黒田家~関ヶ原後の筑前チョイス(推考の記録として)
自分は、如水は天下を狙っていない説派なので、筑前チョイスの推測も、その流れに絡みます。
まず、欲しいところを、と聞かれ、
大坂に近い近畿エリアを上げたら、家康は喜ばない。
家康が喜び、かつ黒田家にとっても得になる土地、、、それが筑前チョイスの一番の理由だと推測してます。
中津18万石から、いきなり天下を狙うには、偶発、偶然に頼り過ぎる。
ギリギリ、、、関ヶ原が1日でケリがついた時点でスッパリ切り替えです。
が西軍残党狩があるから、上手く立ち回り百万石を狙いたい( ̄ー ̄)
百万、、意図としては、沢山たくさん。
関ヶ原前まで毛利も上杉も百万石大名。
将来、天下に働きかける自己資本金としては、百万石か相当の財力基盤が欲しいところ。
筑前50万石は、その可能性がある土地です。
筑前における政庁、大宰府と
国際貿易商都、博多は、
九州という土地にとり、それほど大きな影響を持つ土地でした。
大宰府は菅原道真には不満でも、
九州における政所で数百年の老舗です。
西国のドン大内も、キング九州な大友も
皆欲しがり、制覇して大宰府から号令をかける。
そして国際貿易商都、博多。
ここをゲットする事で得る利益は計り知れない。
交易ルートにノウハウを居抜きで、そっくり拝領とは、さすがクロカン。(;・∀・)
では、逆に何故に家康が筑前を黒田に与えたか、、、です。
一番の理由は、当時の家康が豊臣政権の五大老だったからと思う。
博多も大宰府の価値も家康は知ってたはずです。
貿易立国として秀吉が財を為すのをオンタイムで見ているんですから。
そもそも国際貿易商都の博多は、本来なら時の権力者が直轄地とすべき類いの土地なんです。
だからこそ、このままでは豊臣家が潤うだけ。
黒田家が拝領する事により、商都博多の利益が豊臣家の蔵へ入るのが止まる。
そして、一大名の支配下にする事で大宰府が九州の政所だった歴史的役割を終わらせられる。
完全な中央政権を作るには、九州に鎌倉や室町のように中央政権とは別に公儀権を持つ組織を与えては駄目なんです。
貿易商都としては、家康には既に博多ではなく長崎を中心にする構想があったんじゃないでしょうか。
南蛮貿易のネックは、キリシタン布教とセットなのと、キリシタン大名と宣教師が個々に繋がりあること。
こっちを先に何とかする方が急ぐ。
あと、中国は明が末期で政情不安定で、先の予測が難しい。
下手すると博多は明交易ルート全滅で、商都としての価値が下落するかもしれない。
家康自身の政権構想。
豊臣家の九州における財源を断ち、ひいては豊臣の影響力を削ぐ。
筑前、、、いえ、博多と大宰府を黒田家に与えるプラマイに頭を廻らせ、
結果、筑前を与えた家康。
おそらく彼には、自分の作りたい政権と、作りたい日本の原形が出来ていたんだろう。
とにかく政治家としてのスケールが、今の政治家とは比較にならない(;・∀・)
逆に『本貫地(播磨)に戻らなかった理由』
播磨や隣の摂津じゃ家康が嫌がる。
家康は黒田家を警戒し続けていたって言う事と繋がるんです。
摂津は大坂の喉元のような位置で、関ヶ原当時は豊臣家の直轄領。
家康は五大老筆頭として戦後処理を行い、豊臣家の直轄地もドサクサ紛れに削ってます。
あんな油断ならない黒田親子を、彼らの元々の地元で豊臣家直轄地の隣に入れて力を付けさせてどうするの^^;
摂津や播磨は豊臣家を看視させるために徳川譜代&準譜代で囲い込まないとです。
国替えを強要する側の最大の狙いは権威の剥奪
だからこそ地元から引きはがす。
これは家康の基本スタンダード。
守護職の家柄・・なんて名家が関ヶ原で東軍で武功があれば、『恩賞』と称して本貫地から離てします。
京極家、小笠原家、、、旧守護職家は全て本貫地から移動です。
福島正則も尾張でしたが、戦後の恩賞で地縁がない広島へ移動です。
もちろん敗れた西軍側をホームワークには残さない。
が、勝った東軍側の武将も恩賞として領地を与えてるけど、ホームには残さない。
家康が最も恐れているのは、大河の直江でも黒田でもない「父祖伝来の地生えの大名」です。
中身として『地生えの国衆クラス』は、秀吉の豊臣政権が太閤検地などの施策で解体しているから『残る旧勢力解体作業は国単位』になります。
だから「地生えの大名」を少しでも減らしたいのが本音。
従って黒田家がとるべき『徳川への忠義』『恭順の証』を見せる最大の行為は、
「本貫地以外の土地を欲する」ことです。
『謎解き説教』みたいなものです。
「なぜ怒ったか判るか?言ってみなさい」と尋ねられて、
間違ったら「違う!全然判ってなーい」と怒られ、
