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【養子はツライぉ!】福岡藩初代藩主編6栞歴31

藩組織が完成された江戸時代になると、他家から養子を迎えても大きな動揺は起きない。
(家名・藩存続が最優先)

だが、まだ過渡期の戦国時代は、家(組織)の他に「主君」という血肉の通った忠誠の対象を欲した。

当主に子供がいなければ、男系・女系のいずれであっても親族から養子を迎え、血筋を繋いでいくのだ。

係累の少ない豊臣家では、政権樹立当初から後継者問題が根底にある。

そして、それは黒田家の問題でもあったのだ。

毛利家の分家・小早川家に、秀吉の甥・秀秋が養子として入るのは、長政の父・如水が斡旋したと言われている。

実は、豊臣政権初期五大老の一人・小早川隆景は「如水の親友」だった。

ちなみに小早川隆景は、佐賀の鍋島直茂とも親友で、その繋がりで黒田家と鍋島家も親しい。

(ただし、小早川隆景は「軍師としての黒田如水」への警戒心はキッチリあった^^;)

文禄3年(1594年)に、秀秋が小早川家の養子となり家督を継ぎました。

当時まだ13歳の甥がポカしないか心配で、秀吉は家老を二人(稲葉&平岡)付ける(付家老と言います)

その内の一人・平岡が如水の姪、つまり長政の従姉妹の夫だった。

付家老に黒田家の縁戚が付くのだから、やはり養子問題には如水が一枚噛んでいたかもしれない。

とにかく如水は、小早川家の後継問題に突っ込んで話せるほど、隆景と親しかったのは確かです。



戦国のフェアリー?黒田如水

隆景には実子はおらず、毛利本家から養子(元就の庶子)を迎えていた。

本家から来た養子は、血統だけでなく大変に優秀で、家中から慕われていた。

なのに、それを押しのけて、天下人・秀吉の権力で秀秋が養子に入ったのだ。

文字通り、どこの馬の骨ともしれない秀吉の甥を「主君」と呼ばねばならない「不幸」に、家中は慟哭した


「不幸」は「不幸」を呼ぶのか,隆景も間もなく病で死んでしまう。

秀秋を見る小早川家臣たちの目は、刺すように冷たかった・・・・


かつては「関白候補」だった秀秋は、大坂城で贅沢・ワガママに育っており、環境の変化についていけない。
(正規の武家の出自ないからか天性か、秀吉の子育ては単なる猫可愛がりで躾下手) 

さらに秀秋には、友達や仲間がいなかった。

三成にですら「生死を共に」と誓う大谷のような真友がいるのに、秀秋は武断派の誰からも声がかからずポツーン(ω・`))

秀吉が(豊臣の権威付けで)秀秋の官位をガンガン高くしたので、同世代の大名の子弟と遊ぶことがない。(席次が違いすぎて近寄りがたい)

さらに出世目当ての取り巻きに囲まれている秀秋の側には、心ある大名は近寄ったりしない。

実子・秀頼が生まれると、取り巻きはアッという間にいなくなり、秀秋は一人ぼっち。

さらに養父の隆景が死んだ時に、小早川家臣の主だったものは毛利家へと帰参してしまう。
(隆景の遺臣引き受けで、毛利家は少なからず混乱する)

秀秋が頼れるのは、北政所(秀吉の正妻)と、秀吉が付けた家老(平岡&稲葉)だけだった。




後に大名となった稲葉家の記録によると、1600年5月の会津征伐の時点で「小早川は家康に味方します」って伝えていたそうだ。

時期がホントかどうかは別にして、小早川家は両家老たちの決定で「徳川側として」ヤル気マンマンで戦の準備をしていた。

平岡&稲葉「なのに、なんで三成に「味方する」って勝手に返事しちゃうんですか!!

秀秋「だって~筑前なんて田舎(失礼)やだ!畿内に戻りたい~三成が秀頼チャン成人まで関白にしてくれるって~~三成に味方するんだぉ~当主の決定だぉ~

平岡&稲葉「わぁぁ~そんな話を真に受けるから、おバカキャラにされるんです!!

