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【処断】人吉藩初代藩主編10栞64

はじめに・・・快く史料提供して下さった監修様に心より御礼申し上げます。
相良関連記事のクォリティは、監修様なしには成立しませんでした。
本当にありがとうございましたm(__)m

寛永17年(1640年)犬童頼兄は6月21日に人吉を発ち、7月11日に大坂、翌日に伏見、7月21日に主従60余人と箱根の関所へ着いた。

すると関所側から「陪臣の身で多数召し連れる事は出来ない」と指摘された。

そのため頼兄は多数を残し8人を連れたのみで箱根を越え、小田原へ着くと稲葉美濃預かりとなり、更には刀の大小も取られ罪人扱いとなった。

そして同時期に人吉領内で「御下の乱」が起きる
首謀者は犬童(田代)半兵衛で、頼兄の養子です
ザックリとウィキペディア~

江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記、深水惣左衛門が遣わされた。

使いの内容は、頼兄の養子である田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛とも)を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。

しかし、半兵衛は既に頼兄の処分を知っており、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記と惣左衛門は半兵衛らに襲われる。

惣左衛門は無事に逃げのびるも、外記は捕えられ全ての指を切られた上で殺害された。

そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲み戦闘となった。
結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により121名が死亡した。


実は、この「御下の乱(or田代半兵衛の反)」にも不可解な点がある

話は犬童半兵衛の実父の死に関わることです。

頼兄は家臣・蓑田甚兵衛の妻に横恋慕した。

夫婦を引き離す為、蓑田甚兵衛を京都御屋敷永詰とし、その上で甚兵衛の妻と密会した。( ゚д゚)ンマッ!!

不倫ネー(*´・д・)(・д・`*)不義ネー

だが、これを聞き知った蓑田甚兵衛はすぐさま帰宅します。

頼兄は、この無断帰宅を落ち度とし、討ち手を差し向け蓑田甚兵衛を殺害。

頼兄は蓑田甚兵衛の妻を自らの妻とし、その子・田代半兵衛には400石を与え養子とした。

あ、姓が違うのは田代の地頭になってから、地名の田代を姓としてたからです^^b


この話が事実なら、田代半兵衛は実父の仇のために、主家に対し弓を引いたことになります。ヽ(。_゜)ノ へっ?

変でしょう?

養父・頼兄と連座させず、引き続き相良藩士でいられるって寛大な処置をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と断ったのよ。
藩政を牛耳る頼兄が処断されたら、田代半兵衛は亡父の蓑田姓に復し御家再興だって出来るかもなんだよ。

ふと大友宗麟の人妻略奪を思い出した・・・この話も不自然でした。
だって夫を殺され操を奪われたはずの人妻の嫡男が、謀反に加担せずに宗麟サイドで戦ってるからです。
これは想像なんですけど、田代半兵衛の実父が殺されたのは「相良家の意向」だったんじゃないでしょうか
当主を失い零落した母子を、犬童頼兄が不憫に思い身内として保護してたのでは?
田代半兵衛は使者の指を全て切り落とした上で殺す、という残酷なことをしている。
まるで相良家に恨みでもあるかのようではないか。

繰り返すが「相良家には黒歴史が多い」そして初代藩主・相良長毎の意向で、犬童頼兄は黒歴史の部分に深く関わっていたはずだ。
その過程で「主家から理不尽な仕打ち」を受けた犠牲者が、相良家中にいても不思議ではない。

だが田代半兵衛含め、頼兄の妻となった田代ママンも、田代の妻子も一族全てが討ち死に又は自害したので、真相は全て歴史の闇の中だ。

ちなみに死亡時の田代半兵衛の年齢は57歳。
田代ママン横恋慕の話って事実なら数十年前?不自然でしょう?^^;
それと犠牲者121名のための供養塔が残ってます。

一方、頼兄は幕命により津軽へ流刑に処された。

頼兄の取り調べが行われ、下すべき判決を評議中である寛永17年9月4日。
幕府目付である阿部・渡辺が共に酒井讃岐守宅にて諸氏が列座する中で、
「頼兄は津軽土佐守預けとし、頼章(頼兄の孫)は御尋ねに有りの儘を申したので頼寛(二代藩主)がそのまま召し使ってもよい」と申し渡した。


頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれた。
が、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住み、88歳(明暦元年)で亡くなりました。

現在の青森県弘前市相良町は頼兄の流刑地でして、町名は屋敷があったことに由来しています。
頼兄は学問に優れていたので、弘前藩士が多く訪ね来ては頼兄から詩歌の指南など受けいたようです。

先ほど一族全てが討ち死に又は自害、と書きましたが頼兄嫡孫・頼章は残りました。
頼章は1643年に生母(島津家久三女)のツテを頼って鹿児島に移住し、薩摩藩士として残りました。

移住の時、頼章は相良家へ暇乞いの挨拶をキチンとしてます。
ただし頼章に男子はおらず、養子(東郷氏・豊久甥)を迎えているので、犬童家嫡流は絶えています。

他に頼兄の子と言われている従者(犬童九郎左衛門)が、4代将軍に宣下による恩赦で罪を許され、球磨へ一時帰国を果たしています。


犬童一族を排除することで、藩主の権限を強化し藩政をコントロールしようとした相良家の目論見は、結果として失敗でした。
その後も人吉藩では「家老VS相良一門」の争いが収まらず、藩主が知らないままにコトが進んでたり終わったり。

