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【後篇・須古城攻略1回目’(ダッシュ)?】龍造寺隆信「展」の巻14

くどいようですが、有馬VS龍造寺には、1562年説と1563年説があります。

どちらの年にも激突があった・・かも、しれません。
逆に一つの出来事が二つに分散されて記録されたかもです。

少なくとも須古城攻略に関しては、一つの出来事が複数に分散されて記録されているような節があります。
北肥戦誌における須古城攻略1回目は、有馬との戦いに連動して1562年です。

ほら、、、以前に記事にしたアレ・・・
( ̄ko ̄)<鍋島の殿がケッつまずいてピンチになったところを、仲間に助けられたエピソードがある戦いです。

ところが須古城があった白石町では1563年になってます。
須古城攻略についての要旨は殆ど同じなのに、年度が違うんです(_´Д`)アイーン
そのためか1563年の北肥戦誌には攻略1回目’(ダッシュ)と、思われる記述が残りました。

北肥戦誌曰く
永禄6年8月13日、肥前国塚崎の城主《後藤貴明》が、須古の《平井経治》を討つべく軍兵を率いて取り掛かる。
貴明の先手である中野一門は樺島・蘆原へと討ち入る。


どうも、これが白石町史に残る「龍造寺の須古城攻略1回目」に相当するらしいんです。
もちろん、これはあくまでもシオ考察(^ -)---☆Wink

というのは、1562年北肥戦誌によると「有馬VS龍造寺」で有馬を破った龍造寺勢は、
塚崎の後藤貴明エリアの近くまで進軍しプレッシャーかけたんです。
これに屈した後藤は龍造寺を和議を結び、龍造寺の須古城攻略1回目に先陣として従軍しました。

後藤貴明が須古城攻めしたと北肥戦誌が記録してるのが1563年8月。
一月のズレはあるものの「一つの出来事が分散されて記録された」と自分が感じた由縁です。

有馬方、須古城主・平井経治は、城将として超一流の勇将でした。
何しろ肥前の覇者・龍造寺隆信が、須古攻略に足掛け12年の歳月を費やしたほどです。


人物・今度こそ平井経治 平井経治イメージ画像^^/

北肥戦誌より
これに、平井一味の輩である白石左近大夫・馬渡兵庫助・林田左馬助以下は討ち出て散々に戦う。
これに後藤の将らは利を失い、中野重明・その子である大和守・嫡孫の三郎・同じく新七郎・中野忠明・舎弟の蓮成・同じく弟の東何某ら以上七名が樺島にて一所に討たれ、敗れて引き退く。
そのときに武雄兵部大輔も討ち死にした。


須古城攻略が失敗し龍造寺勢が敗退する・・・と言う事は、当然、先陣だった後藤貴明勢も負け戦な訳で^^;

続いての記述が
平井方の野田掃部允は、武雄右馬大夫が放った矢に当たり死に、そのほか白石弥三郎・馬渡左馬允も討たれた。
また、有馬の侍である南肥後守・筑後介兄弟は、双方和融の談合のために須古に来てこの陣中にあったのであるが、
已む無く平井方として戦い、兄は傷を被り、弟は討ち死にした。


話が、ややこしくなるのは、1564年に須古城攻略2回目があることです。
どの話が1回目攻略で、どの武将が戦死したのが2回目攻略なのか、判別するのは多分・・・無理^^;

それが出来てたら須古城攻略1回目の「1562年説or1563年説」にだって決着ついてます。
ただハッキリしているのは、塚崎の後藤貴明が龍造寺勢先陣として戦ったのは「須古城攻略1回目だ」って事です。

南肥後守と筑後介・・・何やら出来過ぎ~~兄弟の呼称,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
これが史実か否かはさておき、有馬氏が後藤と平井の戦いを望まないのは確かです。
後藤(エリア~現:武雄市)が龍造寺サイドになったら、地理的に白石町の須古城が挟み撃ちされるからです。

須古城が攻略されたら、有馬は杵島郡における有馬エリアを完全に失ってしまいます。
ここは譲れない重要な防衛ラインなんです。

一方の後藤貴明・・・有馬の実子・大村純忠が送り込まれ、貴明実家である大村氏の家督を乗っ取られた恨み骨髄の過去有り。
(ちなみに恨み辛みは現在進行形で増幅中)

