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【勃発】石垣原の戦い/九州関ヶ原3栞39

秀吉の死後、前田利長が徳川家康に謀反の疑いをかけられ糾弾された。

前田家のピンチに利長の生母・芳春院(おまつ)が、自ら人質として江戸に下向した話は有名だ。

が、実は同時期に細川忠興も地味?に謀反の疑いをかけられていたそうな^^;

忠興は家康の疑惑(罠とも言う)を晴らすため、三男の忠利を江戸へ人質に出した。

忠興の「誠意」に満足した家康は「故・太閤殿下の遺言」という名目で、豊後は杵築6万石を与えたのだった。


細川家の記録では杵築城を別名の木村城と書いてるんで、ちと解りづらいぉ


細川家筆頭家老・松井康之と重臣・有吉立行は、城受け取りの使者として豊後入りした。

さて、杵築城は筆頭家老が残るほどの要衝地だったのか?・・・んなことあるわけない、ない!

松井康之が「九州の関ヶ原」に巻き込まれたのは、主君・細川忠興にとって全くの想定外でした

1600年7月21日付の細川忠興の書状によると、「松井康之は豊後から丹後に戻り、有吉四郎右衛門(立行)には豊後木村(杵築)城を守るように。」とあり、
また、「九州の状況に応じては木村城を放棄し黒田家を頼れ。」とも伝えている。
(この頃は仲良しの黒田家と細川家^^/)

忠興はゲットしたばかりで勝手の解らない豊後の地で、籠城するつもりも、させるつもりも無かったんです。

忠興の命令1)筆頭家老・松井康之は丹後に戻りなさい~~

石田三成挙兵の余波で水夫が全く集まらない~~~丹後へ帰り損ねた筆頭家老Σ(´Д`;) うあ゙~

命令2)九州の状況に応じては城を放棄し⇒続く

大友義統が西軍だ~旧家臣を集めてる!Σ(´Д`;) うあ゙~

続き⇒黒田家を頼れ~

その黒田如水が兵を集めてる件~~Σ(´Д`;) うあ゙~


やばい・・・超やばい!もしかしなくても九州で最初に戦の火の手があがるのはブンブン豊後!!

松井康之と有吉立行は大急ぎで城の補修・防備を強化! アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ




挙兵した九州の西軍・大友義統は、旧領を奪回すべく杵築城を攻撃した。

あっと言う間に三の丸・二の丸が落とされる (゚ロ゚屮)屮ぇえ!

ですが城跡図を御覧あれ~~杵築城は海に突出する台地に築かれた為、天然の要害になってるんです。

そのため途中まで順調だった大友軍なのだが、本丸が何としても落とせない!

大友軍は夜襲を仕掛けるも、ベテラン有吉が o( ̄Д ̄θ★ケリッ!! っと見事・撃退。

粘ってる間に細川家の使者が如水の元へ走る。

1600年9月11日~「如水から援軍が来る」との知らせに囲みを解いた大友軍は、杵築城の西南24k先にある立石城に入った。

立石城は周囲を山・川・渓谷に囲まれた天然の要害の地であり、非常に攻撃しづらい城だった。

が、城の北側にある石垣原(いしがきばる)を押さえてしまえば、城方が袋のネズミになる・・・という場所でもありました。

如水は豊後の諸城を落とすべく行動中だったので、救援に来たのは母里率いる3000名。

松井・有吉・母里らの軍議の結果「如水本軍を待たずに攻撃し石垣原を押さえよう」という事になったのだが、それは・またの話 by^-^sio

今回の写真はブログ友・おしょう様から拝借しました。
おしょう様のブログはコチラ↓(元記事はトラバ先を参照してください)
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ブログ用画像~南洲さま
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【出陣】石垣原の戦い/九州関ヶ原2栞38

