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大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_6・死への招待】

********史実への道*************************
城井の降伏の取次をしたのは、実際は援軍に入った吉川広家だったそうです。
城井は僧形となり号は宗永。
吉川家文書に遣り取りの書状が残っているそうですが内容が確認できなかったのと、
大河裏フィクションなんで伝承通りで行きます^^/
***************************************

外交僧で秀吉の取次の一人だった安国寺恵瓊。
彼には交渉の成功報酬として、大名たちから多額の礼金が支払われた。

表の帳簿に出ない収入でもって、恵瓊は沢山の茶道具を買ったり、幾つもの寺院を改築・修繕・移築などを行っている。
おそらく黒田家からも恵瓊には、相応の礼金が支払われたことだろう。

「城井家との和睦」が公用(秀吉の命令)か、はたまた私用(黒田家個人の依頼)だったのか、
当事者(恵瓊)が死に、黒田家の記録も沈黙している以上、真実は闇の中である。

援軍だった吉川軍には攻撃を手加減させて、和睦の交渉は高名な安国寺恵瓊。
城井家を油断させるために、稀代の軍師・黒田官兵衛の仕掛けた巧妙な罠を、
いったい誰が見抜けるだろう・・・

城井家では、自分たちの要求(本領安堵)が通ったと信じて疑わなかった。
和睦の条件に従い、籠城に詰めていた兵士・地侍たちを、それぞれの村に帰し、
当主・城井鎮房(きのい しげふさ)の愛娘・鶴姫(13or16歳)を、官兵衛の嫡男・吉兵衛(黒田長政のこと)へ側室として輿入れさせた。

さらに喜ばしいことに、城井家の嫡男・朝房(ともふさ)の妻・竜子(秋月種実の長女)が懐妊した。
あとは、もう一つの和睦の条件「嫡男・朝房が肥後一揆・残党鎮圧に出陣すること」を果たすだけだ。
鎌倉幕府・守護職の家柄・・名族・城井家の行く末は安泰のはずだった・・・・。

1588年2月9日~足利義昭(出家して昌山道久)が将軍職を朝廷に返上・これにより室町幕府は正式に幕を閉じた
同年3月10日~黒田官兵衛による「城井家抹殺計画」が始動する

人物・黒田如水
(幸麿さん作画・今回はダークな役の黒田官兵衛)

3月上旬・城井家の嫡男・朝房が兵を引き連れて肥後へ出陣した。
到着した先の肥後では、黒田官兵衛に因果を含まれた加藤清正が待っている。
加藤清正は、この時から「(外聞が悪くて)人には言えない黒歴史」を黒田官兵衛と共有してしまう。

同年・4月8日~黒田官兵衛は城井家の分家・野仲鎮兼(のなか しげかね)を攻撃し滅亡させる
野仲家は竜子の弟・高橋元種と過去に同盟関係にあり、九州征伐の前哨戦でも豊前で抵抗を続けた。

だが黒田・吉川・小早川の攻撃により各個撃破され、已む無く降伏したものの不満が残り、本家・城井の謀反に加担していたのだ。
本家と分家で強力タッグを組んでいたのが、和睦で兵を撤退し完全に油断していたので、ひとたまりも無かった。

そして城井家では「分家の野仲家滅亡」の知らせを聞いて、初めて黒田家に騙されたことに気づいた。
再び謀反を起こそうにも、肝心の兵力は嫡男・朝房が引き連れて肥後へ出陣してしまい、留守兵しかいない。
しかも「和睦の条件」だったので、愛娘・鶴姫は黒田家の中津城内にいる!

朝房を肥後一揆の残党狩りに連れ出したのは、父・鎮房と引き離し城井谷の兵力を分散させるため!
鶴姫を黒田吉兵衛の側室にしたのは、和平のためでなく城井が抵抗できないように人質として盾にするため!
領地安堵もウソ!恵瓊の交渉も城井を油断させる為、その場限りの言葉で何もかもがウソだった!


