【G(後)T(藤)S(出奔)!】福岡藩初代藩主11栞36

後藤又兵衛が黒田家を出奔したのは、引越しで揉めて以来、仮想敵となった細川忠興が手引きしたらしい。

忠興は高禄で後藤を雇うことを快諾し、待遇などは「委細面談」という状態だった。

「我が主・長政は執念深いので追手がかかるかもしれず、国境を無事に越えられるか判りません」

と後藤が言うと、忠興は「長政ならそうであろう。案ずるなワシに任せろ」と頼もしい返事。

後藤が一族・家臣を連れて国境近くまで来ると、そこにはガチ合戦準備万端の細川家臣と百名の鉄砲隊が華麗に後藤を出迎えに来ていたそうだ。

後藤が出奔(しゅっぽん=主君から勝手に離れる事)した時、黒田家から16000石という大名級の待遇を受けていた。

家老の母里が18000石なので、黒田家においても家老クラスの厚遇だったことが判る。

その上、筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)の一つ、大隈(おおくま)城の城主だった。

筑前六端城は、VS細川忠興用に豊前と筑前の国境沿いに造られた城でした。

それだけでなく、益富(ますとみ)城と呼ばれていた小城を、大隈城に大改造したのは後藤本人なんです!

その軍事情報&黒田家の内部情報を全て抱え、とうの仮想敵である細川忠興の下へ走ったのだ。

主君・長政と大恩ある黒田家に対して、これ以上の不義!不忠!嫌がらせは無いでしょう。

奉公構(ほうこうかまえ=家臣の再就職を妨害し社会的に抹殺すること)の処分は当然の処置です。

http://www16.ocn.ne.jp/~sironoki/100fukuoka-no-shiro/117kurosaki/chikuzen-6hajiro003.jpg(画像はサイトより拝借)
筑前六端城⇒黄色△印~上から若松城、黒崎城、鷹取城、大隈城(益富城)、小石原城、左右良城

城主つまり指揮官不在の城は、もはや空き城も同然!

後藤は直接雇用している自分の家臣も連れて出たので、大隈城の主だった家臣(仕官クラス)も消えた!

その上、国境沿いには完全武装の細川鉄砲隊100名が来るド派手なパフォーマンス!

(これは長政への嫌がらせに細川忠興が考えたアイデア^^;;)

大隈城下と近在の村は「今にも戦が始まる」とパニックになった。

後藤が抜けた大隈城の守りを固めるため、ただちに家老の母里自らが入った。

実は母里は六端城の一つ鷹取(たかとり)城の城主だったのだが、それを他の者に預けて大隈城に入ったんです。

後藤の引き起こしたパニックが、いかに大きかったが想像できる。


黒田節で紹介した名槍「日本号」・・・これは母里から後藤に譲られていた。

「朝鮮の役」でピンチになった母里を助けてくれた後藤への礼と友情の証だった。

だが後藤は黒田家を出る時に、この「日本号」を黒田家に返還している。

家老として、報告を受けた母里は全てを覚っただろう。

後藤が飛び出したのは一時の感情ではなく、黒田には戻るつもりはない。

二度と戻らないために、これほどの騒ぎを起こしたのだと・・・

万が一、細川家と戦になった時に、先鋒となって攻めてくるのは後藤又兵衛だろう。

その猛攻に勝てなかったとしても、何とか防衛ラインを死守し退かずに踏ん張れる男は、家中人材多しとはいえど家老の母里だけだからだ。(黒田美作でもいけるが別の六端城城主なんで抜けられん)

互いに思う存分戦うために、友情の証である日本号を持ち続けるのは心苦しかったのではないだろうか。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/c/c9/Mori_Tomonobu_statue.jpg/200px-Mori_Tomonobu_statue.jpgウィキペディアより母里銅像

後藤の出奔の理由には諸説あり明確になってはいない。少なくとも黒田家にとっては想定外・寝耳に水のビックリ仰天な出来事だった。 

シオ推測するに、後藤ファンが熱く主張する「長政の資質が如水より劣ってる云々」だけでなく、黒田家中での意識のズレが根っこにあると思う。

後藤は如水に愛弟子のように可愛がられ、8歳下の長政のことも弟のように一緒に育った・・それが不味かった・・・

自負心の強い後藤は、長政のことを主君とは思えない。。。そのくせ嫌いなわけじゃないという屈折した心境になったようだ。

黒田家を出た後も、自分は長政の事を言いたい放題で批判するのに、自分以外が長政の悪口を言うのは許さない(なんちゅ~メンドクサイ男)