その過去は過去として、一回目攻略で平井経治の実力と須古城の要害に、後藤はドン引きした。Σ(´Д`;)ひぃ!
このまま龍造寺の先陣として酷使されたら、後藤勢の消耗はトンデモナイ事になる。(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
(須古城だけじゃなく、有馬との戦いにも狩り出されるのは目に見えてます)

後藤「べ・・・別に有馬と組むわけじゃないんだからね!!」
と、一回目攻略の後にアッサリと龍造寺との和睦をスルーして、平井と和睦しちゃったんです^^;

後年に龍造寺隆信が後藤氏の家督を乗っ取った遠因は、このあたりにあると思います。
西と東の最前線である後藤エリアは重要な拠点だけに、寝返り過去のある後藤貴明&後藤氏を無傷で据え置く事が不安だったんじゃないでしょうか。
かといって後藤クラスの国衆を本貫地から移動させるとなると、代替地選びやら何やらで龍造寺家中も後藤家中も揉めます。
家督乗っ取りが一番手っ取り早い(=^・ω・^=)v ブイ。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

話戻って、てことで「龍造寺の1564年2回目須古城攻略」に後藤勢は従軍してません。
従って「北肥戦誌における、1563年に後藤貴明が須古城を攻めた」という記述は、
「須古城攻略1回目の中の出来事」と類推されます。

記事にしてる自分も、1562年と1563年の各種記録を見比べ見比べしてるんで、頭の中がグルグルです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

引き続き北肥戦誌より
同年(1563年)12月28日、高来の《有馬義純》は伊佐早(=諫早)の《西郷純堯》を征伐するため伊佐早表に参じ梅津にて戦う。
この戦いで、有馬勢の安徳直治の手の者、安徳九郎右衛門・安徳新五郎・安徳興三右衛門・安徳三郎兵衛・安徳太郎次郎・石橋助次郎・中間の弥六が討ち死にした。


この北肥戦誌で1563年カウントダウン時期に有馬が諫早を・・・
って言うのが、諫早の記録(江戸期二次史料)だと1563年6月なの!!

ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.なんで記録が半年もズレてんだよ!!
諫早側の記録が史実なら、有馬VS龍造寺は1562年説が有利になります。

ていうのは有馬が龍造寺と戦う為に出陣し布陣したのは6月だからです。
最盛期の有馬なら1万くらいは楽勝で動員できますが、それを分散したら有馬本人が丸裸になるから、現実的に同時軍行動はないでしょう。
諫早攻略が1563年6月なら1562年が・・・と簡単にいかない。
と言うのも、有馬が龍造寺と戦うキッカケである「大友氏肝いり~少弐氏御家再興運動」が1563年だから。

えっとなると、有馬と戦ったのは白石町史の1563年説で、有馬が諫早攻撃した下りだとの北肥戦誌の1563年12月説?ヽ(。_゜)ノ へっ?
更に悩ましいのは鶴田家文書で龍造寺隆信が軍勢の催促してるのが、1566年閏8月・・il||li _| ̄|○ il||l
このパズルを紐解くのは、ほぼ絶望的です( ̄ω ̄A;アセアセ

何故なら一番ヒントになりそうな諫早の西郷氏・・・
それが後年、豊臣秀吉に改易され、退去時に自家の文書類(一次史料)を全て破却したからです・゜・(PД`q。)・゜・ナンテコッタ

WEBから拾えるデータは全てチェックしました。手持ちの一次史料も真っ先に見た。
西肥前武将のリサーチは3ヶ月費やして、松浦(党)とか、松浦(地方)とか、松浦(平戸と本家)とか、現時点で可能な範囲は片っ端から調べた~~~~~~~~~~~~でも何処の地方も武家も何がしかデータが欠落してるんです!!
・゜・(PД`q。)・゜・(←号泣)
ちなみに諫早の西郷ドンは、1563年の6月か12月かは判らんけど、とにかく有馬勢を撃退しましたとさ(=^・ω・^=)v ブイ

1562年と1563年の悩ましい記録ループを後目に、
歴史の中の龍造寺隆信は新たなステージへと運命を切り開くのだが、それは・またの話 by^-^sio

脳みそが限界(爆)なんで肥前はココで小休止~歴史記事は相良史・相良義陽編に集中します~
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【前篇・須古城攻略1回目’(ダッシュ?)】龍造寺隆信「展」の巻13

