【稲津の乱・悲劇の戦後処理後編】飫肥藩初代藩主編11


1602年8月18日~主君の切腹命令を不服とした稲津が清武城に立て籠もった!

後に言う「稲津の乱」である

実は稲津には結婚してほどない新妻がおり(稲津が朝鮮の役などで晩婚になった)名前を雪江という。

小さな藩のことだ、雪江のことは家中の誰もが顔を見知っている。

新婚の二人には、まだ子が授かっておらず、伊東家でも「雪江殿を巻き添えにするのは忍び無い」

と考え城を囲む前に使いを清武城に出した。

使者は「奥方の実家から参りました」「御母上が病で危篤です」とウソを言って雪江を城外へ連れ出した。

何も知らない雪江は実家へと向かう道すがらに、
「主家である伊東家の兵」が「夫の清武城を囲んだ」ことを知る。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

家中の空気に気づいてはいたものの、まさか突然に上意で城を囲まれるとは夢にも思っていなかった。

驚いた雪江は周囲の制止を振り切り、夫の元へと戻った。


稲津は「新妻は実家で保護されたのだ」と思い安堵していたのだ。

それが目の前に戻った雪江を見て驚いた。

稲津「愚か者!なぜ戻ったのだ!今すぐ離縁するゆえ実家へ帰るのだ!妻を道ずれにしたとワシが嗤われるわ!」

雪江「では私が夫に仕える覚悟が足りぬ不心得な妻と、家中で嗤われるのは構わないと、おおせになるのですか!?」「一度、嫁いだ以上は、冥途の果てまで御供いたします。」
「閻魔様が貴方様を主君への不忠で裁こうとするならば、私が貴方様の無実を訴える証人になりましょう!・・・どうか私をお連れ下さいませ!・゜・(PД`q。)・゜・」


言い終わると髪が振り乱れるのも構わず、泣き崩れる雪江の白いうなじを見て、

稲津は哀れを催し「あぃ解った・・・ともに死出の旅へ参ろう」と言った。

雪江が家臣の介錯で絶命したのを確認すると、稲津も自害し清武城は落城した。

稲津重政29歳・・・妻・雪江は未だ15歳の若さだった・・・

城・飫肥大手門(飫肥城大手門)

一説によると「稲津に全ての責任を押し付けて始末しろ」と、
祐慶少年にアドバイスしたのは、黒田如水だとも言われている。

そこで稲津が島津への挑発行為を止めなかったのは
「実は如水の指示だったのでは?」という疑惑が浮上するんです。

黒田如水が「九州の関ヶ原」で目指していたものの一端を、稲津重政は知っていたかもしれません。

だが如水と打ち合わせしてたであろう伊東祐兵が1600年に死に、そして稲津が1602年に死に、
さらに如水本人も1604年に病没したので、今となっては真相を知る者は誰もいません。

亡き祐兵は東軍・西軍のどちらが勝っても言い逃れ出来るように、祐慶少年に裏事情は一切教えていない。

「何があっても、そなたは若年ゆえ知らぬ存ぜぬ、で押し通すのだ」という秘策のみ授け、
祐慶少年は、その通りに実行して幕府の詮議を逃れたんです。(だってホントに知らないんだもん)

さすが「伊東家、中興の祖」です。死んでも伊東祐兵は只者ではない( ̄ω ̄A;アセアセ

稲津の死をもって「伊東家の関ヶ原」は終わりました( ̄  ̄)トオイメ。。 

稲津の才能を見出した祐兵が生きていたら、彼の晩年は違ったものになったかもしれません。




稲津の死後、生き残った家臣が清武城の側に「海が見えれば慰めになるだろう」と海側に向けて夫妻の墓を建てた。

ところが墓を建ててからというもの、船が日向灘を通過しようとすると、必ず難破するようになったそうだ。

地元の村人は「無念に死んだ稲津夫妻の恨みが祟りになった」と憐み、
墓を海とは反対側に向き直した後に、丁重に弔うと船の難破はピタリと治まったそうだ。

日向記は貴重な中世資料であるが、伊東家側の視点から描かれた記録でもあるので、
「稲津の粗暴」という罪自体が、実は仕組まれたものだったかもしれず、
それを地元の民は知っていたかもしれない・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

