高橋元種8【改易】
高橋元種の関ケ原に関してはカテゴリ「関ケ原~大垣城編」で記事にしているので割愛する。
(ロン様作成高橋家紋ロゴ)
縣藩主としての元種は縣城(後の延岡城)を築城し町割りなども行い、延岡市の基礎を築いた。
しかし1613年、幕命により改易される。
理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに宇喜多直盛の甥・坂崎左衛門(宇喜多左門、水間勘兵衛)が出奔したのを匿ったためとされている。
この坂崎直盛という男、かなり偏執的な男でしつこい。
出奔した板崎左衛門の居所を探りあて城主自ら成敗しようとしたのだが、さすがに家臣が止めた^^;
そこで坂崎直盛は幕府に訴えでた。
坂崎左衛門を匿った元種は改易処分となった。
元種の正室が宇喜多氏で憐れんだ夫人が米300石を送ったのが咎められたのだ。
元種の身柄は陸奥棚倉藩主立花宗茂(柳川藩に復活前)にお預けの処分となった。
かつて豊臣秀吉が親同士の遺恨を忘れよ。
と言ったのは立花宗茂は忠実に実行し、元種は丁重に扱われた。
ご子孫様によると、立花宗茂は元種の大名復帰運動を幾度となくしたらしい。
が、すべて幕府により却下された。
ご子孫様は元種がキリシタンだから許されなかったのだ!と、言っている。
棚倉の地で没した元種の墓に十字架が刻まれているのが証拠だと。
正直、管理人はこれだけじゃなぁ~と思う。
せめて洗礼名とか、いつ、誰から受洗したか分からないと史料としては乏しい。
元種は1614年10月9日、棚倉で死去した。享年44の若さだった。
長男は一緒に棚倉へ預かりの身となり、その後が分からないのだが、
7歳だった次男は家臣に連れられ薩摩島津氏を頼り、そのまま島津藩士となった。
ご子孫様はブログを作っているのだから高橋の系譜は続いたのであろう。
そのことに何よりホッとしている。
秋月種実関連は、これで終わりたいと思う。
ちと史料不足なのと、それなりに達成感があるのです^^
次は佐賀に戻ります。それはまたの話

縣藩主としての元種は縣城(後の延岡城)を築城し町割りなども行い、延岡市の基礎を築いた。
しかし1613年、幕命により改易される。
理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに宇喜多直盛の甥・坂崎左衛門(宇喜多左門、水間勘兵衛)が出奔したのを匿ったためとされている。
この坂崎直盛という男、かなり偏執的な男でしつこい。
出奔した板崎左衛門の居所を探りあて城主自ら成敗しようとしたのだが、さすがに家臣が止めた^^;
そこで坂崎直盛は幕府に訴えでた。
坂崎左衛門を匿った元種は改易処分となった。
元種の正室が宇喜多氏で憐れんだ夫人が米300石を送ったのが咎められたのだ。
元種の身柄は陸奥棚倉藩主立花宗茂(柳川藩に復活前)にお預けの処分となった。
かつて豊臣秀吉が親同士の遺恨を忘れよ。
と言ったのは立花宗茂は忠実に実行し、元種は丁重に扱われた。
ご子孫様によると、立花宗茂は元種の大名復帰運動を幾度となくしたらしい。
が、すべて幕府により却下された。
ご子孫様は元種がキリシタンだから許されなかったのだ!と、言っている。
棚倉の地で没した元種の墓に十字架が刻まれているのが証拠だと。
正直、管理人はこれだけじゃなぁ~と思う。
せめて洗礼名とか、いつ、誰から受洗したか分からないと史料としては乏しい。
元種は1614年10月9日、棚倉で死去した。享年44の若さだった。
長男は一緒に棚倉へ預かりの身となり、その後が分からないのだが、
7歳だった次男は家臣に連れられ薩摩島津氏を頼り、そのまま島津藩士となった。
ご子孫様はブログを作っているのだから高橋の系譜は続いたのであろう。
そのことに何よりホッとしている。
秋月種実関連は、これで終わりたいと思う。
ちと史料不足なのと、それなりに達成感があるのです^^
次は佐賀に戻ります。それはまたの話
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