正解しても「判ってなら何故やらかしたゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と、どっちでも怒られる。
家康の「欲しいところを言っていいよ^-^ニコニコ」は、黒田家の心底を見る罠みたいなものです。
「本貫地に戻りたいの(人´∀`).☆.。.:*・」と直球ストレートに云えば、家康は「空気嫁」と不機嫌になり将来の改易リストに__黒田家φ(.. ) メモメモ
「筑前を」と云えば「本貫地以外で旧領とも違い中央からの遠国チョイスで大正解」
だけど「こいつワシの戦後処理方針を見抜いてやがる」と、油断しちゃダメリストに黒田が入り、実際警戒されてる^^;
でも同じ黒リストでも「改易リスト」より「警戒されるリスト」のほうが、遥かにマシでしょう。
だから筑前チョイスは、家康の出した問いに対する答えとして『政治的に大正解』なんです。
旧領のままで領地倍増といえば加藤清正です。
でも清正死後に改易になってます。
家康は本音の部分では島津を本貫地から離したかったはずです。
が、ちょっと難しい。
だって島津は「島津の総意で西軍に味方したんじゃない」からです。
「参加した義弘も本戦には参加してない、その場にいて(派手に)退却した」だけ。
何より島津を移動させようものなら、本国で無傷の薩摩隼人が何をしてかすか判らない。
でもって黒田・清正のコンビ中心で島津征伐をさせ成功しちゃった場合、彼らの武功が大きすぎて家康のバランス感覚を超えるものになる。
家康という政治家は「費用対効果を急ぐあまり拙速な無理をしない」タイプ。
常に家康の内在しているバランス感覚でもって、少しずつ思う通りにと積み重ねる長距離ランナー・ロングブレスタイプ。
三匹の子豚で言うなら、煉瓦の御家を作った末弟豚さんです♪
積み重ねだから、周囲が気づくころには堅牢なものになってる。
とまぁ、黒田家の筑前チョイスは、表に出ない家康との政治的な駆け引きの賜物だと思う訳です^^
家康の機嫌を思えば摂津には戻れにゃい。
新しく入るなら何処でも苦労は同じだが、それでも九州の方が播磨の次に判ってる土地で、中津より博多がある筑前が(・∀・)イイ!
商都としての都市再開発は、博多商人に任せりゃ黒田家はローコストだし。
余力がなくて史料等をちゃんと検証しないままですいません。
オタの推測に長々と御付き合いありがとうございましたm(__)m
まず、欲しいところを、と聞かれ、
大坂に近い近畿エリアを上げたら、家康は喜ばない。
家康が喜び、かつ黒田家にとっても得になる土地、、、それが筑前チョイスの一番の理由だと推測してます。
中津18万石から、いきなり天下を狙うには、偶発、偶然に頼り過ぎる。
ギリギリ、、、関ヶ原が1日でケリがついた時点でスッパリ切り替えです。
が西軍残党狩があるから、上手く立ち回り百万石を狙いたい( ̄ー ̄)
百万、、意図としては、沢山たくさん。
関ヶ原前まで毛利も上杉も百万石大名。
将来、天下に働きかける自己資本金としては、百万石か相当の財力基盤が欲しいところ。
筑前50万石は、その可能性がある土地です。
筑前における政庁、大宰府と
国際貿易商都、博多は、
九州という土地にとり、それほど大きな影響を持つ土地でした。
大宰府は菅原道真には不満でも、
九州における政所で数百年の老舗です。
西国のドン大内も、キング九州な大友も
皆欲しがり、制覇して大宰府から号令をかける。
そして国際貿易商都、博多。
ここをゲットする事で得る利益は計り知れない。
交易ルートにノウハウを居抜きで、そっくり拝領とは、さすがクロカン。(;・∀・)
では、逆に何故に家康が筑前を黒田に与えたか、、、です。
一番の理由は、当時の家康が豊臣政権の五大老だったからと思う。
博多も大宰府の価値も家康は知ってたはずです。
貿易立国として秀吉が財を為すのをオンタイムで見ているんですから。
そもそも国際貿易商都の博多は、本来なら時の権力者が直轄地とすべき類いの土地なんです。
だからこそ、このままでは豊臣家が潤うだけ。
黒田家が拝領する事により、商都博多の利益が豊臣家の蔵へ入るのが止まる。
そして、一大名の支配下にする事で大宰府が九州の政所だった歴史的役割を終わらせられる。
完全な中央政権を作るには、九州に鎌倉や室町のように中央政権とは別に公儀権を持つ組織を与えては駄目なんです。
貿易商都としては、家康には既に博多ではなく長崎を中心にする構想があったんじゃないでしょうか。
南蛮貿易のネックは、キリシタン布教とセットなのと、キリシタン大名と宣教師が個々に繋がりあること。
こっちを先に何とかする方が急ぐ。
あと、中国は明が末期で政情不安定で、先の予測が難しい。
下手すると博多は明交易ルート全滅で、商都としての価値が下落するかもしれない。
