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【後篇・椎葉山事件】人吉藩初代藩主編5栞59

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相良家老は犬童頼兄♪(*´○`)o¶~~♪一人目の妻は椎葉の露袈裟ちゃん~

椎葉に残る記録は「椎葉山根元記」と「椎葉山の由来」の二つ。

どちらも原史料を元に江戸中期頃編纂されたらしい、おそらく人吉藩相良家支配になった直後くらいに成立したのではないか?と、推測されている。

「根元記」が村役場に伝存したせいか固い漢文調に対し「椎葉山の由来」は十根川神社の社宝で物語風になっている。

平家落人伝説から始り、相良の獺野原(うそのばる)の戦いも載ってる~~( ゚д゚)ンマッ!!

頑張って検索したけど、ネット上ではどちらの記録もPDFにアップ公開されてなかったil||li _| ̄|○ il||l


相良頼房イメージ画像

シオは椎葉で起きた最初の騒動は、相良家が扇動したと推測してます(実行犯?は犬童頼兄)

この妻うんぬんですが、詳細は不明です。

とにかく椎葉が欲しかった相良家は、その手始めとして椎葉衆代表である那須弾正の娘・露袈裟姫を犬童の妻に迎えた。

もしかしたら「相良頼房の室」と偽って誘い出したかもです。記録詳細が判らないので推測~~

ところが露袈裟姫は「不義の罪を犯した」と犬童頼兄から離縁され、椎葉に追い返されたんです

草深い山奥リアルもののけワールド・椎葉。

純朴な山人たちにはアンビリバボーなスキャンダルでした。

もともと那須弾正に不満あった椎葉衆たちは「そんな破廉恥な家に従えるかぁ!」と大騒ぎになった

その騒ぎを、まぁまぁ~と宥めたのが高橋元種だった~

高橋元種は「九州の役」で、若年ながら黒田如水・小早川隆景を敵に回して10日以上も籠城した。

その器量を豊臣秀吉に見込まれ(&秋月一族勢力の分割)、国人領主から5万石の大名になった男だ。

元種は、やかまし屋連中を上手く宥めすかすことに成功する。

高橋元種がいる限り、椎葉は相良の思い通りにはならない・・・・

高橋元種改易が相良の陰謀・・・というほど、シオも妄想するつもりはない。

だが幕府が有馬家のために、はなから高橋元種を改易させる腹積もりだったとすれば話は別だ。

幕府の内偵調査要請に積極的に協力した・・・くらいの想像は許されるのではないだろうか。

高橋元種改易後に入ったのが、前篇で話した有馬氏(妻は徳川家康が溺愛する曾孫・国姫)

高橋元種というフタを無くした椎葉衆は、少し煽れば即一揆騒ぎになっただろう。

何せ椎葉代表の那須弾正は、物なりが少ない山奥なのに重税を課していたんです。


高橋家紋

常ならば、一揆扇動は重罪で許されることではない、だが椎葉の場合は毛色が違った

那須弾正は御朱印衆で、ことは幕府の権威に関わることだったからです

那須弾正は豊臣秀吉から「御朱印」をもらったのだが、その権限は江戸幕府においても継続して認められていた。

理由いかんに関わらず、御朱印衆に対し歯向かうことは、それ自体が幕府に対し不埒なことになる

当時の領地支配で、自分の見栄とか諸役を果たすために、ほいほい増税するのは普通だった。

一揆の理由が弾正が課した重税が原因でも「重税」そのもので弾正が処断されることは、おそらくなかっただろう。

それは弾正を「御朱印衆」とした幕府の専任ミスを認めることになるからです。
(罰するとしても、名目・罪状は違うものにするってこと)

揉め事だらけの椎葉を新当主・有馬氏が治めることは、かなりキツイ。

椎葉一揆は有馬氏(くどいようだが妻は家康溺愛の曾孫)が統治しやくするためのガス抜きとして、仕組まれたものではないだろうか?

そして幕府の意を受けて動いたのが相良頼房と家老・犬童頼兄ではないだろうか?


