【竹林へおいでよ♪】関ヶ原/大垣城6栞54

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メイン出典元「南藤蔓綿録」^^/


家康より西尾光教・水野勝成・中村一栄らの勢が差遣され大垣城を攻囲。

相良頼房は義兄弟である秋月・高橋と密談。

それを奉じて犬童頼兄(相良家老)が、三の丸の垣見らの陣屋へ出向いて口上を伝えた。
犬童「三の丸(大垣城)の外回りに竹林があるが、これが寄せ手の強みとなり、宮方(味方?)の弱みとなっている為、これを切り払って平地にしたく存ずる。
まずは御自身で御覧になられ、その上で如何に普請すべきかを仰っていただきたい。
多人数では寄せ手に目立ちますから御手周りに一両人ずつ召し連れられるのが良いでしょう。
二の丸よりは三人の名代として拙者が出向きます」

すると、「ならば、明日の良き時分に御主が我らに注進せよ」と三名(垣見・熊谷・木村)が応じます。

(※ちなみに「南藤蔓綿録」には、筧和泉守となっているのですが、これは垣見家純のことなので補正してます)

1600年(慶長5)9月18日、犬童頼兄は十名程を引き連れて三の丸へ行くと数人を留め置いた。

そして手廻り一両人を連れ垣見の元へ行くと、豊永五助という者に竿を担がせて垣見を呼びに行かせます。

すると垣見が鎧を着ようとした為、五助が「左様に物々しくされるとは笑止千万。何の恐ろしきが御座いましょう」

と述べると垣見はそのまま外へ出て、熊谷・木村も垣見が呼び寄せます。

約束通り垣見らは手廻りの一人に槍を持たせたのみで現れた。

企みと知らぬ垣見らは、竹林の所で竿を渡して普請の話合いをしている。

頃合を見て、留め置いていた者が静かに現れ、側にいた犬童頼兄が目配せて声を掛けると抜刀!

三名に切り掛かります。

異変に気付いた垣見ら三名も抜刀しますが、垣見・熊谷・木村、その子・伝蔵はその場で討ち取られました。



(馳ぽん提供~大垣城画像~)

「城を枕に討死します(`・ω・´)キリッ」と決意を家臣に認めた垣見家純・・・

そんな彼の最期は騙し討ちによる死・・・せめて甲冑を身に着けていたら、まだしも抵抗のしようがあったかもしれない。

なんともやりきれない話だが、グズグズしてたら相良・秋月・高橋が「西軍加担の罪」で処断されてしまいます。

西軍・東軍どちらも「大義名分=豊臣家のため」なのだから、とっとと勝ち馬に乗り換えなきゃです。

彼らは豊臣秀吉から領地安堵を受けたのであって、石田三成に義理立てしなければならない理由は無いんです。

犬童頼兄は寄せ手の水野の陣へ参じて、四名を討ち取った事、本丸の福原も自分達で攻め落とすと伝えます


ところが大垣城の本丸は四方が水堀で大手門にしか橋がなく、二の丸を眼下に置く縄張りであった。

そのため高櫓からの鉄砲攻撃に苦しみ、更に、材木で作った仕寄(いわゆる塹壕)に鉄砲避けの竹束を付けた場所へ火矢が射掛けられる。

仕寄の消火作業に追われ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ している処へ、鉄砲が討ち掛けられる (゚ロ゚屮)屮ぅをっ!

てな感じで苦戦しまして( ̄ω ̄A;アセアセ

寝返りMEN'Zの攻撃では、結局落とせませんでした。

が、水野が本丸へ使僧を遣わし、23日に福原が本丸を明け渡した事で合戦が終了したんです。




そもそも水野が大垣城攻撃((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~ としたのは、亡き父を殺した加賀井重望(かがのい しげもち)。

・・・の息子が大垣城に西軍として入城してたからでした(加賀井本人は既に成敗されてます)

