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◎『有馬家由来の事』

肥前国高来島志自岐原(今の原の城)城主・《有馬越前入道随意斎仙岩》というのは、大織冠鎌足公の苗裔・伊予権守純友の嫡流で、有馬肥前守貴純は孫子・左衛門尉尚鑑の子である。
童名は軍童丸、中頃修理大夫に任じ、公方義晴公の諱を賜り清純と号し、その後また義の一字を賜って越前守義貞と改めた。
この仙岩、当時その威、強勢の大将であり、先帝後奈良院のとき天文13年11月に京都へ吹挙し、勅使・日野中納言晴光卿を自らは領地に居ながらに申下し、自領の濱の松丘祇園社へ出迎えて宣命を拝し奉り修理大夫に任じられ、すぐさま勅使晴光卿を岩崎へ迎え請け、種々の饗応で持て成し、数えきれないほどの様々の引き出物を献じた。
昔のことは判らないが、近代に於いて田舎の武士が官途を得るときに、領地に居ながら勅使を申下し宣命を受けるなど稀代の珍事である。
この仙岩の曩祖・伊予権守藤原純友のことを伝え聞くに、昔、天慶の初めに武蔵権守平将門と心を合わせ世の乱れたとき、両人約したのは、此度、天下を奪い取って、将門は王孫であるから帝王となるべし。
純友は大織冠の末裔であるから関白になるべしと談じ、将門は関東に在って自らを平親王と称し、東百官と名付けて勝手に官職を立てて百官を召し使った。
そして下総国猿島郡石井郷に於いて旗を揚げ、純友は任国予州に下って共に逆意を企て天下を暗闇になさんとする。
しかし、将門は俵藤太秀郷のために承平2年2月13日に関東に於いて梟首され、純友は六孫王源経基・大納言好古・民部少輔藤原伊伝・大蔵朝臣春実・越智朝臣好方以下に攻められ、天慶4年5月3日に誅伐される。
然るに純友の子・遠江守直澄が予州より没落し、その子孫が肥前国高来島に漂着して、永く有馬に居住した。
斯かる朝敵の末裔であるから終に上洛なりがたく、年久しく辺境の奴子となり果てていたところに、いつしか有馬浦を知行してその在名を称して威を振るい、近年は高来・彼杵・杵島・藤津の四箇郡のうちを押領し、高来の原・日江・藤津の松丘・鷲巣これらの諸城を堅固に持ち、安富・安徳・島原・多比良・千々岩・神代・志自岐、そのほか多久・松浦・平井・馬渡・伊福・西郷・永田・宇礼志野・白石・上瀧原以下の城持ち共を属下にし、既に兵馬二万余騎の大名となった。
また往古・将門・純友と父子の契約をなして平氏を援けたゆえ、中頃の有馬家は平姓であった。
今の仙岩入道は純友28代の孫という。
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◎『渋江家由来の事』

この盬見城主渋江氏の祖先は何かと尋ねるに、人王31代敏達天皇の5代の孫・井手左大臣橘諸兄公の末葉である。
この諸兄、才知の誉れ世に高く、聖武天皇の頃には、既に政道の補佐をしていた。
その孫子・従四位下兵部大輔島田丸は尚も朝廷に仕えていた。
しかし神護慶雲の頃、春日の社を常陸国鹿島より今の三笠山に移らせたとき、島田丸は匠工の奉行を勤めたのであるが、内匠頭何某が99の人形を作り匠道の秘密を以て加持していた。
この人形に忽ち火が燃え移り風が舞って童の形に変化したのを、ある時は水底に入れ、ある時は山上に倒れて神力を発揮し、召しつかわれている間、思いの外に大功をなし早速に成就するに至った。
隔して御社造営が成就したあと、この人形を川中に全て捨てたのであるが、変わらず動き続け、人馬6頭を侵して甚だ世の禍となった。今の河童とはこれである。
このことを聞き及んだ称徳天皇は、そのときの奉行である島田丸に急ぎこの禍を鎮めるよう詔を下した。
島田丸がその勅命を奉じ、その赴きを川中水辺に説いて回れば以後は河童の禍はなくなった。
これよりこの河童を兵主部と名付ける。元より兵主部を橘氏の眷属とはいっていった。
島田丸六代の孫・大納言好古のときの天慶4年、朱雀院より征西将軍の勅号を賜り逆臣・藤原純友を討って伊予国を賜ったのであるが、子孫九代の間はこの国に住まわなかった。
その九代の嫡孫を橘次公葉といい、鎌倉頼経将軍の近習となって薩摩守を受領した者である。
この公葉のとき、先祖累代の領地・伊予国宇和郡を禁裏が常陸井関白へ下賜したのであるが、その替地として、公葉へは豊前国副田庄・肥後国久米郷・大隅国種子島・肥前国長島庄が与えられ、嘉禎3年はじめて伊予から肥前へ入り、長島庄に移って盬見山に城郭を構えて居住した。
公葉には6代の孫・橘薩摩弥次郎公継、その子・公経、同じく弥五郎以下、建武・暦応の合戦で将軍方に属して勲功を重ねて恩賞に預かった。今の豊後守公師は公葉から16代の後胤である。