譜代家臣が多い徳川や累代続く上杉や佐竹なら、家臣の分際・身の程というのを幼少期から躾けられる。

だが黒田家のように一代で大きくなる家は、どうしてもその辺りがファジーになる^^;;


黒田家紋

何度か言ったが、如水が幽閉されてしまい黒田家には当主不在の期間があった。

その時、後藤は一族が黒田を裏切り敵方に走ったので後藤本人も疑われ、一時期、黒田を離れている。

一度でも仲間に疑われてしまったので、如水個人に忠誠を捧げる気持ちは、より強くなっただろう。

如水不在を協力して乗り切った家老たち(母里や栗山など)は「黒田家(組織)と自分たち家臣は一心同体」であるという意識が自然と根付くことが出来た。

そのお蔭で如水死後、長政に不満・不足があっても「自分たちが支えて頑張るぞ!」と切り替えられたのだろう(如水自身も、家中のムードがそうなるように生前から配慮している)

だが如水個人に忠誠を捧げていた後藤は、どうしても自分を変えることが出来なかったんだと思う。

後藤ファンは「もっと長政に器量があれば・・・」と云うけれど、それは違う。

泰平の世で家督を継ぐのとはワケが違う「ザ・戦国」なのだ。
長政が如水タイプの天才だった場合⇒武田信玄公みたいに親を追い出して自分の思い通りにする。(信玄公ファン様すいません)

長政が如水とは違うタイプの名将だった場合⇒島津家みたいに両殿体制化~家中が派閥争いで血の雨が降る。

同じ時期の一つの家に英雄・天才は二人もいらない


父が「偉大な天才」ならば、息子は「父の作った体制を壊さず継承できる器(例・2代将軍秀忠)」であれば充分なんです。(親子とも天才で、かつ上手く行くのは特殊例)

その証拠に何だかんだ言われてても、如水死後に黒田を離れたのは後藤だけじゃないですか。

長政は長政なりに「如水の作った黒田」の家風を繋いでいるんです。(ホントにヤバかったのは長政より後だし)

まぁ如水なら?そもそも細川忠興を怒らせる下手しないけどね~~∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


長政が執念深いっていう元ソースは、おそらく冒頭に挙げた後藤発言だろうけど、情念・執念深さなら細川忠興の方が上だと思う。

統治能力はズバ抜けているし、武勇優れて、教養あって、芸術方面だけでなく築城もバッチリ!

「普段」は温和で気遣いも細かい忠興だが、一度怒りのスイッチが入ったら相手を絶対許さない。
(だから石田三成とも、ぜ~~~ったい!仲直りしなかった)

宣教師曰く「日本一短気」で、ガラシャ曰く「引く事を知らない人」なんです。

家臣にもメチャ厳しく「失敗は2度まで許すが3度目は成敗」という規則で、忠興が生涯で手討ちにした家臣は36人いると言われいる。
(ガラシャの顔を見たのに嫉妬して忠興が殺した庭師がカウントされているかは不明)

さらに家臣を成敗した時の刀にも、36歌仙にちなんで銘(めい=タイトル)付けていたというヤバイ伝説もある男なんです。

晩年の如水は「長政を赦してあげて(:´人`)オネガイ」って自ら出向いて忠興に頼んでるんです

でも忠興は「他ならぬ貴方様の申し出なので叶えて差し上げたいが、ソレだけは絶対無理」と即答拒否

如水は「そうですか・・・無理ですか」と虚しく引き上げたそうな・・(゜-Å) ホロリ


長政の後藤に対する奉公構の処分と、幕府からの仲裁で表向きは大人しくしていた忠興だが、長政を許すつもりはサラサラ無かった。

どこまでも「長政への嫌がらせ」のために、後藤を雇うことを諦めてはいなかったんです。

忠興が自分の息子・忠利にあてた手紙には、ちょいちょい長政や黒田家の悪口が書いてまして、文中・長政のことも「策士を気取る男」と手厳しい評価www

長政が何か失敗すると、忠興は息子への手紙に「あいつ失敗しやがった!ざまぁ!。・゚・(ノ∀`)σ・゚・。ヒーッヒッヒッヒッヒ」と喜びのコメントを書いてます^^;
(律儀に返事を出す忠興の息子が大変そうだなぁ~返事しないと忠興は催促してくるのよ~)