自分の手で「父の仇を取りたかった」水野は、加賀井の代わりに彼の息子を始末することで(自分の中で)ケリをつけたかった。

自ら槍を振るってハッスルしたそうな^^

石田三成の縁戚で朝鮮の役の軍監ってことで、武断派に憎まれていた福原長堯。

水野は降伏してきた福原の助命を願い出た・・・ともあるが、福原の降伏時の条件そのものに助命があった・・・とも言われている。

いずれにせよ福原は石田派官僚として、あまりにも東軍諸将の憎しみを買っていたので、助命は叶わず自害することになる。

相良・秋月・高橋は、この「功績」により領地安堵された。


とまぁ物語なら「めでたしめでたし」で終われるのだが、本物の戦となると、そうは問屋が卸さない。

大坂にいる秋月の妻女は、夫に寝返りを知らないまま島津義弘らと危険な逃避行に同行しちゃうし~~~

高橋の寝返りを知らない日向本国の伊東家(本戦前に西軍から東軍へ寝返り)が、高橋の領地を攻撃しちゃうし~~~~

とまぁ~上方から離れた九州においては、本戦後もしばらくスッタモンダする。

すったもんだ~~~つまり西軍残党掃討戦の最大のものが「江上表・八院合戦」になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回は大垣城の寝返りMEN'Zで、いわば手を汚した犬童頼兄の栄光から暗転人生~

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【相良氏の場合】関ヶ原/大垣城5栞53

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メイン出典元「南藤蔓綿録」^^/


「関ヶ原の戦い」・・・そもそもの始まりは「上杉征伐」だった。

東軍の諸将は「上杉征伐」のために、徳川家康の元へ馳せ参じたんです。

そんな中・・・西国大名にとって困るのは、上方で石田三成が挙兵したことです。

なぜなら「上杉征伐」のために北上したはずなのに、上方まで来たところで石田三成に足止めをくらうから( ̄ω ̄A;アセアセ


立花宗茂のように「秀頼公(西軍)に馳走仕らん」と旗幟鮮明な方なら問題はない。

だが鍋島家のように「上杉征伐」に参加するつもりだった人には、非情に迷惑。

まぁ鍋島家の場合は、諸事情で出陣が遅れて、上方到着が「三成挙兵後」という半ば自己責任でもある^^;

九州は肥後の相良氏も、石田三成に引き留められ「不本意ながら」西軍入りした家の一つだった


ということに「南藤蔓綿録」ではなっているのだが、なにせ成立年月日が江戸期。

後だしジャンケンの如く、何とでも言い繕うことは可・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

てことで、1~4話までの大垣城編とでは、時系列の出来事で若干相違が生じるのが、そのへんは生ぬるい目で見て下さいませ(*´pq`)クスッ



(馳ぽん提供~大垣城画像~銅像は関ヶ原の後に初代藩主となった戸田様~)

1600年(慶長5)6月~家康が上杉征伐の為に奥州へ下向し、伏見城へは鳥居元忠を置いた。

その報告を聞き、真偽を確かめるべく相良頼房(20代目当主)は犬童頼兄(いんどう よりえ/家老)らを連れて上洛した。

ところが既に家康が出陣していた為、帰国しようとしていた処へ石田三成より使者が来た。

石田家使者:近いうちに伏見城を攻撃するから加勢してくれ


当初これ(西軍)に与する気はなかったものの、使者が再三現れる。

使者:石田自らが屋敷に出向いてでも頼む!


とまで言われ、ならばとこれに同意し出陣した。

(( ̄ko ̄)<小大名の相良氏に石田三成が幾度も懇望するか?と突っ込んではなりませぬ)

それでも本意ではない事を家康に伝えるべく、恒松吉助を家康の奉行所と井伊直政の元へ差遣した。
1)上洛の意図は家康に逢う為であったが既に家康がいなかった事。
2)虚しく大坂から帰国する処に石田方に押し留められた為、止む無く事に及んだ事。
3)もし上方筋(三成ら)が出馬に及んだ際にはそちらに味方する事。
この3点を伝えさせた。

恒松吉助は中間・赤川源三郎を伴い関東へ下り、既に江戸を発っていた家康を追いかけて、下野国の古川で追い付いた。(一日で何km移動してるんだぉ~(゚ロ゚屮)屮)