(天●人でのキャストはイメージピッタリだったかも・爆)
以下、平岡と稲葉の説教なんでスルー可

「秀頼君成人まで政務を執るのは、亡き太閤の遺言で「五大老・五奉行・十人衆と決まってます!関白なんてなれるわけないでしょ~~」
「慶長の役(1597年)で秀秋様が軍令違反をして処分されたのを、徳川家康様に不問にしてもらった御恩を忘れたんですか?!越前に飛ばされるとこを助けてもらったじゃないですか!」
「友達いないから相談する人いない~~~って、北政所様に泣きついて、徳川様を紹介してもらったんですよ!」
「小早川は毛利の分家なんだから、本来は毛利本家に取次を頼まなきゃ~なのに、本家の頭越しに徳川様に取り次いでもらってるんだから、そのまま徳川様の組下に入るのが筋ってもんです!!」

(o>ロ<)<ガミガミ!ケンケン!バゥバゥ!  とまぁ、こんな感じで秀秋はガッツリ叱られ、とにかく「適当な所で西軍を裏切ろう」という事になった。

平岡は親戚コネで黒田家に接触、その時に同僚の稲葉も誘った。

そして西軍を裏切る証として両家老は、それぞれ人質を出した。

さらに関が原本戦当日は、徳川家から奥平、黒田家から大久保が目付として派遣され、小早川家を監視していたんです。

つまり小早川秀秋は「東軍」を裏切れる状況じゃなかった


******秀秋が三成との約束通り、東軍に攻めかかるためのハードルは最低でも2つ******

1)人質に出してる家老の身内を見捨てる。
2)目の前の奥平(徳川家臣)大久保(黒田家臣)を血祭り・・・もしくは拘束する。

*****************************************************************************

実は小早川家には、平岡・稲葉の両名の他に家老が2名いるのだが、後年に一人は出奔、一人(杉原)は秀秋が手討ちにしているので、関ヶ原当時から良好な関係ではなかった。

13歳から6年間・・・自分の側にいてくれた平岡と稲葉の両家老以外、秀秋には家中で頼れる人がいないんです。

上記のハードルをクリアするのは到底無理だったでしょう。



小早川の精強な15000の兵力が何としても欲しい三成は、秀秋に影響力を持つ二人の家老にも誘いをかけていた。

恩賞として近江あたりに、それぞれ10万石+当座の支度金として黄金300枚づつ渡してた。

予想より多く集まった西軍と、本戦当日予想以上に奮戦する西軍に、やっぱ普通に迷ったらしい^^;;

なかなか西軍を攻撃しない小早川に「イラっ」とした大久保(黒田家臣)が平岡に叫んだ。

大久保(黒田家臣)「なぜ西軍に打ち掛けない??我が主君・長政を欺いたのか?!八幡菩薩に起請した上は疾く兵を進められよ!!


平岡は「い・・いまタイミング計ってるの!ちゃんとヤるから見てないさい!」と返事したそうですwww

平岡さん~カッコつけてるけど迷ってただけじゃね?(爆)

とにかく、大久保の声で(やっと)踏ん切りがついたらしい・・・大谷隊への攻撃命令が出たんです。



さて、盛りあがったところで冒頭にもあげた後継問題に話を戻そう。

実は黒田家でも真剣な悩みでした。

突撃バカで、どこの戦場でも最前線で戦う長政(当主)です。

いつなんどき、昇天☆彡になるか分らないのに、なんと黒田家には未だ嫡男がいなかったぁぁ。

次回「戦国の地味婚」それは・またの話 by^-^sio

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【取次】福岡藩初代藩主編5栞歴30

愛しの吉川広家と益田元祥に捧ぐ~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

福岡・黒田藩は、幕末まで藩が存続した勝ち組のイメージだが、家康は・・というと終生、長政を警戒し続けた。

大坂・冬の陣(1614年)~福島正則と同様に江戸留守。代わりに長政の息子・忠之が出陣。

同じく夏の陣(1615年)~従軍したものの、将軍・秀忠の配下で幕府の監視下にあった。

それどころか「大坂の陣」の後、本国・福岡へ帰る事を許されず、そのまま5年間も江戸在府を命じられる。

「関が原の戦い」で大きな手柄を立てる長政だが、その功績ゆえに家康に恐れられたのです。

ブログ炎上のように、あちこちの大名と揉めまくる石田三成。

彼は、毛利家の分家・吉川家(武断派の一人)ともガッツリ揉めていた( ̄ω ̄A;アセアセ

それも当主の広家だけではない。

ご丁寧にも、吉川家の家老・益田元祥とまでガチで揉めていた ( ゚д゚)ンマッ!!

