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番外編【鎌倉以来】石井党【頼れる味方】通史①肥前千葉氏

さて、続いて龍造寺・・・そして鍋島の覇業を支えた、とある一門を紹介したい。

その名も「石井一門」または「石井党」

何で書庫が肥前千葉氏かというと、そもそも石井氏は千葉氏に仕えていたからです。
それも肥前ではなく、関東は下総の頃から仕えた譜代家臣(=^・ω・^=)v ブイ

鎌倉中期、石井氏は下総国猿島郡石井郷に居を定めた事から「石井姓」を名乗った。

てことで再び登場の「イザコザ鎌倉~千葉氏系図」↓
系図・千葉氏(鎌倉用)

何度みてもクラクラするなぁ~鏡写し諱,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

石井氏が仕えたのは「肥前千葉」の・・・えっと宗胤⇒胤貞親子の方。

肥前千葉氏は「奪われた総領の座」を奪還するため、下総千葉と度々交戦している。
石井氏は、その肥前千葉の下総における領地「千田庄」の警固を任されていた。

肥前千葉にとって「千田庄領地」は、千葉家嫡流の証。
肥前千葉総領のみが継承する「特別な領地」で、その警護を任されていのだから石井氏は、相当の信任を受けていたようだ。
だが下総千葉氏からの圧迫が強くなり、遂に石井氏は支えきれなくなり敗れて当主が自刃した。

以前記事にしているが、肥前千葉氏は5代目胤泰の時に「総領・千田千葉氏」「庶流・肥前千葉氏」に分かれている。
ちょうど南北朝争乱の時で、離れた領地をキープするのがキツくなって分家したんです。

千田庄の警固役ということは、厳密にいうと石井氏は千田千葉氏に仕えていたのだろう。
千田千葉氏は戦には勝ったが、処世上手の下総千葉氏は「北朝に総領家は下総千葉」とチャッカリ承認されたんです ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
千田千葉は頑張ったけど、下総千葉の勢いに押され戦国時代になると完全に配下状態でした ショボーン..._φ(・ω・` )

千田千葉氏は、いずれ滅ぶか下総千葉に吸収されるであろう。
そんな歴史の流れの中で石井家は「下総千葉に仕えるのを潔良しとしない道」をとった。
父が戦死し残った嫡男は肥前千葉氏を頼り、はるばる九州へと下向~7代目胤鎮に仕えた

てことで「室町~戦国初期の肥前千葉系図」頑張って作ってて良かった (人´∀`).☆.。.:*・

家系図・肥前千葉系図・決定

で、7代目胤鎮の代に家督争いが起きて、大内のバックアップ受けた胤紹が家督簒奪8代目となる。
で、石井氏は胤鎮から、あっさり胤紹に鞍替えした ヽ(。_゜)ノ へっ?

ち・・・忠義のイメージが・・・アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

何しろ下総から肥前に引っ越して10数年たったかどうかって時期なんで、
中国地方のドン大内がバックの胤紹に靡くしか処世出来なかったんでしょう( ̄ω ̄A;アセアセ

その後、胤鎮はリベンジに成功し当主に復活すると、石井氏も胤鎮に降伏。
胤鎮は石井氏を受け入れ帰参を許した。
(最盛期を作り上げるだけの器があるなぁ)

途中経過すっとばして、肥前千葉が西と東に別れるのは・・・解ってるよね。覚えてるよね(願!!
ゴホゲホ・・・とにかく石井氏は東千葉(嫡流家)の方に仕えた。

んで、その流れで竜造寺&鍋島との関わりが深くなるんです。
ちなみに石井氏の領地・飯盛村と鍋島氏の本庄村は、お隣さんです^^b

さて、戦国時代の当主、石井忠義には5人の男子がいた

石井嫡男家/石井和泉守家(家祖:石井忠清)
石井二男家/石井石見守家(家祖:石井忠繁)
石井三男家/石井三河守家(家祖:石井義昌)
石井四男家/石井駿河守家(家祖:石井忠本)
石井五男家/石井尾張守家(家祖:石井兼清)

兄弟喧嘩・家督争いが多い戦国時代で、この「石井党or石井一門」は非常に結束が固く、それは明治に佐賀藩が無くなるまで続いた。

龍造寺隆信が当主になるときに、大いに尽力したのが石井五男・兼清^-^
江上・八院合戦編の鍋島軍で活躍した鍋島茂里、茂賢兄弟は、石井二男家の出です^-^
さらに鍋島直茂の夫人となる彦鶴姫は、嫡男家の姫君 川* ̄д ̄*川ポッ 

