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●肝付弾正少弼兼武 :鶴寿丸、長三郎。

兼篤の子。慶長6年生まれ。生母は岩切善信入道可春の女。

慶長14年、9歳のとき家督。同年に於いて、家久公の御前にて元服、号を長三郎兼武とし、御刀一腰(祐定)拝領。
また国分加治木へ参上仕り、龍伯公・惟心公へ御目見え仕り候。

同19年冬、大坂御出陣のとき、100余人召し連れ肥後まで罷り立ち候。

同年、河辺・宮村召し上げ、日州真幸吉田のうち西明寺ならびに、津留村のうちに御繰替え下され候。

元和年中、諸士石行四部一(?)召し上げのとき、50石進上仕り候。

寛永2年8月19日卒。享年25。法名:自性了源居士。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

●肝付越前守兼篤 :兼仍、小五郎、狩野介、伴兵衛尉。

止まってた研究を再開してます・・・ふぅ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
歴史記事も頭の中を整理したら順次再開します・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

兼寛後嗣。実は兼盛の次男なり。
※伊集院家からの養子だった前当主と違い、血縁関係です。 

永禄5年生まれ。生母は菱刈兵庫頭重猥の女。

慶長4年、兼三が去り、当家・兼盛忠功の故を以って、龍伯公(島津義久)、兼仍に家督仰せ付け候。
兼三去り、河辺のうち清水(前には宮清とあり、これには清水とあり是の非を知らず)高800石余召し上げ候。
※兼三は不忠として成敗された伊集院忠棟の三男だったので、領地召し上げとかは巻き添えです

同年、庄内御陣御供軍労。
※パパ忠棟成敗に怒った忠真が庄内で謀反なぅ
同年2月16日、御家御安定の御祝言のとき、公を伺い仕り候。(※詳細不明)

同14年、琉球征伐に兼篤軍役、84人を召し連れ
2月25日喜入を立ち、
2月28日に家久公、山川へ御着き、兼篤は大島を攻めよとの御意受け候。
3月3日夜半、諸軍と組んで山川を出帆、
3月7日、大島へ着船、島中尽く降伏、
3月17日、徳之島へ渡り、
3月25日、琉球運天津に入り、今皈仁城、未だ戦いて没落。
4月4日、国王降参にて下城
(5月5日、琉球出船。同21日、鹿児島へ凱旋すと、西藩野史に見えたり。野史には25日、薩州に帰るとす。また兼篤の渡海の事を記せず)。

同年6月29日卒。享年48。傑心大英居士。

(出典:本藩人物誌_※赤文字は管理人補足です)

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【喜入肝付氏__肝付三郎五郎兼三】

兼寛養子。実は伊集院幸侃(忠棟)の三男なり。

文禄4年、加治木・溝辺・三台堂を召し上げ、薩州喜入ならびに阿辺郡のうち宮清を下される。
同年10月26日、加治木より喜入へ罷り移り候。
慶長2年、兼三、300余人召し連れ、高麗へ罷り渡り、加徳島御陣に罷り在り候。
同年5月、兼三、幼稚にて帰朝仰せ付かり、家老・前田久右衛門盛張が軍代官勤め候。
慶長4年、父・幸侃の隠謀露見し伏誅ゆえに、兼三、肝付家を去り阿多に移り、後に誅され候。

出典:本藩人物志
************************************************

シオ補足
本藩人物志に幼稚とあるのは、おそらく元服前だったのではないかと思われる。
肝付兼寛には実弟がいたにも関わらず、伊集院が筆頭家老の権勢でもって己の三男を肝付家の養子に捻じ込んだのだろう。
兼三が去った後は、肝付兼寛弟が家督を継いでいます。

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【喜入肝付氏__肝付弾正忠兼寛 :袈裟寿丸、三郎五郎。加治木弾正という】

