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黒田家~関ヶ原後の筑前チョイス(推考の記録として)

自分は、如水は天下を狙っていない説派なので、筑前チョイスの推測も、その流れに絡みます。

まず、欲しいところを、と聞かれ、
大坂に近い近畿エリアを上げたら、家康は喜ばない。

家康が喜び、かつ黒田家にとっても得になる土地、、、それが筑前チョイスの一番の理由だと推測してます。

中津18万石から、いきなり天下を狙うには、偶発、偶然に頼り過ぎる。
ギリギリ、、、関ヶ原が1日でケリがついた時点でスッパリ切り替えです。

が西軍残党狩があるから、上手く立ち回り百万石を狙いたい( ̄ー ̄)

百万、、意図としては、沢山たくさん。
関ヶ原前まで毛利も上杉も百万石大名。
将来、天下に働きかける自己資本金としては、百万石か相当の財力基盤が欲しいところ。
筑前50万石は、その可能性がある土地です。

筑前における政庁、大宰府と
国際貿易商都、博多は、
九州という土地にとり、それほど大きな影響を持つ土地でした。

大宰府は菅原道真には不満でも、
九州における政所で数百年の老舗です。
西国のドン大内も、キング九州な大友も
皆欲しがり、制覇して大宰府から号令をかける。

そして国際貿易商都、博多。
ここをゲットする事で得る利益は計り知れない。
交易ルートにノウハウを居抜きで、そっくり拝領とは、さすがクロカン。(;・∀・)

では、逆に何故に家康が筑前を黒田に与えたか、、、です。

一番の理由は、当時の家康が豊臣政権の五大老だったからと思う。
博多も大宰府の価値も家康は知ってたはずです。
貿易立国として秀吉が財を為すのをオンタイムで見ているんですから。

そもそも国際貿易商都の博多は、本来なら時の権力者が直轄地とすべき類いの土地なんです。
だからこそ、このままでは豊臣家が潤うだけ。

黒田家が拝領する事により、商都博多の利益が豊臣家の蔵へ入るのが止まる。
そして、一大名の支配下にする事で大宰府が九州の政所だった歴史的役割を終わらせられる。

完全な中央政権を作るには、九州に鎌倉や室町のように中央政権とは別に公儀権を持つ組織を与えては駄目なんです。

貿易商都としては、家康には既に博多ではなく長崎を中心にする構想があったんじゃないでしょうか。
南蛮貿易のネックは、キリシタン布教とセットなのと、キリシタン大名と宣教師が個々に繋がりあること。
こっちを先に何とかする方が急ぐ。

あと、中国は明が末期で政情不安定で、先の予測が難しい。
下手すると博多は明交易ルート全滅で、商都としての価値が下落するかもしれない。

家康自身の政権構想。
豊臣家の九州における財源を断ち、ひいては豊臣の影響力を削ぐ。

筑前、、、いえ、博多と大宰府を黒田家に与えるプラマイに頭を廻らせ、
結果、筑前を与えた家康。

おそらく彼には、自分の作りたい政権と、作りたい日本の原形が出来ていたんだろう。
とにかく政治家としてのスケールが、今の政治家とは比較にならない(;・∀・)


逆に『本貫地(播磨)に戻らなかった理由』
播磨や隣の摂津じゃ家康が嫌がる。
家康は黒田家を警戒し続けていたって言う事と繋がるんです。

摂津は大坂の喉元のような位置で、関ヶ原当時は豊臣家の直轄領。
家康は五大老筆頭として戦後処理を行い、豊臣家の直轄地もドサクサ紛れに削ってます。

あんな油断ならない黒田親子を、彼らの元々の地元で豊臣家直轄地の隣に入れて力を付けさせてどうするの^^;
摂津や播磨は豊臣家を看視させるために徳川譜代&準譜代で囲い込まないとです。

国替えを強要する側の最大の狙いは権威の剥奪

だからこそ地元から引きはがす。
これは家康の基本スタンダード。
守護職の家柄・・なんて名家が関ヶ原で東軍で武功があれば、『恩賞』と称して本貫地から離てします。
京極家、小笠原家、、、旧守護職家は全て本貫地から移動です。

福島正則も尾張でしたが、戦後の恩賞で地縁がない広島へ移動です。
もちろん敗れた西軍側をホームワークには残さない。
が、勝った東軍側の武将も恩賞として領地を与えてるけど、ホームには残さない。

家康が最も恐れているのは、大河の直江でも黒田でもない「父祖伝来の地生えの大名」です。
中身として『地生えの国衆クラス』は、秀吉の豊臣政権が太閤検地などの施策で解体しているから『残る旧勢力解体作業は国単位』になります。
だから「地生えの大名」を少しでも減らしたいのが本音。

従って黒田家がとるべき『徳川への忠義』『恭順の証』を見せる最大の行為は、
「本貫地以外の土地を欲する」ことです。


『謎解き説教』みたいなものです。
「なぜ怒ったか判るか?言ってみなさい」と尋ねられて、
間違ったら「違う!全然判ってなーい」と怒られ、
正解しても「判ってなら何故やらかしたゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と、どっちでも怒られる。

