【相良義陽83_鳴呼・響野原、後篇 】

相良義陽が響野原で討死したのは、通説によると「(相互不可侵盟約を破った事に悩んで)甲斐宗運との友情からだ」と云う「センチメンタル説」になっている。
それに管理人は「島津の下風になるのが何としてもイヤ」だった「武士の意地説」を付加した。
(自分の死後、嫡男・次男は人質として島津の庇護下にあれば、相良で内乱あっても逆に安全)

だが、それらの全てが表向きの理由で、義陽が世間から「そう思われる」ように仕向けたものだ、としたらどうだろう?
義陽の死に様は「甲斐宗運に討たれる」ものでなければならなかったのだ。

甲斐氏の史書『響之原合戦覚書』によると、
「義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つ」
という密約があったとされる。

自分推理は上記史料が前提~ちなみに相良側資料は『南藤蔓綿録』。

人物・相良義陽
(今日が見納め?相良義陽画像~)

この戦いで島津は相良の後詰として出陣するはずだったそうだ。
ところが上記密約を連歌師が察知し、島津に「陰謀あり」と知らせたために出陣を取りやめたそうだ。


過去に3度も裏切った相良の降伏を島津は疑い、嫡男、次男を人質にとった。
そんな島津を誘き出すために義陽自らが囮となったのに、島津は出陣をとりやめたのだ。

島津は見ている・・・壁 |・ ̄)じー・・・相良の降伏が本心なのかどうかを・・・!

義陽が戦から無事に生還したら、島津は「相良は本気で戦わず、甲斐と慣れあったのでは?」と疑念を抱くだろう。
自害切腹・・・周囲の家臣が全力で止めるだろうから実行が難しいし、タイミングが変だと島津が疑ったままになるかも~
島津の疑念を解くには
「甲斐と阿蘇に対し明確な敵対行為をする」
「義陽自身が甲斐との戦で討たれる」この二つを実行するしかない

義陽は甲斐との密約を糊塗するため、自分の行動が不自然に見えないように、「島津の求めに渋って、悩んでいる」アピール。
「律儀に甲斐との盟約書を燃やす」(これは演技というより、この時代の神仏への懼れからだろう)
「神社に自分の死を祈願」(こっちは本心だから神仏にウソついたことにはならない)
「女の幻 見たぉ( ̄  ̄)トオイメ。。 」鬱欝アピール

義陽が「深い懊悩の果てに甲斐軍に討たれて死んだ」となれば、もはや島津は相良への疑念は忘れるだろう。
島津にとっては、義陽の死後に相良家中が分裂し南肥後がカオスになる方が困るから、義陽への疑いを掘り返す事はしないはずだ。

甲斐との盟約破綻の敵対行為。
別部隊の東左京進の勢1000が、阿蘇氏の支城・堅志田城下を焼き、出てきた堅志田城兵を退けた。
堅志田城兵側に被害が出る。
その後、別部隊の東左京進と義陽は響野原で合流した。


天正9(1581)年12月2日

響野原は濃霧に包まれ、四方から甲斐勢500が攻撃、元々守りに向かない地の上に濃霧だったので相良勢は壊滅。
義陽は退却を勧める家臣の言を無視して、床机に座ったまま敵兵に斬り殺された。享年38歳。
それを知った東左京進も、敵に突撃し討死する。


島津を誘い出せなければ、自分のことは敵として遠慮なく討ってくれ、その代わり密約の事はワシが墓の中へ持って行く!・・・
義陽は予め、そう甲斐に頼んいでたのでは無いだろうか。

義陽を斬り倒した甲斐兵は、義陽の首を取るのが忍びず、別の者が首を落としたそうだ。

密約を知っていたか、或いは察していた者だったのだろうか・・・

義陽の首を見た宗運はかつての盟友の死に落涙した・・と言われる。
主家のためなら子供を犠牲にする情の強い男が、阿蘇と自分を裏切った男の首を見て落涙したのだ。
しかも相良家は阿蘇氏に対し明確な敵対行為をしている。

