26・剛忠(龍造寺家兼)【前編:激突!大友+少弐VS大内】

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詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^



田手畷での鮮やかな勝利は、否が応にも龍造寺の武名を高めた。
西(千葉)でもなければ、東(千葉)でもない。
肥前における「第三の勢力」として、龍造寺は台頭したのだった。

実兄・大友義鑑を嫌う肥後守護職・菊池義国が、
筑後で謀反中の星野に同心し、大内義隆に[星野への加勢]を依頼したのは、享禄4(1531)年春の事だった。
菊池義国が自分で動かなかったのは、まだ肥後における己の地盤が確かではなかったからだろう。

大内義隆は、大宰府駐在の杉興連(すぎ おきかず)を援軍として派兵した。

その頃、少弐資元は肥前・多久にいたのだが、
大内派兵の報告を聞くと大友へ与力する決意をする(`・ω・´)キリッ

資元は3月14日に多久を発って上筑前に入る頃になると、
龍造寺家兼、高木右京大夫、松浦の相知・広瀬らが駆けつけ合流し3,000騎に達した。

閏4月、軍勢は筑前の岩門~三笠郡を通って上筑後・生葉(星野エリア)に着陣。

同時期に事態を重く見た大友義鑑も本国・豊後から出陣し、筑後入りをしていた。
少弐資元は大友勢の陣所で義鑑と対面、敵征伐について評定した。

大友義鑑は、まず管領・細川高国、幕府引付方・大館晴光に、ご注進~緊急報告。
(ちなみに引付方って幕府の裁判担当の奉行のことです^^b)

「星野以下の逆徒追罰」を上意として賜れるよう将軍家に(-人-)☆彡オネガイ~
訴えた結果、めでたく御教書(公式文書)を賜った。

少弐&大友は「将軍が認めたんだぉ~こっちに大義があるぉ~!」
と周辺諸国に喧伝(アピール)した上で星野を攻囲した。

ちなみに少弐と大友が(-人-)☆彡オネガイした管領・細川高国は、
同年6月8日、裏切りにあい48歳で自害してます( ̄ω ̄A;アセアセ
中央政界はゴタゴタしてますが、先に発行された「御教書」は有効なんで問題なしですな( ゚Д゚)y─┛~~

で、この後の星野氏の細かい動向が、ちと解らなくなる( ̄ω ̄A;アセアセ
何せ大友・少弐VS大内勢という大物同士の激突に記録の主眼が移っちゃうからです(困っ!
しかも星野には「大友に滅ぼされた説」と「大内に滅ぼされた説」と2パターンあるらしい( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに、どっちの説も天文年間初期のことで、今現在1531年は享禄4年で天文に改元するのは翌年。

そう・・・星野は、大友勢&少弐勢に囲まれながら、
落城してなかったんです!(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ
当代星野当主は親忠。星野氏歴代当主の中で最も知名度のある、郷土の星!(`・ω・´)キリッ

彼は、よほどの名将だったらしく、大内・少弐・大友の中で揉まれながら、なおも数年持ち堪え遂には力尽きて落城する。
(天文年間に謀反を起こしたとあるので、いったんは降伏したかもしれない)
星野親忠の最期は自害したとも、城を落ちた後は消息不明ともあり、ハッキリしていない。

大友では名族である星野氏を完全滅亡はさせず、星野一族から当主を選抜し家系を存続させている。
筑後は肥後同様に国人領主がひしめきあう土地なので、星野を潰しちゃったら後の筑後統治がやりづらくなるからだろう。

ちなみに歴代鎮西要略によると、大内義隆と大友義鑑が義絶したのは、同年8月とある。
それまだは双方、軍勢を出しつつもガチンコを避けて完全な断交はしてなかったのかも。

ここで話が複雑になるのだが、
閏5月に、龍造寺の本家・胤久が東千葉興常(大内サイド&千葉嫡流)より常日頃の覚悟を褒められているんです。
(龍造寺家文書102)

3月~4月にかけて龍造寺家兼は少弐に従軍してました。
でも龍造寺本家は大内サイドの東千葉に従属していたことになります。
龍造寺は本家と分家が別々の動きをしていました。


さて、星野が粘ったまま年越し明けて天文元年(1532)
大永4(1524)年に大内に寝返り、怒った少弐家臣・馬場にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と肥前を追い出された西千葉胤勝。

