【相良忠房4_武士の遅刻は切腹だ 】

湯山地頭・湯山宗昌と、その弟・盛誉(普門寺5代院主)が、頼貞の謀反に呼応していたと讒言された。

頼貞に接触された湯山には謀反加担の意思は無く、申し出をキッパリを断った。
だが「その気が無ければ最初から会わないはずだ」と人々は湯山兄弟を疑った。
湯山は自分の軽率な行動を反省し、弟と妻子や従者と共に普門寺にて謹慎し沙汰を待つこととした。

で、忠房の元服と島津との和睦(=実質配下になる)が整い、改めて湯山兄弟の処遇が詮議された。


結果「湯山宗昌一族はクロ認定!」忠房の名で湯山を誅滅するよう米良の士卒に命じた。
米良は嫡流ではなく、庶流の須木米良氏で島津サイドの国人です。

このあたり相良兵を使わず島津サイドの国人を(おそらく島津に申し入れて借りた)使ったところに、
「頼貞擁立派=島津和睦反対派」の傍証になるかもです。
島津へ服属した確かな証として、相良内部の反対派を粛清したところを見せようとしたのでしょう。

それがどういった経緯を辿ったか定かでは無いが、
とにかく命令を下した後で湯山宗昌らが無実であるとわかり、
「討伐中止!」と犬童九介なる者に軍勢を追わせた。

ところが、この犬童九介・・・一つ欠点があった・・・無頼の酒好きだったんです。

途中、知人の家に立ち寄った際、
(勤務中~しかも人の命に関わる緊急事態の使者ですが?)
その近所にある馬療治の家に案内され、そこで酒を飲み過ぎてしまい(緊急だっつ~の!怒)気付けば夕刻となってしまっていた。
慌てて道を急ぐも夜となり、酔いもあってかそのまま眠り込んでしまった。ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.

天正10(1582)年3月16日、そうとは知らぬ米良の士卒は予定通りに普門寺を襲撃。

兄の湯山宗昌は、なんとか抜け出し日向へと落ち伸びることができたが、
弟の盛誉は、弟子と共に読経中に黒木千右衛門により一刀の元に殺害された。
弟子らも「院主様の仇」と敵(相良家が派遣した米良兵)に飛び込むが、結局討ち取られてしまった。

犬童九介が目を覚まして駆け付けた時には既に後の祭り、全てが終わっていた。( ̄  ̄)トオイメ。。 
犬童九介は責任を痛感し、その場で切腹して果てた。

どの面下げて報告できると言うのだろう・・・バックレ出奔しないだけマシか(トホホ)

これで話が終わるはずがない。
相良家中では凄まじい祟りに襲われるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【相良忠房3_一字拝領、諱は忠房 】

天正9(1581)年12月2日~相良義陽が「響野原の戦い」で討死する。
同年12月22日~義陽の弟・相良頼貞が家督を狙い挙兵~島津の説得?で諦め球磨を去る。

頼貞が主戦派であれば、島津にとっては当主になって欲しくない不都合な人物。
相良家の重鎮・深水宗芳(義陽の嫡男推戴派)と島津が計り、頼貞を排除したと思われる。
頼貞を退ければ、相良内部における和睦反対派(=頼貞推戴派)も、政治的な求心力を失うからだ。

相良家や島津家双方の記録では、頼貞の挙兵を些事として扱い記録も曖昧・有耶無耶。

島津へ降伏_| ̄|○ il||li がくぅ
⇒かつての同盟相手(阿蘇氏)と戦う運命に。。(ω・`))シュン
⇒義陽が戦死Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
⇒叔父が謀反なり~><;アウチ☆

