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【改易】薩州島津家18・栞歴26

戦国・・・欲望の祭典は終わった。天下統一の後にあるのは、生き残るための椅子取りゲーム。

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」「参照サイト・戦国島津の女たち」^^/

参照サイト「戦国島津の女たち」URL
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html



薩州家7代目忠辰・・・彼は「九州の役」で、島津宗家より一足早く降伏し、秀吉の先導役も引き受けた。

それを喜んだ秀吉から薩州家は領地安堵の朱印状を貰い、そのことが忠辰の独立志向を強めたのだろう。

豊臣政権に配慮し、忠辰は「島津姓」を遠慮し「和泉姓」を名乗ったんです。

だが肝心の秀吉は「薩州家を島津宗家から独立した大名にしよう」などと、微塵も考えていなかった。

九州を「唐入り」の前線基地と捉えていた秀吉は、九州の統治が無用に混乱することを嫌ったからだ。

いざ「唐入り」が始まると、忠辰には「島津家臣の一員として動員命令」が下った。

忠辰は「島津義弘と別にして欲しい」と申し出るが、もちろん秀吉の答えは「NO!」

んなことしたら島津の動員兵力が減っちゃうじゃん!

このころの島津家は「16代目義久派」と「17代目義弘派」に分かれて反目しあっていた・・・

ってされてるが、果たしてそれほど単純な色分けだったかどうか・・・(悩~

一つだけハッキリしているのは「宗家17代目義弘(弟」は「16代目義久(兄」から「正規の家督相続を受けてない」ってことです。

忠辰の生母・御平は16代義久の長女。そういった立ち位置から行くと「義久派」になる。

正規の家督相続を受けていない次男から命令を受けるのも、薩州家としては愉快なことではなかっただろう。

結果として忠辰は、義弘の命を拒んで「病」と称して引っ込み、戦をサボタージュした。

忠辰のサボタージュは「唐入り」に超夢中~秀吉の逆鱗に触れた、今風に言うと地雷踏みました

1592年(文禄元)12月31日~師走の慌ただしい日に御平と忠辰妻子への名護屋連行命令が下る


忠辰を取り調べる間の人質でした・・・

1593年(文禄2)5月1日~薩州家の改易処分が決定!

御平の三男・忠清、五男・忠富・六男・忠豊が小西行長に連行され、宇土に送還

名護屋にいた忠辰の妻子は処刑

同年8月27日~小西行長預かりだった忠辰は、朝鮮の加徳島にて病没


忠辰の死には自殺説と毒殺説があります。
毒殺説の犯人?もち殺るのは島津宗家ですよ。
島津に関する噂で「誰かを毒殺する時」には「一緒に杯を交わす家臣に因果を含めて死んでもらう」ってのがある。
相手が油断するように「一緒に毒杯を飲む役目」で、もちろん妻子には相応の見返りを約束します。(その辺は義理堅く約束守る島津宗家)
まぁホントに病死かもだけど^^

生母の御平は16代義久長女であることが考慮され薩摩へ戻される

自分だけ助かっても喜びや安堵なんてゼロだろうなぁ・・・どれほど苦渋の思いだったことか・・

龍伯公(=義久)御譜より

公儀(豊臣政権が薩州家を)断絶の事に候えば、重く見て右一筋(一族)を御取り立て成るまじき由

島津宗家という家(伊作系になってから)は、いかなる理由があっても宗家の意向に逆らった分家・家臣は絶対に赦しません。

それが「薩摩藩士は上に従う」という強固な士風を作った元の一つなんです。

戦国時代・・・分家や配下の国人に散々、散々~~~苦労した島津宗家の断固たる・一貫した態度で、それは幕末の「寺田屋事件」などにも垣間見えます。

その後の御平の子供たちですが、預かり先の関ヶ原で小西行長が敗北し改易になるのでバラバラになります。

★6男・忠豊~完全に消息不明です。

★4男・忠栄~薩州家の人質として細川家預かりだったんですが、薩州家改易後は小倉を出て佐土原の島津豊久を頼りました。
関ヶ原で豊久が戦死すると、亡き家久長女と組んで佐土原領を狙った(らしい)ので、旧豊久家臣が一揆を起こし佐土原にいられなくなって義久に泣きついて、母・御平の領地を受け継いだ。
寛永年間に死亡するんだけど、宇喜多秀家公が潜伏してた牛根で没してます^^

