東マンショの父)、×伊東祐次、
×伊東右衛門、×伊東杢右衛門、×落合兼置、×米良重方、×米良喜右介、×柚木崎正家、
×丸目頼美(元相良家臣)、×長倉六三郎、長倉伴九郎、×上別府宮内少輔、×米良長門守

相良軍(参戦せずに撤退) 佐牟田常陸介(大将)、深水播磨


伊東軍敗北の最大の要因は油断

1)永禄9(1566)年に小林城攻めで島津軍を退けたこと(例によって義弘は重症を負い、一時戦線離脱)
2)永禄10(1567)年に島津豊州家が守っていた飫肥城を遂にゲッツしたこと
3)伊東義祐が豪奢な放蕩生活が拍車をかけた。

伊東軍の若者たちは「島津なぞ竹竿一本で打ち果たす」などとうそぶいていた。

驕りが智慧と警戒心を曇らせる。
島津義弘が用意した囮(おとり)=義弘の正室と嫡男がいる「加久藤城」へと誘きだされた。

伊東軍編成も「青年武士が中心」
とはいえ伊東もノープランだったわけではなく、事前に相良家へ援軍を頼んでます^^b

ウィキペディア「木崎原の戦い」の項目には記載されてないので、この記事を読んでる人でも印象薄いと思うけど、
元亀1(1570)年6月に島津家と相良家は和睦してるんです。(相良家文書では永禄年間のままになってる)

にも関わらず相良は援軍を快諾し、佐牟田常陸介忠興を大将に兵500を派兵した。
しかも相良の島津に対する和睦破りは、都合3回目。
仏の顔で3度なのに、命のやりとりする戦国時代では1度でもダメだろ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

以下、ウイキペディアより&( )内は管理人補正

元亀3(1572)年5月3日の夜中、伊東祐安を総大将に、
伊東祐信、伊東又次郎、伊東祐青を大将とした青年武士を中心とした3,000余の兵は、
島津領との最前線に位置する小林城を出立する。 

伊東軍は翌未明に飯野・妙見原に到着、ここで軍を二手に分け、
一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、
もう一軍は伊東祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から[木崎原]を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃をしかけるべく進出した。

伊東祐信は、まず手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発した。
それにより加久藤方面の夜空が炎で赤く染まり、それを見た近臣により義弘は起こされる。
(つまり飯野城は、加久藤の近所にあったの^^)

だが、島津義弘はすでに飯野の盲僧・菊市を間者(スパイ)として伊東領内に送り込み、(伊東軍の)情報を得ていたため対応は落ち着いていた。
義弘は狼煙を上げさせ大口城の新納忠元や馬関田城などに急を知らさせる。

そして、兵60人を遠矢良賢に与え加久藤城の救援にあたらせ、
五代友喜の兵40人を白鳥山野間口に、村尾重侯の兵50人を本地口の古溝にそれぞれ伏せさせた。
そして有川貞真に(飯野城の)留守居を任せ、島津義弘自らも兵130を率いて出陣し、飯野城と加久藤城の間の二八坂に陣を張る。


戦う時は最前線~~それが島津義弘^-^

その後、伊東祐信の隊は加久藤城へ侵攻を開始。
事前に得ていた情報(実は島津義弘が送りこんだ女スパイの偽情報・前回記事参照)を元に、
城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰(鉤・かぎ)掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。
(名前の由来:鉤・かぎを掛けないと、よじ登れない程の険しい場所だった)

樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ伊東祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。

伊東祐信の隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。

そこへ加久藤城を守る川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、伊東祐信の隊は退却を余儀なくされる。
この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方が討ち取られた(異説あり)。

家紋・伊東
ロン様作成:伊東家紋ロゴ

またその頃、真幸院(飯野地区は真幸院の一部)に進出した相良軍500人は、島津義弘が諏訪山の大河平に立てさせた幟を見て、これを島津の将兵と思い込みそのまま人吉へと引き返していた。
大河平(おこびら)・・・(人´∀`).☆.。.:*・・・・隆次クン・・・君の玉砕は無駄じゃないぉ。