まず初めに念頭に入れておかなければならないのが、室町期の君臣関係は江戸期と違い緩やかな支配関係だったという事です。
それが崩れてカオスになるのが戦国時代なので、裏切ったり降伏したり、寝返ったり臣従したりを、不毛のループで繰り返します。

では完全にフリーダムかと言うと・・・ノンノンノン~緩やかと言えど主君はいます。
偏諱に元服時の加冠に官途推挙に権利&領地関係の安堵などなど・・・
それらを執行・保障する上位権力者は常に存在します。

九州における最上位権力が、九州探題にして6か国守護・・・大友義鎮(宗麟)です。
国衆ヒャッハーな肥後国も、遣りたい放題クマー(隆信の異名は肥前の熊)な肥前国も、基本として大友氏支配下にあり、
大友義鎮及び大友氏が存在する限り「自由」はありえません。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

国衆が自立する方法は只一つ・・・自分が戦国大名化すればイイじゃん♪(・∀・)ピコーン★!
なんですが、これが容易な事じゃない。(ここでは戦国大名の定義は度外視)

まず武家による初の統一政権が鎌倉幕府でして、そこで任じられて九州を支配していたのが「九州三人衆」です。
専門外なんで超ザックリした知識しかないんですが、

少弐氏・・・支配ゾーン通称・三前(豊前・筑前・肥前+対馬・壱岐)
大友氏・・・支配ゾーン通称・三後(豊後・筑後・肥後)
島津氏・・・支配ゾーン通称・三奥(薩摩・大隅・日向)

後ろより奥って、どんだけ田舎扱いなんですか島津さん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
(※京都に近い順に、前、後、奥デス・・・( ̄ω ̄A;アセアセ)

大内との累代に亘る覇権争いで衰退した少弐氏でさえ、御家再興運動は1560年代まであったくらいなので、
ぶっちぎり全盛期・キングオブ九州を倒す事など、国衆クラスでは・・・(-ω-;)ウーン
同じ鎌倉三人衆で、明治維新の原動力になるほど底力ある島津氏だからこそ、大友を倒せたとも言えます。

従って「龍造寺が戦国大名になった」のは、「原則的には大友氏が耳川の合戦で島津に敗れてから」です。
では龍造寺が「誰からも支配を受けたくない・自立したい!・・と考えるようになった」のは、何時だと思いますか?

自分は主家である少弐氏を破り、大友氏の意向で少弐氏御家再興に動いた有馬勢を破り、更に往時、少弐氏居城だった与賀城を破却して龍泰寺を建立した・・・
即ち、1562年~1563年の間だと考察してます。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

堀本一繁氏の論文「龍造寺氏の二頭政治と代替わり」によると、隆信は1562年から花押を変えているそうです。
隆信隠居時にも、1562年からの花押を併用しつつも、花押を新たにしているそうです。
ということは、1562年に花押を改めた事も何か心情的な変化があったからでしょう。

有馬勢を破ってからの隆信は、西肥前の国衆に対し、己が「上位者」として臨んでいます。
これは文書等を受ける国衆の側も、龍造寺を上位者として認識し始めたからです。
相手が鼻もひっかけないのに上位者然と振る舞ったら、ただの「痛い人」,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

もちろん西肥前の国衆も「本心では龍造寺なんて(´・д・`)ヤダ」ですよ。
それまでの柵や縁戚関係とか、西肥前には西肥前の事情ってもんがありますから。
でも台頭なんて生易しい表現では収まらない龍造寺の勢いに、どうしたって振り回されます。

葛藤と軋轢と抵抗の中で、諸記録は迷走・・・つまり年代が特定できなかったり、○年説だの★年説だのが氾濫する。
天下分け目の関ヶ原を乗り越えられなかったり、豊臣秀吉の改易ラッシュの巻き添えになったり、というだけではありません。
キリシタン大名(有馬・大村・大友)らによる寺社仏閣クラッシュで、西肥前の一次史料は消失したのが相当あると思います。
諫早の西郷氏(←島津の西郷サァ&会津の西郷頼母と同族ネ)のように、滅亡時に文書を全部破却したとこもあるのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー


という背景で、有馬VS龍造寺には1562年説と1563年説があり、

それに連動して須古城攻略には、
・1回目-----------1562年・出典:北肥戦誌
・1回目’(ダッシュ)----1563年・出典:白石町史&北肥戦誌(ただし双方で内容に相違あり)

と二つの1回目があるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【北肥戦誌の大友義鎮評】龍造寺隆信「展」の巻12

