日新公伊呂波歌

後に薩摩藩の郷中教育の元となりました^-^
初代藩主編のカテゴリに入れた事に他意はありません^-^ニコニコ




◎「い」:いにしへの 道を聞きても唱へても 我が行ひに せずばかひなし
(昔の偉い人の教えを幾ら聞いても口で唱えても、行動に起こさないと意味がない)

◎「ろ」:楼の上も はにふの小屋も住む人の 心にころは たかきいやしき
(立派な家に住んでいても、みすぼらしい家に住んでいても、人間の尊さや卑しさとは関係がない。
 心掛けが立派であればその人は尊敬されるのである)

◎「は」:はかなくも 明日の命を頼むかな 今日も今日もと 学びをばせで
(今日できることを明日に延ばし、更に後日に延ばし、明日を頼みとすると結局は何もできない。
 今日できることは今日すべきである)

◎「に」:似たるこそ 友としよけれ交わらば われにます人 おとなしき人
(自分と同程度の人と友達になろうとするものだが、なるべくなら自分より才能や学問に優れた徳の高い人を選んだ方がよい)

◎「ほ」:仏神 他にましまさず人よりも こころに恥ぢよ 天地よく知る
(人の心には神仏が住んでいるものであるから、良心に恥じ入ることなく正しい行いをしなさい。誰も見ていないようであるが、天地は必ず見ている)

◎「へ」:下手ぞとて 我とゆるすな稽古だに つもらばちりも 山とことの葉
(幾ら下手でも稽古を疎かにしてはいけない。毎日積み重ねれば必ず上達する)

◎「と」:科ありて 人を斬るとも軽くすな いかす刀も ただ一つなり
(罪人であっても軽々しく処罰してはいけない。
 殺すことも生かすことも君主の旨ひとつであれば、機微を洞察して臨機応変に処すべし)

◎「ち」:知恵能は 身につきぬれど荷にならず 人はおもんじ はづるものなり
(知恵や能力は幾ら身につけても決して邪魔にならない。
 人は沢山の能力を身に着けた人を尊び、自分の無知を恥じるものだから、たゆまず身につけなさい)

◎「り」:理も法も 立たぬ世ぞとてひきやすき こころの駒の 行くにまかすな
(乱れた世であっても身勝手な振る舞いに走ってはならない。
 世間がどうであれ、自分自身は正義人道に則り流されるべきではない)

◎「ぬ」:ぬす人は 余所より入ると思ふかや 耳目の門に 戸ざしよくせよ
(盗人は余所から侵入すると思いがちであるが、真の盗人は耳や目から入ってくる。
 心の戸締りをしっかりすることが肝要である)

◎「る」:流通すと 貴人や君が物語り はじめて聞ける 顔もちぞよき
(既に熟知していることでも、目上の人からの話は初めて聞くような振る舞いをした方がよい。
 知っているからと横着な態度を顔に表してはいけない)

◎「を」小車の わが悪業にひかれてや つとむる道を うしと見るらん
(人は欲望に引かれてしまうものである。
 そして何ともなかった筈の仕事すら辛く感じ、遂には悪行に走ってしまう。
 自分の成すべきを聢と成すべきである)

◎「わ」:私を捨てて 君にしむかはねば うらみも起り 述懐もあり
(君主に仕えるには私心を捨てるべきである。私心があるからこそ恨みや不平不満が生じるのである)

◎「か」:学問は あしたの潮のひるまにも なみのよるこそ なほ静かなれ
(学問をする上で時を選ぶ必要はないが、できるなら夜の方が静かなので適している)

◎「よ」:善きあしき 人の上にて身を磨け 友はかがみと なるものぞがし
(人様の善いことは見習い、悪しきことは自分はやるまいと諌め、自分自身を磨きなさい。
 友達の行いは反面教師となるので、自らの手本としなさい)

◎「た」:種子となる 心の水にまかせずば 道より外に 名も流れまじ
(煩悩の種に支配されずに行いをすれば、道に外れることもなく名聞も道より流れ出はしないだろう)

◎「れ」:礼するは 人にするかは人をまた さぐるは人を 下ぐるものかな
(人に礼を尽くすことは己に礼を尽くすに等しい。
 また、人を卑下することは己を卑下することに異ならない)

◎「そ」:そしるにも 二つあるべし大方は 主人のために なるものと知れ
(臣が主人を謗るのには二通りある。
 大概は主人の為になるものと、主人は心得るべきである)

◎「つ」:つらしとて 恨みかへすな我れ人に 報ひ報ひて はてしなき世ぞ
(人から辛い目にあわされても、恨みを返してはいけない。
 仕返しをなせば報いに報いを重ねる果てしない世となる)