もし長政が奉公構を解除したら、後藤の再就職第一候補だった忠興が大喜びで後藤を雇うだろう。

そうなったら黒田家の全てを知られ、長政は首根っこを押さえられた子猫のように、忠興に生涯頭が上がらなくなる。(下手すりゃ潰される)

忠興を怒らせたために報復が怖くて奉公構を解くことができなかった・・・とシオは推測しています。

さて、福岡藩初代藩主編はこれにて終了。次回からは新書庫・九州の関ヶ原「石垣原の戦い編」スタート!それは・またの話 by^-^sio

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【仁義無き戦い?】福岡藩初代藩主10栞35

「関が原の戦い」で裏も表も大活躍した長政に、

徳川家康は「どの国でも望みの場所を与えよう」と、ご機嫌~破格の待遇をした。

長政は父・如水と相談し、貿易港・博多がある筑前(ちくぜん=福岡県)を選んだ。

ちなみに、如水が「お前の左手は何をしていた」と叱責した例の有名な逸話は、大正時代から出始めたもので江戸期の記録には見当たらないそうだ。

研究者の間では「後世の創作の可能性がある」と言われている。

「な~が~ま~さぁ~やりやがったなぁ~~」


1601年~黒田長政が筑前に引越した後に、丹後宮津(現在の京都府の北)から豊前・中津城に入った細川忠興は激怒した。

中津城が未完成だったからではない。城の米蔵が空っぽだったからです。

武家の作法というか慣習というか「領地引越しの時は次の藩主の為に租税を半分残す」というものがありました。

これは強制力のある法度(法律)ではなく、どうやら武家の心得・マナーのようなものだったようです。

名門・細川様は、ちゃんと作法通り丹後宮津に租税を半分残して来ました。

ところが長政は「そんなのイチイチやってられっか~」とばかりに、全部持ち出してしまったんです。
(関ヶ原で金がかかったんだ~~~でも金無いから、、とは面子があるから言えない、忠興なら友だちだから・・・と思ったかもだが、そういうケジメに関し忠興は超厳しい男)

「力づくでも取り返せ!」激怒した忠興は、関門海峡を通過する筑前の廻米船を襲い、実力で租税を奪い返すべく行動しようとした。

近隣住人は「明日にも戦が起きるぞ」とパニックになり、その騒ぎは家康の元にまで届いた。

驚いた家康(まだ江戸幕府が開く前です)は、片桐且元と山内一豊に仲裁を命じました。

細川忠興は泣き寝入りする男ではありません。やられたら倍返しするタイプ。 

そこを何とか片桐&山内が仲裁し、長政が持ちだした米(租税)の代金を、分割払いで忠興に返済することで決着しました。

分割払いは慶長7年・1602年に完済人したのですが、細川家と黒田家の争いは終りませんでした。

黒田の領地・筑前の農民が、細川の領地・豊前へ逃亡する事件が相次いだからです


長政に対し怒りが治まっていない忠興は、逃亡した農民を黒田家に返還せず、豊前の新田開発や築城の人足などに回してしまいました^^;

筑前の農民が逃亡したのは、別に忠興の陰謀ではありません。

原因は黒田家の方にありました。


黒田家紋

農民逃亡の原因は検地による大増税でした


教科書に書いてる太閤検地~これは納税者を確定し農民の身分を定める方が目的です。

検地によって「朝鮮の役」での軍役・諸役も決められて行きました。

その割に、実は数字そのものは結構アバウトなとこが多かった^^;

長政が筑前52万石に入った時の実収も、ホントは50万石にも達していませんでした。

そこで長政は1602~1608年までにかけて、筑前の隅から隅までズズズィーっと検地を敢行。

まずは実収50万石を目指して大増税したんです。

増税による負担に中には、福岡城の築城と城下町の造成の課役もあって、筑前百姓の負担は逃亡したくなる血涙レベル!