1563年、少弐政興の御家再興を支持する者たちを倒したあとなんですが、北肥戦誌では渋江氏の記述になってます。

西肥前リサーチ強化【肥前後藤氏・六~貴明・3】で紹介した部分です。
有馬の謀略で「鉄砲を戦で使用すると神罰あるぉ~」という偽神託を信じて、鉄砲を城外に移した為に城を落とされちゃった残念な渋江さんの話^^;

ちなみに偽神託を信じたのは、信心深い渋江パパ。
最前線で戦う若い息子たちは、この神託変じゃね?と反対したけど、渋江パパに押し切られたのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ちなみのちなみ・・・北肥戦誌では1563年になってる渋江エピソードですが、御当地である武雄の記録だと1560年なんです~~~(_´Д`)アイーン
とにかく、この少弐政興から始まり有馬VS龍造寺で波及した戦とかとか、西肥前と東肥前で記録が前後する現象が多発し、どれがホントの時期なのか訳が分からない状態です^^;

で、渋江氏ネタの後に、北肥戦誌は突然、大友義鎮の悪口を書き始める
,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
個人的には「言い訳」と思ってます。
なぜなら上位権力・・つまり九州探題&肥前守護職として、紛争の調停を計ろうとする大友氏が「室町体制における正義」だからです。
だから「堺目静謐を侵す咎人=龍造寺隆信」で、本来なら断罪されてしかるべき存在。

まぁ少弐氏も龍造寺の台頭を恐れて龍造寺一族抹殺しようとしてるわけで、現代なら優秀な弁護士立てれば正当防衛で逃げ切れるかもだが、今は戦国。
そのくせ室町幕府は滅んでない。
軍事力・財力を併せ持つ実力の九州探題・大友氏は、上位権力としてキッチリ機能しているんです。

大友の調停に従わない龍造寺が「うちは悪くないわ、だって大友ってばメチャクチャで仕方なかったの~」
と言う世論を導き出す最も手っ取り早い方法は「大友義鎮が暴君だった」と主張する事です。

従って江戸期に書かれた大友義鎮に対する人物評価は、その記録した藩の自己弁護アピールの為に不必要に貶められている・・・と言う前提を念頭に入れつつ読む必要があります。

人物・大友宗麟

てことで、鍋島氏による鍋島氏のための官制軍記物「九州治乱記(北肥戦誌)」の中の大友義鎮に関する記述に、楽しく突っ込み入れましょう(*´pq`)ぷぷぷ

永禄6年のこの頃、豊後の屋形・大友義鎮は国政甚だ暴悪にして、諸人が疎み嘲ること大概であった。
その上、不意に入道し、また南蛮西洋国の耶蘇教に傾倒して仏神を蔑ろにして堂塔を破却した。


大友勢に破壊された~って伝承の寺院仏閣は、九州各地にゴッソリありますが、何処までホントか不明です。
肥前でも「このあたりまで大友勢が来たっけ?」って地域で「大友に燃やされたの」って伝承になってますヽ(。_゜)ノ アレ?
少なくとも本貫地である豊後国内においては、ガチ大量破壊行為はしてません。
もちろん国衆・家臣の反発を恐れたからです・・・( ̄ko ̄)
ただし、侵攻制圧した日向では思う存分にやっちゃってた・・・らしい^^;

その根元を尋ね聞くに、義鎮は近年、専ら女色に溺れ、国中の上下を問わず、若く麗しい女を幾らともなく府内の城中に招き集め、あるときは庭上の花の下に踊りを興行し、あるときは深閨の月の前に酒宴を催し、日夜不行儀に過ぎる有様であった
大友義鎮って、実父・義鑑に疎んじられるほど病弱だったので、こんな不健康な生活連チャンするパワーあったかな~
というのが、まず素朴な疑問^^;

簾中(=正室・奈多夫人)はこのことを大いに嫉み、ある修験者を賺して金銀を与え、夫の義鎮を呪詛するよう密かに頼んだ。
これより義鎮は忽ち乱心し茫然として、ある時、府内の城中を迷い出て、更に行方も知れなくなった。

奉行を初め豊府の侍は大いに驚き、これは何とした事かと諸方を探し回ると、臼杵の丹生島の辺りにて見つけ出す。
これはどうした有様ですかと問えば、
「さればよと紅葉の影に誇らして」と答えたため、これは乱心であると思い、すぐさま丹生島の城へと入れた。


