【稲津の乱・悲劇の戦後処理後編】飫肥藩初代藩主編11
1602年8月18日~主君の切腹命令を不服とした稲津が清武城に立て籠もった!
後に言う「稲津の乱」である
実は稲津には結婚してほどない新妻がおり(稲津が朝鮮の役などで晩婚になった)名前を雪江という。
小さな藩のことだ、雪江のことは家中の誰もが顔を見知っている。
新婚の二人には、まだ子が授かっておらず、伊東家でも「雪江殿を巻き添えにするのは忍び無い」
と考え城を囲む前に使いを清武城に出した。
使者は「奥方の実家から参りました」「御母上が病で危篤です」とウソを言って雪江を城外へ連れ出した。
何も知らない雪江は実家へと向かう道すがらに、
「主家である伊東家の兵」が「夫の清武城を囲んだ」ことを知る。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
家中の空気に気づいてはいたものの、まさか突然に上意で城を囲まれるとは夢にも思っていなかった。
驚いた雪江は周囲の制止を振り切り、夫の元へと戻った。
稲津は「新妻は実家で保護されたのだ」と思い安堵していたのだ。
それが目の前に戻った雪江を見て驚いた。
稲津「愚か者!なぜ戻ったのだ!今すぐ離縁するゆえ実家へ帰るのだ!妻を道ずれにしたとワシが嗤われるわ!」
雪江「では私が夫に仕える覚悟が足りぬ不心得な妻と、家中で嗤われるのは構わないと、おおせになるのですか!?」「一度、嫁いだ以上は、冥途の果てまで御供いたします。」
「閻魔様が貴方様を主君への不忠で裁こうとするならば、私が貴方様の無実を訴える証人になりましょう!・・・どうか私をお連れ下さいませ!・゜・(PД`q。)・゜・」
言い終わると髪が振り乱れるのも構わず、泣き崩れる雪江の白いうなじを見て、
稲津は哀れを催し「あぃ解った・・・ともに死出の旅へ参ろう」と言った。
雪江が家臣の介錯で絶命したのを確認すると、稲津も自害し清武城は落城した。
稲津重政29歳・・・妻・雪江は未だ15歳の若さだった・・・

一説によると「稲津に全ての責任を押し付けて始末しろ」と、
祐慶少年にアドバイスしたのは、黒田如水だとも言われている。
そこで稲津が島津への挑発行為を止めなかったのは
「実は如水の指示だったのでは?」という疑惑が浮上するんです。
黒田如水が「九州の関ヶ原」で目指していたものの一端を、稲津重政は知っていたかもしれません。
だが如水と打ち合わせしてたであろう伊東祐兵が1600年に死に、そして稲津が1602年に死に、
さらに如水本人も1604年に病没したので、今となっては真相を知る者は誰もいません。
亡き祐兵は東軍・西軍のどちらが勝っても言い逃れ出来るように、祐慶少年に裏事情は一切教えていない。
「何があっても、そなたは若年ゆえ知らぬ存ぜぬ、で押し通すのだ」という秘策のみ授け、
祐慶少年は、その通りに実行して幕府の詮議を逃れたんです。(だってホントに知らないんだもん)
さすが「伊東家、中興の祖」です。死んでも伊東祐兵は只者ではない( ̄ω ̄A;アセアセ
稲津の死をもって「伊東家の関ヶ原」は終わりました( ̄  ̄)トオイメ。。
稲津の才能を見出した祐兵が生きていたら、彼の晩年は違ったものになったかもしれません。
稲津の死後、生き残った家臣が清武城の側に「海が見えれば慰めになるだろう」と海側に向けて夫妻の墓を建てた。
ところが墓を建ててからというもの、船が日向灘を通過しようとすると、必ず難破するようになったそうだ。
地元の村人は「無念に死んだ稲津夫妻の恨みが祟りになった」と憐み、
墓を海とは反対側に向き直した後に、丁重に弔うと船の難破はピタリと治まったそうだ。
日向記は貴重な中世資料であるが、伊東家側の視点から描かれた記録でもあるので、
「稲津の粗暴」という罪自体が、実は仕組まれたものだったかもしれず、
それを地元の民は知っていたかもしれない・・・ショボーン..._φ(・ω・` )
墓は村人たちが守り続け、伊東家もそれを咎めることなく、今も日向灘に背を向けて現存している。
※夫妻の会話は実際の会話ではなく、管理人が
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