レジェンドオブ大河平(おこびら)__基礎資料(年表編・下)

●永禄3年(1560年 :閏3月)
・3月19日、島津義弘、島津忠親の養子として飫肥に入る。
・6月、足利義輝より島津貴久へ伊東と和融すべしとの内書。
・7月3日、菱刈家より、12屋敷との交換で水俣城を返還される。
・9月4日、日向の兵乱を鎮めるべく、幕府より伊勢貞孝が来訪。
      伊東方は偽の御教書を提示し、飫肥領有を正統化せんと図る(島津の史料では6月2日とも)。
・11月28日、相良義陽、千代菊と婚儀。

●永禄4年(1561年)
・7月頃、大友義鎮が出家し、瑞峰宗麟と号す。
・10月24日:伊東勢(平良兼賢ら)、長善寺の北原勢を攻撃。
・この年、伊東義益が家督継承。

●永禄5年(1562年)
・1月22日、北原兼孝、伊東義祐に殺される
・2月13日、大河平越前守隆屋、卒去(法名「源宅宗潤居士」)。享年73。
・この頃、島津義弘が鹿児島へ戻される(戻ったのは2月との記述)。
・大河平城を、伊東義祐の叔父の伊東杢右衛門が攻撃。隆利守り抜く
・大河平隆利、伊東の攻撃を防いだ軍功により、島津義弘より2000石の加増を受ける。
5月10日、相良勢が北原再興の為に真幸院へ派兵
・5月12日、相良勢が帰城。島津勢も6月3日に討ち入り
・5月18日に、交渉により飫肥が完全に伊東家の領有に帰すも、4ヶ月後に奪い返される。
6月21日、白鳥権現社にて北原兼親を前に、島津方・伊集院忠倉、北郷方・北郷忠徳、相良方・深水頼金が相互扶助を約し神文を交わし合う。
・9月18日:島津忠親、奪われた飫肥城を奪還。

●永禄6年(1563年 :閏12月)
1月28日、大河平仲太左衛門隆利、卒去(法名「玉翁明珠居士」)。享年28
3月27日、相良が裏切り伊東と盟約。
・4月1日、阿蘇山が鳴動、翌日に茶碗に3-4つ入る程の霰が降る。7月17日にも降り、7月21日には球磨側にも降る。
5月14日、伊東・相良勢が大明司塁を落とす(日向記では4月14日)
・5月5日、6月6日、島津より相良へ使僧を派遣し、相良へ飯野の格護を求める
・11月9日、島津日新斎の室(寛庭院)、卒去。
・?月?日、相良義陽より派遣された東出羽守が、勝手な発言(内容不明)して島津側を激怒させる。
(これがトドメとなって島津と相良の友好関係が完全破綻)

●永禄7年(1564年)
・2月9日、出奔した東出羽守を相良の追手が成敗する。
・2月11日、島津勢が大口城攻撃を開始。
・3月、北原兼親が島津義弘に今城の助勢撤兵を提言
5月29日(島津側史料では30日)、伊東勢が大河平氏の今城を攻撃。
隆次の法名「花岩香心居士」。隆堅の法名「蘭貞全芝居士」。隆光の法名「直翁宗禅居士」。

・11月7日、島津義弘、飯野城へ入る。

●永禄11年(1568年)
・1月20日、島津義弘、大口城攻めで敗退。
・?月?日、伊東義祐が飯野城挟撃作戦のために相良へ使者を派遣(『諸県興亡』より)
・上記情報を入手した大河平ナミが伊東と相良の軍事情報を島津義弘へリーク

・8月、飯野城挟撃作戦開始するも、相良勢は大明神城で進軍を阻まれ、伊東勢は田原山に桶平城を築く。
・11月、島津義弘家臣、遠矢良賢と黒木播磨守が桶平城勢を釣り野伏で討ち破る。

・時期不明、島津義弘がナミに感謝し大河平再興を提案する(遠矢良賢を説得役に派遣)
●1568年8月~1572年6月までの間(遠矢良賢の没年より推定)
・ナミ・皆越六郎左衛門が島津義弘が付けた護衛60人と大河平へ入る(出迎え役として遠矢良賢)
・ナミの夫・皆越六郎左衛門、大河平隆俊と改名し大河平再興当主となる。


