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【逆転現象~上座は庶流で下座が嫡流】飫肥藩初代藩主編6

話を少し戻して「裸の王様・伊東義祐」を語りたい。

実は伊東義祐自身も嫡男ではなく次男でして、御家騒動の果てに当主になった苦い過去がある。

義祐の兄が男子の無いまま若くして急死し、本来であれば同腹弟の義祐が家督を継ぐはずだった。

ところが義祐の叔父が、義祐の生母の実家・福永家と対立し、叔父は伊東家の家督を奪うべく謀反を起こした。

義祐と弟は亡命一歩手前まで行ったのだが、叔父の反対派に擁立され戦うこととなり、叔父を倒したんです。

通常なら、これで目出度し目出度しのはずが、義祐を嫌った重臣が次男の義祐を差し置いて、三男を当主にしてしまった(゚ロ゚屮)屮ええっ!

伊東家内部で孤立した義祐は、やむなく出家。。ショボーン..._φ(・ω・` )

ところが運命は二転三転。

家督を継いだ三男が、わずか三年で病死ししたため、急遽、義祐が還俗して当主となったのだ。

伊東家が無事だったのは、グダグダでも武威が衰えてなかったのと、島津の方も分家と本家がギクシャクしてたから^^
(一応、島津もドサクサを狙ったけど撃退されてます)

城・飫肥大手門
(馳ぽんより拝借~伊東家の飫肥城・大手門~城は大手門萌えの管理人)

時代下がって義祐の期待の嫡男が病死した時、嫡孫・義賢は2歳。

1575年(1577年説もある)義賢・8歳の時に、義祐は家督を譲ったが実権は勿論、義祐が握ってる。

自分の眼が黒いうちはいい・・・

だが、かつての自分のように、息子・祐兵と嫡孫・義賢が、叔父・甥の間柄で家督争いにならないとも限らない。

そこで義祐は、義賢の(たぶん)姉・阿虎を、実叔父にあたる祐兵に嫁がせ、将来の軋轢を少しでも防ごうとしたのだ。

伊東家の栄枯盛衰を作った義祐の晩年は、三男(庶子)の祐兵の働きで誠に穏やかなものだった。

1582年・秀吉VS明智光秀の「山崎の合戦」での功績で、祐兵が河内500石の加増を拝領したのを見届けると、
祐兵が付けた従者・黒木を連れて、中国地方を水戸黄門よろしく気ままに漫遊~~♪ヽ(*´∀`)ノ

その後、山口の旧家臣宅で往時の贅沢には及ばないものの、ノンビリ隠居生活を楽しんだ。

さらに羽柴秀吉の好意で、義祐個人にも扶持米(ふちまい・一種の生活費)が支給された。

従者・黒木は「羽柴殿に拝謁して御礼言上、申し上げては如何でしょうか?」と声をかけたのだが、
「拝謁」という二文字がカンに触ったらしい(祐兵の主君なんで言葉としては間違ってない)。

義祐「はぁ?!従三位のワシが何で頭を下げなきゃならないんだ!絶対ヤダ!」と断固拒否。

伊東義祐と羽柴秀吉は、ついに対面することは無かった。

鎌倉以来の名門武家のプライドと、家臣の諫言聞かずに贅沢三昧した裸の王様だから、基本が我儘なんですよ~( ̄ω ̄A;アセアセ




伊東の我がままぶりは困ったもので、気ままに旅に出るのはともかくとして、
従者の黒木を撒いて一人旅しちゃう∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
(助さん格さんから離れてプラプラする水戸の御隠居で脳内イメージ再生~爆)

しかも途中で病になったので、堺にいた祐兵を訪ねようとした。

ところが船に乗ってる時に病が悪化、人事不省になってしまう。

一人なんで伊東義祐の身元を知る者はなく、困った船頭が意識混濁の伊東義祐を堺港に放置。

あやうく路上死するとことを、伊東義祐を必死で探してた従者(祐兵夫人・阿虎の説あり)が発見し、
堺の伊東家邸で孫娘に看取られ病死した。

1585年8月5日・・・伊東義祐74歳で堺で客死する

戦国大名の晩年には色々あるが、一人ぼっちで危うく野垂れ死に寸前になったのは伊東義祐くらいだろう。

城・飫肥虎口
同じく飫肥城の虎口(こぐち)~飫肥の場合は大手門より、こっちが好き(*´艸`)

