追加年表

1529 享禄二年
祁答院重武(12代)が帖佐本城・山田城を攻略し、姶良進出を果たす。
島津勝久が再び国政を執ろうと図る。それを島津忠朝・新納忠勝・禰寝清年・肝付兼演・本田薫親・樺山幸久・島津運久・島津秀久・阿多忠雄らが諌めるも聞かず、全員が立腹し帰還
入来院重聡が島津実久と戦い、百次・山田以西の城邑を攻略。
享禄二年九月三日羽月ノ大島村ニテ戦死、明久事西ノ原若宮ト御祟父同様ニ被召置候処奇瑞有之
龍伯公ヨリ大口地頭新納忠元ヘ被仰付戦死ノ場所大島村ヘ御建立被遊候

享禄3年(1530)、
3月、相良義滋、犬童一族を退治。
七月二十七日大口城中ニ戦死其後、貴久公九州御出陣ノ時為御頼(本ノ儘)忠明ヲ大口西ノ原江、八幡ト御祟被成候
7月27日、16代・相良長唯と14代・菱刈重州の連合軍が大口城を攻撃する


享禄4年(1531年)
7月4日、伊東家中が若衆方と守護方とに分裂し内乱。
11月11日、相良長定、生害。

1532 天文元年
7月1日、相良義滋、天草の上津浦氏に加勢し大勝
入来院重朝(12代)、平佐城を攻略。
11月27日、野々見谷城へ豊州島津・北郷・北原連合軍が来襲、伊東方は野戦にて730余命の討ち死にを出し敗北。但し、城は持ち堪える。
12月22日、省釣、西俣城を攻め取るとあり

天文2年(1533年)~大村純忠、誕生
2月9日、島津義久、誕生。
2月10日、南郷城主・桑波田栄景が島津日新斎に叛き実久に与する。
3月29日、島津日新斎、桑波田栄景が留守の合間に南郷城を落とす。
4月15日、阿蘇惟前と相良義滋の娘が婚儀。
8月28日、伊東祐充、逝去。
11月16日、伊東義祐・祐吉兄弟、伊東祐武を攻めて詰め腹を切らせる。
12月12日、相良晴広が元服。
12月22日、島津日新斎、島津実久方の日置城主・山田有高を伊作佛坂にて討ち取る。
天文二(1533)年正月十九日 平和泉為請取打立候、中途ニササヘ候、是ハ祁答院ヨリ長唯御渡候
同廿五日 薩州より平和泉知行
二月十日 菱刈より平和泉ニ手形、城つめ
四月廿二日 菱刈ニ和与之後、始使僧御遣し候
六月七日 平和泉ニ一番之人数立候
同廿三日 平和泉ニ二番衆立候
十月三日 長種菱刈ニ 御行候、同五日ニ平和泉・菱刈御渡候、同十一日ニ長種菱刈より御帰候
(出典:八代日記)

天文3年(1534年)
2月28日、伊東勢、野村左兵衛率いる米良一揆と戦い、320余名を討ち取るも、荒武三省が討ち死に。
7月16日、暴風雨の中、大内勢の三津山陣へ龍造寺勢が夜襲を仕掛け勝利。
10月10日(25日説あり)、島津勝久、川上忠昌が谷山皇徳寺にて末弘忠季を誅殺したために、自身にも危難が及ぶのを恐れて根占へ遁れる。
肝付兼演、加治木を攻め取り、溝辺より加治木へ罷り帰り候

天文4年(1535年)
3月22日、相良義滋、豊福城を落とす。皆吉武真、宇土に退散。
4月3日、島津勝久、鹿児島へ帰城し、川上忠昌に切腹を命ず。これに立腹した島津実久が勝久を攻めたため、鹿児島の町が七日間燃え続ける。勝久は逃亡し、以後は帖佐の祁答院氏・吉松の北原氏・都城の北郷氏と頼り転々とする。
4月8日、上村長種、兄の頼興に暗殺される。
7月23日、島津義弘、誕生。

天文5年(1536年)
3月7日、島津貴久、一宇治城を落とす。
6月8日、伊東祐吉、早世。
7月10日、伊東義祐、佐土原へ入城。
天文5(1536)9月15日、薩州家・重久73歳で死亡
9月18日、相良長毎室(伊東家の娘)、卒去
11月28日、土橋勘解由左衛門尉、島津貴久に降る。
入来院重聡、島津勝久より百次城を与えられる
12月22日、相良晴広の元へ名和武顕の娘が輿入れ


