【king大友、幻の三州統一・終】相良氏、戦国名君編・完
弘治2年5月8日「大水山城没落、小原遠江守ソウイ入道打死」出典:八代日記

八代日記に「大水山」城とあるのは大津山の誤記で、肥後・南関城の事でしょう。
大友から動員された鎮圧軍は1万とも2万とも言われ、謀反側鎮圧側双方で7000名に及ぶ被害があったそうです。
ですが謀反そのものは短期間で終わりました。
元城主の肥後国人・大津山氏が、城と領地を取り戻すために大友軍を先導したからです。
小原鑑元の妻子は落城と共に自害。勇将だった小原は城から出て討死しました。
府内にいた宣教師の記録によると、謀反加担の罪で大友義鎮が処刑したのは13名で、府内にある彼らの屋敷も焼き払ったとあります。
身の危険を感じた義鎮は府内館を退去し、臼杵へ政都を移しています。
処刑された者らは八代日記・現地速報によると、
弘治2年5月4日「豊州小原甚五郎殿・大津留殿(本庄・雄城、此人数大神氏成敗、七日ニ八代きこえ候)」
本庄は判らなかったんですが、それ以外は大神系氏族の者が処断されています。
雄城は、城じゃなくて人の名前で、小原と同じ豊後大神系阿南氏庶流です。
雄城治景は、亡き父・義鑑が加判衆(家老)に選んだ他姓衆(江戸時代風に言うと外様)です。
1551年3月に小原鑑元が加判衆から解任された時に、
加判衆は同紋衆(一門・譜代)が4人、他姓衆が1人で、その最後の他姓衆が雄城治景だったんです。
雄城は義鎮がキリシタン布教を許可(1553年)した時に大反対をし、
「亡国の兆し」といった意味の言葉で激しく諫言した為に、義鎮の不興を買い加判衆を解任(時期不明)されました。
大友中枢には只の一人も他姓衆出身者がいなくなり、不満を募らせた家臣らが謀反。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
雄城治景自身は謀反に加担しなかったらしく、そのまま大友家に仕えています。

伊予に亡命した佐伯惟教ですが、彼もまた謀反に加担したわけじゃなかったようです。
が、謀反側が佐伯を仲間にしたくて連絡を取りあってたのを咎められ、結果亡命となった。
実は佐伯家は他姓衆ながら、その優秀さを買われ大友家から特別扱いされてました。
毎年、新年の挨拶で大友家臣は御前に罷り出、居並ぶ重臣の前で主君・大友氏から祝賀の杯を受け取る儀式がありました。
他姓衆の中で佐伯氏のみが、その儀式後に大友当主自らが府内佐伯屋敷を訪れ返礼を受ける。
という、特別待遇を受けていたんです。
帰参した佐伯惟教が最期まで大友家へ忠節を尽くしたのも「わが佐伯家は格別の家である」という自負があったからでしょう。
八代から派遣された使者が豊後から戻ったのは同年5月22日です。
以後、八代日記から大友家関連記述は出ません。
相良家は、この後色々ありまして、大友どころじゃないってのが最大の理由ですが、
何より大友家が肥後直接統治を諦めたからです。
1505年から肥後に介入して半世紀・・・
菊池当主として3人を送り込んだが、どの当主にも菊池三家老は従おうとしなかった。
そして送り込んだ当主や責任者は次々と大友に対し挙兵する。
バタバタしてるうちに、南肥後三郡・相良家が戦国大名として自立完了 il||li _| ̄|○ il||l
支配しようとすればするほど拗れる肥後統治よりも、
大内義隆が死に混乱してる北九州覇権ゲッツの方が大友義鎮には魅力だったのでしょう。
以後、北肥後は菊池三家老(隈部・城・赤星)を中心とした肥後国人による自治に任された。
肥後国人たちが「豊後参り(大友の威信アピールの軍事パレード)」に参加してたかは、シオレベルでは判りませんでした。
例え不参加だったとしても、筑後のように大友直参衆が配置されている訳ではないので、強要するのは難しかったでしょう。
大友家宿願だった三州(肥後・豊後・筑後)統一は、ついに完成をみることはなく幻となった。
(相良家紋ロゴ)
10年という短い治世でしたが、名君と仰がれた相良晴広は、養父・相良義滋と実父・上村頼興の築いた地盤をしっかりと固めました。
天草を支配下に治め、分国法の原点と言われる「相良家法度」が完成したのも晴広の代。
菊池義武亡命受け入れに際しても、大友義鎮との外交関係を壊すことなく乗り切った。
その晴広は1555年に死亡し、相良家は少年当主頼房(後の義陽)の時代となる。
さらに北肥後も1556年以降は、大友による直接支配から離れ、国人による完全自治の国へと生まれ変わった。
肥後戦国の新たな局面の幕開けに、相良義陽の治世は波乱の船出となるのだが、
それは・またの話 by^-^sio