義鎮と奈多夫人の不仲は有名ですが、義鎮子女の生母は殆どが奈多夫人で、しかもハイペースで出産してます。
少なくとも義鎮がキリシタンになる前は、世評にあるほど不仲じゃなかったんじゃないでしょうか。
義鎮の女遊びが噂通りなら、庶子や隠し子がゾロゾロ出てくるはずです。

その後、義鎮は正気に返り、簾中の呪詛を伝え聞くと大いに立腹、所詮は世の中に仏神があるから呪詛もあるのだと、仏神を疎むようになった。
その後、義鎮が34歳のとき、大徳寺の長老に請い、剃髪して法名《三非斎瑞峯宗麟》と号し、家督を嫡子の義統に譲って、自らは臼杵の別邸に居住した。


そんな折、元は禅僧である如露法師・因果居士という二人の南蛮西洋国の邪宗の者が、臼杵の丹生島に現れ上下老若共に邪宗を説き聞かせる。

如露法師・因果居士って誰だろう?
義鎮はザビエルと会ってるし、府内には本物の宣教師が在任して布教してたので、こんな胡散臭い連中いないはず。
このあたりは、禁教となったキリシタンへの偏見というか、悪口も入ってますね^^;

府内六奉行の一人である《田原親賢入道紹忍》はこれに帰依して主の宗麟へも勧めると、
宗麟は元より仏神を疎んでおり、その上、賢しらからは遠く、愚には近い大将であるからすぐさまこの耶蘇教に傾き、偏に泥鳥を尊び仏神を敬わず、これより国中の神社・仏閣を悉く打ち破り、仏像・神体を一つ一つ焼き捨てる浅ましさであった


田原親賢入道紹忍・・・彼がキリシタンに帰依する事だけは絶対にない。
彼は宗麟の正室・奈多夫人の実兄にして、八幡奈多宮(はちまんなだぐう)大宮司の家柄だからです。
単に出自からだけでなく、彼のキリシタン嫌いはガチで、そういう点では奈多夫人と兄である田原は意気投合してたんです。

泥鳥って何だろうヽ(。_゜)ノ へっ?
てか宗麟の事を「賢しらからは遠く、愚には近い大将」って、ボロクソ評価,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

その間、府内の大老奉行らは大いにこれを悔み、中でも《戸次鑑連》は時々諫言したものだが宗麟は許容せず、近習・外様の輩は、大友家の滅亡は近いと眉を顰めぬ者はなかった。

戸次鑑連(べっき あきつら)、後の柳川藩立花氏の藩祖です^-^
大友義鎮に問題がなかったのか?というと暴君説が出る素地はありました。

家紋・大友 鎮西武将の憧れ~大友家紋ロゴ

前出の田原親賢入道紹忍を大友義鎮は周囲の反感を押し切り、スピード出世させてるんです。
一時期は田原が大友家中最大の所領を保持してたほど。

情実人事・依怙贔屓と、とられかねない田原の権限集中に対し、戸次鑑連は何度も諫言してたそうですが、義鎮は聞く耳持たずでした。
これには大友義鎮の性格もありますが、何よりも大友家の内部事情も複雑に絡んでるので、ここでは説明しきれません^^

名門・大友氏・・・・その最盛期当主である大友義鎮(宗麟)の治世は、同時に大友家内部の矛盾や軋轢がMAXになった時でもありました。
累代蓄積されてた不満や矛盾なので、ニントモカントモ・・・むしろ宗麟は頑張った方じゃないかな~と思います^^;
更に豊臣政権への接触タイミングなど、少なくとも大友義鎮(宗麟)は、外交センスに関しては超一級品だと自分は評価してます。

北肥戦誌に大友へのボロクソ評価が紛れ込むという事は、この時期から明らかに龍造寺が自立した勢力として歩み始めた事を意味するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【少弐再興運動・政興編】龍造寺隆信「展」の巻11