家康の「欲しいところを言っていいよ^-^ニコニコ」は、黒田家の心底を見る罠みたいなものです。
「本貫地に戻りたいの(人´∀`).☆.。.:*・」と直球ストレートに云えば、家康は「空気嫁」と不機嫌になり将来の改易リストに__黒田家φ(.. ) メモメモ
「筑前を」と云えば「本貫地以外で旧領とも違い中央からの遠国チョイスで大正解」
だけど「こいつワシの戦後処理方針を見抜いてやがる」と、油断しちゃダメリストに黒田が入り、実際警戒されてる^^;

でも同じ黒リストでも「改易リスト」より「警戒されるリスト」のほうが、遥かにマシでしょう。
だから筑前チョイスは、家康の出した問いに対する答えとして『政治的に大正解』なんです。

旧領のままで領地倍増といえば加藤清正です。
でも清正死後に改易になってます。

家康は本音の部分では島津を本貫地から離したかったはずです。
が、ちょっと難しい。
だって島津は「島津の総意で西軍に味方したんじゃない」からです。
「参加した義弘も本戦には参加してない、その場にいて(派手に)退却した」だけ。

何より島津を移動させようものなら、本国で無傷の薩摩隼人が何をしてかすか判らない。
でもって黒田・清正のコンビ中心で島津征伐をさせ成功しちゃった場合、彼らの武功が大きすぎて家康のバランス感覚を超えるものになる。

家康という政治家は「費用対効果を急ぐあまり拙速な無理をしない」タイプ。
常に家康の内在しているバランス感覚でもって、少しずつ思う通りにと積み重ねる長距離ランナー・ロングブレスタイプ。
三匹の子豚で言うなら、煉瓦の御家を作った末弟豚さんです♪
積み重ねだから、周囲が気づくころには堅牢なものになってる。

とまぁ、黒田家の筑前チョイスは、表に出ない家康との政治的な駆け引きの賜物だと思う訳です^^
家康の機嫌を思えば摂津には戻れにゃい。
新しく入るなら何処でも苦労は同じだが、それでも九州の方が播磨の次に判ってる土地で、中津より博多がある筑前が(・∀・)イイ!
商都としての都市再開発は、博多商人に任せりゃ黒田家はローコストだし。

余力がなくて史料等をちゃんと検証しないままですいません。
オタの推測に長々と御付き合いありがとうございましたm(__)m
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【後篇・如水について】九州関ヶ原12栞48


今シリーズはサイト「黒田武士の館・黒田如水墓の謎」を参照にしました^-^
http://www.geocities.jp/kazzuki2001/

関ヶ原を本気で調べようと思ったら、黒田親子の調査は避けて通れない。

どこまで調べるかは人それぞれだが、ガンガン調べてるうちに、遡り過ぎて黒田家から離れてしまい、

ついに九州の郷土史まで首を突っ込んで、抜けられなくなった~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハ!


さて1604年・・死の床で如水は、息子・長政に言った。

「そなたが死んでも、家臣たちは大殿(如水のこと)がおられるから大丈夫、と思うだろうが、ワシが死んだ後は、家臣たちは長政について行く者はいないだろう」

病でも口は達者・毎度ながら辛辣な如水、長政は身もふたもありません^^;

今風に言うとツンデレ親子なのが如水と長政。

黒田家中がアットホームすぎる(家臣が長政に対して言いたい放題)のは、如水が息子に対しての不満や辛口評価を(家臣の前でも構わず)言い過ぎたからかもしれない。

だが足が不自由で戦場で槍働きが出来ない如水にとって、武勇優れた長政は自慢の息子だった。

ただ長政は大将のくせに本陣にジッとして無くて、兵卒と一緒になって前線に突撃しちゃう。

でもって黒田二十四騎の猛者たちと(本気で)武功を争うから、ダディ如水の御小言が出るんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

関ヶ原の前哨戦でも(本気で)一番槍を(家臣と)争ってる長政33歳( ̄ω ̄A;アセアセ

政略の才能も如水に比べると見劣りするが、決して凡人ではない。

例え如水のアドバイスがあったにしても、小早川や吉川の裏切り交渉を遣り遂げたのは長政の実力だ。

熟慮断行と言えばカッコいいが、実は「ケンカ早くて、見栄っ張りで、超負けず嫌いで、すぐ調子に乗る息子」を、如水は死の間際まで心配した。

病床の如水は、わざと怒ったり、理不尽な命令を出して、家臣の人望を長政に集めようとしたそうだ。

如水の悲痛な思いは家臣に伝わっていたのだろう(だって如水本人が黙ってられなくて、話しちゃうんだもん・爆)家臣たちは長政に突っ込み入れつつも、良く仕えた。

父・如水は長政にとって神にも等しい存在だった・・・誰よりも敬愛し、如水への薬湯は長政自身が服用して効果を試した。
(( ̄ko ̄)<健康な人が服用しても意味が無いんじゃ・・・と突っ込んではなりませぬ)


黒田如水イメージ画像

1604年3月20日・・如水が福岡で没した時、遺言で葬儀はキリシタンで行ったとある


ちなみに福岡城は完成が1607年・・・如水は福岡のどこで没したのだろうか・・・居住スペースは出来てたのかな?