さてマニアックな過去記事への回想はさておき、ウィキペディアに記載されてる相良軍の動き。

実は相良側の史料では、相良軍は伊東軍が敗戦した為に帰還したとなっている。
一連の戦いは寅の刻(午前4時)から始まり、羊の刻(午後14時)までと約10時間。

てことは何かい?相良軍は10時間も伊東軍が負けるのを| 壁 |・ ̄)じぃ~っと観てたってのか?
「偽兵の旗幟に騙されて帰還した説(これはこれでマヌケなんだが)」の方がマシなんじゃ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

相良軍の大将・佐牟田常陸介というのは、大畑城主・佐牟田長堅の弟・忠興です。
島津家が刺客を送りこむほどの武将だった佐牟田長堅の身内なんだけどなぁ~・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
因みに忠興は「南藤蔓綿録」には「奥床しき者」と記述されてる・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ

援軍が引っ込み思案でした~~てかっ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!!
同じ忠興でも「細川」とはエライ違いだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、加久藤城攻撃が思うように行かず退却した伊東軍、暑さのあまり川で水浴び始めちゃうのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽72_木崎原の戦い2_愛しのハニー】

さて、元亀1(1570)年前後から相良関係に関する資料が、ガタ減りします。
従って木崎原の戦いに関する記述も薄い。
もしかして島津に遠慮して、書いていたものを後年に処分したかも・・・というのは穿ちすぎだろうか。

何せ「木崎原の戦い」は「島津マンセー・義弘age」が凄い。
だいたい「九州の桶狭間」って比喩が褒めすぎ^^;

島津軍が兵300で、兵3000の伊東軍を破るのは立派なのだが、
双方の損耗率は伊東軍は810人で27%、島津軍は257人で約86%にも及び、
鮮やかな奇襲作戦成功を収めた「桶狭間」というよりは「窮鼠猫を噛んで~」的なノリ。

まぁ伊東軍の総大将を討ち取ってるし、
伊東家の直接の没落の要因(各家の当主or後継者=部隊指揮官を失った)だから、
大きく間違ってはないけど・・・・・・ねぇ(*´艸`)プププ

それと伊東軍が3000というのも、あくまで有力説で確定的ではない。
そんな感じで素人が史実検証っていうのは難しいので、いつもの如く逸話ベースで行きます^^

[女間者(スパイ)の暗躍]~って書いてて恥ずかしい イヤン(/▽*\)
とにかく飯野の島津義弘は、少数で伊東軍の侵攻を迎え撃たねばならないため、
伊東軍の力を分散させるべく様々な謀を巡らしたと言われ、間者(スパイ)も多用したらしい。

以下はネット最大の逸話ブログ「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」からの引用で、解りづらいとこは管理人補正してます。


「木崎原の戦い」が起こる前、伊東家は島津義弘の飯野城を落とすべく、度々真幸院(飯野地区は真幸院の一部)へ進出していた。
「木崎原の戦い」の五ヶ月前も伊東軍は真幸院へと進出し民家を焼くなど挑発行為をしていたのであるが その日の晩、一人の女が迷い込んできた。

伊東軍が女を連れてきて話を聞くと、女は飯野城の西、義弘の妻子が住まう加久藤(かくとう)城の女中であるという。
女中はとある武士と不義密通を重ねていたのであるが遂に事が露呈してしまい、いよいよ明日罰せられることになっていた。
しかし、義弘の妻である実窓院がこれを哀れに思い、自身の住まう部屋に通じる「鑰掛口」よりそっと逃がしてくれたという。

女中は相良領へと逃げようと思ったが加久藤の峠は山深い上に険しく、心細くなってこの伊東軍の陣にやってきたという。
伊東軍はこの女中を不憫に思い、VS島津用の防衛拠点である三ツ山城へと連れて行って、そこの女中として雇った。
そして女中から島津家の内情を問いただしたのである。