「関が原の戦い」とは、本来は1600年9月15日に起きた戦の事を指す。

ところが、それに絡んで西軍・東軍の動きが全国各地で活発になり、それぞれの地で戦闘が勃発する。

そのため近年では関ヶ原本戦だけでなく、各地で起きた合戦・前哨戦を含めた全体で「関が原の戦い」と呼ぶ動きがあるそうです。

大友家の栄枯盛衰は一言で語りきれないので、ザックリ関が原当時の状況~~~

当主の義統(よしむね)は、元は豊後37万石の大名でしたが「朝鮮の役」で大失態を犯し、豊臣秀吉が怒って領地没収。

その後は各地の大名家に身柄を預けられ、あちこちを転々とする。

その預け先の一つに、西軍の総大将・毛利輝元がいたんです。

毛利は大友に資金を提供し、御家再興を条件に「西軍として挙兵」を唆した。

大友は息子の一人を徳川家に差し出しており、東軍寄りの態度もしてまして、西軍になったハッキリとした理由は謎です。

一説には庶子を毛利に人質にとられていたともあります。

如水が金で兵士を公募したとき、中津領内だけでなく、旧大友領地の豊後(現在の大分県)にも 声をかけてました(^^b

でも豊後には鎌倉以来の名門・大友ブランド力が残ってて、如水の誘いは振られて大友に兵が集まってしまったの。

大友義統の元に集まったのは、旧大友家臣や浪人・・・地元出身の国人衆たちで約3000人です。

つまり検索ぐぐ~る様の力を借りればHITできる、名のある武将が大友の旗の元に参集しており
、即席インスタント・混成軍の如水より遥かに(中身が)まともな陣容でした。

当初・戦未経験のド素人3500だった如水軍でしたが、ウワサを聞いた浪人たちがポツポツ応募しはじめました。

結果・最終的には9000ほど集まり、それを如水はハッタリ・・・もとい公称1万人と触れ込んでたのです。

9月9日に豊後へ出陣するという如水に、混成軍の内容に不安だった家老の母里(もり)が反対しました


如水&長政と祀る、光雲(てるも)神社の母里の銅像
(ふぅペディアより~母里の銅像は博多人形師だった子孫の制作~~拝殿と狛犬は福岡市内を守護し、母里は黒田の殿様を守護するために拝殿の方角に向いてます。)
・・・のはずなんだが、母里が長政を睨んでるように見えるシオは、黒田家譜の逸話に毒されてまする(爆

母里「まだ 早いです!もうちょい後!えっとそ~だ!9日は悪日(あくじつ)です!出撃には縁起悪いんです!(悪日の根拠出典ド忘れ^^;

如水「はぁ?ざけんな(←切れた軍師)!てか今までだって9日に出て勝ってただろ!もぉいいよ~ワシ一人で先に出るから!お前らは後から「いい日旅立ち」しろ!

母里「(ウルウル涙目)主君が先に出陣して家臣が後なんて話ありますか!殿に仕えて幾星霜~ワシは、そのような情なき戦をしたことはございませんぞ!!ワァァァン・゜・(PД`q。)・゜・号泣~

如水「ワシが言い過ぎた・・・母里、まずこれを飲んで少し落ち着け(。・ω・)_【酒】


大泣きして大興奮してた母里は、如水から酒を出されて飲んで仲直りしている内に、なんとはなしに丸め込まれ結局出撃することになった^^;



大友の旧領である豊後は、大友改易後は分割されてしまい豊臣直轄領or小大名が統治していました。

その中の一つに杵築6万石があります。

実は、ここ・・・丹後宮津(現京都府の北より)の細川忠興の飛び地(本領から離れた場所にある領地)

この領地は、1599年3月に起きた「三成襲撃事件」の後に、家康がコソーリ忠興にプレゼントした土地なんです(ただし家康・自腹は切らず、豊臣家直轄領から加増した)

シオ検索では加増(かぞう=ベースアップ)の名目が判らなかったです^^;;

ただ本音としては、細川家を家康の味方に引き入れるためにしたことでしょう。

細川忠興も「上杉征伐⇒関が原」のために動員をかけられてて、宮津の田辺城には 父・幽斎と わずかな兵しかいなかった。

本領ですらそうだから、飛び地の豊後・杵築城は留守番の家老と僅かな兵を残すのみ。

留守とはいえ不穏な九州の地ですから、半端なヤツは置いてないです。

細川家・筆頭家老の松井康之と重臣・有吉立行だ(`・ω・´)キリッ

有吉には、こんな逸話がある↓


(ゆるふわ戦国マンガ~ゲ!有吉の名前間違ってる~四郎右衛門が正解です^^;)