墓は村人たちが守り続け、伊東家もそれを咎めることなく、今も日向灘に背を向けて現存している。


※夫妻の会話は実際の会話ではなく、管理人が妄想アレンジしましたので、御了承下さい(^ -)---☆Wink
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【稲津の乱・悲劇の戦後処理前篇】飫肥藩初代藩主編10

1601年・公儀(この場合は豊臣政権~でも決めてるのは5大老筆頭の徳川家康)の裁定で、
日向・宮崎城は伊東家から、元の持ち主の高橋元種に返却された。

徳川家の手前、伊東家と高橋家は和解したが、問題は島津家との関係だった(_´Д`)アイーン

家康が島津征伐してくれれば、伊東家が佐土原の島津と小競り合いになったのは、
単なる通過点で済むはずだったし、伊東の軍功になってた。

だが関ヶ原本戦が勝利した後の、地方の戦闘が長期化するのを嫌った家康は、
島津征伐を取りやめ撤退命令を出してしまうil||li _| ̄|○ il||l

当主である島津豊久が西軍として関ヶ原で戦死したため、彼の佐土原の領地は公儀に没収されたが、
それで島津宗家と伊東の気まずい空気が無くなるわけではない。(逆に増々悪く・・・汗)

このまま島津の御家存続が決まれば、薩摩・大隅の二か国の太守・島津宗家に、
わずか3万6千石の伊東家は |国境|_ ̄)じー と、睨まれ続けるのだ。

伊東家は何とかしようと焦り、
島津分家と小競り合いをした本人である稲津重政は、伊東家で政治的に孤立するのだった。

家紋・伊東(伊東家紋)

伊東家の焦りの一つに、父・祐兵(すけたけ)の死で当主となった嫡男・祐慶(すけのり)に対して、
幕府から「領知宛行状=領有を認める保証書のようなもの」が発行されていないことがある。

領知宛行状は一度貰えばOKではなく、有効期限は貰った当主一代限りで、
伊東家でいうと祐兵の死で消費期限が切れている。

新たに家督を継いだ祐慶クンは、改めて公儀から発行して貰わなければならないんです。

また大名当主の代替わりに関係なく、将軍の代替わりの時に再交付される事もあります。

これは新将軍の権威付けのためで、文書としての形式が整ったのは寛文年間(1667年)です。

徳川家康から新将軍・秀忠に代替わりしたが、諸大名への領知宛行状は出ていない。

発行されたのは1617年・・・つまり豊臣家が滅亡した後のことです。

徳川家では実質・領地宛行状と同様の裁定をしていながら、文書の発行そのものは豊臣家が滅ぶまで慎重でした。

ですが伊東家では、そこまでの高度な政治判断がなされているとは思いいたらず・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

いや気づいていたとしても、祐慶クンが宙ぶらりんの放置プレイにあっていることには変わりないわけでして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

少しでも良い立ち位置に・・・公儀の覚え目出度く・・・と伊東家は涙ぐましい努力をします。

大坂の陣の前に「5万石以下の小大名の武功は単発でカウントされない」と知ると、
(小大名は与力大名(下世話に言うと金魚のフン)として、大藩の軍編成に組み込まれちゃう)