●天正11年(1583年)
・同年、大河平治部少輔隆商(隆重嫡男)誕生。

●慶長3年(1598年)
・同年、大河平隆重、朝鮮唐島にて敵船に飛び移り戦死。法名「称念浄心居士」。
(『本藩人物誌』では享年35としているが、同時に今城合戦のときに6歳ともしているため、生年に狂いが生じてくる)。

●元和8年(1622年)
5月24日、大河平隆俊(皆越六郎左衛門)、病没。法名「性山清本上座」。

●寛永12年(1635年)
7月22日、大河平隆商、病没。享年53。法名「財室宗貨居士」。

●寛永13年(1636年)
10月27日、ナミ、卒去。享年92。法名「来香妙意大姉」。

参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』『八代日記』
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
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レジェンドオブ大河平(おこびら)__基礎資料(年表編・上)

●延徳2年(1490年)
・同年、家祖・大河平越前守隆屋誕生。

●永正4年(1507年)
・同年、初代・大河平左近将監隆充(隆屋嫡子)、誕生。

●天文5年(1536年)
・同年、二代目・大河平仲太左衛門隆利(隆充嫡子)、誕生。

●天文11年(1542年)
・8月20日:貴久と肝付以安(兼演:このとき実久方)が戦闘。
・北原兼孝、貴久を助勢するも大敗し、平良尾張守・白坂下総守兼次・渋谷兵庫ら700余が戦死。

●天文12年(1543年)
・1月:北郷忠相、安永・都城の兵を率いて、北原氏に奪われていた山田城を回復、
 5月には白坂下総守の居城となっていた志和地城も回復。

●天文14年(1545年)
大河平ナミ(大河平隆次の姉)誕生。

●天文15年(1546年)
・12月3日、伊東義祐、従三位に叙せられる。以後、三位入道を自称。
伊東義益、誕生。

●天文17年(1548年)
・6月10日、伊東義祐の嫡男・歓虎丸が夭折。
・8月、球磨・葦北・八代三郡の奉行に依り、万満(相良義陽)が後継と決する。

●天文19年(1550年 :閏5月)
・2月12日、大友義鑑が「二階崩れの変」で横死。菊池義武が蜂起。
・同年、三代目・大河平九郎隆次(隆充三男:長男隆利と14歳差)誕生。

●天文20年(1551年)
・6月8日、伊東義祐、大仏殿を建立。12月28日に安置。

●天文23年(1554年)
・11月20日、菊池義武、詰め腹を切らされる。

●弘治3年(1557年)
8月13日、上村兄弟支援の北原500名が襲来、これを大畑にて迎え打ち120余名を討つ。
大河平弥左衛門隆豊(隆充次男:法名「雪窓用盛居士」)はこのとき戦死か(大河平氏はこのときに北原を頼ったとも)。

●弘治4年・永禄元年(1558年:2月28日に改元 :閏6月)
・同年(3~4月頃?)、北原兼守死去。

●永禄2年(1559年)
・1月、大友義鎮、肥前守護職に、6月には豊後・筑後の守護職になる。また11月には九州探題に補任される。
・3月7日:大河平左近将監隆充(隆屋嫡子:法名「一中良竿居士」)、卒去。享年53。
・3月14日、大畑衆が真幸院へ示威行動。
3月17日、伊東義祐、馬関田右衛門佐への北原家督に反対の者を都於郡城にて詰問。
       その帰途を六野ヶ原にて待ち伏せて多人数で取り囲み、北原三河守ほか11人に詰め腹を切らせる。

4月12日、馬関田右衛門佐と伊東義祐の娘・麻生の祝儀

・7月29日、上村頼孝、将兵700人を伴い相良家へ帰参。
・8月16日:獺野原の戦い。(相良氏の内戦)
大河平源太左衛門隆重(隆堅次男)が誕生。

参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』『八代日記』
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』