吉助が井伊直政へ書状を渡し口上を伝えると、すぐさま直政が家康に伝えたとの事。


相良家紋

話に誇張があるような気がしないでもないが、犬童頼兄の器量なら西軍加担の前に「保険として」井伊直政にコンタクトとるくらいはしてそうだ。

同年7月18日~相良勢は伏見城攻撃に参加。

8月1日未の刻(13時~)に伏見が落城。

頼房ら大名はそれぞれの屋敷に戻ったようだ。

その後、石田方から秋月種長・高橋元種・相良頼房の三名へ「近い内に家康の大軍が上洛するから勢田橋を固めてくれ」と使者が来る。

頼房は「これが不本意な合戦で、家康に弓引く気はなく、これを承諾しかねる」と述べる。

すると石田は「今回の事が自らの私心によるものではない証拠」として垣見家純と熊谷直盛を差遣してきた為、是非無く5人(秋月・高橋・相良・垣見・熊谷)で在番に及んだ。

(秋月(兄)・相良(義弟)・高橋(実弟)は、前回話したように縁戚・兄弟)
(さらに領地が日向と肥後と隣接しているので「朝鮮の役」でも同じ陣に所属してます)

その後、石田方が大垣城へ入ると、勢田の番衆5人もすぐさま大垣城へ来るよう伝達があった。

( ̄ko ̄)<あっち行け~こっち行け~と何だかなぁ~でつ

8月25日に勢田を発って佐保山を、二日目には伊勢路の白瀬越というところを越えていた。

その最中、雨が降りそれが晴れて風が吹き始めた。

ふと高所から見える十町(1km)ばかりの場所に2~300程の輝きが見える。

もしや「敵の伏兵か」と思い足の早い者に物見をさせると、芋の葉に雨の滴があり、それが風に揺れているだけと判った為、すぐさまそこを通り大垣城すぐさまそこを通り大垣城へ入った。

「1k先」の「葉っぱについた雨の滴が光った」のが見えるって、凄い視力だ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

おそらく「家康西上してくる」ということで、行軍中もピリピリ緊張していたんでしょう。


大垣城本丸には福原長堯、二の丸には秋月種長・高橋元種・相良頼房、三の丸には垣見家純・熊谷直盛・木村由信とその子・伝蔵がそれぞれ在番となった。

で、井伊直政への使者となった恒松吉助と中間・源三郎は、家康からの返書を深田の泥の中へ隠した上で大垣へ入城。
(石田方が美濃の山中で往来する者を改めていたので手紙を隠した)

すぐさま犬童頼兄に伝え、秋月・高橋とも(寝返りの)密談に及んだ。

9月14日に井伊直政が勝野五兵衛という者を大垣城へ差遣し、福原・垣見・熊谷らを誅伐し、忠節を尽くすよう伝えさせよう~~~~

とした所へ、相良からの使者である宮原新助・犬童三郎兵衛が井伊直政の元へ現れた。

宮原と犬童は、以前に直政に述べたのと同じ事を伝え、且つ「垣見・熊谷らを討ち果たすので検視役を一人遣わしてほしい」と伝えた。

井伊直政は宮原新助に(元々派遣するつもりだった)勝野五兵衛を付けて15日の晩に大垣へ戻した。

南藤蔓綿録には関ヶ原・西軍敗北が(相良頼房や秋月・高橋へは伝わったとして)他の城将が知っていたものかなどの記述はありません。

ただ書庫「九州の関ヶ原」で紹介した「垣見家純・最期の手紙」によると、西軍敗北の事実を既に知っています。

大垣城攻撃側・水野サイドを検索すると「西軍敗北」の情報を知らせるために「大垣城の囲みを一度解いた」(主戦場から逃げた兵が大垣城へ逃げ込むから)

とあるので「西軍敗北」は一部上層部のヒ・ミ・ツではなく、雑兵のはしばしまで知ってたのではないでしょうか。

さらに「福原・垣見・熊谷らを誅伐し~云々」の裏切り誘いの密書は、水野から友・秋月へも届いていたらしい。

寝返り誘いルートは、複数あったと見るべきでしょう。

裏切ることに迷いはない。主戦場で敗北した以上は大垣城の籠城に戦略的な意味はないのだ


猛将タイプ・相良頼房+武闘派タイプ・秋月種長+画策得意・高橋元種+切れ者相良家老・犬童頼兄。

ベテラン勢の具体的な作戦会議は、早々とまとまったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【持つべきものは友と弟】関ヶ原/大垣城4栞52


1600年9月15日・・・関ヶ原本戦にて西軍が東軍に敗れる!