◎「ね」:ねがはずば 隔てもあらじいつはりの 世にまことある 伊勢の神垣
(伊勢の神様は、此方が無謀な望みを起こさなければお守り下さる。
 非望を起こすから隔ても生じるのである)

◎「な」:名を今に 残しおきける人も人 こころもこころ 何かおとらん
(後世に名を遺した人も、人であることに変わりなく、心とて心であることに違いはない。
 同様の心を以てすればその地位に至ることも可能であり、決して劣るものではない)

◎「ら」:楽も苦も 時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし
(苦楽はそのとき限りのもので、時が過ぎれば跡形もなくなる。
 だが名前は、身を粉にして世に尽くせば残る。それを心掛けるべし)

◎「む」:昔より 道ならずして驕る身の 天のせめにし あはざるはなし
(古来より、無道をした者が天の責めに遭わぬということはないと知るべし)

◎「う」:憂かりける 今の世こそは先の世と おもへばいまぞ 後の世ならん
(現世の辛いことは前世の因果の為であると思えば、今の世を正しく生きれば来世は良い人生となるだろう)

◎「ゐ」:亥に臥して 寅には起くと夕露の 身を徒に あらせじがため
(夜は十時に寝て、四時に起きなさい。露のように儚い人生を無駄としないために)

◎「の」:遁るまじ 所をかねて思ひきれ 時に至りて 涼しかるべし
(逃れ難いときには、命を捨てる覚悟で思い切って決断すべきである。
 その覚悟があれば、まさかの時に至って涼やかでいられるものである)

◎「お」:思ほへず 違ふものなり身の上の 欲をはなれて 義をまもれひと
(正義の人であっても、ひとたび私欲の念が生じれば知らず道を外れてしまうものである。
 欲を捨てて正義を守るのが肝要である)

◎「く」:苦しくと すぐ道を行け九曲折の 末は鞍馬の さかさまの世ぞ
(どんなに苦しくとも、まっすぐ道を進みなさい。
 九十九折の様に曲がった道を行けば、末は真っ暗闇で逆さまに引っくり返ってしまうぞ)

◎「や」:やはらぐと 怒るをいはば弓と筆 鳥に二つの つばさとを知れ
(寛大に過ぎれば侮られ、厳格に過ぎれば陰口を叩かれる。
 寛大と厳格、この二つを例えるならば文と武である。鳥に翼が二つ必要なように、一方だけでは用をなさ ないと知りなさい)

◎「ま」:萬能も 一心とあり事ふる(つかうる)に 身ばし頼むな 思案堪忍
(いかに万能であっても、心が邪であれば取るに足らないものである。
 才能を頼みと要らぬ自慢などせず、よく思案し慎重に仕えたほうがよい)

◎「け」:賢不肖 用い捨つるといふ人も 必ずならば 殊勝なるべし
(賢者を用いて、そうでない人を用いないと言ったとしても、その通りにできるならば本当に感心である。 部下が真に優れているか否か、見極めるなどは難しいものである)

◎「ふ」:不勢とて 敵を侮ることなかれ 多勢を見ても 恐るべからず
(小勢だからといって敵を侮ってはいけない。
 また、敵が多勢だからといって恐れる必要はない)

◎「こ」:心こそ 軍さ(いくさ)する身の命なれ そろゆれば生き 揃はねば死す
(皆の心が一致団結すれば軍勢は勝利する。
 しなければ敗北する。)

◎「え」:回向(えこう)には 我と人とを隔つなよ 看経(かんきん)はよし してもせずとも
(供養する際は、敵味方を区別せず冥福を祈りなさい。
 但し、読経はしてもしなくてもよい)

◎「て」:敵となる 人こそはわが師匠ぞと 思ひかへして 身をも嗜め
(敵とは忌むべき存在のようだが、考えようによっては自分を嗜める師匠のようなものと思い返して、敵に 対しても苛酷残忍の取り扱いをしてはならない)

◎「あ」:あきらけき 目も呉竹の此世より 迷はばいかに 後のやみぢは
(目にも明らかな現世で迷えば、暗がりの死後の世界は一層迷うことだろう。
 目先のことに捕らわれず邁進すべきである)

◎「さ」:酒も水 ながれも酒となるぞかし ただ情けあれ 君が言の葉
(酒も水のように思い、また河の流れも酒のように有難く受けるものである。
 そのように情け深くあれば、厳しい言葉でも部下の心には沁みるものである)

◎「き」:聞くことも 又見ることも心がら みな迷ひなり みなさとりなり
(聞くことも見ることも、受け手の心掛け一つで迷いとも悟りともなる。
 何事も謙虚に受け止めるべきである)

◎「ゆ」:弓を得て 失ふことも大将の こころ一つの 手をば離れず
(大将の心一つで、士気を上げることも衰えさせることもある。
 よく心を配るべきである)