家康自身の政権構想。
豊臣家の九州における財源を断ち、ひいては豊臣の影響力を削ぐ。
筑前、、、いえ、博多と大宰府を黒田家に与えるプラマイに頭を廻らせ、
結果、筑前を与えた家康。
おそらく彼には、自分の作りたい政権と、作りたい日本の原形が出来ていたんだろう。
とにかく政治家としてのスケールが、今の政治家とは比較にならない(;・∀・)
逆に『本貫地(播磨)に戻らなかった理由』
播磨や隣の摂津じゃ家康が嫌がる。
家康は黒田家を警戒し続けていたって言う事と繋がるんです。
摂津は大坂の喉元のような位置で、関ヶ原当時は豊臣家の直轄領。
家康は五大老筆頭として戦後処理を行い、豊臣家の直轄地もドサクサ紛れに削ってます。
あんな油断ならない黒田親子を、彼らの元々の地元で豊臣家直轄地の隣に入れて力を付けさせてどうするの^^;
摂津や播磨は豊臣家を看視させるために徳川譜代&準譜代で囲い込まないとです。
国替えを強要する側の最大の狙いは権威の剥奪
だからこそ地元から引きはがす。
これは家康の基本スタンダード。
守護職の家柄・・なんて名家が関ヶ原で東軍で武功があれば、『恩賞』と称して本貫地から離てします。
京極家、小笠原家、、、旧守護職家は全て本貫地から移動です。
福島正則も尾張でしたが、戦後の恩賞で地縁がない広島へ移動です。
もちろん敗れた西軍側をホームワークには残さない。
が、勝った東軍側の武将も恩賞として領地を与えてるけど、ホームには残さない。
家康が最も恐れているのは、大河の直江でも黒田でもない「父祖伝来の地生えの大名」です。
中身として『地生えの国衆クラス』は、秀吉の豊臣政権が太閤検地などの施策で解体しているから『残る旧勢力解体作業は国単位』になります。
だから「地生えの大名」を少しでも減らしたいのが本音。
従って黒田家がとるべき『徳川への忠義』『恭順の証』を見せる最大の行為は、
「本貫地以外の土地を欲する」ことです。
『謎解き説教』みたいなものです。
「なぜ怒ったか判るか?言ってみなさい」と尋ねられて、
間違ったら「違う!全然判ってなーい」と怒られ、
正解しても「判ってなら何故やらかしたゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と、どっちでも怒られる。
家康の「欲しいところを言っていいよ^-^ニコニコ」は、黒田家の心底を見る罠みたいなものです。
「本貫地に戻りたいの(人´∀`).☆.。.:*・」と直球ストレートに云えば、家康は「空気嫁」と不機嫌になり将来の改易リストに__黒田家φ(.. ) メモメモ
「筑前を」と云えば「本貫地以外で旧領とも違い中央からの遠国チョイスで大正解」
だけど「こいつワシの戦後処理方針を見抜いてやがる」と、油断しちゃダメリストに黒田が入り、実際警戒されてる^^;
でも同じ黒リストでも「改易リスト」より「警戒されるリスト」のほうが、遥かにマシでしょう。
だから筑前チョイスは、家康の出した問いに対する答えとして『政治的に大正解』なんです。
旧領のままで領地倍増といえば加藤清正です。
でも清正死後に改易になってます。
家康は本音の部分では島津を本貫地から離したかったはずです。
が、ちょっと難しい。
だって島津は「島津の総意で西軍に味方したんじゃない」からです。
「参加した義弘も本戦には参加してない、その場にいて(派手に)退却した」だけ。
何より島津を移動させようものなら、本国で無傷の薩摩隼人が何をしてかすか判らない。
でもって黒田・清正のコンビ中心で島津征伐をさせ成功しちゃった場合、彼らの武功が大きすぎて家康のバランス感覚を超えるものになる。
家康という政治家は「費用対効果を急ぐあまり拙速な無理をしない」タイプ。
常に家康の内在しているバランス感覚でもって、少しずつ思う通りにと積み重ねる長距離ランナー・ロングブレスタイプ。
三匹の子豚で言うなら、煉瓦の御家を作った末弟豚さんです♪
積み重ねだから、周囲が気づくころには堅牢なものになってる。
とまぁ、黒田家の筑前チョイスは、表に出ない家康との政治的な駆け引きの賜物だと思う訳です^^
家康の機嫌を思えば摂津には戻れにゃい。
新しく入るなら何処でも苦労は同じだが、それでも九州の方が播磨の次に判ってる土地で、中津より博多がある筑前が(・∀・)イイ!
商都としての都市再開発は、博多商人に任せりゃ黒田家はローコストだし。
余力がなくて史料等をちゃんと検証しないままですいません。
オタの推測に長々と御付き合いありがとうございましたm(__)m
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