一揆鎮圧のため、相良家は幕命で動員されている(用心のため、加藤家・有馬家にも動員かかるが、主体はあくまで相良家)

通常であれば、一揆鎮圧の功績で椎葉は相良支配になったはずです。

相良家でも「それ」を期待し、一揆側のみを捕え処断した。

何より高橋改易前の騒動が相良家の企みであれば、口封じのため首謀者たちを何としても始末しなければならない。


相良家紋

「椎葉山根元記」と「椎葉山の由来」の他に、椎葉には「仙千代踊歌」という民謡が残っている。
 西の障子に笛吹くは、仙千代殿かよ、音のよさや。
 仙千代殿かと、出て見れば、憎い法師が陰をさす。
 青糸千がら、二千がら。赤糸千がら二千がら。
 四千揃えて、編みすいて、憎い法師を、
 さまわけて、かけて取ろうや仙千代を。
宮崎銀行HP内「日向民話集/中村地平著」http://www.miyagin.co.jp/pleasure/index.html
仙千代は15歳の美少年で横笛の名手。那須弾正の甥だが優しい気性を領民に愛されていた。

一揆勃発の日、仙千代は叔父・弾正所蔵の本を読むために、たまたま弾正の向井山城を訪問してたらしい。

中村氏の民話集によると、那須弾正は命惜しさに、椎葉衆が愛する仙千代を楯にしたそうだ。

仙千代を認めて一瞬怯んだ一揆側だが、その見苦しさに逆上~弾正は仙千代もろとも殺された。

幕府に一揆を訴え出たのは、弾正の弟(仙千代パパン)主膳ということになっている。

一揆鎮圧後に主膳は出奔・・・残る妻・上嬢は「息子の死&夫の出奔」ショックで程なく死んだそうだ。

最初にあげた露袈裟(つゆけさ)姫の足跡は判らない。
だが自分の離縁が元で騒動になったのなら、、、、自害か、出家のどちらか、いずれにせよ悲劇だったに違いない。


で、肝心の椎葉だが、「虎の狸さんで相良のモノにはならず阿蘇氏預かりな件」

有馬「キリシタンで懲りたから、うちは面倒はイヤなの」
阿蘇「うちだって迷惑だ ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」

統治が上手くいかず、明暦二年(1656年)からは幕府天領となり、その支配を人吉藩相良氏に命じます。

有馬家に伝わる相良関連資料だと、初め相良では「お手柄ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ」と喜んだらしい。

が、冒頭にあげた「犬童の妻は~」と、伝承されてるところを見ると、椎葉では相良家に含むとことがあったっぽい( ̄ω ̄A;アセアセ

何せ一揆鎮圧は相良がメイン~~~150数人が処刑され、それらの妻子が20数人自害してるんです。

結局揉め事が絶えず、相良としても持て余し、お荷物状態になったそうだ( ̄ω ̄A;アセアセ



残る伝承が「一揆鎮圧の処置を恨んだ」ものなのか「相良が何事か仕組んだことへの怨嗟」だったのか。

いまも焼畑が続く、平和で静かな山里・椎葉・・・真実は霧の奥深く、いまも靄の中です。

次回、構想練るため間空きます~~それは・またの話 by^-^sio

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(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
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【前篇・椎葉山事件】人吉藩初代藩主編4栞58

日向は宮崎県椎葉~~N〇Kで焼畑を紹介してました~~平家落人伝説の方で知られてます^^/
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1612年(慶長17)2月~岡本大八事件が起きる

周り廻って相良にも関わるのだが、ザックリとウィキペディアです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

賄賂を貰った岡本大八は火刑、賄賂を渡した有馬も切腹を命じられた。

(ただしキリシタンだったので切腹を拒み、家臣に首を落とさせた)

だが死んだ有馬の嫡男・正室が、徳川家康が溺愛する曾孫・国姫だった。

実は国姫の生母・熊姫も家康のお気に入りで、目に入れても・・・というデレデレぶり。

というのも熊姫(孫)国姫(曾孫)母娘は、非業に死んだ家康長男・信康の血を引く姫君だったからです。

ということで嫡男が一度家督を継ぐ、有馬嫡男は幕命でキリシタンを迫害した。

だが領民を迫害することに良心が咎め(←これが普通の感覚です)キリシタンと関わりない場所への転封を願うようになった。

国姫を妻に持てば怖いものなし~~

幕府は、有馬家が入るに適当な地を選定しはじめる。

1613年5月17日~大久保長安事件~

またまたウィキペディア~スルー可
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この大久保長安事件で、連座として処分されたものは多いのだが、その中に日向・縣5万石の高橋元種がいる。