吉川軍が「関ヶ原の戦い」で西軍を裏切ることができたのは、吉川家老・益田が、全面的に賛成(てか裏切りの話は益田から切り出した件~~)した「吉川家の総意」だったからです。

だから西軍から怪しまれつつも、ギリギリまで裏切りを隠し通すことを可能にしました。

裏切りは吉川の総意!だが一つ問題がある。

西国大名の広家には、東海道~関東がフィールドワークの徳川家中に親しいコネが無い!!(_´Д`)アイーン


「直接言えば良いんじゃね?」って思う方「とんでもありません!!」

武家や大名において「取次=仲介してくれる人」無しで、やりとりすることは平時でも、まず無いです。

カオスでフリーダムの戦国時代~いつ誰が寝返るか解らない時代だからこそ「取次」は絶対不可欠でした。

「取次=仲介人」は、それぞれの主張の生証人でもあるからです。

重要な役割を持つ「取次」に選ばれることは、その武将にとって大変な名誉でもありました^ー^

(交渉がうまくいけば、それなりの礼金も入る)

吉川広家は、徳川家への「取次」に黒田長政を選びます。

長政が断ることは200%ありません。 

「取次」役は長政にとって名誉なだけでなく、吉川を裏切らせることは長政の手柄になるから・・です。



黒田家紋

毛利家の本領安堵~この家康の約束を無邪気に信じるほど、吉川広家は愚かではない

吉川広家が考えていたのは「関が原の戦い」の後に来る戦後処理の方です


毛利輝元が西軍の総大将を引き受けた時点で、毛利家が無傷ではいられない事は百も万も承知の上。

戦後、その傷をいかに軽くするか、1カ国でも多く毛利家の領地を残したい!

「本領安堵の約束」は、あくまで交渉のカードの一つにする予定だったはずです。

もし、吉川が黒田長政の「取次」なしに、裏切りの交渉を直接、徳川としたらどうなったと思います?

直接交渉の場合の想定問答~

徳川家臣:あ・毛利は取り潰しですよ~~「総大将の毛利本軍が不戦しますっ」て、どーみてもワナだと思って殿に知らせてなかったの~~~ワシが腹切るからして勘弁ね~

吉川広家:え~~~伝えてた事すら「知らぬ存ぜぬ!?」ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!


ってなるだろうなぁ^^;

ちなみに、この手の自己犠牲的忠義は、にわか出世・急造大名の家臣においては滅多に出てきません。

やはり累代続く譜代家臣を抱えた「武門の家」なればこそなんです。

吉川広家は、万が一の用心として長政を通じて ( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<毛利家は不戦!不戦!!HUSENN~~~と、家康の耳の穴を,よぉ~く,かっぽじって伝えてもらったんです。

吉川家単独の裏切りなら、むしろ直接の方がアピールするだろう。だが、事は毛利本家の存続がかかっている。

家康が「相手の名誉を潰す事が出来ない・大名の取次」が、保険として必要だった


「関が原の戦い」の段階で家康は、あくまで豊臣政権の五大老筆頭の資格で戦争し、戦後処理も行っています。

急速に勢力を拡大しつつも、まだ家康は微妙なミリタリーバランスの上にいました。

つまり、家康は「毛利家を潰すためにウソを言え」と自分の家臣には命令できる

だが、自分の家臣ではない大名の黒田長政には「長政自身のメンツを潰して陰謀に加担してくれ」とは命令できないんです




徳川家紋

それを言ったら御仕舞よ~~「豊臣家のため」って、東軍集めた苦労が水の泡~~~野心バレバレです^^b

吉川広家は、事が露見し交渉が失敗したら、全ての責任をとって腹を切るつもりでした。

家老・益田とも、その覚悟を確認し合い、互いに誓紙を認めています。

誓紙を交わしたのが黒田長政に接触する前で、慶長5年(1600年)の7月15日!三成挙兵の僅か2日前の事です。

「毛利の内情」も「吉川の立場」も全て胸中に飲み込んだ上で、西軍が負けた後も毛利家存続のために最後まで取次してくれる人物。

それは十数年来の親友・如水の息子、黒田長政を置いて他にはいない。

義兄弟になるほど親しくとも「取次」は如水じゃダメ!