常の甲斐宗運なら義陽の裏切りに怒りこそすれ、泣くほど嘆くだろうか?
それは「戦死」という死に様を選んだ義陽の心情を、事前に知っていたからではないか。

宗運は「これで島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった。阿蘇家も後数年の命脈であろう」と述べたとされる。
甲斐宗運は「相良家が島津に降伏した時」ではなく「義陽が死んだ時」をもって「島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった」と発言しているんです。
相良の島津降伏後も「宗運と義陽の盟約」は生きていて、両者の密約を裏付けることにならないだろうか。

義陽の首級は宗運の首実験の後、相良家臣・東駄左衛門(豊福城代)が返還を要求して返されたとも、
義陽が討ち死にした場所の近くにあった大石の上に置かれて返されたとも記述されています。





みなさま管理人提供の「相良義陽像」は御堪能いただけたでしょうか?
これは自分が集めた資料や、監修様所持の貴重な文献から情報提供頂いた資料を元に、管理人が構築した「語り」ですので、その辺はお含みおきください^-^

義陽は死んだが相良の歴史が終わったわけじゃない!大変なのはこれからだ~~~~~~
豊後侵攻、九州の役、朝鮮の役、関ヶ原大垣城、もはや代替わりの通例?内乱に祟りがフルコンポ!
御家騒動は期待?裏切らない~石田三成・加藤清正を巻き込む大騒ぎ!
生き残れ相良! それは・またの話 by^-^sio
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【相良義陽83_鳴呼・響野原、前篇 】

甲斐氏の史書『響之原合戦覚書』によると、
「義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つ」
という密約があったとされる。
上記の資料を典拠に話を進めていることを、予めご了承下さいm(_ _)m相良側資料は『南藤蔓綿録』です。



天正9年(1581)12月2日(1日という説有り)・寅の刻(午前4時)、まず義陽の旗本衆800が八代から出陣。
義陽は白木妙見社で宗運と交わした相互不可侵の誓紙を焼き捨てさせ、自身の討死にを神前に願った、とされている。

その白木妙見社に詣でた際、義陽は18、19歳くらいの女性が、機織の巻棒を脇に抱えながら血を吐く幻を見たという。
それだけではない。
妙見社から立つ際に、旗幟が木に巻きつき取れなくなってしまった。
家臣・東左京との合流の刻限が迫っていた為、義陽は旗幟を引きちぎって先を急ごうとした。

出陣前に続く妖しい出来事に家臣らは「こたびの出兵は不吉である」と述べたのだが、
義陽は最初から討死にを望んでいるため、「佳運神慮に通じて念願疑いなし」と進軍を命じた。

*************************************************************************************

・・・・(T^T)義陽の懊悩が、いかばかりのもだったか察するに余りある逸話だ。
宗運との友情破綻・・・なんて相良家存亡の一大事に比べれば、些末な事だ。
島津家に降伏した瞬間から、義陽の短い晩年の苦悩が始まった。


皆さん・・・考えてみてください。そして想像して下さい。


嫡男と次男が人質となっている以上、義陽は島津の要求する軍役を拒否できない。
(※島津が相良に人質返還したというウィキペディアの記述は、相良側資料に無いものです)

今は甲斐宗運との戦いだが、その先には甲斐の主家・阿蘇氏、肥前の龍造寺、さらに豊後の大友との戦いが待っている。
島津の膨張スピードだと、それらの勢力と否応なく激突するのは、戦国時代なら幼子でも理解できることだ。

もし島津から「先陣の功績を寿ぐ」として「領地を拝領または安堵」したら、その瞬間に相良家は島津家の家臣となるのを承知したことになるんです
相良家が独立した戦国大名としての矜持を保ちたいのなら、島津から一石たりとも恩賞を貰う事は出来ない。
島津が相良を潰したいと思えば、戦のたびに先陣を命じればいい。
自腹を切って戦い続ければ相良家はボロボロ・・・それまで蓄えた財産も底を付く。
島津の先陣を務める限り、相良家臣が手柄を立てても義陽が手にする領地は無いのだ。