天文6年(1537年)
1月7日、島津貴久、実久方の竹山砦を攻め、肥後盛治を討つ。これにより伊集院を平定
3月7日、上村長種の娘、卒去(大隅の有川家に嫁いでいたが、父の生害後に離縁されていた。その後、有川家に祟った為、姶良郡加治木の木田村に宝現大明神を建立。乳頭の腫れ物や女人の病への霊験あり)
5月2日、島津日新斎と島津実久が和談するも決裂。
入来院重聡、島津貴久を応援し伊集院竹山城を攻略する
肝付兼演、島津実久の催促に応じ、一旦貴久公へ敵対致し候

天文7年(1538年)
4月13日、島津貴久、佐敷の仮屋に来訪し相良義滋と参会
7月10日、島津歳久、誕生。
7月27日、新納忠勝、島津忠朝に攻められ、志布志城を捨て伊東家を頼る
8月24日、菊池則治、八代の白木社にて元服。


天文8年(1539年)
1月1日、島津日新斎、昨年29日より攻囲中であった加世田城を落とす。
1538年(天文7)4月13日、薩州家・島津実久は佐敷の仮屋に来訪し、相良義滋と会見している
※実久が相良へ起請文渡す
7月1日、島津運久、逝去
9月6日、日向に大雪降り、五穀不熟。人民が餓死に及ぶ。
東郷重治(15代)、水引城を攻略。
市比野宇都の前園屋敷に於いて、島津貴久・入来院重聡の会見が行われる

天文9年(1540年)
春頃、球磨郡にて疫病が流行。
8月11日、龍造寺隆秀(?)、八代の日奈久へ湯治。27日に帰宅。
10月3日、相良義滋の次女・千代鶴(菱刈重任室)、誕生。

天文10年(1541年)
9月3日、伊東義祐、祐吉派であった長倉能登守らを成敗。

天文11年(1542年)
3月23日、種子島時堯、禰寝家の助力を得て、父の恵時を攻めるも敗退。
6月15日、相良晴広、正室と離縁。佐敷に降り17日に八代到着、19日に宇土へ舟数百隻で送る。

天文12年(1543年)
3月8日、相良義滋の四女・千代菊(相良義陽室)、誕生。
8月25日、種子島にポルトガル商船が漂着。鉄砲伝来。
11月26日、上村頼興の室(上村長国の娘)、卒去。

天文13年(1544年)
2月8日、相良義陽・相良頼貞、誕生。
夏、市成城主・山田忠広が島津貴久へ内応。
8月15日、島津貴久の室(雪窓院)、卒去。

1545 天文十四年~秋月種実、誕生。(wikiでは天文17年)
東郷・祁答院・入来院、郡山城に叛き敗れる。
3月18日、島津貴久の元へ豊州家の島津忠広と、北郷家の北郷忠相が来訪、貴久を守護職と仰ぎ臣下の礼を取る。同年、貴久へ近衛植家より衣冠束帯が贈られる。
6月15日、八代岡地頭の相良治頼が逆心の廉で追討。翌日、治頼は真幸へ退出。その後、治頼は7月13日に手勢40余人にて多良木の鍋城へ籠る。9月13日に多良木耳取原にて討ち負け、犬童頼安と共に日向へ遁れる。
12月2日、相良義滋、大内義隆の懇意に依り、従五位下宮内大輔に任官、及び一字拝領(長唯→義滋)。
{ちなみに、相良家が海外と交易出来る様になったのは、大内家が勘合符を与えたからだそうで、繋がりはあった様子}
12月26日、相良晴広、将軍義晴より一字拝領(為清→晴広:一説に義滋の一字拝領の際に義広と名乗っていたとも)。

天文15年(1546年)
5月11日、相良治頼、豊後国佐賀関にて卒去。
6月12日、名和武顕、逝去。
8月3日、相良晴広が家督を継承。
8月25日、相良義滋、八代鷹峯城にて逝去。
10月20日、上村長国、卒去。
12月3日、伊東義祐、従三位に叙せられる。以後、三位入道を自称。
伊東義益、誕生。

