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【相良頼房33_梅北一揆1・勃発】

事件は再び肥後で起きた!
文禄元年(1592)年6月~朝鮮の役で出陣中の加藤清正の留守を狙って、一揆が発生!
首謀者は島津家臣・梅北国兼(推定年齢50~60代)大隅国湯尾地頭~得意分野・水軍!
出展元・宮之城島津氏編纂『征韓録』~島津義久主朝鮮渡海恩免之事(附)家臣梅北一揆之事より


梅北家は大隅国人・肝属氏庶流で、南北朝時代では島津家と敵対していました。
戦国期に島津配下から⇒家臣団に組み入れられたわけですが、
地頭という立場+世代などを鑑みると、梅北国兼には国人気質・体質は色濃く残ってたと思います。

結果から言うと「一揆は鎮圧」されるのですが、梅北の犯行動機には諸説あり、さらに一揆後の影響が大きいこともあり、謎の多い「事件」です。


某町の某郷土史家(つまり誰か忘れた^^;)は「島津義久による教唆」を匂わせています。
その傍証として「義久の元へ、梅北の部下が使者として、一揆失敗の報告をしたが、使者は極秘のうちに消され関わりは無かったものと揉み消された」事実を挙げている。
(出展元記載なし、郷土資料か?)

道産子の自分が物申すのも憚られるが、少し勘ぐりすぎだと思う。( ̄O ̄A 汗フキフキ
教唆しようがしまいが「失敗した一揆の首謀者からの使者」が来たら、即始末するに決まってる。
それに「義久教唆説」が弱いと感じるのは「国人を扇動するリスク」が考慮されていないからです。

一揆の扇動なんてリスク恐れずヤッチャうのは、東北の誰かさんのような怖い者知らずの若い世代のやること。
50代後半以上の年齢の戦国大名なら、国人の扱いに散々散々さん~ざん、苦労して骨身に沁みてます。
敵を攪乱するために「敵側の国人を扇動する」ことはあっても、「自国内の国人(半ば家臣化してるとはいえ)を扇動する」とは、ちと考えにくい。

為政者が体制強化のために「ちょっとしたデモ(一揆)を起こさせて鎮圧する」という手法が無い訳では無いが、一揆が飛び火したら収拾がつかなくなるのは「肥後国人一揆」で証明済みだ。
どれほど裏で取引・交渉しようが、最後は「秀吉の機嫌次第」だからヤバすぎる。
言い訳に十字架を背負ったり、白装束になるのは一人で充分∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

生来、慎重で用心深い島津義久には「一揆の教唆」は似つかわしくない。
自分の前提~「島津義久は梅北一揆には無関係~ただし後処理を政治利用した説」で話を進めます(* ̄・ ̄*)Vブイ
                  
最近では、この研究の第一人者である史家・紙屋敦之氏の唱える「領地問題が原因説」が有力らしい。
かいつまんで言うと、九州制覇まで「あと一歩」だった島津氏は「九州の役」で敗れて、「大隅・薩摩」に押し込められた。
肥後・日向に領地を持っていた島津家臣はオールナッシング~ゼロ資産。

領地を失った島津家臣らには、大隅・薩摩国内で領地補てんをするのが本来の筋なのだが、
島津家では、それをしなかった・・・・と、いうより出来なかった・・・と言った方が正解かもしれない。

どこの地方でも一緒なのだが、豊臣政権誕生は「兵農分離」と同時に「国人が家臣化」する過渡期でした。
大隅・薩摩国内における既存領地を寸土たりとも削ろうものなら、本貫地を死守すべく国人はもとより、分家・支族が黙ってない。
とてもではないが、領地補てんは不可能(::)

島津義弘は領地の代わりにすべく(撫育金みたいな感じ?)八方金策に回り苦労したらしい。
忠恒(初代藩主)の代になると家臣を粛清して領地を・・・ゲホグホ失礼!
日向に領地があった上井さん(日記で有名)が、九州の役後に隠居したのは、その辺に事情があったんじゃないだろうか。

で、紙屋氏の研究によると「天正20年4月に、寺社領整備と共に地頭職分の返納について評議」があったそうです。
天正20年とは文禄元年でして、西暦でいうと1592年・・・ズバリ梅竹一揆のあった年。