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レジェンドオブ大河平(おこびら)__基礎資料(人物編)

●大河平家
父祖:大河平越前守隆屋、
初代:大河平左近将監隆充、
弟:大河平孫左衛門隆堅
    隆堅嫡男:大河平孫次郎隆光、
隆堅次男:大河平源太左衛門隆重
二代:大河平仲太左衛門隆利、弟:大河平弥左衛門隆豊、妹:ナミ
弟(三代):大河平九郎隆次

一族家老:八重尾兵部左衛門重視、八重尾後藤左衛門、大河平隼人、佐藤壱岐

系図にすると↓
系図・大河平氏

●皆越家
地頭:皆越安芸守貞学(貞当とも:白髪岳・北麓北越部落は皆越の地頭)、
一族:皆越六郎左衛門---ナミの夫で後の大河平氏四代:隆俊

六郎左衛門と皆越地頭との系譜上の繋がりは不明
ナミが六郎左衛門に嫁いだ時期も不明だが、ナミを嫁にと所望したのは皆越側。

●北原家
北原又八郎兼守(13代)、麻生(兼守室・伊東義祐の娘)
北原民部少輔兼孝(兼守叔父)
北原掃部介兼親(又太郎:再興主君)---1564年領地維持困難により飯野から伊集院神殿村に30町の捨て扶持で左遷
北原左衛門尉(吉松城主:伊東・相良連合を図る)---画策がバレて1564年北原家出奔後不明
北原三河守兼慶(反伊東派:栗野城主。兼孝の叔父(?)。六野原にて粛清される)
北原八郎右衛門尉(反伊東派:徳光城主)
北原伊勢介(横川城主:貴久の調略を無視し島津歳久に攻められて自害)、
北原新介(伊勢介の長男。父と運命を共にする)、
北原又八郎(伊勢介の次男:木崎原で戦死)

◎北原家臣
平野兵部忠義、中城出羽(共に上村兄弟の援軍となるも討ち死に)

馬関田右衛門佐(祖は5代範兼の弟の又九郎。伊東義祐に擁立され未亡人麻生と再婚する)
宮路某(栗野地頭。木崎原戦で伊東方三ツ山衆と して戦死した宮路阿波か?)
橋口刑部(内木場城主?:木崎原戦で伊東方三ツ山衆として戦死)
平良彦十郎兼賢(家老:伊東派。中務少輔。三ツ山地頭)

白坂下総介(家老:高崎住人:反伊東派:樺山家を頼る。後に高原城主)---北原家出奔後不明
白坂佐渡介(反伊東派)---北原家出奔後不明
白坂美濃介兼頼(反伊東派:踊地頭。後に島津家臣となり”白坂昌棟”と改名)
白坂将監篤義(反伊東派:兼頼の弟)
永野仲左衛門(土着の豪族・永野氏当主。今城合戦の際に大河平氏に与して戦死・諸説あり)

参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』

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大河平氏_18【御家再興編・5復活】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
------------------------------------------------------------------------------
出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
------------------------------------------------------------------------------
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
------------------------------------------------------------------------------
1568年8月、ナミの情報リークにより相良と伊東のタッグによる、飯野城挟撃作戦が頓挫。
途中で阻まれた相良勢は引き換えし、伊東勢は止む無く桶平城を築き長期戦に備えた。


真幸院エリア内に伊東が築城したことに対する島津側のリベンジは早かった。
同年11月、遠矢良賢は黒木播磨守と共に夜中に本地原の古溝に伏せ、
翌朝にウズラ狩りを装った少勢を桶平城の前に繰り出し城兵を挑発した。
良賢と黒木は、釣られて本地原に誘い込まれた伊東軍を釣り野伏せで散々に打ち破る。