◎「め」:めぐりては 我身にこそは事へ(つかえ)けれ 先祖のまつり 忠孝の道
(先祖をよく供養すれば、自分も子孫より供養されるものである。
 主君に忠をなせば臣下が忠をなし、父母に考をなせば我が子に考を尽くされるものである)

◎「み」:道にただ 身をば捨てんと思ひとれ かならず天の たすけあるべし
(道義を前に身を捨ててかかれば、必ずや天からの助けがある)

◎「し」:舌だにも 歯のこはきをば知るものを 人は心の なからましやは
(舌でさえ歯が固いのを知っている。況して人には心がある。
 人様には虚飾を排して接し、また他人の正邪を察して、互いに害さぬよう心掛けるべきである)

◎「ゑ」:酔へる世を さましもやらで盃に 無明の酒を かさぬるはうし
(辛い世の中だからと、酒浸りになっても虚しいだけである。
 このようなときこそ、己を見つめ返すときである)

◎「ひ」:ひとり身を あはれと思へ物毎に 民にはゆるす 心あるべし
(頼る者のない身は寂しいものである。だから民には仁徳を以て寛大であるべし。)

◎「も」:もろもろの 国や所の政道は 人にまづよく 教へならはせ
(色々な国や所の法令は、民によく教えておかなければならない。
 それを知らない民を、これが国法であるからと刑罰に処するのは仁徳に欠く行為である)

◎「せ」:善に移り あやまれるをば改めよ 義不義は生れ つかぬものなり
(義も不義も天性のものではない。教え諭せば善人になりうるものである)

◎「す」:少しきを 足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく 十六夜のそら
(欲をかかず、分を弁え程々にせよ。
 月も十五夜のように満ちてしまえば、翌日には十六夜となり欠け始めるではないか)
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【決定~後継者!】島津氏8・栞歴8

古き血族の頂点に立つ者(妻・亀寿)が上か?!

公儀が認める初代藩主(夫・忠恒)が上か?

政治的に立場を異にする夫婦は、真向から対立した


対立は憎悪となった。忠恒は妻をババァと呼び、亀寿(かめひさ)は夫をアレと呼ぶ。 

もはや二人が普通の夫婦関係に戻るのは不可能だった(--;)

ここに一人の娘が国分城(きりしま市)の亀寿にお目見えし、忠恒の側室となった。

娘は2代藩主・光久を産み、亀寿の死後に忠恒の継室となる。

光久の生母はウィキペディアで検索すると「島津忠清娘」とある。

この島津忠清というのが、秀吉の怒りに触れ改易された分家・薩州島津家の残った男子。

実は島津忠清の母親は亀寿の姉(義久・長女/御平)でして、とどのつまり16代当主・義久の曾孫にあたるのが光久の生母だ。

絶望的な不仲の藩主夫妻が、互いの血流を残すべく接点を見出したのが、薩州家の血を引く娘だった。

父・義久を失い追い詰められた亀寿はともかく、忠恒の方が妥協をしたのには当然ながら理由がある。

そして、ここからが島津家の秘事に属する事柄になるのだ。 




島津家には、当主だけが所持を許される「御重物」という、家宝中の大家宝があった。

御重物とは、現在「国宝」の指定を受けている「島津家文書」のことである


話は遡って天正15年(1587)に島津が秀吉に降伏したとき、16代当主・義久は秀吉への恭順の証として隠居し、家督を弟・義弘に譲った。

だが心から秀吉に臣従していなかった義久は、「御重物」を義弘に渡さず末娘・亀寿に渡してしまった(姉たちは既に分家に嫁いでいた)

※島津家文書は現在は東大にある(時の当主が個人所有の限界を感じて預けた)戦後に文書の研究が飛躍的に進み、義弘が正規の家督相続を受けていないことが判明したんです。

そのため島津家は「義久・義弘の両殿体制」になり、秀吉が家督問題に介入したせいで、更に「義久・義弘・忠恒の3殿体制」になってしまう。

対外的には「藩主=イコール当主は忠恒」だが、薩摩内部では3殿体制で、家中への発布は3人の連名になっています。

義久が亡くなり政治的に逼塞していても「御重物」を所持する亀寿が島津宗家・正統相続者であることに変化はなく、あくまでも次期当主指名権は亀寿にあるんです




島津忠恒~~イメージ画像

隠居した義久が「御重物」を渡してくれない事に対する義弘の胸中は、島津家の秘事に関するデリケートなことなので解らない。

ただ義弘の息子と正統相続者の亀寿が結婚することで、本来なら時間が解決する・・・はずだった^^;; 


さらに言うと、何かにつけて庇ってくれた義弘が死んだ後も、亀寿が忠恒に殺されずに済んだのは、亀寿が「御重物」を隠し持ち、夫には絶対に渡さなかったからです。

2代藩主・光久をウィキペディアで検索すると「亀寿の養子」とある。

つまり光久は「藩主・忠恒の息子」だから当主になれたのではなく、「亀寿の養子」だから跡を継げたの^^b

寛永7年(1630)、亀寿は病を得て60歳で苦難の人生を終えるのだが、そのさい家老に固く固く遺言したのが、

亀寿の遺言:「御重物」をアレ(忠恒)には絶対渡さないで!!光久に渡して!絶対に間違えないで!光久よ!!