全ての土地を引きはがすかのようにして領内の強制検地を敢行し、
3万6千石から5万7千石という数字を叩き出して、幕府へ報告するんです。

もちろん「台所は火の車」なんて文学的表現を通り越して、決算書が大炎上~

そこで祐慶クンは、船の材料に適した飫肥杉の殖産事業に励んで収支トントンするのです。。(-人-)ガンバリマシタ


話戻って、1602年の稲津重政です。

日向記によると家中で孤立した稲津はヤケになって粗暴な態度が目立つようになったとあります。

宮崎城攻撃の時に、祐慶から借りた「秘蔵の愛馬」を何時までも返さない。

そこで家臣が派遣され「もういい加減に返しなさい」と言ったら「そのうち返すつもりだった」と稲津の答え。

稲津の不遜な返事に「それが主君の使者に対する態度か!」と使者が逆切れし、
脇差を抜いて稲津に斬りかかった。(使者の方も問題あると思うが

驚いた稲津が(主君の使者と会うので丸腰・まるごし=武器不携帯だった)部屋から逃げると、
次の間に控えていた稲津の家臣が「主君の使者を」「斬り殺してしまう」(゚ロ゚屮)屮ぇええっ!

これが伊東家で大問題になった(そりゃそうだ

報告を聞いた祐慶クンの生母・阿虎の方(この時は夫の菩提弔って尼姿)が、
ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.「稲津を殺せ!」と命じたと伝えられている。

さらに国家老・松浦までが「稲津に粗暴の過度あり」と大坂にいる祐慶に訴え出た。


祐慶クン15歳は、産まれたのは日向だけど、物心ついたときには大坂屋敷で(人質兼ねる)暮らしていたので、
国許の事情が皆目(かいもく)分からない~~

ましてや奇跡の御家再興を果たし「伊東家・中興の祖」と称えれる偉大な父・祐兵が、
42歳の働き盛りで病死したばかりで家中の動揺が治まってない。

さらに祐兵の晩年は関ヶ原を生き残ることで手一杯~~
嫡男に領地を統治する術など、伝えきることが出来なかった。

祐慶少年は、後年の飫肥藩の実質・初代藩主として、藩の基礎を築いただけあって聡明な少年だった。

だが「稲津の早すぎる出世に対する妬み」「島津との関係修復には稲津を排除すればいい」
という家中の空気」を覆すほどの政治力はまだ無かった。

・・・・・・稲津を庇いきれず、祐慶少年は稲津に対して【上意・切腹命令】を出す(T^T)


1602年8月18日~切腹命令を不服とした稲津が清武城に立て籠もった!
後に言う「稲津の乱」である

だが地元に伝わる話では、やや・・かなり事情が異なるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【昨日の敵が】寝返り上等【今日の味方】飫肥藩初代藩主編9

伊東家の家臣に稲津家がある。

伊東家が日向に下向する時(鎌倉時代)から仕えている家で、いわば譜代家臣だ。

その一族の裔に稲津重政という家臣がいた。

実は省略してたが伊東家は「朝鮮の役」での働きで、2万8千石から3万6千石に加増されている。

でもって稲津は大変に武勇優れた若者でして、伊東軍の主力武将として「朝鮮の役」で活躍したそうだ。

1598年・・・太閤・豊臣秀吉が永眠

主君の伊東祐兵(いとう すけたけ)は、世情が不安定になるのを見越して、
稲津重政を清武城の城主に抜擢し、さらに家老としての待遇まで与えた。

この時に稲津は25歳の若さで、いくら譜代の家柄とはいえ、他の重臣を差し置いての出世を妬まれることになる。

1600年・・日本人全ての運命を変えた「関ヶ原の戦い」を迎えた

病の床にある祐兵は、初めは隣の島津に倣って西軍だったのだが、土壇場(本戦前)で東軍に寝返る決断をする。

そして初陣の嫡男・祐慶(すけのり)の代行として、稲津重政に軍配(ぐんばい=軍の指揮権)を授けたのだった。

城・飫肥虎口
(伊東家の飫肥城~虎口(こぐち)です~小藩ながら良い造作~このアングル大好き(*´艸`)

戦国最盛期36万石だった伊東家・・・

伊東祐兵は、島津に敗れ没落した伊東家を小領主ながらも御家再興に成功した苦労人だけに、慎重だった。

自分が不在の伊東軍の命令系統が、不測の事態で乱れることがないように、
単に軍配を授けるだけでなく、今回の大将である祐慶の秘蔵の愛馬も貸し与え、
稲津に指揮官としての権威付けして命令権者を(念を入れて)明確にした。

