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【king大友、幻の三州統一・終】相良氏、戦国名君編・完

弘治2年5月8日「大水山城没落、小原遠江守ソウイ入道打死」出典:八代日記

地図・大津山氏関連

八代日記に「大水山」城とあるのは大津山の誤記で、肥後・南関城の事でしょう。

大友から動員された鎮圧軍は1万とも2万とも言われ、謀反側鎮圧側双方で7000名に及ぶ被害があったそうです。
ですが謀反そのものは短期間で終わりました。
元城主の肥後国人・大津山氏が、城と領地を取り戻すために大友軍を先導したからです。
小原鑑元の妻子は落城と共に自害。勇将だった小原は城から出て討死しました。

府内にいた宣教師の記録によると、謀反加担の罪で大友義鎮が処刑したのは13名で、府内にある彼らの屋敷も焼き払ったとあります。
身の危険を感じた義鎮は府内館を退去し、臼杵へ政都を移しています。

処刑された者らは八代日記・現地速報によると、
弘治2年5月4日「豊州小原甚五郎殿・大津留殿(本庄・雄城、此人数大神氏成敗、七日ニ八代きこえ候)」

本庄は判らなかったんですが、それ以外は大神系氏族の者が処断されています。
雄城は、城じゃなくて人の名前で、小原と同じ豊後大神系阿南氏庶流です。

雄城治景は、亡き父・義鑑が加判衆(家老)に選んだ他姓衆(江戸時代風に言うと外様)です。
1551年3月に小原鑑元が加判衆から解任された時に、
加判衆は同紋衆(一門・譜代)が4人、他姓衆が1人で、その最後の他姓衆が雄城治景だったんです。

雄城は義鎮がキリシタン布教を許可(1553年)した時に大反対をし、
「亡国の兆し」といった意味の言葉で激しく諫言した為に、義鎮の不興を買い加判衆を解任(時期不明)されました。
大友中枢には只の一人も他姓衆出身者がいなくなり、不満を募らせた家臣らが謀反。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
雄城治景自身は謀反に加担しなかったらしく、そのまま大友家に仕えています。

人物・大友宗麟

伊予に亡命した佐伯惟教ですが、彼もまた謀反に加担したわけじゃなかったようです。
が、謀反側が佐伯を仲間にしたくて連絡を取りあってたのを咎められ、結果亡命となった。

実は佐伯家は他姓衆ながら、その優秀さを買われ大友家から特別扱いされてました。
毎年、新年の挨拶で大友家臣は御前に罷り出、居並ぶ重臣の前で主君・大友氏から祝賀の杯を受け取る儀式がありました。
他姓衆の中で佐伯氏のみが、その儀式後に大友当主自らが府内佐伯屋敷を訪れ返礼を受ける。
という、特別待遇を受けていたんです。
帰参した佐伯惟教が最期まで大友家へ忠節を尽くしたのも「わが佐伯家は格別の家である」という自負があったからでしょう。

八代から派遣された使者が豊後から戻ったのは同年5月22日です。
以後、八代日記から大友家関連記述は出ません。

相良家は、この後色々ありまして、大友どころじゃないってのが最大の理由ですが、
何より大友家が肥後直接統治を諦めたからです。

1505年から肥後に介入して半世紀・・・
菊池当主として3人を送り込んだが、どの当主にも菊池三家老は従おうとしなかった。
そして送り込んだ当主や責任者は次々と大友に対し挙兵する。
バタバタしてるうちに、南肥後三郡・相良家が戦国大名として自立完了 il||li _| ̄|○ il||l

支配しようとすればするほど拗れる肥後統治よりも、
大内義隆が死に混乱してる北九州覇権ゲッツの方が大友義鎮には魅力だったのでしょう。
以後、北肥後は菊池三家老(隈部・城・赤星)を中心とした肥後国人による自治に任された。

肥後国人たちが「豊後参り(大友の威信アピールの軍事パレード)」に参加してたかは、シオレベルでは判りませんでした。
例え不参加だったとしても、筑後のように大友直参衆が配置されている訳ではないので、強要するのは難しかったでしょう。

大友家宿願だった三州(肥後・豊後・筑後)統一は、ついに完成をみることはなく幻となった。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