当時の忠恒には、光久より溺愛する5男がいて「家督は5男じゃね?」ってウワサが出てた。 

忠恒にウッカリ渡したら、光久を廃嫡して後継者を変えるかも~って心配したんです。

結局、忠恒は当主でありながら「御重物」を、終生自分の物にすることが出来なかった^^;




御重物を無事受け取り・家督を継いで・諸行事終り・難問山積ながらも、ほっと一息の光久の下へ、家臣が血相変えて報告に来た。

家臣:殿!!一大事です!!亀寿さまの墓がありません~~~!!

光久:???養母さまの墓は遺言で高野山でしょ?本国にまだ建ててないの?

家臣:高野山に墓を建てたって御隠居(忠恒)様のウソっぱちです!!亀寿さまの遺骨は葬儀もされないまま国分城で放置されてます




天地がヒックリ返り・心臓が口から飛び出て・ヘソが茶を沸かす・アンビリバボーの世界~~~

あろうことか、亀寿の遺骨は約2年も放置されていたのである。

とにかく呼吸するのを忘れるほど、ビ~~~~ックリした光久。

即効で葬儀を行い、高野山に墓を作って納骨、本国に菩提寺も建てて、家臣らに月命日の5日には墓参に行くように厳命した。

一説には「亀寿の祟り」を恐れたとも言われているが、祟るなら忠恒の方なのでは・・(--;;)



忠恒は、幕末の雄藩となる薩摩藩の土台を作った男で、そういう意味では名君です。

が、余りにも「偉大な父」と「偉大な叔父たち」を持ち、さらに「若死にした優秀な兄」がいたため性格が屈折する^^;

亀寿から見れば精神的DV夫だが、忠恒を慕う家臣も多数いて、彼が死去したときは殉死者は9人もいるし、

信賞必罰・薩摩人らしく武勇を愛し、家臣を庇って将軍連枝と大喧嘩するくらいの気骨もある。

何より「西軍・副大将の宇喜多秀家公を匿う」のは、相当の胆力が無いと出来る事では無い。

が 財政難でありながら鹿児島(鶴丸)城を作り、農民に重税を課してもいる。

鹿児島城築城は父・義弘は大反対だったが、言う事聞かない息子は強行^^;

義弘:あんな要害悪いとこに造って,いきなり[背水の陣]ですかぁ!?書院だの茶室だの数寄屋造りだの,自分の趣味の部屋ばっかり先に作って,まだ風呂が出来てないって、なんじゃそりゃぁ!!


と,お叱りを受けてます^^;

まぁ要害悪いとか、天守が無いとかは、幕府に遠慮したんじゃないかなぁ(風呂が後回しなのは謎)

忠恒は、良い方にも悪い方にも極端で、評価が難しい複雑な内面の持ち主です。

ただ島津家久・豊久ファンとしては、忠恒が改名してるのは承知しているが「家久(こっちの家は家康からの偏諱)」とは呼びたくないんだなぁ^^

とにかく別居生活20年に及ぶ夫婦の愛憎は終り、秀吉が口出ししたせいで拗れまくった島津の後継者問題は落着した。

亀寿は法号・持明(じめい)夫人~薩摩言葉でジメサァと呼ばれ、現地では「ジメサァ祭り」という祭礼が残っています。

亀寿の墓は忠恒の側にはなく、仲睦まじいと伝えられている最初の夫・久保の側にあります^-^

参考資料(国分衆)町田家正統家譜

さて、次回からは島津別伝~宗家になれなかった分家筆頭~薩州家です。それは・またの話^-^sio

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【最悪な夫~by亀寿】島津氏7・栞歴7

薩摩お家流剣法・示現流(じげんりゅう)創始者・東郷重位(とうごう ちゅうい)彼が主君・忠恒(ただひさ)の命令で殺した家臣の数は19名~


忠恒:こりゃシオシオ~~ワシだけ悪者にすなっ!バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
   叔父貴(義久)もMr重位・東郷に依頼しとるのを書け!!