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肝付越前守兼演⇒肝付弾正忠兼盛⇒ココ記事の人

永禄元年生まれ。母は忠良日新斎公御女

天正3年、3月16日犬追物射手、三郎五郎、4疋射る。17日にまた射手、5疋射る。4月21日また射手也。
天正6年、大友日州に入り、義久公御発向御供、11月11日敵敗北のとき軍労。
同8年10月15日、肥後矢崎城攻めのとき、敵数多討ち取り候。
同9年5月15日、諸将と組み、肥後室(肥後宝とも)河内を攻め抜く。
同10年8月18日、水俣御陣御供。
同11年9月、肥後八代へ罷り立ち、肥後日比良を攻め抜く。10月、諸将と組んで堅志田を侵す。同11月、花山城を築き各々帰国。
同12年3月、肥前有馬へ罷り渡り 戦功あり。同年6月上洛。9月29日、加治木へ下着(日記より。何の故あって上洛するか可疑)。
同13年8月13日、諸将と組んで肥後阿蘇を破り、同閏8月13日、堅志田城攻め、上井覚兼を先登として内城を攻め落とす。
今夜、覚兼と内城に罷り在り候。上下鎧の袖を片敷き一夜を明かし候なり。
同14年1月13日、諸将と組んで日州高森を攻め落とす。同年7月、諸将と組んで岩屋城を攻め落とす。同年10月、豊後入りの御供於いて諸所にて軍労。
同15年、豊後引陣にて軍労。

同18年3月3日卒。享年33。利翁守益庵主。
兼寛領高 15,084石。城9つ。領地:加治木・溝辺(地頭は家臣・新納三河守久林なり)・踊・日当山・三代堂{三台堂}。

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●肝付弾正忠兼盛 :袈裟寿丸、三郎五郎

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天文2年生まれ。兼演嫡子。母は廻兵部少輔の女。貴久公御家老。貴久公の御妹聟なり。

天文23年、蒲生・渋谷らまた叛くに於いて、兼盛、異心なしの旨の誓紙を進上仕り候。
8月、祁答院・入来院・蒲生・渋谷らの凶徒、加治木を攻む。北原もまた渋谷に加勢致し候。
同29日、兼盛、網掛川に於いて合戦致し、凶徒4人を討ち取り、清水・宮内・姫木・長浜の後詰来りて、
9月10日、また合戦。大隅衆また後詰として着船候。
同13日、貴久公御父子、後詰の為に平松へ御着陣。凶徒ら驚きて加治木を引き退き候。

弘治元年3月8日、兼盛、溝辺・加治木・日当山・長浜の衆を召し連れ、帖佐の山田へ押入り、伏兵を以って凶徒23人を討ち取る。加治木の 卒将・徳永与一左衛門、安田杢之丞、歩卒2人の他、溝辺・長浜の歩卒ら戦死。
同4月2日の夜、凶徒、利を失い、帖佐新城ならびに山田城を捨て祁答院に退く。これらの賞として、貴久公より西別府・有川を下され候。

永禄4年5月、肝付省釣、廻城を攻め取り、義久公御発向し、兼盛罷り立って手負い。

同6年、飯野御危急のとき、籠城致した軍労に付き、義久公より御書発給さる。

同9年、三山城攻めの御供をし軍労。

同10年、菱刈御退治軍功。

同11年、忠平公、馬越城より大口を御攻めのとき、力戦仕り候。
同年2月28日、島津忠長同道にて、馬越より市山へ差し越し、新納忠元同心にて、小苗代薬師へ参詣致す処、大口城より敵打ち出て忠元難儀に及び{後述}後殿なり。

同12年、忠元・兼盛ら大口城を取り囲み、敵遂に利を失い降参致し求摩へ退散。その為、義久公より御感状ならび曽於郡のうち上三台堂を下され候。

元亀2年、肝付・伊地知・禰寝の御退治に兼盛、罷り立ち候。

天正4年、高原城攻めにも御供仕り候。

同5年、日州御発向に御供仕り軍労。

同6年8月11日卒す。享年46。殉死・二宮肥後守の他は、切り指すると云う。


出典:本藩人物志(島津関連の編纂史料)
第七大改訂年表にデータ収蔵完了(`・ω・´)キリッ
どこまで整理したか判らなくなるので、自分の記録用にUPです^^;

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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