つまり13歳の祐慶少年は「飾りの大将」であり、戦の全責任は稲津にある、ということなんです。

海千山千の祐兵は、万が一を恐れた・・・だってもしかしたら東軍が負けるかもだもん^^b

もし西軍勝利となったら「祐慶は初陣で子供だぉワカンナイヨで押し通し、稲津に責任押し付けて~・・ゴニョゴニョ」の腹積もり・・・。

大坂から船で九州は日向(宮崎県)に戻った祐慶少年は稲津と合流。

そして稲津&祐慶少年の元に、黒田如水から使者・宮川某が派遣された。
九州における東軍の中心者は、中津の黒田如水です。
黒田から使者が派遣されるということは、事前に祐兵が如水に相談して根回ししているとシオは考えています
黒田⇒伊東への使者派遣を以て「伊東家は東軍に属す」と、後の公儀裁定で正式かつ公式に認定された。


海千山千度なら負けちゃいない黒田如水は、使者・宮川を通じて伊東家に作戦を授けた
伊東軍の攻撃目標~~~隣の西軍・高橋元種の支城・宮崎城!

ここで、さすがの如水も予測できなかったハプニングが起きた。

高橋元種は「関ヶ原本戦が東軍勝利」と知って、速攻で西軍から東軍に寝返っていたからです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

いかに如水の知謀を以てしても、ネットもテレビも無い時代の、情報のタイムログの差だけは埋められない。

1600年10月1日~高橋元種の寝返りを知らない祐慶&稲津軍は、上方に出陣してて高橋元種が不在の宮崎城を攻撃する
高橋元種が西軍から東軍に寝返り、領地安堵が決定したのが9月23日
わずか7日間の差で、この攻撃は東軍同士の同士討ち・・となってしまった・・・!

祐慶少年と稲津が出陣したのは9月28日のことで、兵力は3000名~ヽ(。_゜)ノ へっ?

最初、数字が間違いかと思って、何度も鬼検索・ネットサーフィンした^^;

だって石高が3万6千だよ、通常の動員能力より一桁多いんです。

江上・八院の鍋島様同様に国許を空にして、さらに身分・年齢に関係なく男子全てに召集をかけたのでしょう。

とにかく城を囲むには喩え「枯れ木に山の賑わい」でも、城側の数倍の兵力がいるんです( ̄ω ̄A;アセアセ

宮崎城の留守を守ったのは兵500とあるが、これも多すぎるようなぁ・・・(-ω-;)ウーン

だって高橋元種の石高は5万石でして、しかも上方に本軍を引き連れてるわけだから、
支城にそんなに残せる余力があるはずないんです( ̄ω ̄A;アセアセ

こっちも籠城だからぁ~って引き入れた城下の農民とかを「兵力」にカウントして・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

とにかく稲津の攻撃により、宮崎城は一日で陥落。

高橋元種の家臣の城代が討死し、攻撃側の伊東軍にも50人の死者が出た。

この同士討ちは、事前に如水と連携を取ってたおかげで「東軍としての行動」とされ、
「同士討ちになったのは、知らなかったからやむを得ない」と不問にされた。

だが城を奪われた高橋元種は怒ったままで、伊東家との関係悪化。

さらに伊東家でも同士討ちだから戦死者50人の死も、戦功としてカウントされず家中に不満が燻った。

1600年10月11日~伊東祐兵42歳の若さで大坂で病没

紆余曲折あったものの祐兵の博打は成功し、祐兵は病の床で領地安堵の報を受け取り、思い残すことなく死んだ。

祐兵に対して領地安堵がなされたので、数日で没しているのだが「飫肥藩の初代藩主は祐兵」となっている。(ほぼ藩祖ww)