永禄6年(1563年)
4月1日、空は闇の様な曇天となり、雷電夥しく、拳大の雹が降り、人馬が数多殺された。
同月2日、九重の塔が炎上する。


天変地異があるときに人心が乱れるのか。
人心が乱れてるから、天変地異があるのか。
答えは「天」のみぞしる。

九重の塔・惜しい!現存してたら国宝^^

6月22日、隆信は少弐政興を退治する為に弟・信周・納富但馬守・福地長門守らを従い東肥前に出馬、まずは馬場鑑周の在所である三根郡の中野城を攻撃する。

三根郡の中野城って探せなかった(´・д・`)
馬場鑑周は、例の龍造寺抹殺を画策した熱血「少弐命」家臣・馬場頼周の孫です。

有馬VS龍造寺が1562年説と1563年説があるのは、元々のキッカケが大友義鎮バックアップの少弐再興にあるからです。
で、有馬と龍造寺が布陣の為に動いたのが1562年(北肥戦誌)6月で、
少弐政興討伐に絡んで龍造寺が動いたのも1563年6月と、年は違えど月が一緒でブッチャケ紛らわしい(-ω-;)ウーン
どっちかって特定するのは、難しいのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

だが、馬場家臣の手田・川波・薬王寺らが城戸を防ぎ、激しい抵抗を見せた為に、寄せ手は沢山の戦死者が出た。

合戦も半ばとなった頃、福地長門守が城中に入り鑑周と対面、和平の談合に及ぶと、鑑周は弟の馬場周鎮を人質に出して軍門に降った。
これにより、同じ郡内の少弐方である宗 尚夏、横岳頼続、防所尾張守も龍造寺家に降る。


続いて隆信は、横岳鎮貞の西島の城を攻めた。
だが、容易く落ちそうになかった為、降人となった馬場鑑周と横岳頼続を鎮貞の城の抑えとし、
6月下旬に佐嘉へ帰陣した。


少弐政興の、この後の細かい動向は判りませんが、結果だけだと一命を許され出家したそうです。
降伏したのは1565年説もあり、その8年後も龍造寺勢が少弐政興を攻撃って記録があるそうで、ハッキリしてません。

ただ、この1563年時点で少弐氏の御家再興は物理的に無理・・・という状態になります。
一門として少弐を支え続けた馬場氏が降伏、西島城の横岳鎮貞だけが頑張ってる状態では、さすがの少弐も復活の目は無い。

ちなみに西島城の横岳鎮貞は、諱に大友義鎮の「鎮」がある事から判るように、大友配下となって龍造寺への抵抗を続けます。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

少弐氏再興の動きに一区切りついたところで、龍造寺隆信は更なる布石を打ちました。

1563年、龍造寺氏の安泰の為として、龍造寺の菩提寺「龍泰寺」を建立
場所は、佐賀市赤松町2-4 ・・・そう、かつて少弐氏の居城だった与賀城跡です。
少弐氏は(また)大内氏に敗れ(また)衰退し、佐嘉郡は与賀城から、神埼郡へと拠点を移しました。
(で、龍造寺に敗れて、今日に至る)
衰退するまで居館だった与賀城がどうなってしまったのか、北肥戦誌には記載されてなくてシオレベルでは不明です。

地図で検索すると佐賀城からの近さに驚かれると思います。
かつて主君だった城跡に、あえて菩提寺を建立したのは、隆信にとって重要な事だったからでしょう。

これは政治的な意味と呪術的な意味と、両方あると思います。
戦国時代は勝ったり負けたり、降伏したり寝返ったりの繰り返しでして、相手を本当の意味で滅亡させるまでトコトンやるって、実際は少ないんです。

でも稀に「どうしてもヤラなきゃならい場合や相手がいる」のも事実です。
単に相手の一族を根絶やしにする・・・これは下の下策でして、数パターンの複合的手法を用います。

1・接収した城は廃城するか、完全リフォームで痕跡を残さない
2・敵が尊崇してた神社を取り込み、自らの鎮守にする。
3・敵の祭祀を破壊する(例:徳川家が豊国廟を破壊したパターン)
4・生き残った庶流を家臣団に取り組む(肥前千葉氏が今川(持永氏)家を家臣化したパターン)
5・直系に近い男子は出家(隆信は少弐冬尚の兄弟を殺さず、出家させてますよね^-^)

3の相手の祭祀を破壊するでは、敵の墓所に築城しちゃったヘビーな例が関東にあるそうです^^;
で、龍造寺隆信が使ってるのは、1、2、5です。

五州太守と称えられた少弐氏栄華の名残である与賀城の上に、自分の菩提寺を建てる事は「少弐氏の時代が終わった」アピールになる。
で、与賀城の北の鎮護だった与賀神社は、そのまま龍泰寺・・・すなわち龍造寺の北の鎮護にスライド。
相手の鎮守をマイ鎮守化するのは、少弐氏という存在を呪術的に封印する事にもなります。