わずか数か月の怒涛の流れで、相良内部の人心が治まるはずがない。
こういう時って、どこの歴史を眺めても、たいてい行われるのは内部の引き締め。

「家臣側:自分が安心したい・地位安泰希望~」
「体制側:早く新体制で安定させたい」双方の思惑合致。

てことで犯人捜し(謀反側残党狩り)が始まり、密告祭りで余計に疑心暗鬼~という負のループに陥りがち^^;
おそらく相良家でも同様の流れになったのだろう。

湯山地頭・湯山宗昌と、その弟盛誉(普門寺5代院主)が、頼貞に呼応していたと讒言されたんです。

伝承によると、頼貞が挙兵するため球磨入りした時に助勢を請うて湯山と接触したらしいんです。
むろん湯山に謀反加担の意思は無く、頼貞の申し出をキッパリを断ったのだが、
人々は「その気が無ければハナっから会わないはず、条件聞いて止めただけじゃね?」と突っ込まれ疑われた。

柿だろうが桃だろうが林檎だろうが栗(以下略)、収穫期の樹木の下で両手挙げるポーズはヤバくね?ってことですなぁ( ゚Д゚)y─┛~~

湯山は自分の軽率な行動を反省し、弟と妻子や従者と共に普門寺にて謹慎し沙汰を待つこととした。


一方、義陽の嫡男・ただいま10歳~年が明けてるから数えで11歳になるかな?
いつ元服したかハッキリ調べられなかったけど、年明け早々には執り行ったと思う。

元服し当主となった日をもって、島津との和睦成立~という約束なのでノンビリはしてられないはずです。
幾つかある島津家の諱の一つである「忠」の文字を貰って、義陽嫡男は「忠房」となった。

忠房の肖像は残ってないが、かなりの美少年だったらしく、
そういう意味でも相良家中から「どこに出しても見劣りしない若当主」と将来を嘱望されていた。

人質として出水城にいた忠房だが、そこで「元服の儀」をしたか、いちど人吉城に戻ったか、そのへんがチト定かじゃなかった^^;
とにかく相良忠房は、元服の儀式で島津から偏諱(へんき=一文字拝領)を受けたのだ。
戦国大名・相良家の歴史は終わり、相良氏は正式に島津配下の領主となる。


忠房の元服・島津との和睦成立と、トントン諸行事が進んで落ち着いたとこで【謹慎中・湯山兄弟】の処遇が審議されたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良忠房2_叔父というものは謀反を起こすと相場が決まっているらしい 】

相良はミステリーがイパーイ\(≧▽≦)ノ~
本日の推理前提は以下の3つ
1)相良家にはVS島津主戦派がいる(脳内推理では八代衆?)
2)頼貞(亡き義陽の異母弟)当主推戴派は、島津主戦派と(=イコール)である
3)頼貞本人も島津との和睦(実質降伏)に反対の主戦派




何度か「相良は御家騒動が多い・多い」と連呼していたが、ついに(やっと)具体的に(まとめて)言う時が来たようだ(* ̄ー ̄*)ニヤリ

まぁ~あんま遡るのもシンドイので、亡き義陽に近いとこにします^^b

相良15代当主というのが、そもそも14代当主だった甥を o( ̄ー ̄θ★ケリッ と追い出し家督を簒奪した叔父様です。
追い出された14代は、叔父の15代に自殺に追い込まれてしまいました(;;)

その15代を(詳細略)倒して当主になったのが、16代義滋(14代の異母兄弟~14代が嫡出子で他は庶子)です。

16代義滋の養子になり17代となったのが晴広(義陽ダディ)
17代晴広の時は御家騒動は無し。
晴広の実父・上村頼興が邪魔者を全部サクッと殺ってたからです( ̄ー ̄A 汗フキフキ

ちなみに17代晴広の時に起きた「肥後の反乱」、キング大友家に謀反起こした菊池義武は「宗麟の叔父」^^b

18代義陽の時に、叔父の上村3兄弟(ダディ晴広の実弟たち)が謀反を起こし、
さぁ忠房が19代になるぉ~と決定したそばから、叔父・相良頼貞(義陽の異母兄弟)が挙兵した!