表向きの理由は、坂崎出羽守の訴状により改易となった。

坂崎は・・・なんというか、そのお騒がせ男です( ̄ω ̄A;アセアセ

有能なんだけど、性格がヤバい男で・・・危ない逸話があるけど、ここでは割愛。別の機会にやります。

有馬氏(の妻の可愛い曾孫国姫のための)新天地を物色してた幕府にとって、坂崎の訴訟は渡りに船。

高橋元種は「初めに改易ありき」で、裁定といいつつ坂崎とも対決することなく処断された。


相良家紋

高橋家の後に(予定?通り)有馬氏が入るのだが、相良家と米良山・椎葉山を巡る国境問題も持ちこされてしまったらしい^^;

有馬家によると「相良は米良・椎葉に執着してた」と勘繰っています。

このあたりは微妙です、結果だけみて言うのはカンタンですから^^;

ただ、有馬家所蔵の古文書の中に相良関連のものがあるんです。

専門研究家の裏付けがあるわけでなので、これは「子孫補正・年代の読み間違いがない」ものとしての話です


その古文書のなかに「高橋改易前の4か月前に、相良家で高橋改易に触れている文書がある」というのです。

(古文書の解読に間違いないものとして)考えられる理由は[幕府からの高橋家内定調査依頼が隣国で縁戚の相良家に来てた]です


幕府の隠密が、江戸初期から活躍してたとは、ちと考えずらい。

第一、余所者が来たら方言・習俗の違いで即バレるだろう。

その点、相良なら隣で、日向とは長年「草の根レベル」の交流があるので、内定調査にはもってこい。

相良頼房は国境問題を自分に有利とするために、幕府からのスパイ依頼を引き受けたのでは?

子孫HPでは「相良家には表と裏の顔がある」と記しています。

これはシオも感じているところです。

とはいえ、発想に飛躍がありすぎるような・・・・面白ければ面白いほど、うかつに飛びついたらイカーーンと己を戒めておりました( ̄ω ̄A;アセアセ

ところが、その後に起きる「椎葉山事件」を調べているうちに「やはり相良家では高橋家を潜入捜査してたのでは?」という疑念が再び起きたんです。

歯切れの悪い記事で申し訳ない( ̄ω ̄A;アセアセ

史料が少なく、想像で補う部分が、いつも以上の多いので慎重になってました。


高橋家紋

椎葉は那須十三人衆という国人たちが支配していました。

その中で代表格である那須弾正が、秀吉から御朱印状を貰ったことを良いことに、驕慢の振る舞い甚だしく年貢の取り立ても過酷だったそうなんです。

そのため不穏な状態になり、それを高橋元種が宥め慰撫し、とりあえずは治まった。

「相良は椎葉山・米良山が欲しかった」

リアルもののけ姫の世界で山ばっかの土地なんだが、両方合わせれば1万5千石くらい(無理矢理捻くり出して)か?

1603年の訴訟裁定では「米良山は相良預かり」と提案されている。残るは椎葉山のみ。

高橋元種の慰撫で椎葉が平穏無事のままでは、相良が食い込む余地がない。

幕府からの内偵依頼があったとすれば、相良にとって椎葉を手に入れるチャンスなんです。

高橋領内だけでなく、椎葉周辺も調査したかもしれません。

1619年・・・日向・椎葉で一揆が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【哀しき未亡人】人吉藩初代藩主編3栞57

シオ地方は部分日蝕~既に始業中でしたのでチラリンと見ましたよ~^^/
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1608年(慶長13)10月4日