果ては時の藩主が射殺される事件すら起きてます ( ̄ω ̄A;アセアセ
まったくもって、よく改易にならなかったものだと思います( ̄ω ̄A;アセアセ

やはりそれは、人吉藩初代藩主・相良長毎と犬童頼兄の築いた礎が、それだけ確かなものだったからではないでしょうか。

さて、相良家「初代藩主編」は、これにて終幕。
相良家の16代義滋から20代目頼房までの「相良5代記」は、また別章で語りたいと思います。

次は「初代藩主編シリーズ/肥前佐賀」それは・またの話 by^-^sio
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【嫡男死す】人吉藩初代藩主編9栞63

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スーパー官僚:土井利勝には「徳川家康隠し子伝説」があるのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

噂に悩んだ土井が「ソーダ!ヒゲを剃れば印象変わるんじゃネ?」と即実行

今を時めく大老の姿に「我も我も」と追随してヒゲを剃ったのが、ヒゲ無し侍の始まり・・・という俗説がある^^/



[家康 隠し子]で検索すると出るわ出るわ~4コマで収まりきれませ~ん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

冗談はさておき、初代藩主から[犬童一族排斥]の遺言を託された幕府目付の阿部四郎五郎と渡辺図書助。
実は二人は既に徳川家大老・土井利勝に頼兄処断の話をしていた。
だが土井利勝は「清兵衛父子を呼び寄せ仕置くことに、私曲のないよう」と歯切れの悪い返事だった。

どうも、土井にしてみれば頼兄が本当に「専横の臣」なのか訝っていたようだ。

頼兄の岡本の隠居所にしても「古城に隠居所を構え」たのが真実なら、頼兄処断以前に「一国一城令」に引っかかって人吉藩そのものヤバイはずなんです。

だが頼寛(よりひろ/二代藩主)は「(犬童頼兄を)呼寄せ(自分が)意見することは御断り申し上げる。」
さらに「彼の者(犬童頼兄)罷り在る間は、(公儀への)御奉公のことも通り申しまじくと案じ奉る」
「急度、隠密に仰せ付け下さる様に希望し奉る」

と、どこまでも幕府の裁定による処断を求めた。
理由として

一つには「人吉領内で内々に処理するには犬童一族の力が大きすぎ、一揆や謀反などされては困る」

いま一つは「頼兄は【お目見得格(将軍に拝謁する有資格者】だったので、相良家独断で処断した後で幕府にイチャモン付けられたら困る」
どこまでも「幕府からの裁定」という形をとる。「公儀の仕置き」となれば、頼兄本人は従わざるを得ない。

犬童一族で抵抗する者があったとしても、頼兄本人を江戸で拘束しておけば、損害は最低限で済むはずだ。
そしてこれらの話は、初代藩主・相良長毎の存命中に打ち合わせ済みだったに違いない。


1639年(寛永16)12月に二代藩主・頼寛は、上記の阿部・渡辺の同行で江戸から人吉へと戻った
明けて1640年(寛永17)3月18日、戻ったばかりの頼寛が参勤の為に人吉を発つという動きがあった
トンボ返りの慌ただしさにに城下では「Σ(´Д`;) まさかの国替え?」と緊張が走る。
同年4月28日~頼兄の嫡男・犬童頼安が急死する(享年50歳もともと頼安は3月から藩主・頼寛に従い江戸に参府するはずでした。

それが出立の朝に俄かに頭痛となり、後日に出立し追い付きますが、4月の中旬より重篤と成り、同月28日に急死したんです。
(ちなみにその年に2名、三回忌に6名の殉死者有り)
50歳という年齢ですので、卒中とかありえる話なんですが、このタイミングは・・・さては一服盛られたでござるな( ゚Д゚)y─┛~~

頼兄本人は「専横の仕」の名目で処断できても、その子・頼安がいるかぎり犬童一族は息を吹き返すだろう。
完全に排除するには、嫡流を絶やさねばならない。これ基本です^^/
逆に嫡孫・頼章が無事だったのは、彼の生母が島津家久三女だったからでしょう。

犬童頼章は初代薩摩藩主の従妹で養女の息子です。
初代薩摩藩主は既に亡くなっていますが、頼章が二代薩摩藩主の血縁であることは変わりません。
頼章が不審死を遂げたら、島津家との友好関係にヒビが入るかもしれない。だから頼章には穏便に人吉の地から去ってもらうのがベスト。
島津氏と気まずくならずに犬童頼兄を処断するためにも「裁定は公儀の仕置き」である必要があるんです

同年6月~頼兄が人吉を発ち江戸へ上がる
4月に嫡男を失ったばかりで喪中なのに?「ぇえ?!(゚ロ゚屮)屮」
一連の出来事からの緊張か、慶長12年から続いていた人吉城普請が、一時中止になってます。