八代日記に「大水山」城とあるのは大津山の誤記で、肥後・南関城の事でしょう。
大友から動員された鎮圧軍は1万とも2万とも言われ、謀反側鎮圧側双方で7000名に及ぶ被害があったそうです。
ですが謀反そのものは短期間で終わりました。
元城主の肥後国人・大津山氏が、城と領地を取り戻すために大友軍を先導したからです。
小原鑑元の妻子は落城と共に自害。勇将だった小原は城から出て討死しました。
府内にいた宣教師の記録によると、謀反加担の罪で大友義鎮が処刑したのは13名で、府内にある彼らの屋敷も焼き払ったとあります。
身の危険を感じた義鎮は府内館を退去し、臼杵へ政都を移しています。
処刑された者らは八代日記・現地速報によると、
弘治2年5月4日「豊州小原甚五郎殿・大津留殿(本庄・雄城、此人数大神氏成敗、七日ニ八代きこえ候)」
本庄は判らなかったんですが、それ以外は大神系氏族の者が処断されています。
雄城は、城じゃなくて人の名前で、小原と同じ豊後大神系阿南氏庶流です。
雄城治景は、亡き父・義鑑が加判衆(家老)に選んだ他姓衆(江戸時代風に言うと外様)です。
1551年3月に小原鑑元が加判衆から解任された時に、
加判衆は同紋衆(一門・譜代)が4人、他姓衆が1人で、その最後の他姓衆が雄城治景だったんです。
雄城は義鎮がキリシタン布教を許可(1553年)した時に大反対をし、
「亡国の兆し」といった意味の言葉で激しく諫言した為に、義鎮の不興を買い加判衆を解任(時期不明)されました。
大友中枢には只の一人も他姓衆出身者がいなくなり、不満を募らせた家臣らが謀反。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
雄城治景自身は謀反に加担しなかったらしく、そのまま大友家に仕えています。

伊予に亡命した佐伯惟教ですが、彼もまた謀反に加担したわけじゃなかったようです。
が、謀反側が佐伯を仲間にしたくて連絡を取りあってたのを咎められ、結果亡命となった。
実は佐伯家は他姓衆ながら、その優秀さを買われ大友家から特別扱いされてました。
毎年、新年の挨拶で大友家臣は御前に罷り出、居並ぶ重臣の前で主君・大友氏から祝賀の杯を受け取る儀式がありました。
他姓衆の中で佐伯氏のみが、その儀式後に大友当主自らが府内佐伯屋敷を訪れ返礼を受ける。
という、特別待遇を受けていたんです。
帰参した佐伯惟教が最期まで大友家へ忠節を尽くしたのも「わが佐伯家は格別の家である」という自負があったからでしょう。
八代から派遣された使者が豊後から戻ったのは同年5月22日です。
以後、八代日記から大友家関連記述は出ません。
相良家は、この後色々ありまして、大友どころじゃないってのが最大の理由ですが、
何より大友家が肥後直接統治を諦めたからです。
1505年から肥後に介入して半世紀・・・
菊池当主として3人を送り込んだが、どの当主にも菊池三家老は従おうとしなかった。
そして送り込んだ当主や責任者は次々と大友に対し挙兵する。
バタバタしてるうちに、南肥後三郡・相良家が戦国大名として自立完了 il||li _| ̄|○ il||l
支配しようとすればするほど拗れる肥後統治よりも、
大内義隆が死に混乱してる北九州覇権ゲッツの方が大友義鎮には魅力だったのでしょう。
以後、北肥後は菊池三家老(隈部・城・赤星)を中心とした肥後国人による自治に任された。
肥後国人たちが「豊後参り(大友の威信アピールの軍事パレード)」に参加してたかは、シオレベルでは判りませんでした。
例え不参加だったとしても、筑後のように大友直参衆が配置されている訳ではないので、強要するのは難しかったでしょう。
大友家宿願だった三州(肥後・豊後・筑後)統一は、ついに完成をみることはなく幻となった。

10年という短い治世でしたが、名君と仰がれた相良晴広は、養父・相良義滋と実父・上村頼興の築いた地盤をしっかりと固めました。
天草を支配下に治め、分国法の原点と言われる「相良家法度」が完成したのも晴広の代。
菊池義武亡命受け入れに際しても、大友義鎮との外交関係を壊すことなく乗り切った。
その晴広は1555年に死亡し、相良家は少年当主頼房(後の義陽)の時代となる。
さらに北肥後も1556年以降は、大友による直接支配から離れ、国人による完全自治の国へと生まれ変わった。
肥後戦国の新たな局面の幕開けに、相良義陽の治世は波乱の船出となるのだが、
それは・またの話 by^-^sio
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