結果は寺社領のみ整備して、一部領地を捻くり出してるんですが、4月領地評議で一揆は同年の6月。
湯尾地頭の梅北が己の地位を脅かす施策に「一揆を起こした」というのが氏の持論です。

梅北国兼は島津4兄弟の父・貴久の代から仕え、島津の「大隅統一」に大きく寄与した。
その後も活躍し、島津北征(岩屋城の時)には島津水軍を率いている。
それが「領地返上(上知ですね)」となったらブチ切れるだろう。

一族郎党を、どうやって養えというのか、梅北国兼は江戸期リーマン侍じゃない「国人あがりの戦国武将」なんです。
自分のなかの国人に対する考察(とカッコ良く言ってみる)から見て、紙屋氏の説が一番しっくり来る。
文禄元年(1592)年4月?日~梅北国兼は地頭職の領地返上が評議されていると知り、一揆を決意した
               

文禄元年(1592)年6月5日~島津義久~肥前・名護屋にて豊臣秀吉の饗応を受ける。

修理大夫義久は年老の為、起居が思いに任せず、その上、持病があった。
殿下はそれを聞き及ばれ、兵庫頭義弘父子に命じて、領国の士卒を率いて朝鮮に渡海させた。
義久は、この(秀吉の義久への心遣いに対する)御礼の為に、名護屋に参陣し、殿下に褐し奉る。
饗応と丁寧な御言葉を賜り、喜悦浅からざる処
・・・つまり秀吉の機嫌が良いので「ホッ」としたとこ^^b


そんな中、梅北宮内左衛門国兼・田尻但馬という者が、島津義弘に従軍する筈が、肥前国平戸の辺りに留まったままだった。
むろん一揆を企てるためで、チャンスを窺ってたんです|壁 |_ ̄)じー

(梅北らは)「主君の仰せ」と偽って、薩・隅・日の悪党らを招き、都合2,000余人を糾合した。
6月14日~梅北らは(加藤清正が不在で留守の)肥後葦北郡・佐敷城を攻撃

朝鮮に既に渡海した義弘らは「兵が遅いなぁ」と気を揉んでました^^
そして名護屋に滞陣している島津義久も、一揆勃発を未だ知らずにいたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【相良頼房32_朝鮮の役4・激戦】

文禄元年(1592)・・・「破竹の勢い」と言えば聞こえはいいが、クールに言えば「前線が伸びきっている状態」~~日本軍^^;

朝鮮国王は首都ソウルを捨てて「オランカイ(中国吉林省東部・朝鮮と明との国境)」へ脱出した。
勢いづいた加藤清正率いる一番隊も、オランカイまで進軍。
相良頼房も国境であるアンヘン(安辺)に至った。

そこで相良頼房は、大将である加藤清正に安辺城の在番を命じられる。
だが、この年の暮れに明軍からの援軍を得た、朝鮮側の反撃が始まった。

それは「黒山の人だかり」とか「雲霞の如く」という喩えのまんま。
ものすごい兵数で「野鳥の会メンバーでもカウント不可」な件~
それは全て騎馬武者で歩兵は一人もいなかったそうだ。

野も山も川も海も、とにかく見渡す限り騎馬武者で埋まった。
その余りの多さに「チキンハートな日本軍」が潰走したらしい。

このとき、振る舞い悪く退却したものは横目役(軍艦)が秀吉殿下に報告するであろうから、
帰朝の後にはたぶん改易(所領没収)されるであろう。

(南藤曼綿録より~ただし誰が逃げたかは記載なし)(江戸期に書かれてるので「秀吉」と書いてるんです)

相良が守る安辺城も朝鮮軍+明軍に囲まれた Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ

このとき家老、相良兵部(頼兄)をはじめ老臣たちは
「日本軍の大方が都に引き上げた今、相良氏の軍勢の戦力武器弾薬は敵の百分の一にも満たない。
これではとても永々の籠城はできないので、今のうちにどこか〔敵の包囲網の〕一ヶ所を打ち破って都へ引き返してはどうか」と進言した。

主君・相良頼房は
「皆の申すことはもっともである。しかしよく考えてみよ。
清正が申されたのは[この城は国境の重要なところである。相良氏は古風な家で万事律儀な家なので在番を命じると云われた]ので「ご安心くださいm(_ _)m」と申し上げたのだ。
侍が侍に対して堅く約束したのを、朝鮮人が蜂起したからといって、城を空けて退却することができようか。
自分はこのたびの陣触(出陣の命)の朱印状を拝見してからは、朝鮮国の土になるつもりで渡海してきたのであり、それは摩利支天もご覧になっているであろう。
番城を命じた清正方から伝令が来るまではこの城を出てはいけない( ー`дー´) キリッ