これは当時・福岡にいた宣教師の記録です。

宣教師の記録は一次資料ではあるが、日本の風習が解らず勘違いしてたり、異教徒を憎むあまりエキセントリックな表現があって鵜呑みには出来ない。

だが「出来事」はマメに記載している(ローマに活動報告するから)

1604年3月24日~博多教会堂で如水の葬儀を執り行い・黒田長政一家も参列、感激した長政は教会に米4俵を寄進したとある

実は如水の没した地には「福岡説」と「伏見説」の二説・・いや宣教師の記録を入れると3パターンある

黒田家譜・・・福岡没⇒崇福寺で埋葬
寛政譜・・・・伏見没⇒ 同上
宣教師報告書・福岡没⇒博多教会に埋葬

宣教師の記録だと、如水の墓はキリシタンの墓地に埋葬したことになっている。
では如水の墓は?というと、

博多崇福寺・・・大宰府にあったのを博多へ移築して再興
博多教会堂・・・1613年の禁教令で破却

もし教会に埋葬されたのなら、如水の遺体(遺骨?)は禁教令による破却により、崇福寺に埋葬しなおしたことになる。
ちなみに京都・大徳寺・龍光院(三成は三玄院)にもあり、こちらも如水の死後、数年後に長政が建立したものだ。

そもそも黒田家を作り上げた偉大な藩祖の没した地が、二説あるというのも不可思議な話だ。

黒田家譜には病床の如水と長政のやりとりが幾つもあるのに、葬儀や没した地の記載は簡素。

如水の葬儀がキリシタンで行われたのなら、「黒田家譜」で深く触れないのも、寛政年間に幕府に提出した「寛政譜」に、違う地で没したと記載した理由が頷ける。

黒田家は如水の葬儀がキリシタンで行われたことを、必死で隠そうとしたのではないか?


如水が内面の信仰心を捨てなかったのは、長政が男子がいないにも関わらず側室を作らない事でも解る。

秀吉の養女である正室に遠慮・・・というが、江戸時代ではないのだ。

当の秀吉が正室と子宝に恵まれず、側室を抱えているのに遠慮もクソも無いだろう。

1606年に後藤又兵衛が出奔し細川忠興が一時、身柄を預かった

この時、長政は初めて父の葬儀をキリシタンで行ったのを後悔したかもしれない

後藤は旧主を売る様な下種な男ではない、だが何かの拍子で漏れないという保証はない

長政は後藤が細川家に仕官できないように「奉公講/ほうこうかまえ=再就職を禁止する措置」の処分を下したのではないだろうか?


キリシタンの禁令は豊臣政権で追放令が出されたのが始まりだが、それは廃止になっていないので有効のままだった。

でも、だんだんザル法になってて「個々の大名の判断に委ねられた状態」で、けっこうキリシタンが領内にいるのを黙認している武将はいたのだ。

1602年に江戸幕府が開かれ、最初のころキリシタンは「新政権が布教を認めてくれるのでは」と淡い期待をした。

だが幕府が欲しいのは豊臣家に代わって「貿易の利益を独占」することであって、布教を認めるつもりは無かった。

禁令を出した時に、世上不安定になるのを恐れて様子見してただけだ。

長政は幕閣の要人と親しくすることで情報収集(どこの大名もやってるが)し、キリシタンへの締め付けは変わらないことを察知してただろう。

中津から福岡への引っ越しの時に細川忠興とケンカして以来、粘着タイプの忠興は黒田家のアラ捜しを鵜の目鷹の目で狙ってた。

忠興にバレたら、奴は報復のために幕府に絶対チクる!細川家には如水の葬儀がキリシタンであることを知られてはならない・・・!


すぐ墓を移転すれば・・・と思うかもだが、そんなことをすれば逆に目立ってしまう。

1601年から1607年の福岡城築城の間に、黒田家は検知を行って従来から2倍以上の増税している。

耐えかねた農民が田畑を捨てて、福岡から中津の細川家へ逃散しています。

細川忠興は長政への嫌がらせのために、「農民返して」の要求をガン無視してた。

如水の墓の移動なんてして、領民の目に留まる様なことがあれば、、下手すれば忠興のとこにウワサが流れるかも・・・

黒田家が如水の墓を教会から移転したのは1613年から1620年の間だじゃないだろうか。

幕府が天領に対しキリシタン禁教令を出したのが1612年で、翌年の1613年に全国へ発布する。

墓を移動しなきゃアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ と黒田家が判断するのはこの時しかない。

そして1620年に長政は幕府に遠慮して「福岡城の天守閣を破壊した(細川家文書)」とある。

この間に黒田家では如水の死に関するアリバイ工作したのではないか?(土木工事は墓移転のチャンス)

福岡城には「天守閣があった・無かった」の二説あるが、近年になって細川家文書が解読されて、「あった説」が有力視されている。

「大坂の役」の時に長政は江戸留守を命じられている(忠之ちゃんが初陣)。

幕府は完全には黒田家を信用していなかったからこそ、見栄っ張りの長政も天守閣を破壊するというゴマすりをしたのではないか?