14・16・18・19、叔父と揉める歴代当主たち。ちと多過ぎじゃね?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


城・人吉城、二の丸御殿の長塀跡
人吉城、二の丸御殿の長塀跡

記録が少ない義陽の同年・同月・同日生まれの異母弟・頼貞は、義陽と不和となり八代で謹慎していた。
それが天正9(1581)年の島津による水俣城攻撃前後に八代を逃亡し、日向の飯野に潜伏?してたらしい(相良側に記録無し)

天正9(1581)年、義陽の死直後の12月20日、その相良頼貞が飯野から出て挙兵し球磨と真幸院(日向=宮崎県)国境の寺に陣を敷いた。
で、頼貞に多良木地頭の岩崎加賀が同調しました。

これは忠房が19代として家督を継ぐと決定した後のことで、相良側には翌日の21日に頼貞が挙兵したと伝わります。
一方、頼貞は笠木(今の加久藤峠あたり)に至り、そこの常秀寺を本陣とした。

実は史料には「頼貞挙兵で戦はなかった」ように書かれているのだが、

「人吉市史」によると人吉城へ向け銃が放たれたそうで、岡本頼氏(水俣城攻防戦の前線指揮官・有能武将)が被弾!
岡本頼氏の体から弾が二発が出てきたとの事で、しかも内一発は、明治の終わり頃に紛失(涙)するまで現存していたそうです。

・・・だから人吉城が攻撃を受けたとすれば、この21日か、その2、3日後のはず。

風雲急を告げる相良家で、事態を収拾すべく登場したのが深水宗芳~
深水宗芳、天文元年(1532)生まれだから数えで50歳。
もともとの名前は深水長智で17代晴広の13回忌に剃髪し、宗芳と名乗った。
今までチラ出ししか出来てなかったけど、奉行としての能力に長けた相良家の重鎮。
和歌の才に恵まれ、それを活かした交渉術にかけては超一級品~(* ̄・ ̄*)Vブイ
深水宗芳の嫡男は、この後の阿蘇氏との戦いで討死しており、それが後に相良家の御家騒動の遠因の一つとなる。


家紋・相良
(ロン様作成:相良家紋ロゴ)

その深水宗芳が頼貞の本陣を訪ねて言上した。
「頼貞が立てば義陽の(頃と同様に)治世が続くため、人吉城の者はこれを受け入れる。
しかしながら上球磨の者達の動向が判らないので、自ら出向いてほしい」
と伝えたのだが・・・・勿論、謀略 (* ̄・ ̄*)Vブイ

頼貞「・・・・・(考)・・・」結果は岩崎加賀と共に上球磨へ出向いた。
二人が行くと島津家が派遣した"久無木狩野"(ただし島津家臣の姓の中には見当たらない・久富木(くぶき・大口衆)の誤記?)が率いる500余名に囲まれた。
頼貞は、島津家臣に「この謀反を成功させる難しさ」を説かれ、やむなく諦め岩崎加賀共々日向へ落ち延びたそうだ。

・・・・・・・|壁 |_ ̄)じー・・・なぁ~んか、怪しい・・・。

実は同じ頃、八代でも反島津を掲げて、元八代奉行の東山城守らが挙兵して島津に鎮圧されてます。
それは頼貞と連携したものじゃなかったんだろうか(上記の前提ネ^^b)

この話には二つの推測が考えられます~

1)この経緯は「島津が相良を潰すつもりが無い」という話の傍証になります~
島津が相良を潰したければ、そのまま頼貞を「説得」などせず放置しておけばいい。
相良家は内部分裂して自滅していくだろう。
だが島津にとって、相良家を「磨り潰して地ならしするという手間」をかけるより、そのまま自分たちに服属させて、将来に亘って利用する方を選んだのだと思う。

シーマンズ「葦北は手に入れたし♪この後は阿蘇領も龍造寺領も頂く予定だからぁ♪ガツガツしないぉ♪他の肥後国人たちに薩摩隼人の懐・ひろーい、とこ見せるんだぉ(*´艸`)」

2)頼貞が島津主戦派だったということの傍証にならないだろうか?~
若年では当主が務まらぬ、成人まで叔父が後見~もしくは暫定当主になる例は珍しくない。
もし島津のバックアップで頼貞が当主になったら、どうだろう。

父を死に追いやられた息子の忠房よりも、本来なら家督に縁の無い庶子が当主になったラッキー(* ̄・ ̄*)Vブイ 
島津に感謝する度合い(恩義・忠誠心)は、頼貞の方が強くないだろうか?