女中曰く「加久藤城には義弘の妻子ら50名ほどの兵しかおらず、また自身が逃げてきた鑰掛口は攻められると脆い」と教えた。
伊東軍はこれを信じ元亀3年5月4日の未明、飯野城の先にある加久藤城の鑰掛口を攻めるべく進軍した。
しかしそこは狭い隘路で、また鑰掛口は絶壁でいくら攻撃してもビクともしなかった。

実は鑰掛口とは、その名の通り鉤を掛けて登らなくては通れないというほどの入口だったのである。
そしてこの女中、実は義弘が遣わした間者(スパイ)だった。
まんまと騙された伊東軍は疲労困憊、已む無く兵を引いた先で暑さから水浴びをして沢山の将兵が討たれたのは史実の通り。


「木崎原の戦い」は伊東側の記録だと「覚頭(加久藤)合戦」とあり、伊東軍の目的は島津義弘の妻子がいる加久藤城だった。

島津義弘は、加久藤城に伊東軍が攻撃してくるように、上記の女スパイを使ったり(マジ?)
加久藤城へ、愛しのハニー実窓夫人と大事な嫡男・鶴寿丸(後に早逝)クンを囮として入れ、城の警備も手薄にしていたそうだ。

ほんとに兵力不足だったかもだけど^^;

いかに義弘が熱愛してるとはいえ、妻だけでは囮としては弱い、大切な跡取り込みだったので伊東軍は誘い出された。

ちなみに鶴寿丸は実窓夫人の子供ではなく、生母は義弘の最初の妻・北郷(ほんごう、島津分家)夫人説と、
2度目の妻・亀徳姫様(相良義陽の異母妹)の二説あって判然としない。

2度目の亀徳姫様が相良と島津の和睦破綻で離縁され、実家である相良家に戻り(異説が加治木に残る)
後年、不遇(餓死した)に死んだのを義弘は知っていたのかどうか・・・( ̄  ̄)トオイメ。。


さて、3度目の妻・実窓夫人は島津家臣・園田氏の娘なのだが、あんまり家格が良くなかったらしい。
義弘に嫁ぐ前に広瀬氏の養女になっている。

兄で当主の義久が生来病弱な上に子供も娘だけで、その娘は分家との絆を深めるために使用済マーク。
そのため島津家御曹司たちの中で「政略結婚部門担当」が、次男の義弘だった(3男・4男(庶子)では他家の姫君と釣り合わない) 

だが義弘は二度の政略結婚破綻で精神的にブチ切れた(らしい)
当然3度目も、どこぞの姫と政略結婚~と言う家中の空気に逆らい、一目ぼれした実窓夫人と恋愛結婚^^

「朝鮮の役」で義弘(60代)は
「昨夜は君の夢を見たよ。いま初めて会ったようだ(それくらい夢の中でトキメキドキュン)」
とラテン男のような熱烈ラブレターを送っている。

上記の逸話ブログによると、義弘が実窓夫人にかけた最初の言葉は「その大根を所望したい」だったらしい。
(夫人は家の前で大根を洗ってた⇒女中を使ってないので、家格は自ずと・・・)

身なりを見て「どこぞの貴公子」と思った実窓夫人は菅笠を取り、
被る方ではなく上の部分を凹ませ、そこに大根を乗せ義弘に差し出した。

「被る方にしなかったのは失礼だと思ったのよ」by実窓夫人。

その機転と優しさと身のこなしの挙措動作に、猛将・島津義弘は一目惚れしたそうなのだ。
島津義弘には1番目妻~2番目妻の間くらいに「あかし(明石?)という側室がいた」という話がある。
でもって「あかし=実窓夫人」説があり、もしかしたら彼女は側室から正室に格上げになったかもなんです。

鎌倉以来の名門・守護職の家柄では(身分的に)アリエナイな嫁で、当初の風当たりの強さは現代人の我々に想像も出来ない辛さだろう。
だが実窓夫人は「木崎原の戦い」で危険な囮役を引き受けたことで、「賢婦人」として家中の信望をゲッツ。
16代当主である義久の厚い信頼をも勝ち取り、島津義弘の正室としての地位を揺るぎ無いものにする。
(大河・島津だったら前半の盛り上がりに入れたいとこですな ( ゚Д゚)y─┛~~

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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