ウズラ狩り・・・ぷりてぃーで萌える 川* ̄д ̄*川ポッ
現代では野生のウズラはレッドゾーン入りして禁猟です。
てか、南九州にウズラが棲息してたことにビックリしたが、冬期間は南下して越冬するそうな。
あんなチッコイ身体で本州から九州まで移動するんだ~(@@)凄っ!
ちなみに戦国時代のウズラ狩りは食用じゃなくて愛玩・・・鳴き声が縁起が良いと武家で飼われてたんです。
ゲフゴホっ・・・ウズラに萌えて脱線した・・・え~と
ナミの情報リークに感謝した島津義弘は、
今城玉砕で滅亡した大河平氏御家再興を思い立つ。


家紋・島津 島津十字イメージ画像

いや、大河平を忘れてたわけじゃないとは思うんですよ。
でも、ネットもテレビも携帯もないんだから、大河平の誰が生き残ってるとかって、大河平側からアプローチしないと情報はワカランでしょう。
大河平は新参の島津家臣で、島津家臣の誰かと縁戚関係って訳じゃないですからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、ここで数話前の伏線で恐縮ですが、同じく生き残りで、ナミと隆次の姉弟からみて従弟にあたる隆重(落城時6歳)。
彼の存在を島津側が何時知ったかが、わっかんないのよ~~~
本藩人物志だと大河平隆重は1598年に朝鮮の役で35歳没になってるんです。
没年齢から逆算すると今城落城時点は1歳 ヽ(。_゜)ノ ?
そのくせ落城時は6歳とも書いてる・・・どっちやねん!!!(# ゚Д゚)・;'.

大河平系譜も本藩人物志と、えびの市側とは違ってるんです。
ナミが1568年時点で子宝に恵まれなかったのは前回書きましたが、その後も恵まれず(´・д・`)
で、従弟の隆重を養子に迎えてるんです。
が、本藩人物志では隆重の子・隆商が養子になってて、隆重を大河平当主としてカウントしてないの。
つまるところ島津側も戦国期のバタバタで、大河平隆重の事をイマイチ把握してなかったみたいなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく、島津義弘はナミの夫・皆越六郎左衛門に大河平の名跡を継がせる事を思い付き、
その説得役として飯野衆・遠矢良賢を派遣したんです。


もしナミの夫が御気楽に妻の利敵行為に気づいてなかったとしたら、
目の前に説得に現れた島津義弘家臣から聞いたことになりますな・・・( ゚Д゚)y─┛~~

で、遠矢良賢が説得に皆越に入った時期も、その時の遣り取りなども記録がなく、
更には決断した皆越六郎左衛門とナミ夫妻が、真幸院・大河平入りした時期も記録がないんです^^;
遠矢良賢は説得役だけでなく、ナミ夫妻の出迎え役も引き受けてました。
(だって知ってる人じゃないと不安で可哀想ダロby義弘)

で、遠矢良賢は1572年5月4日に戦死してるので、ナミ夫妻が入ったのは1568年8月~1572年6月までの間になります。
ナミ夫妻が皆越村を離れるとき、相良側の追手を危惧した島津義弘は60人もの護衛をつけたそうです。
てことはナミがリークしたのは、もうバレてたって事で、一刻を争う状態だったのでしょう。
以前も書いたけど皆越(熊本県球磨郡あさぎり町)から、真幸院(宮崎県えびの市)に入るのは、
白髪岳と国見山かあるから加久藤トンネル出来るまでは難所コースだったんです。

なので女一人(ナミは大河平という他郷出身)の足で、追手(地元有利で間道知り尽くしてる)を躱すのは至難の業。
島津の出迎えと合流するまでは、夫・皆越六郎左衛門の助力がなければ、相良エリア脱出は難しかったと思います。

それと原典未確認な上にサイトからの孫引きなんで自信ないけど、義弘が付けた護衛60人が再興・大河平家臣の中核になったみたいです。
(だって皆越六郎左衛門自身に数十人も家臣がいたら、そもそも島津からの護衛は必要ないでしょ・(*´pq`)プププ)

大河平ツツジ

大河平領に入った隆次の姉ナミは、弟の無念と城兵の鎮魂のためにツツジを植えた。
それが今も保存会が大切に守る「大河平つつじ(別名・血潮つつじ)画像参照」です。
この赤は大河平つつじ独特のもので、他では出ない色なんだそうです。