熱烈な恋愛結婚と言われる直茂と彦鶴姫。
ほのぼのエピソードは葉隠に残っており、二人が仲睦まじいのは事実だっただろう。
だが直茂にとり、彦鶴姫の背景にある「石井党」の力が魅力だったのは否めない。

blog_import_5042c7e76086a.jpeg
彦鶴姫「ホントは父や叔父たちの力が欲しいだけなんでしょ~
信生「いや違う!あっ助力は欲しいけど、じゃなくて、初めて会ったときは石井家の姫君だなんて知らなかったよ~
彦鶴姫「ほんと?ほんとに?」
信生「だって台所で働いてたから、家中の誰かの娘かと・・・」
彦鶴姫「イヤン 川* ̄д ̄*川ポッ」

ラブラブ逢引き中に、、、てな会話でもしてたんですかな~~( ゚Д゚)y─┛~~
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【11-4_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

筑前では大内勢に後れをとった少弐政資だが、肥前での威光は衰えていなかったようです。

文明17(1485)10月20日、仁比山社(佐賀・神埼郡)の社領を安堵する「佐賀市史」
同年12月3日、光浄寺(佐賀・三養基郡みやき町)の寺領を安堵する「佐賀市史」

といった感じで、神社仏閣の領地安堵は上位者の証明(=^・ω・^=)v ブイ
これらの資料により、少弐が肥前千葉氏に介入するだけの力があったことが覗えます。

翌文明18(1486)4月15日、弟・千葉胤盛が河上実相院に佐賀郡神野などの土地を安堵「佐賀市史・年表」
このころの千葉胤朝・胤盛兄弟は協力関係だったみたいです。

家系図・肥前千葉系図・決定
胤盛嫡男・胤棟(のちの興常)が胤朝と養子関係でしたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

同年、5月17・18日に洪水発生。
豊後・筑後・肥後の人民牛馬が多数死ぬ。


そして洪水が治まったであろう時期に騒動が起きた・・・
同年10月、行方不明だった弟・胤将が蜂起
国府(小城市)を夜襲し、千葉胤朝が討ち死にしてしまう。

謀反張本人の千葉胤将は、少弐政資が討伐に来るという噂を聞くとトンズラ・・・失礼、逐電し再び行方不明となり二度と史料に出てくることはなくなる。

このあたり、少々勘ぐりたくなる。
勘ぐり1)討伐の噂を流したのが少弐本人じゃないか?
勘ぐり2)千葉胤将を唆したのは少弐本人じゃないか?

とはいえ、これはあくまで想像の域を出ず、史料的には何も根拠のない話なので引き出しに仕舞って・・・っと。

とにもかくにも胤朝が戦死したので、千葉氏総領は胤盛の嫡男にして胤朝の養子である胤棟がなるべきで、それで千葉氏の兄弟同士過去に揉めたのは水に流れるはずだった。

が、少弐政資が肥前千葉氏の家督に介入する。
同年12月3日、少弐政資実弟・胤資と戦死した胤朝の娘と結婚し千葉氏を立てる。
千葉肥前守胤資、肥前千葉庶流にして西千葉氏の誕生の瞬間です。

千葉氏総領家は千葉胤盛と胤棟(=興常)の系譜。(`・ω・´)キリッ
その証に親子ともに、千葉家総領の名乗りである「千葉介」を名乗っています。
これは少弐政資による、肥前千葉氏の家督乗っ取り、併呑(へいどん)なのです!

少弐に反発した胤盛、胤棟親子は、大内氏を頼るため一時的に肥前を離れたのだが、それは またの話^-^




肥前千葉氏が東西に分かれたことをもって、肥前千葉氏篇を終了したいと思います。
次回よりは肥前通史②剛忠(家兼)さんの時代篇とします^-^
千葉氏嫡流の解釈が真逆になったのと過去記事の間違いなどもあり、こちらも新たに書き直しとなりますが、引き続きお付き合い頂ければ幸甚です。
何卒、宜しくお願い申し上げますm(__)m

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【11-3_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

小城市郷土史研究が進み、かつて嫡流は西千葉と言われていたのが、東千葉氏という解釈が出て、自分自身も史料入手で確認。
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
とても過去記事の補足でどうにか出来る状況ではないので、全部やりなおす羽目になってる凝り性バカです。

そんな中で、この方・・・・少弐政資は平常運転。「没落⇒復活⇒また没落」と安定の少弐クオリティ(-人-)☆彡
文明14(1482)年春、少弐政資は足利義政の勘気を蒙り、大宰府から肥前へと移る。
少弐を中興させた政資は暴慢な振る舞いをしてゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.されたのだが、
それを将軍家にチクったのは大内です( ̄ko ̄)

