【処断】人吉藩初代藩主編10栞64
はじめに・・・快く史料提供して下さった監修様に心より御礼申し上げます。
相良関連記事のクォリティは、監修様なしには成立しませんでした。
本当にありがとうございましたm(__)m
寛永17年(1640年)犬童頼兄は6月21日に人吉を発ち、7月11日に大坂、翌日に伏見、7月21日に主従60余人と箱根の関所へ着いた。
すると関所側から「陪臣の身で多数召し連れる事は出来ない」と指摘された。
そのため頼兄は多数を残し8人を連れたのみで箱根を越え、小田原へ着くと稲葉美濃預かりとなり、更には刀の大小も取られ罪人扱いとなった。
そして同時期に人吉領内で「御下の乱」が起きる
首謀者は犬童(田代)半兵衛で、頼兄の養子です
ザックリとウィキペディア~
江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記、深水惣左衛門が遣わされた。
使いの内容は、頼兄の養子である田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛とも)を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。
しかし、半兵衛は既に頼兄の処分を知っており、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記と惣左衛門は半兵衛らに襲われる。
惣左衛門は無事に逃げのびるも、外記は捕えられ全ての指を切られた上で殺害された。
そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲み戦闘となった。
結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により121名が死亡した。
実は、この「御下の乱(or田代半兵衛の反)」にも不可解な点がある
話は犬童半兵衛の実父の死に関わることです。
頼兄は家臣・蓑田甚兵衛の妻に横恋慕した。
夫婦を引き離す為、蓑田甚兵衛を京都御屋敷永詰とし、その上で甚兵衛の妻と密会した。( ゚д゚)ンマッ!!
不倫ネー(*´・д・)(・д・`*)不義ネー
だが、これを聞き知った蓑田甚兵衛はすぐさま帰宅します。
頼兄は、この無断帰宅を落ち度とし、討ち手を差し向け蓑田甚兵衛を殺害。
頼兄は蓑田甚兵衛の妻を自らの妻とし、その子・田代半兵衛には400石を与え養子とした。
あ、姓が違うのは田代の地頭になってから、地名の田代を姓としてたからです^^b
この話が事実なら、田代半兵衛は実父の仇のために、主家に対し弓を引いたことになります。ヽ(。_゜)ノ へっ?
変でしょう?
養父・頼兄と連座させず、引き続き相良藩士でいられるって寛大な処置をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と断ったのよ。
藩政を牛耳る頼兄が処断されたら、田代半兵衛は亡父の蓑田姓に復し御家再興だって出来るかもなんだよ。
ふと大友宗麟の人妻略奪を思い出した・・・この話も不自然でした。
だって夫を殺され操を奪われたはずの人妻の嫡男が、謀反に加担せずに宗麟サイドで戦ってるからです。
これは想像なんですけど、田代半兵衛の実父が殺されたのは「相良家の意向」だったんじゃないでしょうか
当主を失い零落した母子を、犬童頼兄が不憫に思い身内として保護してたのでは?