10年という短い治世でしたが、名君と仰がれた相良晴広は、養父・相良義滋と実父・上村頼興の築いた地盤をしっかりと固めました。

天草を支配下に治め、分国法の原点と言われる「相良家法度」が完成したのも晴広の代。
菊池義武亡命受け入れに際しても、大友義鎮との外交関係を壊すことなく乗り切った。
その晴広は1555年に死亡し、相良家は少年当主頼房(後の義陽)の時代となる。
さらに北肥後も1556年以降は、大友による直接支配から離れ、国人による完全自治の国へと生まれ変わった。

肥後戦国の新たな局面の幕開けに、相良義陽の治世は波乱の船出となるのだが、
それは・またの話 by^-^sio
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【king大友、幻の三州統一・参】相良氏、戦国名君編20

豊後大神(おおが)氏。祖:大神惟基(おおが これもと)。通字:惟

・長男:高千穂氏(本貫地:日向国臼杵郡高千穂郷)、嫡流は三田井氏。
・次男:阿南氏(本貫地:豊後国大分郡阿南郷)庶流代表例:小原、雄城、大津留、由布
・三男:稙田氏(本貫地:豊後国大分郡稙田郷)庶流 〃 :入倉、十時、田尻
・四男:大野氏(本貫地:豊後国大野郡)   庶流 〃 :朽網
・五男:臼杵氏(本貫地:豊後国海部郡臼杵荘)庶流 〃 :戸次、佐伯、賀来、緒方

大神惟基は平安時代の人物ですが、伝説・伝承が多く明確な経歴は不明です。
嫡男の高千穂氏が相続放棄して高千穂に土着した理由も不明。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

鎌倉時代に大友氏が豊後入りした時、当然の事ながら豊後国人である大神氏族は激しく抵抗した。
だが徐々に大友氏が優勢となり、それとともに大神氏族は大友家臣団の中に組み入れられた。
大友は大神氏族懐柔のために縁組(臼杵、戸次)したり、大友家の家紋使用を許可する(同紋衆)
だが全ての大神氏族が家紋使用を許可されたわけではない。
大友家臣参入後発組は、家紋使用の許可は下りず、新参者(他姓衆)のくくりに入った。

大神系で同紋衆代表例⇒戸次氏、臼杵氏
大神系で他姓衆代表例⇒阿南氏、佐伯氏
つまり、簡単に言うとこう↓
同紋衆>>>>>超えられない身分格差>>>>他姓衆

本来は同族であった大神系武士団は、大友の定めた身分格差のために激しく反目しあうようになる。
頑張っても頑張っても、格下扱いの他姓衆サイドに、より不満が溜まるのは当然だろう。

それは、大友の軍編成にも表れた。
大友では配下の国人や他姓衆家臣に先陣を命じるんです。

先陣は非常な名誉で、損耗も激しいと同時に武功チャンスも多く、本来であれば志願してでも欲しい役目です。
が、恩賞が無いか薄いのが前提での先陣となれば、話は違ってくる。( ̄ω ̄A;アセアセ
他姓衆には、主君・大友家が過酷な最前線を自分たちだけに負わせて、本軍である同紋衆を温存しているようにしか見えない。

1550年菊池義武の謀反鎮圧の際も、最初に向かったのは、他姓衆の小原と佐伯ら。
当初は謀反側が優勢だったために、本軍である戸次ら同紋衆到着まで、一時孤軍状態だった。
謀反鎮圧後、大将の小原は肥後責任者に任命されたものの、佐伯には恩賞らしい恩賞は無かったそうだ。

これは大友家の台所事情と関係がある。
実は大友宗家の蔵入地(直轄地)は、分家より少なかったんです。
豊後平定の過程で恩賞を与えた為で、主家アルアルな話です( ̄ω ̄A;アセアセ
そのため大友宗家は家臣団のパワーバランスをとるのに常に苦労してまして、
本軍温存もあるけど同紋衆に大きな手柄を立てられると困るってのもあったんです。
(他姓衆は押さえつけ我慢させられるが、譜代や一門には恩賞ゼロって訳に行かない)