義陽自身の蔵入地を削って与えるのにも限界があるので、いずれ家臣に恩賞(領地)を与える事が出来なくなってしまう。
ていうより、そうなる・・・って気配を感じた時点で、相良家臣団はバラバラになるだろう。
忠義にも限界がある・・・無休・無給で奉仕するような一途家臣は特殊例なんです。

島津に降伏した相良家には2つの道しかない。
1)島津の先陣を恭しく務め、なし崩しの家臣コース
2)艱難辛苦も七難八苦もバッチコーイ!あくまでも独立した戦国大名として踏ん張るぜ
義陽は最初、2のつもりでいたと思う。

いつもの如く?適当なとこで島津を裏切り、割譲した葦北を取り戻す未来予想図(* ̄・ ̄*)Vブイ
ところが「常習・相良裏切り」を警戒した島津義久に、嫡男・次男を人質にとられた~><;アウチ☆

島津のために、せっせと働くなんてヤッテらんない~~~
でも人質・・・あぅ~~_| ̄|○ il||li がくぅ

毎夜このループが脳内を駆け巡り、人知れず臥所の中でのた打ち回った結果、
思いついたのが前回記事にした甲斐宗運との密約なのではないか。

*************************************************************************************

義陽は不吉な出来事に忠言した家臣を退けて進軍を続け、響野原に布陣した。
それに対し家臣は「娑婆峰に布陣すべき」と具申する。
だが義陽は「まことに不用心であるな。だが可能な限り御船城近くに布陣したい」と述べて布陣を慣行した。

一方、別部隊の東左京進の勢1000は堅志田城下を焼き、出てきた堅志田城兵を退けた後、義陽の布陣する響野原へ合流。
陣中見舞いとして、宇土城にいた鎌田政年(島津家臣)と、豊福城代の東駄左衛門(相良家臣)から酒食が届いたので義陽はそれを皆に分けさせたそうです。


義陽の布陣を斥候の報告で聞いた宗運は
「それは義陽の陣とは思えぬ、彼ならば姿婆神から鬼沙川を渡らず糸石あたりに陣を布くはず」と云ったそうだ。


宗運と義陽の間に「島津義久を誘きだせたら鬼沙川の手前に布陣」「ダメだったら、そこ以外の場所」という符牒が出来てたんじゃなかろーか、と推測^^b

さらに大胆に推測すると「義陽は島津を誘き出せなければ自分を討って欲しい」と甲斐に依頼してたんじゃないだろうか?
だってね、どんなに屁理屈を並べても死ぬために出陣なんて、一族家臣郎党を率いる戦国大名の当主としては余りにも無責任でしょ。

前回述べたように、義陽の死後は島津義久が嫡男・忠房を庇護するだろう、という予測は容易です。
なぜなら島津にとっては、若年当主の後見人であることを理由に、相良家を薬籠中に入れ家臣化するチャンスだからです。

どうしても義陽自身が島津義久の風下に立つのがイヤなら、隠居するという武家社会にはナイスな処世術がある。
38歳隠居はチト若すぎだが「恭順のア・カ・シヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪」って白ばっくればいい。

ホントに再起を図りたいなら、トットと戦線離脱すりゃいいのに「いいの、此処で死ぬの*人 ̄▽)♪」と動きゃしない。
失敗した時は「死ぬ」の一択しか無いのは、やはり義陽の性格で、
島津に降伏した時に心の何かが折れたんじゃないだろうか( ̄  ̄)トオイメ。。 

若年で当主になり、間もなく後見の祖父が死に、哀しみが癒える間もなく叔父が謀反起こした。
さらに二十歳になる前に相良家最大の内乱「獺野原(うそのばる)の戦い」に対処しなければならない。

