再び朝鮮の役5~頼兄18・相良106・栞?

緑枠部分~南藤曼綿録より

赤国(全羅道)を攻める前に、太閤秀吉が高麗人を討ち取った手柄を示すために鼻をそいで差し出すように命令した。

諸大名はそれぞれ鼻を納め、相良家からも千八百の鼻を納めた。

太閤秀吉は納められた鼻の数を帳面に付け、京都東山の大仏殿の楼門の前に鼻を埋め、その上に五輪の石塔を立てた。

現在、鼻塚と呼んでいるのがそれである【※】

【※】京都市東山区の豊国神社門前にある史跡で、耳塚という呼称が一般的。
   古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている

慶長三年(一五九八)正月から組中の諸大名はそれぞれ古仙(固城)という所に陣を構えた。

そこへ又、広南人が大勢で攻めて来た。

組中のどの大名も激しく戦って広南人を防御した。手痛い合戦で、日本勢は数百人討死にした。相良家も六十人以上が討死にした。

このようであったが、広南人が負けて後退したので、その後は古仙(固城)の城代を柳川(立花宗茂)殿へ任せて、その他の諸大名は釜山海へ帰陣した。

「文禄の役」の時は、組リーダーの清正がガンガン進軍したので、相良兵も明国との国境あたりまで進軍していた。
(激戦だったので清正に「頼房が討死した」と早トチリされた)

「慶長の役」の時は、基本として釜山海の防備で、要請があると援軍として派兵されるようなスタイルだったようだ。

通算7年間の出陣に於ける相良勢の討ち死には47人、病死は13人、討ち取った鼻は1,800です。

南藤曼綿録には戦没者名がキチンと記載されている。

相良記事を100以上にわたり書いていた自分には、お馴染みの姓が並び一種感慨深いものがあるが、

それを全て記すのは、さすがに些末すぎるので割愛します。戦死者の皆様へ合掌~~



相良頼房公~イメージ画

文禄年間には人吉の城下町の整備が行われたらしい。

で、他家同様に相良家でも朝鮮から連れてきた者たちを「唐人町エリア」に住まわせた。

戦後に捕虜返還があるのだが、相良にいた朝鮮人が全て帰国できたのかシオには判らん^^;

ただ、捕虜返還時に母国へ帰らず頼房の元に残った者もおり、頼房が死去した時に殉死している。

1598年8月18日に秀吉が死去した事が知らされると、頼房ら諸大名は帰国することになる。

そして過去記事にあるように、帰国後に相良頼房と秋月竜子が結婚する^-^♪

大好きな武家同士が縁組によって結ばれるのは、ファンとしては非常に嬉しい^^♪

頼房には武家当主の常として側室はいるのだが、嫡男の生母は竜子なんで自分的には満足^^♪


これで相良家の「朝鮮の役」は終わった。

メチャクチャ、マニアックな話に御付き合い頂きありがとうございます^^

でもって、やっぱりマニアックな「相良家にとっての関ヶ原の役」に入ります^^

いま考えると、ここまでは「頼房の章」のままで、関ヶ原から「新章」にすべきだったかも,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

おまけに記事配分間違って、今日は短い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

蛇足は、ほどほどにして次回、相良氏【新章・関ヶ原の章】突入です。

大垣城で秋月種長と高橋元種が待ちくたびれてます~~それは・またの話^-^sio
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再び朝鮮の役3

※緑枠部分は「南藤曼綿録」よりの引用。

同二十日(慶長2年(1597年)8月)、南門をお立ちになり、赤国(全羅道)府中(全州)にお着きになった。

府中の城は説得して開城した。

府中に五日間ご滞留され、その後、府中をお立ちになり押し進まれると、奥にもチャント中城(機張?)がある。これも説得して開城した。

また、その奥にハマンという城(咸安城?)がある。これも説得して開城した。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Bunrokunoeki_shinro.JPG/250px-Bunrokunoeki_shinro.JPG
(ウィキペディアよりアバウト参考地図:コースは文禄の役の時の進軍コースです)