昔話や一話完結の時代劇なら「これで、めでたし、めでたし」のはずが、話が拗れるんです( ̄ω ̄A;アセアセ

なぜなら稲津が軍行動を止めなかったからです~Σ(´Д`;)え~~

稲津はゲッツした宮崎城を維持するだけでなく、戦果を広げるべく島津軍との戦を始めちゃった(_´Д`)アイーン

10月18日~佐土原城(関ヶ原で戦死した島津豊久の領地)に迫り島津勢と小競り合いを始めた

佐土原城は分家の領地なので、島津本軍との本格攻勢というわけではありませんが、
ブチ切れた佐土原・島津軍が宮崎城に反撃したりと、小競り合いは都合20回にも及んだんです。

稲津が宮崎城を攻撃した10月1日は、関ヶ原を命がけで脱出した島津義弘一行が佐土原に到着した日です。

島津義弘が鹿児島についたのは10月4日・・・彼の元には稲津の動きが佐土原から入ってきており、
偶然の符号ですが、まるで自分の逃避行後を追って攻撃されているような錯覚を感じたでしょう。

島津軍が「次は東軍の本軍が来るのでは・・」と異常な緊張状態になって、国境付近を固めはじめるのです。


稲津が何故、軍行動を止めなかったのか・・・・

1・稲津の個人的野心説
2・亡き祐兵の授けた伊東家再興(島津から旧領奪還するぞ)作戦説
3・黒田如水が授けた作戦説
4・黒田如水と伊東祐兵の連携作戦説


とあり未だ定説がありません~~( ̄ω ̄A;アセアセ

さて島津家を思いっきり挑発した稲津の行動が、後の悲劇を招くのですが、それは・またの話 by^-^sio


【島津豊久】飫肥藩初代藩主編8

1600年6月13日~伊東祐慶(いとう すけのり)は13歳の誕生日を迎えた^-^カワユイ~

折も折「関ヶ原の戦い(この段階での名目は上杉征伐)」という大戦が始まろうとしている。

これを嫡男の初陣(ういじん=戦場デヴュー)と元服(げんぷく・武家男子の成人式)にしようと思ったのも束の間、
肝心の伊東祐兵(いとう すけたけ)が病に倒れる!

これを機に「弓矢の駆け引き」を自ら我が子に教えたいという願いも、もはや叶いそうもない・・・病床で祐兵は懊悩するのだった。

出典元:日向纂記
参照元:しいまんづ雑記旧録「日向纂記と島津豊久」

城・飫肥虎口
(伊東家・飫肥城の虎口(こぐち)~シオお気に入りのアングルです(*´艸`)ルンルン)

身は大坂にあれど、領地は日向(ひゅうが・現在の宮崎県)の伊東家です。

九州では東軍の旗印を明確にしてるのは、黒田家と加藤清正だけでして、後は中立か西軍。

伊東家の隣・島津家は西軍で、しかも本軍の殆どが(大人の事情で)本国・薩摩に留まってる状態だったので、
小領主ばかりの日向の大名たちは、島津に倣っての西軍入りでした。

重篤となった祐兵は大坂城に出仕もままならず、軍議も病のためと欠席が続いた。

だが時期が時期だけに「祐兵の病は詐病で東軍に寝返ったのでは?」と疑われたのです。

祐兵を疑ったのは、同じ日向の領主同士の秋月種長・高橋元種でして、二人は秋月種実の息子たち^-^

二人は島津義弘邸の島津豊久を訪れ、祐兵の話を持ちかけた。

「ワシと伊東殿は無二の親友(朝鮮の役で親しくなった設定らしい)ゆえ、ワシが見舞いとして何としても様子を見に行き、真偽を確かめてこよう」
「万が一詐病が事実で、東軍に寝返っていたのならば、刺殺するのは容易いことだ。」
「貴殿らはワシの帰りを待っていてくれ」

ということになって、豊久が単身で伊東家大坂屋敷を訪ねた。

家紋・島津(島津家紋ロゴ)