★5男・忠富~小西の元を早々に脱走し朝鮮の義弘の元に駆けつけて従軍した。
その功績で頴娃氏の家督を継ぎ、のちに入来院の婿となって入来院を名乗り、実の孫に入来院を、養嗣子である鎌田政近の四男に頴娃氏を継がせています。
御平の最期を看取ることが出来たのは、この5男だけでした。

★3男・忠清~小西の元で小西家臣の娘と結婚~一男・一女を授かる。
小西改易後に加藤清正を頼るが慶長14年(1609年)12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻った。
その娘が島津忠恒の側室(亀寿死後は継室)となり、薩摩2代目藩主光久を産む。
男子は新納家(支流)の家督を継いだ。
ただ・・・忠清の奥方・隠れキリシタンだったらしく、忠清の死後に妻は種子島に流刑になってます。

「一族は取り立てるな(怒」って義久は言ってましたが、薩州家は武家として御家再興してました。

もちろん島津姓は名乗れませんが、島津家臣として残ることが出来たのは、やはり忠清娘が二代藩主の生母になった事が考慮されたのでしょう。

義虎三男・忠清の系統で別名:島津仲家という寄合衆。
義虎四男・忠栄の系統の矢柄家という一所持格。
そこから薩州二男家の栗川氏、矢柄二男家の岩越氏、支流として西川・大野・吉利・寺山・大田という家が出ているそうです。

・吉利家~実久VS伊作・日新斎&貴久の時に、伊作サイドだった薩州家分家です。
・矢柄家~一所持格は江戸初期には薩摩藩に14家しかなかった家格ですから、悪い扱いじゃありません(嬉
・大田家~関ヶ原の時に亀寿が大坂脱出する時に「身代わりになった侍女・大田於松」の本家です^-^
【後書き】
島津氏を調べるうちに(いつものごとく)深みに嵌り、薩州家を中心に宗家8代から17代までオタの戯言をシャウトしました。

島津家で国賊扱いされた分家筆頭・薩州家に関する通史は未だ出てはおらず、
バラバラなパーツをパッチワークの如く紡ぎ合わせるのは、マニアとしては非常に楽しい作業でした^-^
島津家の文献は専門家が「一生かかる」と言うほど膨大ですので、今後も新たな発見が出る可能性を秘めた家です。
いつの日にか、さらに詳細な薩州家の歴史が表舞台に出る日を期待しつつ、まずはひとまず筆ならぬマウスを置きます。
5話の予定が18話・・・4倍弱で収まって良かった・・・一時は終わらなくなったらどうしようかと・・・大爆
次回からは関ヶ原の話です。それは・またの話 by^-^sio
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【落日】薩州島津家17・栞歴25

禁断の恋とえいば、叔父と姪のカップル・ドラマ「蜜の味」にハマってました(菅野美穂ファン)

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/


参照サイト「戦国島津の女たち」URL
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html





戦国時代の姫様の結婚は、家と家の繋がりを強化するための政略結婚が基本。

だからといって、彼女たちを「可哀想」と思うのは現代目線の感覚。

御姫様たちは実家の利権を守るために派遣される外交官。

そのために幼い頃から覚悟を叩きこまれ、家の為に働く使命と誇りを胸に嫁ぐのです。

政略結婚だけに、嫁いだ姫様にとっての幸福は「実家と婚家の蜜月」です


御平の夫・薩州家6代目である義虎は、概ね御平の実家である島津宗家に従っていたのだが、

時に独断で行動することもあったらしい。(この時期の分家は独立精神旺盛)
永禄12年(1569年)、相良氏が島津方の和睦の使者を殺害、相良・菱刈氏の連合軍が挙兵した。
これに対し義虎は詰めていた羽月城を退去し、本領の出水へ退却したため島津義久の怒りを買っている。(ウィキペディアより)

