平安の東北武士(いっきに後編)

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
論   考:平安中期における城館の機能と性格 吉田歓


論考では金沢柵の研究として岡陽一郎氏の研究を紹介している。
岡氏によると「奥州後三年記」から金沢柵の特徴を指摘してるそうな。
1_周囲より高い場所にある
2_周囲が崖
3_出入り口に木戸がある
4_櫓などの攻撃用施設がある
5_内部に建物や池がある

以上の指摘から金沢柵は周囲が崖のようになっていて攻めづらい立地条件を備えていた。
防戦の方法は
遠方の敵には矢を射かけ、近くには石弓を使って死者をたくさん出したという。

さすがの八幡太郎義家も金沢柵を攻めあぐね、包囲して兵糧攻めに切り替えた。
このあたり戦略転換の発想は戦国期と変わらない。

結果、金沢柵の清原側は「食物ことごとく尽きて」という状態にまで追い込まれ、城・・・金沢柵は落ちた。
で、ここからの清原側の動きなのだが・・・・逃げた^^;
清原武衡は城中の池に飛び込んで身を隠した。
清原家衡は「げす(?)」に変装して逃亡を図ったが途中で見つかって討ち取られる。

戦国期の武将に比べちゃいけない。
城を命がけで守ろうという発想自体がないんです。
敗者となった武家の究極の目的である「生き延びる」ことが優先した行動をとる。
ちょっと室町~戦国期の国衆の動きと似てます。

八幡太郎義家は降伏した者が助命されること自体は認めていた。
しかし義家定義の降人とは、戦場を脱出して後に罪を悔いて人の手にかからず出頭したものを指すとした。
その定義に合致するものは助命するが、池に隠れて捉えられた清原武衡は合致せずとして斬首した。

この八幡太郎のマイルールが同時代で普遍性があったか自分には判らない^^;
が、城を死守せず降伏する平安武士を見ると、全くの独善ではないように思う。

平安期では守らず放棄する柵と、防戦を試みる柵とが分かれて、戦略らしきものがあったようです。
それは立地条件により柵(城)の防御能力に差があるからで、防戦に緩急をつけた城チョイスをしてたことが窺える。
つまり、それだけ軍事的性格が強まっていたんです。

ただし防戦の見込みがないと、あっさり放棄している。
防御能力を高めたといっても軍事的拠点としては限界があった。

そういう意味では平安期の城郭は、居住空間としての機能が大きい館だった。
ただ、結果として捨てたとはいえ[篭城戦]という戦闘形態が出たことは、後の中世に推移していくなかで大きな変化だったと言えよう。


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平安の東北武士(たぶん中編)

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
論   考:平安中期における城館の機能と性格 吉田歓


戦国期と平安期と城の防御スキルを比較したら、戦戦で日進月歩の戦国期が優れているのは当然だ。
が、防御力の多寡は別にして、平安期には地形や自然を利用した城造りがなされていた。

前九年の役の安倍氏の柵(城)は大別すると2パターンあったらしい。

A)平常時レベルの防御能力はあるものの、さほど堅固でない柵
B)攻め寄せにくい自然地形を利用し、Aより防御能力が高い柵

前九年の役の安倍氏も柵を死守することなく、最後は脱出し逃亡している。
平安時代の居館は、あくまでも生活の場であり経営拠点であった。
支配(経営)拠点であっても、柵そのものは死守すべきものではない。
さらに防御能力の低さは居住者自身が知っている。
そのため、戦国期のような玉砕という発想はハナからなく、ヤバイとなったら脱出⇒降伏という流れになる。

そんな平安期でも難攻不落と評された柵がある。
それが金沢柵だ。

前九年の役の後、勝者として山北三郡に加え奥六郡も手に入れた清原氏。
清原氏というと時事ネタみたいだが、たまたま苗字が同じだけで受け狙いではない^^;
その清原氏の内部争いから「後三年の役」が起きる
大丈夫だとは思うが念のために言うと、
読みは「ごさんねんの えき」で「あとさんねんの やく」ではない(`・ω・´)キリッ


指導者・指揮官&交戦勢力が
源義家+藤原清衡VS 清原家衡+清原武衡
この戦いに勝利することによって、清原氏に代わって藤原氏が奥州の覇者となる。

源義家が奥州と関わったのは、そもそも亡き父が鎮守府将軍として安倍氏と戦っていた。
脳みそが追いつかないので色々端折るが、八幡太郎義家も鎮守府将軍を継ぎ、官位も正四位下、出羽守、下野守、陸奥守と奥州方面。
通常、国司(**守)というと、御本人は都で雅ライフをエンジョイするんだが、八幡太郎義家は鎮守府将軍として現地入りした。