内乱の危険を常に孕む相良家中に、義陽は神経をすり減らし気を使い続ける余り、
いつの間にか我侭を言わない言えない、江戸期の殿様みたいになったんじゃないだろうか。

隠居もしない、生きながらえることもしない、自分の死に方と死に場所だけは誰にも遠慮したくない自分が決める。
響野原で甲斐軍に討たれて死ぬのは、周囲に気を使い続けた義陽が生まれて初めて、そして最期の我侭だったのだろう。
あぁ・・・こういうのって、やっぱ切ない。゜゜(´□`。)°゜。
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【相良義陽82_密約 】

義陽が死を覚悟して出陣したのは間違いないだろう。
だが、その動機が甲斐宗運との友情・盟約を破ったことに対する呵責から・・・
という俗説が、どうにも腑に落ちない~(* ̄* ̄*)

「うちのことは3度も裏切ってるくせに、甲斐宗運だと1度の裏切りで死ぬほど思いつめるなんて失礼すぎ」byシーマンズ一同

戦国大名の当主とは、そんな甘ったれたセンチメンタルボーイでは務まらないはずだ。
結局は相良義陽という人物を理解するために、阿蘇家・甲斐家の歴史込みで永正年間まで遡り調べた管理人考察↓

相良義陽が死を決意したのは、甲斐との友情ではなく、相良家が生き残るためのはずだ
エエエエ~数え10歳の嫡男・忠房を残して死ぬなんて変~と思う方、まず話を聞いて下され(* ̄∇ ̄*)

『響之原合戦覚書』によると、
「義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つ」
という密約があったとされる。

その説を採択する。

そして義陽は「自分が出陣しているが、ガチ本気で攻撃してくれ」と宗運に伝えているはずだ。
もっとも宗運は「主君・阿蘇氏のためなら息子を殺す男」だ、義陽の申し出が無くても戦になれば遠慮しなさそうだ( ̄ー ̄A 汗フキフキ

義陽の章で繰り返しているが、相良は3度も島津を裏切っている。
島津を誘き寄せるには、相良の裏切りを警戒する島津を油断させる必要があり、そのために義陽は自らを囮としたのではないだろうか?
なぜなら相良義陽は「最前線に出たことの無い大将」で「響野原の戦い」が「唯一の特例」なんです

真に誘い出したいのは島津当主・義久ただ一人<( ̄^ ̄)/ビシ★
次男や従兄弟なんぞ雑魚!義久が来なければ密約は失敗~義陽は戦場で死ぬ覚悟だった。

裏切るなら必ず島津義久の首をとらねばならない。
なぜなら仕損じれば(義久が来なければ)人質として差し出された嫡男・忠房と次男・頼房が、報復として殺されかねないからだ。

ウィキペディアでは、島津が相良へ人質を返した、とあるのだが実は相良側にそのような記録が無い。
でもって島津側も知名度ある資料には、そのような記述がなく、よほどコアな資料が出典か間違いの可能性が高い。
で、人質の嫡男と次男を預かっているのが、分家筆頭・島津義虎の出水城だ。

相良も御家騒動が多いが、島津も家督・宗家の座を狙って一族内が血のシャワー^^;
なまじ守護職の家柄なだけに、島津の内紛は常に周囲を巻き込む大騒ぎになる。

その島津を一つにする土台を作ったのが、伊作島津の忠良と息子で15代目の貴久だ。
貴久の息子たち・・・島津4兄弟という素晴らしい推進力を得て、島津は三州統一⇒九州統一への歩みを始めている。

その分家・家臣の全てを束ねる「扇の要が島津義久」で、その義久を失えば島津家は必ず内紛になる。
なぜなら島津義久には未だ嫡男がおらず、娘が3人しかいないからです。
「島津は、ちょいとツツけば、即揉める家だぎゃぁ」by某太閤