大垣城を14日から攻撃していた水野勝成(みずのかつなり・36歳)は三の丸を占拠し、続けてニの丸に火をかけた。

これが意外な相乗効果をもたらした。

まず、南宮山にいた毛利秀元軍~南宮山からは関ヶ原は見えないが大垣城の方角は遠望できる。

火の手が上がったのを見て、大坂まで撤退する判断材料となった。

また敵中突破した島津義弘~大垣城で上がった火を見て「もぉ落城でごわす」と早とちり。

大垣城で籠城する予定を変更して「薩摩へ帰るでごわんど」と摂津方面へ(奥方たちと合流するため)道を変えた。

一方、関ヶ原の結果を知った水野は、いったん大垣城の包囲を解いた。

すると関ヶ原を命からがら脱出した西軍の雑兵たちが、ドッと大垣城に逃げ込んだ。

水野が包囲を解いたのは「西軍敗北」の情報を大垣城内に知らせるためだったのだ。

盟主だった石田三成が行方不明で西軍は四散分裂・・・主戦場に近すぎる大垣城は孤城になったんです。

援軍など期待できるはずもない、大垣城内は恐怖でパニックになった。



(馳ぽん提供~大垣城画像~銅像は関ヶ原の後に初代藩主となった戸田様~)

この大垣城の攻防は九州の関ヶ原編でチラっと語った。

城内で「城を枕に討死する」と決意した垣見さんと、その留守を守る富来城代の話だ。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/4671273.html

討死を覚悟する者がいる一方で、西軍として大垣城の守備にあたっていた秋月種長の元へは、水野勝成から密かに裏切りを誘う使者が来た。

「ろ・・・六左衛門(水野のこと)?何?アイツ生きてたの?って昔と名字違うし、どうなっているんだ?」秋月は驚いた。

無理もない、種長と知り合った西国放浪時代の水野は、出自を隠し偽名だったからです。

使者は証として二人しか知らない思い出を語り、何より携えた文は紛れもなく六左衛門の筆跡だ。

水野曰く「内通の証として城将の首を差し出せば、領地安堵の周旋を約束しよう」という内容だった。

アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ「も・・・元種~~~弟よ~~~こんなん来たぉ!」

種長は実弟の高橋元種に相談した。

「裏切るかor裏切らないか」の相談ではない。

種長「元種、城将の首といっても本丸へ攻め込むには我ら兄弟の手勢では足りぬぞ。如何する?」

西軍の大将は大老の毛利輝元。

対する東軍の大将は大老筆頭の徳川家康。

表面上は派閥争いの様相を呈していたので、どっちについても「豊臣へ不忠」になるわけじゃないんです。

元種「兄上、お忘れですか?我らの兄弟なら今一人いるではありませぬか(* ̄ー ̄*)ニヤリ」

種長「もう一人・・・おお!そうであった(* ̄▽ ̄*)」

そう彼ら兄弟の妹(元種から見れば姉)秋月竜子。


彼女は最初に秋月家の同盟相手、城井氏に嫁いでいた。

「九州の役」後・・・・いろいろあって嫁ぎ先の城井氏は、黒田如水・長政親子に抹殺されてしまった。

残された竜子は、城井の遺児を産み落とすと実家の秋月家で保護されていた。

彼女は、その後に相良家当主・相良頼房に再嫁していたんです。

秋月・高橋の義兄弟にあたる相良頼房もまた、西軍として大垣城の守備にあたっていたのだ。

二人は早速、相良にも裏切りの誘いをかけたのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回より相良氏を中心に関ヶ原・大垣城編を語りたいと思います^-^

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後篇【でんでん♪ぶゆぅでん♪水野伝】関ヶ原/大垣城3栞51

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とある戦で一人の少年が大泣きした「アーン!アーン!ワァァァン・゜・(PД`q。)・゜・」

「どうした坊主?戦は終わったぞ。安心して気が抜けたか?」と側にいた先輩兵が尋ねた。

少年曰く「違います!わたしは此度が初陣(ういじん=戦場デヴュー)なんです。なのに一つも手柄がたてられなかったのが悔し・・ぃ・・ワァァァン!!・゜・(PД`q。)・゜・。」