黒田家紋

とまぁ、これらの話は「如水の葬儀がキリシタンで・・・」という宣教師の記録が史実だと仮定した場合だ。

だがそう踏まえると、何となく色んなことが符号するような気がするのが、歴史をアレコレ考える醍醐味である。

さて、九州の関ヶ原自体は、島津軍の動きや「鍋島VS立花」の戦いがあるのだが、それは別章でガッツリ語ることにします。

今はいったん、美濃は関ヶ原・・・・ではなく、大垣城へ飛びます(=^・ω・^=)v ブイ

なんで大垣城かって?シオ的戦国ドリームチーム「秋月・高橋・相良」がいるからです 川* ̄д ̄*川ポッ 

欲を言えば「伊東祐兵」も欲しいが、あやつは大坂で死にかけ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

次回より新章「関ヶ原・大垣城編」それは・またの話 by^-^sio

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【中々篇・如水について】九州関ヶ原11栞47


今シリーズはサイト「黒田武士の館」を参照にしました^-^

あらゆる難問を神のごとき知謀でクリアできたとしても、黒田政権は絶対作れない

理由はカンタン。1600年当時・黒田家には後継者がいないからです


こういうと、息子の長政・御年33歳がいるだろう~って反論されるだろう。

だが、その長政は未だに嫡男に恵まれていないのだ。これには幾つか理由がある。

1)長政の正室(当時)蜂須賀小六の娘は、嫁ぐ時に秀吉の養女となった。

その正室と長政の間には娘が一人いる・・・・てことは正室は全くの不妊体質ではないということだ。
なまじ可能性があるがゆえに、正室の養父である秀吉に遠慮して側室を作らなかった

2)如水&長政親子はキリシタンだった。

秀吉が禁教令を出したために、二人は表向き棄教したが信仰心は完全には捨ててなかったらしい。
その後も側室を作らず子宝に恵まれないまま、1600年になっちゃった~><;アウチ☆

3)「朝鮮の役」で、正室と離れたので子作りできん!

適当に発散してた連中は病気をもらって・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
如水はともかく、長政まで側室がいなかったのは、長期間の外地遠征のせいじゃないかなぁ

黒田長政が、1600年6月6日に蜂須賀小六の娘を離縁して、家康の養女で10代のうら若き乙女の新妻を迎えた。

それは政治的な理由の他に、ぶっちゃけ子作りのためです。

姫君を離縁された蜂須賀家が、黒田家に対しノンクレームだったのも、姫君が嫡男を産むことが出来なかったのもあるだろう。

長政が新妻・栄姫様との間に子供が出来るのは、関ヶ原の2年後で1602年のことだ。
(福岡城が未完成だったので、家老の家で産まれた黒田家の問題児・忠之チャン)

前述したように黒田家は当主二代がキリシタンで、親族にもキリシタンがいたせいで係累が少ない。(キリシタンは一夫一婦制)

黒田政権を作っても、係累の少ない黒田家は御三家に充当する藩屏が(すぐは)作れない

天下に野心ある者が如水か長政のどちらかを暗殺すれば、残るは赤ん坊忠之チャンで黒田政権は忽ち瓦解する



黒田家紋ロゴ

天才肌の如水に比べ、長政には如水と同じ事は出来ない。

出来るのは如水の作った物を継承するだけで、そういう意味では徳川秀忠に似ている。

「1600年に嫡男がいない」という点では、徳川秀忠も同じだが、徳川家と黒田家では中身が違う。

徳川家康がハッスルして「息子の分も引き受けた」と言わんばかりに、庶子だけでなく隠し子伝説までワンサカ∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

関ヶ原で家康と秀忠の二人が戦死しても、家康の子供(スペア)に不足はない。

戦の勝敗に関係なく家康が寿命を全うすれば、関ヶ原以後も側室に男子(初代水戸藩主)を産ませてる( ̄ω ̄A;アセアセ

( ̄ko ̄)<ちなみに家康の打ち止めは1603年産まれの市姫ちゃまです

( ̄ko ̄)<限界じゃなくて、健康のために閨を控えて、趣味の鷹狩りで筋肉ほぐして夜は熟睡ね

さらに如水一代で大きくなった黒田家と違い、徳川家には三河・安祥以来の譜代家臣がいる。

家康&秀忠に万が一があっても、徳川家が即・潰れる心配はない

それは武将たちにとって、約束された恩賞を取りはぐれる心配はないということだ

この徳川家の安心・安定のクオリティだけは、如水の代で大名になった黒田家には作れないものだ


家康が(長政の)右手を取った時に、そちの左手は何をしていたか(超意訳:殺れば良かったのに~

如水の野心を現すとして有名なセリフ・・・これはおそらく後世のフィクションです

なぜなら家康を殺したら、その場で長政は徳川家臣に殺される・・・如水が長政を犠牲にするなど前提としてありえない・・・!