老臣たちも主君・頼房の言葉を聞き「至極尤ものご意見である、退却するのではなく城を守って戦うのだ!ファイトーー!( ゜ロ゜)乂(゜ロ゜ )イッパーーツ!!」
と全軍に命令を出したので、城兵たちは活気づいた。

決意を述べた頼房が敵情を | 城壁 |_ ̄)じー と見て考えると、再び口を開いた。

頼房「歩行の武者は一人いない、それに騎馬武者は各人それぞれの兵糧を自分の馬の鞍につけているようだ。(手持ちの糧秣だけなので)この様子では長陣はできないだろう、時間を見計らって打って出、敵陣を押し潰してしまえ! ( ̄△ ̄)6m ビシ★~
弱冠二十にして、この胆力・戦況の判断力。
さすが、小大名といえども「関ヶ原」を生き残る当主だけのことはありまつ (*´艸`)萌~
10年早く生まれてダディ義陽を支えて欲しかったかも (´д` ;)

人物・相良頼房
幸麿さん作画:相良頼房イメージ画像

頼房の言葉を受けて、攻撃を一日延期したところ、二日目に敵軍が大太鼓に合わせて雪崩を打って攻めかかってきた。
藩主頼房「いまだ、打って出よ!( ̄△ ̄)6m
と命令をくだし、城兵は鉄砲を撃ちかけ突撃した。

敵は馬上で半弓を射ること、とても人間業と思えない早さだった。
矢を140・150~200本も背負い、雨が降るように射続けてくる。

それに対抗するため相良は馬を降り、徒歩で彼らのの乗った馬を切り、落馬した敵兵を撫で斬りにした。
敵兵の数が半端ないので首は取らず、とにかく力の続く限り切りまくった。
その奮戦ぶりに、10町(1町=109m)の間は死者だらけになった程であった。

だが敵兵力がケタ外れだったので、切っても切っても減らない。
やむなく相良の人数をまとめて城内にひきあげた。

その夜、敵軍は大鐘を鳴らして騒ぎ立てたが、翌早朝見てみると、大軍はみなオランカイへ引き払っていた。
来るのも去るのも、あっという間の明軍。

実は清正が在番していた城も、安辺城と同日に包囲されてたんです。
ですが清正が大軍をもって即時に追い払ったので、こっちも同日にオランカイに撤退しています。

援軍の明兵にとっては朝鮮国土が蹂躙されていても「所詮、他人事」なのでしょう。
頼房が気付いたように、腰兵糧(携帯用食料)しか持参してないということは「はなから本腰入れての援軍では無い」ってこと。
日本軍が思ってたより手ごわかったので、自軍の損害が惜しくなったのもあるでしょうね^^;


清正が言った
「私は大きな間違いをした、この辺りでさえこのように苦戦するのであれば、相良氏が在番する安辺は三日路奥にあり、オランカイとの境だからたぶん戦死したであろう。
我らの組中であり、また「万事後見せよ」と主君秀吉から命ぜられていたのに、やすやすと討死させては申し開きのしようもない。

大事な国境の城だから自分が在城するなり、大将クラス四・五人も差し置くべきところを相良殿一人に任せたことは、悔やんでも悔やみきれない。( ̄  ̄)トオイメ。。 
しかしながら過ぎたことをくよくよしても仕方がない。今はせめて相良殿の討死の場を見届けよう((((((((((っ´へ`)っ」

男・清正の想像はヒートアップ、すっかり討死扱いの相良頼房∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

清正が安辺に着いてみると、頼房は無事で城を堅固に守っていた。
清正「(ノ´▽`)ノオオオオッ! 頼房の手を取り、涙ながらに「朝鮮人蜂起によって諸方で苦戦していると聞き、
きっと頼房公も討死したのではないかと思っていたが無事で何より、死者が蘇ったような気がする。」


勝手に死んだと思い込んだ上に、ゾンビにされた・・・∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
清正って、けっこう面白い性格なんだなぁ^^;
 