とはいえ筑前の農民が、逃亡先に豊前を選んだのにはワケがある。

この当時の戦国大名は、隣国との間に条約を交わしています。

それは「お隣の誼みですから、互いに逃亡した罪人・農民を引き渡そうネ」って条約です。(正式名ド忘れ)

黒田家は鍋島家とは取決めをしてましたが、不仲の忠興とは取決めしてなかった(出来なかった)んです。

だから農民たちは「隣の細川領なら捕まっても黒田領に戻されずに済む」と思ったのでしょう。

それだけではありません。

忠興は豊前に入領した時に、検地(つまり増税)を行わなかった


忠興が豊前にいる時、長政が未完成だった(朝鮮の役で進捗が遅れた)中津城を改修し、さらに小倉城も築城し、さらに新田開発もしています。

けど、すぐには増税しないで前領主・・・つまり長政時代と同じ租税率で据え置きにしたんです。

筑前百姓には、大増税のない豊前細川領は天国に見えたでしょう。

もちろん築城しながらの増税無しで藩財政が足りるはずがなく、忠興はアチコチから借金してます。

関が原のあとの慶長と元和年間は、後に起きる寛永大飢饉の前兆で九州各地で飢饉が発生していました。

忠興は自領で飢饉が起きると、父・幽斎から受け継いだ茶器・・その全てを売って金に替えて食糧を買い、農民の救済に回していました。

長政を弁護すると「まず検地ありき」で「自分の欲しいだけ増税する」というやり方は、大名の引越しの激しい江戸初期には、どこでも普通にやってることでした。

1638年に「島原の乱」が起きてから、やっと各藩も「まず増税」って方法を自粛するようになるんです。

増税しないで辛抱し続けた忠興は、検地帳を作り直し開発した新田分を含めて祖税率を改めます。

それは、大坂の陣も終り家康も死んで、さらに11年後の1626年~息子忠利に代替わりしてからです。
(ちなみに3代将軍家光が将軍になる年)

公共事業(新田開発・街道などインフラ整備)を推し進め、民力が回復するまで増税しない。

現代の政治家でも充分通じるバランス感覚を、戦国時代の細川忠興が身に着けていたのは驚きです。


おっとっと~いつまでも忠興を褒めてたら、長政に怒られる(*´艸`)クスッ

とにかく逃亡した農民を返還しない忠興に激怒した長政は、豊前との国境沿いに筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)と呼ばれる支城を作ります。

(※筑前六端城⇒北から若松城、黒崎城、鷹取城、大隈城(益富城)、小石原城、左右良城)

(※城主には黒田二十四騎の面々が入ります。)

六端城は、1601~1609の間に造るんだけど、見事に検地の時期と被ってるんですよね^^;;

たぶん農民の逃亡を水際で防ぐ目的もあったと思います。

緊張状態の続く筑前と豊前で更に大きな事件が起きる・・・黒田家臣・後藤又兵衛の出奔だ!!・・・それは・またの話 by^-^sio

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【首都脱出】福岡藩初代藩主9栞34

さて、母里友信(もり とものぶ)話、続く(司馬遼太郎風~)

大男なのは昨日の黒田節で書きましたが、彼は槍の名手でした。

生涯で落とした首の数は76で、黒田武士団ダントツ1位!

一日に7つ首を獲った者にのみ与えられる「朱槍」保持者。

それだけでなく、通算で33の首を獲った者だけに許される「首供養」を執り行ってます。

「首供養」とは早い話、自分が討った武将の供養をすることですが、命のやりとりをする戦場では明日の命は知れません。 

33達成だから~~って即効カッコ良く首供養して、すぐ次の戦場で戦死したら逆に不名誉。

だから本当に強い武将でなければ行うことは許可されないんです。

でもって、これだけ強い武将にありがちで、若いころの母里は見事なイノシシ武者でした(爆

そこで主君・如水は母里に言いました。

「お前は短気だから年長の栗山(くりやま=幽閉されてた如水を救出した人)を兄と思い、何かするときは栗山の意見を参考にしなさい」

母里は如水の言いつけを良く守り、栗山と母里は実の兄弟のように終生親しかったそうです。

慎重派の栗山も短気な母里と組むことにより更に能力を引き出され、二人は黒田家の家老として成長するのです。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/c/c9/Mori_Tomonobu_statue.jpg/200px-Mori_Tomonobu_statue.jpg(ウィキペディアより母里の銅像)