さて義祐の杞憂は、彼の死後起きた。

祐兵が「九州の役」の活躍により日向で2万8千石の大名となったからです。
(憎い仇敵・島津への遺恨を晴らすチャンスだったので張り切ったのもある)

ちなみに日向国は大友・島津・伊東・土持が入り乱れた係争の地だったせいか、
秀吉は大きな大名を置かず細かく分けた。
(伊東家が既に没落してたから、恩賞として分散するのに都合も良い)

ざっとで言うと秋月家・高橋家・伊東家・一部が島津分家。

とにかく祐兵の元に旧伊東家臣が戻りはじめ、義祐の嫡孫・義賢と、その弟の祐勝も帰参した。




それは、奇妙な光景だった・・・・

先々代・義祐から正式に家督を譲られた伊東家当主が、
本来は家臣である祐兵に対して、家臣として下座にいるのだ。

だが天下人・秀吉が働きを認め「領地宛行状(りょうちあてがいじょう)」を与えたのは祐兵なのだ。

家督の正統性を主張するには義賢には武功が無い。

義賢は少年時代を過ごした大友家での影響で、敬虔なキリシタンだったせいか、
いまの位置に異議を申し出るつもりは無かったようで、揉めた話は残ってない。

だが庶子という身分で、思いがけなく大名になった祐兵に方が気を揉んだ。

さらに1589年6月13日に嫡男・祐慶(よしのり)が産まれると、増々気を揉んだ。

自分が苦労して手に入れた全てを、何としても我が子に譲りたい・・・・!

甥で本当の伊東家当主の義賢が武功の無いままなら、まだ大丈夫・・・

だが、この先、目覚ましい活躍をし、万が一関白・秀吉の目に留まるようになったら・・・

伊東家の家督は大名となった「自分のもの」となるべきなのだ!

それが実力相応というものではないか。

そして義賢にとってチャンスが訪れる・・・秀吉が「朝鮮の役」を始めたからだ。

我が子の家督安泰ため祐兵は非情の決断をするのだが、それは・またの話 by^-^sio

【旧領復活(=^・ω・^=)v ブイ】飫肥藩初代藩主編5

四国は伊予に亡命した伊東祐兵(いとう すけたけ)。

彼は身を寄せた河野家に仕官するでもなく、四国一番成長株の長宗我部氏にも見向きもしない。

祐兵の目標は、あくまでも「没落した伊東家の御家再興と旧領復活」だった。



最初に亡命していたのは豊後・・・6か国守護の大友家だ。
(VIP大友宗麟が祐兵の亡き兄嫁の叔父・・・縁戚コネで頼った)

有力大名である大友家は人の出入りが多い。

各地の国人領主が「配下になる証」として人質が送られていたし、
大友家臣の子弟も行儀見習いとして大友館に伺候している。

その他に博多や堺の商人に、宗麟がキリシタンだった関係で宣教師や南蛮人もいる。

大友家で耳をダンボにしていれば、いやでも彼らが持ち込む「織田信長」のウワサが耳に入る。

九州は日向で武運つたなく島津に敗れ、家臣たちにも見限られ裏切られた。
(祐兵の父・義祐が贅沢三昧して家臣の諫言を蔑ろにしたツケが回った)

祐兵が失ったものを取り戻すには、島津より強い力を持つ中央政界の実力者。。。。

すなわち、織田信長のバックアップが必要だったのだ。

大友家が「耳川の戦い(1578年)」で島津軍に敗れ、伊東家に対する風向きが悪くなったのを好機として、
義祐・祐兵親子は祐兵祖父と従者20数名を伴い四国へ亡命した。

なかなか中央へのパイプが見つからないまま、窮乏生活していたところに伊東家所縁の山伏を通じて、

羽柴秀吉の黄母衣衆(かなり遠いけど伊東家の一族)との接触に成功し、ツテのツテを頼って祐兵は織田家に仕官した。

家紋・織田
(織田家紋ロゴ)

この時期の大きな出来事といえば上杉謙信の死去と、織田信長が石山本願寺と和睦(実質は本願寺の敗北)したことで、
織田信長は八面六臂の忙しさの中で、九州「大友VS島津」の争いに政治介入を始めていた。