さて、相良家臣の中に小田又兵衛という優れた者がいました。

彼は城普請が得意で、人吉城の谷の清水石垣は彼の縄張り(設計)によるものです。

そんな又兵衛さんの朝鮮の役エピが以下の部分です^-^

それより(上記のハマンという城の)奥に大きな穴がある。

軍勢たちは様子がわからないので、その穴の口へ行こうとしたら、半弓で射られてしまい、負傷・死人が多数でてしまった。

高麗の通事(通訳)を呼び寄せて大将達が尋ねられたところ、だいたい一国分程の人数が籠もっており、男女二万人ばかりいるそうである。

兵糧と輸送馬を置き、伊東殿・秋月殿・島津殿・高橋殿・森殿・相良頼房公たちの軍勢が集まって、いかがすべきかと評議していたところ、当家(相良家)より小田又兵衛が進み出て言った。

「我々は生まれ故郷で狩猟をしますが、狸が穴に引きこもってしまったとき、焼草で穴を燻すと、煙たさに耐え難く、狸は穴の口に出てきます。
また、出てこないときは、穴の奥を燻して殺します。どうかこの穴を燻してみては。」

と言ったところ、軍勢はみな「そうしよう」と手に手に焼草を調達し、穴口に山ほどに積み立て、それに火をつけてしばらく燻したところ、三町離れた山の上に煙が見えた。

そこで、また違う穴口があるということで、上に材木を引き渡して焼草を積み上げて火をつけると、穴の中はとても動転していた。

それより一日一夜燻すと、穴の中から叫び声を挙げたように聞こえた。

さては煙たさに耐え難くて息絶えるときに、一気に呻く声だということだ。

さて、火を消して一日過ぎてから穴の口の中に入って見たところ、

中々の煙たさで耐え難かったために軍勢は退き、また三日過ぎた頃に穴の中に入ってみると,

死人たちは算木を乱したように無秩序に散らばっていた。

馬も人も、精々強いものにはまだ息を通わせているものもいた。

日本人の肺に取り付き、だんだん一町ばかり入ったところで皆逃げ出してしまい、それより奥には入らなかった。

何千人死んだかもついにわからなかった。

二万人も隠れられる穴というと、鍾乳洞かな?^^

伊東祐兵・秋月種長・島津豊久・高橋元種・毛利勝信・相良頼房・・・シオ的ドリームチーム~ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・

島津豊久と伊東祐兵は「親友」だったそうだが、朝鮮で転戦しているうちに親しくなったのだろう。
(伊東氏と島津の交戦関係を想うと、どうにも「親友」の二文字に吹いてしまうwww)

で、この年の年末から正月にかけて、蔚山で加藤清正や浅野幸長が籠城戦で死ぬ思いをするのだが、シオ的ドリームチームは、これには直接は関わっていない。

彼らは泗川から蔚山へ援軍に向かってるんですが、着いた時には敵兵は引き上げた後だったんです。

んで、することが無い~~ってことで釜山に戻ってます^-^

ちなみに蔚山には例の深水頼蔵が参加して討死し、コアなとこでは阿蘇惟善も従軍してます。

阿蘇惟善は阿蘇氏の生き残りでして、まだこの頃は浪人として加藤清正の軍に参加です^-^

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_2?1330833919

あ~~~~~~~~~~~~大名としての阿蘇氏の最期を書くの忘れてたぁぁぁ!!!!