周囲の大人は呆れた。何故なら彼らの敵は武田軍団(勝頼の代)だったからだ。

「武田相手に豪胆な小僧だ、末頼もしいぞ」と嗤い合った。

時に天正7年(1579年)、水野勝成(みずのかつなり)初陣の逸話です(=^・ω・^=)v ブイ
(※逸話は「戦国ちょっといい話悪い話まとめ」から拝借しました)
最終戦歴は「島原の乱」で息子・孫の三世代で出陣した豪傑な水野。

しかし晩年丸くなって大人しくなったのと、国民的作家の司馬遼太郎氏が「城塞」という作品で、水野をヘタレ扱いしたので、イマイチメジャーになり損ねている。

(城塞:大坂冬・夏の陣が舞台~主役は違う人なんだけど、敗者の豊臣方武将たちが華麗・勇壮・悲劇の群像劇として描写されてる・・・だから幕府方武将の扱いは・・察してください^^;)
(作品の話運びは凄い面白いです~影響でシオは大坂の陣に一時はまりました(*´pq`)クスッ)

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/Fukuyama_castle13n1800.jpg/250px-Fukuyama_castle13n1800.jpg
ウィキペディアより福山城内の水野勝成銅像

水野勝成は、徳川家康の年の離れた従弟で、二代将軍・秀忠とは乳兄弟にあたる。

家康は、このヤンチャすぎる従弟を放っておけなかったらしく、水野が父に勘当された時も暫く匿っていたそうだ。

水野の職歴?てか人生は複雑なんで簡略にまとめると以下の通り。
【家出前】
1)織田信長(父がヘッドハンティングされたので一緒に仕官)~信長から感状を貰う。
2)織田信雄(父が与力だったので一緒に従軍)~「小牧・長久手の戦い」にも出陣。
3)小牧・長久手で兜を被る被らないで親子ケンカ⇒兜無しで手柄を立ててオヤジにドヤ顔。
4)翌年「陣中」で自分の悪さを親爺にチクった(親爺の)家臣をヌッ殺した(汗
5)激怒したパパンは勝成を勘当し奉公構(再就職禁止措置)にした。
6)徳川家康が匿う⇒怒りが治まらないパパンの詮索が厳しくなり、西国へ放浪する~時に勝成21歳。

水野には(オヤジに見つからないように)偽名で西国をウロウロするから「家康の密偵説」がある。

だが、どこもトラブっては出奔する「お騒がせ男」では密偵にならないだろう,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

どこを転々としてたかというと簡略に以下の通り。
【家出後】
1)仙石秀久⇒四国征伐で活躍し秀吉から知行拝領(つまりヘッドハンティングされた)
2)豊臣秀吉⇒何かやらかしたらしく、秀吉を激怒させ出奔~刺客を放たれたそうな^^;
3)佐々成政⇒肥後国人一揆の責で佐々切腹で無職
4)小西行長⇒加藤清正⇒この二つは前歴(秀吉を怒らせたこと)がバレていれなくなった。
5)立花宗茂の相伴衆を経て黒田長政⇒長政を激怒させて刺客を放たれた。
6)備中の三村氏⇒(茶坊主斬って出奔)⇒寛大な三村さんとこに再就職

とまぁ転々とする。5)黒田のとこでは、長政が(側にいたんで咄嗟に)水野へ水夫の仕事をやらせようとしたのでケンカして出奔。

とあるんだが、実は長政は一揆鎮圧の報告がてら、活躍した水野を秀吉に引き合わせようとしてたらしいんです。

それを知った水野が「ヤバイ」って遁走したのがホントらしい。( ̄ω ̄A;アセアセ

で最終的には備後福山藩の藩主となるので、様々な逸話や伝説が残った。

ただフリーダム水野DNAも泰平の世になると弱ったのか、5代で嫡流が絶えて改易(後に能登西谷1万石で水野宗家復活)になったのもイマイチマイナーな理由の一つだろう。

水野が36歳になると見かねた従兄・家康が、パパンとの仲を取り持ち和解したので、三村さんとこを去り実家へ戻る。

( ̄ko ̄)<ただね・・水野さん・・・この時は既に妻子がいたのだが・・・備中に置き去り・・

( ̄ko ̄)<しかも実家に戻った後に再婚しちゃったでつ

(女から見て)かなり身勝手な男・水野の結婚騒動をギャグにしたのがコチラ↓



この頃の水野には適当な男子がいなかったようで、過去の(ヤンチャな)記憶をたぐったらしい^^;