それでも20代目大友義鑑の頃はマシでした。

義鑑は家中融和のために他姓衆からも加判衆(家老にあたる役目)を選び、他姓衆の不満を抑えていました。
さらに同紋の代わりに偏諱(へんき=諱プレゼント)ラッシュ。
お蔭で通字の惟が埋没、苗字が無いと区別不可のデジャヴュ諱が量産・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

義鑑は死に臨んで嫡子・義鎮に対し「加判衆は、同紋より三名、他姓より三名とせよ」と遺言した。
が、義鎮は不仲だった父の遺言をガン無視した。

人物・大友宗麟(21代目大友義鎮=宗麟)

全権を与えられ肥後入りした小原鑑元だが、元々は加判衆でした。
義鎮は翌年の1551年3月に、まず小原を加判衆から解任した(小原: ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!)

家臣の謀反を警戒する義鎮は、一人に権限が集中するのを恐れ、加判衆との兼務を嫌った。
後年ですが道雪も筑前・立花城へ入る時に加判衆から外されています。
でも1551年当時の解任目的は、加判衆からの他姓衆排除でした。
義鎮は自分の周囲を譜代・一門からなる同紋衆で固め、
さらに同紋衆でも自分の意のままにならない者は「謀反の過度有り」と処刑した(1553年・府内の乱)
他姓衆にとって、新当主・大友義鎮誕生は「恐怖政治」の幕開けだった・・・


( ̄ko ̄)<実は、豊後大神系氏族は、宇佐神宮と関わりありまして。
宇佐神宮自体は宇佐(豊前)大神氏が創ったのですが、豊後大神氏の祖には宇佐大神氏説もあるんです。

何が言いたいかって言いますと、
豊後大神系氏族は(宇佐神宮と繋がりある氏族だから)程度の差はあれ基本としてキリシタンがキライ
(キリシタン布教許可は1553年で、同年6月に宣教師の住院が府内に完成)
(大友内部で差別されたから)反抗的で、神の国に理解のない大神系氏族は「義鎮にとって獅子身中の虫」認定。

とまぁ、こういった因縁の積み重ねで堪忍袋の緒がプッツーーンした小原鑑元が、1556年5月に肥後で挙兵したのだが、それは・またの話 by^-^sio

【King大友、幻の三州統一・弐】相良氏、戦国名君編19

ウィキペディアにあるように、相良家と大友義鎮との外交関係にヒビが入る事はなかった。

相良が菊池義武の謀反に助勢したのは豊福城が目的だったとは思うが、
それはそれだ。

全てを失った菊池義武へ臣下の礼を取りづつけ、最期まで信義を貫いた相良家に対し、
極度の人間不信だった大友義鎮は個人的に好感を抱いたのかもしれない。

菊池義武自害以後は八代日記に大友関連の記述は殆どなくなる。
書く必要がないほど穏やかで良好な関係だったのだろう。

弘治二年二月十八日、
「西音寺豊州被遣候、年頭御祝儀、中間源次兵衛尉」出典:八代日記


前年に晴広が死亡し12歳の頼房(義陽)が家督を継いだのだが、
この弘治2年2月9日に13歳で元服し初名の頼房を名乗った。

年頭の祝賀に来た大友からの使者は、頼房(義陽)元服に対する修辞も述べたに違いない。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

大友にすれば、南肥後三郡・相良氏の戦国大名化は、もう止めようがないので友好関係でいる事にして、北肥後統治でイイやと妥協したのだろう。

大友宿願の三州(豊後・筑後・肥後)統一は、この時点で崩れてまして。。( ̄ω ̄A;アセアセ
てか北肥後の阿蘇氏も戦国大名化してまして。。( ̄ω ̄A;アセアセ
阿蘇氏とは色々あったが、今は親大友だから、まぁイイやでして。。( ̄ω ̄A;アセアセ

とにかく大友家臣にして肥後現地担当責任者(大友用語で肥後方分)小原鑑元の元で、
北肥後国人衆が静か~~な状態なら許容範囲な感じ。

だが北肥後統治は、そう甘いものじゃなかった・・・・

1556年(弘治二年)今度は小原鑑元が謀反を起こす
後の世に言う「姓氏対立事件」です

相良家も驚いただろう。2月に大友から年賀の挨拶を受けたばかりなのだ。

相良家も巻き込まれる事になるのか、
とにもかくにも八代から飛脚が豊後へ派遣され情報収集にあたってます。

豊後から八代へ第一報が届いたのは5月7日、
「5月4日、豊州小原甚五郎殿・大津留殿(本庄・雄城、此人数大神氏成敗、七日ニ八代きこえ候)」とあります。
()内は、小文字で書かれた注釈部分で、日付の詳細は、後から知って書き加えたかもです。
( ̄ko ̄)<成敗された地は大友家首都・府内でつ