これは大友宗麟が、島津からの圧迫を得意の外交で乗り切ろうとして、織田信長に「和睦の調停」を依頼したからです。

九州の大名に接点の無かった織田信長は、島津の古今和歌集の師匠である「関白・近衛前久(このえ さきひさ)」を仲介にして接触開始(1579年)

物見遊山気分の公家の仲介じゃ埒が明かないので、途中から直接交渉で島津にプッシュ。

信長からの外圧に根負けした島津が、大友家と和睦したのが1581年のことだ(豊薩同盟)。

祐兵が仕官したのは、ちょうど、この島津との交渉の数年間に該当し、九州に関心が高かった信長に「将来役立つだろう」と拾われた。

仕官といっても、織田家から知行を拝領したわけではないので、厳密には家臣とも言えない状態だ。

とにかく織田家臣で、祐兵が最初に接触した羽柴秀吉に身柄を預けられた。(一種の与力になるのだろうか)

この時期の祐兵は、さしたる働きはしていない。(だって上方風の習慣に慣れてないもん)

何となく秀吉の側でウロウロしてたのだろう∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

家紋・豊臣
(豊臣家紋ロゴ)

豊薩同盟に関して、祐兵や織田家中の者が、どの程度知っていたかは定かではない。

だが目端の利いたものなら、信長が天下統一の過程で、既に九州が視野に入っている事に気づいていただろう。

1574年の段階で秀吉は「筑前守(いまの福岡県)ちくぜんのかみ」という官位を私称し始めている。(中国・毛利攻め開始が1577年)

そしてライバルである明智光秀が「日向守(いまの宮崎県)ひゅうがのかみ」に任官したのが1575年だ。

近い将来あるであろう「織田家の九州の役・・・島津(島津としては仮想敵想定は超迷惑)征伐」

島津の薩摩に進軍するコースは「肥後(熊本県)路」と「日向路」。

その日向路での先導役が、かつて日向の覇者であった伊東家の出身である「伊東祐兵の期待された役割」なのだ。

織田家内部のライバルたちを出し抜くために、九州の情報が欲しい秀吉は、
最初に接触したのを是幸いと、祐兵を自らの側に置くことを信長に望んで、了解を得たのではないだろうか。

祐兵の「現地情報」は、伊東家主観補正がタップリ入っているが、むろん承知の上。

秀吉の近々の敵は毛利家なので、耳に入れる程度の話であれば、それで十分なのだ。

とにかく羽柴秀吉という、上昇志向の極めて強い男の側にいたことが祐兵の運命を決めた。

1582年6月2日~本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる

膨張する織田家に期待してた祐兵・・・お先真っ暗かと思いきや急転直下で事態が変化する。

羽柴秀吉が「中国大返し」を敢行!祐兵も走る!!
6月13日~山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を倒す
山崎の合戦に祐兵も出陣~働きにより「くりから竜の槍」と河内国500石を領地として拝領する

何しろ伊東家は最盛期36万石だった領地と48もあった城を全て失ったのだ。

伊東祐兵の人生リベンジの飛躍は、小さな一歩であっても「伊東家の希望」

後世、伊東祐兵は「伊東家・中興の祖」とまで呼ばれるようになる。

そしてアレヨアレヨというまに世の中は目まぐるしく代わり、秀吉が関白に就任。

1587年~九州の国人領主にとっては悪夢、祐兵にとっては待ち焦がれた、「天下人の九州の役」が始まる

織田軍から羽柴軍へ・・・人は変われど、やることは同じ。

祐兵は日向路を進軍する羽柴秀長(関白・秀吉の異父弟)軍の先導役を務めた。

伊東祐兵29歳~九州の役の働きにより旧領の清武・曾井・飫肥に2万8千石を拝領し、大名として復活する
さらに喜びは続く・・・1589年6月13日・・・嫡男・祐慶(すけよし)が誕生~

祐兵は自らの運命を切り開いた「山崎の合戦」と、奇しくも同じ日に産まれた嫡男に、並々ならぬ期待をした。

何より30を超えて設けた(当時としては遅い)嫡男が愛しかった。

大悪来れば、大善来る・・・逆もまた然り。

伊東家内部に、家督を巡る不和の種が芽生えようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【目指せ御家再興!】~飫肥藩初代藩主編4