1600年の7月・・・大坂の天満屋敷には栗山・母里・宮崎の3人の家老が留守番してました。

主君・長政は既に会津征伐の動員命令に応じて出発してます。

母里ほど豪の者が留守になったのは「三成が挙兵した時」に、如水夫人と栄夫人を脱出させるためです。

栄夫人は徳川家康の姪にして養女。長政が関が原直前に前夫人を離婚し再婚した新妻。如水夫人は如水の正室で同時に長政の生母。

もし二人を三成の人質に奪われたら、長政が頑張っても黒田の名誉回復は二度とできません。
(見捨てて家康に従軍しても外聞が悪すぎ)

そんな失態を犯したら、現時点で跡取りのいない黒田家は潰される可能性がある。

長政は「脱出が不可能であれば二人の夫人を殺し家老達も切腹。屋敷も火を付け処分せよ」と命令しています



1600年7月17日・・・石田三成が挙兵



戒厳令が敷かれた首都・大坂では、天満屋敷の周辺も西軍兵士が大勢いたので、三家老は夜を待った(母里・栗山の他に留守番家老がもう一人いた)

夜になると夫人たちの身をそれぞれ俵にくるんで隠した。

そして館の裏手の湯殿(バスルーム)の壁に穴を開け、そこから(夫人入り)俵を出した。

さらに(夫人入り)俵を籠に入れ、籠を天秤棒の前後に括りつけると「ふん!」っと怪力の母里が担いだ!

戒厳令下~夜の大坂市中を油断ならない目つきの大男が天秤棒を担いで移動・・・どうみても怪しい気が・・・(爆

とにかく黒田家出入りの商人・納屋小左衛門の屋敷までは何とか移動できた。

そこから川船で下る予定で手はずはできていたのだが、予想以上に西軍の検問が厳しく船を出せない!

こんなことなら天満屋敷にいて様子を見た方がマシだったか? 

万事休す!!

そのとき玉造方面から火の手があがった!!


ただの火事ではない!西軍の兵たちの慌てようは尋常ではなく、あっという間に玉造方向へ移動してしまった。

その火事こそ人質になるのを拒んだ細川ガラシャ夫人が自害し、屋敷を燃やしたものだったのです。

とにかく細川屋敷の火事による混乱のお陰で、川の検問警備が手薄になった。

母里は(夫人入り)俵を船荷に隠して、大坂を無事脱出したのです。


黒田家紋

三家老のうち一人は大坂に残り、母里と栗山は夫人たちを中津に送り届けると、そのまま如水の側にいました。

九州で怪しい動きをしていた如水の元へ届いた「三成挙兵」の第一報は、おそらく母里の報告でしょう。

とにかく三家老が一致団結して、無事に黒田家はピンチを潜りぬけたのです。

え?「三成挙兵の前に逃げていれば?」ですって?

戦も起きてないうちから屋敷から逃げたら天下の笑いものですよ~~大名って看板背負うのは大変なんです^^;

母里さんは武勇一辺倒だけではなく築城スキルも身に付けて、後に江戸城の築城でも活躍します。

で、徳川家康(秀忠説もある)から感状(感謝状みたいなもの)を貰うのです。
(感状は転職の時に「職務経歴書(推薦状付)」の役割を果たすので、出した相手・所持してる枚数は超大事)

そのときに宛名を「毛利・・・母里(もり)」と書き間違えされちゃうの。

将軍家に間違いを突っ込むわけにもいかず、それじゃぁ~いっそ記念だから改名しちゃえってことで毛利但馬(もうり たじま)と変えてます^-^



「関が原の戦い」で活躍した黒田家は、中津18万石から福岡52万石に大栄転~~♪

長政の人生の大きな分岐点でもあり、それは振り返ると「青春の終わり」だったかもしれません。

大大名となった長政を待っていたのは「友情の終り」でした・・・それは・またの話 by^-^sio

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【黒田家の黒田家による黒田家のための黒田節♪】福岡藩初代藩主8栞33