シオシオ:あ~あ~聞こえない~薩州家書きたい~~~相良も書きたい~~~佐賀もやりたい~~~~




亀寿(かめひさ)は、島津16代当主・義久(よしひさ)の末娘で、島津家の正統相続者だった。

そのため女の身ながら、島津家の中では「別格(当主クラス)の扱い」を受けていた。

残念ながら現存していないが、藩主同様に肖像画も描かれていたし、彼女付の家老も数名いる。

島津家中は勿論のこと、17代当主・義弘(よしひろ)でさえ、

姪にして嫁でもある彼女に対して、名前を呼ばず「御上(おかみ)様」と尊称で呼び敬意を払っていた。

「亀寿」というのは彼女の幼名でして(女性で幼名が残っている例も少ないのだが)尊称で呼ばれ続けていたので成人後の亀寿の名前が不明なほどだ。
(残された文書も「亀寿」のことを書く時は「御上」と敬称で記して「名前」を書いていない)
(「名前」を声に出して呼ばない・・・記録にすることすら遠慮する・・・このことを持ってしても亀寿が薩摩きっての貴人として最高級の待遇を受けていたことが推察できます)

亀寿は最初、義弘の次男・久保(ひさやす/亀寿より2歳年下)と結婚していた。

大変に仲睦まじいラブラブ夫婦で、久保との結婚生活が亀寿にとって最も幸福な数年間だったろう。

優秀な武将・久保は、島津家中から慕われ将来を嘱望されていたのだが「朝鮮の役」の戦地で病死してしまう(文禄2年・1593年)




悲嘆にくれる亀寿へ、追い討ちのように秀吉が島津後継問題に首を突っ込む。

正統相続者である亀寿は勿論、亀寿の父・義久の意思も完全スルーして、久保の弟で義弘の3男・忠恒を後継者に指名!

石田三成に命じて二人を無理矢理に結婚させてしまう。これで夫婦関係が上手く行く筈が無い。

亀寿と忠恒は「夫婦」とは名ばかりで、もしかしたら一度も実質的な夫婦関係が無かったのではないだろうか。

天正15年(1587年)に秀吉に島津が降伏してから13年間、亀寿は人質として伏見と大坂で寂しく暮らしていた。

もちろん秀吉が亀寿の上洛を要求したのだ。

細川忠興の仲介で一度帰国しているが、まもなく再び人質として上洛している。

秀吉死後、不穏になる政局を危ぶんだ父の義久は「亀寿を薩摩に返して!!」と、石田三成に何度も懇願している。

だが、亀寿の島津での地位を知っている三成の返事は当然「NO!」

義久の三成に対する不快・不満の一つとなった。

そう・・・1600年「関が原の戦い」の時、亀寿は大坂の島津屋敷にいたのだ。
(病み上がりの身体だったので、本戦前に脱出しそこねた)

西軍が負けても「豊臣家」は亀寿の帰国を許さない。

やむなく厳しい監視と検問の中、侍女を身代わりに大坂脱出!

西宮(大阪府)で、敵中突破して退却してきた義弘と合流した。

義弘の薩摩への撤収は、亀寿と義弘の妻と(どういう経緯か謎だが秋月家の妻女も同行)侍女数名の女連れだったので、非常に困難を極めたのだ。

義弘と薩摩兵は、命に代えても「島津宗家正統相続者・亀寿」を無事に薩摩へ帰さなくてはならなかった。

とはいえ、女の足では行軍速度は思うように行かない。

そこへ同じく西軍に属し九州目指して脱出中の立花宗茂と偶然に出会った!

敵中突破でボロボロの島津勢と違い、まとまった軍行動してた立花さんの協力で無事・薩摩に帰還したのだ。


江戸幕府の時代になり「亀寿を人質として江戸へ」って話は何度か出るが、そのたびに父・義久が話を握りつぶし、亀寿を守っていたようだ。
(かわりに義弘の娘・御下姫が人質として下向^^;)

夫・忠恒は「自分より格上」で「藩主より敬われる妻」亀寿の存在を既に憎悪していた。

慶長14年(1609年)忠恒は幕府に「将軍家の跡取り竹千代の弟・国松を養子に欲しい」と申し出る。

島津家老:うちの藩主の奥さん,もう44のババァで女終ってて,藩主もアレじゃナニが出来ない~無理って感じで、子供できそうにないんです

幕府:ブハゲホグホ~将軍家には男子が二人(2代様の隠し子は未公表)しかいないから養子無理だよ~奥方が高齢でも藩主は七つ下の30代でしょ、愛人作って頑張りなさい~


もちろん幕府が断るのは折込み済みで、これは宗家正統相続者の妻を差し置き、愛人作るための大義名分ゲットするための作戦でした。

そして慶長16年(1611年)多病ながらも長命だった義久が、国分城(現きりしま市)で病死した。



島津忠恒~~イメージ画像

忠恒は、父の葬儀のため鹿児島城から国分城へ訪問した亀寿を、そのまま国分に押し留め強引に別居。

かねてから用意してた愛人を一気に8人置いて子作りに励んだ。

そして義久派閥の家臣たち、平田増宗(家老)平田宗親(家老)比志島国隆(家老)を処刑!!