天文16(1547)年---島津義虎、東郷氏とガチンコ突入
年度不明---16代目東郷重綱(菱刈重州の三男)が養子として入り家督を継ぐ

天文17年(1548年)
5月28日、東郷家と薩州家が合戦。東郷家の大船が阿久根沖にて沈没。合戦により東郷方40余人、薩州方30余人討ち死に。
6月10日、伊東義祐の嫡男・歓虎丸が夭折。
8月、球磨・葦北・八代三郡の奉行に依り、万満(相良義陽)が後継と決する。
10月9日、島津貴久、本田薫親を攻め遁走させる。

1549 天文十八年
2月20日、伊東家と豊州島津家が井手尾にて合戦。勝負は決さず、
3月3日の節句に提案があり、島津方の中馬武蔵と伊東方の荒武兵庫が相撲勝負。荒武が勝利するも、囃し立てられ中馬の首を取る暴挙。
4月2日に島津宗家が加勢、伊東勢は6日に要害を捨て山東へ退く。
東郷・祁答院・入来院、島津貴久に謝罪する。
8月10日、フランシスコ・ザビエル、鹿児島へ来る。
11月下旬、北郷忠相・島津忠親へ相付き降参仕り
12月11日、肝付兼演父子、清水へ参上仕り御目見え仕り候て、前罪を謝り奉り候

天文19年(1550年)~大村純忠、大村純前の養子として家督を継ぐ
8月11日、皆吉武真、宇土にて討ち死に。
肝付兼演~加治木郷安堵の御判を下され候
12月、島津貴久、鹿児島の内城へ居城を移す。

天文20年(1551年)
6月8日、伊東義祐、大仏殿を建立。12月28日に安置。
8月(9月とも)、フランシスコ・ザビエル、大友義鎮からの招きで豊後へ来る

天文21年(1552年)
3月22日、甲斐親直、高知尾鑑昌を退治すべく出陣。
6月21日、島津貴久、従五位下に叙され修理大夫に任じられる。
7月4日、肝付兼演卒。享年55
8月14日、岡本頼春、上村頼興により暗殺される(『南藤蔓綿録』では天文19年4月14日)。

天文22年(1553年)
7月9日、島津実久、上洛か下向の最中に風雨により佐敷に舟を寄せる。22日に死去(佐敷立ち寄りが関係するかは不明

1554 天文二十三年
7月9日、長島鎮真、長島より落去し出水へ遁れる。
9月3日、島津貴久、岩剣城を攻略。
祁答院良重(13代)の嫡男・重経が10月2日、岩剣城の戦いで島津氏に敗れ戦死。
良重は帖佐城を島津貴久に攻められ、姶良地方より撤退する。
11月20日、菊池義武、詰め腹を切らされる。
12月26日、伊東方の鬼ヶ城で火災

弘治元年(1555年)
6月10日、島津忠良、相良晴広へ馬二頭を進呈。
8月12日、相良晴広、八代鷹峯城にて逝去。

弘治2年(1556年)
2月9日、相良義陽、元服。
6月27日、娑婆峰にて、阿蘇家・宇土家・相良家の老臣が会談。
7月1日、東郷家より、相良家に合縁を求める(後に東郷家へ義滋三女が嫁ぐ)。
7月3日、島津忠良、大口を相良家に割譲。
12月15日、相良義滋の母(蓮乗院)、卒去。
弘治2年(1556年)~大口城を島津から割譲される
同年7月---16代目東郷重綱より、相良へ婚姻の申し出あり義陽が了承、後に相良義滋娘と結婚する
年度不明---薩州家5代目・実久長女~菱刈大和守重猛に嫁ぐ、二人の間に生まれるのが重広

弘治3年(1557年)~古処山城落城。秋月種方(文種)敗死。種実、毛利元就を頼る
2月21日、上村頼興、逝去。
4月15日、島津日新斎、菱刈重豊を攻め、248人を討ち取る。
4月20日、蒲生範清、島津貴久に降伏し祁答院氏を頼る。
6月、上村頼孝・上村頼堅・稲富長蔵の兄弟が謀叛。相良勢は6月10日に頼堅の豊福城へ進軍、12日に頼堅を成敗。
7月25日、兄弟に呼応した菱刈方の久木野城を落とす。菱刈重任ら50余人を成敗。
また8月13日、上村兄弟を支援すべく北原勢が襲来、これを大畑にて迎え打つ。長蔵の岡本城は8月16日に落城、頼孝の上村城は9月20日に落城するも、頼孝と長蔵は北原氏を頼り落去。
9月1日、相良義陽、家督の儀(正式に家督を継承したのはこの日)。
東郷重治、阿久根大川で島津義虎と戦い勝利。
島津貴久に蒲生城を攻められ、蒲生範清が祁答院良重を頼って松尾城へ逃れる。