なぜなら如水は隠居=私人だからです。 

平時ならいざしらず、戦時下での「取次」は公人である現役当主でなければならない。

でなければ「あれは隠居ジジィの世迷言だ」って後日スルーされる可能性がある。


「取次」である長政の面目・メンツを考慮に入れなければならない家康は、様々な交渉の末、毛利を周防・長府二カ国に減らすことで妥協します。

長政は「豊臣恩顧の友人」と距離を置き、幕府に忠義を尽くしました。

江戸に置く人質だって、長政の奥方は当然、子供も・男子3人を全て出してます。

それでも家康は長政を警戒し続けました。

見るからに知恵の塊のような父の如水より、パッと見、鈍そうで戦バカと思っていた長政の意外な交渉能力の高さの方を恐れたんです。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_2?1335013318

毛利本軍の動きを止めたのは、吉川の裏切りだけでなく、毛利の家老たちも複数名、仲間にしています。

そのうちの一人、熊谷はキリシタンでしたが、その洗礼には長政の父・如水の勧めがあり日頃から親しかった。

毛利本家の家老たちにも、黒田親子の太い人脈があったのです。

本戦当日に、毛利本軍が無理でも、安国寺恵瓊までが動かないことに「ヘタレ」と揶揄する人がいますが、そうではありません。

恵瓊は動きたくとも動けなかったんです。

僧侶である恵瓊は自前の兵力が少なく、毛利家から援軍を受けてました。

その借りた兵というのが、吉川軍からで、しかも益田が派遣されてたんですよ^^;アチャー

***関が原の戦い本戦の日****

長政の元へ、徳川の使者が「毛利・不戦」は間違いないか、と確認に来ました。

長政は「ワシが知るか!後は弓矢が決めることだ!」と叫んで使者を追い返します。

使者の報告を聞いた家康は「長政の云う通りだ」と、己の焦りを苦笑したそうです。

毛利と吉川における事前交渉は全てやり尽くした・・・後の勝敗は時の運なのだから・・・

さて長政の本戦前の活躍は続きます。それは・またの話 by^-^sio

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【対立】福岡藩初代藩主編4栞歴29

三成が「朝鮮の役」の早期講和派だったのは、当時の武将たちは知っていた。

だから戦争を早く終らせるために、三成の秀吉への報告には、何らかの工作をしているのではないか?

と、武将たちは疑っていました。

そして実際に三成が握りつぶした訴えもあったんです。

それは吉川広家の家老・益田の訴えでしたが、三成は自分と同心している安国寺恵瓊のために、益田の訴えを取り上げなかったの。
(毛利家中で恵瓊と吉川広家&家老の益田は不仲)

だから武断派大名が「三成はエコヒイキする(怒」って言うのは、全くのデマではないんです。


文禄の役(1592年)で 父・如水や長政の友人たちも処罰され、揉めまくる三成。

慶長の役(1597年)では、長政とも揉めています(当然 揉めるのは 長政一人だけではない)

「第一次蔚山城の戦い」の時、加藤清正たちがピンチに陥り、その援軍として蜂須賀家政と長政が戦った。

ところが合戦後に「戦闘に参加していない」と報告されてしまうんです (゚ロ゚屮)屮ぇえっ!

