後藤家文書18_(後藤家書類)大内義隆書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
至筑前上國之由、可然候、本意不可廻踵候、猶隆満宗長可申候也、恐々謹言、
(天文十五年カ)
 三月二日  義隆(花押)
   龍造寺宮内大輔(胤栄)殿


えっと・・・後藤家文書に龍造寺胤栄関連が一つあったのをスッコーーンと忘れてましたの(←おぃ)
後藤家書類とあるように、後藤家が貰った書状ではなく保管してたもののようです。
書状の状態が(折封とか捻封とか)ないので、書状のみのようです。
書写でないのは義隆の花押があることで確認できます。
なんで持ってたか経緯は判りません^^;
それと年度推定はシオではなく、佐賀県史料集成編集のものです。

筑前上国に至(いた)るの由(よし)、然(しか)る可(べ)く候、踵(きびす)を廻(めぐ)らす可からず本意候
上国(じょうこく、じょうごく)---律令国の等級区分の一つ、上から二番目の位の国で延喜式による上国に筑前国があります。
不可廻踵候---「史記」呉起伝より_かかとをめぐらすほどの時間もない=すぐある事態になってしまう。
てことを盛り込んで雰囲気意訳~~
筑前に着いたとの事、しかるべくします。すぐ事態(戦?)になるのは望むところです。

猶、隆満と宗長に申し可く候也、恐々謹言
大内義隆が伝えておくね~といった二人の経歴はウィキペディアからデータ引用^^/
●陶 隆満---没年不詳、
義興・義隆と大内当主に仕える。奉行職として義隆に重用され隆も義隆からの偏諱。
陶一族のため大寧寺の変では陶晴賢に協力するも、後に降伏し毛利家臣となる。
●杉興重(宗長)
山城国愛宕郡代、8人の大内評定衆一人、大内義興より1字を賜う。

天文15(1546)年1月に龍造寺胤栄と西千葉の胤連が、少弐+有馬勢の攻撃を受けました。
いったん敗れ引いたんですが、龍造寺胤栄は大内義隆の助勢を受けて少弐勢を破ってます。
同年の7月25日に大内義隆は胤栄の戦功を賞しています(龍造寺家文書112)
で7月27日に大内義隆は胤栄を肥前代官に任じています(龍造寺家文書113)

どうやら大内の助勢を受けて少弐勢を破った前後に、胤栄は筑前に入ったみたいです。
で、大内の重臣が言付かった義隆からの指示?返事を受けたのでしょう。
大内義隆にとって少弐氏と龍造寺が敵対関係になったことは、大歓迎の事態です。
書状は当然ながら上位者から下位者への形式ですが、名前の位置が月日より一文字分だけ下。官位名も入って敬称は殿の漢字。
と短い文章ながら丁重な扱いをしてます。(*´pq`)

龍造寺胤栄関連の史料は少ないんで、なかなか貴重な文書なのでした^^
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秘密メモ♪龍造寺家文書_119_龍造寺隆信覚書

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原文
読み下し(てるつもり)


一 薩摩衆帰宅之事
一 御質人之事
一 網田郡浦之事 付伯耆殿(顕孝)依御當介
         親賢御覚悟之事
一 (甲斐)宗運此方同意之事
一 合志(親為)方之事付
     赤星(統家)方之事

      以上        (龍造寺隆信)(花押)

(天正九年カ)

読み下しようがないでござる・・・il||li _| ̄|○ il||l
ぶっちゃけ、中身の分析の方が重要なんですが、自分のリサーチが天正年間まで追い付いてないので細部が判りません(´・д・`)

とりあえずアップだけして、判り次第再編集しますm(__)m

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龍造寺家文書_115_大内義隆一字書出(折紙)

折紙---堅紙を半分に折って使うから折紙
※書くときは折り目を下にして書きます。



(大内義隆の⇒)花押

天文十九年七月一日
龍造寺山城守殿(←隆信のこと)




読み下しのほうは、見たまんまなので割愛です^^/

分析・・・というと大げさですが、ちょっと色々と面白いんです。

1)「折紙」という略式の文書形式を使っている。
やっぱ態度が上位者な西国のドンです。
ただ「折紙」という形式で「一字書出(=偏諱)」の文書を発給すること自体は、大内に限らず珍しい形ではなさそう。
(検索したら、画像はないが他でもHITしたので)

2)「山城守」の官途吹挙状と発給年月日が一緒
3)官途吹挙状は敬称なしの呼び捨て、こっちは「殿」と敬称ありで敬意を払っている。


つまり「官途吹挙」の段階では「正式任官する前」なので呼び捨て
「一文字拝領」の段階では「任官した後」と捉えて敬称付にする・・・
敬称の使い分けしてるんです。

えっと現存文書を見ている訳じゃないから、疑い出せばキリがないんですけども~
ですが、佐賀県史料集成の編集や校正でミスとか誤植はないと思います。
戦国時代に限らず武家様文書って「敬称の使い方一つをとっても、上下関係の分析ヒントになる」「それくらい奥が深い」んです^^;