豊久が尋ねると、祐兵の重病は紛れもない事実だった。

顔色は蝋のように白く、唇は青紫色になり、息するのも苦しげで、見る影もなくやせ衰えている。

まだ42歳だというのに、褥から豊久に向かって差し出した手は老人のように枯れていた。

島津豊久は一時でも親友を疑ったことを恥じると同時に、あまりのやつれように言葉も咄嗟に浮かばず、

「六郎三郎(祐兵の通称)殿・・・」とだけ言うと絶句してしまった。

「このような有り様です・・・横になったままの見苦しき姿をお許しあれ・・・ゲホゴホ」

「あぁ!お構いなさるな、すぐに辞しますゆえ・・どうかゆるりと養生して本復を・・・」

言ったそばから本復などという言葉に、虚しい響きが混じるのを隠しようが無かった。

「いえ・・・これだけは言わねば・・・それなるに控えてるのは、我が嫡男・左京亮(祐慶)でござる・・・どうか見知りおきくだされ・・・」
「此度が初陣にて・・・甚だ心許のうござる・・・どうか、宜しくお引き回し願いたく・・なにとぞ・・・」

そう言うと祐兵は、やせ衰えた身体を必死に起こそうとしたので、

「あ、いや、どうか!そのまま!御嫡男のことは、この豊久がシカと承った安堵下され」
「あぁ・・忝い・・・左京亮(祐慶)・・・佐土原の領主・島津又七郎(豊久の通称)殿じゃ・・・御挨拶をいたせ」
「お初にお目にかかります。祐慶でございます。父から又七郎様の武勇のほどは伺っておりました。足手まといと思いますが宜しくお願い致しますm(_ _)m」
「おお、立派な挨拶じゃ、これなら諸侯の前でも申し分ない大丈夫ですぞ^-^」

「忝い・・・思えば貴公とも不思議な縁で親しく交わったが、、いよいよ今生の別れとあいなり、、、一足先に冥途へと参ること・・・お許し・・ゴホゲホ・・」

「六郎三郎殿・・!。゜゜(´□`。)°゜。」

もはや先が無いであろう親友の心中を思い、涙の別れをした豊久は、
義弘邸で彼の帰りを待っていた秋月種長と高橋元種に向かって「伊東殿の病は真でござる。安堵めされ」と報告した。

家紋・伊東(伊東家紋ロゴ)


解りやすさ優先でシオ流アレンジしてます^^
原文に関して「もっとkwskって方は参照元を御覧下さい^-^

で、結論から言うと、この逸話どうも江戸期のアレンジ臭(もしくは創作逸話)がする。

というのも原文には、歴史上は存在しないはずの島津豊久嫡男の名前がある。
(記述者の勘違いか?)

さらに関ヶ原前だというのに豊久は「関ヶ原での討死の覚悟」を語ってる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)

文中の豊久は「かなりの御人好しちゃん、アホの子」キャラになってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でもって伊東祐兵です。