この1569年は義虎は東郷氏とガチンコしてるので、義虎は義虎の思惑があって羽月城を退去したのでしょう。

同年に大隅・菱刈氏が降伏すると、義虎は山野城を拝領しているので、宗家は薩州家にアレコレ気遣いしてたんだろうなぁ~と感じます^^;

1575年(天正4)~御平25歳~四男・島津忠栄を出産~1574年説あり


大友VS島津の「耳川の戦い」では、義虎は出水で肥後への備えとして留守番です^^

1579年(天正7)8月20日~御平29歳~五男・島津忠富(後の入来院重高)出産する


天正9年の肥後・相良氏との戦いで、義虎は先陣を務めてます^-^

1581年(天正9)~御平31歳~六男・島津忠豊を出産


戦から戻るたびに仕込んで・・・ゲホグホ・ブハ

1585年(天正13)7月25日~島津義虎が死亡。享年42(ウィキペディアだと50歳



家督は嫡男の忠辰が継ぎました。

薩州家は出水郡及び高城(たき)・水引・山野らを領し、禄高は31,900石余。

天正14年の島津軍北上(岩屋城が玉砕した時)では出水衆の派兵のみでした。

天正15年の「九州の役」が始まると、薩州家7代目忠辰は宗家16代目義久より先に秀吉に降伏している。

それだけでなく、秀吉軍の先導も務めたそうだ。

忠辰の降伏は島津が「根白坂の戦い」で敗れたことが関係しているかもです。

この戦いで御平の次男・忠隣が戦死しています。

秀吉は忠辰の降伏・先導役を務めた事を喜び、朱印状を与え領地安堵した。

忠辰は「島津姓」を遠慮して「和泉姓」を名乗ったそうだ。(出水の当て字かなぁ^^)

薩州家の人質として、御平の4男・忠栄が細川幽斎預かりとなった。

このまま何とか収まってくれれば良かったが、秀吉が朝鮮の役を始めることで、薩州家の運命が狂いだす。

義虎や実久が存命であれば、違う結末だったのか・・・それとも避けられない宿命だったのか・・・それは・またの話 by^-^sio

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【正室・御平】薩州島津家16・栞歴24

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3376680_8?1334146142

1554年(天文23)9月3日~「岩剣城の戦い」で島津義久・義弘・歳久が初陣^^

1555年(天文24)10月23日~弘治へ改元


1557年(弘治3)11月7日~薩州家6代目・島津義虎は阿久根深迫・尻無両村の間にて東郷と合戦。

義虎方の田代淡路が草道村の地頭・肬岡左近を討ち取り、白男川因幡は水引地頭・津田将監を討ち取った。

義虎方は湯田兵庫ならびに長寿寺住持・雪渓和尚ら数人戦死する。

ワンコが盗まれたのを憤り、東郷へ乗り込んで相手を殺して奪い返した湯田兵庫さんは、その東郷との戦で戦死しました^^;

諍いのキッカケの人だから、集中的に狙われちゃったかもです^^;

1558年(弘治4)2月28日~永禄へ改元~元亀天正は目の前だ~

同年4月20日~島津16代目当主・貴久~大隅国を(ほぼ・概ねザックリと)統一


蒲生さんが本城を捨てて逃げたんでウィキペディアでは「大隅統一」って表現してますけどね。

肝付も菱刈も抵抗を続けてるので、完全に制圧するにはマダマダ~手こずってます^^;

でもって、義虎なんですがウィキペディアには「父と違い早くから宗家に従い~」的な表現されてます。

が、どうもこの時期は従いつつも半独立っぽい感じです。

1563年(永禄6)~義虎は上洛し足利義輝公に御目見えし諱を拝領~義俊と改名する


すいません~~便宜上(一番好きな名前)義虎で統一してましたが、薩州家6代目はチョコチョコ改名してるんです。

それまでは島津の通字が入った陽久でしたが、義の字を拝領して義俊に改名し、次に義虎に改名します。

亡き父・実久も死ぬ直前に足利義輝に拝謁してるんですが、義虎も拝謁したんです^^

でも分家の身で、宗家の頭越しに拝謁して、偏諱まで受けちゃうって宗家的にはどうよ?!