与賀神社とは、それほど重要でした。
与賀神社は元々、肥前国一宮・川上社の下社でして、与賀郷(佐嘉郡)の崇廟として崇められてました。
更に与賀郷だけでなく、佐嘉郡全体の領民・周辺豪族・武家の尊崇を集めてまして、従って「与賀神社を支配下に治めてる者=佐嘉郡の支配者」なんです。


龍造寺隆信は与賀城跡に龍泰寺を建立することで、佐嘉郡の新たな支配者が誰であるかを示したのだ。
ちなみに佐賀藩主・鍋島氏も、与賀神社を佐賀城の鎮守、産土(うぶすな)神社として尊崇し、様々寄進してます。
つまり、鎮守宮・与賀神社を大事にすることが「支配の系譜を引き継いだ者の証」だったんです。
ね!神社・寺院・武家の支配構造&関係って、超面白いでしょ(^ -)---☆Wink

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

堀本一繁の論文では、大友氏が島津に敗れ(耳川の合戦)衰退してからが、龍造寺の戦国大名化認定としてます。

確かに、そうなんですよ・・・だって大友は、九州探題という上位権力なんですから( ̄ω ̄A;アセアセ
ただ、それだとハードル高過ぎね?って言うのが自分の正直な実感なんです^^;

じゃ、今山合戦が境目?ってなると、
龍造寺が勝ったのは局地戦のみで「大友の龍造寺包囲網」を破ったわけじゃないんで、それも何か違う(-ω-;)ウーン
てことで、結論を出すには色々悩ましく、やっぱ一次史料による検証待ちだな~と思う。

ただ「龍造寺が主家(少弐)に対して下克上した」時期は、この1563年で確定でイイんじゃない?
というのがシオ持論です。
龍造寺は佐嘉郡における、少弐氏の痕跡を消したんです。
少弐の北の鎮護だった与賀神社は、龍造寺の鎮護を担います。
これ以上はない完璧な下克上・・・あぁ隆信の手腕に惚れ惚れ (人´∀`).☆.。.:*・

逆を言うと、ここまでやったからには引き返せない。
龍造寺隆信は、キングオブ九州・大友氏肝入りの「少弐氏再興」をガチで阻んだのだ。
龍造寺の本格的台頭は、肥前戦国史を大きく変えようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【少弐再興運動・元盛編】龍造寺隆信「展」の巻10

1562年の北肥戦誌では、この後に【神代勝利公「道」の巻】で紹介した西川伊予守の裏切り工作の話に続き、
神代勝利公と龍造寺の和睦で終わる。

有馬VS龍造寺が1562年の事であれば、神代勝利公が有馬に勝利した龍造寺と和睦したのは理解できる。
龍造寺にとっても、西肥前攻略の為には神代&山内勢と戦ってるヒマはない。
ただ西肥前側の記録(白石町史・大町町史・松浦家世伝など)から類推する1563年説も捨てがたい。

とにかく大物同士の激突の年代が確定してないせいか、この前後における各方面の出来事に関する年代も、記録によってバラバラになっている。
多久文書に収められてる兵站に関する文書に至っては、年月日が全く記入してない(涙目)
佐賀市史でも1562年なのか、1563年なのか明言を避けており、おそらく年月日が明示された新たな文書でも出ない限り今後も結論は出ないだろう。




で、大友氏が少弐再興の為に担ぎ出したのが少弐冬尚の弟・政興なのだが、実は政興の下に更に弟がいた。
諱は元盛で1561年(永禄4)の時で27歳だったそうだ。

元盛で御家再興を目指したのが、少弐譜代の家臣・今泉朝覚。
朝覚の苦労バナ詳細は、北肥戦誌にあるのだがコアすぎ&長いので割愛^^;

とにかく朝覚は出家し公卿を通じて朝廷に働きかけた。
これはこれで方向性としては的外れではない。
綸言(天子の言葉)となれば、とりあえず話は聞いてもらえる( ̄ω ̄A;アセアセ
うまく同情をひけば、訪問先で「逗留&旅費」も用立ててくれ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

