FC2ブログ

秋月種実36【大友軍・壊滅!~耳川の戦い3】

日向侵攻だが、最新の研究では息子の義統が主導で行われたのでは?とも言われている。
と、いうのも隠居してからの宗麟は、領内統治に関心を持たず祈りに専念していたからだ。
だが父に反発してキリシタン嫌いだった義統が、日向の神社仏閣を破壊するというのも釈然としない。
神の国の第一歩「無鹿町」を作ったのは宗麟なので、やはりある程度は関わったと思う。

そのくせ祈り三昧の宗麟は、島津家との本格的な戦にまで発展するとは予想して無かったようで、耳川の戦いの時には本拠地の豊後を離れて、宣教師と共に日向の牟志賀(=無鹿町)まで来ていた。
往年の英邁だったころの宗麟には考えられない緩さで、やはり精神のどこかが病んでいたのかもしれない。

耳川の戦いは1578年11月9日から12日にかけて行われた。
でも実は主戦場は高城川原で行われ、「耳川の戦い」というのは通称なんです。
最初は数で大友軍が圧倒し、緒戦では島津軍は北郷久盛が討死する。
だが、やがて両軍が拮抗した状態になったところで島津以久が東から突入、さらに高城の篭城兵も西から突入したため戦況が決定的になる。
敗色が濃厚になった大友軍は撤退しようとし、ここで悲劇が起きた。

不思議なことに天運に見放される家は、気象の巡り合わせも不運が重なる。
数日来の大雨で耳川が増水し、退却する大友軍は急流に足を取られてしまったんです。><;アウチ☆
ある者は溺死し、ある者は渡河しようとしたところを島津軍に打ち取られ3000人近い人数が戦死し、大友軍は壊滅的な打撃を受けた。
大友軍は3~4万の兵力だったと言われ、そのうちの3000人なら数字的には大したことないと思われるかもしれないが、その戦死者の中身が問題だった。
大友軍を支える同紋衆(一門・譜代)と他姓衆(新参の家臣)の当主たちが死亡したからです。

【大友軍・戦死者リスト】
田北家・末弟の鎮周が死亡
肥後の実力者・蒲池鑑盛が死亡
佐伯家・惟教が死亡、ウィキペディアには記載されていないが、惟教の息子も死亡
大友軍の軍師だった角隈石宗が死亡
吉弘家・嫡男の鎮信が死亡~高橋紹運の実兄です
斎藤家・鎮実が死亡~紹運の妻の父・つまり立花宗茂の母方の祖父です
臼杵家・部隊が島津の攻撃により壊滅、嫡流の血筋が絶え庶流(弟の血統)が、かろうじて残る

他にも拾いきれないほど、各家の男子が戦死しました。
大友軍の痛手の大きさは、家督を継いだ子供の年齢を見ると分かります。

【家督相続とは無関係だが、後年活躍する武将の年齢】
志賀親次18歳、田北統員10歳、立花宗茂11歳、立花誾千代9歳
(誾千代は7歳で立花家を相続済みです)

【耳川での当主死亡で家督を継いだ子供たち】
佐伯惟定10歳、吉岡統増10歳、吉弘統幸14歳
吉弘チャン、はるか後年、九州の関ヶ原「石垣原の戦い」で如水混成軍と戦い壮絶な戦死をしますが、このときは若干14歳の少年で、宗茂と誾千代は結婚すらしていない。

次世代の年齢を見ると、古い言い方だと「大戦中の学徒動員」アニメだと「機動戦士ガンダム」状態で、大友軍が元通りの陣容を取り戻すには、彼ら少年たちが一人前になるまでの数年間を待たねばならない。

戦国時代。。。その数年間が命取りになった。

大友が衰退した隙に龍造寺と島津が拡大し、取り返しがつかなくなる。
耳川の戦いの後に、大友に領地を奪われた日向の土持氏が正式に島津家臣となり、土持氏の領地だった日向・縣(現在の宮崎県・延岡市)地方は島津の領地となった。
これにより島津は、念願だった三州(日向・薩摩・大隅)統一に乗り出すことになります。

日向の無鹿にいた宗麟は豊後に向けて避難したのだが、それは惨めなものだったらしい。
島津との戦を、さほど気に留めてなかったので、大敗の報告に大慌てで脱出することになったからだ。
財宝・什器を運ぶことが出来ず、かろうじて十字架(サイズ不明)だけは持ち出した。
さらに困ったのは道中、泊まるとこが無い。
そりゃそうだ、宿泊施設になりそうな寺院・仏閣は、自分で破壊しちゃってる∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