1565年(永禄8)3月20日~義虎は長島領主・天草越前守を攻め殺し、長島を押領する


シオとしては、この長島攻撃も宗家の意向か、義虎の独断か判断つきかねてます^^;

長島攻撃は、当時島津が敵対してた肥後・相良家にとってダメージになるので、宗家の意向のような気もするしなぁ・・・

義虎と正室・御平の結婚時期は不明です。案外、この1565年くらいかもです。

そして義虎が宗家の命令に服すようになったのは、貴久(義虎の従兄弟)の孫娘・御平が嫁いでからではないでしょうか(内助の功ってやつ)

1566年(永禄9)~島津義虎と御平の間に嫡男・忠辰が産まれる~


嫡男・忠辰の生年には異説(1553年説)があるんですが、それだと御平が三つの童女^^;

義虎の代で、生母が御平以外の子供を嫡子認定は考えずらいので、やはり1566年説が妥当でしょう。

1567年(永禄10)~義虎は相良への備えとして羽月城に入ります。
同年11月23日~義虎・菱刈氏の馬越城を落とす。

馬越城を失った菱刈氏は、大口城に逃げ込むんです^^

1568年(永禄11)6月18日~阿久根東郷と合戦し味方63人が戦死する。
1569年(永禄12)8月18日~阿久根深迫村にて東郷と合戦。
     同年9月10日~菱刈氏が降伏~山野城を義虎が拝領する。


なんか、合間合間で東郷とガチンコしてますね~~^^;

1569年(永禄12)~御平は次男・忠隣を出産^^/城は拝領・子供が産まれる~いいことづくめ


次男の忠隣は4兄弟の3男・歳久の気の強~~い娘の婿養子になります。

えっと(家系図ガン見してね)義虎は、従兄弟(貴久)の長男(義久)娘(御平)と結婚し、従兄弟(貴久)次男(歳久)娘に、自身の次男・忠隣を婿養子に出してるんです。

どんだけ濃いんですか・・・・il||li _| ̄|○ il||l

1570年(永禄13)1月5日~東郷大和守重尚ならびに入来院石見守重副が、押領していた地を進上し降伏。

百次・平佐・隅ノ城・宮里・天辰・碇山・高江は入来院より進上。
中郷・高城・水引・湯田・西方を東郷より進上。

よって高城・水引・湯田・西方・京泊を義虎が拝領した。
前回話したように、東郷さんちは家久の次男を養子にします^^b

1570年(永禄13)4月23日~元亀へ改元^^/

1571年(元亀2)~御平~三男・又助(島津忠清)を出水で出産~


なんか御平の出産ペースを見るてると、義虎との仲睦まじさを感じます。

実家の島津宗家は着実に勢力を広げ、夫・義虎も宗家に貢献し領地も増える。

子供も次々生まれ薩州家の前途洋洋かに思え、御平の人生で最も充実した時期だったのではないでしょうか。

彼女の幸福が哀しみに彩られるのは、夫・義虎の死からなのだが、それは・またの話by^-^sio

参照サイト「戦国島津の女達」
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【6代目・義虎 川* ̄д ̄*川ポッ】薩州島津家15・栞歴23

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~【勝利・伊作家(相州含む】【敗北・薩州家】【(滅亡)総州家・奥州家】

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3376680_7?1333974416

●義虎の正室・御平
系図にあるように島津義久の長女。
1551年(天文20)年8月22日生まれで、夫・義虎より15歳年下です。
晩年に隅州上井ノ平に住んでいたので「御平/おひら」と呼ばれたので、それ以前に彼女が何と呼ばれていたかは解りません。

マニアック系図をガン見していただけると、義虎パパン・実久が実叔母と結婚していることに気付くと思います。

が、島津家では実叔母と結婚した人物が、もう一人います。それが島津義久です。

4兄弟長兄・義久の器量を見込んだ祖父・日新斎が、末娘の花舜夫人を嫡孫・義久の嫁がせたの。

義久と実叔母・花舜夫人との間に産まれたのが長女・御平です。

花舜夫人のことは記録が殆どないのですが、御平を産んで間もなく亡くなったそうです。

ちなみに義久の継室も血族婚で従姉妹ちゃん(種子島氏の娘でして、生母が花舜夫人の姉)^^;

