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54【エピローグ】

龍造寺宗家18代目当主・胤栄23歳。
剛忠という後見を失い宗家の舵取りは彼の肩にのしかかった。

天文15(1546)4月22日、胤栄 大内より領土を安堵される。
(佐賀のうち5000町、神埼郡西郷500町、三根郡200町、坊所300町)


天文16(1547)月日不明、胤栄 自ら出向いて大内義隆に少弐の非道を訴える。

3月27日、大内義隆 胤栄を豊前守、肥前代官とする(佐賀市史)

月日不明、大内義隆 足利義晴に言上。足利義晴「少弐討伐令」を出す。
6月、大内義隆 胤栄に少弐討伐を命ず。

これを待っていたのだ。
少弐を倒すための大義名分を。

7月、胤栄 胤信(隆信)と連絡して肥前入り、東肥前へ出陣する。
7月25日、胤栄 大内義隆より東肥前の戦功を賞される。
閏7月11日、胤栄 河上社へ寄進「国家安全」「武運長久」を祈願(河上神社文書)
同日、胤栄 河上社へ入国祝賀の書状を出す(河上神社文書)
同日、胤栄、胤信(隆信) 勢福寺城を攻撃するも少弐側抵抗する。
同日、胤栄と胤信(隆信) 杉に援軍を頼み筑紫を借りる。

少弐の一族。筑紫さん、そういえば大内に降伏して寝返ってたっけ。

8月5日 米田原の戦い。少弐側・宗本盛が討死。

10月16日、少弐冬尚 胤栄に敗れ勢福寺城を出て亡命する。(佐賀市史)

この年、初めて肥前の検地あり
北肥戦誌には「誰が」が抜けていたが、おそらく大内配下の者だろう。
亡命した少弐冬尚は肥前での利権を全て失った。

天文17(1548)3月22日、龍造寺胤栄 病没。享年25歳
胤栄未亡人が胤信(隆信)と結婚し、胤信(隆信)が宗家を継ぐこととなる。

胤栄の短い活動期間は終わった。
彼が長命していたら肥前の歴史は変わっていたかもしれない。

村人は、よく往時を懐かしみ剛忠さんの時代は~と言っていたそうだ。
剛忠の時代は終わった。
胤栄が繋ぎ胤信(隆信)が受け継ぐ新しい時代が始まる。
隆信の語りはカテゴリ龍造寺隆信編に譲りたいと思う。
やり直したりしないから安心してね^^/
それは またの話^ー^


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53【剛忠、没する】

剛忠は、「近年不運にして子孫悉く不慮の害に遭う。是に於いて善根を以って万部に満たせたし」
といい、天文7年より行わせていた法華経万部の修読が九千部あったのが、この年千部を修業し、合計一万部成就となったのを期に、
天文14年11月に城内に造らせた仮道場にて、毎日自ら焼香礼拝すると共に、
布施も長老には貨幣50貫ずつ、平僧には10貫ずつとし、大衆の為に休息所100間・饗応所30間を設け、
かねてより蓄えていた財物を悉く蔵から出し、町の辻々に高札を立てて貧民に施し、領民に貸していた金や米を悉く免除し徳政を行った。
奉行:上原江筑前守 導師:春日山高城寺の長老・登岳和尚


天文15(1546)1月18日、少弐冬尚、有馬と共に千葉胤連(西)龍造寺胤栄を攻める(千葉氏略年表)
(日付は北肥戦誌より)


3月2日、龍造寺胤栄 筑後へ入り大内義隆の書状を貰う(後藤家文書18)(歴代鎮西志)

月日不明、龍造寺胤栄 大内の加勢を得て少弐勢を破る(千葉氏略年表)
龍造寺宗家18代目当主胤栄は少弐被官であると同時に大内被官でもあった。
少弐との関係が破綻した以上、大内に助勢を仰ぐのは当然の流れであった。

この間、剛忠は何をしていたかと言うと老衰により病の床にあった。
3月10日 剛忠93歳没する
遺言
水ヶ江は円月(胤連より偏諱を受けて胤信。後の龍造寺隆信)
家門の跡目は鑑兼
剛忠の隠居地は長信
龍造寺八幡宮の籤で円月に決する(佐賀市史)