長政は如水のたった一人の男子なのだ(もう一人いたが病弱で早逝

長政(後継者)が死ねば、天下どころか黒田家は無嗣断絶(後継者がいない)で、改易の憂き目にあう


長政の娘に婿養子を迎えるという方法はあるが、それでは男系ではなく女系になる。

武家における理想の嫡流とは、嫡男から嫡男への継承で、女系で繋ぐのは止むを得ない時なんです。

係累が少ないと言っても、如水には姪も甥もいるし、彼らを養子・養女に・・・って、それってデジャ・ヴュ~~~

どこかの太閤殿下と同じじゃね?(_´Д`)アイーン


黒田如水イメージ画像

亡き秀吉の係累が少ないために豊臣政権は迷走した。

晩年産まれた我が子・秀頼のために、いったい何人の人々が振り回されただろう。

あげくの果てに秀次切腹事件だ・・・この時、家康の取り成しで処分を免れた大名は、関ヶ原で東軍に走っている。

そもそも「関ヶ原の戦い」が起きたのも、豊臣秀頼が幼いから家康の付け入るスキがあるんです。

基盤が脆弱で不安定な政権に、諸大名はウンザリして疲れている。

子供が長政一人しかいない如水を、諸大名が天下人として推戴することは、おそらく無いだろう

例え、そのような動きがあったとしても、その時は長政か如水のどちらかを暗殺すればいい

長政では政権を創り上げるほどの器は無いし、55歳の如水だけ残っても、これから子作りするのでは豊臣政権と同じ運命を辿るだけだ


それは如水が一番解ってたはずです。

如水ほどの器量があれば「天下というキャンパスを己の色に染めたい」という欲求はあったはずだ。

だが秀吉のように土台を急ごしらえし無理を積み重ねても長続きしない、何よりも築き上げた黒田家を次世代に継承することが最優先だ。

だから関ヶ原で如水が考えていたのは、地道にレッツGO100万石(=^・ω・^=)v ブイ

長政を家康の手元に置いて手柄を立てさせ、自分は九州を切り取る。

石田三成の誘いを断る方便として如水は「七か国くれたら味方するよ」と返事した。

だが案外、如水は本気だったのかもしれない。

七か国あれば100万石は優に超える。

三成が担いだ神輿の毛利は120万石。家康が潰そうとした上杉は120万石。伊達政宗への誘いの言葉が100万石のお墨付き。(当時の前田家は未だ100万石弱)