そして黒田家から「ご息女の鶴姫は健やかに過ごしておいでです。久しぶりに親子で語らっては如何です?ぜひ中津城へ遊びに来て下さい^-^ニッコリ・・・と、招待の文が来た
家臣たちは「これは罠です!行けば黒田の者に殺されます」と必死で止めたが、
城井鎮房は「もはや逃れようも無いことならば、逃げ隠れせず招待に応じよう」と行くことを決意したのだった。

***********************************************

「義父上さま!いま何と仰せになられました?!」竜子は己が耳を疑い舅・城井鎮房に問い返した。
「明後日・・・ワシは黒田の正体で中津城へ参る・・・そなたは離縁するゆえ、実家の秋月に帰るのだ。」
舅の言葉は、竜子には余りにも無体・無常に響いた。

「義父上さま!城井の一大事に、わたくしだけが城井谷から出されるなど余りにも情けなきお言葉。」
「わたくしに何か至らぬことがあれば何なりと申し付け下さい!」
「どうか、ここで殿(竜子の夫・朝房のこと)の帰りを待つことをお許し下さい!!」
竜子の懇願は尤もなことだったが、こればかりは許すわけには行かない。

「竜子殿・・・・・・・・・・・・・息子のことは諦めてくれ・・・」
「何もかもが罠だった以上、あれが生きて戻ることは無い・・・」
「おそらくワシも中津で死ぬ・・・であれば、そなたの体内にいる赤子が城井嫡流の血を引く最後の子になるやもしれぬ」
「嫁としての務めを全うしたいと願うなら、城を出て何としても生き延びて子を産んでくれ」

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」竜子は声も無く涙を堪えるので精一杯だった。
舅で当主である城井鎮房の言葉は絶対だ。
嫁の立場で逆らうことなど許されない。
たとえ、それが悲しい知らせであっても「城井谷で待ちたい」という竜子の願いは叶うことは無いのだ。

「わかりました・・・秋月の実家に身を寄せます・・・ですが離縁ではなく城井の嫁として必ずや嫡男を産んでみせます!」
さすがの城井鎮房も、竜子の揺るぎ無い決意に「嫁の分際で・・・」と叱責することは憚られた。
とにかく、この気丈な嫁を逃がして腹の赤子を黒田家の追手から守らなくてはならないのだ。

竜子は慌ただしく身支度を整え、嫁入りの時に実家の秋月から付けられた家臣・深見に伴われて城井谷を出た。
しばらくして街道の分かれ道まで行くと竜子は「その道ではなく右へ行くのです」と輿の中から深見に命じた。

「?姫様、財部(秋月の領地・現在の宮崎県高鍋市)なれば、こっちですが?」
「日向(宮崎県のこと)へは行きません。筑前(福岡県)へ行くのです」

「筑前!豊前の隣ではございませぬか!秋月の旧領とはいえ豊前から近すぎて黒田家に見つかってしまいます!」
「良いのです。筑前に入ったら英彦山へ行きます。義姉上(竜子の兄嫁)の実家で、かつて父と盟約を交わした間柄。必ず匿ってくれます」

「それはそうでしょうが、英彦山は霊場とはいえ往時のような武力は失っております。黒田の手の者から守り切れるか・・・」深見が不安を口にすると、
「忘れたのですか?今の筑前は小早川家支配・英彦山も管理下にあります。」
「だから黒田家が英彦山に、直接わたくしの身柄を引き渡せと、要求することは出来ません。」
「まず小早川家に引き渡しの了解を得なければならないのですよ。」
「こたびの城井の対する仕様を関白殿下が領解していたとしても、城井に手こずって罠を仕掛けて滅ぼそうとしている・・・などと他家に知られたくないはずです」
「日向への道中は遠すぎて、逆に黒田家の追手に阻まれたら逃げようがありません。英彦山の方が安全です。」

深見は、竜子の言葉に「なるほど」と思うと同時に(さすがは大殿の血を引く姫君だ)と、舌を巻いた。
「さぁ、判ったのなら筑前へ行くのです。多少輿が揺れても構いません。急いで!」

生きなければ・・・何としても生きなければ・・・そして無事に赤子を産んで見せる。
産まれる赤子が滅びゆく城井家の明日への希みになるのだ・・・!
(わたくしは秋月の娘だ・・・決して最後まで生きることを諦めたりはしない・・・!)

竜子が無事、逃げたのを確認すると城井鎮房は、中津城へと出発したのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【降伏】謀反ノススメ・五【一回目】秋月種実「飛」の巻7

1559年、北肥戦誌曰く
「豊後勢は古処山を開き、佐嘉まで攻め入らんと欲し、8月28日に畠山まで陣を寄せた。」

秋月謀反1559年その2
題して「縮尺超デキトー~雰囲気伝われば(・∀・)イイ!」地図(爆

紫ライン~筑紫惟門の動き(秋月は籠城一筋)
緑ライン~大友・田北鑑生勢の動き

地図の番号は時系列順で豊後勢が山隈から畠山に移動したのが⑥
・・・なんだけど~~実は畠山の位置が特定出来なかったんです( ̄ω ̄A;アセアセ
検索でヒットするのは、かなり離れた位置の精肉店,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だから⑥の方角に関しては、まぁ肥前or筑後方向に行った?かな?ってことで^^;