実は祐兵は「既に西軍から東軍に寝返る決意」をしてました。

祐兵が西軍のどこに不安を感じたのか記録には無いです、病人ゆえの心変わりかもしれません。

とにかく祐兵は密かに、そして急ぎ便船を用意すると嫡男・祐慶少年をサッサと本国に帰国させちゃった

この後、島津と伊東は揉めることになるので、
島津に配慮した伊東側が「豊久と祐兵仲良し逸話」を捏造言い訳にしたと思われます(*´pq`)クスッ

祐兵は祐慶少年を帰国させるときに、黒田如水と連絡を取り合い、何事か密談したようだ。

このあたりはシオ的推測になるのだが、祐兵は嫡男の帰国前に黒田家大坂屋敷に何らかの意思表示をしたはずです。

というのも如水が九州の関ヶ原のために行動を開始したのは6月からです。

自前の軍隊・如水混成軍の兵の募集を開始してて、北九州だけでなく豊後(大分県)にも広く声をかけてました。

情報収集に熱心な九州の武将なら、如水の動きが入ってきてるはずで、
祐兵が寝返りしたことに、如水の動きは無関係ではないでしょう。

伊東家御家再興のために、一時期(vs明智~九州征伐まで)は豊臣秀吉の陣中にいた祐兵ですから、
黒田如水の油断ならない知謀は、直接に見聞きしてます。

それに黒田如水は、毛利本軍が上方に行った隙を狙って、関門海峡の制海権を既に確保済。

祐慶少年の乗った船が無事に日向に辿りつくためには如水に対し、
「僕は東軍なんです。父上から、そう言われたの^-^」って一礼入れないと砲撃くらっちゃう^^;

家紋・黒田(黒田家紋ロゴ)

祐兵にすれば、まだ未熟な祐慶を勝手の解らぬ上方でウロウロさせても大した武功は上げられない。

それより如水の勢いに便乗して、日向にある西軍の城を、東軍として落とす方が、徳川家康の覚え目出度いと判断した。

もちろん初陣の祐慶には戦の指揮は出来ない。

そこで祐兵は武勇優れたお気に入りの家臣に軍の指揮権を託した。

一度は没落した伊東家を再興しただけあって、祐兵の生き残りに賭ける執念は並々ならぬものがある。

祐兵・最期・・・渾身の大博打。

歴史は彼の掛け目が正しかったことを証明しているものの、
伊東家が飫肥藩として生き残るための犠牲者が出てしまうのだが、それは・またの話 by^-^sio

【不審死or病死?】飫肥藩初代藩主編7

1589年6月13日・・・伊東祐兵(いとう すけたけ)の嫡男・祐慶(すけよし)が誕生したことから伊東家の家督がややこしくなる。

伊東家嫡流で家督を継いだ伊東義賢(いとう よしかた~祐兵の甥にあたる)が厳然といたからだ。

だが天下人・豊臣秀吉が戦功を認め、領地2万8千石を与えて大名に取り立てたのは祐兵だ。

没落した伊東家が大名として復活したのを機に、旧家臣が帰参しはじめ、
(小大名だから領地に限りがあるので早く帰参した者勝ち^^;)

本来であれば主君の義賢が、家臣として祐兵に仕えるという逆転現象が起きる。

それでも祐兵に子供がいなければ、義賢を養子に・・・って流れになった可能性が高いのだが、
幸か不幸か、祐兵に待望の嫡男が産まれてしまう。

そうなったら祐兵も、苦労して手に入れた領地を、何としても我が子に譲りたい。

祐兵の現代目線から見れば「若い晩年の苦悩」が始まる。

そして1592年天正20年=文禄元年・・・朝鮮の役が始まった。

城・飫肥大手門
(現在の飫肥城・大手門~飫肥藩・伊東家の城です)

戦国オールスターズというえば北条征伐の小田原の陣も当てはまるが、やはり最大規模は朝鮮の役だろう。

北は北海道・松前氏から南は九州まで、全国通津浦々の戦国大名が名護屋城に集った。

現在では城跡しかないので忘れられがちだが、名護屋城は佐賀県にありました。



この朝鮮の役で祐兵は、島津豊久(しまづ とよひさ)と親しくなったそうだ。

島津豊久は1570年産まれで、朝鮮の役当時は23歳。祐兵より11歳年下です。

戦国感覚だと親子に近い世代差の二人が友情を育んだ。。。ということに多少違和感を覚えるが、
どうも島津豊久は年上に可愛がられるタイプだったようだ^^;

実は、島津豊久は島津家中でも「美少年長じて美青年」として鳴り響いていたんです(/▽*\)

なにせ武家の風習「衆道(しゅうどう~男同士のアレです)」華やかりし頃です。

島津家中でも「豊久サァの想い人はオイだ」なんて勘違いする猛者(複数)もいて、
彼ら「勘違い猛者たち」は豊久のために「朝鮮の役」でハイテンション・ハッスルしたそうな。
(逸話なんで帰国後揉めたかは知らない)