100万石あれば、天下に何事か号令をかけることが出来る基盤になる。

如水は無理せず、ホップ・ステップ・ジャンプ~しようとしたのだろう。

その過程として天下が回ってくれば貰えばいいくらいの「ゆとり気分で」^-^

如水の唯一の計算違いは自分の寿命


幽閉の後遺症もあり、決して頑健とは言えなかったが、関ヶ原の僅か4年後の1604年に死ぬとは思ってなかっただろう。

もし如水が黒田政権を創ったとしても、わずか4年で死亡では長政だけで政権を支えるのは難しい。

なぜなら「中津19万石⇒黒田政権」では、閣僚・官僚を生粋の黒田家臣のみで構成することは出来ず、政権中枢は余所者が大多数を占める。

黒田政権は、豊臣政権と似た体質のものしか出来ない・・・つまり同じ宿痾(しゅくあ)に懊悩するということだ。

政権の土台を完成させるには、やはり家康のように長命でなくてはならない。

いや、如水のことだ。もしかしたら「自分の寿命が長くない」と気付いていたかもです。

それならば尚のこと無理せずに次代・長政に繋ぐ安全な道筋を作ることを考える。

頭の良すぎる如水は、口では息子・長政に辛口だが、実は結構な子煩悩だった。

そういう意味でも、如水が己の野心のために、息子を犠牲にすることは絶対にない。

さて、どこまで本音か如水の謎・・・次回ラスト~その死について。それは・またの話 by^-^sio

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【中篇・如水について】九州関ヶ原10栞46


今シリーズはサイト「黒田武士の館」を参照にしました^-^

黒田政権が無理な理由

如水が天下に号令をかけると想定した場合~兵を動かす大義名分と公的資格が無い


群雄割拠の戦国真っただ中でも、戦には何らかの名分が必要だったが、一度天下が定まれば、なおさら大義名分が必須となる。

東軍・総大将の徳川家康は「上杉征伐」の名目で兵力を集め、

西軍・総大将の毛利輝元は「その家康を討つ」ために兵力を集め、

豊臣家は「両軍に頑張ってね^-^」とエールを送って双方の軍行動を認めた。

家康は五大老筆頭で、毛利輝元も五大老のメンバーで、天下の兵を動かす盟主としての資格は申し分ない。

西軍の実質盟主である石田三成では、石高の多寡以前に「隠居の身」で私人。

彼が兵を起こしても「正義の戦い」にはならず「個人的な私闘」扱い。

「大名間の私闘」を禁じた豊臣政権の掟違反になり、その時点で三成の方が討伐の対象となる。

私人の石田三成には五大老メンバーの誰かを盟主として担ぐ必要があったんです


同じことが如水にも言える。彼は息子・長政に家督を譲った隠居の身です。

「豊臣政権における功労者」ではあるが、閣僚(大老)でも官僚(奉行)でもなく、公的資格は無い。

中津城で留守番の如水が勝手に兵を動かせば「単なる私闘」で懲罰の対象になるだけなんです



黒田如水イメージ画像

その如水が兵を動かす法的根拠は、1600年7月に徳川家康が言った「九州は切り取り次第与えよう」という約束です。

五大老筆頭のGOサインが出たことで、如水は貯め込んだ金を放出し「如水混成軍」を作り出した。

後に(戦の長期化を恐れた+如水の予想以上の快進撃ぶり)に不快感を覚えた家康は、「撤退命令を無視した」ことを取り上げて、如水個人への加増をチャラにしている。

如水の動きに警戒する家康が、それでも軍行動をOKしたのには、理由がある。

家康は元々は東海が本拠地で、さらに関東の太守になってからは東北大名の取次で、西国大名との接触が少ない。

徳川家康は「長年築き上げた西国大名に対する如水の人脈ネットワーク」を利用したかったのはないか?

巷説言われる武断派・武将たちは、ムードメーカーとして加藤清正と福島正則が有名だ。

諸大名に「家康の方が正義」とアピールする駒として、豊臣秀吉子飼いで親戚の清正と正則を味方にしたい。

そのため家康は二人にメチャクチャ気を使い、両家とも政略結婚して繋がりを濃くしている。

家康にとって厄介なのは、清正と正則も「自分たちの価値」を自覚していることだ。
(そのくせ最終的には利用されるのだから、やはり家康とは器が違いすぎる)

黒田如水・長政親子は、その武断派を繋ぐ人間関係の中心にいたんです。

福島正則

黒田長政との友情を表す逸話は「名槍・日本号」「兜の交換」などなど事欠かない。
酒が入れば前後不覚の正則を、宥め透かして関ヶ原まで引っ張ったのは長政の功績。
加藤清正

如水をリスペクト~如水が城井家抹殺した時にも、消極的ながら片棒担いでいる。
西軍か東軍か迷った清正は「最終的な判断」を如水に委ね、家康に味方することを決めた。
細川忠興

如水と忠興の父・幽斎が親友。
忠興は自身の飛び地である豊後・杵築城の留守居役たちに「九州で何かあったら如水を頼れ」と命令していた。
佐賀の鍋島直茂

小早川隆景を通じて親しくなった。如水混成軍と連携をとって軍行動をする。
日向の伊東祐兵~如水を頼って西軍から東軍に寝返る。
小早川家

亡き隆景と如水が親しく、秀吉の甥・秀秋を小早川家の養子にと斡旋したのは如水だと言われている。
秀吉は若い秀秋を心配して家老を付けたが、その家老の一人・平岡が如水の姪を妻にしている。
同じく家老の稲葉も個人的に井伊直政に接触していたが、小早川家が裏切る時は平岡の縁戚である黒田家を取次に選択した。
関ヶ原本戦では「裏切りの監視役」として、黒田家から軍目付が派遣されている。
阿波・蜂須賀家

息子・長政の正室が小六の娘で縁戚、豊臣政権の創業を支えた功労者同士。
1600年6月に長政が小六の娘を離縁して、家康の養女・栄姫(保科家)を正室として再婚する。
これにより江戸期は両家不仲説が出るが、実はそんなことなくって関ヶ原後も家臣(八木家)を譲ってもらったりして普通に交流してる。
蜂須賀家でも関ヶ原の前に嫡男が家康の養女(小笠原家)を正室に迎えている。
両家は「豊臣政権における縁戚関係」から「徳川家を軸とした縁戚関係」に、スライドして外交ルートは健在だった。
毛利輝元

秀吉の中国攻めの時から関わりあるが、広島城築城の時に秀吉の肝いりで黒田如水が指南役・アドバイザーとして参加している。
実は毛利輝元は朝鮮の役の出費が大変で、黒田如水から借金してた∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

吉川元春

秀吉も嫌いだが、安国寺恵瓊も嫌って如水の方と接近~息子の広家に「戦の作戦指揮は如水を頼れ」と言ってた。

吉川広家

家督を継いでから国内統治のノウハウを伝授したのは如水~ちなみに結婚した時の仲人も如水。
元春が死んだ後の広家は、偉大な叔父・隆景を別格として、個人的には如水を父のように慕い義兄弟の盟約を交わす。(衆道的な意味ではない)
西軍を裏切る時に接触する相手は、迷うことなく黒田家オンリー。

これだけの人脈があれば、西国大名に対する人脈が弱い家康を十分にリカバーできる。

もっとも、せっかく作った如水の人脈を、孫(忠之)子(長政)の代で、ケンカしまくって台無しにしますけど∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ! ナニヤッテンダカ・・・