伊東義祐が、家臣たちの寝返り(伊東崩れ)により、日向(宮崎県)を捨てる決意をしたのが、
1577年天正5年12月9日のことだ。

嫡男を失った悲しみを癒すためとはいえ、仏教&公家文化にハマり、享楽にふけって政治を省みなかったツケが回ってきた。

亡き嫡男の未亡人・阿喜多の叔父である大友宗麟を頼り、豊後(大分県)へ亡命(豊後落ち)することにした。

だが、贅沢三昧した悪王として「国を石以て追われる身」となった今、まともに領内を通過することが出来ない。

恩賞目当てに伊東一族の首を獲ろうとする追手から逃れるために、高千穂山中を抜けることになった。


家紋・伊東
伊東家紋

その高千穂だが、実は伊東家の領地ではない。

マイナーすぎて知られてないが、高千穂神社系氏族嫡流(長っ)三田井氏の領地です^-^

山暮らしで鍛えた足腰で、戦となると寡兵ながらメチャクチャ強い三田井氏は、
「日本神話の地」である高千穂を領地に持つせいか、素朴で親切な一面を持っていた。

三田井氏は伊東一族の領内通過を快く了承しただけでなく、猛吹雪の中を先導の道案内まで付けてくれたんです。

この山越えは伊東家の一族や侍女・家臣など、150名いたのが80人にまで減るほど難所の連続だった。

三田井氏の好意が無ければ、伊東一族は無事に豊後へ辿り着くことは出来なかっただろう。



さて、その三田井さんに困ったことが起きた。

困って大友家に「(  ̄▽)ゞ<help me please~」と頼んだことから、島津VS大友の「耳川の戦い」が勃発する。


この飫肥藩初代藩主編の最初で、日向がプチ三国志状態だったことは説明した。。。。つもり(爆

で、伊東家のライバルの一つ「縣(あがた/現・延岡市)土持(つちもち)氏」です。

最盛期の伊東家に押されて衰微してたが、島津と同盟関係になることにより息を吹き返した。

1577年に伊東家領地に北部から侵攻開始⇒同年に島津も南部と北西部から侵攻開始⇒伊東家臣が島津へ寝返り⇒伊東崩れ

と、いう流れ。

その縣土持氏・・・島津と同盟関係なのに、素知らぬ態で大友家にも「ヨロシクネヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪」っと愛想を振りまいていた。

そして伊東が「豊後落ち」したことに調子づいて、三田井氏の領地を圧迫しはじめたのです。

だんだん強くなる土持からの圧力に困りはて、三田井は大友に助けを求めたんです。

三田井の訴えにより、土持家が大友と島津を両天秤にかけてたことがバレた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

当然それは、キングオブ大友宗麟の逆鱗に触れた
1578年4月10日~大友宗麟の攻撃により700年続いた縣・土持家が滅亡する
(庶流の生き残りは島津家臣となった)

人物・大友宗麟
(キリシタン大名~大友家21代目当主・大友宗麟・おおとも そうりん)

小癪な土持を始末した宗麟が、念願だった「神の国」建設に乗り出し「日向侵攻」を開始。

それが「耳川の戦い」で島津軍に大敗し、そのために大友館に居候してた伊東一族に対する風当りが強くなる^^;;

最初は「伊東家御家再興」を「日向侵攻の大義名分」として捉えてたので【歓迎来々・伊東家御一行様】だったのが、

「あいつらが来たせいで、御屋形様が変な気を起こしたんだ~o( ̄Д ̄θ★ケリッ!」と手のひら返して疫病神扱い。

さらに「好色な大友義統(宗麟の嫡男)が伊東祐兵(本編主役・伊東義祐3男)の妻を狙ってる」という風評が立ち、
伊東義祐+伊東祐兵と妻+親族+従者20余人」が、四国・伊予(愛媛県)は道後の河野氏の元に身を寄せた。

河野氏は湯築城が築城700年を迎えて、数年前に県がプッシュしてたのよね~(*´艸`)♪
(秀吉の天下統一後に生き残れなかったので知名度低いです)