田代半兵衛は使者の指を全て切り落とした上で殺す、という残酷なことをしている。
まるで相良家に恨みでもあるかのようではないか。
繰り返すが「相良家には黒歴史が多い」そして初代藩主・相良長毎の意向で、犬童頼兄は黒歴史の部分に深く関わっていたはずだ。
その過程で「主家から理不尽な仕打ち」を受けた犠牲者が、相良家中にいても不思議ではない。
だが田代半兵衛含め、頼兄の妻となった田代ママンも、田代の妻子も一族全てが討ち死に又は自害したので、真相は全て歴史の闇の中だ。
ちなみに死亡時の田代半兵衛の年齢は57歳。
田代ママン横恋慕の話って事実なら数十年前?不自然でしょう?^^;
それと犠牲者121名のための供養塔が残ってます。
一方、頼兄は幕命により津軽へ流刑に処された。
頼兄の取り調べが行われ、下すべき判決を評議中である寛永17年9月4日。
幕府目付である阿部・渡辺が共に酒井讃岐守宅にて諸氏が列座する中で、
「頼兄は津軽土佐守預けとし、頼章(頼兄の孫)は御尋ねに有りの儘を申したので頼寛(二代藩主)がそのまま召し使ってもよい」と申し渡した。
頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれた。
が、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住み、88歳(明暦元年)で亡くなりました。
現在の青森県弘前市相良町は頼兄の流刑地でして、町名は屋敷があったことに由来しています。
頼兄は学問に優れていたので、弘前藩士が多く訪ね来ては頼兄から詩歌の指南など受けいたようです。
先ほど一族全てが討ち死に又は自害、と書きましたが頼兄嫡孫・頼章は残りました。
頼章は1643年に生母(島津家久三女)のツテを頼って鹿児島に移住し、薩摩藩士として残りました。
移住の時、頼章は相良家へ暇乞いの挨拶をキチンとしてます。
ただし頼章に男子はおらず、養子(東郷氏・豊久甥)を迎えているので、犬童家嫡流は絶えています。
他に頼兄の子と言われている従者(犬童九郎左衛門)が、4代将軍に宣下による恩赦で罪を許され、球磨へ一時帰国を果たしています。
犬童一族を排除することで、藩主の権限を強化し藩政をコントロールしようとした相良家の目論見は、結果として失敗でした。
その後も人吉藩では「家老VS相良一門」の争いが収まらず、藩主が知らないままにコトが進んでたり終わったり。
果ては時の藩主が射殺される事件すら起きてます ( ̄ω ̄A;アセアセ
まったくもって、よく改易にならなかったものだと思います( ̄ω ̄A;アセアセ
やはりそれは、人吉藩初代藩主・相良長毎と犬童頼兄の築いた礎が、それだけ確かなものだったからではないでしょうか。
さて、相良家「初代藩主編」は、これにて終幕。
相良家の16代義滋から20代目頼房までの「相良5代記」は、また別章で語りたいと思います。
次は「初代藩主編シリーズ/肥前佐賀」それは・またの話 by^-^sio
相良関連記事のクォリティは、監修様なしには成立しませんでした。
本当にありがとうございましたm(__)m
寛永17年(1640年)犬童頼兄は6月21日に人吉を発ち、7月11日に大坂、翌日に伏見、7月21日に主従60余人と箱根の関所へ着いた。
すると関所側から「陪臣の身で多数召し連れる事は出来ない」と指摘された。
そのため頼兄は多数を残し8人を連れたのみで箱根を越え、小田原へ着くと稲葉美濃預かりとなり、更には刀の大小も取られ罪人扱いとなった。
そして同時期に人吉領内で「御下の乱」が起きる
首謀者は犬童(田代)半兵衛で、頼兄の養子です
ザックリとウィキペディア~
江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記、深水惣左衛門が遣わされた。
使いの内容は、頼兄の養子である田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛とも)を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。
しかし、半兵衛は既に頼兄の処分を知っており、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記と惣左衛門は半兵衛らに襲われる。
惣左衛門は無事に逃げのびるも、外記は捕えられ全ての指を切られた上で殺害された。
そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲み戦闘となった。
結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により121名が死亡した。
実は、この「御下の乱(or田代半兵衛の反)」にも不可解な点がある
話は犬童半兵衛の実父の死に関わることです。
頼兄は家臣・蓑田甚兵衛の妻に横恋慕した。
夫婦を引き離す為、蓑田甚兵衛を京都御屋敷永詰とし、その上で甚兵衛の妻と密会した。( ゚д゚)ンマッ!!
不倫ネー(*´・д・)(・д・`*)不義ネー
だが、これを聞き知った蓑田甚兵衛はすぐさま帰宅します。
頼兄は、この無断帰宅を落ち度とし、討ち手を差し向け蓑田甚兵衛を殺害。
頼兄は蓑田甚兵衛の妻を自らの妻とし、その子・田代半兵衛には400石を与え養子とした。
あ、姓が違うのは田代の地頭になってから、地名の田代を姓としてたからです^^b
この話が事実なら、田代半兵衛は実父の仇のために、主家に対し弓を引いたことになります。ヽ(。_゜)ノ へっ?
