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~後篇~四・龍造寺隆信書状---鶴田家文書(嫡流家)

大 意
取り急ぎ申し上げます。有馬衆が一両日中に藤津に至り着陣するとのこと、到来するとの知らせです。

我々は、この方面へ、一同の者が心を一つにして、来る二十日より、横辺田の地への着陣を覚悟すべきです。

そうであるので、その地へ、一同の者に仰せになって相談し、陣に加わるべき事であり、(それは)賞(め)ずるべきことです。

行軍の事については、重ねて、陣所より申し入れるようにします。
(万事にわたって、そなたの※※※の部分推測)お心がけは、本当に恐れ入ることです。

なお、後からもう一度、手紙を送付することを予定しています。諸(もろもろ)が吉でありますように、恐々謹言。

考察・・・ガン( ゜д゜)ガレ自分~

(永禄九年)閏8月16日付けの文書・・・
例によって例の如く、北肥戦誌に記載なし(`・ω・´)キリッ ←←もはやヤケクソ

年度に関しては旧暦から弾きだした閏月からの換算と思うので、ほぼ動かないと思います。
永禄9年といえば1566年の事でして「有馬VS龍造寺」で、龍造寺が勝利を収めてから3年(or4年)経過してます。
ですが西肥前のデータが少ないために、この鶴田家文書・四だけでは詳細が判りません。

嫡流家に鶴田越前守前(すすむ)=庶流の当主宛ての文書があるのは、
おそらく鶴田前が宗家鶴田氏に「こんなん、来てます」って提出したからでしょう。
で、文書から推測される問題提起はザックリ三つ

謎1)鶴田氏が龍造寺の命令通りに横辺田に出陣したのか?
謎2)隆信は出陣してたの?
謎3)戦があったとして、勝ったのどっち?ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

鶴田氏文書を補完する一次or二次史料が、今の所見つけ出せないので三つの謎は謎のままです( ̄ω ̄A;アセアセ
本来であれば、書状を受けた鶴田庶流家の文書で確認すれば解決するはずなんです。
でもって鶴田庶流家の文書も入手出来ました~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

が、開けてビックリ・・・鶴田家文書(庶流家)は、その殆どが年度不明なんです~~~
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
てことで、先に嫡流家と龍造寺文書の分析してからでないと、鶴田庶流の文書を読んでも理解できない(´;ω;`)ウッ

あと今回の龍造寺から鶴田前に宛てた下文(くだしふみ=上位者から下位への文書形式)ですが、
どうも鶴田庶流は、龍造寺の被官になってたようなんです。

こちらは庶流家の文書で確認したんですが、記録に残ってるのは前(すすむ)本人ではなく、前の嫡男・賢です。
文書の日付は永禄6年(1563年)8月7日。
鶴田賢は龍造寺隆信に刑部大輔の官途推挙を受けてました(結果は不明)

龍造寺勢は有馬勢を破り、北方町や福母などに軍勢を進め武雄・後藤に圧力かけてた前後になります。
(北肥戦誌では有馬を破ったのは1562年説)

上松浦の盟主・波多氏の家督を巡って、鶴田直(宗家当主で前の兄)が謀殺されたのが1564年。
波多氏では家督を巡る諍いで家臣・日高が離反し、波多鎮が亡命する羽目になってグダグダ状態。
殺された鶴田直の後を、鶴田兄弟の実弟・勝が継いで因幡守となり、それを兄で勇将で庶流当主の鶴田前が支えてました。

文書は西肥前を勢力を伸ばし始めた龍造寺からの圧迫を受けた中で、兄弟力を合わせて難局を乗り切ろうとした両鶴田の気息を感じさせます。
嫡流家に残る鶴田前(庶流当主)が受け取った文書は「写」ではなく原本です。
鶴田氏の宗家と庶流の間には「直道」と呼ばれた連絡ルートがあったのですが、相当に密に遣り取りしてたんでしょうね(^ -)---☆Wink

判ったような判らないような考察で申し訳ありません。
研究が進めば、自分の中で何がしかの答えを見出すかもですが、それは・またの話 by^-^sio
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~前篇~四・龍造寺隆信書状---鶴田家文書(嫡流家)

自分が松浦党の中で一番好きなのが、上松浦の鶴田氏です^-^
古文書は全部で75通で、戦国時代は4通目から。
しかも永禄年間からですので、それ以前の鶴田家(嫡流)の古文書は僅か三通しか残ってません。

西肥前のデータが少なくてリサーチに難儀しましたが、
鶴田家のように、そもそも現存する一次史料が少ないんでしょうネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
では戦国時代から行きます(`・ω・´)キリッ

ううううううううう(´;ω;`)ウッ
レ点も一、二もない、文節だけは句読点があるけど、読み下しの順番があってるか超不安(´;ω;`)ウッ
慣れるしかないのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー



龍造寺隆信書状

急度申候、有馬衆、一両日中、至藤津着陣之由、到来候條、
※きっと申し候。有馬衆、一両日中に藤津に至り着陣の由、到来し候條、

我等事、此表衆以同意、来廿日ヨリ、横辺田表エ可致着陣之覚悟候、
※我ら事、この表へ、衆、同意をもって、来(きた)る二十日より、横辺田表(おもて)へ着陣の覚悟を致すべく候。

左も候者、其表衆被仰談、可有御乗陣事、可目出候、
※さも候(さうらへ)ば、その表へ、衆に仰せ談じられ、御乗陣あるべきの事、目出(めづ)べき候
(候に付随した「者」は、人ではなく接続助詞でして、この文字は「ば」と読みます)

行等之儀ハ、重畳、従陣所、可申入候、萬□□□御心懸、可畏入候、
※行(こう)らの儀は重畳(ちょうでふ)、陣所より申し入るべく候。萬(よろづ)に□□□、御心懸(おんこころが)け、畏れ入るべく候。

猶期後音之時候、諸吉、恐々謹言
猶(なお)後音(こういん)を期(ご)し候、諸吉、恐々謹言

(永禄九年)
閏八ノ十六     隆信(花押)
(奥上書)
「            龍山
 田越殿まいる   隆信」


語句解説
藤津
-------現代の藤津郡と戦国当時の藤津郡は範囲が違い、鹿島市あたりまでが藤津郡でした。
    龍造寺勢が侵攻してくるのは、主に鹿島市側です。

横辺田
------長崎県じゃないよ。杵島郡大町~昔は横辺田って呼ばれてて江戸期には代官所ありました^-^

諸吉、恐々謹言
------諸吉は吉祥句かな?後は結語です^-^

龍山
------龍造寺山城守を略して龍山=龍造寺隆信のことです

田越殿まいる
------鶴田越前守前のことです「まいる」は、「○○さんへ」って事。

閏八ノ十六
------旧暦なんで閏の年ではなく、月になります。閏月は毎年変化します。
    逆を言うと閏月が何月だったかをヒントにして(専門家は)年号を特定します^-^。

(奥上書)
・・・?
( )内は文書形式のはずだけど聞いた事ないな・・・

奥・・上書?・・・いや奥上か?
日付の次に署名と花押・・・・・・・( ゚д゚)ハッ!!
奥上署判・・・これ下文(くだしふみ)だ!
上位者が下位の者へ送る時の命令文書形式。

いっけん丁寧そうだけど、龍造寺隆信は、鶴田前(つるた すすむ)に対して上位者として振る舞ってるんだ。
ぅにょれ、龍造寺・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!

てことで古文書において、文書形式を理解することは、すっごい大事なんですよ~
長文になったので、意訳と考察・・・それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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