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◎『黒木河崎星野由来(附)侍宵侍従の事』

筑後国の住人である黒木・河崎・星野というのは元来一姓で、世に稀な調姓である。

その由緒を尋ね聞くに、中頃、上妻郡河崎の庄は黒木山の城に、蔵人源助善という者があった。

その先祖は薩摩の根占に住んでいたため”根占の蔵人”ともいった。

歌読みであり笛の上手でもあった。

この蔵人、頃は人皇80代は高倉院の時代、嘉応年中に大番勤めのため上洛して内裏に仕えた。

そんなある日、管弦の遊座が催される際に俄かに笛の役が欠けたのであるが、そのときに徳大寺左大臣実定卿がこの助善の笛の器量を予てより聞き知っていて、そのように奏聞があったときに、ならば助善を殿上へ召すべしと勅定があって縁に参じて笛を吹くと、堂上の笛の音よりもなお澄みやかにその調べをたたえて御遊びは無事に終わった。

主上は甚だ感じ入って、助善に調子の「調」の字を姓に下賜し、更に従五位下に補任して蔵人大夫調助善と名乗らせた。蔵人のときの面目である。

この蔵人が在京の間は徳大寺殿から懇意にされ、雨の夜・宵(雪か?)の朝・月花の遊宴にも常に昵近された。

或る深夜のこと、徳大寺殿が助善を伴い、知り合いの女の元へ立ち入ろうとした際、女は待ちわびて
”待つ宵に 更け行く鐘の こえ聞けば あかぬ別れの 鳥はものかは”
と詠み、稀に逢う夜の恨み言も尽きなくて、その朝に実定が帰る際、あまりに別れが惜しまれて、助善を女の元へ返して尽きない名残を託したのであるが、助善は女に向かい一首の歌を詠んだ。

”物かはと 君がいいけむ 鳥の音の 今朝しも如何に 恋しかるらん”
これより助善は異名を”物かはの蔵人”と称され、女は”待宵の侍従”といわれた。

この女、元は阿波局という高倉院の官女であった。あるとき、悩みがあるときに歌を詠んで叡慮(天皇の御心)に叶い、供御を上ってその侍従とされた。

父は八幡の別当法印武内光晴、母は健春門院の小大進である。

隔して蔵人、大番を勤め終えて帰国する際に、徳大寺殿がこの年月のことを思い、この待宵の侍従を蔵人へ下された。

蔵人は身に余る面目と、この女を伴い帰国した。

しかし、黒木山にいた本妻がこれを聞き付け大いに腹を立て、
「その京上﨟め、何故にここに来るのか。片時も此処に置くなどできない」
と、下人共と語らい城の麓の大河を境として、これを入れないように防がせる。

しかし蔵人大夫はこれを打ち破って待宵と共に本城へ入った。

本妻は息巻いたが聞き入れられず、境の黒木川の深淵に身を投げて死んだ。

その骸の寄った所にこれを埋め祠を立てた。これを今の世まで築地御前という。

侍従はすぐさま懐妊し、程無く男子を生んだが、これは実定卿の子であるため「定」の字を実名に用いて《黒木四郎調定善》と号した。

この子孫は代々、黒木山猫尾城に居住した。

その後、侍従はまた男子を産んだ。

この蔵人の子の子孫は星野・河崎と号し、星野は生葉郡星野妙見城に代々居住し、河崎は上妻郡川崎伊駒野の城に居住した。

しかし、彼の築地御前が侍従腹の子孫に怨を遺して根をなす

これによって、黒木の子孫からその霊魂を祀るようになった。

その祭りには年に一度、彼の女の忌日に身を投げた淵に”粋(すい)”という器に化粧の道具を入れて水上より流すのであるが、その場所へ至ると忽ち沈んで見えなくなるという。黒木の子孫は今は築河にある。