黒田家紋

家康は如水のフリー行動を許可しないわけには行かなかった。

だが「切り取り次第」は九州のみ、西上して良いなんて一言も云ってない。

如水が上方に駒を進めようと思えば、石田三成のように大老を抱きこまなきゃならない。

家康以外の大老だと・・・

上杉景勝~(無実だけど)罪を得て討伐軍を迎え撃つ立場だし、如水とは深い交流が元々無い。

前田利長~父・利家亡きあとは大老職を継いだことになってるが、本人にやる気無しで完全に家康サイド

となると残るのは、三成と同じで毛利か宇喜多を抱き込むしかない。

その辺の駆け引きなら、如水は得意中の得意(=^・ω・^=)v ブイ

小早川隆景を初めとする「切れ者の叔父様(元就ジーちゃんの庶子)たち」も既に亡くなってるから、往年の「中国攻め」の頃よりやり易いですな ( ゚Д゚)y─┛~~

毛利家内部の派閥争いは、西軍を裏切るほど深刻で、恵瓊に従うくらなら如水の方がマシって家老達がいる。

もっとも大老を神輿にしなくても、ぶっちゃけ大義名分なんざ、実はどうにもでなル・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

関ヶ原が長期化さえすれば「カオスになる上方の治安維持・秀頼君外護」という立派な言い訳・・・もとい名分が成り立つからだ


さて前提も理由もクリア出来たとしよう

だが、それでも如水が天下人になれない・・・絶対クリアできない決定的な要因がある


如水ファンの夢も希望も全力で否定~それは・またの話 by^-^sio

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参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

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【前篇・如水について】九州関ヶ原9栞45


今シリーズはサイト「黒田武士の館」を参照にしました^-^


黒田如水が天下に野心を持ち「九州の関ヶ原」で己の野望を形にしようとした・・・

という黒田ファン垂涎の夢を小説化したものでは、司馬遼太郎氏の「播磨灘物語」が最も有名だろう。

黒田ファンというより、如水ファンの氏は作中で黒田家の都合の悪い話(城井家抹殺)には殆ど触れていない。

また如水が息子・長政に対して言った「家康が、そなたの右手を取った時、そちの左手は何をしていたのか」(原文を意訳)

という名セリフも氏の作品で有名になったのだが、実はこれは後世のフィクションではないかと言われている。

少なくとも一次資料には無いし、江戸期にの文書にも見当たらず、囁かれ始めたのは明治以降らしい。

シオは司馬氏とは違い、如水よりも後藤又兵衛よりも、息子・長政が好き 川* ̄д ̄*川ポッ 

だから、ぶっちゃけ長政の評価が低い「播磨灘~」には不満なのだ。

もちろん作品自体の面白さを否定してるわけじゃありません。自分も全巻持ってる(*´pq`)クスッ

シオは(如水ファンの夢を壊すようで悪いが)如水が天下に野心があったというのは、あくまでも小説を面白くするためのネタに過ぎないと考えてます。

でもって、その理由を素人が勝手に考えて呟いてますが、興味無い方スルーしてね^^


黒田如水イメージ画像

無理な前提~関ヶ原が長期化


関ヶ原が僅か一日、数時間で片付くとは誰も考えてはいなかった・・・それは確かだろう。

だから何事かを期待してた伊達政宗などがガッカリする(*´pq`)クスッ

だが当事者の徳川家康(東軍総大将)と、毛利輝元(西軍総大将)が、長期戦闘を望んでいなかった。

だから一日でカタが付かなくても、(石田三成スルーで)どこかで妥協した可能性が高い。

家康が戦闘の長期化を嫌ったのは戦後処理で解る。

彼は1600年11月16日に「島津討伐令」を出しながら、同月22日に「撤退命令」を出して全ての戦闘行為を止めるように通達している。

だが如水が兵を直ぐ引き揚げなかったので、家康は如水の息子・長政を通じて叱責している。

さらに家康が美濃・関ヶ原本戦の長期化を嫌ったことの理由に、兵糧調達の問題がある。

日本人は民族性として兵站(武器・兵力・食料など全ての補給)が苦手らしい。

携帯用兵糧も、多くて2・3日分で「あとは現地調達ネ」というのが普通。

「朝鮮の役」も「九州の役」も「信長の甲斐侵攻」だって、常に慢性的な食糧不足で末端の兵卒はプチ飢餓状態。

そもそも人口が数万・数千単位で膨れ上がった時に、それを養えるだけの備蓄がある土地などあろうはずがない。

そのため兵の士気を維持するためには、雑兵たちの略奪行為は見て見ぬフリするしかないんです。

鍋島家が西軍から東軍に寝返る時にも、兵糧を買い占めて家康に献上して、その機嫌をとった。

また福島正則は関ヶ原本戦前に、清州城を駐屯地として明け渡し、諸侯にも40数日に渡って兵糧を提供した。

徳川家康が戦後・福島正則に加増したのは、兵糧に関する功績も含まれているんです。




兵糧といえば、こんな逸話がある。

実は意外かもだが、加藤清正はギリギリまで東軍か西軍か迷っていた。

小西も石田も、だぁぁぁい嫌いだが、西軍が豊臣秀頼という玉を握っていたので、西軍が正義のようにも思える。

徳川家康が天下に野心が無いと言い切れるか、判断つきかねていたのもある。

そこで清正は大坂の毛利輝元に家臣を派遣した。

清正の使者「今度の内府と石田冶部との弓矢の事、輝元様は石田冶部少輔に御一味なされたそうですな。
ところで、我々に大和国を頂けるのなら、我ら早速上方に上がり、近江、三河、美濃、へと攻め上がり、輝元様に御馳走仕ります。
その上でどうぞ、家康の事は我ら加藤家にお任せくだされ。
清正が罷り出でましたら、今回東国に下った上方、西国の諸侯も多くは我らに味方するでしょう。
そうなればこの戦、我らの勝ちであります。」