日新斎と結婚した薩州家・御東からみて、御平は曾孫で義虎は妹の子になります。

もう何親等なんだかグチャグチャでワカラン~血統が濃すぎて眩暈がしそう~~~~

妻がらみといえば、1544年(天文13)8月5日に島津貴久の継室・雪窓夫人が病没している。

なんか湿っぽい空気なんで入れ替えますか~||ヽ(゚∀゚*)ノミ|Ю バタン

1545年(天文14)3月18日~島津貴久~正式に三国守護となる


この年に島津家の分家・豊州家(当主は忠広)が、(やっと)貴久と当主と仰ぎ従うことを誓います。

それまでは肝付と組んで、貴久に逆らってたんです^^;



島津貴久・晩年のイメージ画像

1547年(天文16)?月?日~4兄弟末弟・島津家久が誕生

ウィキペディアが年度間違ってるなぁ^^;

さて、家久が産まれた年に薩州⑥義虎は、御近所の東郷氏とケンカになっちゃいました。

その発端は、義虎の家来・湯田兵庫が阿久根に秘蔵していたワンコを東郷重治の家臣が盗んだ為でした。

ワンコ~~たぶん犬追物に使うために大事に育ててたんだと思います。

湯田兵庫は立腹し、東郷へ向って犬を盗んだ者を斬り殺して犬を取り返して帰った。

これにて両家は不和と成り、永禄年中までの20余年の間、国境を争うことになります。

伊作に負けた薩州は、宗家(当主・貴久)に従うようになってたので、その薩州家と東郷がガチンコになる~~~

て、ことは広義として東郷氏はアンチ宗家・・・という色分けになります。

ワンコがきっかけで抵抗を続けてた東郷家でしたが(薩州家と和解するのがイヤだった^^;)

最終的には宗家に従うこととなり、子供がいなかったことから、4兄弟末弟・家久の次男を養子に迎えます^-^

1551年(天文20)~御平の産まれた年に豊州家④忠広が死亡します。

惣領5家・ウィズ分家たち

1)総州家~奥州家に滅ぼされ断絶。
2)奥州家~当主・勝久が薩摩を出奔。
3)薩州家~宗家家督を狙った5代目実久が1553年に死亡~6代目・義虎は宗家に従う
4)相州家~2代目運久が死亡~伊作⑩日新斎の息子・忠将が継承します。
5)豊州家~4代目忠広が死亡~嫡男が死んでるので、北郷から養子を迎え伊東への備えとなる。
6)羽州家~宗家に従い大口城攻防戦で奮闘。
7)伯州家~何かやらかしたらしく勝久と同じころに当主が出奔~豊州家臣になったんで実質断絶

勝利を手にしたのは伊作島津家!以降の島津当主は伊作系の血統が独占します

1552年(天文21)6月11日~島津貴久が修理大夫に任官される


五月蠅い分家のオヤジたちも世代交代が進み、やっと島津家の力は一つに糾合されようとしていた。

だが、周辺国人たちは島津に従わず、まだまだ抵抗を続けている。

悲願の「三州統一」から「九州統一」に邁進していくなかで、薩州家の運命も大きく変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【逆襲!鮮烈の日新斎】薩州島津家14・栞歴22

ギレン実久:奥州家は何故滅んだか?

シャア日新斎:勝久が坊やだからさ( ゚Д゚)y─┛~~~

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~【(滅亡)総州家・奥州家】【(統合⇒)相州家&伊作家】VS【薩州家】

記事内呼称簡略ルール:家名+番号(〇代目)+名前(諱)
(例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久


1536年(天文5)5月1日~薩州家6代目・義虎誕生~


え~~~義虎は後に島津義久の長女・御平と結婚するんですが(汗
義虎ママンと伊作⑩日新斎の妻・御東が実姉妹であるからして(大汗
義虎から見て、正室の御平は「従兄弟(貴久)の孫娘」になります~~~~ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!