黒田家の家老・母里友信(もり とものぶ)は、弘治2年(1556年)生まれ。 

身長は 約180cm~加藤清正くらいの大男で、体格に相応しく大酒飲みでした。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/c/c9/Mori_Tomonobu_statue.jpg/200px-Mori_Tomonobu_statue.jpg
ウィキペディアより母里友信の銅像

朝鮮の役(文禄の役・1592年)の少し前、主君である黒田長政は、友人の福島正則へ、母里を使いに出した。

登場シーンは酒を呑んでるところばかりの福島正則ですが、本当に酒クセが悪い人でした。

長政は、同じく大酒呑みの母里が、福島正則と(酒で)トラブルを起こすのを恐れた。

そこで出がけに「福島家で酒を勧められても、絶対(酒を)飲まないように!」って約束させました。

母里が福島家へ行くと、案の定~正則は朝から飲んでてすっかり出来あがってた^^;

酒飲み仲間が来たと御機嫌の正則は、使いの用向きを伝えようとする母里を制して「いーからマズ呑め!」酒を勧めます。

が、母里は主君との約束があるし、使者という役目の途中・・・つまり公用だったので、丁重に断った。

すると正則は母里に絡み始めた(悪い酒癖だなぁ)

正則「あぁ~ん?ワシの酒が飲めないだと?お前、そのデカイ体は見せ掛けか?黒田家の侍は臆病者!チキン!鮒侍!有名な黒田の武勇も大した事はないな!?


酒を断っただけで、なんでバカにされるんだ?って感じですが、泥酔した正則に理屈は通じ無いんです^^;;

(公用中・公用中・・)と、最初は我慢してた母里も、福島が主家を侮辱し始めたので、これ以上断るのは黒田の名に関わると酒を受けた。

ところが正則が出したのは、直径が一尺(約30cm)の大きな杯!(゚ロ゚屮)屮 ぅお!

正則「これを飲み干したら、望みのものを何でも与えてやろう( ̄ー ̄)ニヤリ~


居並ぶ福島家臣らも(下手すりゃ血を見る・・)と固唾を飲んで見守るなか、母里はググゥ~~と一気飲み!

飲み干した母里は、更に同じ杯で「これは美酒でござるな。いま1杯所望致したい!」と言い出した。

福島家臣たちも(Σ(´Д`;) うあ゙、1杯で止めとけよ~~次で失敗したらどーすんだ~)とハラハラ。

母里は、皆の視線を余所に2杯目も、ぐーーーーーーと一気に飲んだ!

正則と福島家臣が (*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ!っと思わず歓声を上げる。

更に母里「ワンモアプリーズ^^b」そして3杯目も見事に飲み干した~~~~~~~~~~~~~~~

場内・もとい広間は、ヤンヤ拍手喝さい「お見事!」の声が飛び交い、盛り上がった~~

母里「(ゲフ)飲み干したら何でも与えるという、お言葉でしたな!では福島家所蔵の名槍「日本号」を頂戴いたしたい


正則、「日本号」と聞き一瞬怯むが、ここまで盛り上がって後には引けない。母里に渡した。

母里は使者の役目を無事果たし、手に入れた名槍「日本号」を肩にかけ、悠々と「筑前今様」を謳いながら帰路に着いたとさ。


黒田家紋

酒は呑め呑め,呑むならばぁ~日本一(ひのもといち)のこの槍を~呑み取るほどに呑むぅならばぁこれぞ真の黒田武士ぃ♪(*´○`)o¶~~♪


「筑前今様」の筑前とは地名の事です。黒田家は後に筑前の藩主になる事から付いた名前です。

今様(いまよう)とは、現代の流行歌のようなもので戦国時代に流行ってました。

ベースのメロディに、それぞれが思い思いの歌詞を付けて、仲間同士で歌い合うんです^^b

ちなみに、この「今様」は毛利輝元もハマって「オリジナルソング」をシャウトしすぎて、叔父上の小早川隆景から御叱りを受けてます(*´pq`)クスッ

筑前(黒田家で)今様(流行った流行歌)・・・・つまり現代で言うところの御当地ソングになります^-^


この時の歌が、歌い継がれ、現在の黒田節として残ったんです。

さて翌日、酔いが覚めた正則は日本号が無くなっててビックリ仰天!