冒頭に上げたように、次々と義久に忠実だった家臣を(Mr東郷が)殺していく。

後ろ盾の父・義久を亡くし、頼みとする家臣が次々殺され、亀寿は為す術もなかった(;;)

気質優れた亀寿は秀吉夫妻の覚え目出度く、北政所からは帯や着物を下賜され、秀吉からは1万石の化粧料(亀寿の個人資産)をプレゼントされていた。

その亀寿の化粧料を忠恒は奪い、さらに国分城の家臣(国分衆)に圧力をかけて亀寿への生活費の仕送りを完全ストップ!

16代当主の娘で、17代当主の姪で、18代当主の正室で、島津宗家正統相続者の姫様が、お城の中で餓死寸前(リアル・ほんとに怖い童話)

義弘:いい加減にせんか!!こんバカ息子が!!バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!


加治木で隠居生活してた義弘の元へ、忠恒の厳重な監視を逃れて駆けつけた家臣の知らせが間に合い、

亀寿は義弘の手配で国分城で暮らせるように配慮してもらうことができた。

忠恒は亀寿への嫌がらせのために、側室との間に子供ができるたびに、いちいち知らせていたらしい^^;

元和2年(1616年)庶子の中で一人の男子が誕生する。

源氏物語の「光る君」のように、宮中の女官たちまでが胸キュンさせたイケメンボーイ。

その男子こそ、のちの薩摩藩2代藩主・光久なのだが、それは・またの話(^-^)sio


参考資料(国分衆)町田家正統家譜

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【御下(おした)の受難】島津氏6・栞歴6

君は良い友人だったよ。だが君の父上がいけないのだよ・・・by初代藩主・忠恒


慶長5年(1600年)3月に、徳川家康の仲裁で降伏した伊集院忠真(いじゅういん ただざね)。

彼の降伏によって「庄内の乱」は鎮圧された。

伊集院忠真は都城から帖佐2万石へ移動となったのだが、実際には領地には赴かず島津義弘の屋敷にいた。

というのも、忠真は義弘が溺愛する次女・御下(おした)と結婚していたので、義弘の保護下に置くという名目で、厳重に監視されてたのです。

忠真と御下の間には1子・千鶴姫が産まれてるので、夫婦仲は悪くはなかったと思う(むしろラブラブ)

御下は乱の間も父・義弘の元へは戻らず、夫・忠真の側に留まっている(男親てのは寂しいもんだ)

が、忠真は大人しくしてなかったらしい。旧領の都城の回復をあくまで狙ってた(元々の本貫地は伊集院なんだが)

忠真にすれば、殺された父に対する「不忠者」の汚名を晴らしたかったのだろう。

だから父が拝領した「都城」に拘ったのではないだろうか。

忠真は「庄内の乱」で食糧支援をしてくれた加藤清正に「旧領地回復のための助力を願う手紙」を出している。

この手紙は加藤清正には渡らず、ビビった使者が島津忠恒に渡してしまう。

なにやら出来すぎた話で、このあたり島津に都合の良い情報操作があったかもです。



島津十字

じりじり焦る忠真のもとに「石田三成挙兵」の話が耳に入る。

旧領復活のチャンス!!忠真,行きまぁぁぁ~~す!

義久(よしひさ・前当主で義弘の兄)行かせてたまるかァァ


伊集院家は石田三成と親しいので、参陣するなら西軍になるだろう。

「庄内の乱」で8千を集めた伊集院家だ。降伏で勢力が衰えたとはいえ、1千くらいは集められるのではないだろうか。
(伊集院氏は島津家の支族でして、家臣団の中でも最も構成人数が多い一族、その数は伊集院本家・分家・庶家合わせて30家以上)