逆を言うと八幡太郎がいたから、戦の規模が大きくなったと言えなくも無い^^;
朝廷では「後三年の役」に命令書である官符を発給しておらず、「後三年の役」は私戦扱いで恩賞が出ていない。
(※当時は官符なしで戦をすることは違法行為だった)
(※[符・ふ]については古文書学入門で書いたように、上の役所から下の役所へ下す文書^^b)
官符が出なかったことは陰謀説とか色々出てて、自分の脳内では処理しきれないのでパス(。-`ω-)←へたれ

とにかく上記二つの勢力が激突し死闘したのが金沢柵だった。
金沢柵(城)については、擬定地とされる跡の発掘調査が進んでいるらしい。
調査内容は書いてなかったが論考内の参照文献によると、調査報告書は横手市教育委員会から発行されてるそうな。

清原氏は初めは沼柵に籠り八幡太郎義家軍を撃退したのだが「これ(沼柵)にまさるところなり」
として、金沢柵に入った。

論考では金沢柵の形態に触れているのだが、それは またの話^-^

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平安の東北武士(前編)

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
論   考:平安中期における城館の機能と性格 吉田歓


えっと、古文書学の方が律令時代に触れているので、
参照文献は、時代下って平安期の東北武士について触れようと思う。
論考では将門の乱から触れているんだけど、ちょっと自分の脳みそがメモリ不足なんで「後三年の役」からです。




参照文献全体としては、史料(一次&二次)において城郭が何と呼ばれていたかって事が大きなテーマです。
史料と実際の発掘調査を検証するのは、現在個々の研究に委ねられている部分が大きい。
そんな中、近年の城郭関連で研究が最も進んでいるのは東北です。
史料との検証も、いずれ追いつくことと思います。

実は山城に関しては、中国地方から九州にかけて先に古代山城がありました。
時代が下るとともに古代山城は廃れ、我々が現在認識している「山城」が姿を現すのは室町初期からです。
理由はカンタン。戦が増えたから。^^b

南九州においても、室町中期から城郭用語が史料に確認され始めます。
室町中期から戦国期にかけて、南九州では城郭を「かこひ(かこい)」と呼称していました。
語彙としては「囲(かこ)い」から来ているらしいんですが、
相良氏の一次史料:八代日記では「かこひ」と仮名表記。
島津氏の一次史料:上井日記では「栫(かこい)」と漢字表記。

拵(こしらえ)とは手偏と木偏の違いしかないので、前後の文脈に注意しないと混同しやすい。
更に紛らわしいのは「栫(かこい)」が江戸期以降は一部地名表記で残ったということだ。
だから江戸期二次史料も前後の文脈に(以下略)

さて本題の平安期の東北だが、史料では城のことを柵と表記していました。
例えば金沢柵=金沢城です。
意図としては南九州の「囲い」に通じるものがある感じを受けます。

で、ここからビックリというか意外だったのが、
平安期の武士には【城を枕に玉砕する】という、発想自体がないことです。
負ければ普通に降伏します。

つまるところ鎌倉以降の武士と平安期の武士は別物。
中世の範囲が広い(鎌倉から室町後期(戦国含む)まで)ことに、ぶつくさ文句(勉強する範囲が~~)を言ってた管理人だったが、
意識の変革において、やはり鎌倉期は中世の黎明だったのだと感じた。

そうなると平清盛と源頼朝の戦いは、二つの時代の代表者の争い(。-`ω-)ンー?
って、専門外の自分が無い知識を捻ってもサッパリ判りません:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

とにかく降伏した平安武士は、助命される可能性があるから降伏するわけです。
もちろん禍根を残さないためや、罪が許されないものであれば処断されるという、『武家の怖さ』と背中合わせの降伏です。

その怖さを承知で助命にかけて降伏するのは、平安武士の柵(城)に対する意識の違いから来ているのだが、それは またの話^-^

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大友ワード_城督(じょうとく)後編

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
 論  考:大名領国における公的城郭の形成と展開
       ----城督を手がかりに----馬部隆弘

城督には城衆がいる。(配下の国衆でもある)