水野の面白いところは、過去の正室と現在の正室、どちらも同格に扱い大事にしたことです。
(引き取られた嫡男も同様に、生母・継母どちらにも孝養を尽くした)

とくだんイケメンでもないのに、何故かモテる男が世の中にはいるが、水野はドンピシャリそのタイプ。

こんなアバウトな感じにワイルドさを感じるのか、何処でもモテたらしく美味しい思いを・・ (._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

おかげで置き捨てられた妻と息子は、引き取られる(水野が思い出す)まで苦労したらしい。

その時の辛酸を忘れず息子は、下々を大切にする名君となったそうだ(結果、親子二代とも名君)

あ、そうだ世話になった三村さんですが、水野が福山藩主の頃には没落してたんです。

水野は恩返しに三村の息子を家老に迎え入れてます^-^

関ヶ原の時の水野は「毒気が抜けて」「程よく丸く」「下情に通じた名君」になる前。

36歳にもなろうと言うのに、まだまだ暴れたりなくて戦で弾けるエネルギーが有り余ってた。

で、前回話したように親爺が殺害されるという想定外のことで家督を継ぎ3万石の当主となった。

これが関ヶ原直前の7月のことで、アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ~~と実家に戻って当主となり、9月に再びトンボ返りで出陣する。

本戦直前の前哨戦・・1600年9月13日、島津義弘の軍が曽根城を攻撃した。

「徳川四天王の井伊直政と本多忠勝」が家康に「この戦は六左衛門(=水野)殿でなくては、手に合わないので、直ちに軍勢を差し向けて頂きたい」と懇願した


水野の武勇が如何ほどのものだったか察せられる話だ。

水野が援軍に向かうと、深入りするつもりの無かった島津軍は引き上げてしまい、直接対決は実現せず(チト残念)。

水野は家康に従軍の許可を求めるが、家康は許さず水野を後方支援に回した。




家康は「天下への野心」をひた隠して「五大老筆頭」の立場を崩していなかった。

そして石田三成と豊臣恩顧の大名と噛み合わせ「漁夫の利」を得ようとしていたのだ。

水野を先陣に置いたらハチャけて弾けて活躍しすぎてしまい、家康の思惑から逸れてしまうかもしれない。

家康は水野を(糧道を守るために)大垣城の「抑え」に配置した。

家康「六左衛門、糧道確保も大事な務めでぇよぉ、おみゃさぁも放浪してたころと違ぃ、3万石の当主なんでょぉ自重するだぎゃぁ

水野「(三河訛りが抜けたシティボーイ)委細承知仕った。大垣城から兵糧を狙って兵が出るやもしれぬので先手を打って攻撃いたす所存~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~~

家康「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.~人の話を拡大解釈すなぁ~~~~!!


大垣城の「抑え」は「水野・松平康長・西尾・松下・津軽為信」の混成部隊。

その中で水野の隊が一番兵数が多く、家康の従弟ということもあり、主導権は水野が握っていたんです。

ちなみにウイキペディアでは津軽為信とあるけど、これは津軽兵のみの参加です。

津軽さんの嫡男は家康の側に、ご本人は京都待機~バラバラだから津軽為信さんの位置を特定するのに手間取った^^;

まぁ津軽に限らず関ヶ原で親子・兄弟が西と東に別れた大名は、かなりの数になると思う。

1600年9月14日・・・石田三成が出陣し留守部隊が守る大垣城を、水野らが攻撃

その日のうちに一気に三の丸まで占拠する


水野が攻撃に拘ったのは単に暴れたいだけでなく、大垣城には親爺を殺した男の息子が西軍として入城していたからです。

大垣城守備隊の秋月種長と高橋元種らは、そんな事情は露知らず必死に防戦していた。

秋月と水野・・・互いの存在に気付いたのは、おそらく水野が先だろう。

実は二人は水野が西国放浪時代に親しくなった友人同士だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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前篇【でんでん♪ぶゆぅでん♪水野伝】関ヶ原/大垣城2栞50