遅ればせながら伏線回収~~~~~~~~ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

甲斐宗運の死後、阿蘇当主は惟将が死亡、その跡を継いだ惟種までが死亡と喪中のズンドコ。

家督を継いだのは、惟種の子で僅か2歳の惟光ちゃま。

惟光ちゃま&生母は、豊臣秀吉に保護を求めて僅かながらの領地を与えられ、阿蘇神社宮司としての地位も認められたが、大名としての特権は全て剥奪された。

さらに「肥後国人一揆」で、亡き甲斐宗運の息子が一揆に加担し敗れて死に、阿蘇氏筆頭家老の甲斐家も滅亡。

秀吉は肥後人に影響力のある阿蘇大宮司を潰すチャンスを狙っていたのだと思う。

1592年の「梅北一揆」で、阿蘇惟光が加担していたとして処刑(斬首)したんです。

惟光ちゃんは数え12歳の若さで、自力で旧家臣を扇動したとは思えません。

むしろ惟光が成長し、自我に目覚めて「何事かを為す」前に、その芽を摘み取ったとみるべきでしょう。

これにより阿蘇氏嫡流は断絶しました・・・・が、一人だけ生き残った子がいたんです。

それが殺された惟光クンの弟・惟善クンです。



阿蘇兄弟は、おそらく年子だと思うので、朝鮮の役の頃なら惟善は数え16歳くらいかな。

初陣が「蔚山の戦い」とはヘビーすぎる~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

でもって意外なことに阿蘇惟善は雑兵3000も率いてます。

若年&浪人が自力でそれほど集められたかチト疑問なので、加藤清正から預かった兵かもです。

預かるとすれば阿蘇氏と所縁のある肥後人だろうから、やはり阿蘇大宮司オーラの残光は侮れませんね^^

惟善も異国の戦場で相当苦労したと思われますが、阿蘇氏御家再興の夢は叶いませんでした。

その代わりといってはなんですが、関ヶ原の戦いの後に阿蘇惟善は加藤清正から所領を与えられ「神職・阿蘇大宮司」として復活するんです。

現在の阿蘇大宮司は、この惟善からの系譜です^-^

でも秀吉が往年の英気を失わず存命だったとしても、阿蘇氏の旧領復活は無理だったでしょう。

全ての宗教勢力を武装解除し、神社系武家を潰すのが秀吉の本音だからです。

阿蘇大宮司職を諦め、四国か東北あたりの領地・2~3万石程度で手を打って、家康を通じて交渉すれば上手くいけば何とか・・・ってとこでしょうか。

それでも転封の引っ越しなんかで、ウッカリ旧家臣を集めたりしたらヤバイと思う。


九州とか小田原等々で没落⇒関ヶ原で没落orリベンジ化?⇒大坂の陣でリベンジいけちゃう?・・・という流れからはチキンハート扱いで欠落してますが、

「朝鮮の役」でリベンジ「御家再興」の夢を追った若者もいたということです^-^

さて、相良の朝鮮の役も幕を閉じようとしています。それは またの話^-^

再び朝鮮の役

慶長2年(1597年)・・・相良頼房は再び「朝鮮の役」で渡海~釜山海で勤務した。

或る時、番船(敵船)が現れたとの報告に出陣し、これと交戦したのだが防ぎきれず、

同じ組の日向衆に被害が出て、さらに敵は意気揚々と巨済島に引き上げる。

猛将タイプの相良家20代目当主・頼房は、歯噛みして悔しがったに違いない。



新着・相良頼房画像^^
同年7月14日~「唐島の番船を崩すべきである」と評議して決定されたので、大名衆は出陣。

藤堂佐渡守(高虎)殿、加藤左馬介(嘉明)殿の二人を大将として、唐島に番船が三百艘いたところへ、

日本勢も船で攻め寄せて番船に乗り移り朝鮮人を一人残らず斬り捨てた。

〔敵の〕番船も防戦したが、日本勢に対して打つ手がなくなり勝負にならなかった。

頼房公は船を一番先に進ませて攻撃し、しきりに勇みたっておられたので当方(相良)の兵は勇んで進み、

がむしゃらに番船に乗り移って番船三艘を奪い取った。