義久の娘のうち長女・御平は出水薩州家・島津義虎に嫁ぎ、
次女・新城は又従兄弟の島津彰久(後の垂水島津家の祖)と結婚。
末娘・亀寿は、まだ数え10歳で未婚。

亀寿に婿養子をとらせるとすれば婿候補で揉めるし、分家の誰かが「どれワシが」と出張れば揉める。
で、出張りそうな分家が(過去の経緯から)島津義虎の薩州家だ。

義陽は島津に内紛が起きれば、薩州家に交渉し息子たちを取り戻すのは可能・・と判断したことだろう。

若年では戦国大名の当主は務まらない。
必ず強力な後見人が必要で、それは義陽自身が一番、身に染みている。

自分の死後、まだ10歳の忠房が残れば相良家にも内紛が起きるだろう。
だが島津という傘の中にいれば心配はいらない。

島津義久は必ず忠房の味方になる。
それは義陽が島津の為に前線で死ぬから・・・という感傷的な理由ではない。
IF:義陽亡きあと相良に内紛が起きれば、島津義久は年少の当主後見人として介入することが出来る。
内紛に裁断を下し「公儀権行使」の既成事実をもって、相良家を島津家臣に組み入れるチャンスだからです。

戦国時代・父や兄が戦死し若年で当主になる例はゴマンとある。
「一族の当主」であれば若年では揉めるが「家臣の家の当主」となれば話は別だ。

島津義久の袖の中で家臣として庇護を受ければ、相良の当主は若年でも不都合はない。
「うちの嫡男は美少年の愛されキャラなんです」by義陽

つまり義陽の戦死の覚悟は、相良家が島津家臣にならざるを得なかった場合の布石。
また直参から陪臣になるなんて真っ平御免~という相良家臣は必ずいる。

介入したい島津と、介入されたくない相良家との間で、綱引き・駆け引きがあるだろうが、
そこまでは義陽の関知するところではないし、それで相良家が独立した勢力として残れればラッキー。
いずれにせよ武家としての相良の家名は残すことができるだろう。

一度降伏し領地を割譲した以上、もはや島津とは対等の外交関係は望めないのだ。
礼節を重んじる島津義久は、義陽を決して粗略にはしないだろう。

だが近い将来、甲斐宗運や阿蘇が討たれた時「イザ首実検」になれば、中心として床几に座るのは義陽ではなく島津義久。
下手をすれば前線の総大将は義久ですらなく,無位無官の島津家臣の脇に[従4位下修理大夫]の義陽が控えねばならないのだ。
そんな滑稽さに耐え忍んで生きるには,義陽はプライドが高すぎたかもしれない。

甲斐との密約が不発に終わっても、義陽が戦死すれば今度こそ島津は「相良の誠意」を疑わないだろう。
義陽の中の小さな慰めは戦死すれば「島津義久の下座に伺候する相良当主」が「自分では無い」ということ。
さらに「そのような嫡男の姿を見ずに済みそうだ」ということだ。

天正9(1581)年12月・・・義陽は島津からの再三の求めに応じ、甲斐家との戦に出陣するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽81_不和の芽 】

これは欠点と言うのは酷かもしれない・・・
以前に、義陽のマイ年表から感じるのは「孤独」「文治派タイプ」と記したのだが、
もう一つ、義陽には致命的に欠けているものがある・・・

それは野心、ギラギラした動物的な本能だ。

相良義陽は、領土欲が欠落しているか、その欲望が薄い。
VS島津でも、せっかく裏切り、せっかく伊東と手を組んだのに、何か煮え切らない歯切れの悪さを感じる。
これはやはり義陽の気性もあるんじゃなかろうか・・・と愚考してみた^^

相良家の全盛期の基盤は、16代義滋(義陽の義祖父)と上村頼興(実祖父)が築いた。
義陽は名君の誉れ高い17代晴広(16代の養子で上村頼興長男)が、30過ぎてから儲けた子供だ。
そのため「(16代から数えて)典型的な3代目」である義陽は、創業の苦労を肌身で感じたことが無い。