蜂須賀家は秀吉との関わりが深く太閤記でも有名ですが、実は(朝鮮の役当時)長政の妻は蜂須賀家政の妹です。

その辺りの事情は、おいおい黒田長政編で語って参ります^^

で、実際には蜂須賀隊は浅野長政を救出するなど活躍しているし、長政も自分の軍から応援部隊を差し向けているんです。

長政本人が援軍に行かないのが悪いとのだとしても、長政だって自分の持ち場があるんです。

ゲームじゃあるまいし、右から左にスイスイ行けませんよ(怒)


報告したのは軍目付(ぐんめつけ=監視役)の福原長堯(妹の夫)・熊谷直盛(妹の夫)・垣見一直(近江出身)~

そろいもそろって三成の縁戚と三成の出身地の近江人(爆


他にも早川長政・竹中隆重・毛利高政も帰国の上、逼塞させられた。

長政は父のことがあるので、裏で三成が糸を引いていると思い込んでしまう。

これだけの規模で、しかも海外派兵ですから、軍目付だけで各陣営を回りきることは出来ません。

実際の現場の監視は検使(けんし)が派遣されます。

おそらく誤解とミスやタイムログが重なり、間違った報告が福原たちに届いたのでしょう。

そして不幸なことに、そのミスは精査されることなく秀吉の元へ届いてしまった・・・!




黒田家は父・如水の代で急成長したので、家老は如水の元同僚・同郷人が多い。

それだけなら名門以外の戦国武将みんながそうなんだけど、黒田家は他家とは事情が違う。

織田時代の時~信長に謀叛を起こした家臣の説得のために如水が乗り込むが、そのまま幽閉されてしまいます。

如水も裏切ったと早とちりした信長は、人質として預かっていた息子・長政の処刑を命じました。

幸い長政少年は秀吉の軍師・竹中に助けられ匿われていましたが、信長の手前、公式には死んだものとされた。

如水は良くて殺されているか、悪ければ織田を裏切ったと思われていた。

黒田家臣は織田家中で気まづいし、バカにされるしで、悔しさに歯噛みしつつもリベンジを信じて耐え抜いた。

そして、まだ身分の低かった家老の栗山が、如水・奇跡の脱出を成功させるのです。

「主君不在と嫡男不在」という武家としての異常事態を乗り切った黒田家中の結束は、非常に固い。

それは大変に結構なのだが「黒田家はワシらが守った!」という自負の強すぎるあまり、家老たちの長政への突っ込みは遠慮・容赦が無くなってしまった^^;;(愛情はあるけどね)

それでなくても父と家臣・後藤が天才なので、長政にかかる重圧は人一倍どころか、人千倍くらいのプレッシャーがかかった。

気が弱いものなら人格が歪みかねない環境で、長政が「自分らしさ」を主張できるのは戦場だけだったろう。

必死で頑張って上を目指して登ってきたのに「戦闘に参加していない」と報告され、長政は登ってきたハシゴを外されたような心地だったに違いない。

負けず嫌いの長政は凹む代わりに三成を激しく憎むようになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【●ブン、●レブン、父処分♪】福岡藩初代藩主編3栞歴28

タイトルは単なるゴロ合わせ~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

長政(ながまさ)の父・如水(じょすい)は、秀吉の命令で五奉行筆頭の浅野長政(あさの ながまさ)と共に朝鮮へ行くことになりました。

実は「長政」って名前(諱)は、戦国武将では割と多く「野球チーム・ながまさ~ズ」が作れちゃうほどです^^;

紛らわしいのでフルネームじゃなくて、名字で浅野と呼び捨てにします~~

で、この「浅野」は秀吉の正妻・北政所(ねね)の義弟にあたります。

北政所は、この浅野家で養女として育ったので(生家は別にある)浅野家が実質的な実家になります。

ただし浅野の五奉行筆頭は北政所の七光りではありません。

石田三成が有名すぎて地味な浅野ですが、とっても優秀な官僚で太閤検地でも辣腕を奮ってます。

秀吉の信頼も厚く「表(おもて・行政)のことは浅野に聞け」とまで言われるほどの権勢を持ってました。

つまり当時の三成の上司にあたるのですが、そこは安心?安定?の三成テンプレート^^

あの出過ぎ者め!ってことで、ものの見事に嫌われ、北政所の実家を味方に出来ずにいた(爆


ですが、三成は北政所個人とは親しかったので「朝鮮の役」前までは、細川忠興とかを除いて武断派とも(概ね)上手くいってました。

後年、三成が「淀派」だってウワサが出るのは後世の創作ですが、あんがい北政所の実家・浅野家との不仲が出所かもです^^b

如水と浅野の二人は、文禄2年(1592年)の7月には朝鮮の陣中にいるので、同年8月3日生まれの豊臣秀頼誕生の時は、日本にはいません。

そして、事件が起こった・・・


作戦会議までの時間つぶしに、二人は囲碁をしていたのだが(特に浅野が囲碁にハマってた)