頼房公が「見せしめのためにテルマを一人その船に乗せて、そのテルマの本陣に帰すように」とおっしゃるので、安骨浦へ(そのようにして)返された。

高麗では男をテルマと言い、女をカクセイと言う。

南藤曼綿録より~多少アレンジあり^^

藤堂高虎と加藤嘉明が不仲になったのって、おそらくこの時の戦いじゃないかなぁ~と思います。

頼房は、相当張り切ってたみたいですね^^

さて、全羅道へ軍勢を進める、ということで釜山海にいた頼房らへも出陣命令が届いた。

8月11日から、釜山海その他もろもろの部隊の見張り所にいる大名たちを動かして、前回(文禄の役)と同様また軍勢を進めた。

8月11日南門(南原)の城に着くと、諸大名は我も我もと陣地を取った。

15日の夜半に城を攻めた。その夜は名月で昼のように明るかったそうだ。

諸方から一斉に鬨の声を発して、がむしゃらに攻めかかった。

城からも防戦して半弓で射て軍勢を崩し、さらに石を打ってきたので負傷者や死者が数多く出た。

けれども日本勢は少しも引き下がらずに攻めかかったので、城はたまらずに攻め取られてしまった。

相良家の馬印(戦場で大将の場所を示す目印)は白い吹貫【※】なのだが、

【※】吹貫~幾条かの長い絹を円形の枠に取りつけ、長い竿の端に結びつけて風になびかせるもの

http://blog.asahi.shop-pro.jp/images/n053w.jpg
こんな感じね^^

中間(奉公人・召使い)の弥七という者が差して一番に馬印(白い吹貫タイプ)を城に掲げ上げ、南門の蔵の前に立てた。

その後諸大名がみな城に入ってきて、南原に二日滞留した。

その間諸大名衆らは「相良家に許可を得て、頼房の印判状によって八木(米)等を出した。」

これは弥七さんのお手柄です。

いの一番に相良家の馬印を蔵の前に立てた・・・つまり蔵を相良家が接収したと宣言したことになります。

従って諸侯さらが米などの糧秣を現地調達するためには、蔵を押さえた相良家に「お願い(-人-)」しなきゃならないんです。

相良家は大いに面目を施したことでしょう。

頼房は自慢げに鼻を膨らましながら書面に花押したんじゃないかしら(*´pq`)クスッ



こうして記録を見ていくと、身びいきを割り引いても頼房と相良勢はかなり活躍してますね。

むろん元々の動員兵力が少ないので、大勢に影響を与えるほどの局面ではないのですが、キッチリと戦果を挙げてます。

でも今の日本は「朝鮮の役」を正面から扱うことにチキンハートだし、

そうでなくとも島津義弘や加藤清正の活躍が派手すぎて、小大名・相良家の武功は地味になっちゃいますね^^;

これだけの働きをしてるんですから、頼房は家臣である頼兄の才覚に嫉妬する必要は全くありません。

むしろ家中で孤立しつつある頼兄にとって、頼房からの信頼のみが支えだったかもです。



頼房が朝鮮の役で活躍してる~~~~っていうのは実はサイト上でチラ見してたんですが、

中身が判然としてなくて一度調査を断念しました。

今回記事にするのに「再検索」したら「南藤曼綿録(朝鮮の役のみ抜粋)」にヒットしまして、

ネット社会の普及の恩恵に預かった次第です。

相良家の働きを見て、秋月種長が「妹(竜子)の再婚相手に~~」って考えたって不思議じゃないですよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

さてさてマニアックな「朝鮮の役」ネタですが、もう少し続きます。それは またの話^-^

再び朝鮮の役

相良家と秋月家の接点は、もう一つあります。

それは朝鮮の役です。

話を慶長4年から慶長元年に戻します^-^

豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年)に亡くなるのですが、当時一つの噂が囁かれていました。