確かに父の病死で若年で当主になったプレッシャーは、余人には計り知れないものがある。
だが反面、物心つくころ既に相良家は「芦北・八代・球磨」3群を領する南肥後の支配者だった。
さらに天草諸島も影響下にあり、明との交易で財政は豊か、軍資金調達の苦労を感じたことが果たしてあったかどうか・・・
そんなバブル坊ちゃんだった義陽が、ホントにマジで超崖っぷちな岐路にブチ当たったのが「島津への降伏」だった。

義陽は本気で島津に恭順する気は無かったと思う。
「従四位下」「修理大夫」の官位を拝領した義陽が、島津義久に膝を屈するのは耐えられないだろう。
(島津義久も修理大夫だったが、さらに天正9(1581)年に義陽と同格の「従四位下」になっている)

和睦だ和議じゃと言葉を綺麗に飾ったところで、中身は屈辱的な降伏。
これからは島津の要求する軍役に応じなければならない身で(嫡男・次男が人質では従わざるを得ない)
このまま島津が膨張を続けて行けば、いずれ相良家は島津家臣団の中に組み入れられてしまう。
相良家が本当の意味で「独立した勢力」として残るために島津を倒し、往時の勢威を取り戻すためには、奪われた芦北と天草(の一部、長島)を取り戻さなくてはならないのだ。


義陽は「名君ダディ」や「汚れ仕事お任せ有能ダーク祖父」や「土台を作った義祖父であり舅(正室は義祖父の末娘)」に対し、コンプレックスがあったと思う。
彼らの名跡を汚す(領地を失う)ことを、何よりも恐れていたんじゃないだろうか(耳タコで活躍を聞かされてたはず)
自分の代で、偉大な祖父・父が作り上げた相良家の領地を寸土も減らすわけにはいかない。

義陽が国人だったら・・・なりふり構わず自分が生き残ることを優先するだろうに・・・


人物・相良義陽
(幸麿さま作成:相良義陽画像)

義陽は個性が強い肥後もっこすを束ねるには、優しすぎたのかもしれない。

水俣城が落ちる前年の天正8(1580)年に、VS島津の城である朴河内(ほうこうち)城が落城している。
朴河内城は、その前年・天正7(1579)年にも島津から攻撃を受け、驚いた城主の東頼兼・頼一親子は城も兵も家族まで置き捨て遁走していた。

天正7年遁走~天正8年落城という連続失態に、東頼兼・頼一親子は恥じて山中に謹慎していた。
義陽は東親子を呼び寄せ謹慎を解くだけでなく、岡本地頭に抜擢している。

この人事に相良家の複雑さが如実に出ている。

土台を作った16代義滋とコンビネーションだった上村頼興。
特に上村頼興は、16代と17代の治世を盤石なものにするため、次々と邪魔者を排除した。
その中には上村頼興の実弟すら入っていたほどだ。

で、その邪魔者リストの中に東頼兼の父・岡本頼春がいたんです。
岡本頼春は上村頼興の従兄弟で義兄にあたり、まさに一族内で血煙状態 ( ̄ー ̄A 汗フキフキ
謀殺された岡本頼春は暗殺の際に「上村家の断絶を予言」して死んだが、息子の東頼兼は当時15歳という若さだったので難を免れた。

言霊が力を持つと信じられた時代、岡本の今わの際の科白は立派な呪詛。
祟りを恐れた・・・ばかりでなく将来の禍根を取り除くために、東頼兼は成人後に朴河内城主に配置されたんです。

相良家「VS島津の要衝地に置くんだからネ、信用してるって証だよヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪」
てことで、そもそも武将としての能力を基準に選定されたものじゃ無さそう( ̄ー ̄A 汗フキフキ

上村頼興の強引な手段は、肥後もっこすを束ねるには、止むを得ないものなのだが、やはり禍根は残った。
義陽は「VS島津」という大事にあたらねばならないのに、謀反されないように配慮した人事をしなければならなかった。