庶子・庶流が当主面するには、外交上の後ろ盾をもって家中の意見統一を図る。
そうなれば頼貞は(簡単には)島津を裏切れない。

だが現実には、島津家は忠房に味方し、頼貞の後ろ盾にはならなかった~
それは島津にとって、頼貞が当主になっては不都合な人物(島津主戦派)だからではないだろうか~
主戦派=頼貞擁立派なら、頼貞を排除することによって相良家中における主戦派をも一掃できます。
(命を奪わなくとも、政治的には旗頭を失い求心力を失います)

頼貞の子孫は栗野(鹿児島県)に住んだと言うが、それも相良側に資料が無く真実は遥として知れない。
はるか後年、家老に蔑ろにされて餓死、という非業の死を遂げる頼貞の同母妹・亀徳姫。
頼貞に連なる人物は、相良家にとっての黒歴史だったのだろうか。

相良家では、義陽の死・直後に起きた謀反を「小事」として扱い、記録も有耶無耶だ。
だが叔父の謀反が「小事」であるはすがない
頼貞謀反の余波は更に相良家を揺さぶるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良忠房1_和睦更新なぅ 】

さて実は義陽が自ら死を選んだのには、もう一つ理由が考えられる。
それは起請文の有効期限だ。


巷のサイトでは「義陽死後に島津が相良を潰そうとして、家臣らの尽力で何とか嫡男が家督を継いだ」とあります。
義陽が死んだからといって、即相良潰しなぞ不可能です。
なぜなら島津義久には、相良家を潰す「大義名分」が無いからです。

戦国時代は室町時代体制が崩れたものなので、一見は無秩序のようで秩序が残っています。
小競り合いや前哨戦、国人による代理戦争ならイザしらず、基本としては戦には「大義名分」いる。

というのは、この時代は「兵農分離」がなされてない、というのが大きいと思います。
(あとは意地とか、名を残すとか、長年の付き合いとかmixで)

「大義名分の無い戦の(or自分の得にならない)軍役」に駆り出され自領の田畑が荒廃するのは、どの国人もイヤがる。
(国人がイヤがって途中でバックレたりするんで、島津も本国を離れての長期遠征に限界出てくる)
だから戦国時代とはいえ実力に物を言わせて国人に無茶ぶりするのは、度々は出来ない。

これまでの島津による相良攻撃には、周辺諸国の国人から見て誰もが頷ける「大義名分」がある。
何故なら「島津~相良」間の和睦で、裏切るのは常に相良義陽だったからです。
戦国時代は「右の頬を撃たれたら」「相手の左の頬を張り倒す」
やらなければ、それまでの権益を失うし他の国からも舐めらる。

これまでの島津による相良領を攻略は、至極当然の流れだった。
数少ない相良サイトによると、義陽の島津降伏への条件には「阿蘇・甲斐氏攻撃の先陣を務める(出典不明)」というのがあったそうです。

義陽は甲斐宗運と戦い、立派?に戦死して条件を果たしていることになる。
それならば猶の事、島津が相良を潰す理由が無い。
恭順して数か月の戦国大名を潰すなどどなれば、動員される国人は「明日は我が身」とビビリ恐慌状態になるだろう。

島津に降伏した時の起請文・・・現物があるか知らないが、末尾には相良義陽の署名花押があるだろう。
(家老代理署名でも、それを承認するのは義陽なんだから同じこと)

つまり和睦(=実質・降伏)起請文の有効期限は、義陽が存命してる間まで・・・ということです。
それは義陽が隠居しても変わりません。
日付は現役当主時代だし、隠居が実権を握ってる例はゴマンとありますからね。

逆を言えば「義陽が現役当主である間に死ねば」「和睦起請文は時効」になるんです。
義陽死後の新当主が「阿蘇・龍造寺との間で三国間同盟」しても、それは島津への裏切りではなく、単なる外交方針の転換に過ぎません。