三成も島津(の中の伊集院)をあてにしてたので、余計に義弘の兵力の少なさにガッカリしてしまったのだ。

が 伊集院が関が原で活躍し旧領復活したら、島津宗家の面目丸潰れ、家中の分裂に歯止めがかからなくなる。

前当主・義久は島津本軍を本国に留め、伊集院が動こうとするのを全力で阻止したのだ。



島津忠恒(ただつね)イメージ画像

忠恒に殺された家老・伊集院忠棟(忠真の父)は、早くから豊臣政権に積極的に近付いていた。

島津VS秀吉の「根白坂の戦い(天正15年/1587年)では、利敵行為ともとれるサボタージュをしてます。

この戦いで劣勢に焦った義久の孫が無理な突撃をして戦死しています。

伊集院忠棟は「島津家のため」と思っていても、とうの島津宗家にとって豊臣政権に近づきすぎる家老などは「獅子身中の虫」でしかない。

そして「宗家に歯向かい乱を起こした伊集院忠真」も、父・忠棟同様に「赦すべからざる人物」だった。

慶長7年(602年)「関ヶ原の戦い」で西軍だったことの謝罪のために、忠恒は伏見へ上洛することになり、忠真もこれに従っていた。

しかし忠真は忠恒に狩り誘われ、日向野尻で鉄砲の「誤射」により死亡してしまう。

忠真の死は、表向きは「誤射による事故死」として処理され、忠真を撃った藩士は切腹してますが、これは忠恒が命じた上意討ちです。

なぜなら忠真の弟たちが、それぞれ別の屋敷に預けられたにもかかわらず、同日に全員殺されているからです。

それだけでなく、養子縁組などで家名を継がせないためでしょう、忠真の母親まで殺されてます。

さらに忠真を撃った藩士も、孫の代だったかで以前より高い身分で復活してるんです。

= 哀れ御下姫・・・華の盛りに未亡人(;;) = 



伊集院の遺児である千鶴姫が尼寺に行くこともなく、母親の御下姫の手許に残すことができたのは、

末娘の御下を溺愛していた義弘が健在だったからでしょうし、

もしかしたら義弘は「御下(娘)と千鶴(孫娘)の無事を条件」に伊集院の始末を黙認したのかもしれません。

そして未亡人となった御下は、島津家の幕府に対する人質として江戸へ行くことになります。

ウィキペディアで検索すると出てくる「薩摩藩は参勤交代にいちはやく呼応し~」ってあるのは御下のことです。

忠恒は長い旅に出る妹に手紙を出してます。

忠恒~30代以上続いた島津家が(鎌倉の頭デカい人からカウント)こんなことになるとは思いもしなかったよ~女の身で良く決意してくれたね~ありがとう!!頑張ってね!


愛娘と離れ離れの猛将・義弘は涙目(@@)心配し、たびたび手紙を出してます。

御下姫[お父様^^私も娘も元気よ~最近、屋敷でワンコを飼ってるのよ♪]


なんてやりとりをしてる。



静かに暮らしてた御下姫だが、兄であり藩主の忠恒の命令で、娘・千鶴姫の婚儀が決まる。

愛娘と別れるのは辛いが、反乱を起こし殺された伊集院の血を引く娘が、兄の養女として晴れて譜代大名の家に嫁ぐのだ。

嫁ぎ先で疎略にされることはない。と、自らを慰めた。

さらに御下の元へ父・義弘の病の知らせが届く。慌てて幕府の許可をもらい薩摩へ戻ると、

父・義弘は既に亡くなっており、葬式までもが終ってた。 

・゜・(PД`q。)・゜・お父様~~~歎く御下に兄の忠恒が云う。

忠恒[御下,お帰り~お前に良い再婚話があるんだよ~島津久元~知ってるよね!]

御下[ええ?!この話は平成じゃないのよ~アラフォーで再婚って・・てか相手は奥様いるでしょ]

忠恒[ダイジョウブ!!離婚することになってるから!!]

御下[~--------------!!! ]



実は再婚相手の方の奥方は、亡くなった義弘の忠臣として名高い新納(にいろ)さんの娘。

忠恒は義弘系家臣を自分に付けるために政略結婚を仕組んだのです。 

島津久元はイヤも応も無い、忠恒に逆らう者は薩摩藩お家流~示現流創始者・東郷重位の刀のサビ(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

泣く泣く妻と離婚して御下姫と再婚です(--;;)



人質として江戸にいた御下が薩摩に戻るんで人質変わります^^;

今度は、忠恒・御下兄妹の「母方だと叔父の孫」で「父方だと従姉の孫」にあたり、

さっき話した「根白坂の戦いで戦死した義久の孫の忘れ形見」でもある、

まぁ、簡単に言えば「日置島津家の若様」が人質として江戸に行きます^^;;

こんなややこしい人選になったのは、藩主である忠恒と正室・亀寿の間に子供がいないせいでもありますが、それは・またの話(^-^sio)