例によって例の如く、酔っ払ってた時の自分の言動を綺麗サッパリ忘れてた!

ゴホン!咳払いして、正座して、管理人~居住まいを正しますm(__)m

え~そもそも日本号と呼ばれるこの槍は、かの京の都におわします正親町(おおぎまち)天皇の所有物でございました。

帝から織田信長に渡り、信長から豊臣秀吉の手に渡り、秀吉から正則に下賜された、重宝中の重宝だったのです。

それを宴会芸の景品のノリで他家の家臣に渡しちゃったと聞いて、正則は顔面蒼白~慌てて黒田家に返還要求をした。

黒田家&母里の返事は当然「NO!」

丁重に酒を断ってた母里さんを侮辱した正則が悪いんですからね^^;;

朝鮮の役(文禄の役・1592年)に、陣中で一緒になった長政に対し、正則は再び槍返還要求を蒸し返しケンカになります。

が、結局は和解し、仲直りの印として互いの兜を交換したんです。


とうの「日本号」ですが「朝鮮の役」で母里がピンチになったときに、同じく黒田家臣の後藤又兵衛に助けられ、母里が感謝の印として後藤に渡してたんです。

正則が槍を諦め仲直りに応じたところを見ると、もう母里から後藤に渡った後だったかもしれません。

さて黒田節の部分が突出して有名な母里さんですが、黒田二十四騎のメンバーで、さらにその中から選抜された黒田八虎の一人。

次回は更なる母里の活躍です「首都脱出」それは・またの話 by^-^sio

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【再婚】福岡藩初代藩主7栞32

無嗣断絶(むしだんぜつ)~跡取りがいなくて、家が堪える事。
子供がいない時、前もって養子を届け出ないまま当主が死亡すると、これを理由に大名が潰される。
それは戦国時代も江戸時代も変わらない。
ぶっちぎりの名家や将軍連枝の家などだけが、超特例として当主不在のまま家名が存続する事がある。


如水自身には兄弟がいるが、息子は長政と次男の二人だけだった。
次男は「慶長の役(1597年)」に朝鮮へ行く途中、船が嵐にあい水死したそうだ。
如水は幽閉された時の後遺症で下肢に障害が残り、体調もイマイチな状態が続き(一説として梅毒説アリ)、またキリシタンでもあったので側室はおらず、これ以上の子作りは望めなかった^^;
黒田家の男子は実質、長政一人だったんです。
人物・黒田如水

長政が結婚したのは、天正12年(1584年)16歳の時。
太閤記に必ず出てくる、蜂須賀子六(はちすか ころく)の娘と結婚した。
子六の娘は結婚の時に秀吉の養女になっている。
秀吉の娘(養女)が妻なので、黒田家は(一応)豊臣政権の一門に入った。
だが天下が豊臣に定まってみれば、如水には中津18万石しか与えられなかった。
秀吉が如水に大きな領地を与えるのを恐れた・・いわば「名誉ある冷遇」と世間では、いい話っぽくウワサする。
だが当の黒田家・・・特に息子の長政にしてみれば、これほど割りに合わない話はない。
必死で働き、なおかつ秀吉の養女と結婚してるのに、これ以上の出世の見込みが無いからだ。
「朝鮮の役(1592~1598)」で「頑張るぞ!」と思ったら、親父も自分も処罰される(なんてこったい!)
不仲の石田三成が仕切る豊臣政権では、黒田家のお先真っ暗。
長政が徳川家康に接近したのには、三成に対する個人的な感情の他に、黒田家の生き残りも懸かっていた。


徳川家康は自分の派閥作りのために、せっせと政略結婚に励んでいる。よっしゃ~この流れにワシも乗るぞ!
と、長政が思うのは自然な流れだが、長政には小六の娘との間に女子一人しか子供がいなかった。
突撃バカの長政に対し、黒田家老たちや後藤又兵衛は「主君らしく本陣に大人しくいろ!」と諫め続けた。
それは嫡男がいない長政に万が一があったら、無嗣断絶で取り潰しの危機があり、涙目の切実なものだったんです。

