秋月種実76【エピローグそれぞれの行方】
物語の時計を秋月種実降伏直後に戻したい。
九州征伐は準備命令発布を含めると1586年4月から1587年6月までの約一年に渡るのだが、秀吉九州入りが1587年の4月なので、1587年とする記述がメインとなっている。
進軍ルートは二つ。
羽柴秀長を総大将とし日向口から薩摩を目指すルートと
秀吉本軍の北九州から上陸し、肥後口から薩摩を目指すルートです。
そして九州征伐前半のクライマックスが「秋月種実の降伏」なのです。
主役を張る資格十分あるでしょ(*´艸`)
秋月が降伏したのが4月2日。
4月5日は立花宗茂が秋月の地で秀吉に拝謁し、4月10日には肥前の龍造寺家と鍋島直茂が秀吉に拝謁し、立花・龍造寺+鍋島軍は翌日11日には、秀吉本軍の先鋒軍の中に組み入れられ出陣します。
さて大友家臣は別にして九州征伐を生き残った国人領主はいません。
生き残りといえば肥前・鍋島(龍造寺)は早々に秀吉に接触し、本領安堵ゲッツ(* ̄・ ̄*)Vブイ
九州征伐・北九州における密かな勝ち組です^^b
鍋島直茂は生き残りにかけては天才的でして、関ヶ原の戦いでも早々に徳川家康の好意を得て、西軍加担でありながら(散々苦労したけど)本領安堵を獲得しています。(つまり島津と一緒)
でも奇跡の旧領復活の某大名や、本戦でも九州でも活躍の某家とか、思いっきり裏切る誰かだの、周りが目立ちすぎて、いまいち地味な鍋島家でした( ̄ー ̄A 汗フキフキ
国人で生き残ってない・・・というと誤解を招きますね。
つまり本貫地に残ることが出来た国人がいなかったんです。
例えば豊前でいうと長野氏は何時の間にやら記録からフェイドアウトで、その後が不明だし、
門司氏は毛利家臣団の中に入ってしまったりと、独立した一勢力として残れた国人は皆無です。
秋月との関連で、たびたび出る宗像氏ですが、本編でも触れましたが1586年4月に当主の宗像氏貞が病死してしまいます。
不運なことに子供が娘だけで男子がいなかった為に、当主不在で混乱のまま九州征伐に突入、「秋月降伏」との知らせに、慌てて秀吉の元へ「御家存続」を願い出たのですが、ギリギリまで島津配下だったのが祟り、あっさり却下。
秀吉にすれば「小うるさい国人領主」を潰すチャンス、認めるはずがありません。
氏貞の娘に婿養子を~~と懇願する宗像家臣の願いも却下。
家名存続は出来ないし、当主不在なので宗像神社大宮司職も宗像家の手から離れてしまいます。
宗像家は大内義隆の配下時代に、忠義を愛でられ黒川という土地を拝領していました。
だから宗像家が山口の大内館に御奉公へ行くときには、土地の名からとった黒川姓を名乗っています。
家督相続前の宗像氏貞の幼名は黒川鍋寿丸で、山口で生まれ育ったのです。
黒川と呼ばれた土地は、とっくに毛利のものとなっていますが、宗像氏貞の忘れ形見である姫君たち(3姉妹)は、そのか細い縁を頼り宗像から毛利領に移住したそうです。
(ちなみに子孫は未だに「例の祟り」を受けているというホラーな伝説は残ってるらしい( ̄ko ̄)チイサナコエデ)
秋月の本家である原田氏も、独立した国人領主としては残ることができませんでした。
なぜなら当主の原田信種もまた、島津配下でして島津が立花城を攻撃してるドサクサに紛れて、立花領の田畑を焼き討ちしようとしてたんです( ̄ー ̄A 汗フキフキ~立花に撃退されてます。
自分でも立場がヤバイのを知ってる原田信種は、本城である高祖(たかす)城の落城前に、娘である輝姫様を逃がしています。
秋月のように自分の娘を人質に差し出すくらいなら、市井の娘として生き延びることを願ったんです。
蝶よ花よと育てられた輝姫でしたが、亡命先の地元漁師と結婚し魚の行商人として生涯を終えるのです。
苦労しつつも村一番の稼ぎ手となった健気な姫君の生き様に感動した村人は、おテルの死後に「行商の神」として祀り小さな祠を立てました。
原田信種は幼少期を肥前・龍造寺家で人質として過ごし、龍造寺家臣の娘を妻にしていたので、龍造寺・鍋島コネ枠で何とか「領地安堵」は認められたのですが、肝心なトコで失敗したんです><;アウチ☆
恭順の証の一つである「領地の明細」を提出した時に「隠し田」を記載しなかったんです。
原田は秀吉の情報網を甘く見てたのでしょう・・・ほどなく領地の過少申告がバレてしまい、
領地没収になった~~~_| ̄|○ il||li がくぅ
古い名族だったので御家断絶は免れ、肥後の加藤清正の与力として配属されることになりました。
でもって朝鮮の役で原田信種は戦死し、息子が家督を継いだものの加藤清正と相性が悪く肥後を出奔。
流れ流れて九州から、はるばる東北・会津に移り住み会津藩士となって残りました。