かろうじて難を逃れて残った寺院も、宗麟が泊まるのを拒否した(宣教師が同行してたからかも)
野宿したかまでは分からないが、かなり苦労して豊後に帰ったそうだ。
豊後と日向の国境には、家族の安否を心配した大友家臣の妻子たちが集まっていた。

そこには、当主の義統もいた。
義統には寵愛している家臣がいた。
その家臣の無事を聞き義統は思わず、「あぁ!お前さえ無事なら、他の誰が戦死しても気にしない!何よりも嬉しい~*人 ̄▽)♪」
と・・・・やってしまった・・・・・il||li▄█▀█●il||li がくぅ

義統の、この言葉は夫や息子のが心配で集まってた家臣の妻子達に丸聞こえ・・il||li▄█▀█●il||li がくぅ
大友家臣全員がドン引きしてしまい、離反に拍車がかかる。
こういう逸話が残ってるので、義統ダメ息子の烙印を押されているのだが、実は「空気読まずに自分のいいたいことブチかます」のは父の宗麟も同じです。
ただ宗麟は、大友家の最盛期(没落もだが)を作った人物なので目立たないだけです。(* ̄・ ̄*)b
さて、次回は、ダメ息子の烙印を押された義統の話。

それは またの話
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

秋月種実36【始動!秋月種実!】

幼き日・・・父と母、そして兄を大友軍の攻撃で失った秋月種実(あきづき たねざね・30歳)。
反乱と降伏を繰り返してきたが、「打倒・大友」の旗印を、堂々掲げる時が来た!
1578年11月12日・耳川の戦いで島津軍に大敗した大友家に対し、秋月は再び反旗を翻した!

元・大友家の家臣で、秋月と同盟を組んでいた高橋鑑種 (たかはし あきたね)という男がいる。
同盟の証として秋月の弟・種冬を養子に迎えていたのだが、種冬は病弱で死んでしまった(没年不明)。
さらに頼りの毛利家は北九州から撤退し、秋月は早々に降伏しちゃったので高橋は孤立してしまう。
でも心配ない~~高橋は万が一に備えて「保険」を掛けていた。(* ̄・ ̄*)Vブイ
「毛利が北九州から撤退するときは、高橋を見捨てないよ。身柄は毛利が預かるね」
と、陰謀家の毛利元就から一筆_φ( ̄ー ̄ ) もらうことに成功してたんです。

元就は既に死亡しているが、毛利家では元就生前の約束を守って高橋を豊前・小倉城主に迎えて保護した。
そのため謀反を起こした元家臣なのだが、高橋は大友家の報復を免れた。
怒った大友宗麟は殺す代わりに高橋家の家督を奪って、吉弘家の紹運に高橋を継がせたの。
大友家が、耳川の大敗北で衰退すると、高橋と秋月は再び( ̄▽)人(▽ ̄)同盟を組んだ。
死んだ秋月の弟の変わりに、今度は次男・元種7歳を養子に迎えた。

実は元種の年齢に関しては諸説あるのだが、一応ウィキペディアに従います。
でもって、元種は大友家に人質として預けられていたはずなので、耳川での大敗北で混乱している隙に、秋月が人質だった次男を奪い返したのだと思います。
さらに古い話で恐縮ですが、みなさま香春岳(かわらだけ)城を覚えてますか?( ̄ー ̄A 汗フキフキ
毛利VS大友の10年戦争~その最初の激突が門司城合戦でして、その門司城合戦のキッカケになったのが、大友軍による香春岳城攻撃でした。
(門司と軍事的にリンクしてた城だったので狙われた)

毛利との最初の和睦(10年戦争の間に、和睦は二回あった)で、大友は門司を軍事的に孤立させるために、香春岳城の破却を要求してたんですが、その後、歴史が アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタしてて、結局は大友配下の城として壊されることなく、そのまま存続してたんです。

香春岳城の城主は秋月の母方の伯父でしたが、大友の攻撃で一族全員自害・・・ではなく、
たった一人、城主の弟(つまり秋月の伯父の一人)原田貞種が、たまたま出雲に滞在してて難を逃れました。
大友宗麟は、この生き残った貞種を香春岳城の城主とし、原田(庶流)の家督も継がせた。

