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研究_与賀龍造寺_1・与賀城

★位置データ---佐賀県佐賀市赤松町2−4(現:龍泰寺)

★遺構-----標高2~4mの低平地に溝で囲まれた浮島の集合体のような島状地の曲輪で構成されている
(引用:大坪芳典 2011 「戦国大名龍造寺隆信の居城「佐賀龍造寺城」の解明に向けて」『肥前史談叢』 肥前史談叢の会) 
★築城年---文安5年(1448年)

★築城主---龍造寺家氏

★一次史料---なし。データは全て江戸期編纂による二次史料出典。

佐賀市史(520頁)によると、
(龍造寺家氏が)居城の西郷与賀荘の地に与賀城(赤松町・龍泰寺)を築いて少弐教頼を置いた
とある。
この部分に関し直近には出典元の付記がないが、
段落を変えた次の文節に出典「九州治乱記」「歴代鎮西要略」とある。

●歴代鎮西要略---入手不可のため未確認(古書業界では幻状態(´;ω;`)ウッ)

●北肥戦誌(九州治乱記)巻之七(135頁~136頁)
 其頃当国佐賀郡小津郷に龍造寺隠岐守家氏といふ士あり。
 先祖累代少弐恩顧の者なりしかば、教頼、彼等が許へ入り来たり。
 一向に頼まれける間、家氏仔細なく領掌して、
 頓(とみに)我が館の西与賀の庄に要害の地を選び、新城を築き教頼を移し居けり。


●歴代鎮西志---文安五年(1448年)(653頁)
 少弐教頼 肥之与賀に城を築く。
 龍造寺右衛門大輔忠俊、之を迎え接す。
 (※原文はホントに、この二行だけ^^;)
 



歴代鎮西志では、少弐教頼が与賀城を築城したと記述しており、
北肥戦誌との記述と矛盾する。
(与賀神社にある摂社・少弐神社由来では、与賀城築城に関して少弐教頼築城説を採択している。)

ただし教頼を迎えた人物において、北肥戦誌と歴代鎮西志とでは相違がある。

北肥戦誌===龍造寺隠岐守家氏------------13代目当主(没年不明)
歴代鎮西志==龍造寺右衛門大輔忠俊(康家)--14代目当主(没年1510年)

少弐教頼の没年は応仁2年(1468年)
各年号から類推すると、教頼に接した龍造寺当主は家氏の方が妥当。
従って、記述に矛盾のない北肥戦誌の方を採択。

★城主変遷---少弐教頼⇒少弐政資⇒龍造寺胤家(康家長男)
 城主と城主の間のブランクが長い。
 城主不住の間の与賀城が、どういう状況だったのかは不明。

永正5年(1508年)、与賀城に入って以降、
龍造寺胤家(及び係累)を「与賀龍造寺と称す」

(参照文献:與賀龍造寺記録)

龍造寺に三氏あり。
宗家であり家和系統の村中龍造寺
剛忠(家兼)を祖とする水ヶ江龍造寺
胤家を祖とする与賀龍造寺



現在、研究が進んだのはここまで~~道産子ハンデで丸三年もかかっちゃった^^;
リサーチに目途がついた都度、記録として更新します~φ(.. ) カキカキ
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

はい^^
時間かかるので気長に待っててください^^

No title

楽しみにしています。宜しくお願いします。
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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