会津藩士~~~保科様に仕えたの。
管理人が原田氏に興味を持って調べたのは、最終就職先が会津・保科家だったから。
秋月種実は1596年9月26日に京都の伏見屋敷で49歳の若さで病没しました
彼の死の二年前に大友家が朝鮮の役での失態が原因で改易・・取り潰しとなりました。
打倒大友が生涯のテーマだった秋月の胸には、様々と去来する思いがあったと推察できますが、案外と気持ちは乾いていたのでは?と、考えています。
これは管理人の憶測ですが、秋月種実が本当に倒したかったのは、父母と兄を死においやった大友宗麟と、直接に城を攻撃した戸次道雪だったと思います。
道雪は高齢のため数年前・病死し、病弱だった宗麟は九州征伐の年・5月に腸チフスが原因で亡くなります。
秋月降伏のわずか一か月後で、種実が隠居を決意したのは宗麟の死亡を聞いた時かもしれません。
秋月竜子が城井家に嫁いだ正確な月日は不明です。
九州の国分けが決定するのは6月13日なので、おそらくその前後でしょう。
まだ嫁いでいない婚約者の実家の助命を願った城井家の話は、郷土史を調べてて拾ったエピソードです。
史実か未確認でしたが、いかにも律儀な城井家らしいと思い採用し、また秋月の人質だった竜子が嫁ぐには、秀吉の許可が必要なはずなので、それらを踏まえて小説風に仕立てたのが前回での秀吉と竜子のやりとりです。
竜子のその後は豊前城井氏編をご覧ください。
管理人は秋月種実を謀略にかけては天才だと思っています。
その秋月に「生涯の敵!」と見込まれ、足を引っ張られ続けられた宗麟と道雪は不運でした・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
秋月がいなければ、北九州に手こずることが無いので、全盛期の大友宗麟の力で九州統一が完成してたいかもしれません。
不運といえば、調べれば調べるほど宗麟の嫡男・義統は気の毒でした_| ̄|○ il||li がくぅ
「偉大な父・宗麟」と「雷神だの名将だの天正の楠木正成だの」と忠義の家臣団に囲まれているために、
何をやっても義統は見劣りしてしまい、天下人・秀吉は義統を早い段階で「利用価値低い」と判断していたようです。
秋月編は筆を置き、ここから先は秋月の子供たちの話になります。
次は久々の初代藩主編、縣(延岡)藩初代藩主編です。
では恒例の それはまたの話
九州征伐は準備命令発布を含めると1586年4月から1587年6月までの約一年に渡るのだが、秀吉九州入りが1587年の4月なので、1587年とする記述がメインとなっている。
進軍ルートは二つ。
羽柴秀長を総大将とし日向口から薩摩を目指すルートと
秀吉本軍の北九州から上陸し、肥後口から薩摩を目指すルートです。
そして九州征伐前半のクライマックスが「秋月種実の降伏」なのです。
主役を張る資格十分あるでしょ(*´艸`)
秋月が降伏したのが4月2日。
4月5日は立花宗茂が秋月の地で秀吉に拝謁し、4月10日には肥前の龍造寺家と鍋島直茂が秀吉に拝謁し、立花・龍造寺+鍋島軍は翌日11日には、秀吉本軍の先鋒軍の中に組み入れられ出陣します。
さて大友家臣は別にして九州征伐を生き残った国人領主はいません。
生き残りといえば肥前・鍋島(龍造寺)は早々に秀吉に接触し、本領安堵ゲッツ(* ̄・ ̄*)Vブイ
九州征伐・北九州における密かな勝ち組です^^b
鍋島直茂は生き残りにかけては天才的でして、関ヶ原の戦いでも早々に徳川家康の好意を得て、西軍加担でありながら(散々苦労したけど)本領安堵を獲得しています。(つまり島津と一緒)
でも奇跡の旧領復活の某大名や、本戦でも九州でも活躍の某家とか、思いっきり裏切る誰かだの、周りが目立ちすぎて、いまいち地味な鍋島家でした( ̄ー ̄A 汗フキフキ
国人で生き残ってない・・・というと誤解を招きますね。
つまり本貫地に残ることが出来た国人がいなかったんです。
例えば豊前でいうと長野氏は何時の間にやら記録からフェイドアウトで、その後が不明だし、
門司氏は毛利家臣団の中に入ってしまったりと、独立した一勢力として残れた国人は皆無です。
秋月との関連で、たびたび出る宗像氏ですが、本編でも触れましたが1586年4月に当主の宗像氏貞が病死してしまいます。
不運なことに子供が娘だけで男子がいなかった為に、当主不在で混乱のまま九州征伐に突入、「秋月降伏」との知らせに、慌てて秀吉の元へ「御家存続」を願い出たのですが、ギリギリまで島津配下だったのが祟り、あっさり却下。
秀吉にすれば「小うるさい国人領主」を潰すチャンス、認めるはずがありません。
氏貞の娘に婿養子を~~と懇願する宗像家臣の願いも却下。
家名存続は出来ないし、当主不在なので宗像神社大宮司職も宗像家の手から離れてしまいます。