大友義統が祐兵妻をウンヌン・・・これは俄かに信じがたい。

一つは大友家は関ヶ原リベンジに失敗し大名として残れなかったが、
伊東家は関ヶ原を乗り切り小なりとも大名として残った・・・という点です。

大友家のことは後世、面白おかしく脚色・書きたてられているので、
伊東家の方でも便乗して「自分達に非が無い」ように脚色してる可能性があります。

伊東家の内情は複雑で、最終的には「本来の嫡流」ではなく「庶流の祐兵の血統」が伊東家の家督を継承しました。

だから飫肥藩初代藩主(実質は藩祖)である祐兵をヨイショするための脚色は、有って然るべしなんです。

でもって祐兵の妻って義祐の亡き嫡男の娘・・・つまり祐兵の実姪でして推定年齢11歳くらい。

幼な妻だから、祐兵とも実質的な夫婦生活は未だじゃないかなぁ~と考えてるの。

大友義統がロリータ趣味だったか、となると実際のところは解らない。

さらに伊東義祐豊後を離れるときに、一族の中で元服前の少年たちを大友家にそのまま預けてるんです。

その中には伊東義祐の最愛の嫡孫・義賢12歳がいる。

この少年こそ、伊東家の正統な跡取りでして、大友家と本当にトラブルあったなら、
伊東義祐が義賢少年を置いて行くなど考えられない。



伊東義祐自身が居づらくなったのは自業自得の事実だと思うが、
伊東祐兵が伊予へ向かったのは彼自身の出自が遠因だと考えてます。

( ̄ko ̄)<三男・三男と簡単に書いてましたが、祐兵の生母は側室なんでつ

生母が正室であっても嫡男以下は庶流と言われ、一門待遇の家臣コースか他家へ養子コースしか人生の選択がない。

あ、そうだ。後世からみて微妙な選択・・・出家して菩提寺住職コースもあります(O ̄∀ ̄)ノ

伊東家では飫肥城の城主だったけど、島津の攻撃で失い伊東家も没落した。

「寄らば大樹」で大友家へ行ったら「大友も没落した_| ̄|○ il||li がくぅ」

このままタイタニック状態の大友家に残り頑張ったところで、伊東祐兵の人生の明日がどっちか見えない。

まだ21歳の祐兵が、チャンスを求めて新天地に行くことは不自然ではないだろう。




一方、伊東義祐は「御家再興のために保険」を掛けたんだと思う。

嫡孫は未だ若年で自力で御家再興は出来ない・・・でも数年たてば戦場に立てる若武者になる。

その数年の間に祐兵が、御家再興の道筋を作ることが出来れば、伊東家の将来は安泰だ。

そして祐兵と嫡孫・義賢が揉めることがないように、義賢の妹・阿虎を祐兵に嫁がせたのではないだろうか?

これにより祐兵は義賢の「叔父」である前に「義理の弟」になるからだ。

まぁ、少し飛躍したかもだが、とりあえず結果から言うと、少年たちを大友館に残したのは失敗だったと思う^^;

伊東家の没落・・・・辛く悲しい真冬の山越え・・・さらに少年たちには衝撃のカルチャーショックが待っていた。

伊東家の少年たちは「仏教にハマってた御祖父ちゃんの城」から「キリシタンにハマった親戚の大叔父様の館」に転居したからです^^;;
嫡孫と、その弟、その従兄弟たち・・・み~んな宗麟大叔父様の影響でキリシタンの洗礼受けちゃった

天正遣欧少年使節として伊東マンショ(義祐の孫)が突出して有名だけど、
そもそも使節として行くのは、伊東祐勝(嫡孫・義賢の弟)が行くはずだった。

でも安土に留学中で間に合わないってことで、伊東マンショが選ばれたの。
大友宗麟の代理だから、血縁の濃い祐勝が推薦されていた)

嫡孫・義賢と弟・祐勝の信仰心は、少年期に受洗したせいか純粋で、禁教令が出ても棄教しなかった。

それが彼らの運命に関わったのではないか・・・と考えられなくもない。



話を伊予に行った伊東義祐と祐兵に戻そう。

新天地での生活は思うようにならなかった。

なかなかチャンスは訪れず、祐兵の祖父(生母の実父・河崎氏)が酒造りなどして生活を支えていたほどだ。

そんな時・・ツテの、そのまたツテ・・・[山伏]スッ≡( ̄ー『+』ゝ見っけ~~~

かつて伊東家に世話になった山伏(修行のため全国歩く)が、
羽柴秀吉の黄母衣衆のメンバーの中の伊東一族の者(といっても先祖が一緒なだけで限りなく遠い)
と、知遇を得たのだ。

