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研究_与賀龍造寺_2・少弐政資

本記事では与賀城と関わる部分のみとする

★与賀城入り---文明14年(1482)

★一次史料----なし

★佐賀市史(中世(二)4少弐政資と佐賀、531頁)より
『藤龍家譜』によると、龍造寺家氏は城西の小津東郷のかつて政資(政尚)の父教頼が住んだ地に居館を置いた。
これを与賀館(よかのたち)又は与賀城と称した。(中略)
なお『藤龍家譜』によると与賀社大明神・前名塚原大明神(与賀町・与賀神社)を鬼門の鎮守としたのである。
あたかも政資入城の夜盗賊が侵入したが龍造寺家氏は藤折長門守と共に警衛し抽賞されている


元出典・藤龍家譜は一般公開されていない為、原典未確認
与賀城を置いたのは龍造寺家氏とあるが、教頼が与賀に入った年(1448年)から34年経過していることから、
家氏ではなく息子の康家ではないだろうか。
混同される理由の一つとして、代々隠岐守を継承してた事があげられる。

「抽賞されている」の部分だが、龍造寺家文書に少弐政資官途吹挙状があり、発行年度が延徳元年(1489年)と年代的に近く該当性が高い。
なおこの文書で官途吹挙されているのは、龍造寺康家であることから政資を迎い入れた龍造寺当主は隠岐守康家と思われる。

★北肥戦誌(九州治乱記)巻之七(156頁)より
斯(か)かりし程に少弐、又御勘気を蒙りて大宰府と出で、肥前国へ赴き、亡父教頼の居られし與賀の庄の奮地を點(てん)じ、己が居城とせらる。文明十四年春の頃なり。


北肥戦誌だと龍造寺の事には触れられてはおらず、政資本人が己の居城とした事になっている。
時期も春となっているが、佐賀市史によると1482年4月3日に川上与止日女社に領地を寄進していることから、
4月初旬には肥前入りしてたと思われる・・・と言った記述がみられる。

★歴代鎮西志
文明10年に少弐氏没落と記述の後、数年は少弐に関する記述なし。
また文明14年に肥前入りした時の記述内容も俄かに信じがたく、佐賀市史においても一切参照していない。

佐賀市史では藤龍家譜の記述に紙数を割いている。
とはいえ、与賀城(館)を少弐氏が築城したのか、龍造寺が築城したのか、いずれにせよ全て二次史料が出典の為、断定的な記述をするには未だ熟考を要すると思う。

個人的には、少弐氏が肥前国佐賀郡与賀庄に入った事自体、少弐氏が彼の地に由縁があったのではないかと推測しているのだが、現在のところ論証しうる文献は見当たらない。
これは与賀庄が「いつ龍造寺の所領となったか」という事に関わってくるため、典拠となる文書が見つからない限りは踏み込んだ記述は単なる推測だけになるので避けたいと思う。
(佐賀市史年表の方に建武2年(1335年)12月19日大友氏時と足利義詮に与賀を安堵されたとある。)
(ただし年表には元出典の記述がないため、自分自身は確認にするには至っていない。)

少弐政資は1497年に大内に敗れて自害し少弐は再び没落する。
次に与賀城に入るのが龍造寺胤家なのだが、そのあいだ与賀城の状況は不明
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研究_与賀龍造寺_1・与賀城

★位置データ---佐賀県佐賀市赤松町2−4(現:龍泰寺)

★遺構-----標高2~4mの低平地に溝で囲まれた浮島の集合体のような島状地の曲輪で構成されている
(引用:大坪芳典 2011 「戦国大名龍造寺隆信の居城「佐賀龍造寺城」の解明に向けて」『肥前史談叢』 肥前史談叢の会) 
★築城年---文安5年(1448年)

★築城主---龍造寺家氏

★一次史料---なし。データは全て江戸期編纂による二次史料出典。

佐賀市史(520頁)によると、
(龍造寺家氏が)居城の西郷与賀荘の地に与賀城(赤松町・龍泰寺)を築いて少弐教頼を置いた
とある。
この部分に関し直近には出典元の付記がないが、
段落を変えた次の文節に出典「九州治乱記」「歴代鎮西要略」とある。

●歴代鎮西要略---入手不可のため未確認(古書業界では幻状態(´;ω;`)ウッ)

●北肥戦誌(九州治乱記)巻之七(135頁~136頁)
 其頃当国佐賀郡小津郷に龍造寺隠岐守家氏といふ士あり。
 先祖累代少弐恩顧の者なりしかば、教頼、彼等が許へ入り来たり。
 一向に頼まれける間、家氏仔細なく領掌して、
 頓(とみに)我が館の西与賀の庄に要害の地を選び、新城を築き教頼を移し居けり。


●歴代鎮西志---文安五年(1448年)(653頁)
 少弐教頼 肥之与賀に城を築く。
 龍造寺右衛門大輔忠俊、之を迎え接す。
 (※原文はホントに、この二行だけ^^;)
 



歴代鎮西志では、少弐教頼が与賀城を築城したと記述しており、
北肥戦誌との記述と矛盾する。
(与賀神社にある摂社・少弐神社由来では、与賀城築城に関して少弐教頼築城説を採択している。)

ただし教頼を迎えた人物において、北肥戦誌と歴代鎮西志とでは相違がある。

北肥戦誌===龍造寺隠岐守家氏------------13代目当主(没年不明)
歴代鎮西志==龍造寺右衛門大輔忠俊(康家)--14代目当主(没年1510年)

少弐教頼の没年は応仁2年(1468年)
各年号から類推すると、教頼に接した龍造寺当主は家氏の方が妥当。
従って、記述に矛盾のない北肥戦誌の方を採択。

★城主変遷---少弐教頼⇒少弐政資⇒龍造寺胤家(康家長男)
 城主と城主の間のブランクが長い。
 城主不住の間の与賀城が、どういう状況だったのかは不明。

永正5年(1508年)、与賀城に入って以降、
龍造寺胤家(及び係累)を「与賀龍造寺と称す」

(参照文献:與賀龍造寺記録)

龍造寺に三氏あり。
宗家であり家和系統の村中龍造寺
剛忠(家兼)を祖とする水ヶ江龍造寺
胤家を祖とする与賀龍造寺



現在、研究が進んだのはここまで~~道産子ハンデで丸三年もかかっちゃった^^;
リサーチに目途がついた都度、記録として更新します~φ(.. ) カキカキ

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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