宗像家は大内義隆の配下時代に、忠義を愛でられ黒川という土地を拝領していました。
だから宗像家が山口の大内館に御奉公へ行くときには、土地の名からとった黒川姓を名乗っています。
家督相続前の宗像氏貞の幼名は黒川鍋寿丸で、山口で生まれ育ったのです。
黒川と呼ばれた土地は、とっくに毛利のものとなっていますが、宗像氏貞の忘れ形見である姫君たち(3姉妹)は、そのか細い縁を頼り宗像から毛利領に移住したそうです。
(ちなみに子孫は未だに「例の祟り」を受けているというホラーな伝説は残ってるらしい( ̄ko ̄)チイサナコエデ)
秋月の本家である原田氏も、独立した国人領主としては残ることができませんでした。
なぜなら当主の原田信種もまた、島津配下でして島津が立花城を攻撃してるドサクサに紛れて、立花領の田畑を焼き討ちしようとしてたんです( ̄ー ̄A 汗フキフキ~立花に撃退されてます。
自分でも立場がヤバイのを知ってる原田信種は、本城である高祖(たかす)城の落城前に、娘である輝姫様を逃がしています。
秋月のように自分の娘を人質に差し出すくらいなら、市井の娘として生き延びることを願ったんです。
蝶よ花よと育てられた輝姫でしたが、亡命先の地元漁師と結婚し魚の行商人として生涯を終えるのです。
苦労しつつも村一番の稼ぎ手となった健気な姫君の生き様に感動した村人は、おテルの死後に「行商の神」として祀り小さな祠を立てました。
原田信種は幼少期を肥前・龍造寺家で人質として過ごし、龍造寺家臣の娘を妻にしていたので、龍造寺・鍋島コネ枠で何とか「領地安堵」は認められたのですが、肝心なトコで失敗したんです><;アウチ☆
恭順の証の一つである「領地の明細」を提出した時に「隠し田」を記載しなかったんです。
原田は秀吉の情報網を甘く見てたのでしょう・・・ほどなく領地の過少申告がバレてしまい、
領地没収になった~~~_| ̄|○ il||li がくぅ
古い名族だったので御家断絶は免れ、肥後の加藤清正の与力として配属されることになりました。
でもって朝鮮の役で原田信種は戦死し、息子が家督を継いだものの加藤清正と相性が悪く肥後を出奔。
流れ流れて九州から、はるばる東北・会津に移り住み会津藩士となって残りました。
会津藩士~~~保科様に仕えたの。
管理人が原田氏に興味を持って調べたのは、最終就職先が会津・保科家だったから。
秋月種実は1596年9月26日に京都の伏見屋敷で49歳の若さで病没しました
彼の死の二年前に大友家が朝鮮の役での失態が原因で改易・・取り潰しとなりました。
打倒大友が生涯のテーマだった秋月の胸には、様々と去来する思いがあったと推察できますが、案外と気持ちは乾いていたのでは?と、考えています。
これは管理人の憶測ですが、秋月種実が本当に倒したかったのは、父母と兄を死においやった大友宗麟と、直接に城を攻撃した戸次道雪だったと思います。
道雪は高齢のため数年前・病死し、病弱だった宗麟は九州征伐の年・5月に腸チフスが原因で亡くなります。
秋月降伏のわずか一か月後で、種実が隠居を決意したのは宗麟の死亡を聞いた時かもしれません。
秋月竜子が城井家に嫁いだ正確な月日は不明です。
九州の国分けが決定するのは6月13日なので、おそらくその前後でしょう。
まだ嫁いでいない婚約者の実家の助命を願った城井家の話は、郷土史を調べてて拾ったエピソードです。
史実か未確認でしたが、いかにも律儀な城井家らしいと思い採用し、また秋月の人質だった竜子が嫁ぐには、秀吉の許可が必要なはずなので、それらを踏まえて小説風に仕立てたのが前回での秀吉と竜子のやりとりです。
竜子のその後は豊前城井氏編をご覧ください。
管理人は秋月種実を謀略にかけては天才だと思っています。
その秋月に「生涯の敵!」と見込まれ、足を引っ張られ続けられた宗麟と道雪は不運でした・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
秋月がいなければ、北九州に手こずることが無いので、全盛期の大友宗麟の力で九州統一が完成してたいかもしれません。
不運といえば、調べれば調べるほど宗麟の嫡男・義統は気の毒でした_| ̄|○ il||li がくぅ
「偉大な父・宗麟」と「雷神だの名将だの天正の楠木正成だの」と忠義の家臣団に囲まれているために、
何をやっても義統は見劣りしてしまい、天下人・秀吉は義統を早い段階で「利用価値低い」と判断していたようです。
秋月編は筆を置き、ここから先は秋月の子供たちの話になります。
次は久々の初代藩主編、縣(延岡)藩初代藩主編です。
では恒例の それはまたの話
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