それは朝鮮との講和の折に毒を盛られた・・・というものです。

出典は例によって「南藤曼綿録」^^/

慶長元年(一五九六)六月二十七日から朝鮮国・遊撃将軍(沈惟敬)が来朝して、講和の会談が始まった。

太閤秀吉は伏見にいたので、惟敬は秀吉に面会して講和の内容を述べ、しばらく伏見に滞在した。

その間に秀吉に近づき、毒を進上したという噂が広まった。

進上した毒は三年ほどで効き目をあらわすもので、毒を丸薬にして絶えず持ち歩き、御前で服用して見せるのである。

秀吉はこれを見て「(惟敬に)それは何か」と尋ねれば「(惟敬は)これは良く効く補薬です」と答え、

「もし秀吉が服用しても効くものであれば差し出せ」との要求に、惟敬は喜んで「いかにも年齢相応に効き目がある」と奉じて提出した。

その後、惟敬は本国に帰ったが、三年過ぎて慶長三年(一五九八)に秀吉は死んだ。沈惟敬も死んだ。

まことに大国のやり方とはいえ、人を殺そうと毒薬を調合し自分も服用して見せるとは、

深い謀略による殺人だと、そのころ世間の取り沙汰をそのまま書き記しておく。

似たような話を聴いたことあるようなぁ~~

(相良頼房の画像入荷待ち)

とにかく朝鮮との講和は破談となり再び諸大名は出陣します。

慶長元年5月、加藤清正の帰国命令に伴い、組下の頼房も帰国(共に伏見屋敷に居た模様)。

7月12日に伏見大地震。

10月、相良頼房は高麗(朝鮮国)へと渡海する。

が、風に恵まれず壱岐島で年を越すことになった。

家臣らは平戸で年越し~翌年の酉年元日から海上の天気がよくなり壱岐へと渡った。

正月3日に頼房公のもとに参上し、m(__)m<明けましておめでとございます~と挨拶。

その頃から船が進むのによい風が出てきたので、一同船出し高麗のセツカヒ(西生浦)に船が着いた。

同年の5月2日にセツカヒ(西生浦)から釜山海に移動~そこに滞在。

今度は森壱岐守殿(毛利吉成)の組で、頼房、島津叉七郎(豊久)、高橋九郎(元種)、伊東民部太輔(祐兵)と秋月種長が加わり、

この6人は釜山海で勤務することとなる。

シオ記事お馴染みの面々が勢ぞろい~~~ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・

勝手な推測なんですが、秋月竜子と相良頼房のケコーン話は、この朝鮮の役陣中で出たんじゃないかなぁ~

記憶喚起~~~秋月種長は竜子の兄~高橋元種は竜子の弟~~~

兄「相良の当主が未だ独身とは・・・」
弟「姉上と年頃もいい感じですね~」

てな会話を一人妄想してニヤニヤしておりました。,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


さて、アン高麗(安骨浦)に番船(海上警備の船)が寄って来たという報告があったので、

先の6人は皆それに向かい、まず鉄砲で打ち崩し、船からも半弓を使って激しく防いだ。

けれども防ぎきれずに数艘の番船はカラ島(唐島・巨済島)へ立ち退いた。

この時、稲留惣左衛門が討ち死にした。

日向衆(椎葉姓の者がいるので那須13人衆の手勢か?)の三人も討ち死にした。

番船というのは敵船のことです^-^

敵側の攻撃を防ぎきれず被害が出た・・・

猛将タイプ・相良頼房はリベンジに熱く燃えるのだが、それは・・・またの話^-^

独り・・・

相良家家老・犬童頼兄・・・

彼の「幸福」は、関ヶ原という戦国最高の檜舞台で、思う存分自分の器量を活かせたことだろう。

同時に彼の「不幸」は、余りにも大きな功績を立てたことだった。

彼の主君・相良家20代目当主頼房は、剛毅な猛将タイプで、家臣である頼兄の才覚に嫉妬するような狭量な人物ではない。

むしろ「ワシだからこそ頼兄を召し使う事が出来るのだ」という自負があったんじゃないだろうか。

だからこそ「ワシの死後、犬童一族をコントロール出来る者がいない・・・」と後の禍根を恐れたと推測している。

(橘朝臣幸麿さま、new頼房画像をお願い(人´Д`*)「相良長毎」で検索すると肖像画hitしまつ)