とにかく美青年が側にいることは、何も無くても川* ̄д ̄*川ポッ と何となく嬉しい(らしい)。

(真面目に)島津豊久は、高名な島津四兄弟の末弟・家久の嫡男として産まれる。

初陣は「沖田畷の戦い」で、妻は三歳年下~父の従兄の長女(つまり又従姉妹)です。

父・家久が死んだ時は「九州の役・島津征伐」の最中だったために、
現在でも暗殺説が飛び交うが、通説ではあくまで病死。

豊久の家督相続に関して紆余曲折あったものの、家久が死去したのが羽柴秀長軍に降伏した後だったので、
関白直裁により豊久の家督相続と父の領地である日向・佐土原城の相続を認められた。

父・亡き後の豊久は叔父にあたる義弘が後見人となり、我が子同然に可愛がったと言われているが、
オジサマキラー?の豊久は秀吉の受けも良かったらしく、小田原の陣にも秀吉に呼ばれて従軍している。

そのあとすぐに「朝鮮の役」だから夫婦生活は短かったと思われる。

ちなみに豊久の妻は夫の死後、島津家老の町田氏に再嫁し40になる前に死亡した。

関ヶ原で豊久が戦死した時には、娘(ウイキペディアでは姪だなぁ)しかいなくて、
ムコ養子をとるものの、無嗣断絶(むしだんぜつ~相続する男子がいない)として、佐土原の領地は徳川幕府に一度没収された。
(豊久の弟は東郷家へ養子入りしてて、本人も佐土原へ戻るのを遠慮して辞退)

だが後に亡き豊久の大叔父・以久(ゆきひさ~つまり島津4兄弟の叔父にあたる)が入って、薩摩支藩・佐土原藩として復活する。

家紋・島津
島津家紋

で、またまた祐兵に話が戻るが、伊東家嫡流である義賢と、その弟の祐勝が朝鮮の役の最中に急死してしまう。

1593年6月14日・・・伊東祐勝(伊東家嫡流・次男)が24歳で病死。

彼は朝鮮で病となって帰国途中暴風雨で名護屋(佐賀県)に行けず、石見に行き現地で病没。

同じく1593年7月21日に伊東家正統当主・義賢も27歳の若さで朝鮮で病死する。

嫡流の兄弟が相次いで病死したために、現在でも「伊東家の家督を狙った祐兵が暗殺したのでは?」と囁かれている。

だが「朝鮮の役」では現地で武将の病死が相次いでおり、50代の島津義弘がピンシャンしてるのに、
嫡男が20代の若さで病死したりしてるので、どうも一種のインフルエンザのようなものが蔓延してたようだ。
(免疫のある世代が生き残る)

だから本当に病死した可能性も否定しきれないが、とにかく嫡流男子が死に絶えたことで祐兵がホッとしたのは言うまでもない。

以前も触れたが、義賢・祐勝兄弟は年少のころ預けられた大友宗麟の影響で、ガチ・キリシタンだったの^^;

秀吉の伴天連追放令(実質の禁教令)が出ても、棄教せず信仰を持ち続けたので、
晩年気まぐれだった秀吉が、いつキリシタン弾圧を始めるとも知れないので、祐兵はハラハラでした。

故意か偶然か・・・二人の若者の突然の「病死」で伊東家の家督は祐兵のものとなったのである
あとは、まだ幼い我が子・祐慶に確実・無事に家督を譲るだけ・・・・

ところが時代は激しく動き「太閤秀吉の死去」「関ヶ原の戦い」がやって来る!(゚ロ゚屮)屮ぇえっ

小大名である伊東家は「祐兵の舵取り如何に?!」という状態なのに、当の祐兵が病に倒れた(_´Д`)アイーン

嫡男・祐慶は数えで13歳の若さ、複雑な政情など解らない~~~果たして伊東家は如何に関ヶ原を乗り越え生き残ったのか?

それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
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豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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