あと、書き方が少弐と大内では違う( ゚д゚)ンマッ!!
少弐資元が横岳資誠に偏諱した時の文書の方だと、

實名(じつみょう)←本姓と諱ってことです。
藤原資誠

これも見たまんまで、名前の方も他の字より大きく書かれています。
一方、大内義隆はプレゼンした「隆」の一文字のみ記入で、字の大きさも他と同じ。

つまり「少弐の書き方の方が大内義隆より丁寧」で、それだけ「相手(と、その家)に気を使ってる」
これが「家運が衰微している名門」と、「最盛期で西国のドンとの違い」なのでしょう。( ̄ω ̄A;アセアセ

史料厨って、わけじゃないんですが、相手への気の使い方が、一次史料で分析すると歴然なんです。
色々関係性が垣間見えるんで面白のよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

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龍造寺家文書_114_大内義隆官途吹挙状

原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳

山城守所望事、可令挙敷奏之状如件、
※山城守 所望の事、敷奏(ふそう)挙げ令(せ)しむ可(べく)之(これ)状(じょう)件(くだん)の如(ごと)し
★「山城守」って官位が欲しいって話なんだけどさぁ、朝廷に頼んだからバッチリだよ~ん(=^・ω・^=)v ブイ

天文十九年七月一日    (大内義隆)花押
※天文19年=1550年

龍造寺民部大輔(←隆信のことです)



用語解説^^/
敷奏(ふ-そう)---天子に意見などを申し上げること。

=== 所感 ===
龍造寺隆信の曽祖父である剛忠(家兼)も山城守でした。
隆信は継承するにあたり、自称ではなく正式に推(吹)挙を受けて任官したんですよ~ってことです^^

龍造寺隆信が、これまでの「民部大輔」から「山城守」へ変更した理由。。。
あくまでも推測ですが、
「民部大輔」は宗家・村中龍造寺が代々受け継いでいました。
隆信の嫡男・政家も「民部大輔」です。

ただ、隆信以前の龍造寺当主は少弐系千葉氏から推挙を受けてまして、隆信当時、いわば少弐色のある官位でした。
だから大内被官になるにあたり、水ヶ江系当主の「山城守」をチョイスしたかと・・・
武家官位に関する方面の知識が不足してるので、推測に自信ないっす・・(´;ω;`)ウッ

古文書学的に超ハッキリしてることが一つだけ
大内義隆に、龍造寺隆信は呼び捨てにされてます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
漢字の「殿」はおろか、平仮名の「との」すらない、超上目線の大内氏です。
「民部大輔」がついてるだけマシよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

天文19(1550)年・・・当時、ぶっちぎり最盛期だった西国のドンからみれば、
分家当主から宗家家督を継いだ龍造寺隆信は「肥前の熊」ならぬ「小熊ちゃん」ですもん (*´pq`)クスッ

花押した大内義隆・・・まさか翌年に家臣の謀反(大寧寺の変)で自害する事になるとは、夢にも思わなかっただろうな~
戦国は、ハイティーンの青春より明日が見えない!Σ(´Д`;) 

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龍造寺家文書_113_大内義隆書状(小切紙)

みなさ~ん、古文書の様式における、小切紙って覚えてますかぁぁーo(* ̄○ ̄)ゝーぁぁ?
自分は過去記事にしてるのに、すっかり忘れてました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

小切紙・・・の中の切紙とはプライベートや大量発給の文書に使う
で、切紙の小切紙は、堅紙(たてがみ=正式な書状の紙・約A4サイズ)を、チョキチョキ適当な大きさに切って使うって事なのです^^b

つまるところ略式であり、上位者から下位者へ発給する時に用いられます^-^




原文
※読み下し(てるつもり)
★超意訳

肥前国代官事可申付候、忠節肝要候、猶原田可被申候、恐々謹言
※肥前国代官の事、申し付く可(べ)く候、忠節が肝要候、猶(なほ)原田へ申され可(べ)く候、恐々謹言
★肥前国の代官に任命します~忠節が大事ですよ(`・ω・´)キリッ、なお、原田に言うように、恐々謹言なぅ
(天文十六年)
七月廿七日    (大内)義隆(花押)
龍造寺宮内大輔(胤栄)殿





これまた書状なので年欠文書(月日は書くが年度の記載なし)です。
( )の年度は、佐賀県史料集成に編集段階で明記してたものです。
胤栄の活動期間や、大内側データと比べて割り出したと思います。
年度の違いによって解釈が変化するって、古文書アルアルなんですが、諸情勢から鑑み年度推定はコレで動かないと自分も思います。

北肥戦誌247頁には、大内義隆が天文16年6月に、胤栄を豊前守とし、肥前の守護代として少弐退治を命じた
とあります。
文中の「肥前の守護代として」~~の部分に相当する一次史料がこれになるのでしょう。

同じく北肥戦誌には、龍造寺胤栄が大内義隆より領地安堵を受けた旨が記述されていますが、
そちらは龍造寺家文書の中には残っていません^-^

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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