永禄元年(1558年)
内田壱岐・内田善兵衛兄弟、種実のために居館を建てる。
秋月種実、毛利元就より八十貫(800石)の地を贈られる
11月30日、相良義陽、婚儀を延期。
北原兼守、逝去。

永禄2年(1559年)
1月、大友義鎮、肥前守護職に、6月には豊後・筑後の守護職になる。また11月には九州探題に補任される。
・秋月種実、毛利氏の援軍を得て旧領回復。
・大友義鎮、府内の湊にて南蛮商人と交易する
3月17日、伊東義祐、馬関田右衛門佐への北原家督に反対の者を都於郡城にて詰問。その帰途を六野原にて待ち伏せて、詰め腹を切らせる。
5月21日、菱刈家により水俣城が落とされる。
7月29日、上村頼孝、将兵700人を伴い帰参。
8月16日、獺野原の戦いにて、湯前地頭の東直政討ち死に(『八代日記』では9月3日に討ち死に、落城とあり)。
11月7日、阿蘇惟豊、逝去。
島津義久の室(花舜夫人)、卒去。

永禄3年(1560年)~大友軍が古処山城を攻める。秋月種実以下、力戦してこれを破る
3月19日、島津義弘、島津忠親の養子として飫肥に入る。
7月3日、菱刈家より、12屋敷との交換で水俣城を返還される。
9月4日、日向の兵乱を鎮めるべく、幕府より伊勢貞考が来訪。伊東方は偽の御行書を提示し、飫肥領有を正統化せんと図る(島津の史料では6月2日とも)。
11月28日、相良義陽、千代菊と婚儀。
稲富筑後が堺にて購入した鉄砲を相良家へ献上(相良家初の鉄砲)。
永禄3年より省約、守護方に叛くともあり。隅州廻城は良兼の代まで領し、降参のとき進上とあり。


永禄4年(1561年)
5月14日、肝付家が、島津家に叛き廻城を囲む。
7月12日、島津忠将、廻城の戦いにて竹原山に戦死。
この頃、伊東義益が家督継承。
7月頃、大友義鎮が出家し、瑞峰宗麟と号す

永禄5年(1562年)
1月22日、北原兼孝、伊東義祐により生害。
3月1日、島津尚久、卒去。この頃、島津義弘が鹿児島へ戻される。
3月13日、名和行興、逝去。
5月10日、相良家の人吉勢、北原家再興に助力し、伊東家が簒奪した真幸院へ討ち入り。1日で5つの城を落とし、12日に帰城。島津勢も6月3日に討ち入り。21日に白鳥権現社にて北原兼親を前に、島津方・伊集院忠倉、北郷方・北郷忠徳、相良方・深水頼金が相互扶助を約し神文を交わし合う。

永禄6年(1563年)
4月1日、阿蘇山が鳴動、翌日に茶碗に3-4つ入る程の霰が降る。7月17日にも降り、7月21日には球磨側にも降る。
5月14日、相良家、島津家を裏切り、伊東家と共に真幸の大明神城を落とす。但し、相良方に軍功ナシ。
11月9日、島津日新斎の室(寛庭院)、卒去。
・(3月~6月の間)大村純忠がキリスト教に受洗し、ドン・バルトロメウの名を得る(日本最初のキリシタン大名)。以後、純忠は領内へ過激なキリスト布教活動を行ったことで反発を招き、後藤貴明を擁しての叛乱が発生。針生城主・針生伊賀守も叛乱に加担し、7月27日夜半に、横瀬浦奉行・朝長純安の一行を針生の岸で襲い殺害する

永禄7年(1564年)
2月11日、島津勢が大口城を攻撃。
4月8日、名和行憲、逝去。享年9。
5月30日、伊東義祐、大河平氏の今城を攻撃。大河平隆次ら討ち死に。
11月7日、島津義弘、飯野城へ入る。
島津義久、修理大夫に任じられる。
12月29日、波多鎮(しげし)、家督に反対する日高喜(このむ)らにより岸岳城を追われる