法廷からトンズラこいた深水頼蔵は加藤清正の庇護の元、第二次朝鮮の役で加藤軍に従軍して行った。

半ば自業自得なのだが、もはや相良家には深水頼蔵親子の居場所は無く、加藤清正と共にあるしかない。

同じ組(陣)に所属する相良と加藤の関係は・・・と思わないでもないが、

何しろ清正は太閤の親戚で子飼いで肥後半国の領主だ。2万石の相良家とは勝負にならない。

相良家が多少 |何か言いたそう|x・`)チラッ としてても、清正が石田三成と敵対している限りは、

三成への嫌がらせの為に深水頼蔵親子を匿い続ける(三成は深水頼蔵の捕縛命令を出してた)

てか家中の対立が外に漏れるのは、決して外聞の良いものではなく、相良家にとっても騒いで恥の上塗りは避けたいだろう。

この問題が尾を引かずに済んだのは、当の深水頼蔵が蔚山城で戦死したからです。

当事者不在では話にならない。相良家と清正の間にどうこうは無いが、清正の三成への遺恨が増しただけで終わった。

・・・・なんか三成が気の毒な気ガス・・・・ここまで嫌われるってどうなんだろう・・・

三成に限らず、権力の頂点にある者は孤独だ。

深水一族というライバルを退けたのと引き換えに、相良家中で頼兄は急速に孤立していった。

慶長2年(1597)2月・・・深水頼蔵出奔後に頼兄が東喜兵衛(主君・頼房の祐筆)に宛てた言上書には、

「諸人が憎しみを持っても、顧みない程の御奉公をするほどの人物こそ、忠貞と思し召される者だ」と書かれており、

またその翌月には、頼兄が 東・犬童・稲留の三氏宛てた書状には、

「自分には御家中では気心の知れた人は一人も居ない」とある。

魯鈍とはいえ上司に何も言わせない状況を作ったほどだから、もともと同僚としての頼兄は近寄りがたいムードがあったかもです。

それが相良家の主導権を握ったのだから、

気安く声をかけられたりとか、屋敷飲み会にも声がかかることが無くなったんじゃないだろうか。

後年の頼兄の失脚は、この孤独が招いたものだろう。

ちなみに頼兄が手紙を書いた3人が誰かなぁ~と監修様に尋ねた。

★手紙を出した相手・・・可能性として一番高いのは、頼房の祐筆・東喜兵衛(朴河内城での失態を演じた東頼一ですね)、犬童は犬童弥助、稲留は稲留宗左衛門でしょう。犬童と稲留は共に、竹下監物征伐の際の使いの役を務めています。

話の本筋には全く関係なかったんだけど、記録として残しておきたいので、ここに記します。



ん~~~なんか空気が重いなぁ~なんかパァっと騒げるネタないかしらぁ~~~~~

豊臣秀吉・・・慶長3年8月18日(1598年9月18日)に死亡


全国的に喪中でつ il||li _| ̄|○ il||lズゥゥ~ン

慶長4(1599)1月11日~相良頼房が従五位下に叙されました~~


御祝い御祝い~~φ(-ω- )カキカキ_φ( -ω-)ノ[才×〒├-]ペタッ"

同年閏3月3日~前田利家が死去~


( ゚д゚)ンマッ!

同年6月8日~秋月家の息女・竜子と相良頼房が祝言・結婚・婚儀~~


祝言~~♪同じアホなら♪ヽ(^^ヽ)♪(/_ _ )/♪踊らにゃソンソン♪

ケコ~ン~~√( ̄‥ ̄√どじょうすくい!

高砂や~へ(´∀`へ)ヨイヨイ♪(ノ´∀`)ノヨイヨイ♪

あぁ~~~~~~~~~ここまで長かったぁ~~~~~~~~~~~~~~~

やっと相良家と秋月家が繋がったぉ~~~

そもそも国人オタのシオが、相良家に目をとめたのは「秋月竜子が頼房と再婚」してたからなんです。

ネット検索では婚儀の日時も不明だったし(監修様、資料提供感謝!!)

竜子の再婚相手を探すことに超苦労(頼房から検索すれば一発なんだけどね)したのも懐かしい思い出です^^

さて、関ヶ原~その前に相良家の「第二次朝鮮の役」です^^b

それは またの話^-^
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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