彼は大内勢で馳せ参じてたが、田手畷で少弐方が勝利すると、ちゃっかり少弐の陣営に潜り込み・・・ゲホゴホッ・・・
帰参し、元の鞘・・・晴気城に復活してたのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまでを三行でまとめる(`・ω・´)キリッ
少弐と大友が対面し、筑後星野討伐の兵を出す。
大友と大内が義絶
龍造寺は本家と分家が別々の動きをしていた。
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25・剛忠(龍造寺家兼)【後編・田手畷の戦い】

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享禄3(1530)年8月15日、大内方は野路宿に打ち出した。
交戦後すぐに大内の先陣は敗れ、少弐サイドから寝返った朝日左近(頼貫)が討たれる。
ちなみに討たれた朝日氏は、これが最後の当主で以後の朝日氏領地は大内代官が治めた。

大内第二陣と戦いの最中、鍋島勢は手勢を3つに分け、
田手畷の南方に廻って身をひそめると、大内勢に打ち掛かるチャンスを待った。

大内方の筑紫・横岳・千葉(東西両方)が一戦に勝利を得ると、さらに少弐を追い立て野路宿の西の畷(田手畷)まで来た。
これを見て鍋島勢・野田清孝の赤熊武者2-300人(100騎)が南の方より横合いに大内勢に攻撃!
大内勢
「Σ(´Д`;)?!なにあいつら?」
「何かの祭礼だったっけ?!」
「熊?━━ヽ(´ω` ;)ノ━━ッ」

赤熊武者は文字通り赤熊(ヤクの毛を染めた兜・母衣飾り)に漆黒の鬼面という異様な出で立ちだったんです。
不意を突かれて混乱した大内勢に竜造寺・馬場らが反撃!

大内勢は頼みの横岳資貞・筑紫尚門が討たれ、さらに千葉方も討死し悉く敗北、奪われた首級は800余に及んだ。
総大将の杉興運は大勢を立て直すべく、大宰府への撤退を余儀なくされる。

少弐資元は龍造寺家兼の軍功を賞し佐嘉郡川副荘千町を与えた。(*´∀`)ノ
龍造寺家兼も反撃のチャンスを作った鍋島清久を賞し、清久次男・清房に孫娘を嫁がせ、
さらに中佐嘉の本庄80町を引き出物とした。
この家兼孫娘と清久次男・清房との間に産まれたのが、鍋島直茂です

龍造寺に仕えた鍋島氏は、与えられた本庄80町を本貫地とした。
この本庄の領地が、後に佐賀藩主一門として勢威を誇る石井氏の隣だったんです。
それは鍋島氏が、龍造寺準一門として遇される最初の足掛かりとなる重要な分岐点だった。

やっぱ少弐より鍋島の方が目立って・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

直茂の祖父・鍋島清久という人物は、この「田手畷の戦い」くらいしか逸話がないが、かなり優れた武将だったと私は思います。
「歴代鎮西要略」によると「清久の人と為りは質直孝順、而して慈悲仁譲」とあります。
で、歴代鎮西志と歴代鎮西要略では鍋島清久の父が、少弐教頼の子としているんですよ( ̄ko ̄)
事実なら少弐資元と鍋島清久は従兄弟ってことに・・・まぁ事実じゃないだろうな・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

別の逸話(九州治乱記だっけ?)では、清久は家兼に自分を浪人と名乗っています。
良き主と見て龍造寺の元に馳せ参じたという。
歴史の結果として鍋島清久の選択は正しかったことになる。

さてIFになるが、大友と少弐が即効で連携した軍事行動をとれたなら、それなりに少弐は生き残ったかもしれない。
打倒大内のために少弐と同盟関係だった大友は、この時に実は身動きがとれなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
田手畷で大内勢と少弐勢が激突
鍋島の赤熊武者の活躍が切っ掛けで少弐が勝利
龍造寺は少弐から、鍋島は龍造寺から恩賞をもらい龍造寺と縁戚関係になる

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25・剛忠(龍造寺家兼)【中編・田手畷の戦い】

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すぐに田手畷に入りたいのは山々なんですが、大内義隆の少弐退治の許可が足利将軍家からすぐ降りなくって、1年待たされちゃった(´・д・`)

でもって大内が待ちの一年だった享禄2(1529)年2月15日、竜造寺隆信が誕生する(=^・ω・^=)v ブイ
「佐賀市史」
そして享禄元年に父・資元から太宰少弐を譲られたはずの少弐冬尚が、なぜか龍造寺隆信と同い年生まれ(爆
ウィキペディアの間違い・・・というより、冬尚の年齢には異説がありハッキリしてないんです。
滅びる寸前なんで記録が適当に・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

