『征韓録』「島津義久主朝鮮渡海恩免之事(附)家臣梅北一揆之事」
『征韓録』「島津義久主朝鮮渡海恩免之事(附)家臣梅北一揆之事」
の記述から・・・
の記述から・・・
修理大夫義久は年老の為、起居が思いに任せず、その上、持病があった。
殿下はそれを聞き及ばれ、兵庫頭義弘父子に命じて、領国の士卒を率いて朝鮮に渡海させた。
故に義久は、この御礼の為に6月5日名護屋に参陣し、殿下に褐し奉る。
饗応と丁寧な御言葉を賜り、喜悦浅からざる処へ、
家臣・梅北宮内左衛門国兼・田尻但馬という者が、義弘へ従軍する筈が、肥前国平戸の辺りに留まり、更に逆心を企てると、
主君の仰せと偽って、薩・隅・日の悪党らを招き、都合2,000余人を糾合し、
6月14日に肥後葦北郡・佐敷城を攻め、同国の八代の城をも陥れんと協議して、田尻は松橋(まつばせ)を放火、
小川に至って八代の城へ立て籠らんとする処に、その辺りの松羅筑前という者が、
田尻を始め、その子・荒次郎・荒五郎、並びに従う者100余人を討ち果たした。
殿下はそれを聞き及ばれ、兵庫頭義弘父子に命じて、領国の士卒を率いて朝鮮に渡海させた。
故に義久は、この御礼の為に6月5日名護屋に参陣し、殿下に褐し奉る。
饗応と丁寧な御言葉を賜り、喜悦浅からざる処へ、
家臣・梅北宮内左衛門国兼・田尻但馬という者が、義弘へ従軍する筈が、肥前国平戸の辺りに留まり、更に逆心を企てると、
主君の仰せと偽って、薩・隅・日の悪党らを招き、都合2,000余人を糾合し、
6月14日に肥後葦北郡・佐敷城を攻め、同国の八代の城をも陥れんと協議して、田尻は松橋(まつばせ)を放火、
小川に至って八代の城へ立て籠らんとする処に、その辺りの松羅筑前という者が、
田尻を始め、その子・荒次郎・荒五郎、並びに従う者100余人を討ち果たした。
★松羅はすぐに八代の城に入って堅く守った為、田尻の残党は佐敷城へ引き退かんとした。それを松羅の人数が追い掛け、肥後国・赤松太郎と云う処で悉く打ち殺す。
★梅北国兼は佐敷城に在って、家臣の山蜘(やまくも)という天性の狼藉者を近郷へ遣わし、賛同者を募らせる。
★佐敷住人の境善左衛門・安田弥左衛門は国兼の無勢を悟り、若き女房らに酒などを持たせて、炎天の苦労を慰めさせようとする。
国兼はこれを容れて終夜の宴を開き、数盃の興により忽ち危難を忘れた。
すると境・安田は頃合いを見て相図の声を発すると、隠し置いていた者らが四方より集まり、遂に国兼の首を斬り、与した者達も共に討ち果たした。
国兼はこれを容れて終夜の宴を開き、数盃の興により忽ち危難を忘れた。
すると境・安田は頃合いを見て相図の声を発すると、隠し置いていた者らが四方より集まり、遂に国兼の首を斬り、与した者達も共に討ち果たした。
★これを国元からの注進により知った義久は大いに驚き、すぐに石田正澄に依って聴取された。
殿下はこれを聞き召されて、
「朝鮮渡海の始めに不意の変に及ぶ事は吉兆ではない。これは義久の罪である」と怒り心頭である処、大納言(徳川)家康卿が御前に現れ、
「御怒りは御尤もですが、義久は当陣に参り、義弘父子は朝鮮に渡海し、その上、義久の息女と義弘の妻女は聚楽に勤めておりますれば、誰がその子弟を忘れて反逆を企てましょうか。
義久を罰する事は如何なものでしょうか」と頻りに言上した為、殿下も怒りを和らげ義久の帰国を許した。
殿下はこれを聞き召されて、
「朝鮮渡海の始めに不意の変に及ぶ事は吉兆ではない。これは義久の罪である」と怒り心頭である処、大納言(徳川)家康卿が御前に現れ、
「御怒りは御尤もですが、義久は当陣に参り、義弘父子は朝鮮に渡海し、その上、義久の息女と義弘の妻女は聚楽に勤めておりますれば、誰がその子弟を忘れて反逆を企てましょうか。
義久を罰する事は如何なものでしょうか」と頻りに言上した為、殿下も怒りを和らげ義久の帰国を許した。
★隔して義久は薩摩へ馳せ帰り、梅北と与した者の一族を罰しようとしたが、その命が下る前に、既に留守居の者らによりその者らは悉く誅殺されていた。
故に、その旨を記して名護屋へ送ったものの、殿下は憤激しており、その災いは遂に歳久へ及んだ。
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故に、その旨を記して名護屋へ送ったものの、殿下は憤激しており、その災いは遂に歳久へ及んだ。
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『梅北一揆始末書』には、
梅北国兼一党が6月15日、佐敷城へ名護屋よりの御意として城の受け取りを迫ったものの、
安田弥右衛門ら留守居が「この城は肥後守(清正)の端城であるから、隈本城の留守居衆からの書状を持参せよ」との返答、
これに当地の町人・庄屋・百姓らが加担して城へ攻め入り、留守居衆の妻子らを人質にとって田浦付近を封鎖したそうです。
梅北国兼一党が6月15日、佐敷城へ名護屋よりの御意として城の受け取りを迫ったものの、
安田弥右衛門ら留守居が「この城は肥後守(清正)の端城であるから、隈本城の留守居衆からの書状を持参せよ」との返答、
これに当地の町人・庄屋・百姓らが加担して城へ攻め入り、留守居衆の妻子らを人質にとって田浦付近を封鎖したそうです。
で、17日に安田ら留守居衆が登城し、国兼に酒と鮒寿司で接待し油断した処を井上弥一郎が国兼を討ち取ったそうです。
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この国兼叛乱の理由は判っていませんが、史家・"紙屋敦之"氏に依ると領地問題に端を発しているのだろうとの事。
一つ前の記事に、島津は領地を失った者へ、領地を失わなかった者の土地から補填しなかったと書きましたが、実は天正20年4月に、寺社領整備と共に地頭職分の返納について評議が持たれています。
結局は寺社領整備のみが実行に移されていますが、地頭の地位を脅かす様な政策が実施されようとしていた可能性を紙屋氏は指摘しています。
実際にそんな政策があったわけではありませんが、湯之尾地頭であった梅北国兼がこの議題を切っ掛けに憤りを感じ、同じく不満を抱く者らを糾合し秀吉への叛乱に及んだ可能性はあるだろうと思います。
結局は寺社領整備のみが実行に移されていますが、地頭の地位を脅かす様な政策が実施されようとしていた可能性を紙屋氏は指摘しています。
実際にそんな政策があったわけではありませんが、湯之尾地頭であった梅北国兼がこの議題を切っ掛けに憤りを感じ、同じく不満を抱く者らを糾合し秀吉への叛乱に及んだ可能性はあるだろうと思います。
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