これだけ血族婚が重なると遺伝的にヤバいはずなんですが、島津に限っては「DNA良いとこどりに成功!」
「江戸期・島津暗君無し伝説」が出来るほど見事な「戦闘民族シーマンズ」を完成させました。
宗家8代目久豊か、伊作⑨久逸の遺伝ファクターが奇跡かもしれん~~~時々、家来筋妻が入るのが相乗効果なのかなぁ~


同年
3月~日新斎は伊集院を征伐し、一宇治城を落とす。
9月~大田原塁落ちる。
11月~長崎塁及び神殿塁落ちる。
12月~石谷伊賀守が日新公に降る。

1537年(天文6)
1月~竹山塁落ちる。
2月~福山・大迫の二塁も落ちたため伊集院は全て日新斎に属した。
   日新斎は続いて鹿児島に入り、犬迫に陣を布いた。
   薩州⑤実久が来て戦うと敗走して谷山に赴く。
4月~実久は加世田に在った。
   日新斎は領内での干戈が止む事無く、領民が兵役に苦しむ事を憂いて、
5月上旬に実久と会う。

日新斎「川辺・加世田を我に与えたまえば鹿児島・谷山・伊集院・吉田を実久に進上し、守護と仰いで以後は水魚の交わりなさん」と説いたが実久は聞かなかった。

同年7月10日~貴久の三男・歳久が産まれる


同年
12月?日~薩州⑤実久は自ら薩摩守護職にならん、とするが新納氏の反対にあい断念する。
同月19日~日新公加世田を攻めたが利はなく、
同付29日~夜陰に乗じて再び加世田を襲う。
     城兵は皆戦没して城は遂に落ちた。
     この際、川辺・山田の賊徒が来援していたが敗れて帰った。
     日新斎は遂に加世田五城を取った。

1538年(天文8)
3月13日~実久は貴久公と谷山紫原に戦って敗れた。
  14日~苦莘(くらら)城主・平田式部少輔宗秀が貴久公に降る。本城もまた落ちる。
24日~神前城が降ると実久の一党は皆、川辺に退去した。
  28日~日新斎公が川辺に入り故殿に陣を布く。
     高城城主・鎌田加賀守が降る。本城・平山は皆降った。
閏6月?日~貴久公は市来を征服される。
   17日~平城を落とす。
 8月28日~串木野城が降る。
 9月 1日~市来城が降り城兵らは出水に帰った。

この市来城は実久の弟・忠辰が城主でした。

市来城に篭城し貴久を迎え撃ったが、島津久定(薩州家分家・吉利)に(弓矢で)射殺されました。

どうやら、この頃になると薩州家の分家のなかには伊作サイドに走る者が出てたようです。

ちなみに、この島津久定の娘は後に伊集院忠棟に嫁ぎ、嫡男・忠真を産みます。

皆さん覚えてますか?島津編で紹介した「伊集院忠棟が島津忠恒に殺される事件」と「庄内の乱」。

久定娘は薩摩初代藩主によって、夫(伊集院忠棟)を殺され、息子(忠真)も謀殺され、自身も島津忠恒に殺されるんです(自害説あり)

華やかな表の系譜とは別の、島津暗黒面の悲しい系譜です・・・


1538年(天文8)閏6月?日~薩州⑤実久は日新斎と和睦し出水へ退く

同年7月1日~日新斎の養父で相州②運久が没する


本藩人物誌には実久が日新斎と和睦したのは不明だとしていますが、シオ検索では太文字の月日でした。

月日は多少前後するかもですが、弟の守る市来が制圧されたのが衝撃だったのではないでしょうか。


その後の実久は自ら庄内(日向)に至り、北郷・本田・豊州・肝付・禰寝らに会ってこれに応じると、

勝久公に属していた新納忠勝を山東(日向国の鰐塚山より東側の意。宮崎平野方面を指す)へ追いやってます。

そして1553年(天文22年)閏1月、実久は上洛して、将軍・義輝公に拝褐し、その帰国の途中で発病。

同7月7日に出水に帰ったのですが、22日に亡くなりました。

宗家に近かった分家・薩州家・・・その最盛期当主・実久、享年42。法名:昌岳源久大禅伯。

家督を継いだ義虎は18歳の若さだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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