島津家久(四兄弟末弟)三女と相良頼兄嫡男・頼安が結婚した

家久三女は薩摩藩主・島津忠恒の養女、頼兄嫡男は人吉藩主・相良頼房の弟分という扱いだった

もちろんこれは政略結婚。相良と島津の関係強化のためです。

それぞれ自分の子供じゃないのは、この時点で忠恒に子供がいないのと、頼房のほうも子女は幼い。

双方、釣り合いとれるカップリングを引っ張り出しての結婚だった。

家久三女は再婚で、推定だが頼兄嫡男より6つほど姉さん女房だったらしい。

1609年?月?日~愛があれば歳の差なんて~二人の間に頼章(頼兄嫡孫)が産まれる

政略結婚のためとはいえ、相良家側が頼兄嫡男というのは、主君・頼房がいかに頼兄を重用していたかが解る。

で、その翌年には前回話した頼房の弟が寂しく病没。

1612年3月9日~薩摩藩主・島津忠恒が200人随行し人吉訪問((((((((((っ´▽`)っヤポー~

ちなみに200人は少ない方なんだって~~相良は2万石だからなぁ~人数制限したんだろなぁ

忠恒は相良頼安の屋敷に逗留~家老衆は新造の客屋に宿泊。

忠恒は青井阿蘇神社にて能を振舞われ、忠恒も自ら連れて来た中西出羽という能大夫に舞わせた。

また頼房嫡男・長寿丸も「三輪」という能を舞い、忠恒はご機嫌~

11日に願成寺へ参詣し、忠恒は琉球から取り寄せた芭蕉布20巻・砂糖1壺、上州綾並に燭台1対、仏前に金子500疋、他に白銀・樽・菓子などを寄進したそうです。

10日ほど滞在し、頼兄・頼安父子が案内役として終日饗応、最後は主君・相良頼房が赤池まで見送り、頼安はその先の大畑まで見送ったそうです。

すごい大接待( ̄ω ̄A;アセアセ~そうとう金がかかっただろうなぁ

華麗なる一族?隆盛を誇る犬童一族の陰で、一人の姫君が死んだ

1617年(元和3)10月~相良義陽の異母妹・亀徳姫が死去

噂ですが( ̄ko ̄)<亀徳姫は、犬童頼兄に蔑ろにされたあげく餓死したそうでつ・・・



相良家紋

シオは、この噂?も不自然だと感じるんです。

犬童一人が「悪」にされているが、「亀徳姫を蔑ろ」にしたのは「犬童一人ではなく相良家中示し合わせてのこと」だと思うんです。

( ̄ko ̄)<実は亀徳姫は、かつて島津義弘の妻だった女性なんです

島津義弘が2回政略結婚してたことを、知ってる人は「プチ島津オタ」に入ると思う。

そのうちの一人が、亀徳姫で無論、相良義陽存命中のことだ。

記録が少なくて二人が結婚・離婚した時期もハッキリしてない。

それどころか加治木に残る伝説では、亀徳姫は義弘との離縁を嘆いて入水したことになっており、彼女を祀る神社まである。
( ̄ko ̄)<そこの泉を〇〇すると、美人になれるそうでつよ~~~呑むか洗うか度忘れ・爆

結婚破綻の理由はズバリ「義陽が島津を裏切って、日向伊東と手を組んだから^^;」

どうも義陽は、異母妹の結婚破綻で政略結婚に懲りたっぽい。

自分の娘たちを政略の駒として使わず、中には病弱だからと手元に置き続けた娘もいるほどだ。

政略結婚に破れた姫様の再婚先テンプレ⇒⇒⇒身内(従兄弟率高し)