「相良氏は古風な家柄とは聞いていたが、律儀そのものの働きで、しばらくとはいえ、討死したのではないかと考えたのが恥ずかしい」
と言い、両人は同道して都(漢城)を後にした。

時に相良頼房二十歳。
報告を聞いた秀吉は感激し、頼房に奉書を与えた。

頼房の死後、老臣たちは頼房を「まれに見る大剛の大将だった」と評し、朝鮮の役でのことを「一代のなかで、一番にとりあげるべきこと」と言っている。

さて、頼房の第一次朝鮮の役は終わった。
だが留守の間に肥後ではトンデモナイ事件が起きていたのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房31_朝鮮の役3・戦地】

朝鮮の役の当初の目的は「中国(当時は明王朝末期)をゲッツするぜ!」だった。
そこで古来の呼称を用いて「唐入り」と呼ばれていました。

秀吉は途上にある朝鮮国に道案内をさせようとしたのですが、明の冊封国(さくほうこく・形式上の家臣)である朝鮮が従うはずがなく、明国より先に朝鮮を征伐する~~ってことになった。

中国と冊封国(自分らが世界の中心⇒上目線の中国と貿易をしたければ、冊封国にならなければならない)の関係は、室町時代の守護職と国人の関係に似ています。
つまり「配下になるし」「服属もする」けど「被官だから家臣じゃない」という状態。

冊封国たちは、中国を文明の中心&兄貴分として立て、その威徳に服するけど、あくまで独立した国家なんです。(西洋人には解りづらい発想らしい)
ですが常日頃、兄貴分・大人(たいじん)として敬われている以上、冊封国がピンチの時に明(他の王朝も)は、知らんぷりが出来ない。
結果、明国は朝鮮へ援軍を出すことになるんです。


さて肝心の「秀吉の唐入り構想」ですが、何やら雲を掴むような話。
広大な中国の国土全てを(他国が)長期間に亘り占領・統治は不可能に近いと思います。

ただし、戦闘に勝つだけなら、勝てるでしょう。
なにせ当時の日本兵の精強さは、世界でもトップクラス。
国産火縄銃も生産量は世界トップクラス、性能が良いメイドインジャパンは、遠くオスマントルコまで輸出されていました。

豊臣政権から江戸時代まで、為政者達は「リア充・戦闘民族」だった日本人から「爪と牙」を抜くのに、100年近い年月を要しています。
ですから「唐入り」は、戦国スーパーサイヤ人?達の「ガス抜き(浪人対策)」という説もあるほどです。
はた迷惑な「秀吉の外征」は、既に国家として求心力を失いつつあった明王朝の寿命を、さらに縮めました。

加藤と小西は揉めつつも、日本軍は順調に勝ち進み文禄元年(1592)年6月15日には平壌を占拠する。
が、勝ち進みすぎたのが逆効果で、補給困難なほど前線が伸びきってしまい、そこから苦労する羽目になる。
兵站が下手なのは日本人の先天的な欠点なんだろうか^^;


とにかく我らが相良も、ガンガン進軍した。
まるで「狩りをする時のように、山といわず川といわず押し進んだ」そうです^^b
山の中で戦闘することもあれば、あ、それと野宿はいつものことだから!

あぅ~~~6月だってのに雪がまだあるなんてアンビリバボー!(朝鮮は北海道より寒い)
とてもじゃないけど、ほんとに我慢できるもんじゃないけど、でも頑張って進軍したぉ!

6月には晋州を攻撃したところ、晋州城・牧司城は良く持ち堪えたそうだ。
日本軍の攻撃に対して朝鮮側は半弓で反撃し、慣れない敵の武器に少なからず日本軍は手痛い目にあう。
その後、日本側は大石を以って打ち崩しにかかったが、多くの死傷者が出た。

主君・相良頼房は大将ながら真っ先に進んだ。
頼房は、梨子打鳥帽子の真ん中を石で打たれたが、兜が丈夫だったんで無事 (* ̄・ ̄*)Vブイ
ちなみに騎馬で参戦です。

で、途中で足を射られて負傷したけど、幸い浅手だったので、本人ケロリと(やせ我慢か、夢中で痛みを感じなかったのかは不明)少しも構わず城攻めを続行。
即時に城を乗っ取ることができたそうな。

最前線に一度しか出たことのない父・義陽とは違い、次男坊は猛将タイプだったようだ。

木上地頭の久保田大蔵は、紺糸の鎧に白毛の兜を身につけて縦横に駆け巡ってハッスル!
が、朝鮮兵が城内から見下ろして半弓で打ちかけられ、その場で戦死。
同じく蓑田助七郎・深水弥助・深水小兵衛も戦死した。

その後、城乗りに成功し、敵大将の牧使判官は相良家臣・深水新左衛門が討ち取る!<( ̄^ ̄)/ビシ★
それからさらに軍を進めること80日、高麗の都(ソウル)に進軍した。

後日、戦死した久保田大蔵が着用していた鎧を調べてみたが、子札(鎧の材料の小さい板)の厚い立派な具足で、
相良「これだけ丈夫なのに、矢に当たって戦死したとは不思議だ」「どれどれ?」
ってことで、皆が着用してみたが、少しも矢の貫ける隙間がない無い。ホエ?(´д` ) ホエ?(´д`) ホエ?( ´д`) ホエ?
いろいろ確かめたところ、シコロ(錣)の外側、ごく僅かな隙間を矢が貫いた・・・らしい。

眉間に鉄砲がジャストミートして戦死した武将もいるが、弓で隙間ジャストミートもあるんだなぁ~~( ̄ー ̄A 汗フキフキ

一方、深水平内左衛門なる者は裸同然で出陣し、敵から雨のように半弓で射掛けられながら一つも当たらず無事。
なんか「傷だらけ井伊直政」と「無傷の本多忠勝」を思い出す話^^;
筆者の梅山さんも「天と地ほどの差」と二人の運・不運を書いている。


日本軍は80日ほどで高麗の都(ソウル)に押し寄せたが、市民は家財道具を残したまま逃げて、山中に隠れてしまった。
逃げ遅れたのか、家を離れがたかったのか、居残っていた者は全て撫で斬りにした・・・とある。
戦になれば、罪のない一般市民は少なからず巻き添えを食う。綺麗な戦などありはしない。
とはいうものの「撫で斬り」の記述は、どの戦で見ても凹みます。。。(ω・`))シュン

朝鮮国王は明の国境のオランカイに逃げたので、日本軍はさらに進んで行き20日ほどでオランカイ境の安辺群(現在は北朝鮮領内)にいたった。

ちなみに相良家は加藤主計頭清正の組に所属だったので、陣中加藤清正と一緒だった。
清正は、「この安辺は高麗国の果てである。ここは相良軍が在番されたい。私は少し都に近いところに在番する」
と言って、安辺より三日路都のほうに移った。

だが文禄元年(1592)年の師走(12月)に、朝鮮人の蜂起が始まったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房30_朝鮮の役2・渡海】

全ての日本人・・ひいてはアジアの運命が動き出す。。。。

文禄元年(1592)1月?日~後陽成天皇が二度目の聚楽第行幸
秀吉から諸大名へ~「3月朔日(1日)に(朝鮮国出陣の)諸大名は(それぞれの)地元を出発し、名護屋へ下向せよ」との命令が出る
3月6日~豊臣秀吉が大坂を出陣~4月5日に名護屋へ着陣
3月17日~先発隊が名護屋へ向かう・一番隊は前田利家
3月26日~豊臣軍本隊3万が大坂を出陣
3月26日寅の刻(am4:00)~宮内少輔頼房(相良頼房)が、朝鮮国出陣のため球磨を出発、御供の軍勢は760余人
時に相良頼房・19歳、相良左馬介(深水頼蔵)は32歳(or28歳)、相良兵部(犬童頼兄)は25歳。



「親子鷹」で紹介した頼兄に対する休矣パパンの訓諭は、この出発の前にしたらしい。
もっとも話の中身には別バージョンもあります。
別バージョンでは獺野原(うそのばる)の戦い部分が、違う人の批判だったり、
義滋の喩えが晴広だったりしてます。

・・・・別バージョンじゃなくて、ほんとに何パターンも頼兄に語ってたりして∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

>其の方が若輩の故に語らなかった
なんて神妙な顔?して、懇々と訓諭する休矣パパンだけど、当時の武将って酒席だのなんので「武勇自慢」はウザいくらい絶対する。
現代の上司が居酒屋で絡んで来るより超ウザ濃い。
休矣パパンが自慢しない謙虚無口タイプでも、他のオッサン連中から「獺野原(うそのばる)の戦い」は耳タコ状態だったと思うのよね。

頼兄がパパンの訓諭を守れなかったのは、生来の気質だけでなく話の中身が聞き飽きてたんじゃ・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!!


ま、順当に考えて数パターンある逸話って、ほんとに説諭したかどうかすら怪しいんですけどね^^;
逸話って軍記物出典が多いから、史実の味付みたいなもんですな~~( ゚Д゚)y─┛~~


ちなみに相良の出発にも別説があって、それだと3月1日 に出立、8日に名護屋着陣、12日に出船、となってます^^

名護屋の御陣所の御船数は8700余艘で、雑兵は合わせて31万7985人の人数である
南藤蔓綿録より
今更だけど当時の記録に顔文字はない^^;

4月12日、段々に船を出し、石火矢を放懸け、鯨波をあげ(矢のごとく高波をあげて)、
船の綱をとき数千艘の帆柱を押し立て帆をあげて、鬨の声は海上に響き、天地を動かすほどである。
当浦を遙かに出て、前後を見渡すと多くの大船・小船は家紋をつけ、幕を張り巡らし、思い思いの旗指物を飾り立てている様子は、
(桜で有名な)吉野山をこの浦に移し(紅葉で有名な)立田の錦を海にさっと流しいれたようで、
実際に心が雲になり、故郷のことも忘れてしまうほどである。


筆者の梅山さんは詩人でつね ( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
 
翌13日~にわかに順風がふきだし、一行は壱岐の島についた。
同月25日午の刻(pm12:00)順風を利用して対馬を目指して出船。((((((((((っ´▽`)っ
同月27日未の刻(pm14:00)それから順風だったので、対馬豊崎の浦、鰐の浦、葛の浦の三ヶ所に頼房&相良一行の船は泊まった。(* ̄・ ̄*)Vブイ


さてここからは日和(海上の天気)を待つ| 船 |_ ̄)じー
同月29日~、御船一同で釜山海に着船し、ハマン(咸安)・ウル山(蔚山)を固め、御陣をはられた。

高麗は日本から北西に当たる。
日本から釜山港に渡り、そこから上陸して北に、ととねき(東莱)・くちゃん(機張)・せつかい(西生浦)に向かう。

上陸して十三里で蔚山・西生島より七里、大よそ蔚山はせつかい(西生浦)より八里、南のかも島(唐島・巨済島?)・きんむら(金海)・竹島・かや(伽耶?)・ちやわん(昌原)・かく島(加徳?)・そてん(泗川・そせん)、これは南の端である。
日本勢は皆釜山港に着船し、それぞれの地方を領地として受取り、城を普請して在番した。


小西と清正の一番争いとか、島津義弘が遅刻したことなんかは、
相良には関係ないので出展元には書いてません^^。

諸将や総大将である宇喜多秀家が京城に入ったのは、一番隊到着の翌日、5月3日です。
その5月3日に島津義弘は、やっと釜山に到着します。

島津内部が揉めていることは、周り廻って相良にも関連してくるのですが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房29_朝鮮の役1・出陣】

史実(事実)は一つだけのはずなのに、通説・異説・新説と議論は一向に定まる様子がない。
なぜなら史実の解釈には、その時代における真実と正義なるものが必ず付随し、それらは100人いれば100通りの真実と正義があるからだ。

政治的な思惑が働く「大きな声(勝者の公式記録)」が、100%史実であるはずがないし、
「個々の声(私的日記)」にも、筆者・編者のフィルターが無いという保証はない。

自分は歴史からフェイドアウトした「小さな声(中央に敗れた記録)」に、堪らなく惹かれる。
各地方の郷土史こそが、小さな声・・その「最たる者」だ。
郷土史から微かに洩れる声に耳を澄まし、ひっそりと眠る記録を掘り起こそう。
生きることも死ぬことも、笑うのも泣くのも、現代の我々と変わらぬ「人間」がそこにいる。

熱く 激しく マニアック! 相良家の「朝鮮の役シリーズ」スタート!!
主要、出展元「南藤曼綿録」他からの引用は都度明示します。
                     

天正19(1591)年・・・この年、関白・豊臣秀吉は相次いで「身内の死」にあう。

位人臣を極めても「生老病死」だけはコントロールできない。
権力者も社会の末端にいる者も、それで辻褄・釣り合いがとれるようにという、天の配材なのかもしれない。

1月22日~羽柴秀長が52歳で病没。
2月28日~千利休が切腹。

秀吉の覇業を影となって支えた弟の死は大きく、秀吉の行動のストッパーがいなくなる。
千利休に関しても謎が多く、地方史ばかり追っかけてる自分には手に余る素材だ^^;

8月5日~鶴松が2歳2か月で死去
往年の大河「おんな太閤記」では、秀吉が鶴松の死を紛らす為に「唐入り」を始めた、、、ような演出だと記憶しているが、
実際の秀吉は、それ以前から「唐入り」を構想し、それが九州の役を急いだ一因でもある。

九州の役の後の大名配置も「唐入り」を考慮してるし、小西・宗氏に朝鮮との交渉も命じている。
国人たちを容赦なく移封・改易するのも「唐入りの前線基地たる九州」を露払いしておきたい意図もあったと思う。

ただ「愛息の死」は、秀吉から「理性」「自制心」「平常心」などの掛け金を、少しずつ外していったようには感じる。
完全にヤバくなるのは、秀頼誕生がキッカケだろうなぁ・・・(6 ̄・ ̄)ポリポリ

ちなみに、この年の9月に高橋元種が高千穂の三田井を滅ぼします (O ̄∀ ̄)ノ大蔵系LOVE

10月10日~肥前・名護屋城が築城開始 (* ̄・ ̄*)Vブイ
12月?日~秀吉⇒⇒島津へ朝鮮出兵準備を命じる
シーマンズ「ええええ~~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ 」

他の大名たちにも動員はかかってるはずなんだけど、動員時期を検索できたのが島津だけだったもので^^;

12月28日~羽柴秀次が関白に就任
                   

文禄元年(1592)1月?日~後陽成天皇が2度目の聚楽第行幸
2月1日寅の刻(午前4時)~相良頼房が朝鮮出兵を前に青井阿蘇神社に参詣
この参詣で主君・頼房は、深水頼蔵と犬童頼兄に「相良」姓を下賜しています。

これにより「深水左馬介頼蔵⇒⇒相良左馬介頼蔵」「犬童軍七頼兄⇒⇒相良兵部頼兄」と名乗りを変えます。
さらに相良左馬介(頼蔵)を頼房の軍師(or参謀)とし、相良兵部(頼兄)を左馬介(頼蔵)の補佐とした。

とにかく不仲の二人に「協力しあって欲しい」という、頼房の配慮でした。

さらに井口八幡ならびに十嶋天神、愛宕山へ参詣~
同月24日~谷の坊延命院において、出陣の御供の人数は残らず誓紙を書き、全員が相良左馬介(頼蔵)、相良兵部(頼兄)と誓紙をとりかわした
もちろん誓約書は血判~( ̄人 ̄)ムン!☆彡~~本式だと神水も飲むのかな?

同月25日~今度は十嶋天神にご参詣~三百韻の連歌(奉納興行)をされ、同じく百韻の御独吟(奉納興行)をされた。
(別の記録だと参詣の日にちとか細部が違うけど、概ねこんな感じ^^b)

つか頼房クン・・・独吟って、一人で百首も詠んだの?(@@)さすが相良クオリティ~

ちなみに頼房クンは19歳。子供はいない・・・てか結婚もまだ。
なにしろ父・兄が相次いで死んで「九州の役」に「肥後一揆」でしょう?

天草一揆は相良は直接は関係ないけど、加藤・小西両軍が出陣で慌ただしい。
とてもじゃないが「婚活」する余裕が無い ( ̄ー ̄A 汗フキフキ
ガチ「頼むから無事に帰ってきて~~」( ̄人 ̄)☆彡~~参詣に熱が入るはずだ。

他の海外出兵メンバーも、奥方・側室と長期に離れるから出生率低下してそうだ。
立花はついに子宝出来ずじまいだし、黒田長政も鍋島勝茂も第一子誕生は関ヶ原以降だもんなぁ。

ちなみに出兵には僧侶も同行してます。願成寺の勢辰、妙泉寺義運、正延寺の全慶の3名です。
吉兆占ったり、必勝祈願とか、あと戦死者の弔いとか、色々することはあるんです^^;

さぁ出陣前の仕度が整い、いよいよ人吉城を出発~~それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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