相良家の外交が中途半端なのは、家臣の謀反を恐れた側面も大きい。
何せ水俣城で活躍した犬童頼安ですら、過去に「謀反⇒出奔⇒帰参」の黒歴史があるのだ。
このあたり謀反ラッシュな大友家と規模は違うが似ている。

だが祖父・上村頼興なら、不和の種になりそうな者は、サクっと排除したんじゃないだろうか。
活かして優遇する義陽のやり方は、犬童のような有能であれば相良の益となるが、東頼兼のような若干アレであれば相良家の足を引っ張ってしまう。

このあたりの匙加減は難しい・・・正解など無いかもしれない。
ただ「生き残った歴史」だけを評価するなら、義陽流も必要な流れと言えるかもしれない。

岡本は謀殺された岡本頼春の領地だった。
失態は咎められず、亡き父の旧領に地頭として復活したのだ、東頼兼・頼一親子に不満などあろうはずがない。
島津を倒す・・・という目的のためには、家臣に謀反なぞ起こされては困る。

「大事の前の小事」・・・義陽は不和の芽を静かに摘んだ・・・それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽80_降伏・後編 】

この天正9(1581)年は龍造寺が筑後柳川の蒲池氏を滅ぼした年(5月のこと)
結果、筑後が不穏な情勢になり隆信は神経質になっていただろう。

あぁ・・・父・晴広や祖父・上村頼興なら筑後で何かあれば、即座に動いただろうに・・・
創業の苦労を知らない義陽には、筑後の変事は常に北肥後を脅かす事に気づかなかった。
てか誰も進言しなかったんか(--;)

龍造寺家文書によると、阿蘇筆頭家老・甲斐宗運は天正9年3月17日に一族連盟で起請文を出している。
北肥戦誌には柳川の蒲池を滅ぼした後の6月、起請文あるいは人質を出した者として甲斐宗運(と一族)を挙げている。
これは龍造寺隆信の嫡男・久信(政家)が柳川に入る前だったと記している。

相良義陽は・・・・・・・・・・ドンケツ・・・一番最後の9月8日(; ̄ー ̄)
もちろん9月になってから起請文出してるのは相良だけだil||li _| ̄|○ il||l

龍造寺家文書によると相良義陽は起請文の中で
水俣の事、難儀候の事と記している。
御疑心に対し(中略)別心は毛頭無い
隆信が相良が本気かどうか疑っていたのだろう。
いち早く行動した阿蘇家老の甲斐と自分のケツに火がついてから起請文を出した相良とでは、龍造寺の心象が良かろうはずがない。

さらに義陽は起請文で最後の日付と隆信の位置を同じにした。
・・・この期に及んで対等な立場でいようとした。
相良に滅んでもらっては政治上宜しくはないのだが、安定してない筑後の人心を安定させる方が先だ。
だが阿蘇、甲斐の要請を無碍にしては北肥後国衆の信を失う。
だから阿蘇の御船までは援軍を出した。

義陽は嫌が応にも外交に失敗したのを悟っただろう。
島津との和睦を決意した。
和睦といっても実質は相良の降伏で、主導権は全て島津にある。
そして島津側の条件は義陽が提示したものよりも厳しかった。

当然だろう。
過去の経緯から「相良の裏切り」を誰よりも警戒しているのが島津義久だ。
二度と抵抗できないように、ガッツリ締め上げる必要がある。

相良「人質として家臣を・・・」
島津「人質は嫡子と次男!」

相良「領地の割譲は芦北の水俣・津奈木・佐敷・湯浦の四ヶ所で・・」
島津「芦北の七ケ所!」

島津家臣一同の起請文(O ̄・ ̄)ノ~~~□□□100通以上
相良Σ( ̄0 ̄ノ)ノヒィィ~プレッシャーキタ~

島津家では「過去の轍は踏むまい」と、厳しい要求を出し相良を雁字搦めにした。
そして遂に島津から阿蘇征伐の動員命令が義陽に下るのだが それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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