若年のころは「鈍き男にて・・・」とハッキリ書かれるほどパっとしない男だったらしい。

少年だった忠興クンの遊び相手をしてたそうな。

若君の命令とはいえ、馬鹿正直に突っ込み川で溺れかけるようなドジっ子有吉だが、酸欠が逆作用したのか、見違えるほど活躍する武将へと成長し、忠興を支える重臣の一人となったんです。

この有吉四郎右衛門立行、晩年の逸話にこんな話があります。

戦のない時代になってから、家臣たちの間で自分の手柄を家伝として書くのがブームになりました。

有吉の息子は、自分のとこもメモリアル残そうと思い、父に手柄を尋ねたそうです。

有吉は笑って答えました。

「細川家臣にワシの名があればそれで良い。手柄をワザワザ書き残すなぞ新参者のすることだ。そんなことを考えるより、しっかり奉公せよ!」

話は戻って、挙兵した大友軍に杵築城が包囲された!!


後に有吉は、この時の功績で細川忠興から3000石加増・忠興ブランド具足拝領・さらに「武蔵守」と名乗るのを許可されるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【兵士急募!素人可、火縄銃貸与あり】石垣原の戦い/九州関ヶ原1栞37

黒田家には謎が多い。

近年の研究では、如水が「嫡男でない疑惑」が浮上しているらしい。

つまり兄を差し置いて黒田家の家督を継いだようなのである。

そして如水には、黒田家が存在を公にしたがらない、早死にした次男もいる。

今回からは数奇に満ちた如水の人生で、最大の謎である関が原の時の行動を、時系列の史実と逸話を元にシオ風に検証したいと思います。

素人なんで お手柔らかに(*´pq`)クスッ

関が原の時、黒田家の領地・九州は中津の城には、長政の父・如水が留守番してた。

如水は自分の手許に4人の家老を残してました(母里・栗山・黒田(親族)・井上)

母里は、大坂の屋敷から如水と長政の妻たちを脱出させて中津に戻ったので、まだ解る。

だが栗山まで一緒に大坂から中津に戻っている。

母里と栗山は他家にも名が通っている黒田家老というだけでなく、如水の両手のような存在でして、如水の思考法や戦ぶりを最も心得ている側近なんです。

でもって4人とも黒田家最強メンバー「黒田二十四騎」から更に選抜された「黒田八虎」のメンバーでガチ武闘派。

本戦に投入せず留守番にしちゃうのは、あまりにも勿体ないメンツで、これは如水がヤル気満々だった証拠だろう。


黒田如水イメージ画像

1600年7月17日に三成が挙兵したことを知ると、如水は直ちに貯めこんでた金蔵を開き、金で兵士を募集した。

だが領内にいるのは、既に息子・長政が目いっぱい動員をかけて関が原に連れて行った後の、いわば残り粕。

初期応募で集まったのは、商人とか職人などの3500名ほどでした。

如水が動員をかけているのは、西軍・東軍に所属している各大名から、それぞれ三成・家康の元へ報告が届く。

大人しく留守番してると思ってた天才軍師の行動に、三成・家康の双方が困惑した^^;;

よく往年の小説などでは、如水の動きを長政が知らなかったような風に書かれているが、それは絶対ないと思う。

てか、そもそも長政が家康に近付いたのは、如水の指示だと推測してました。

黒田家は播州(近畿圏)出身で、中国~九州がフィ-ルドワーク。

領地も九州なので東海~関東の家康とは、直の接点がなくて親しくもない。

長政単独で表高12万石(実収18万石)の黒田家では、250万石の五大老筆頭・徳川家康の懐深く入るのは難しいだろう。

長政は武断派の中で、特に尾張(家康・本貫の血である三河の隣国)出身の大名たちを一つにまとめることで、家康に近付くことに成功したんです(西国の武断派には元々人脈がある)