輝元の返事が「清正殿のご内意、承知いたした。大変満足いたしました。
ただ、大和の国のことは、ご存知のように、増田長盛が郡山を所領いたしており、これを与える事、我々が勝手に出来ることではありません。
清正殿は、秀頼様への御馳走をいたさなければ叶わぬ御筋目でござれば、そのような条件をつけず、御忠節を励まれるべきです。
そうすれば後々、どんなお望みも叶う事でしょう。
我々は清正殿を粗略に扱う事は決してありませんから、どうぞ早々に上方へとお上りあるように。」
(逸話ブログ「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」より引用しました)

報告を聞いた清正は西軍への加担を「物理的」に諦めたんです。

「大和を預かる」というのは「兵糧調達のためと遠国から来る兵たちの駐屯地」として預かりたいという意味だったからです。

家臣や兵たちの寝泊りする場所を確保し、その糧秣を心配するのはリーダーとして当然のこと。

てか清正は朝鮮では食料が届かず苦労したから、身に染みてたんだろうなぁ (6 ̄  ̄)ポリポリ。。

お役所の模範回答みたいな返事した毛利輝元だが、彼も戦の長期化を望んでいなかった。

それは毛利輝元が関ヶ原で敗れたと知ると、立花宗茂らの籠城案を蹴って、引き上げたことで解る。

籠城する・・・ということは前提として援軍が来なければ成り立たない。

いくら諸侯の妻子が大坂城下にいても、秀頼・淀親子が大坂城にいても、援軍が無ければいずれは立ち枯れる。

もちろん亡き秀吉自慢の大坂城は数万の人口を数年養えるだけの余裕はある。

だが籠城したその間・毛利輝元は本国をカラにし続けているのだ。

家康が大坂城をスルーして広島城に兵を向けたら・・・当時、それが可能かどうかは問題ではなく、それを考えただけで戦慄したことだろう。

なぜなら毛利家は元就の代で「本国をカラにして出兵してて御膝元を敵に侵攻される」という手痛い失敗があるからです


毛利VS大友との争いで「絶対大丈夫」と思っていた「関門海峡の守り」を突破され、山口を占拠された。

頼みとする息子たち・吉川・小早川兄弟は九州に出陣してて、元就ジーちゃん大慌て~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

幸い山口を占拠した大内残党(大友のバックアップ受けてた)が大したことなかったので、短期間で鎮圧できた。

だが同時期に尼子残党が活動し(これも大友が支援)すぐ後に嫡男・隆元が急死して、文字通り毛利の屋台骨が揺らぎ、元就は九州への干渉を諦めた。

そして毛利家の方針を本領の死守に専念する「保守主義」に大変換した。

毛利家では、この失敗以来「長期間本国をカラにする」がトラウマになったと思う。




関門海峡の制海権は、既に黒田如水が抑えてしまった。

本島から九州への便船は全て黒田家が検閲し、かつ怪しい船は砲撃している。

毛利側から九州へ迂闊に行けないだけでなく、如水混成軍が関門海峡を超えて西上するという可能性も否定しきれないのだ。

さらに毛利軍は本軍の殆どを上方に引き連れており、本城の広島城は総構え(城の一番外郭部分)を守る守備兵すら不足している状態だった。

「関ヶ原で負けた」と聞いた輝元が「広島城に戻らなきゃ!」って思い立つのは無理もない話なんです。

如水が、はるばる九州から数万に膨れ上がった混成軍を持って、一路・天下統一で大坂を目指すには、関ヶ原が長期化するのが前提として必要になる


本戦で勝敗つかずにカオスになるか、家康・輝元が潰しあってカオスになるか、もちろん小うるさい石田三成にも戦死してもらうのが望ましい。

つまり不確定要素に頼り過ぎなんです。

広島へ帰国するであろう毛利をスルーして、陸路でなく船で西を目指すと言う手もある。

ところが旧暦の9・10月といえば台風シーズン。うまく全軍が辿り着くという保証は無い。

ん?島津?^-^それは何とかなるよ~~

死にもの狂いの薩摩っぽと戦わなくても、大隅・薩摩(さらに日向も)の本領安堵を約束すれば妥協しあえるもの。

多少の戦闘行為して、後は如水得意の駆け引きですな ( ゚Д゚)y─┛~~

九州で「如水独立王国」を作る方が、まだ可能性ありそうだけど、そうなれば息子の長政はどうなるの?ってことになる。

さらに関ヶ原のドサクサで如水が天下を狙うには、無理な前提があるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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