永禄8年(1565年)~秋月種実、豊後浦部城主・田原親広の娘を娶る
6月、相良勢が豊福城を取り戻す。

永禄9年(1566年)
2月、島津義久、家督継承。貴久は剃髪し伯囿斎と号す。
9月9日、霧島山の御鉢が大噴火。死者多数
10月26日、島津勢、大挙して三ツ山城(後の小林城)を攻撃するも敗退。
祁答院良重、虎居城に於いて夫人に刺殺され、祁答院氏断絶。入来院重豊(14代)が祁答院を領する。

永禄10年(1567年)
・8月15日、秋月種実、大友方の戸次・臼杵・吉弘勢に夜襲を仕掛け勝利。
・秋月種長、誕生。(wikiには2月7日とありますが、『高鍋藩史話』には具体的な日付はありませんでした)
・有馬晴信、誕生。(永禄5年とも)

1568 永禄十一年
1月20日、島津義弘が手勢300にて、3,000(5,000とも)の相良・菱刈勢が籠る大口城を攻撃し大敗。
川上久朗が手傷を負い、戻った鹿児島にて2月3日に卒去。
5月、伊東勢が飫肥城を攻略。
12月13日、島津日新斎、逝去。
東郷重尚(16代)、島津義虎と阿久根で戦う。
永禄11(1568)年(月日不明)---16代目東郷弥次郎平重綱、相良氏へ起請文を書く(出典:相良家文書)


1569 永禄十二年
5月6日、島津家久、大口城兵に大勝(相良の史料では3月24日)。
7月11日、伊東義益、逝去。これにより8月20日、桶平城より撤兵。
9月20日、大口城の相良・菱刈勢、城を島津方に渡し降伏。
島津義弘の嫡男・鶴寿丸、誕生。
東郷重尚、入来院重嗣(13代)に相議して島津氏に降伏。
12月、龍造寺勢が日高喜を岸岳城より追い出し、波多鎮が城主に復帰

1570 元亀元年
1月5日、渋谷一族、島津家へ降伏。島津家が薩摩統一
東郷重尚には島津貴久より東郷を与えられ、入来院重嗣には入来院が与えられ、高城は島津義虎に与えられる。

元亀2年(1571年)~高橋元種誕生
6月23日、島津貴久、逝去。

元亀3年(1572年)
3月8日、相良忠房、誕生。
5月4日、島津義弘、日向飯野にて伊東勢に大勝(木崎原の戦い)。

天正元年(1573年)
7月18日、足利義昭、京より追放される。
9月26日、禰寝家が島津家に内応。
島津久保、誕生。

天正2年(1574年)
春頃、肝付・伊地知両家が、島津家へ降伏。島津家が大隅統一。
5月24日、相良頼房、誕生。
11月1日、大村純忠と下(しも)の地区長ガスパル・コエリユが会談の末、大村家の全家臣をキリスト教に改宗させると決める。

天正3年(1575年)
伊東方の若衆34人が、伊東帰雲斎への恨みから争乱に及ぶ。
7月4日、相良義陽、島津方に通じた廉で、愛宕別当の簗瀬将軍斎を誅す。
近衛前久が九州下向。大友家→伊東家→相良家と訪ねた後、薩摩に入国(9月に九州へ旅立ち、12月25日に入国)。
出水に3ヶ月滞在後、翌年3月中旬に鹿児島へ入り2ヶ月滞在。
11月、大友宗麟の次男・親家がキリスト教に受洗し、ドン・セバスチャンの名を得る

天正4年(1576年)
4月、伊東祐兵、兄・祐益の嫡女(齢12)を娶る。
8月23日、島津義久、伊東方の高原城を攻略。その翌日、小林城・須木城などが島津方相次いで寝返る。
11月7日、島津忠恒、誕生。
11月22日、島津義弘の嫡男・鶴寿丸が夭折。

天正5年(1577年)
2月22日、土持氏が伊東方の門川城を攻撃(門川城の米良四郎右衛門が正月に、小姓の高妻孫三郎を折檻、これを恨みに思った孫三郎とその父の治部丞が、土持氏を頼ったのが遠因)。
3月、水俣城代が、深水頼延から犬童頼安へ交代。
6月19日、伊東勢が櫛間を攻撃するも敗退。
8月、伊東義祐、嫡孫の義賢へ家督を譲る。
12月7日、伊東方の野尻城が島津家へ寝返る。
12月9日、伊東義祐、日向より退散。