同年4月13日、少弐政資が神埼郡の川上社領を安堵している「川上神社文書」ので、4月の時点で肥前入りしてたと言われてます。
北肥戦誌によると佐賀与賀に城を構え、ここに拠るとあり、かつて少弐教頼が亡命のために住んだ与賀の館を利用しました。
さらに与賀神社を鬼門の鎮護としています。

(藤龍家譜)では龍造寺家氏を頼り、家氏が館を改修したとあるようなんですが、年代的に家氏が匿ったのは教頼の方で、政資を匿ったのは龍造寺康家(剛忠(家兼)パパン)だと思います。

同年10月、少弐政資は邪魔な渋川万寿丸の綾部城を攻撃し落とす。
渋川氏は筑前へ亡命しました。
九州の政庁・太宰府の長官である少弐氏は、九州探題である渋川氏と長年対立していました。
渋川単独では九州統治が進まず、室町幕府が大内に渋川を助力するように命じます。
この大義名分の下で大内氏は九州へ介入するようになったという前提あり。

少弐にとって肥前・神埼郡にいる渋川をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!することは、肥前で羽を伸ばすためにも必要なことだったんです。
怒った大内政弘が公儀へ申し立て、将軍家が御教書(=公式文書)を発布。
「近隣の御家人は渋川へ合力せよ(`・ω・´)キリッ」
この将軍家の言葉により、少弐は肥前からも亡命する羽目に・・・・トホホ

文明15(1483)少弐氏は筑前へ進出し大内勢と戦う「佐賀市史」
同年秋・少弐氏は再び綾部城を襲い渋川氏を敗走させる

室町幕府(怒!)
同年10月25日、室町幕府は渋川万寿丸に大内と共に少弐政資を討つよう命じる
歴代鎮西要略によると、文明16(1484)に大内政弘が陶弘仲をして少弐勢を筑前で撃つとあります。

徐々に旗色が悪くなる中で、まだまだ粘る少弐氏なのだが それは またの話^-^

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【11-2_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

文明9年、応仁の乱が終息し、大内が再び九州にチョッカイ出し始める。

文明10(1478)年9月、正任記によると大内政弘が豊前・筑前に侵攻、少弐政資を破り、これらを領有した。
同じく9月に肥後・菊池重朝が筑後へ討ち入り、国人を斬り従え自領とする。
肥後・菊池氏に抵抗し、星野氏は大友へ属した。

大内の侵攻を受けた少弐は、肥前には(まだ)逃げてなかったようです。

同年10月7日、佐賀市史によると大内政弘は秋月種朝等を使い、千葉胤盛を攻めさせた。
これは千葉胤盛が大内政弘からの和議条件を拒んだからです。
だって条件が牛頭山城から退去して、兄・胤朝に明け渡せって内容だったんだもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、大宰府を追い出された少弐らは、対馬に逃げてた。
同年10月12日、同じく正任記によると大内政弘は、宗貞国に対馬に入った少弐残党を討たせた。
かつて少弐政資を匿いバックアップしていた宗貞国だったが、肥前千葉氏のために対馬の兵を便利使いされることに怒って少弐から大内にシフトチェンジしてました。
筑後は菊池氏が侵攻してるし、けっこう四面楚歌ちっくな少弐政資^^;

で、少弐を大宰府から追い出した大内政弘は、博多に入りました。
同年10月23日に渋川万寿丸が博多にいる大内政弘を訪ねてます(正任記)

・・・・・文明3年の段階で、博多は少弐と大友が分領してました(海東諸国紀)
7年後の文明10年で大内が博多に入ったということは、少なくとも少弐領有の博多領は大内に接収されたのでしょう。

少弐の勢力が衰えるということは、少弐のバックアップを受けていた千葉胤盛にとってもピンチです。
頑張れ少弐!千葉胤盛のために負けないでくれたまえ!(`・ω・´)キリッ

てことで少弐粘ります。
文明11(1479)年閏9月15日、少弐政資が大宰府天満宮別当・大鳥居氏に肥前神埼荘石動村の地を安堵する(大鳥居文書)
同年11月19日、少弐政資が筑紫満門の領地を安堵する「筑紫家文書64」
家紋・少弐 ロン様作成:少弐家紋ロゴ