秋月種実と叔父・原田貞種の宗家・原田了栄は、大友のために息子たちを失ったことを恨んで、龍造寺サイドになってしまったのですが(1574年)、庶流の原田貞種は(多分、城の位置関係の都合)そのまま大友配下でした。

はぁ宗家・庶流・分家が、龍造寺・大友・反大友と敵味方に分かれた複雑な状態になってます。
もっとも、この時期の北九州の国人たちは、だいたいこんな感じで入り乱れてます。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

この大叔父が守る香春岳城を高橋鑑種の養子になった高橋元種が攻撃した!
公式通説だと1571年生まれで、数えでも7歳の元種ちゃまです^^;
だから年齢に異説あるんですよ~~とにかく通説通りなら、これが元種の初陣(戦場デヴュー)になります。
ほんとに7歳なら、前線には出ないで飾りの大将だったと思います。

原田貞種は、高橋の攻撃の前に敗れ自害、香春岳神社・大宮司の家系は本当に滅亡しました。
長々説明しちゃったけど、早い話・秋月+高橋が大友側の香春岳城を手に入れたってことです。

原田側の記録だと、高橋元種が香春岳城に入ったとありますが、通説年齢だと幼いので「実父・秋月の手元にいた」という説もあり、次男・元種はミステリアスな存在です (*´艸`)

さらに秋月は筑紫広門(つくし ひろかど)と同盟を組んだ!
筑紫家と秋月家は、互いに父の代から同盟を組んで、大友と戦った盟友の家で、種実と広門は「大友の攻撃によって父が自害する」という共通の過去があったんです。
1572年に龍造寺軍の攻撃を受けて、降伏してた筑紫広門ですが、反大友のための同盟ならば、龍造寺から文句なんて来ません。^^

1578年12月3日~「柴田川の合戦」筑紫・秋月連合軍VS高橋紹運が激突する。
「耳川の戦い」から、わずか半月ちょいの出来事で、いかに秋月の行動が早かったか分かります。
この戦いでは武勇優れた高橋紹運の前に、秋月・筑紫連合軍は敗退します。

今までなら、すぐ秋月も筑紫も大友に降伏して、詫びを入れて生き延びて来ました。
でも、もはや、そんな必要はありません(* ̄ー ̄*)ニヤリ
耳川の大敗北で、大友には秋月や筑紫を追撃する余力が無いからです。
紹運・道雪と言えども、やってくる火の粉を振り払うだけで、精一杯でした。

1578年~ちなみに上杉謙信が死去・上杉で「御館の乱」、尼子氏滅亡、毛利水軍が織田水軍によって壊滅と、耳川の戦いの年は、中央政界も目まぐるしく動いてます。

そして、この年の暮れも押し迫ったころ。。。
日向から本拠地の豊後・府内に戻った大友家では、年末気分がブッ飛ぶ「大事件」が起きるのだが、
それは、またの話 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1510/永正7年】南九州限定・戦国年表

・島津家久生まれる

・大河平左近将監隆充(隆次パパ)生まれる

・入来院重聡⑪(島津4兄弟のうち三人の祖父)島津忠治より隈之城を与えられる

・伊作島津忠良と薩州島津重久娘(御東/寛庭夫人)と結婚

9/1~ 「綾の乱」長倉若狭守、稲津越前守が綾城に立て籠もる

9/13~伊東祐充⑧(義祐兄)生まれる

・伊東尹祐、北原の加勢を得て攻略

10/17~長倉、稲津が切腹し「綾の乱」が終息



続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1510/永正7年】北九州限定・戦国年表

3/13~千葉胤治が興常親子、東尚盛共に攻撃され高田城で討死
「千葉氏略年表」「日付は歴代鎮西誌より」

3/21~龍造寺康家死亡「佐賀市史」「歴代鎮西志」

・三浦の乱~宗盛弘の応援で釜山を攻略

4/4~宗義盛、宗盛弘二人相談の上、朝鮮を攻めるべく渡海
(嘉吉年間から数十度渡海)
(宗盛弘は釜山浦で討死)

6/ 宗盛弘の亡霊が出たので宗義盛が対馬高崎大明神として祀った

千布頃幡守宗利(神代勝利)の同母弟生まれる

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1509/永正6年】南九州限定・戦国年表

6/2~福昌寺、僧・天祐が南岳山頂に鎮火祈願の鉾(真鍮)を立てた
※福昌寺、島津宗家菩提寺、最盛期は僧」1500人

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
266位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
62位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR