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【鶴田氏~8・分家と本家、最後の明暗】

日在城鶴田明(本家嫡男)は後藤家信に対し、忠誠を誓うと同時に「波多との関係修復復活はない!(`・ω・´)キリッ」と起請文(1578・4・14)しちゃってます^^;

鶴田明は波多に謀殺された直(ただす)ジーちゃの顔も知らないんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
当主だけでなく、嫡男の明も起請文することで本家一族の総意であることをアピールしたのかもです。

と、いいますのも。
龍造寺隆信は波多鎮へ自身の養女を嫁がせ縁戚関係になると、上松浦の諸氏に対して波多氏の幕下につくように命じたからです。( ̄ko ̄)

波多に従属するのを頑強に拒む日在城鶴田因幡守勝に対し、隆信は当然立腹。
鶴田本家は助命されたものの、本城である日在城を追われちゃいました ショボーン..._φ(・ω・` )
領地を失った鶴田本家は後藤家信を頼り、正式に後藤家臣となります。

一方、獅子ヶ城の鶴田賢ですが、彼は非常に信仰心厚い温厚な人柄で、父の前と違い波多氏との親睦も復活させてました。
で、龍造寺の命に従い波多氏家臣となります。
兄に同心しないもん~~と飛び出してた賢の弟も、日在城鶴田氏が後藤家臣となったので、獅子ヶ城に戻りました。

これでめでたしめでたし・・・にならない。
波多氏が豊臣秀吉によって改易されちゃったからです・・・il||li _| ̄|○ il||l

波多家臣は四散しちゃって鶴田分家がどうなったか素人では辿れませんでした。
ですが獅子ヶ城鶴田氏の記録である「岩屋家譜」の成立年度は宝暦年間なので、子孫は続いてたようです。



話は飛んで慶長年間。
自分は過去記事で後藤で龍造寺で武雄で鍋島な茂綱が、一時廃嫡ピンチになったことを何度か書いてます。

WEB上で詳細が判らず、てっきり関ヶ原の動員に病で遅参した失敗のせいかと早とちりしてたんですが、
違った( ̄ω ̄A;アセアセ
廃嫡ピンチは「朝鮮の役」での話でした。

父・家信が病になり現地でダウン~公務不可で帰国したために、嫡男である茂綱が代理で朝鮮へと赴いてました。
当時、茂綱は数えで18歳。
家臣たちは未だ若年ゆえ公務は無理じゃね?(*´・д・)(・д・`*)っと家督相続について論議した。

その結果、後藤家臣の主だった30人ほどが連判でもって鍋島忠茂(直茂の次男)を家督にと申し出ようとした。
(てとこを見ると、病中の家信に意向を尋ていない家臣の暴走っぽい)

その時に鶴田善右衛門明が
ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.「茂綱、若年といえど朝鮮御陣を務め、諸国の大名とも知り合っているのに何が不足だぁ!!!」
と、茂綱当主を強く支持して、家督問題に対して衆議を取りまとめた(出典:後藤家戦功記)

慶長3年11月8日付の鶴田文書には茂綱の家督継承が鍋島直茂&勝茂に承認された事が記されており、後藤家戦功記との記述と一致してます。
この時のリーダーシップ・器量をかわれた鶴田善右衛門明は、後藤家の家老として茂綱の執政を支えたそうです^-^




今回の記事に関しては鶴田氏・1で紹介したように、鈴木 敦子著「肥前東松浦地域における国人領主鶴田氏の動向」を参照しました。

お蔭で北肥戦誌にはない、上松浦の動向がかなりクリアになり非常に勉強になりました^^
論文を紹介して下さったブログ友様には、心から御礼申し上げます。

さて西肥前リサーチシリーズはひとまず終了です^^
思わぬ記事数の多さに自分でもビックリ^^;

次からは本編に戻ります~ちとブランクあいちゃったんで、じょじょにエンジンかけていきますので、宜しくお願いします。
ではでは。。。それは・またの話 by^-^sio
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【鶴田氏~7・龍造寺四家、武雄後藤家信系誕生】

1576年(天正4)1月、この段階では獅子ヶ城は、龍造寺長信(隆信実弟)の多久勢と小待で合戦してました。
ちなみに最近読んだ論文で知ったんですが、龍造寺長信の「長」は大内義長からの偏諱でした。シランカッタ
大内義長は大友義鎮の異母弟で大内義隆亡き後に、陶晴賢が擁立した傀儡当主です。
(相変わらず、龍造寺隆信は自分では大内義隆以外からの偏諱を受けないのね^^)

ところが同年3月15日付の後藤貴明が出した起請文によると、
「日在(ひあり)城本家・鶴田氏の相談なしに、獅子ヶ城鶴田氏が龍造寺サイドに寝返ってる事が記されてます。

後藤貴明は鶴田因幡守(本家当主)に対し(寝返った)獅子ヶ城とは別儀・・関係を絶ったと表明してます。

3月の段階では鶴田越前守前は存命してました。
今までの彼の行動では、何事も日在城鶴田本家と連携してたので、相談なしにってのは不自然です。
もしかしたら連絡したくても出来ない・・・直道(連絡用ルート)を龍造寺勢に押さえらたのかも。
直道ったって、秘密の地下道や鍾乳洞って訳でなく、ちょっと?クネクネした山坂峠ある間道だってだけで隠してる訳じゃないからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

獅子ヶ城の龍造寺寝返り(降伏?)が本気だったのか、いつものように帰順したと見せかけてリベンジするつもりだったのか。
同年6月22日に鶴田越前守前が戦死してしまうので、今となっては不明です。

同年12月12日付、龍造寺下総守康房(鍋島直茂実弟)が、日在城鶴田本家当主の弟に起請文を出してます。
要約すると
1)佐賀・武雄の間で和議が行われたら、後藤貴明&晴明(=貴明嫡男)に対し隆信親子は粗略にしないように、下総守兄弟(=鍋島直茂兄弟)が尽力する
2)後藤貴明から人質を出してくれたら、佐嘉から難題を出さないように下総守兄弟(以下同文な件~)

龍造寺では、日在城鶴田氏本家を後藤との交渉パイプとして認識してて、和睦の為に水面下で交渉してたようです。
この段階で和睦交渉がスンナリ進んでいたら、後藤家の歴史が違ってたかもだな~
1577年(天正5)2月に提示された和睦条件は、もう龍造寺による後藤氏家督乗っ取りに近い状態でした。

一方、龍造寺に与した獅子ヶ城鶴田氏ですが、前(すすむ)以降は足並みが乱れまくってます。
前亡き後に分家当主となった鶴田賢に対し弟が「兄とは同心しない(`・ω・´)キリッ」と分裂しちゃんです(天正5・3・14)。
獅子ヶ城の龍造寺帰服時期の出典は「歴代鎮西志」なんですが、鈴木先生は「帰服は前の死後じゃないだろうか」って書かれてます。
兄弟決裂は、一族をガッチリまとめてた前(すすむ)死後の政治的混乱から来た、と解釈するのが自然だからです。

1577年(天正5)4月24日、隆信三男・善次郎家信が後藤貴明の養子に、後藤貴明嫡男・晴明が龍造寺隆信の養子に、
双方の養子縁組が正式に整った。


同年7月2日、後藤氏の家督を継いだ善次郎家信(隆信三男)に対し、日在城(本家)鶴田因幡守勝と嫡男・明が忠誠を誓う
これによって日在城・鶴田本家も、龍造寺の傘下に入った。

この時期の後藤家には、各方面からの起請文が次々と舞い込んでます^^;
武雄後藤氏新当主・家信に対し忠誠を誓う起請文でして、従来の利権を認めてもらう為ですから周辺地侍は必死です。
家信は彼等への返信・起請文___φ(.. )花押カキカキ に追われた事でしょう。

さて、武雄後藤氏が龍造寺一門に組み入れられた事で、鶴田氏の運命も大きく変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~6・勇将・鶴田越前守前、死す!】

後藤貴明の養子・惟明が家督を実力で養父から奪おうと謀反したのが1574年(天正2)6月22日。
城を占拠された貴明は、奪還のために敵対してた龍造寺から援軍を受けました。

惟明は、後藤貴明が平戸・松浦との同盟の証として貰い受けた養子なので、松浦関係者からの援軍は100%無理。
貴明は反有馬だから有馬から援軍してもらうのも絶対(´・д・`)ヤダ
残る援軍のアテは龍造寺だけだったんです。

で、翌月の7月8日には、後藤貴明を両鶴田との間で起請文の交換がありました。
「鶴田越前守殿父子三人之儀、貴明身命之限、差捨申間敷候」
後藤貴明は、今回の件で両鶴田が離反し政治的に孤立するのを恐れてました。
ですが二日後の7月10日には、後藤貴明は龍造寺隆信との和議を余儀なくされます。

当然、松浦道可(隆信)は怒ってました。
松浦道可から鶴田前への手紙に「武雄の取り乱しようはけしからん!」と言ってます。

一方、後藤貴明からも両鶴田氏宛に手紙が送られてます。
「佐賀への同心(和睦のこと)も戦法です~もしウソだったら詰め腹切ります!」
さらに追記で
「両鶴田と私は永久に不滅・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

「永久に両鶴田と私(後藤貴明)は一体であるから、見届けて欲しい」
「今度なんとか渋江山城守には腹を切らせた」

あちゃ~実は本編で話すつもりで後藤貴明編では敢えて紹介しなかった渋江ネタです。
元々は後藤氏の主筋で今では後藤配下に転落した渋江氏の公師なんですが、どういう訳か惟明謀反に際して惟明に味方してたらしい素振りがあったんです。
また後藤が激しく憎む大村純忠。
彼の助命に関しても渋江公師が仲介してて、後藤貴明はダブルで怒りMAX。

ですが肝心の謀反加担の確証が掴めず、渋江一族の者に詰め腹を切らせる事で怒りの鉾を治めたらしい^^;
ちなみに渋江公師は、これを機に後藤家を離れて龍造寺に直接帰服しました。

上記・後藤から両鶴田への手紙では「鶴田と平戸・松浦との関係は前々通りである事を望む(-人-)☆彡オネガイ」
と書かれており、松浦道可(隆信)との関係修復を鶴田前に頼んでたようです。

鶴田氏は松浦・後藤・波多などが絡む複雑な人間関係とは無縁だったので、後藤貴明・松浦道可の双方にとって本音を言いやすい相手だったみたい。
間に挟まれる方は大変だったと思うけど^^;

北肥戦誌には書かれてないですが、岩屋家譜によると鶴田越前守前が戦死したのは1576年(天正4)6月18日です。
城外に打って出た壮烈な戦死だったと伝えれらてます。 (゜-Å) ホロリ

サイト武家家伝ですと「波多鎮・伊万里治・有田盛らが有馬氏にそそのかされて、隆信に従っていた獅子ケ城を攻撃してきた。」
となってるんですが、岩屋家譜だと「公(鶴田前)は佐賀に背いた」とあり、情報が錯綜してて状況がイミフです^^;

くどいようですが、後藤貴明と平戸・松浦道可との仲介役は、勇将・鶴田前の仁徳あったればこそでした。
龍造寺との和睦が本意でなかった後藤は、1575年に龍造寺と決裂してたんですが、
前(すすむ)が死んだ翌年1577年2月に、後藤は隆信の実子に後藤の家督を継がせるという厳しい条件を含んだ再和睦を受け入れました。

鶴田前の死去に関しては、1576年8月19日に大友宗麟も鶴田氏に対し書状を書いてます。
「父越前守死去之由、無是非候」とあり、前の息子たちへ今後も兄弟で大友に尽して欲しいと書き送ってます。

大友の守護職としての肥前支配における調停機能には、国衆の間でキーパーソン(仲介)役だった鶴田前の存在は必要不可欠でした。
前(すすむ)の戦死は、大友の東松浦地方における支配において、大きな損失だったんです。

そして1576年から、両鶴田と称されるほど同一行動してた鶴田宗家と分家の動きが別々になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~5・大友へ忠誠】

大友の肥前支配・・・
龍造寺の動きに気を取られると、大友が何もしてないようにしか見えないが、何もしてなかった訳じゃないんです。

堀本一繁氏の論文・・・あれ?どこに置いたっけ?
やべ~神代勝利公に対する解釈部分が気に入らなくて、どっかに突っ込んじゃった アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

あ~あったあった・・・ゲフゴホ、ちょっと横岳氏の話に逸れます。
(少弐一門で、西千葉氏当主は横岳一門から入った養子です^-^)
少弐氏滅亡後、横岳氏は大友氏に属し、1570年11月8日に横岳鎮貞は三根郡矢俣300町&西町200町を安堵されてました。
それを1572年4月に龍造寺隆信が横岳の西島城を攻撃。
(横岳の前に筑紫氏も攻撃してます)
領地を侵された横岳氏は大友氏へ訴状出してまして、大友では紛争解決の為に働きかけてます。
堀本氏の論文によると1572年9月時点で、調停の為に文書の遣り取りしてますが、既に龍造寺では横岳から分捕った米田村100町を配下の姉川さんに与えちゃってました^^;

大友は横岳に対し「堺目静謐之儀」に背く隆信へ「申談じた上」で、それでも「止めない場合には討伐する」と回答してます(参照:同論文、出典:横岳文書)
肥前守護職として大友は紛争解決に対し
「当事者間による解決を促す⇒不首尾⇒大友から紛争調査の検視派遣⇒不首尾⇒ここで討伐軍発動」
と言う手順を踏むのを律儀に貫いてまして、つまり時間がかかるんです。

この間に龍造寺は自由に動き回ってるわけで^^;
調停に従わない龍造寺に対し、大友が軍事権を再発動しなかった理由は・・・う~ん自分も判りません。
この頃は筑前でも大きな謀反なかったんで、その気なら動けたと思います。

とにかく大友義鎮は対話(調停)による解決を模索し、どうしてもダメな最終手段としての軍事権発動という認識だったみたい。(どっかの国連軍みたいだ)
で、横岳が領地を侵されてる状態(現在進行形)は、最終手段を行使する状態と判断されなかったんでしょうか?(横岳涙目)
このあたりが「典型的な守護による領国統治」として、研究者が大友氏をあげる理由なのかもです。

人物・大友宗麟

時間がかかる調停の間に龍造寺はヒャッハー~1573年12月には、鶴田の獅子ヶ城を攻撃したのだった。
大軍に抗しきれず鶴田越前守前は降伏開城。獅子ヶ城には龍造寺から城番が置かれた。

んだけど、鶴田前(すすむ)は早々(4日後だったらしい)に獅子ヶ城を奪還(=^・ω・^=)v ブイ
再び本家である日在(ひあり)城・鶴田因幡守勝(前の実弟)と同一行動に戻ってます。
ちなみに北肥戦誌では鶴田勝の事も思いっ切り鶴山勝になって・・・il||li _| ̄|○ il||lトホホ

この直ぐあとの12月21日に、両鶴田は草野鎮永と起請文を交わしてます。
緊迫した情勢の中での起請文でしたので、草野は血判してます。
・鶴田と草野の間で一致して後藤貴明につくこと
・(龍造寺からの)攻撃に共闘し防戦すること
などが盛り込まれてました。

が、1574年(天正2)1月に草野氏は龍造寺からの攻撃で抗しきれず和議となり、龍造寺隆信の猶子を養子にする事態になる。
同年2月3日、松浦鎮信が両鶴田に宛てた書状によると、
「両鶴田から龍造寺軍侵攻(草野攻撃の事か?)の情報が入ったので(両鶴田に)加勢を出す」と連絡してます。
同書状には「武雄の貴・惟(貴明と惟明)にも連絡したから!」って書いてたそうです。

後藤貴明(養父)と惟明(養子・松浦隆信の実子)の、家督問題から来る対立は燻ってたんですが、
この2月時点では松浦・後藤の連携は生きてて、それを軸とした国人領主間の同盟も未だ生きてたようです。

で、1月に龍造寺に降伏した草野鎮永は本意ではなかったらしく、同年5月に鶴田本家・鶴田因幡守勝と分家・鶴田越前守前に起請文を(別々に)出してます。
1)「豊州(大友家)」に忠誠を尽くす事
2)草野鎮永と鶴田と同盟関係になる事

同じく5月に大友家臣・原田可真と戸次道雪からも両鶴田に対し、起請文が出されてます。
この原田可真というのが、大友が紛争調停のために臨時に派遣した検視役なんです。
草野氏の記録が欠落してるんで推測になるんですが、起請文の流れからいって草野鎮永が大友に「龍造寺の悪行」を訴えたんじゃないでしょうか。

ちなみに起請文だと龍造寺だけでなく、波多鎮と原田鎮種(誰?)も悪行仲間に入ってます^^;
東松浦地方の最前線である両鶴田は、大友の肥前支配にとっても重要視されていたのでしょう。
詳細は不明ですが、肥前守護職として大友の調停機能が発動してたようです。

横岳(と筑紫)に続き草野と鶴田ですから、さすがの大友も重い腰?をあげて・・・
が、事態が急変!!!

翌月6月22日に、養子・後藤惟明が家督を実力で奪うべく、養父・貴明に対して謀反!
後藤貴明は止む無く龍造寺に援軍を恃むという緊急事態発生 Σ(´Д`;) はぅ!

パワーバランスが崩れたと見るや、龍造寺では再び須古城攻略開始!
同年8月、須古城が落ち平井経治は城を落ち延びる。
遂に六角川防衛ラインを突破した龍造寺隆信。

龍造寺の早い動きに大友の調停機能は追いつかない件~~~それは・またの話 by^-^sio

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【鶴田氏~4・近づく最前線】

元亀元年(1570年)今山合戦で何とかピンチを脱した龍造寺のターゲット。
それは大友に与した波多・草野・鶴田ら「三氏への報復」という大義をかざした西肥前侵攻でした。



鶴田氏は上松浦一族の盟主である波多氏と対立。
かつて龍造寺勢を撃退した時のような、連携した軍事行動は望めない。

てか「鶴田宗家当主である兄を謀殺した波多とは【絶対に】与しない!(`・ω・´)キリッby鶴田越前守前&鶴田一族」
というほど関係が拗れてました( ̄ω ̄A;アセアセ
そこで鶴田氏は、反波多の旗頭であり松浦一族実力のドン・松浦道可(平戸松浦の方)と同盟する。

人物・松浦隆信松浦道可(隆信)イメージ画像

平戸松浦氏との同盟が永禄13年(1570年)3月24日。
大友が6万の大軍で龍造寺討伐のために肥前へ侵攻した頃です。
ちなみに大友では必勝を期して、筑後側から有明海の海上封鎖もしてました。

少弐による一族抹殺の時もですが、「龍造寺が、このピンチを生き残るのは無理だろう」と周辺国衆の誰もが思ってた筈です。
ところが意外にも戦線が膠着し長期化、局地戦では夜襲で龍造寺が勝利してしまい、大友と龍造寺は9月末に和睦し10月には陣を引き払っちゃう。ヽ(。_゜)ノ へっ?

もちろん和睦と言っても内実は龍造寺の敗北でして、龍造寺側から人質が出されてます。

ところがです。
龍造寺から大友に出された人質は、すぐ返されてるみたいなんですよ~~~^^;
大友にすれば「大友が勝ったど~」という形式が調ってれば良かったみたいで、そこが大物の大物たるユトリ?

「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.人質は府内(大友氏・豊後国首都)へ差し出せ~常識ダァロ!」
ってキッツーーイ要求された筑前・秋月種実とは、対応がえらく違う^^;

これは、やっぱ大友にとっての優先順位として、肥前という国の価値を重要視してなかったからだと思います^^;
大友にとって本貫地である豊後を別格として、優先順位第一位は博多のある筑前なんです^^;;

誤解があると困るんですが「肥前国は大友が支配してます。」
これは絶対の大前提でして、耳川の合戦で島津に敗れて衰退するまで、きっちり機能してました。

が、その統治方法というのが曲者でして、あくまでも「室町体制の延長における守護職としての調停機関」ってスタンスなんです。
だから、方分(守護代みたいなもん)や、城督(方面軍司令官みたいなもん)が在任地、
または直参衆が配置してたなどの筑前・豊前・筑後より、肥前への支配が緩く感じます。
(肥後は完全フリーダム~肥後守護職の大友は直接統治を諦めて、各国衆による自治になってます)

実際に、守護職と被官は緩やかな支配関係ですから、戦国期カオスになると拘束力は一層弱くなります。
という状況の中で、大友軍が撤収し人質も形だけで龍造寺に返還されたんです。

家紋・大友 九州武将の憧れ~大友家紋ロゴ

「大友へ与した裏切り者」への龍造寺の報復は速攻で始まった( ̄ω ̄A;アセアセ
手始めに東肥前の者たち(詳細は本編にて)が・・・・゜・(つД`q。)・゜・御贔屓のアソコやアレがカナスイ・・・

この間、波多氏はフラフラしてまして、北肥戦誌だと1573年の段階で、龍造寺の求めに応じて援軍を出してる事になってます。
草野・鶴田・・・来る~来る~貞○じゃなくてR氏が・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

で、1573年3月吉日に、元々同盟関係だった日高一族と鶴田氏が再度起請文を交わし関係強化を図ってます。
前回チラ出ししたように、この時も「波多氏に与しない」と念押ししてます。
元々両家ともに波多氏に身内を謀殺されてますが、この頃になると波多氏の帰趨が龍造寺サイドになってるっぽいのも「与しない」に含まれてると思われます。

1573年12月、ついに龍造寺軍が東松浦地方に侵攻!
「岩屋家譜(獅子ヶ城鶴田氏の方)」曰く
「波多氏敢テ敵セズ、其臣八並武蔵守・福井山城守ヲ出シテ、龍家ノ先駆タリ、
 龍家既ニ前(すすむ=鶴田越前守前の事)公ノ大友氏ニ属セラルルヲ憤リ、仍兵ヲ遣テ獅子城ヲ攻ム」


波多氏の援軍が龍造寺軍の先陣&「道案内」な件~ ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
おにょれ波多氏~~獅子ヶ城の攻めに有利な間道をバラしたな~~~(▼A▼怒)
勇将・鶴田前も圧倒的な龍造寺の大軍に抗しきれず和議を結んで城を出た!・゜・(PД`q。)・゜・

ちなみに北肥戦誌では、鶴田前が鶴山前になってるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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