さて、前回末尾に「守備側のメンバー」をザッと一覧にて紹介したところで、今度は攻撃側を紹介しよう。

その前に、関ヶ原本戦直前の7月に起きた事件を、説明しなければならない。

その事件とは、徳川家康の叔父・水野忠重が加賀井 重望(かがのい しげもち)に酒宴の席で口論となって殺された殺人事件です


叔父というのは、家康の生母・於大の方の弟なの^^b

犯人の加賀井は酒宴に同席してた堀尾吉晴に成敗されたのだが、時期が時期だけに江戸では大騒ぎになった。

「徳川実記」によると「加賀井は石田三成に徳川家の重臣暗殺を依頼された」とある。

( ̄ko ̄)<加賀井の懐を改めたら、三成の密書が出て来たって・・・

そんな証拠の品を持ち歩くかなぁ~~なにせ「徳川実記」にしか無い記述なので俄かには信じがたい。

とにかく最初に事件が報告された時には「同席してた堀尾も徳川に異心を抱いており水野を殺害した」という誤報となって伝わった。

この時、宇都宮にいた徳川秀忠の側には人質として堀尾の息子・忠氏がおり、もし堀尾が真に「徳川に異心あり」となったら忠氏の身柄もどうなるか解らない。

顔面蒼白・万が一の覚悟を決めた堀尾忠氏クン。

そんな中で後に二代将軍となる秀忠が言った。

「堀尾吉晴親子は、我が家に背くような者たちではない。例え承った通りに堀尾吉晴が水野を殺害したのだとしても、忠氏に於いては、二心を持つような者ではない。彼をこの件で召しだしたり監禁するような真似は、一切不要である。」

後に水野殺害時の詳細が解り堀尾への疑いは晴れた。

人々は「中納言(秀忠のこと)様は人を良く知り使う」と褒めたたえ、この秀忠の言葉に感謝した堀尾忠氏クンは関ヶ原前哨戦でハッスルすることになる。


ちと前置きが長くなった。

この事件で当主が死亡したために、水野家の家督は息子の勝成が急遽継ぐこととなった。

で、水野勝成は・・・というと、


てな感じで、マッパで泥棒退治したという伝説?逸話?がある豪傑です^^;

水野家は元々は織田家の配下でした。ですが、讒言により当主が殺され縁戚である徳川配下になります。

殺された当主の弟が冒頭で殺された水野忠重です。

その後、水野忠重は信長から領地を拝領し、織田家与力となります。

だから息子である勝成も織田家の主だった戦に参加してます。



「小牧・長久手の戦い」で親子出陣した時のことです。

勝成は「兜を被って無い(眼病で兜を被るのが苦痛だったらしい)」のをパパン忠重に指摘されて大ゲンカしてます。

勝成は武勇優れているかわりに、大変な暴れはっちゃくでして、行状がチト・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

そのため父とは折り合いが悪かったらしいんです。

「小牧・長久手の戦い」の翌年に、違う戦でパパンの家臣をブッ殺して出奔~((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~
(オヤジの腰巾着野郎が、俺の悪さをオヤジに報告しやがったんで、大人しい俺もマジ切れさ!)

家出した息子に激怒したパパンは「勘当+奉公構(再就職の妨害)」処分にした。

徳川の息のかかったとこじゃ再就職できなくて、勝成は偽名使って西国大名に仕えるとこになる。
(武士以外に職種の選択肢は(性格的に)無かったらしい)

勝成は他家でもトラブル起こしては刃傷沙汰になり、職場放棄⇒出奔を繰り返してた札付きのヤンキーです( ̄ω ̄A;アセアセ

そんな彼ですが関ヶ原直前に徳川家康の仲介で、やっと親爺と和解したばかりのところに親爺が急死・・・しかも殺された~~(゚ロ゚屮)屮ぇえっ!

この手で犯人を~~~と思ったが犯人の加賀井は既に掘尾さんが成敗しちゃってる。

どうにも治まらない、スッキリしない、暴れたりない~~~水野勝成は大垣城に目を付けた。

[大垣城]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケン

大垣城には親爺の仇の加賀井の息子が西軍として入っていたのだ。

暴れはっちゃく水野勝成の「関ヶ原・大垣城攻撃」が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
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家紋画像~ロンさま
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相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

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Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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