あと地味に直茂の兄・鍋島信房も生まれてます^^/
大友宗麟は龍造寺隆信より一つ年下、享禄3(1530)年生まれ。

そんな享禄3(1530年)の春に、やっと「少弐退治OK」が幕府から大内義隆の元へ届く。
4月下旬、さっそく大内義隆は筑前守護代・杉興連(スギオキカズ)に命じ、東の基肄郡、養父郡、三根郡へ討ち入る。

少弐サイドだった筑紫尚門・朝日頼貫・横岳資貞を始め東肥前の者達は悉く城を開いて大内に降伏した。
筑紫尚門は、馬場頼周ダークサイドに謀殺された筑紫満門の子(弟?)です。

横岳資貞は少弐一門で、西千葉家当主・胤勝は彼の実子です。
二人は親子で大内サイドにつきました。
ほら、西千葉の胤勝さんは、馬場頼周が裏切者o( ̄Д ̄θ★ケリッ!って追い出しちゃったから。
当時の噂の真偽は別にして、馬場が追い出したもんだから結果的に西千葉は大内サイドに走ったんです。

で、その大内に走った西千葉の胤勝から龍造寺胤久(村中宗家当主)が領地安堵を受けているんです。
享禄3(1530)年7月15日、龍造寺胤久、千葉胤勝より与賀庄千町六郷を安堵
「龍造寺家文書106」
大内勢が東肥前に討ち入った後だから、村中宗家は間接的に大内配下になったのではないでしょうか。
龍造寺家兼が少弐に裏切りを疑われたのは、村中宗家の複雑な動きが誤解を招いたのかもしれません。

東肥前の者たちが大内サイドに走ったのを知った少弐資元。
彼は「ならば討ち出て戦うべき」と軍兵を集め、
龍造寺家兼・蓮池政光・直鳥家清、他に馬場頼周・江上元種・宗秀恒・出雲頼通・姉川惟安・本告頼景・執行兼貞らと佐嘉郡・神埼郡の軍兵が参陣した。

馳せ参じた龍造寺家兼の手勢の中に鍋島勢がいたのだが、それは・またの話 by^-^sio


ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・4月下旬、大内勢が討ち入ると東肥前の諸将が大内に寝返る
・7月15日、大内に寝返った西千葉から村中宗家が領地安堵を受ける
・少弐資元も大内に対抗すべく軍勢を集め、龍造寺家兼も動員された

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25・剛忠(龍造寺家兼)【前編・田手畷の戦い】

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鍋島さまが颯爽登場する「田手畷の戦い」の発端は、例によって少弐のリベンジだった。

この戦いは鍋島さまの、いわば社交界?デヴューみたいなもので、龍造寺はもちろん石井家(直茂正室の実家)とも繋がる重要な分岐点。
そのせいか、そもそもの発端である少弐のことは、忘れられがち^^;
骨子が端折られるているか、書いてあっても少弐の事は読む人の脳内に残ってない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
てことで、シオがまた~り語りたいと思います(*´pq`)クスッ

少弐資元は永正14(1517)年に太宰少弐に任官したものの、大内のために本貫地である大宰府に戻ることは叶わず、藤津の山中に蟄居していた。
資元に従うのは宗一族庶流、氏茂のみ。

大永8(1528)年夏になると少弐は室町幕府管領・細川高国を頼み、嫡男の松法師丸を元服させ興信(のちの冬尚)と名乗らせた。
更に「太宰少弐」として「屋形」号を与え勢福寺城へ入れると、馬場と江上を息子の後見とした。

「北肥戦誌192頁」

屋形号は国主に許される尊称で、自称することは出来ず幕府の承認がいる。
大内の手前、決まった国の守護職には出来ないが、それに準ずるということなのだろう。

閏9月9日には、松法師丸は横岳資誠に三根郡代職を安堵してます。
「横岳家文書9」(但し元服した名乗りではなく、松法師丸の名で出してます。理由は不明)

以前に書いたように昔の季節感は実際の季節感とはズレてます。(中国のを参考にしたから)
で、この年に細川高国は失脚し近江に亡命しちゃうので(北肥戦誌では夏とあるけど)少弐の(-人-)☆彡オネガイはギリギリセーフな時期・・・年頭~春にかけての事になる。