で、天文7年に少弐再興の綸言ゲッツ~~~
朝覚は大喜びで準備して天文9年(1540年)には、あちこちと尋ねて勅書を披露し「少弐再興」を訴えた。

・・・・方向性は合ってるんだが、朝覚は微妙にズレてた。
なぜなら、朝覚が「少弐再興の勅書」を披露した相手と言うのが、大内義隆・渋川尹繁だったからです。
,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
長年、少弐と敵対し「やっと叩き潰した少弐」の御家再興に大内義隆が動くはずもない。
朝覚は、九州の諸将を訪ね歩いたそうなのだが、何せ西国のドン・大内がピクリとも動かないのだ。
他の鎮西武将も大内義隆、右へならへで朝覚の訴えは徒労に終わる il||li _| ̄|○ il||l

ちなみに、この頃の大友は「勢場ヶ原の戦い」で大内勢に本国豊後を脅かされた事に懲りて、
大内と和睦し、表面上では北九州から手を引いてました。

家紋・大内 大内花菱

で、永禄4(1561年)に朝覚は上洛し、再び朝廷へと少弐再興を訴え出た。
この時の綸言(天子の言葉)がふるってる。
伝奏(伝言の使者)より「朝覚上人が度々訴え出たため少弐再興を九州の武家へ勅定したが、
彼の少弐という者は(室町)将軍家に対し度々弓を引き世を乱した者であるから皆が勅命に従わないのである。」

あ~~確かに少弐政資の時に調子に乗ってアレコレやらかして、室町将軍から勘気を蒙って亡命してましたわ~

強いてまたこれ(少弐)を立てんとすれば、勅裁を恨む者が現れ国家の乱れとなる。
故に天意が及ばないのである。。

つまり武家の争いに首を突っ込んで、いらぬ恨みを買いたくないってことですよね。
が、ここで終わると「公家の処世術全開」すぎて角が立ちます。

この上はせめて少弐の末葉そのまま安穏に差し置くようにと、肥前の龍造寺に綸言を下される」

朝覚は元盛の居る肥前川副庄へ下向した。
隔して龍造寺へも右の勅命が下れば隆信はこれを了承し、自ら川副の福満寺へ赴き元盛と対面、懇ろに言葉を添えそのまま元盛をこの寺へ差し置くとした。


福満寺・・・・佐賀市北川副町大字江上江上345・・・へー、北川副ね~~
って、佐賀城から1km前後しか離れてないじゃん!!( ゚д゚)ンマッ!!

さがの歴史・文化お宝帳チェックよ~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
じぇじぇじぇ!福満寺って、高倉院、亀山上皇、正親町院の勅願所だ!(゚ロ゚屮)屮 おぉっ
川上の実相寺がブイブイ権勢を誇る以前は、福満寺のお経会が隆盛で門前に出店が立つほどだったそうです。
なるほど~~昔っから尊崇受けた朝廷所縁の寺で保護されてたから、隆信も放っておいてたんだ (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
勅命を持って来た朝覚の方が、隆信より上座だったろうな。
自分が滅ぼした冬尚の実弟と対面・・懇ろって、どんな言葉をかけたんだろう・・・
元盛の事歴ってハッキリしてなくて、恐らくは兄・冬尚の龍造寺抹殺計画と無関係だったはず。

で、当時27歳だった元盛には男子が4人いて、どうも4人ともに龍造寺の保護に入ったっぽい。
というのは沖田畷の戦いで、元盛の男子4人は龍造寺配下で出陣してるからです(全員討死したけど・滝汗)

人物・龍造寺隆信

隆信は少弐の血統を絶やそうとしたわけではないんです。
龍造寺は龍造寺なりに、少弐氏を保護してました。
御家再興だけは(´・д・`)ダメ

歴史IFですが、沖田畷で龍造寺隆信が島津に勝利していれば、
龍造寺一門が鍋島家臣になったように、少弐庶流・元盛系譜が龍造寺家臣で残ったと思います。

永禄5年に元盛は高野山で密乗の法水を請けて灌頂職位を得て大納言式部卿法印に任じ、下国してのち朝誉と名を改めて福満寺に住んだ。

今泉朝覚は天正8年正月20日、齢80にして大往生を遂げ、
元盛法印は同14年4月24日、齢52にて福満寺にて遷化した。
沖田畷の戦いは天正12年・・・少弐元盛は隆信より2年長く生きた。
戦死した息子たちの菩提を弔いつつ、自分の人生に何を思ったか・・・我々には知る由もない・・・

少弐旧臣による少弐再興は潰えた。
残るは大友主導で政興による少弐再興なのだが、それは・またの話 by^-^sio


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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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