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相良家文書302_菊池重治安堵状寫(写)

(端裏ウハ(上)書)
「相良殿             重治」
肥後国八代郡并益城郡豊福二百四十町之事、任親父近江守長毎相続之旨、領掌不可有相違之状如件、
  六月十二日      藤原重治
   相良太郎(長祗)殿


肥後国八代郡併せて益城(ましき)郡豊福240町の事、
親父(おやちち)近江守長毎 相続に任(まか)すの旨(むね)、領掌(=了承)相違有る可(べ)から不(ず)の状 件(くだん)の如(ごと)し


じーーーーー|翻刻版|・ ̄)じぃーーーーーーーーーーーーー

読み下しだけするつもりだったけど・・・・
まず表題の安堵状の次にある文字は「写」で、どうやら原本が残ってないようです。
写だから重治の花押がない。(あったら偽造だwww)
菊池氏の本姓は藤原だから藤原でいいっちゃいいんだけどさ。

どうも菊池重治で残ってる書状や感状は書写ばかりのようで・・( ̄ω ̄A;アセアセ
花押のある原本では相良以外の文書で加冠状が残ってて、そっちは大永四年になってます。
ちなみに加冠状には「藤原」とは書いてないんだよな・・・
池田こういち氏は著作で大永三年と年度推定してるみたい。
べ・・別にっ!日向某家のような事を疑っている訳じゃ・・・ゲフゴホグフ

問題は奉書がないってことです・・・
安堵状が年欠である以上は、奉書がないと執行されません。
このままでは義治(=肥後守護職・菊池義武)のリップサービス。
従って、この安堵状写しだけを以て、相良氏が豊福の権利を主張するのは出来ない訳じゃないけど弱い^^;

大永3年(だと自分も思う)として、菊池義武は数え19の若さ。
彼個人で何かを決定することは、させてもらえなかっただろうから、大友家の意向が働いてるのかも。

となると、あえて奉書を発給せず、年欠の安堵状だけ先行させて一時しのぎしたかもだなぁ。
安堵状(ほか権利関係の文書)と奉書をワザと分離し、政治情勢に合わせて権利執行をコントロールするテクニカル方式です。

相良家文書、どっから読み下ししようかな~とチラチラ見てたら、これが面白かったので^^
萌える戦国初期にしようか迷ったんだけど、それだと調べ直すことが多すぎるからパス(←おぃ)
ぼちぼち行きます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: 内緒さま

> 『南藤蔓綿録』にありました。

なるほど、相良家文書の方には前書はなかったので、前書部分は『南藤蔓綿録』編者の書き込みですね

> 記録されている位置は、大永二年と大永四年の間です。

あぁ、それで池田こういち氏が大永三年と年度推定してたのか。
とはいえ諱が重治の頃だから、そのあたりなのは間違いないですね。

写が多いのは、江戸期の人吉で大火があったことと関係あるのか、そのあたりの由来のようなものは文書にはついてなかったです。
参考になりました。ありがとうございます(*´∀`)ノ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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