相良義陽が死ぬことを望んだのは「甲斐との密約隠し」だけでなく「和睦の有効期限」を「自分の死によって強制シャットダウン」させる目的があったのではないだろうか。

義陽最終回数話で私は「義陽が予め、自分を討て」と甲斐宗運に依頼していた・・・と推理しました。
義陽の依頼を、甲斐宗運は「友情からだけで承知」するような甘い男ではない筈です。

義陽戦死⇒相良新当主代替わり⇒外交方針変換⇒島津が何らかの報復措置

龍造寺南下までに少しでも時間が稼げます。

義陽&甲斐の思惑通りに相良の外交方針が変化するかは解りません。
でも「義陽が生きている限り」「島津従属の相良外交方針は有効」なんで、義陽の申し出を実行してみる価値はあるでしょう。
(義陽編の推測との整合性が・・・(._+ )☆\(-.-メ)ダマレ!)

少なくとも「義陽の死」によって「相良家には外交方針選択の自由」が生じます。

仮に「阿蘇・龍造寺・相良」の三国同盟が結ばれたとして、島津の外圧をまともに受けるのは相良家です。

キツイ・くるちぃ・崖っぷちの3K外交方針だが、まだ八代と球磨2郡があるので抵抗を続けるのは阿蘇と龍造寺のバックアップあれば不可能ではない。(理屈では)

でもって島津の肥後統一を阻み続ければ、後の「島津による豊後侵攻」も微妙だし、「九州の役」以降の九州の勢力分布図は全く違ったでしょう。


家紋・相良
(ロン様作成:相良家紋ロゴ)

島津義久も「義陽死後」に「相良の外交方針が変化」するのを畏れていました。

でもって相良家の重臣たちの決定は↓↓↓

1)新当主は義陽の嫡男10歳(現在、島津の人質として薩州家預り)
2)年が明けたら嫡男を元服させて、新当主として正式にお披露目する
3)島津の和睦(従属)方針は継続~嫡男の元服を機に和議が成立する事とする

島津義久「(ノ´▽`)ノオオオオッ♪(ホッとしたぁ)~
義久は「欣悦」し、「永々相違あるべからず」^-^ニコニコ としている

さて相良家に「VS島津主戦派」がいた(らしい)
でもって、それは亡き義陽の異母弟・頼貞を当主推戴派と =イコール じゃないか、
さらに義陽の弟・頼貞も島津との和睦に反対だったのでは? と、記事にしていました。

天正9(1581)年12月2日に義陽が戦死した哀しみも癒えぬ、同月20日。

義陽の異母弟・頼貞が家督の座を狙って挙兵するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽83_鳴呼・響野原、後篇 】

相良義陽が響野原で討死したのは、通説によると「(相互不可侵盟約を破った事に悩んで)甲斐宗運との友情からだ」と云う「センチメンタル説」になっている。
それに管理人は「島津の下風になるのが何としてもイヤ」だった「武士の意地説」を付加した。
(自分の死後、嫡男・次男は人質として島津の庇護下にあれば、相良で内乱あっても逆に安全)

だが、それらの全てが表向きの理由で、義陽が世間から「そう思われる」ように仕向けたものだ、としたらどうだろう?
義陽の死に様は「甲斐宗運に討たれる」ものでなければならなかったのだ。

甲斐氏の史書『響之原合戦覚書』によると、
「義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つ」
という密約があったとされる。

自分推理は上記史料が前提~ちなみに相良側資料は『南藤蔓綿録』。

人物・相良義陽
(今日が見納め?相良義陽画像~)

この戦いで島津は相良の後詰として出陣するはずだったそうだ。
ところが上記密約を連歌師が察知し、島津に「陰謀あり」と知らせたために出陣を取りやめたそうだ。


過去に3度も裏切った相良の降伏を島津は疑い、嫡男、次男を人質にとった。
そんな島津を誘き出すために義陽自らが囮となったのに、島津は出陣をとりやめたのだ。

島津は見ている・・・壁 |・ ̄)じー・・・相良の降伏が本心なのかどうかを・・・!