てことで亀徳姫は従兄弟・上村長陸と再婚する。

上村家と相良家の関係を話すと20話以上鉄板なので、結論から言うと「夫・長陸は謀反を企て討ち取られた」

ザックリ慶長年間と伝わるのみで没年不明 il||li _| ̄|○ il||l 

未亡人となった亀徳姫は尼となる。さらに息子も早逝 il||li _| ̄|○ il||l

不幸のドン底亀徳姫だが、それだけに世俗の喧騒とは無縁の静かな祈りの日々だったに違いない。

彼女の身辺が騒がしくなるのは「冒頭の家久三女の嫁入り」だろう。



人吉城二の丸

相良家にとって、義陽が何度も島津との同盟を反故・裏切りしたことは、いまさら蒸し返したくない黒歴史。

過去は忘れ、忠恒養女を人吉の地に迎え、島津との関係を新たに構築しなければならないからだ。

亀徳姫が住んだ「原城の下原」というところが、人吉からどのくらい離れているかは土地勘無しのシオには解らない。

だが「かつて島津義弘の妻だった姫様がいる」という事実そのものを隠したかったはず。

もしかしたら相良家は島津家に対し「亀徳姫は死んだ」ことにしてたかも。

島津家縁戚となった犬童一族への遠慮から、人々は亀徳姫に対し距離を置く。

人間の心理とは面白いものだ。

自分から距離を置き粗略にしたくせに、その後ろめたさから今度は「粗略にした事実」そのものを隠したくなる。

ふと「イジメっ子がイジメるのを、見て見ぬふりする周囲の子たちlを連想した。

「自分たちは悪くない」「悪いのは犬童」まるで免罪符代わりの呪文のようだ。



亀徳姫が死んだ年、家久三女と頼安の子・頼章が加治木で元服する。

「元服の儀」を差配したのは島津義弘だ。

弥栄の犬童に比べ、世を捨てた尼とはいえ、誰からも省みられることなく孤独に死んだ亀徳姫の胸中はいかばかりだっただろう。

政略結婚は戦国の世の常と、諦めて胸の奥にしまい、固く蓋してた恨み辛みが逆流しそうだ。

「亀徳姫は死後祟りをなした」らしいのだが、それも何があったのかハッキリしていない。

ただ「当家近代の怨霊と申すはこの良意(亀徳の法名)にて御座るべく候」と伝承が残った

猫が治まったと思ったら、今度は尼か・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

[粗略にしたのが犬童]であったとしても、それを見て見ぬふりして亀徳姫を死においやったのは相良家中全体がしたことだ


ふつう祟り云々という話があると、やれ祈祷だ、やれ地蔵堂だ~と大騒ぎするのが、この時代。

だが亀徳姫に関し「人々は沈黙」した。

伝承も伝説も、あるのは加治木で人吉には無い。

亀徳姫の墓は草の下に埋もれていた状態で、場所を示す印もなかったらしく、それを尋ね見付けだしたのが頼兄の孫の頼章だったそうな。

加治木に亀徳姫にまつわる神社があるから、そっちで慰められてるかなぁ^^;

さて、相良の外を見渡すと、天下では大きな事件が起きており、それは相良家にも関わってくるのだが、それは・またの話 by^-^sio゙

次回:椎葉山事件・・・たぶん前篇,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

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【当主の弟】人吉藩初代藩主編2栞56

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専横か忠臣か、しょせん受け止める主君の胸一つ


1603年3月9日~相良頼房長女・於鶴姫が誕生^^/
1605年7月1日~相良頼房次女・於万姫が誕生^^/

1605年11月7日~相良義陽生母・内城が死亡 ショボーン..._φ(・ω・` )
1606年11月7日~犬童頼兄の父・犬童頼安が死亡 ショボーン..._φ(・ω・` )

産まれ出ずる命あれば、逝く命あり。

父の死で犬童頼兄の専横に対するストッパーがいなくなった・・・というのが大方の観察だろう

だが、それは頼兄の主君・頼房にも言えることではないだろうか


1605年に死んだ内城は、20代目頼房からみて祖母にあたる。

彼女は、ただの老女ではない。

亡き父・義陽が若年当主となった時に、後見を務めた女性です。

「朝鮮の役」でも出陣した頼房に代わり、国許家臣らと協力し留守を守ってます。

おそらく彼女は相良家の内外に関し、一家言も二家言もあったはずで、頼房は頭が上がらなかったのではないだろうか。
(偉大すぎるグランマ)

犬童頼安に至っては大大大大功臣ですっ!!!