天正6年(1578年)
4月3日、相良長誠、誕生。
7月25日、大友宗麟がキリスト教に受洗し、ドン・フランシスコの名を得る
11月12日、島津勢、大友勢に大勝。(高城川の戦い{耳川の戦い})
12月24日、佐牟田長堅、薩摩国の深仁田にて島津方に銃殺される。

天正7年(1579年)
10月、秋月種実、大友勢を筑後の原津留にて破る。
11月、秋月種長が初陣。種実の名代として、鷲ヶ嶽にて大友方・小野和泉と戦う。

天正8年(1580年)
有馬晴信がキリスト教に受洗し、初めドン・プロタジオ、後にドン・ジョアンの名を得る

天正10年(1582年) 
1月28日、大友・大村・有馬の三家よりの使節団が、ローマへ向け長崎を出航(臼杵の修道院長であるペドロ・ラモン司祭によると、宗麟は使節派遣に対しては「使節を派遣する考えすら無く、使節が差し出した書状もしたためてないことは確かです」と一切関与していないとしている)。
3月、秋月種長、彦山舜宥の娘を娶る。
11月、秋月方・芥田悪六兵衛、大友方の臼杵中務を討つ。

天正12.3.21にも頼房の記述がありますが、「相良殿兄弟指出也、御太刀・御酒・漆なと進上也」と一括りにされてますので

天正13年(1585年)
秋月種実、種長へ家督を譲り、入道して宗誾と号す。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

九州限定戦国年表(弘治元年間一部抜粋

弘治元年(1555年)
6月10日、島津忠良、相良晴広へ馬二頭を進呈。
8月12日、相良晴広、八代鷹峯城にて逝去。



弘治2年(1556年)
2月9日、相良義陽、元服。
6月27日、娑婆峰にて、阿蘇家・宇土家・相良家の老臣が会談。
7月1日、東郷家より、相良家に合縁を求める(後に東郷家へ義滋三女が嫁ぐ)。
7月3日、島津忠良、大口を相良家に割譲。
12月15日、相良義滋の母(蓮乗院)、卒去。



弘治3年(1557年)~古処山城落城。秋月種方(文種)敗死。種実、毛利元就を頼る
2月21日、上村頼興、逝去。
4月15日、島津日新斎、菱刈重豊を攻め、248人を討ち取る。
4月20日、蒲生範清、島津貴久に降伏し祁答院氏を頼る。
6月、上村頼孝・上村頼堅・稲富長蔵の兄弟が謀叛。相良勢は6月10日に頼堅の豊福城へ進軍、12日に頼堅を成敗。
7月25日、兄弟に呼応した菱刈方の久木野城を落とす。菱刈重任ら50余人を成敗。
また8月13日、上村兄弟を支援すべく北原勢が襲来、これを大畑にて迎え打つ。長蔵の岡本城は8月16日に落城、頼孝の上村城は9月20日に落城するも、頼孝と長蔵は北原氏を頼り落去。
9月1日、相良義陽、家督の儀(正式に家督を継承したのはこの日)。
東郷重治、阿久根大川で島津義虎と戦い勝利。
島津貴久に蒲生城を攻められ、蒲生範清が祁答院良重を頼って松尾城へ逃れる。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

九州限定戦国年表(永禄年間一部抜粋)

永禄元年(1558年)
内田壱岐・内田善兵衛兄弟、種実のために居館を建てる。
秋月種実、毛利元就より八十貫(800石)の地を贈られる
11月30日、相良義陽、婚儀を延期。
北原兼守、逝去。



永禄2年(1559年)
1月、大友義鎮、肥前守護職に、6月には豊後・筑後の守護職になる。また11月には九州探題に補任される。
・秋月種実、毛利氏の援軍を得て旧領回復。
・大友義鎮、府内の湊にて南蛮商人と交易する
3月17日、伊東義祐、馬関田右衛門佐への北原家督に反対の者を都於郡城にて詰問。その帰途を六野原にて待ち伏せて、詰め腹を切らせる。
5月21日、菱刈家により水俣城が落とされる。
7月29日、上村頼孝、将兵700人を伴い帰参。
8月16日、獺野原の戦いにて、湯前地頭の東直政討ち死に(『八代日記』では9月3日に討ち死に、落城とあり)。
11月7日、阿蘇惟豊、逝去。
島津義久の室(花舜夫人)、卒去。