何で豊後勢が佐嘉を?
って言うと、1559年この時点で大友がバックアップしてた少弐氏が事実上、滅んでるからです。
肥前・・・特に東肥前の勢力分布が変化したため、台頭した龍造寺がターゲットになった。

龍造寺にしてみれば、こんなに早く大友の兵が動くとは想定外 アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
同年、9月15日何とか和議を結んで事なきを得ました( ̄ω ̄A;アセアセ
この部分は少弐(やっと)滅亡と合わせて龍造寺隆信編の新シリーズで紹介しますね(^ -)---☆Wink

北肥戦誌曰く「(中略)大友勢は陣を返して筑前若宮庄の河底という場所へ陣を移し、古処山を伺い続けた。」

この動きが地図時系列⑦
雰囲気(だけ)地図を見ると一目瞭然の宗像エリアにあるのが「筑前若宮庄」です。
河底までは流石に特定不可( ̄ω ̄A;アセアセ

若宮町は市町村合併で「宮若市」に編成されました。
宮田町+若宮町=宮若市・・・地理音痴の道産子シオには紛らわしぃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
で、旧若宮町地図が手に入らなかったんですが、宮若市内の学校・役所関連の場所から見るに鞍手郡・鞍手町寄りになるようです。
でもって鞍手郡・鞍手町はスバリ秋月エリア

宗像氏は、エリア内に大友軍勢が駐留されて、さぞ迷惑したことでしょう・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・宗像 宗像家紋ロゴ

世間的な知名度は殆どなくて、戦国ファンの間でも立花宗茂の咬ませ役程度の軽い認識しかされかねない秋月種実。
ですが秋月種実がいなければ、少なくとも北九州戦国史は全く違ったものになる・・・と断言できるほどのキーマンです。

道雪・紹運・宗茂が、何者にも侵される事のない上質な絹の白ならば、
秋月種実は水墨画に施される薄墨のように、白にはない陰影の魅力がある・・・(人´∀`).☆.。.:*・
アニメ世代向けに判りやすいキャラで例えるなら「ガンダムの赤い彗星シャア」ポジション(管理人の思い入れ込み評価・爆)

「打倒大友」に関しては、ブレない・メゲない・諦めない
「打倒大友」のためなら、手段を選ばず・他人の迷惑は顧みない
「打倒大友」のためなら。時に膝を屈し、時に裏切る
「九州の役」で秋月が秀吉に逆らったのは、田舎者の夜郎自大ではなく「打倒・大友」の宿願を諦めきれなかったからではないでしょうか。

そんな秋月種実エリアと大友(道雪・紹運)エリアに挟まれた宗像氏は、もう気の毒としか(´;ω;`)ウッ
2ちゃんスレッド風に言うなら⇒【助けて!】大友への補償どうしよう?!【隣人がDQN】
って感じで宗像氏は秋月種実に振り回され続けます。
そして、その始まりが1559年、秋月種実・筑紫惟門コンビの謀反なんです。

さて、本題に戻って籠城に力尽きた古処山城は、筑後の田尻氏の仲介で降伏。
秋月が降伏したため、筑紫惟門も田尻氏を通じて降伏した。
筑紫がチャッカリしてるのは、降伏条件で旧領安堵を取り付けた事です。

秋月は筑紫の去就から、国人領主の戦い方を感じ取ったのではないでしょうか。
(肝心の筑紫は生粋の国人じゃないんだけど・爆)
秋月種実、大友への降伏1回目・・・次のチャンスは2年後なのだが、それは・またの話 by^-^sio

秋月種実編「飛」の巻終了~次は肥前戦国史に戻ります(^ -)---☆Wink

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【籠城】謀反ノススメ・四【一路】秋月種実「飛」の巻6

実は討伐軍大将・田北鑑生が兵を何人召集したのか、シオレベルでは不明だったんです^^;
だから勝手に「下限6千、上限1万」と推測しました。

下限は、田北本人が引き連れている本軍の他に筑後衆が参陣するので、これより少ないってのはないかと。
上限は、過去の謀反鎮圧時における兵力を参照
補足として
・仮に1万以上~2万なら、謀反鎮圧は早期解決してるはず。
・田北の軍行動が兵力分散&多方面作戦をしていない。

後世の我々は諸史料&歴史の推移から、1559年に大友は最盛期を迎えた・・・と判断できます。
当時の人々にとっても、大友は仰ぎ見る巨木のような印象だったでしょう。
そんな大友に謀反しようなどという、ハイリスクを侵す国人は極々僅か。