義陽が戦から無事に生還したら、島津は「相良は本気で戦わず、甲斐と慣れあったのでは?」と疑念を抱くだろう。
自害切腹・・・周囲の家臣が全力で止めるだろうから実行が難しいし、タイミングが変だと島津が疑ったままになるかも~
島津の疑念を解くには
「甲斐と阿蘇に対し明確な敵対行為をする」
「義陽自身が甲斐との戦で討たれる」この二つを実行するしかない

義陽は甲斐との密約を糊塗するため、自分の行動が不自然に見えないように、「島津の求めに渋って、悩んでいる」アピール。
「律儀に甲斐との盟約書を燃やす」(これは演技というより、この時代の神仏への懼れからだろう)
「神社に自分の死を祈願」(こっちは本心だから神仏にウソついたことにはならない)
「女の幻 見たぉ( ̄  ̄)トオイメ。。 」鬱欝アピール

義陽が「深い懊悩の果てに甲斐軍に討たれて死んだ」となれば、もはや島津は相良への疑念は忘れるだろう。
島津にとっては、義陽の死後に相良家中が分裂し南肥後がカオスになる方が困るから、義陽への疑いを掘り返す事はしないはずだ。

甲斐との盟約破綻の敵対行為。
別部隊の東左京進の勢1000が、阿蘇氏の支城・堅志田城下を焼き、出てきた堅志田城兵を退けた。
堅志田城兵側に被害が出る。
その後、別部隊の東左京進と義陽は響野原で合流した。


天正9(1581)年12月2日

響野原は濃霧に包まれ、四方から甲斐勢500が攻撃、元々守りに向かない地の上に濃霧だったので相良勢は壊滅。
義陽は退却を勧める家臣の言を無視して、床机に座ったまま敵兵に斬り殺された。享年38歳。
それを知った東左京進も、敵に突撃し討死する。


島津を誘い出せなければ、自分のことは敵として遠慮なく討ってくれ、その代わり密約の事はワシが墓の中へ持って行く!・・・
義陽は予め、そう甲斐に頼んいでたのでは無いだろうか。

義陽を斬り倒した甲斐兵は、義陽の首を取るのが忍びず、別の者が首を落としたそうだ。

密約を知っていたか、或いは察していた者だったのだろうか・・・

義陽の首を見た宗運はかつての盟友の死に落涙した・・と言われる。
主家のためなら子供を犠牲にする情の強い男が、阿蘇と自分を裏切った男の首を見て落涙したのだ。
しかも相良家は阿蘇氏に対し明確な敵対行為をしている。

常の甲斐宗運なら義陽の裏切りに怒りこそすれ、泣くほど嘆くだろうか?
それは「戦死」という死に様を選んだ義陽の心情を、事前に知っていたからではないか。

宗運は「これで島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった。阿蘇家も後数年の命脈であろう」と述べたとされる。
甲斐宗運は「相良家が島津に降伏した時」ではなく「義陽が死んだ時」をもって「島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった」と発言しているんです。
相良の島津降伏後も「宗運と義陽の盟約」は生きていて、両者の密約を裏付けることにならないだろうか。

義陽の首級は宗運の首実験の後、相良家臣・東駄左衛門(豊福城代)が返還を要求して返されたとも、
義陽が討ち死にした場所の近くにあった大石の上に置かれて返されたとも記述されています。





みなさま管理人提供の「相良義陽像」は御堪能いただけたでしょうか?
これは自分が集めた資料や、監修様所持の貴重な文献から情報提供頂いた資料を元に、管理人が構築した「語り」ですので、その辺はお含みおきください^-^

義陽は死んだが相良の歴史が終わったわけじゃない!大変なのはこれからだ~~~~~~
豊後侵攻、九州の役、朝鮮の役、関ヶ原大垣城、もはや代替わりの通例?内乱に祟りがフルコンポ!
御家騒動は期待?裏切らない~石田三成・加藤清正を巻き込む大騒ぎ!
生き残れ相良! それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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