えっと~八代日記だけの記述だと、謀反に至った背景がスコーーンと抜けてるので、
(相良に関係ない事だから、知ってても記述しなかったかも)
僭越ながらシオが説明します 川* ̄д ̄*川ポッ 

小原鑑元が挙兵し立て籠もったのは、肥後の南関城です。(下図参照)

地図・大津山氏関連

ピンク四角で囲んだ部分で、見て解る通り肥後と筑後の国境近くにあります。

大津山氏ってあるのは、元々は肥後国人・大津山氏の城(旧名「つづら嶽城」)だったからです。

大津山氏は菊池義武の謀反時に、菊池に加担したために領地・城を没収されちゃったの。

で、その後に城督(今風に言うと方面軍司令官)として小原鑑元が妻子伴い入城。
合わせて肥後の方分(室町幕府風に言うと守護代が近い)に任命。

城は手直しされて「つづら嶽城」から「南関城」と改名されてました。

城督と方分の職制としての優先順位は解りませんが、
とにかく小原鑑元は、大友から肥後統治における全権を与えられた事になります。

その小原が謀反しちゃったのだから、
万が一にも飛び火したら北肥後が大炎上するかもの(大友にとって)ピンチだったんです。

挙兵は肥後ですが、根っこの対立は大友家内部の問題でした。

謀反加担の咎で処断された家臣の多くが、豊後大神氏系武家。

大友家臣団の分類ですと、新参や国人領主出身から構成される他姓衆になります。

豊後国における最大氏族、豊後大神氏。そこから派生した氏族は37氏!

主な氏族一覧~スルー可
阿南氏、臼杵氏(戸次氏、佐伯氏、緒方氏)、大野氏、稙田氏、三田井氏、朽網氏、大津留氏、橋爪氏、高知尾氏、賀来氏、野尻氏、三重氏、田尻氏、野津原氏、高千穂氏、堅田氏、高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、太田氏など


豊後大神氏と大友氏の対立は、はるか鎌倉時代にまで遡るのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【King大友、幻の三州統一・壱】相良氏、戦国名君編18

鎌倉時代、幕府の命で遠国の九州は三人衆が治めていた。

少弐氏が筑前・豊前・肥前の三州で、戦国の現在は没落街道驀進中。
島津氏が薩摩・大隅・日向の三州で、戦国の現在は大隅統一やり直し中
大友氏が豊後・筑後・肥後の三州で、戦国の現在は本シリーズ読んでネ^^b

島津の「三州(薩摩・大隅・日向)統一」っていうのは、鎌倉時代と同様の勢力回復を目指すって事です。

で、大友は大友で「三州(豊後・筑後・肥後)統一」が宿願だったんです。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

まぁ豊後は本貫地だからして、御家騒動・親子不和で大友家中が揉めるのは平常運転。

それはさておき、まずは筑後支配から。

これも国人が言う事を聞いてくれないから、手こずる手こずる。

特に筑後星野氏の謀反には、大友義長(19代目)義鑑(20代目)の二代に亘る当主が悩まされました。

とにかく何とか筑後の謀反は鎮圧され、筑後には大友直参「高一揆衆(二十五家)」が置かれています。

筑後で最も勢力のある蒲池氏は、上蒲池と下蒲池に分けて懐柔。

筑後国人・十五家は大友に従い「豊後参り(大友の軍事パレード)」に強制参加。

「豊後参り」不参加の者は「謀反人」として処断された。

大友家最盛期である大友義鎮(21代目・宗麟)の頃には、大友による筑後統一は完成していました。

地図・筑後
(筑後関連地図)

次は肥後~肥後~(*´○`)o¶~~♪

経過ぶっとばして、とにかく室町時代における肥後守護職は菊池家でした。

菊池家が盤石であれば、大友家といえども無法な手出しは出来なかったでしょう。

が時代の推移とともに御約束の肥後守護職・菊池家衰退( ̄ω ̄A;アセアセ

【肥後へ最初の家督介入】
大友家が菊池家の家督に介入したのは1505年の事です。

大友義長は縁戚である阿蘇惟長を菊池当主として送り込んだのですが、
菊池三家老(城・赤星・隈部)が従わずo( ̄Д ̄θ★ケリッ!