旧領復活がかかってる筑紫惟門と、毛利の支援で御家再興果たし、このまま大友からの自立キープしたい秋月・・・くらいのものです。
特に秋月の「打倒大友」にかけての執念と情熱は生涯ブレることはありませんでした。(←そこに惚れた管理人)

1559年1月の秋月御家再興に反応したのは筑紫惟門だけだし、
筑紫惟門の旧領復活謀反に呼応したのも秋月種実だけ。

謀反飛び火の危険性が低いとなれば、田北は一辺に両方を相手にする必要はないんです。
どちらか片方を潰せば、片方は単独で謀反し続けるのは厳しく、いずれ立ち枯れる。

田北鑑生は、まず少年当主・秋月種実を擁する古処山城を包囲した。

秋月謀反1559年
題して「縮尺超テキトー、雰囲気伝われば(・∀・)イイ!」地図(爆

紫ラインが筑紫惟門の動きで、博多を襲い筑後で大友勢(筑後衆)を破ったとこまで記事にしました。
緑ラインがキング大友家臣・田北の動きで、今は古処山城を包囲なぅ~

筑紫惟門に呼応した秋月は「籠城」一択。秋月にしては芸がない。
それもそのはず、1548生年説を採択している本記事で、秋月種実は数えで12歳。
まだまだヒヨっ子で「学問ノススメ」ならぬ「謀反ノススメ」手習いちゅぅ~

よく秋月関連の話だと、毛利元就を参考にした(学んだ?)って感じの表現を目にします。
でも種実が周防にいたのは足かけ2年ほどしかありません。
むしろ、この1559年時における筑紫惟門の行動の方が、「生きた学問?」として、よほど参考になったんじゃないでしょうか^^

さて、当主は少年でも古処山城は要害です。
秋になっても落とすことが出来ず、さすがに豊後勢に疲れが出始めた。

そこへ筑後勢・田尻親種が陣替えを進言した。
おそらく「陣を移動する」という行動によって、局面が変化するのを期待したのだろう。
田北は進言を入れて「山隈(朝倉郡筑前町)」へ陣替えした。

局面は動いた。五箇山から筑紫が出撃してきたんです。
田代(朝倉市田代)で筑紫と豊後勢が交戦★★~だが決着がつかず、これまた不完全燃焼、要領を得ないまま筑紫は五箇山へ引き上げた。

モヤンとした状況に田北は「古処山城だけでなく、一気に肥前佐嘉まで攻めちゃえ!(・∀・)ピコーン★」
と思いつき畠山(場所特定困難)まで陣を進めたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【討伐軍大将】謀反ノススメ・参【田北鑑生】秋月種実「飛」の巻5

大友用語早わかり集
【同紋衆/どうもんしゅう】
大友家の一門&譜代家臣から構成されるエリート集団。
大友家の家紋使用を許可された事から「同紋」衆と呼ばれた。
ちなみに大友家の家紋を使用するって、当時は超ステイタスだったらしい。
【他姓衆/たじょうしゅう】
要するに外様で、国人領主たちです^^/
【加判衆/かばんしゅう】
大臣。江戸幕府風に言うと「老中」みたいなもん~但し大老のような非常時独裁権はないです。
【方分/ほうぶんorかたわけ】
研究者によって解釈が違うらしいが、ザックリだと「守護代」みたいなもん。


大友義鎮が討伐軍大将に選んだ同紋衆は、田北大和守鑑生。(※田北氏は譜代家臣)
1559年当時、田北は「筑後方分」の地位にある。
田北を選んだのは筑後衆を率いるのに都合が良い・・・だけでなくVS秋月のエキスパートだからです。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

田北鑑生の生年が不明なのだが、推定で40代後半から50代前半。
諱に「鑑」の文字があることから判るように、大友義鎮の父・大友義鑑の代からの家臣だ。
単なる家臣ではなく、即金・・・もとい側近だったらしい。

「二階崩れの変(大友義鑑が襲われ、後に死亡)」による大友内部の政変を生き残るだけでなく、
大友義鎮の代で加判衆に任命され、さらには加判衆筆頭に位置するほど有能だったようだ。
その輝かしい職歴(戦績)で、最も光彩を放つのが「勢場ケ原の戦い(1534年4月6日)」における功績だ。

(諸情勢の経緯は相良編と龍造寺編で紹介してます)
亡き大内義隆が名将・陶興房に兵3000を託して、豊前から豊後に侵攻させた。
大友側総大将は、この時が初陣で血気に逸り先陣切って突撃し、陶勢に討たれてしまう。