15歳で玉砕討死した少年当主・隆次の姉ナミ・・・没年は寛永13年(1636年)10月27日で享年92、法名は「来香妙意大姉」
生前のナミは繰り返し大河平氏や今城の事を語っていた
そうで、
「レジェンドOF大河平」その言わば語り部のルーツとなった人物と思われます。

ナミに子供がいなかったのは残念ですが、他家からの養子ではなく男系血縁である従弟が系譜を繋いだ事は、
嫡流が絶える事が多かった戦国期において恵まれていたと思います。

さて、戦国大河平氏の紹介は、これにて終幕とします。
参照したデータを後日、年表としてアップしたいと思います。
ちょっと、間を開けて相良義陽編を再開します。では・・・それは・またの話 by^-^sio

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大河平氏_17【御家再興編・4桶平城】

はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
黒文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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1568年・・・大河平ナミは23歳。
相良家臣・皆越家に嫁いでから、推定で5年以上だがナミは子宝に恵まれなかった。
今城の落城玉砕で実家という後ろ盾を失ったナミに対し、口さがない者は容赦なく「石女」の烙印を押しただろう。

嫁が姑の介護を拒否したり婚家を足蹴にする時・・・それは往々にして婚家が嫁を蔑ろにし続けた結果が招いた場合が多い。
常日頃から大事にされていれば、嫁ぎ先へ明らかに迷惑になる行動は出来ない・・・武家の妻なら猶更だ。

ナミが情報を入手した顛末なんだけど、『諸県興亡』によると(要旨抜粋)
島津家が菱刈家との戦いに突入した際、永禄11年8月に飯野城を挟撃すべく伊東義祐は、相良に密使を派遣した。
その使者が皆越家に泊まりその使命を語った。
それを聞いたナミは腹心の八重尾岩見を遠矢良賢に派遣、その事実を伝えさせ、遠矢は直ちに義弘にこの事を伝えた。

これって立ち聞きした・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
ただ時期については書かれてないです。

いずれにせよナミの軍事情報リークによる利敵行為は、
離縁とか尼寺行きなんて生温いものではなく、土牢へ生涯幽閉か速攻成敗されるレベル。
ナミの夫・皆越六郎左衛門は妻を離縁も成敗もせず、相良や皆越一族の追手から守ったのだろう。
(もっとも「大河平再興当主の座」というニンジンがぶら下がってたけどwww)
(傍証となる史料はネタバレになるんで今は内緒(^ -)---☆Wink)

ちなみに相良側には、ナミの軍事情報リークの顛末などなどは一切記録はない。
だってね~~相良家にしたら恥ずかしい話だもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

人物・相良義陽大河平編では悪役な相良義陽イメージ画像^^;

大口城攻略~後半は親指武蔵野異名をとった新納忠元が中心なので、
相良氏まで突っ込んで調べてない普通の?島津ファンなら「大口城=新納忠元」のイメージの方が強いかもです。
ですが、前半の段階では攻略の中心は猛将・島津義弘でした。

1568年1月に大口城を攻略しようとした島津義弘が大敗北しちゃうんです^^;
これだけ書くと「なぁ~んだ」と思うかもですが、大口城では負けてるけど全体の形勢は島津有利に傾き始めてて、
相良義陽は安心できる状況じゃなくなってました。
真幸院が欲しい伊東義祐が、飯野を拠点にしてる島津義弘を煙たく思うのは当然。

島津義弘が菱刈氏(相良配下の大隅国衆)攻略で不在の隙に飯野城を挟み撃ちしようーー
という伊東と相良のタッグは、そんな空気のなかで組まれた。
その作戦が実行に移されたのが1568年8月
既に島津側はナミの情報リークによって準備万端(=^・ω・^=)v ブイ
相良勢は大明神城で進軍を阻まれ、やむなく伊東勢は田原山に桶平城を築く。

伊東軍がエリア内に築城した事に対し島津は速攻でリベンジした。
登場するのが先に挙げた島津義弘家臣にして飯野衆・遠矢良賢(とうやよしかた)なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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