日向にいた祐兵は羽柴秀吉のことまで知ってたか解らないが、織田信長なら大友館で耳にしていたはずだ。

ツテのツテを頼って「織田家へ転職~~((((((((((っ´▽`)っレッツゴー」

御家再興の足掛かり・・・・だが天正10年に「本能寺の変」勃発!!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
またまた明日が見えない伊東祐兵!・・・それは・またの話 by^-^sio

【伊東家の没落】~飫肥藩初代藩主編3

1568年永禄11年・・・伊東祐兵(すけたけ)は数え10歳で伊東家48支城の一つ、飫肥城の城主となる。

まだ若年だが、一城の主になったのだから彼の元服は、この頃だろう。

ちなみに伊東家で高名な48支城の成立年度は、伊東が日向・北原氏の領地を奪った(1564年)以降。

むろん支城の下地となるものはあり、ゼロからの築城ではない。

北原没落以降は、猛将・島津義弘が日向入り(木崎原の戦いの前です)しており、
伊東としても飫肥城ゲットのために、島津に対する備えを万全にしておきたかったのではないか。

そして祐兵の初陣(戦場デヴュー)は、島津軍との戦いであるのは容易に想像できる。

祐兵と島津家との所縁は、伊東家という日向の覇者の家に産まれたことに起因している。

城・飫肥大手門
飫肥城大手門

日向(ひゅうが・現宮崎県)の覇者一歩手前の伊東義祐(よしすけ)。

彼の期待の嫡男、名前は義益(よします)と言った。

温厚な人柄で領民も家臣も義祐でなく義益を慕っていた。

それもそうだろう。父・義祐は公家・仏教文化にハマって散財しているので、否応なしに次世代に期待する。

伊東家、期待の若殿・義益には側室がいた。

当時なら普通だが、義益の場合は若干・・・事情があった( ̄ω ̄A;アセアセ

側室は名は福園。48支城の一つ、内山城主・野村家当主の妹です。

彼女は大層な寵愛を受けていたのだが、若殿・義益が名門の姫君と結婚することになった。

鎌倉以来の伊東家の嫡男と、一城主の妹では所詮家格が釣り合わぬ縁。
福園は正室に遠慮して実家に帰ることとなった。

若殿・義益の正室になったのは一条家の姫君で名前は阿喜多、
大友宗麟(全盛期のキングオブ九州)の姪にあたる。

阿喜多は嫉妬深い性質だったらしく、義益の結婚前の側室・福園を殺害してしまった。
若殿・義益が、側室殺害が自分の正室の命令だと知っていたのか、知らなかったのか、
彼の反応は伝わってはいない。

大友家との外交関係を慮れば、当然何も言えなかったに違いない。

若殿・義益が仏道修行に励んだのも、無体に儚く散った側室の事も関連あるかも・・・と想像できる。

身を引いたにも関わらず、妹を殺された内山城主は伊東家を深く恨み、
このことが後の禍根になったのは言うまでもない。

伊東家が飫肥院を手に入れた時期は、ウィキペディアでも記述が別れているのだが、

飫肥城を手に入れたのは1567年、翌年1568年に祐兵を城主に配置し、飫肥院を完全に掌握したのが1569年のことだ。
得意の絶頂を迎えた伊東家だが、期待の若殿・義益が同年に病死する。

義益と正室・阿喜多の間には2男1女がいた。

と、いっても次男は、まだ阿喜多の胎内にいて、翌年に誕生する。

とにかく阿喜多と義益の忘れ形見たちは、父・義祐が引き取り手元で育てたのである。

期待の嫡男を失い、戦国大名としての覇気を失った伊東義祐は哀しみを紛らすために、ますます仏教文化にはまった。
(法会などの勤行三昧や、僧を招いての説法会などなど・・・もちろん多額の布施をする)

嫡孫に無事家督を継がせる・・・そのことに腐心した伊東義祐は、自身の三男・祐兵の妻を決めた。

なんと祐兵の妻に、祐兵の兄・義益の娘(つまり祐兵の実姪)としたのだ

ただ、祐兵が伊東家の家督を狙って自ら望んだのか、父・義祐が孫可愛さで決めたのか、その辺が微妙すぎて解らない^^;