阿蘇惟長が出戻ったせいで阿蘇氏宗家が一時期二系統に分裂します^^;

【肥後へ二度目の家督介入】
空位になった菊池当主に、菊池庶流託摩氏から武包が当主として送り込まれた。

これは最後の菊池当主である義武が元服するまでの仮の措置でした。

1520年に義武が15歳で元服すると武包は家督を譲っています。
(というか譲らされたが正解かも^^;)

【大友に対する最初の肥後国謀反】

1523年、大友の介入を嫌った肥後国人が前当主・武包を担いで蜂起。

リベンジは失敗し、武包は肥前へ亡命、さらに島原へと行き、1532年2月13日に死去した。

【大友に対する2度目の肥後国謀反】

1534年、大友が送り込んだ菊池当主・義武が自立を望んで挙兵。

この時は義武が大内義隆とタッグを組んでた為に「大内VS大友・勢場ヶ原の戦い」にまで発展した。

肥後鎮圧のために大友本軍は出陣しており、留守兵が大内と激突。

総大将討死という事態にまでなりつつも、何とか大内勢を撃退した。

この事態に流石の大友家も「肥後と北九州の二兎を追う」を断念。
大内義隆と和睦し、北九州から撤退、少弐氏への支援から手を引いた。

謀反鎮圧後に肥後守護職は大友義鑑が補任。
肥後支配の大義名分は大友のものとなる。

【大友に対する3度目の肥後国謀反】

1550年、大友義鑑が御家騒動で死ぬと、菊池義武がリベンジのために再挙兵。

ですが義武本人が肥後国人の衆望を得ることが出来ず、結局は鎮圧されました。

肥後国人にとっては、義武だろうが義鎮だろうが、しょせん大友同士の揉め事ですから^^;

大友義鎮は謀反鎮圧に功績のあった大将・小原鑑元を肥後方分に任じた
※「方分」は大友独自の地位で、ほうぶんorかたわけ、と読み方もハッキリしていない。
職分も研究者によって解釈が微妙に違うんだけど、室町幕府でいうと守護代に相当する役目らしく、
一地方行政官とはいえ権限は「行政・司法・警察」の全てで大きい。
大友家では肥後国人衆に対し「小原鑑元の寄子(よりこ)として、その命に従うように」と通達している。

だが、もはや遅かった・・・肥後国のうち、南肥後三郡(水俣・八代・球磨)の相良家が既に戦国大名として自立。
相良晴広は独立した勢力として、大友からの「菊池義武の身柄引き渡し要求」を最後まで拒み抜いた。
相良家を従わせる事が出来ず、止む無く大友家では偽りの和睦案で義武を釣って自害に追い込むという、小細工をする羽目になる。
しかも、その後に相良家へ「義鎮は何も知りませんでした。」と言い訳までしている。

この時点で、大友の肥後統一は頓挫しており、残るは北肥後だけだったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

【肥後の名門、菊池義武の最期・終】相良氏、戦国名君編17

謀反で揉めた叔父を偽りの和睦案で誘き寄せて始末する。

それは、かつて相良晴広の義父が用いた手法だ。

大友義鎮の和睦案を承諾し豊後へ帰参する。
という菊池義武の言葉を聞いた時に、相良晴広の脳内には「罠」と浮かんだ事だろう。

だからといって義武の行動を止めなきゃならない理由も確証も晴広にあるわけじゃない。

罠かどうかは、豊後へ行けば解る。
義武が生き残れるかどうか、後は本人の天運次第なのだ。


相良晴広は戦国人らしく、自分の胸中と折り合いをつけたに違いなく、
相良が義武に対し「親切心」を発揮したのは、義武の天運に対し同情した後からだろう。

何故なら、死んでも生きても八代を出さえすれば、
菊池義武は相良家にとり人畜無害な存在になるからです。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