また、待宵侍従が下向した際、所願あって高野山に一寺を建立し”講坊”と号した。これは調姓の菩提所である。

別説として、蔵人助善は元来高倉院北面の侍であり、六位を歴任した歌人で、異名として蔵人という(或は助能)。

この蔵人の子孫が今に徳大寺に仕えて苗字を”物加波(ものかは)”と号した。

黒木河内に於いて古人が語るには、黒木・河崎・星野の三人は腹違いで、黒木は待宵腹の高倉院の子で総領を継ぎ、後は本妻の子だという。

また、黒木の家は27代で、蔵人助善から兵庫助実久に至り、天正の末に大友家のために衰亡したという。

待宵侍従は後に帰京したのであるが、墓は八幡にある。

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◎『後藤家由来の事』

北肥戦誌より抜粋



後藤というのは元祖は如何なる者かと尋ね聞くに、大織冠の末裔・左近将監、兼武蔵守藤原利仁将軍の子孫である。

利仁6代の孫を後藤内則経という。

源頼信に仕えて、或る時は越前の盗賊を征伐し、或る時は市原野の猿童を誅す。

その子を後藤内章明と号す。北面にあって昇殿を免じられた故に雲上後藤内と称し、また河内国坂戸を知行したことにより坂戸判官ともいう。

これも源頼義朝臣に仕えて八幡殿の乳母子となる。

義家一年のとき、奥州の安部貞任を攻め、七箇年の在陣で大功を立て、義家朝臣が僅か七騎になったときも格別の軍労があった。それを七騎武者と称す。

その七騎とは、鎌倉権五郎景政・三浦平太郎為次・忍三郎季茂・加藤加賀介景通・首藤権守助通・後藤内章明に大将の義家を加えた七人である。

この章明の子である後藤太資茂も相次いで義家朝臣に仕えて、清原武衡追討のとき出羽国に於いて軍功があった。

その後、義家の子息・六条判官為義の天仁2年に伯父・義綱を江州甲賀に討ったときも相従った。

隔して、この資茂のとき初めて肥前国杵島郡塚崎庄の領地へ下向した。

それ以来、その子・後藤資明が塚崎の城に居住して、人皇76代近衛院のとき仁平年中に、八郎為朝が鎮西在国の中、黒髪山の大蛇を射たとき、専らその評定の人数であった。

この資明26代の孫を《後藤純明》と号した。

この純明には男子がなく、《大村純前》の次男・又八郎純を養い一人娘に娶せて、中頃は後藤左衛門尉と号し、後には伯耆守と改めた。今の貴明がこれである。

初めての室は早世したため、それ以後は伊佐早の伊福氏の女を迎えた。

この貴明、武勇あくまで優れ、近年は後藤領の他に他郡を多く切り取り、門前に馬を繋ぐ血判の侍は既に400余人という。

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◎『神崎櫛田宮の由来(附)執行本告の事』

北肥戦誌には、ときおり各家の由来が出てきます。

記述の順番としては、いろいろ前後しちゃうんですが、話の流れとは別の閑話休題的なものなので、由来は由来で別にUPします。

まぁ北肥戦誌外伝?的な?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!



《執行越前守伴朝臣種兼》の先祖は元来、下関の神崎櫛田宮の執行職である。

この櫛田というのは、忝くも聖王の勅願に異国の賊船退散のため、往古から三社の大明神を肥前国神崎郡に崇め奉る社で、所謂、櫛田・白角折・高志社とこれらは稲田姫を祀るところの九州最大の大社である。

その神領は、北は山内・藤原を限り、南は海際崎村まで、東は米田原、西は尾崎村まで分量数千町、これを名付けて神崎の御庄という。

年中の神事は。古は13度であったが、中頃になると鎮西は大いに乱れ、山賊・海賊が満ち満ちて、祭礼の勅使が下向することが叶い難かった。これにより略され年中3度とした。

さて今の執行種兼の先祖は、天忍日命の苗裔である伴國道12世の孫・伴兼資と号し、人皇84代順徳院の治世である健暦年中に当社の執行別当職に補せられ初めて下向し、健暦3年12月19日の午の刻、修造上棟のときにこの職を勤める。その子息・伴太郎兼篤朝臣は変わらず父の職を受けて、肥前に在国し当社の司職であった。

人皇90代後宇多院の治世である弘安の頃には、蒙古の数千艘が筑前国博多へ襲来し天下の騒ぎとなったため、公家・武家の執政により櫛田から東田手村に蒙古御祈祷所として七堂伽藍を建立した。また、東妙寺南西大寺の唯圓上人を以てこの寺に居住してより、東妙寺を櫛田宮の修理別当と定められる。

その後、東山殿義政将軍の康正3年7月29日の修造上棟のとき、《本告資景》を以て宮柱とした。

この御社、その後は公家・武家の崇敬も失われて神領も減少し、3度の神事すら絶えていった。

隔して、近代の執行は江上に招かれ竹原に在城し、本告は牟田に居城を取り構えた。

そして、今の越前守の祖父・兼貞のとき初めて苗字を称し執行と号す。

その子が執行直明、その子が越前守である。

(元々は元亀3年、執行が活躍し筑紫貞治が実は綾部の本城にいたとの記述の後に続いてました)

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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