永禄3年(1560年)~大友軍が古処山城を攻める。秋月種実以下、力戦してこれを破る
3月19日、島津義弘、島津忠親の養子として飫肥に入る。
7月3日、菱刈家より、12屋敷との交換で水俣城を返還される。
9月4日、日向の兵乱を鎮めるべく、幕府より伊勢貞考が来訪。伊東方は偽の御行書を提示し、飫肥領有を正統化せんと図る(島津の史料では6月2日とも)。
11月28日、相良義陽、千代菊と婚儀。
稲富筑後が堺にて購入した鉄砲を相良家へ献上(相良家初の鉄砲)。
永禄3年より省約、守護方に叛くともあり。隅州廻城は良兼の代まで領し、降参のとき進上とあり。




永禄4年(1561年)
5月14日、肝付家が、島津家に叛き廻城を囲む。
7月12日、島津忠将、廻城の戦いにて竹原山に戦死。
この頃、伊東義益が家督継承。
7月頃、大友義鎮が出家し、瑞峰宗麟と号す



永禄5年(1562年)
1月22日、北原兼孝、伊東義祐により生害。
3月1日、島津尚久、卒去。この頃、島津義弘が鹿児島へ戻される。
3月13日、名和行興、逝去。
5月10日、相良家の人吉勢、北原家再興に助力し、伊東家が簒奪した真幸院へ討ち入り。1日で5つの城を落とし、12日に帰城。島津勢も6月3日に討ち入り。21日に白鳥権現社にて北原兼親を前に、島津方・伊集院忠倉、北郷方・北郷忠徳、相良方・深水頼金が相互扶助を約し神文を交わし合う。



永禄6年(1563年)
4月1日、阿蘇山が鳴動、翌日に茶碗に3-4つ入る程の霰が降る。7月17日にも降り、7月21日には球磨側にも降る。
5月14日、相良家、島津家を裏切り、伊東家と共に真幸の大明神城を落とす。但し、相良方に軍功ナシ。
11月9日、島津日新斎の室(寛庭院)、卒去。
・(3月~6月の間)大村純忠がキリスト教に受洗し、ドン・バルトロメウの名を得る(日本最初のキリシタン大名)。以後、純忠は領内へ過激なキリスト布教活動を行ったことで反発を招き、後藤貴明を擁しての叛乱が発生。針生城主・針生伊賀守も叛乱に加担し、7月27日夜半に、横瀬浦奉行・朝長純安の一行を針生の岸で襲い殺害する



永禄7年(1564年)
2月11日、島津勢が大口城を攻撃。
4月8日、名和行憲、逝去。享年9。
5月30日、伊東義祐、大河平氏の今城を攻撃。大河平隆次ら討ち死に。
11月7日、島津義弘、飯野城へ入る。
島津義久、修理大夫に任じられる。
12月29日、波多鎮(しげし)、家督に反対する日高喜(このむ)らにより岸岳城を追われる



永禄8年(1565年)~秋月種実、豊後浦部城主・田原親広の娘を娶る
6月、相良勢が豊福城を取り戻す。



永禄9年(1566年)
2月、島津義久、家督継承。貴久は剃髪し伯囿斎と号す。
9月9日、霧島山の御鉢が大噴火。死者多数
10月26日、島津勢、大挙して三ツ山城(後の小林城)を攻撃するも敗退。
祁答院良重、虎居城に於いて夫人に刺殺され、祁答院氏断絶。入来院重豊(14代)が祁答院を領する。



永禄10年(1567年)
・8月15日、秋月種実、大友方の戸次・臼杵・吉弘勢に夜襲を仕掛け勝利。
・秋月種長、誕生。(wikiには2月7日とありますが、『高鍋藩史話』には具体的な日付はありませんでした)
・有馬晴信、誕生。(永禄5年とも)



1568 永禄十一年
1月20日、島津義弘が手勢300にて、3,000(5,000とも)の相良・菱刈勢が籠る大口城を攻撃し大敗。
川上久朗が手傷を負い、戻った鹿児島にて2月3日に卒去。
5月、伊東勢が飫肥城を攻略。
12月13日、島津日新斎、逝去。
東郷重尚(16代)、島津義虎と阿久根で戦う。



1569 永禄十二年
5月6日、島津家久、大口城兵に大勝(相良の史料では3月24日)。
7月11日、伊東義益、逝去。これにより8月20日、桶平城より撤兵。
9月20日、大口城の相良・菱刈勢、城を島津方に渡し降伏。
島津義弘の嫡男・鶴寿丸、誕生。
東郷重尚、入来院重嗣(13代)に相議して島津氏に降伏。
12月、龍造寺勢が日高喜を岸岳城より追い出し、波多鎮が城主に復帰