よく「武断派リーダーは加藤清正」と言われているが、それはムードメーカーというだけ。

実際に彼らを結束させていたのは長政です。

長政は前哨戦から本戦にいたるまで、誰もが持て余す福島正則を東軍に引き寄せる役目をしていました。

そして父・如水は、加藤清正を東軍に引き寄せる役目をしていたんです。

九州・肥後の加藤清正は、本国に本軍を留める島津対策のために、自身も肥後に留まっていました。

ですが実はギリギリまで「家康につくか」「三成につくか」迷ってたんです。

三成は嫌い~~~だけど家康が天下に野心があるかも~~と、やはり不安に思うのは当然でしょう。

迷う清正を東軍につくように、と説得したのは如水でした。




とにかく挙兵した三成は、各地の大名たちに「西軍につくように」と手紙を出し、それは如水の元にも届いた。

三成曰く「如水に西軍になって欲しい。でもって、父である貴方から息子・長政を西軍の味方になるように説得して欲しい」と、ありました。

つまりホントに欲しいのは息子・長政が連れている精鋭・黒田軍で、如水自身じゃないよ~~

という実に三成らしい書面だった( ̄ω ̄A;アセアセ

ふと想ったが、三成は長政の離婚→再婚の情報を入手できていたんだろうか???


奉行時代に家康を糾弾したときですら、加藤清正の再婚情報が抜けていた(戦国も再婚は地味なのか?)

奉行でなければ情報は更に入手しづらいだろう。

それに黒田家も徳川家も上杉征伐の準備で忙しい~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

結婚式に友人・知人を招待するなんて時間的余裕ないだろうから、黒田・徳川両家の地味婚だったと思う。

もっとも挙兵後の「ガラシャの悲劇」にビックリで人質作戦中止した三成には、その手の情報は重要では無いかもです。
(てか知ってたら、ハナから如水に声かけてないかも)

如水は三成に「7カ国くれるんなら味方してもいいよ♪」って返事して時間を稼いだ。

ふっかけられたと怒ったのか?その後の三成は如水に接触していない。

とにかく急募した混成軍~軍とつけば聞こえは良いが、商人と職人・・・早い話ド素人。

イザって時は自衛のために武装する農民(地侍含む)の方が、遥かにマシ。

まぁ、ド素人でも戦国時代の人間なんで、さすがに黒田家紋や旗印は解ってる・・・はず(多分)

だが学校で団体行動の訓練を受けている現代人とは訳が違う。

一ヶ所に集合させるだけで大変だ(武家は命令で動く事を日常で訓練されている)

常日頃、鍛え上げた精鋭を率いてる母里ら八虎の方々がですよ。

(O ̄∀ ̄)尸「この旗を見たら集合」だよ~~という幼稚園レベルからスタートするんです(涙目

母里にとっては悪夢で、周囲から見ればコメディですな ( ゚Д゚)y─┛~~



光雲(てるも)神社の母里の銅像
(ふぅペディアより~拝殿と狛犬は福岡市内を守護し、母里は黒田の殿様を守護するために拝殿の方角に向いてます。

集めた者たちを数十人単位の組=グループに分けて、組頭には留守番家臣を置いてっと、にわか作りの軍編成「勝手に組を離れるな~組頭に逆らったら教育的指導だ バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!」

火縄銃の扱いができる者は鉄砲隊に回して火縄銃を貸与~~「銃は買い取りOK~そうでない奴は後日返却~ここの紙にサイン・・・あぁ字が書けない?んじゃ拇印しろ~」アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

えっと陣太鼓の合図を教えて「進軍・停止・攻撃・退却」これがキチンと出来るように仕込む・・・「って退却は黒田の旗印のとこに集合だ!村に帰ってOKってことじゃねぇ!!ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」

理想を言えば「軍の展開」の動きが出来ればベストですな( ゚Д゚)y─┛~~

そんなこんなで慌ただしく一か月経過。

1600年9月!遂に九州でも西軍が動き始めた!

日本で最後のチキン(秀吉命名)と呼ばれた男!大友義統(おおとも よしむね)が豊後(大分県)で挙兵する!~


如水も出撃を決意する。

ところが家老の母里が大反対!!

天下を狙うどころかスタートからつまづいた?!Σ(´Д`;) うあ゙

どうなる如水混成軍?!それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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