経緯不明ですが、少弐が大宰府天満宮別当に領地安堵するっていうことは、大宰府に返り咲いてるってことです。
大内と和睦したのかもしれません。

で、どうやら千葉胤朝(兄)と千葉胤盛(弟)も和睦し、兄が当主&河上社大宮司に復活したみたい。
文明12(1480)6月19日「河上神社文書」によると、同じ日に兄弟それぞれで河上社領を安堵しています。
が・・・文書の表現のニュアンスが兄弟で違うんです ( ̄ko ̄)
兄のほうがサラっと「知行安堵」と書いてて、弟の方が「御知行安堵」としています。
つまり兄の方が上位者なんです。

ここで思い出さなきゃならないのが、弟・胤盛の嫡男で東千葉氏初代の興常が、胤朝と養子関係だということです。
千葉興常が、いつ胤朝への養子になったかは不明ですが、両者が和睦する条件だとしたら不自然じゃありません。
胤朝には男子がいませんでしたから。

とにかく胤朝の養子である千葉興常に肥前千葉氏の家宝が譲られているので、
肥前千葉氏嫡流は西千葉ではなく東千葉氏だというのが最近の見解なんです。

一方、大宰府に復活した少弐の栄華も長くは続かなかったのだが、それは またの話^-^

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【11-1_千葉氏東西の黎明】通史①肥前千葉氏

文明4年~7年にかけて千葉氏の記録がガクっと減る。
家系図・肥前千葉系図・決定

系図をもとに整理すると文明年間における肥前千葉氏は緑枠系譜
長男:政胤は既に死亡
次男:胤朝が当主(後ろ盾:大内氏)
三男:胤盛、胤朝と争う(後ろ盾:少弐氏)
四男:胤将、謀反で担ぎ出されて現在行方不明の空気

てことで当主の椅子とりゲームは次男:胤朝と三男:胤盛の争いとなり、これがそのまま西千葉氏と東千葉氏となっていく。

対馬・宗氏が便利使いされることへの不満から少弐氏から離れて大内寄りになってしまったのだが、
博多から得る交易の利益は、少弐氏の勢威を支えていた。

文明4年9月24日には、少弐氏が杠(ゆずりは)氏に対して知行安堵状を発布している。
少弐・・・元気です(=^・ω・^=)v ブイ

文明5年に龍造寺家嫡男:豊前守家弘が、千葉胤朝から偏諱を受けて「家弘⇒胤家」を改名する。
のちに龍造寺胤家が西千葉氏に肩入れしたのは、ここらあたりに遠因があったかもです。

文明6年には西肥前の動きが活発。
・有馬貴純が大村領を併合
・西郷尚善が伊左早(諫早)を統一し、高土(諫早)城を築城する。(森山町史)

文明7年には有馬に領地をとられた大村純伊が、家臣を身代わりに潜伏したそうな^^;

で、この4年間の間に兄で当主の千葉胤朝と弟の胤盛の地位が逆転したらしい
考えられる直接の原因としては少弐氏からの圧力で、胤朝が牛頭山城から追い出された。

文明8(1476)2月3日、河上神社文書によると千葉胤盛が、神社の社領で乱暴した高木の者に「高木姓」の使用を禁止している。
元河上神社大宮司の系譜だった高木氏の一族を罰するということは、胤盛が実質の当主として振る舞っていたのであろうし、
おそらく河上神社の大宮司も胤朝から胤盛に移っていたのではないだろうか。

追い出された胤朝は、たぶん御近所の晴気城に移ったと思われる。
地図・晴気と牛頭
こんくらい近所で目と鼻の先レベルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

歴代鎮西志によると追い出された胤朝は、同年2月に藤津郡で大村日向守家親を破っているので、藤津へ勢力を広げることによって盛り返そうとしてたみたい。
てか大村は有馬からも千葉からも、やられてばっかり,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

文明9年、千葉氏は平井氏を須古に配置し、有馬・大村への備えとした(江北町史)
後に有馬へ寝返る須古・平井が、須古の歴史に登場する瞬間です(-・-)

同年10月、千葉胤盛は河上社の宝殿へ「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納める(千葉氏HP)
この棟札によると兄・胤朝を凌ぎ、弟・胤盛が当主で大宮司だったことが明瞭です。
「千葉介」は千葉氏当主が名乗るものですし|HP|・ ̄)じぃー

戦国時代で、このままで終わるはずがない。
千葉胤盛にとって微妙なことに、この文明9年に「応仁の乱」が終息しちゃうんです。
「応仁の乱」が終わるということは、ドン大内氏に余力復活するということ。

大内VS少弐、即ち、兄・胤朝VS弟・胤盛の争いが始まるのだが、それは またの話^-^

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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