菊池義武(入道して道誾)が、甥である大友義鎮(後の宗麟)の和睦案を受け入れる気持ちになったのは、
流浪生活への疲れもあっただろう。

が、同年8月に大友義鎮が肥後守護職に就任した事で、何より心が折れたのではないだろうか。

肥後守護職「だった」というのは、義武再起の拠り所だったはずですから。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

八代日記には義鎮就任後においても義武の事を時折、
「屋形さま(国主・守護職に対する特別な呼称)」と記載しています。

大友義鎮が肥後守護職になるって事は、室町幕府体制における形式では相良家の主君になるって事です。

アンビリーバボー~相良家の南肥後三郡は既に大友から独立した存在です。
今さら肥後守護職になるのは大友の勝手で、相良は自分の主君だなんて考えてもいないはず。

そのあたりのムカつきが、義武をあえて「屋形さま」と書いているように感じました。
(だって書いてる当時は日記だから、誰かに読まれるのは想定してないもん)
(もしくは義鎮就任後でも、相良家中では義武を「屋形さま」と呼んでた可能性大)

1554年(天文23)11月3日、屋形さまニ豊州ヨリ被遣候河尻知行として、屋形御人数河尻ニ行候

場所がイマイチ不明なんですが、とにかく大友から河尻って土地が与えられる事になり、
菊池側から家臣が先行したようです。

同3日「屋形御料人さま、晴廣さまノ大方ニ御申請候、一夜御ままり(「とまり」か?)候、大方様ヨリ御料人さまへ御きせ候分、したてきる物一、うす板二ツ、其外ニ一ツ、以上四、又鳥目十二貫ハあくる日ニ御持候、大方ヨリ御女房衆両人御礼ニ参候」

大方というのは相良晴広正室の内城の事と思われます。
義武の妻と交流があったようで、出発前の支度を用立てたみたいです。

ですが、結局は義武の妻は豊後行きに同行しませんでした。

実は大友と相良の間で「引き渡せ」「(´・д・`)ヤダ」の使者往来が頻繁だった事で、
「戦になるんじゃ・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル」って噂が立ってたんです。

その噂を慮った義武の方で、自分の妻と二男則直を相良家へ託し、自身と嫡男を伴い出立しました。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

同月7日「道誾さま上国ノ御かといて、妙見ニ御参候て、それより成願寺に御出候、さやうニ候て、又 天福寺ニ御出候て、十五日壬子豊州のことく御行候、晴廣さま・頼興さまハ成願寺ノ前ニテ御暇乞候、御料人さま同前ニ豊州ニ御登候」

相良晴広と実父・上村頼興が7日の成願寺参詣において、義武と最期の別れをしています。

「暇乞い」って記述があるので、相良家では義武に対し最後まで家臣の礼を持って接していたようです。

落ち目の菊池義武にとって、相良家での処遇は晩年のささやかな慰めだったでしょう(´;ω;`)ウッ

義武と嫡男が大友の軍勢に取り囲まれ自害したのは、僅か5日後の20日です。

相良家が知ったのは大友家から使者が来た12月5日。
「豊州ヨリ飛脚 八代ニ被遣候、道誾さま御生害、(大友)義鎮さま御存知なきよし候」

大友義鎮は義武自害には関与してなかったんや~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
と相良へ伝えてますが、ちょっと信じられないなぁ~~^^;

冒頭の前歴がある相良家なら、なおさら信じられなかったと思うが、そこは外交なんで突っ込みません。

相良に預けられた義武次男ですが、御家再興を願ったものの当然果たされるわけもなく( ̄ω ̄A;アセアセ
そのまま相良家臣となり晴広の孫である頼房の頃には、相良家重臣として菊池家は残りました。

政治的亡命者や捕虜など、預かった以上は最後まで面倒を見る。
それもまた戦国大名の度量の一つです^-^
この信義があるからこそ、家臣&配下国人が自家の命運を預けて戦ってくれる。

だから菊池義武を大友に引き渡さない、
という態度は相良家が戦国大名である為に譲れない一線だったんです。

さて大友は大友で、肥後支配は長年の宿願だったのだが、それは・またの話 by^-^sio
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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