最期まで頭脳明晰だった剛忠。
一度は僧侶にとした隆信の器を見抜いていたのだろう。
隆信は器の大きさゆえに僧侶の世界へ追いやられ、再び武家の世界へ戻った。

決断した剛忠の心中は分からないが、水ヶ江龍造寺の復興を円月に託したのだと思いたい。
少弐との闘いは続くのだが それはまたの話


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52【剛忠、復活す!】

天文14(1545)2月25日、河上神社文書「龍造寺胤栄寄進状」
「国家昇平(平和で納まっている)」「武威揚名」「子孫繁栄」を祈願

龍造寺宗家18代目当主胤栄。
彼は若年のため剛忠の後見を受けていた。
剛忠のピンチは胤栄のピンチ。祈願は必死です。

3月12日、紅主水丞 少弐冬尚より小城郡7町を安堵される。
少弐冬尚は山内衆の結束を乱そうとしたのでしょうか?
紅氏だけに2度目の安堵です。

(少弐)冬尚は水ヶ江城へ馬場・神代・小田の家人を交替の番として入れる。

3月24日、剛忠 鍋島と蒲池の助力で再起、肥前へ戻る。
剛忠は龍造寺に誼ある者を集い、水ヶ江城へ向かうと、城番であった小田政光の家人らは一戦にも及ばず城を明け渡した。

その頃、頼周は冬尚を牛頭城へ移すべく、普請の為に子息・政員と共に祇園山にあった。
そこへ4月2日、千葉胤勝(或いは胤連)の軍勢が剛忠へ同心し襲い掛かる。
馬場頼周が防戦する中、千葉家臣・矢作左近将監、江原石見守(神代勝利に夢を売った人物)は水の手から城内へ忍び入り、城へと火を放った。

馬場の手下らはこれを討ち取らんとするも、城の普請をしていた者らは皆が小城郡の者らで在り、千葉勢に同心して鍬・鎌などの農具を持って城方へ敵対した為、馬場勢は防戦しきれず、裏道から自らの居城・綾部を目指した。
馬場家臣の半田平右衛門が木の枝を折って道標を作っていたのだが、頼周は黒岩という処からそれを見失い、大願寺野へ迷い出た。

その地の川上山へ逃れ入ると、ここに住まう寺家・社家の者らは「此人は以前、不義の行いを致し、社内で数多の人を討ち、血を流せし神敵である」と、頼周らに襲い掛かる。

頼周はそこも逃れ出て川へ入った頃、千葉の軍勢に追い付かれ、政員は野田家俊に討ち取られる。

頼周は社家に走り込み、土民の用意した芋釜の穴に隠れたが、加茂弾正という者から穴より引き摺り出されて討ち取られた。

剛忠は、頼周と政員の首級を北佐嘉へ向かう途上の坪上という地で検分した。

野田石見守は剛忠へ、「頼周は御一門の首を踏み付けたので、我らも彼奴等の首を水ヶ江の城門の下に埋め、出入りの者に踏ませるべし」と述べたが、

剛忠は、「それは狂人を真似る不狂人であり、左様な情けなき事は努々あるべからず」と返し、二人の首を懇ろに弔わせた。

同月、更に大内勢の助勢を得て、宗家・胤栄も村中城を取り戻した。
千葉胤連も牛頭山城に復活。
馬場政員の妻(剛忠の孫娘)は胤連へと再嫁した。


4月16日、剛忠と胤栄、神代勝利の千布城を落とす。(佐賀市史)
これぞ龍造寺の底力。
見事、肥前に佐賀に帰り咲いた。
復讐は果たしたが少弐との闘いは終わりではない。
激しい戦いが続くのだが それはまたの話。