いずれにせよ、このころ阿虎は幼女なので、実際の結婚生活スタートは「九州の役」の後になる。

現代からみればアブノーマルな血族婚だが、古い名族では決して珍しいことではない。

近い例でいうと、島津義久の最初の妻は実の叔母だし、長宗我部さんとこも叔父・姪カップル。

相良義陽も義理だけど叔母が正室。・・・・なぜか南国に多いなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ


家紋・伊東
伊東家紋

1572年元亀3年・5月4日~木崎原の戦いで島津義弘軍300と伊東軍3000が激突、伊東家は大敗北する

もともとは伊東と同盟関係だった相良家と、島津軍を挟み撃ちする予定だったのだが、
島津義弘の計略で連携に失敗したと言われている。(詳細は相良編にて)

とにかく伊東家は将領級・指揮官クラス・・・つまり各家の当主や嫡男を失い大打撃を受ける。

伊東家の打撃の大きさは「耳川の戦い」後に、武威と家運が衰えた大友家と似ている。

ただ大友家と伊東家の違いは、大友宗麟が天賦の外交能力で難局を乗り切ったのに対し、
伊東義祐は現実から目を背け、耳を塞いで「裸の王様」になったしまったことだ。

1575年~伊東義祐は家中の雰囲気を一新するために、最愛の孫・義賢(若殿・義益の嫡男)に家督を譲る

嫡孫・義賢は、わずか8歳・・・とうぜん何もできず、実権は祖父の伊東義祐が握ってる。

そうこうしてるうちに、島津の攻略の手が入り、伊東義祐に見切りを付けて寝返る城主が出始める。

だが伊東義祐が真実を知ることは無かった・・・彼の周囲にいるイエスマンたちは叱責を懼れて義祐に報告しなかったからです。

1577年~北部から長年のライバル・土持氏が、南部と北西部から島津軍が伊東領地へ侵攻を開始する

祐兵の飫肥城も島津軍に包囲されてしまい、義祐のいる佐土原城へと脱出した。

そして伊東家の縁戚である福永家までが、伊東家を見限り島津に寝返る。

福永は何度も享楽に興じる義祐を諌めたのだが、義祐が周囲を寵臣で固めて聞く耳を持たなかった、その結果の裏切りだった。

福永氏の裏切りが、伊東家に仕えてきた氏族たちに衝撃を与えた。

そして伊東家の怨霊を祓う大宮司という、重要な役目を担う家だった米良家が「義祐に遺恨あり」と裏切った。
(米良家庶流です・もっとも米良家は後日に改心して、伊東祐兵に仕えている)

さらに前述の妹を殺された野村氏(内村城主)が裏切ったため、義祐の本城・佐土原城の西の守りはガラ空きとなった。

さすがに事態は伊東義祐の知るとこところとなったが、全ては手遅れだ。

1577年12月9日・・・「伊東崩れ(家臣・配下の大量離反)」により、伊東義祐は「豊後落ち」を決意する

つまり亡き義益の未亡人・阿喜多の叔父・大友宗麟を頼って、豊後へ亡命することになった。

豊後へ向かう途上に、譜代の重臣筆頭格・落合氏が守る財部城があったのだが、そこも伊東義祐を見限り島津へ寝返ったいた。

というのも義祐の寵臣の専横のために、落合氏の息子が殺されていたからだ。

伊東義祐は没落の原因の全てが、享楽に溺れた自分にあることを自覚し自害しようとしたが、周囲が必死に説得し思いとどまらせた

こんな土壇場で、本人だけトットと死なれたら、家臣たち路頭に迷うでしょ~困ります(O ̄∀ ̄)ノ

とにかく財部に入ることが出来ないので、急遽、高千穂経由の山越え強行軍となった(_´Д`)アイーン

旧暦12月は今の1月真冬にあたる・・・当時の日本は小寒期で今の日本より寒かった(らしい)・・・

150人いた家臣・侍女たちは、あるものは猛吹雪ではぐれて遭難し、あるものは崖から落ちたりと、一向は80人にまで減ってしまったという。

8歳だった伊東マンショ坊ちゃまも、家臣に背負われて豊後落ちを経験した一人です。
(また木崎原を生き残ったマンショ父も、この時に亡くなったと言われてます)
(マンショの母は義祐の娘なので、伊東マンショは伊東義祐の孫です)