正室は秀吉の養女なので、側室は遠慮しないければならない。
(しかも女子が産まれてるから夫婦には可能性がある⇒⇒余計に側室を置きづらい)
「娘にムコ養子すれば?」と思われるでしょうが、関が原の時に長政は33歳。
この先、男子誕生は充分ありえる若さなので、他家から跡取りを入れるには早すぎる。
たぶん悩みに悩んで一大決意!秀吉の養女であり、蜂須賀家の姫様と離婚!
三成挙兵の直前!1600年6月6日に徳川家康の養女・栄姫と再婚!!
666!ぜんぜん関係ないが、長政の洗礼名はダミアンだ!(爆
離婚→再婚しているから、長政は完全にキリシタンを棄教したことの証明にもなります。

家康の養女となった栄夫人は、家康の姪で保科正直の娘です。
黒田家譜では栄姫の事を「顔良し、スタイル良し、性格良し!長政を支えた賢夫人!」と大絶賛。
実際、長政死後に起きた御家騒動の時には、病を押して尽力していました。
とにかく栄夫人が、長政との間にポコポコ3人も男子を産んでくれたのです。
後継者問題が密かな悩みだった黒田家では、存在自体が有りがたいでしょう^^;;
一方、離縁された蜂須賀のお姫様のその後は、シオ検索では調べ切れませんでした。
家康の養女(栄姫)と結婚するから、秀吉の養女と離婚って、かなり失礼な話です。
でも蜂須賀家の方も、家康の養女(氏姫)と政略結婚している、いわば同じ穴のムジナ。
妻を通して縁戚関係なことに変化はない。
調べた限りでは、蜂須賀家から黒田家へ、正面きってのクレームは無かったようです。
(男子を産んで無い、という負い目もある)

離縁が原因で両家不仲説もあります。
ですが、慶長9年(1604年)に蜂須賀家臣の八木家が、長政に請われて黒田家臣となっているので、表面上は普通通りに社交していたのかもしれません。
家紋・黒田
5月に上杉征伐の動員命令が出ているので、長政の結婚した6月は、いつ三成が挙兵しても不思議ではないギリギリの情勢でした。
この時期に嫡男がいない長政が家康の養女と再婚したのは、自分に万が一があった時を真剣に考えたのだと思います。
自分が戦死した時、残る未亡人が「秀吉の養女」では話にならない。
「家康の養女」を正妻にして、もし未亡人になったら、その未亡人に親族からお婿さん、または養子を迎える。
・・・までを想定したんじゃないか~ってのがシオ私見なんです^^

この先、父の如水に子供が望めないという理由には、体調だけでありません。
どうやら如水は、表面上は棄教したように振舞っていたけれど、どうも内面での信仰心は捨ててなかったらしい。
側室(愛人)作って、子作りに励む可能性はゼロ^^;
となれば(長政戦死の場合)無嗣断絶・取り潰しのピンチを避けるには、上記の方法しかないでしょう。
(もっと最悪の手段は徳川家から養子を入れる)
三成と家康・・・どちらが勝っても単なる派閥争いで、豊臣政権が継続するのなら「秀吉の養女」が妻のままの方が都合が良いはずです。
でも政権交代なら、妻は「徳川の養女」でなければ黒田の家の生き残りは難しい。
父が有名すぎて影が薄い長政だけれど、この戦いが三成派と家康派の派閥争いではなく、豊臣から徳川への政権交代になることに、途中から気付いたのではないでしょうか?
でなければ、秀吉養女と離婚して徳川養女と再婚など、露骨でゴマすりも甚だしい事を強行する理由がみつからない。
とにかく オーメン・・じゃなかった6月6日に婚儀をあげたばかりの初々しい花嫁・栄姫様は、如水夫人とともに黒田家の人質として豊臣政権の首都・大坂にいた。

慶長5年・1600年7月17日!ついに石田三成が挙兵する。
大坂城下は 戒厳令~~~新婚早々の栄姫も波乱万丈だ!それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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