島津軍を相手にした水俣城攻防戦、義陽死後に若年の頼房を支えつつ各地へ転戦。

頼房の初陣前に父・義陽が死んでいるので「弓矢の駆け引き」を頼房へ指南したのは頼安かもです。

関ヶ原以降だと、頼安の戦歴は半ば伝説化してたんじゃないでしょうか。

この二人が存命中は、頼房も頼兄も「自分の思い通り」に事を進めるのは、難しかったと思います。


相良家紋

1610年6月23日に頼房の弟・相良長誠が死亡する


闘病生活の末、不遇の死でした。

相良長誠の不遇は、頼兄に起因してるんですが、兄で藩主の頼房が容認してたのでは?と勘繰ってました。

話は遡って「九州の役」の時、相良家は島津サイドから一転して豊臣政権に臣従します。

重臣・深水長智の功績です。

その時に深水は長誠を同行してて、当主である頼房より先に、弟の方を秀吉に拝謁させてるんです。

「相良家の誠意」として人質を差し出したのは、秀吉を喜ばせたのですが、一つ問題なのは拝謁が深水の独断だったことです。

当時、頼房は日向におり無事に生還できるか不明でした。

たとえ無事でも「島津加担の罪」で処断される可能性もあった。

深水は万が一の場合は弟・長誠を擁立する事態も想定し「保険として」秀吉にお目見得させたのでは?

というのがシオ推測なんです。

長誠は、相良家中で隆盛を誇る深水一族のいわば「手駒」

成長した長誠は、中城に居室を構えて移り住み、深水長智の養子・深水頼蔵の娘と結婚しました。



家督を巡る御家騒動が多い相良家・・・・頼房にとって深水一族の懐に入った長誠は「危険な弟」です。

長誠は「兄の家臣の列」に連なってはいない。

犬童一族と深水一族のパワーバランスの狭間で、危うい立ち位置にいる。

「朝鮮の役」の頃に、ついに深水一族VS犬童頼兄となり、犬童が勝利を治める。

さしもの深水一族も大きく勢力を削がれ、相良家中に犬童家に歯向かう者はいなくなった。

仕事キッチリの頼兄は、相良長誠に圧力かけて「深水頼蔵の娘」と強制離縁させてるんです。

仲睦まじい夫婦だったらしく、長誠はショックで病に倒れてしまう。

当時、頼房は二十歳前後なので、どこまで関わったか微妙だが、深水一族排除に関し頼兄に味方したのは事実です。

若年の頼房が当主としての基盤を確たるものにするためには「誰かが担ぎ出す可能性がある弟」を排除する必要があります。

ようやく立ち直った長誠は再婚するんですが、病気再発を理由に、再び頼兄が圧力かけて強制離婚。

失意の日々で病の床につき33歳の若さで亡くなった。

この頃になると頼房には嫡男がおり、当主スペアとしての長誠の存在は必要ない。

藩屏(はんぺい・徳川御三家みたいなもの)は、当主・頼房の直系から作るべきで余計な傍系は不要。

離婚させたのは、長誠の血統を残したくなかったからでは?

そして、それを願うなら犬童頼兄ではなく、地位を脅かされる可能性のある当主・頼房の方だろう。

頼房の嫡男が産まれた時点で、長誠が城を出て家臣(支族)になっていれば、違う最期だった?