伊東祐兵19歳・・・没落する家の惨めさをイヤというほど味わったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【島津・華麗なる一族】飫肥藩初代藩主編2

戦国・九州は日向(現・宮崎県)の覇者・伊東義祐(いとう よしすけ)。

日向三国志の決着は、ライバル土持を追い詰め、豊州島津(分家)から領地を奪った伊東家の一人勝ちとなった。

ところが、その得意の絶頂期1569年に、伊東義祐は期待の嫡男が病死してしまう。

既に家督を譲り、政治体制も父と息子のツートップで機能していたので、伊東家は少なからず混乱した。

嫡男の遺児を伊東義祐が引き取り、跡取りとして養育しはじめたのだが、
絶頂期に悲しみの奈落に突き落とされたので、伊東義祐は戦国大名としての英気・覇気を失ってしまった。

伊東義祐は政務に関心を失い、以前から傾倒していた仏教・公家文化にのめり込む。

彼は家臣の諫言に耳を貸さず、周囲にイエスマンしか近づけないようにしてしまう。

伊東義祐の変化は、もう一人の息子・三男・祐兵(すけたけ)など眼中にないかのようだ。

もっとも祐兵は、この時数えで12歳で、よほどの神童・名将でない限り、その器量は未だ海のものとも山のものとも判断がつかない。

周囲の家臣たちも、祐兵少年の強かで逞しく、時に大胆な本性に気づいておらず、
後年、この12歳に祐兵少年に、自分たちが家臣として額づくとは想像してもいなかった。

鎌倉以来の名門・伊東家の嫡流は、あくまでも伊東義祐の嫡男の遺児が、家督を継ぐことだったからである。

家紋・伊東
伊東家紋

一方、伊東家のライバル・薩摩の島津家でも訃報が舞い込んだ。

1571年・元亀2年6月23日~15代当主、島津貴久が58歳で死亡したのである。

ちなみに同年同月に毛利元就が75歳で没している。

貴久の死去により家督は4兄弟の長兄・義久が39歳で島津16代当主となる。

伊東義祐は当主貴久の死去により、島津は再び内訌(内輪もめ)により弱体化すると判断し(そのくせ英気ないから何も対応しない)油断した。

もっとも伊東義祐の判断は消極的判断ながら、全くの的外れではない。

長兄・義久は年齢・能力に不足は無いのだが、病弱で度々体調を崩して寝込んでは祈祷騒ぎする^^;

さらには未だ嫡男に恵まれず、2年前に産まれたのも女子(末娘・亀寿のこと)だったんです。

何度か触れたが、この当時は島津家では「当主の絶対的権威」が確立しておらず、分家と宗家の実力は拮抗していた。

貴久の先代・14代勝久がヘタレ当主だったため「テコ入れ」のため、
島津日新斎(しまづ じっしんさい・伊作島津当主)の嫡男・貴久が15代として家督を継いだのだった。

だが他の分家にしてみれば、分家から入った当主に頭を下げるのが何としても面白く無い。

それでも貴久が奮闘し何とかバランスをとり「大隅統一」を成し遂げたのだが、
その貴久が熟年期に死去し、病弱な義久が家督を継いだため、再び分家が反抗的態度になる。

家紋・島津
島津家紋

特に鼻息が荒かったのが分家・薩州家5代目・実久だ。

薩摩州家5代目は死んだ貴久も手こずらせたのだが、義久をも悩ませた。

そこで義久は自らの長女・御平(おひら)を薩州家6代目義虎に嫁がせ、薩州家を分家筆頭の待遇にすることで漸く宥めたんです。

薩州家6代目・義虎(ちなみに「義」は足利義輝から拝領)は父の5代目と違い宗家に(一応)従順で、
御平とも仲睦まじく子宝に恵まれた。

惜しむらくは薩州家6代目義虎が50歳という若さで亡くなることだが、それは未だ先の話だ。


父・貴久亡きあとに、再び不安定になった国内をまとめつつ、
念願の「三州統一(薩摩・大隅・日向)」に向けて、その牙と爪を研ぐ島津四兄弟。

一方、絶頂期だった伊東家は嫡男の死により、静かに没落の坂道に向かいつつあったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

「次回~伊東家の没落」
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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