ちょうど勝負が佳境に入り、時間になっても会議の席につかない。

几帳面な三成が催促したけど、浅野は三成が嫌いで奉行職では上司で先輩だから、そのまま待たせたのね。

怒った三成が帰ろうとしたので(マズイっ)と、さすがに二人も止めて三成を引きとめた。

けど三成は「あんたらは、囲碁でもやってろo( ̄Д ̄θ★ケリッ!」と捨てセリフ残して自陣に帰ってしまった。

さらに「あいつら、遊んでて会議に来なかったんです!」と秀吉に報告してしまった。

如水は、渡海前に大口叩いているし、まずいことに浅野も「朝鮮の役」に大反対して秀吉の機嫌を損ねる、ということがあったの。

秀吉は「悪意によるサボタージュ」と受け止め、二人に帰国・謹慎命令の処罰を下した!





正直なところ、二人を処分した後の影響を三成が自覚してたかどうか、どうも怪しい^^;

世間は「三成が自分にとって用済みの軍師と邪魔な上司を排除したんだ」って思った


この処分を怒った武断派大名の中に、吉川広家(きっかわ ひろいえ)がいる。

「関が原の戦い」で、三成のいる西軍を裏切る吉川広家・・・

その吉川広家と如水は、実は義兄弟の間柄でした


あ、衆道(しゅうどう・ホモダチ)的な関係じゃないです^^;;

今風に云うとマブダチ(これも古いか?)真友・心友ってやつです^^b

年齢は15も離れているんだけど、広家の亡き父親・元春を通して交流があったの。

でもって大親友・如水の紹介で、武断派大名とも親しく交際してた(だから前回のような逸話がある)

黒田長政が「関が原の戦い前」に、広家に対して接触&裏工作ができたのは「大親友の息子」ってことで、7つ年下の長政を弟みたいに可愛がってたからなんです。

吉川(も)いろいろ理由あって(もともと)三成が嫌いだったんだが、この朝鮮の役で「心の底から三成が嫌い」になってしまった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

吉川が西軍を裏切るのは諸要因あるのだが、前提として「石田三成が大キライ」ってのが根っこにあるんです。

二人が処罰されるキッカケを作った石田三成は、両名と縁のある武断派大名の全てに嫌われてしまった。

もともと三成は「朝鮮の役」の軍監(ぐんかん・各武将が命令通りに働いているか監視する役目)で、秀吉へ大小さまざま報告するのが職務でした。

ですが、あまりにも仕事に忠実すぎたために、武断派大名たちに「いつか殺す!」と思われるほど憎まれてしまった。

如水への謹慎処分は、息子・長政の手柄を考慮して解除されたが、そんなことで長政の怒りが収まるはずもない。

それどころか今度は長政まで処分されるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ケンカを止めて~♪】福岡藩初代藩主編2栞歴27

朝鮮の役は、休戦をはさんで1592年~1598年まで戦闘行為が続いた。

天下の支配者・豊臣秀吉の領土的野心から始った(諸説あり)侵略戦争です。

従って朝鮮国李王朝が日本に対して異心があったという事は無い。

もともと秀吉本来の目的は唐(当時は明国)征服で、朝鮮は通り道(それも失礼な話)感覚。

秀吉は英雄の晩年にありがちの「自己肥大妄想」で「朝鮮が自分に従う」と決めつけていたようだ。

朝鮮にすれば、中国とは常に文化的影響下にあり、陸続きの大国に逆らうなどアンビリバボーで秀吉の「事業」は迷惑極まりない話だった。
一方、秀吉に動員された戦国武将たちも、戦争にかかる費用は全て自己負担なので金策に腐心した。

「朝鮮の役」は、新たに赴任した大名や太閤検地によって定められた租税率に、民力が追いつく前に起きた戦争だった。

そのため農民には従来の3~5倍以上の税率が重くのしかかり、大名たちを恨む声が出る。

大名たちは「民から絞れる限界(反乱の起きる一歩手前)」というヤバイ状態なんだが、それでも金が足りない~~~

戦費調達で借金をするものもいて、マジでケツに火がついていた。

この財政難を解消するには「唐入り」で手柄をたてて、恩賞をもらうほかはない。

武将たちは平和だった朝鮮国を戦場にして、その大地を血の色で赤く染め上げていく・・・


という事情で、武将たちは戦地で苦楽をともにする戦友であると同時に、手柄を熾烈に争うライバル!