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【不本意な再婚】島津氏5・栞歴5

「暗君無し」と謳われた島津家だが、全ての当主がそうだったわけではありません。

ダメ当主として真っ先に名前があがるのが、14代当主・島津勝久です^^

そして島津宗家のピンチに現れるのが「島津中興の祖」と呼ばれる、島津忠良(隠居後は日新斎/じっしんさい)~~伊作島津家の当主です。 

日新斎が宗家を継ぐのではなく、息子・貴久が勝久の養子となって島津15代当主となります。

貴久の子供が高名な「島津4兄弟~義久(長兄・16代当主)義弘(次男・17代当主)歳久(三男)家久(末弟・庶子)です。

貴久の知名度は「中興の祖」と「4兄弟」に喰われてますが、彼も優れた武将ですよ^-^

とはいえ、15代貴久以降は分家筋から出た当主、一大血族である島津を束ねるのは容易ではありませんでした。



島津十字

義久(16代当主)が、長女と次女を島津の分家に嫁がせたのは、一族の繋がりを強くするため。

そして宗家の支配権を強化するために必要なことだったのです。

長女と次女が分家に嫁いだので、島津の相続権は義久の末娘・亀寿のものとなりました。

「ん?17代が義弘だから義弘の息子が相続1位じゃないの?」という疑問の方・・・当然です^^;

天正14年(1586年)の九州征伐で島津は降伏~~16代当主は隠居し、弟が家督を継ぎます。

・・・・が、それは天下人・秀吉・・つまり豊臣政権の意向です。

島津家中:秀吉の意向なんか知るか!長男・義久様の血筋こそ島津宗家本流だ!


とはいえ、次男で17代当主・義弘が、とっても魅力ある武将なのは、皆さん御存知です。

島津家は家中分裂し「義久・義弘の二頭体制」になってしまいます。

秀吉には、仲良し兄弟だった義久・義弘の仲を裂こうという意図もありました。

とはいえ家中が二つに割れたままじゃ、不味い^^;

義久の娘・亀寿と、義弘の息子・久保(ひさやす)が結婚します。

二人は仲睦まじく「朝鮮の役」さえ無ければ・・・夫婦には子宝が恵まれたかも・・・亀寿は幸福な生涯だったはずです。

で、島津4で記事にした通り、久保は朝鮮で病死してしまいます(_´Д`)アイーン

あ、久保は別に病弱じゃないです。

清正たちが無事帰還してるから、イメージが湧かないけど、「朝鮮の役」は慣れない海外での長期戦闘のためか、武将たちの病死が多いんです。

久保は父に似た猛将タイプで、朝鮮の戦地でも活躍してたの^^

久保の弟で、後の初代薩摩藩主となる忠恒(ただつね)は、このころまで優雅ニート生活してました。



島津忠恒(ただつね)イメージ画像

だってアニキいるんだよ。自分の順番来ないと思って、頑張るより趣味に生きることにしてた。

が、アニキの病死でラッキー自分のチャンス来た~~~

ってことで「朝鮮の役」で、さっそく武功を立てます(つまり本来は有能)

忠恒は秀吉に時期当主の指名を受けました。

ただし、条件付きで。



それが島津宗家の相続権を持つ、亀寿との結婚です。

秀吉の肝いりで結婚媒酌人は石田三成。忠恒に拒否権なしです。

さらに亀寿の意思も無視、亀寿の父・義久へも秀吉から打診は無く、一方的に決められた再婚でした。

豊臣政権は「嫡流(長男)ではない義弘の血筋から当主を選ぶ」という恩顧を与えることによって、島津をコントロールしようとしてました。

忠恒:なんで結婚しなきゃ家督継げないんだよ!オレ以外いないだろ!正室がアニキのお古!!6つも年上!ババァじゃねぇか!


亀寿には美人説と不美人説があって、不美人説が主流のようですが、別段、根拠はなさそうです。

プライドの高い忠恒は、自分より格上の妻が不満だったので、亀寿に指1本触れず顔すら合わせようとしませんでした。

もっとも亀寿のほうも、元から忠恒を好んではいなかったかもです。

何せ再婚は秀吉の命令で、当人同士の意思はガン無視なんです。

意に沿わぬ正妻でも「家督を継ぐ条件」では、離婚は絶対できない。

叔父にあたる義久(16代当主)が健在では、側室も持てない。 

ストレスたまりまくりの忠恒は、酒で紛らせてたようで、父・義弘(17代当主)に注意されてます。



秀吉の死後、忠恒が親豊臣派の筆頭家老・伊集院を惨殺したのも(結果として庄内の乱を引き起こす)

家康に積極的に近付こうとしたのも、豊臣に見切りをつけただけでなく、

そもそも亀寿との結婚を命じた豊臣政権に、好意を持てなかったのが遠因かもしれません。

義久(叔父で舅)と義弘(実父)の晩年の悩みとなった子供たち・・・

亀寿にとって悪夢の結婚生活が始まるのですが、それは またの話^-^

**********************************************

あ~~~~~~~なんちゅ~ザックリとした説明だぁ~~~~~オタ心がシャウトしそう~~

もっとコアでマニアックに書きたい~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

てことで書き足りなかった部分は「島津別伝・薩州家偏」で行きます~~~~~~~byシオ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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