総大将討死でパニックになった大友本陣を立て直したのが、田北鑑生(=^・ω・^=)v ブイ
田北は本陣の兵を自軍に回収するだけでなく「総大将の弔い合戦」と兵を鼓舞し、陶興房に決戦を挑んだ。
それが「勢場ケ原の戦い」です。
結果、陶勢の副将が討死、陶興房も負傷し周防への撤退を余儀なくされる。

筑後と肥後が不安定な上に、本国を脅かされた事で大友義鑑は北九州に介入するのを諦め、大内と和睦した。
この和睦で筑前の一部が大内から大友に割譲されまして、そこを足掛かりに大友は改めてジンワリ地道に勢力を広げるんです。

田北の活躍がなければ、大内と大友の和睦条件は相当不利に・・・
いや、それ以前に各地国人が大内に鞍替えて大友に反旗翻したかも( ̄ω ̄A;アセアセ

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

大友家臣でVS秋月というと、戸次道雪と高橋紹運が有名すぎて他が霞んでます^^;
その「霞んだ他」が、田北鑑生です^^;
1557年に秋月討伐で出陣した大友本軍は、道雪もいたけど田北鑑生もいました(臼杵も)
この秋月討伐時の功績で田北は「筑後方分」に任命されたの^^b

1559年の筑紫・秋月討伐で出陣した田北鑑生。
シオ的推定兵力は6千~1万、それは・またの話 by^-^sio

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【激突!】謀反ノススメ・弐【侍島の合戦】秋月種実「飛」の巻4

1559年(永禄元年)6月、大友義鎮(=宗麟)は、大内氏滅亡以来空席だった筑前と豊前の守護になる

同年11月には室町幕府の軍事出先機関である九州探題に任命
これにより大友家は、北九州を支配する大義名分を手に入れた。
金、地位、名声、名誉、前年には嫡男(義統)誕生。
大友義鎮(宗麟)は、30歳という若さで全てを手に入れた・・・まさにキングオブ九州!

筑紫惟門と秋月種実の謀反は、大友王国が全盛期を迎えた1559年年に起きた。
他の国人が大友の鼻息を窺う中で、かなりのチャレジャーですな( ゚Д゚)y─┛~~

人物・大友宗麟

謀反の狼煙に博多を兵2000で襲い、大友派遣の代官を殺した筑紫勢。
これら一連の軍事行動に対し、秋月が筑紫へ援軍を出したと言われているが、ネット上で詳細データは見つけられませんでした。
が、この後の大友軍の動きを見ると、秋月&筑紫が連携した軍事行動してたのは間違いないでしょう。

大友家が手塩にかけて保護し発展させてきた商都・博多が襲われたと知って、大友義鎮は激怒。
先陣として筑後衆を筑紫に向かわせた。

何度か触れているが、大友家の軍編成では先陣は他姓衆(外様、国人領主)が担う。
先陣は敵と一番先に交戦するので、当然手柄を立てるチャンスなわけで、本来なら買ってでも欲しい役割。

だが大友の場合は、規定路線の先陣なので、手柄を立てても格別な恩賞は期待できない。
サラリーマンが、手当がないのを承知で毎日毎日毎日・・・サービス残業するようなものだ。

先陣は敵と一番先に(以下略)で、当然兵の損耗が非常に激しい。
そのため何度も続けて先陣を務めるのが困難なほどだ。
大友の先陣は、ハイリターン(恩賞)がない、ハイリスクのみの役割となる。
従って先陣となる武将たちのモチベーションには、どうしてもバラつきが・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

でもって筑後衆が選ばれたのは、何といっても「近さ」だろう。
筑前と筑後は、現在の郡県制では福岡県にくくられているように、筑後川を挟んだお向かいさん。
場所にもよるが、女性が徒歩で移動しても、旅程(片道)1~2日ほどなんです。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

同年?月、筑後侍島(三潴郡大木町)で筑紫勢と筑後衆が激突!
(あらん、江上・八院の近くじゃないこと( ゚д゚)ンマッ!!)

大友勢・筑後衆
問註所鑑晴・・討死
星野鑑泰・・・・討死
田尻氏一族・・多数討死


大友側は大敗北を喫した・・・・・・・・・・・・

筑紫と秋月は、この勝利に酔う事は許されない。
討ち取ったのは「先陣」です。
このあとには、必ず大友本軍がやって来る!

本軍を率いる大将は、同紋衆(大友の一族、譜代家臣からなるエリート集団)から選抜される。
大友義鎮が選んだのは譜代家臣・田北大和守鑑生(たぎた やまとのかみ あきなり)

役職欄
筑前方分のちに筑後方分

大友義鎮の代で加判衆に任命、一時期は加判衆筆頭

職歴(戦績)欄・・・・それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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