相良頼房は、頼兄を巧みに使うことで、自分にとって不用・邪魔・危険な人物を排除したかもです。

シオ頼房はダークな件~~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

次回・御姫様の話・・・それは・またの話 by^-^sio

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【プロローグ】人吉藩初代藩主編1栞55

シオブロ書庫に「〇〇初代藩主編」が多いのには、実は訳がある

それはシオが「偉大な父を持ったために苦労した息子」萌え 川* ̄д ̄*川ポッ だから

まぁ初代藩主限定・・・というわけでなく、年代によっては初代藩主じゃない場合もあります^^b

てことで、相良家だと高名な義陽より、その息子・頼房ファンなんですぅ(マニア杉

武将としての能力なら、頼房は父を凌ぐ(`・ω・´)キリッ と思いたい・思わせたい~オタクのシャウト

初代藩主編第三弾?~~新章・人吉藩初代藩主編スタート^^/

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相良家紋

さて、関ヶ原/大垣城編にある西軍から東軍への寝返りと軍功で、相良家は人吉2万2千石を安堵された。

義陽の全盛期時代と比べると、かなり目減りしたが 小なりといえども本貫地を死守 したんですから立派なものです^-^

活躍した相良家老・犬童頼兄(いんどう よりえ)は、主君・相良頼房と共に徳川家康に拝謁。

これにより頼兄は、陪臣の身ながら「御目見得」格となりました。

陪臣が将軍家に拝謁するには、初回は主君の同席or推薦状必携なんです。

が、二度目以降は「御目見得」資格保持者として、単独での拝謁が可能になります。

つまり、頼兄は「相良家に何事か生じた時」は「将軍家(幕閣)と直接交渉することが出来る」スーパー重臣となったの。

「御目見得」の家臣がいることは、相良家にとってステータスになると同時に諸刃の剣でもあります。

「将軍家見知りおき家臣」は、たとえ主君といえども軽々に身柄をどうこうすることが出来ないからです。
(勝手にやると将軍家の威信を傷つけることになる)

むろん、豊臣政権五大老筆頭の徳川家康に拝謁した時点では、そこまで相良頼房も計算してなかったでしょう。

「御目見得」云々は、徳川将軍家・江戸幕府の権威が強くなるにつれ、やかましくなってきたんです^^;
さて相良家の周辺は・・・といいますと、まず寝返り仲間の秋月家・高橋家が領地安堵。
相良以前に寝返り済の伊東家も領地安堵・・・だったが高橋家と揉めた^^;
1601年に高橋と伊東が揉めた原因である城が、伊東家から高橋家に返還で解決。
(詳細は別章で扱う予定)
1602年に島津家が領地安堵決定。
同年に伊東家で「稲津の乱」が起きるが飛び火することなく終息。
天下分け目の関ヶ原の余燼は、おさまりつつありました。

1602年11月28日~相良家は青井阿蘇神社の両脇に祠を建て慈悲権現を鎮座。
相良家に祟りをなしたという老婆と飼猫・玉垂チャンの御霊を安んじたそうな。

この祟りの真偽は別にして、相良家では領内の人心を宥める効果を期待したことだろう。



人吉城二の丸跡

大垣城では義理と実と兄弟同士で協力してた相良家と高橋家。

だが関ヶ原以降に両家は国境問題で揉めてたらしい。

揉めた土地が米良と椎葉~~現地に住む国人たちをガン無視なのは毎度のことですな( ゚Д゚)y─┛~~~


言われてみれば解らないでもない。

父・秋月種実に似て策謀上手の高橋元種は、関ヶ原前に高千穂・三田井家を滅ぼし領地ゲッツしてるんです。

さらに米良領も我が物にしようとするんですが、こっちは失敗。

この高橋元種の動きを、米良・椎葉を挟んで隣にある人吉・相良家が快く思うはずがない。

「関ヶ原の戦い」で一時中断してたが、1603年に椎葉山と米良山の所属をめぐって訴訟に発展した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊臣家と江戸幕府のドッチに訴え出たんだろう( ̄ω ̄A;アセアセ

仲介役が片桐且元と黒田長政なんで、どっちとも判断つかないなぁ~(参照先に記載なし)

とにかく仲介二人は「相良氏は米良山を、高橋氏は椎葉山をあずかってはどうか」と提案したそうだ。

肝心の提案後が判らないのだが、結果からみると受け入れたようにも思う。



「専横があった」として後に失脚する犬童頼兄。

だがシオは「頼兄の専横」には、主君・相良頼房が一枚噛んでる(`・ω・´)キリッ と推測している。

相良家臣は主君・頼房を「まれにみる大剛の将」と褒め称えている。

朝鮮の役での頼房の奮闘ぶりを見ると、決してお世辞ではない。

相良頼房は家臣の専横に・゜・(PД`q。)・゜・メソメソ悩むようなヘタレ当主ではないはずです


そもそも犬童頼兄に大きな権限を与えたのは、頼房の方だろう。

そして、そのキッカケとなるのが、この国境問題ではないだろうか?

頼房には頼兄の辣腕が必要で、そのために彼を意図的に引き立てた・・・というのは穿ちすぎだろうか。

元より史料的な裏付けがとれる推測ではないので、頼房ファンのシャウトと軽く読んでお付き合い頂ければ幸甚です^-^

頼兄の専横や椎葉とのからみ、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
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相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
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参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
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時乃★栞

Author:時乃★栞
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