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51【惨劇】

天文4(1545)1月23日、剛忠は一族を分散させて逃がした。

家純(隆信祖父)・家門・澄家は筑前へ落ち、河上の宿へ一泊した。
(馬場)政員は神代勝利と示し合わせ、500余騎で河上を囲み鬨を上げた。

政員は馬場頼周の嫡男。妻は剛忠の孫娘。
家門は謀られたと知り、打って出るも全員が討ち死にした。

周家(隆信の父)・家泰・頼純は24日、冬尚への申し開きの為にと祇園原に至った時、頼周の伏せ勢により討ち取られた。

頼周は計略により容易く討ち取れた事に喜悦し、6人の首級を踏み付けるという不敬を行う。

剛忠は筑後国・柳川の蒲池家を頼っていた。
その地で一族が討たれたと聞き、悲嘆に暮れ憤激すると、「100ヶ日を過ぎぬうちに頼周の首を見なければ、この老命を縮めて再び本国には帰れない」と三日間断食した。


2月10日、少弐冬尚 紅主馬丞に小城8町を安堵する
紅主馬丞は神代勝利率いる山内衆の中でも大きな勢力です。
少弐は山内衆を手なずけようとしたのでしょう。

2月25日、千葉胤頼(東)、晴気城を接収。
2月27日、馬場頼周・江上元種・千葉胤頼が千葉胤連(西)を攻撃。
千葉胤連は白石郷へ亡命。


馬場ウキウキの後処理
馬場頼周が勢福寺城を守る。
牛頭山城は少弐冬尚の居城として改修開始(奉行は馬場頼周)


神埼郡から佐賀郡に拠点を移した少弐冬尚だが、佐賀の人心は少弐から離れていった。
龍造寺を追い出す様があまりにも残虐だったことと、
国境や海岸を脅かす有馬と手を組んだことで、
佐賀の民草は少弐ひいては馬場に懐かなかったのだが それはまたの話^ー^


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50【剛忠、水ヶ江城を明け渡す!】

天文14年(1545年)1月初旬、有馬勢は龍造寺一族・鶴田越前守の獅子城を攻めて、7日に攻め落とし、すぐさま城警固の為に馬渡主殿助俊信を入れ置いた。
鶴田の兵は12日に急ぎ俊信と戦う。
俊信は手の者を下知して防戦し、鶴田勢を悉く坂下に追い落とした。
打ち負けた鶴田勢はその夜、城の後ろの方へ廻り険阻な場所を登って、密かに城中へ近付くと鯨波を上げて夜討ちを仕掛ける。
馬渡勢は利を失い、俊信主従60余人が討ち死にした。
鶴田は居城を取り返した。


1月、多久氏少弐側で従軍、地侍・田中信家が羽佐間で討死(多久市史)
多久さん有馬に城を追い出されて、少弐側に戻ったんですね。

1月11日、少弐冬尚 光浄寺領安堵と禁制を出す(佐賀県史・佐賀4市史)
少弐冬尚は着々と力を付けていったようです。
元は龍造寺の働きのお陰だというのに。

1月16日、龍造寺右京亮胤直 有馬勢と藤津で交戦し討死。
1月18日、龍造寺胤明・於保備前守胤宗・副島一族 杵島郡志久峠にて、須古平井・佐留志・前田に敗れて討死

1月18日、追い縋る敵と戦いながらようやく佐嘉へ戻った。
隔して、有馬・松浦勢に加えて少弐19勢は水ヶ江城を囲んだ。
その勢およそ2~3万と見えた。

多勢に無勢。
剛忠は有馬はともかく、なぜ主君である少弐が水ヶ江城を囲むのが理解できなかったろう。


馬場肥前守頼周は、剛忠の一門を処々にて大半を討ち取り、その上、城を取り囲んだことで心中では大いに喜びながらも、外面は眉を潜めて水ヶ江城へ現れると、剛忠入道に対面、小声にて述べる。

「此度の西肥前退治は有馬討伐の為に非ず。龍造寺が大内に通じて居ると讒言する者ありて、冬尚公御立腹され貴家を絶やさんとしておるのです。ここは冬尚公へ参じられ咎なき由を申し開かれれば、この頼周も御辺に対し悪し様には申しますまい」と述べた。

龍造寺家中では、「なまじ下城されて憂き目に遭うよりは、当城に残るべきです」としたが、
剛忠は「野心の名を得て死するは弓取りの本意に非ず」と、

1月22日、剛忠 水ヶ江城を明け渡す。
惨劇の幕が上がったのだが それはまたの話^ー^


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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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