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九州限定戦国年表~元亀年間一部抜粋

1570 元亀元年
1月5日、渋谷一族、島津家へ降伏。島津家が薩摩統一
東郷重尚には島津貴久より東郷を与えられ、入来院重嗣には入来院が与えられ、高城は島津義虎に与えられる。



元亀2年(1571年)~高橋元種誕生
6月23日、島津貴久、逝去。



元亀3年(1572年)
3月8日、相良忠房、誕生。
5月4日、島津義弘、日向飯野にて伊東勢に大勝(木崎原の戦い)。



天正元年(1573年)
7月18日、足利義昭、京より追放される。
9月26日、禰寝家が島津家に内応。
島津久保、誕生

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ジャンル : 学問・文化・芸術

九州限定戦国年表(天正年間一部抜粋)

天正元年(1573年)
7月18日、足利義昭、京より追放される。
9月26日、禰寝家が島津家に内応。
島津久保、誕生。



天正2年(1574年)
春頃、肝付・伊地知両家が、島津家へ降伏。島津家が大隅統一。
5月24日、相良頼房、誕生。
11月1日、大村純忠と下(しも)の地区長ガスパル・コエリユが会談の末、大村家の全家臣をキリスト教に改宗させると決める。



天正3年(1575年)
伊東方の若衆34人が、伊東帰雲斎への恨みから争乱に及ぶ。
7月4日、相良義陽、島津方に通じた廉で、愛宕別当の簗瀬将軍斎を誅す。
近衛前久が九州下向。大友家→伊東家→相良家と訪ねた後、薩摩に入国(9月に九州へ旅立ち、12月25日に入国)。
出水に3ヶ月滞在後、翌年3月中旬に鹿児島へ入り2ヶ月滞在。
11月、大友宗麟の次男・親家がキリスト教に受洗し、ドン・セバスチャンの名を得る



天正4年(1576年)
4月、伊東祐兵、兄・祐益の嫡女(齢12)を娶る。
8月23日、島津義久、伊東方の高原城を攻略。その翌日、小林城・須木城などが島津方相次いで寝返る。
11月7日、島津忠恒、誕生。
11月22日、島津義弘の嫡男・鶴寿丸が夭折。



天正5年(1577年)
2月22日、土持氏が伊東方の門川城を攻撃(門川城の米良四郎右衛門が正月に、小姓の高妻孫三郎を折檻、これを恨みに思った孫三郎とその父の治部丞が、土持氏を頼ったのが遠因)。
3月、水俣城代が、深水頼延から犬童頼安へ交代。
6月19日、伊東勢が櫛間を攻撃するも敗退。
8月、伊東義祐、嫡孫の義賢へ家督を譲る。
12月7日、伊東方の野尻城が島津家へ寝返る。
12月9日、伊東義祐、日向より退散。



天正6年(1578年)
4月3日、相良長誠、誕生。
7月25日、大友宗麟がキリスト教に受洗し、ドン・フランシスコの名を得る
11月12日、島津勢、大友勢に大勝。(高城川の戦い{耳川の戦い})
12月24日、佐牟田長堅、薩摩国の深仁田にて島津方に銃殺される。



天正7年(1579年)
10月、秋月種実、大友勢を筑後の原津留にて破る。
11月、秋月種長が初陣。種実の名代として、鷲ヶ嶽にて大友方・小野和泉と戦う。



天正8年(1580年)
有馬晴信がキリスト教に受洗し、初めドン・プロタジオ、後にドン・ジョアンの名を得る



天正10年(1582年) 
1月28日、大友・大村・有馬の三家よりの使節団が、ローマへ向け長崎を出航(臼杵の修道院長であるペドロ・ラモン司祭によると、宗麟は使節派遣に対しては「使節を派遣する考えすら無く、使節が差し出した書状もしたためてないことは確かです」と一切関与していないとしている)。
3月、秋月種長、彦山舜宥の娘を娶る。
11月、秋月方・芥田悪六兵衛、大友方の臼杵中務を討つ。



天正12.3.21にも頼房の記述がありますが、「相良殿兄弟指出也、御太刀・御酒・漆なと進上也」と一括りにされてますので



天正13年(1585年)
秋月種実、種長へ家督を譲り、入道して宗誾と号す。

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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