城衆にとって、戦陣を共にする城督は「自分の軍功」を大名に取り次いでもらう存在です。
そのために戦時下において、城衆(国衆)は城督の指示を仰ぎます。

つまり本来なら大名の被官であるべき国衆が、城督との繋がりの方が強くなってしまうんです。

さらに問題となるのは扶持米(ふちまい)。
元々は城の糧米ですが、褒美として扶持として与えることがあります。
もちろん与えるのは大名です。
が、現実に城から米を出して渡すのは城督です。
ですから、城督は本来大名から預かっただけの城の財産を私物化する危険性を孕んでいました。

城督は在城生活(赴任生活)を送るに当たり、引越しですから自分の所有物や自分の家臣も連れていきます。
それが元からの家臣と「なぁなぁ」になって不正が生じたり、
逆にキチンと線引きしたら対立して派閥化したりで、本貫地から離れた支城だけに大名の目が届かない(。-`ω-)ンー

また城督は普請などの役(租税)も徴収しました。
城の維持管理と預けられた地域の境目維持に必要だからです。
だから大友の城督が謀反を起こすと、アチコチに飛び火してカオスになる。
大友内部では、城督を置く危険性に苦慮しながら、替えるまでに至りませんでした。

一方、毛利のほうでは城督の支配領域単位ではなく、前線で適宜範囲を決めて賦課できる体制にシフトしていったので、固定した城督という制度が不要になっていきます。




以上、参照文献のなかの城督に関する部分を掻い摘んで、まとめてみました。

城督というのが大友固有のワードではなく、大内・毛利でも使われていたこと。
むしろ大内が城督という言葉を創出したことなど、目からウロコでした。

大内や毛利では「城主・城将」のニュアンスで使ってた城督という呼称が、
大友の城督では郡代クラスの権限を与えられていたということ。

なるほどなぁと感じました。
意味を知って読むのと、そうでないのとでは、やはり大きく違うと思います。

毛利は大内の後継だっただけに、柔軟に変化できたけど、
大友は自分で自分の手術ができないように、危険性を孕んだ城督という制度を改革することは出来ませんでした。
生き残る家と、そうでない家の差というのは、こういうところにも出るのかもしれません^-^

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大友ワード_城督(じょうとく)前編

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
 論  考:大名領国における公的城郭の形成と展開
       ----城督を手がかりに----馬部隆弘

まだ同じ本です。
で島津から離れて違う論考の話です。

まず読み方ですが「城徳」と当て字がある用例があるそうで、「じょうとく」で間違いなさそうです。
大友氏で城督というと、立花道雪、高橋紹雲、田原親賢が知られています。

大友氏における城督=任地における大友公権の施行者

城督という言葉は同時代の史料用語としてある言葉なのだそうです。
従って各地の在城している重臣は、「方分(守護代みたいなもの)」ではなく城督と呼ぶのが相応しいとする。

で、ここから自分が面白いな~と思ったのは、
城督という言葉は大内氏にもあり、使い始めは大友ではなく大内が先だったそうです。

ただし、大内氏では領国の行政権は守護代・郡代が掌握していたため、大友における城督ほど大きな権限は与えてなかったらしい。
また城督という言葉は、重臣だけでなく敵側城将にも使ってたとか。

まとめると城督という言葉は大内発祥で、大内から大友に電波・・・じゃない伝播した言葉だった。
大内と大友は敵対したり和睦したりが幾度かあったので、其の時に言葉のやりとりから伝播したんじゃなかろーか~って話なんです。

大内における城督とは、あくまでも大内氏から城を預かった城将の意味で使っていたらしい。
大内・大友・毛利の領国では「城主」という言葉は殆ど使われていないそうで、それに該当する言葉が城督だった。
だから城の本来の城主はあくまで大名。

大内における城督の初見は文明10(1478)年。
大友で敵将を城督と呼んだのが弘治3(1557)年。
大友が自分の家臣を城督と読んだのが永禄3(1560)年と、意外と遅い( ゚д゚)ンマッ!!

で、城督の一番の特徴は、本貫地を離れて派遣されているということ。
大内にとって城将(城主)的意味だった城督だが、軍事的緊張下においては城の維持管理を担う領域の設定が必要になってきたんじゃないかと書かれています。
というのは、大内領(筑前)の郡代が城督を兼務してたからです。

大内のいわば後継者となった毛利氏も城督を踏襲していました。
が、元々の大内ワードであった在している城将や敵将に使う用語に戻り、大友のような領国支配の意味合いで使うのは僅かになり、戦国以降は全くなくなります。

次は城督の問題点なり~(*´∀`)ノ

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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