息子の後事を馬場らに託した少弐資元は、上松浦へ兵を進めた。
獅子・日割の両城他、松浦党を従えると、本貫地である大宰府を取り戻すべく、西筑前へと出陣。

事態を知った大内義興 Σ(´Д`;) 、直ちに少弐退治を将軍・足利義晴に願い出るが、此度は許可が下りなかった。
(歴代鎮西要略によると6月のことらしい)
中央政界が混乱してたのもあると思うが、将軍・義晴が大内義興に良い印象が無かったのかもしれない。

足利義晴(12代目)は、大内義興が上洛した時に奉じた足利義尹を将軍に復職(10代目)させるために、
o( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと追い出された足利義澄(11代目)の子だったからです。
だから大内義興の(-人-)☆彡オネガイに、すぐOKしないで意地悪したかも^^b
(大内の力は大きいので本気で敵対する気は無いと思う)
ちなみに足利義晴は、剣豪将軍・義輝と最期の将軍・義昭のパパンです^-^

同年の8月28日に大永から享禄へ改元
同年12月20日、大内義興が54歳で卒去
22歳の大内義隆が家督を継ぎ、7か国(周防・長門・石見・豊前・筑後・備後・安芸)守護となる(=^・ω・^=)v ブイ

後年の姿からは想像出来ないほど英気溌剌だった、若き大内義隆。
彼は当主になると早速に「少弐退治」を将軍に願い出て、許可を頻りに催促する。
1年間・催促し続け、ついに享禄3(1530)年春に将軍家から許可キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

鍋島勢・赤熊武者デヴューの「田手畷の戦い」が始まろうとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・少弐資元が嫡男・松法師丸を元服させると、「太宰少弐」として「屋形」号を与え勢福寺城へ入れる
・12月20日、大内義興が54歳で卒去
・大内義隆に少弐退治の許可が下りる

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24・剛忠(龍造寺家兼)【筑後、星野氏分裂】

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大永5(1525)年、大友義鑑が田北親員を大将にして討伐軍を筑後に入れた。
筑後の国人衆が謀反を起こしたんです。

この争いの中で星野氏は一族が敵味方に分かれた。
大友サイドの星野親忠は黒木氏、上妻氏らと先陣を賜った。
激戦の結果、草野・溝口・川崎氏らは降伏し、謀反側の星野正実は豊前に逃れて大内義興を頼った。

大友氏では断続的に筑後・・・特に星野氏の謀反に手こずっていたようだ。
1518年に亡くなった大友義長は「警戒すべき一族」として、星野氏、阿蘇氏、相良氏、大友分家の田原氏を挙げている。

特に星野に関して義長は遺言で「星野九郎(重泰)の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」と書いたそうだ。
九郎の兄弟子孫とは大内義興を頼った星野正実のことかもしれない。
とはいえ実は七回葬儀伝説の星野伯耆守重泰は、系図上では実在しない人物なんです。

ひょっとして星野伯耆守重泰は、大友に反旗を翻した複数の星野一族が一人の人物として伝わったのでは?などと妄想炸裂してます(*´pq`)クスッ

さて史実の星野正実を迎え入れた大内義興は、その後、豊前田川郡位登(糸)庄を正実に与えた。
位登(糸)庄はもともと星野氏の領地であったところで、義興はゆかりの地を正実に与えたらしい。
こうして星野氏は筑後と豊前に分裂し、豊前田川郡の星野氏は「糸の星野氏」と呼ばれ、生葉郡の星野氏は「筑後の星野氏」と呼ばれた。

豊前「糸の星野氏」は大内から毛利配下となり、九州の役を生き残り小早川隆景配下となった。
だが御存知の通り、小早川家は関ヶ原の後で。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
それとも隆景亡きあとで毛利家臣になったものか、シオペディアでは辿れませんでしたil||li _| ̄|○ il||l

不安定な筑後の中で大友に積極的に近づいたのが田尻氏だった。
大友から偏諱を受け、領地の安堵を受け、家督相続では大友の許可をもらう。
それは同時に大友の筑後における支配体制が固まる時期と並行する。

享禄元年(1528)15代目当主・竜造寺家和が死亡。
少弐氏がリベンジのために再び動き出そうとする中で死んだ家和は さぞ心残りだっただろう。
大内家も義興が死に義隆が22歳で当主となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
筑後星野氏が分裂し、負けた方の星野氏は大内を頼った。
筑後田尻氏は積極的に大友配下としての地盤を固める。
龍造寺家和が死亡、大内も代替わりする。

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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