変でしょう?
養父・頼兄と連座させず、引き続き相良藩士でいられるって寛大な処置をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と断ったのよ。
藩政を牛耳る頼兄が処断されたら、田代半兵衛は亡父の蓑田姓に復し御家再興だって出来るかもなんだよ。
ふと大友宗麟の人妻略奪を思い出した・・・この話も不自然でした。
だって夫を殺され操を奪われたはずの人妻の嫡男が、謀反に加担せずに宗麟サイドで戦ってるからです。
これは想像なんですけど、田代半兵衛の実父が殺されたのは「相良家の意向」だったんじゃないでしょうか
当主を失い零落した母子を、犬童頼兄が不憫に思い身内として保護してたのでは?
田代半兵衛は使者の指を全て切り落とした上で殺す、という残酷なことをしている。
まるで相良家に恨みでもあるかのようではないか。
繰り返すが「相良家には黒歴史が多い」そして初代藩主・相良長毎の意向で、犬童頼兄は黒歴史の部分に深く関わっていたはずだ。
その過程で「主家から理不尽な仕打ち」を受けた犠牲者が、相良家中にいても不思議ではない。
だが田代半兵衛含め、頼兄の妻となった田代ママンも、田代の妻子も一族全てが討ち死に又は自害したので、真相は全て歴史の闇の中だ。
ちなみに死亡時の田代半兵衛の年齢は57歳。
田代ママン横恋慕の話って事実なら数十年前?不自然でしょう?^^;
それと犠牲者121名のための供養塔が残ってます。
一方、頼兄は幕命により津軽へ流刑に処された。
頼兄の取り調べが行われ、下すべき判決を評議中である寛永17年9月4日。
幕府目付である阿部・渡辺が共に酒井讃岐守宅にて諸氏が列座する中で、
「頼兄は津軽土佐守預けとし、頼章(頼兄の孫)は御尋ねに有りの儘を申したので頼寛(二代藩主)がそのまま召し使ってもよい」と申し渡した。
頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれた。
が、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住み、88歳(明暦元年)で亡くなりました。
現在の青森県弘前市相良町は頼兄の流刑地でして、町名は屋敷があったことに由来しています。
頼兄は学問に優れていたので、弘前藩士が多く訪ね来ては頼兄から詩歌の指南など受けいたようです。
先ほど一族全てが討ち死に又は自害、と書きましたが頼兄嫡孫・頼章は残りました。
頼章は1643年に生母(島津家久三女)のツテを頼って鹿児島に移住し、薩摩藩士として残りました。
移住の時、頼章は相良家へ暇乞いの挨拶をキチンとしてます。
ただし頼章に男子はおらず、養子(東郷氏・豊久甥)を迎えているので、犬童家嫡流は絶えています。
他に頼兄の子と言われている従者(犬童九郎左衛門)が、4代将軍に宣下による恩赦で罪を許され、球磨へ一時帰国を果たしています。
犬童一族を排除することで、藩主の権限を強化し藩政をコントロールしようとした相良家の目論見は、結果として失敗でした。
その後も人吉藩では「家老VS相良一門」の争いが収まらず、藩主が知らないままにコトが進んでたり終わったり。
果ては時の藩主が射殺される事件すら起きてます ( ̄ω ̄A;アセアセ
まったくもって、よく改易にならなかったものだと思います( ̄ω ̄A;アセアセ
やはりそれは、人吉藩初代藩主・相良長毎と犬童頼兄の築いた礎が、それだけ確かなものだったからではないでしょうか。
さて、相良家「初代藩主編」は、これにて終幕。
相良家の16代義滋から20代目頼房までの「相良5代記」は、また別章で語りたいと思います。
次は「初代藩主編シリーズ/肥前佐賀」それは・またの話 by^-^sio
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