特に「文禄の役(第一次朝鮮の役)」のメンツは絶望的にチームワークが悪く、作戦そのものにまで影響した。

戦国武将はプライドが高いし、自己主張も強いのでケンカが絶えなかったけど、今回は長政に関することを紹介します^^

黒田長政VS立花宗茂


作戦会議終って小宴になったとき、長政・鉄砲と宗茂・弓が「どっちが武器として優れているか」で大ケンカ。

「表へ出ろ!」ってことで、腕前を勝負することになった。

ちなみに審判は、日本軍総大将の宇喜多秀家^^

勝負は弓の名人・宗茂の勝ち~まぁ戦国時代の鉄砲の性能じゃ限界あるもんね。

長政は潔く負けを認め、勝負に使った鉄砲を記念として宗茂に進呈した(鉄砲は立花家所蔵で現存)

立花宗茂VS福島正則


元明智光秀家臣三羽烏の一人・安田国継は、武勇自慢しすぎて同僚にウザがられ、あちこち転々としてた。

で、宗茂のとこに再就職決定するのだが、安田を正則も以前から欲しがってて、宗茂に先を越されたとケンカになったの。

二人を仲直りさせるため「吉川広家と黒田長政」が、宴を開いたんです。

宴で誤解がとけて、めでたく仲直り^^ 

機嫌良くなった宗茂は舞を躍った。

それは拳(こぶし・手の平グー)を振り回す豪快なもので、宗茂の拳は酒が入って目つきが危なくなってきてる正則の鼻先をブンブン掠めた^^;

広家と長政はハラハラして「頼む~~穏便に~穏便に~」と、祈るような気持ちで観てたらしい。

ちなみに安田は人格に定評のある宗茂の元でも、大口叩いていずらくなり飛び出してます。 

最終的には長年の友人である寺沢(島原の乱の原因作った人の祖父)のとこに落ち着く。

確か安田さんの最期は、腫物が出来て、それにイライラして発作的に切腹しちゃったはず^^;

でもって、今度は黒田長政VS福島正則


もともと朝鮮渡海前にケンカしてたんだけど、朝鮮に行って長政の方から正則に仲直りを申し出た。

納得さえすれば、正則は後を引きづらない気性の良い男・めでたく和解^^

二人は友情の証に互いの兜を交換した。

福島正則の使用している「一の谷の兜」は、もともとは長政の命の恩人・竹中半兵衛のもの。

長政が「恩人の兜を是非~」といって交換した・・・・・というのは後世の脚色だったらしい。

二人は友情の証・兜交換を約束して帰国後に、それぞれ同じデザインのレプリカ兜を造って交換したの。

オリジナルは、それぞれ自分の手許に残したままなんで、本当に友情からの交換だったようです。

もっともこれにも尾ひれがあって、長政の渡したのがレプリカで、正則はオリジナルを渡した説もあり良く解りません。

「関ヶ原の戦い」で、二人とも友情の証・交換した兜で出陣してます。

後に福島家が改易になると、福島家は黒田家に譲り受けた兜を返還しているそうです。


黒田長政の甲冑画像

長政の父・如水(じょすい)は、武将たちがケンカするのを見越していました。

如水:若い宇喜多殿が総大将では、荒大名をまとめることは出来ぬ!海外の戦地で武将たちにニラみを効かせられるのは、徳川殿か前田殿。でなければ、このワシだ!


確かに秀家公は、育ちが良すぎて揉め事仲裁とか向いてないタイプ^^;

とにかく、この如水の言葉が秀吉の耳に届き、戦況がイマイチの現状を打破すべく、如水にも秀吉から朝鮮への出陣命令が下ります。

文禄二年(1593年)夏・・・豊臣秀頼が誕生する、この年に如水は朝鮮に行くことになったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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