この急な召し寄せに、頼兄は孫・頼章へ手紙(5月29日付)を認めた
頼兄手紙:(上記の渡辺)図書様御指図次第(領地役目など)召上げらる可く候事、御家(相良家)の為たる可しと存じ奉り候

惣領息子の突然の死に、既に何事か覚悟を定めていたのであろう。
同年6月21日・・・頼兄は人吉を出立したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【弾劾】人吉藩初代藩主編8栞62

初代藩主は既に亡くなってますが、犬童頼兄排斥は初代藩主の意思だと推察しているので、書庫タイトルはこのままで行きます^-^
初代藩主・長毎(初名は頼房)と二代藩主・頼寛(よりひろ)が、犬童一族排除を決めた理由に、家督のことも絡むんじゃないかと推測してました。
父・長毎の死亡時で頼寛は既に数えで37歳でしたが、未だ嫡男に恵まれてなかったんです。

1618年(元和4)12月13日に頼寛(後の二代藩主)と、犬童頼兄の娘・亀鶴が結婚した。
頼寛は19歳で亀鶴は2つ年上。

後に産まれる頼寛嫡子の生母は、側室・片岡正秀の娘で、頼寛と亀鶴の間に男子は産まれてなかったんです。
初代藩主死亡時で頼寛室・亀鶴は39歳・・・・・この時代では難しいんじゃ・・・

「床入りは35歳済んだら遠慮する」大奥ものなんかで出てくる仕来りが、いつごろから始まったかは知りません。
ですが10年以上にわたり妊娠の気配もないとなると、さすがに側室を考えなきゃならないはずです。
養子を迎えるには頼寛は、まだまだ若いんですから。

城・人吉城、二の丸御殿の長塀跡
人吉城二の丸跡

呑気に構えてた?初代藩主も、嫡孫の顔を見ないまま死ぬのは不安でたまらなかったでしょう。
舅の犬童頼兄が健在なうちは、側室を迎えられる雰囲気じゃなかったかもです。

以前に犬童と相良はコインの裏表のようだ・・・と書きました。
激動の時代を共に乗り越えた犬童頼兄にとって、主家・相良家は運命共同体の気持ちだったかもしれません。

自分の娘に子供が出来なければ、養子を迎えればいい。
むろん迎える養子は、犬童一族の子弟をイメージしてたことでしょう。

だが、それは相良家にとって「家督に犬童の子弟を押し込むとは、家臣の分際を超えている」ことです。
かつて相良家では御家騒動のピンチを乗り越えるために、上村家から養子を迎えたことがあります。
その上村家だって、相良家の支族で全く赤の他人ではなかったんです。
この「不安」は、あくまでもシオの推測です。

が「犬童一族の藩独占状態と嫡男いない状態」が続けば、いずれ家督問題が浮上した時に、犬童家が相良の家督を左右することになります。
(相良家にとって)最悪の場合、犬童一族に家督を乗っ取られるかもしれない。
御家騒動が多い相良家では「何としても回避したい未来予想図」で、そのためには犬童一族を排斥する必要がある

家紋・相良 相良家紋ロゴ

二代藩主・相良頼寛は、亡き初代藩主・長毎の遺言(頼兄一族排斥)を託された幕府目付、阿部四郎五郎・渡辺図書助の両名に書面を出した。

一、清兵衛(←犬童頼兄)は父・長毎の時より気隨我儘で、江戸に呼寄せて御意見仰せ開かれても、一時は従っても、内には拙者(頼寛)や家中の者共に仇を申すべく、役者幼少から家老をしてきたので、家中の者・町人・召使までも身内の者ばかりで、たとえ意見仰せ聞けられても、拙者へ隔心を存じ、如何様の悪事をするかも知れず、呼寄せ意見することは御断り申し上げる。

一、この様にして、彼の者に在所仕置仰せ付けられても、万事拙者によき様にはしまじく、我儘は長毎時代からで、拙者の代になっては、島原乱後は、岡本の古城に隠居所を構え何たる悪事もしまじく、拙者が江戸にある時に徒党を企てるかもわからない。

一、此度、右様の事申し上げた事を彼の者が少しでも承付候えば、数年の我儘の悪事をしており、覚悟身構えることは必定で、隣国の騒ぎを仕出し申すべく、彼の者罷り在る間は、御奉公のことも通り申しまじくと案じ奉る。彼の者へ偽り申し掛かる儀は毛頭なく誓言申し上げる。急度、隠密に仰せ付け下さる様に希望し奉る。
(寛永16年12月14日)「人吉市史より抜粋」


頼兄を江戸に呼び寄せ弾劾するための段取りだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【隠れキリシタン大名疑惑?】人吉藩初代藩主編7栞61

1位と2位を行ったり来たり~^^/
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前回で犬童頼兄のキリシタン疑惑をチラリン書いたら、なんか受け?が良かったんでキリシタンネタ投下~~

といっても文献的な裏付けがないので、あくまで「異説の段階」なのを御了承ください^-^

てことで本日の本題~キリシタン疑惑なんでつが

( ̄ko ̄)<実は、頼兄だけでなく、主家の相良家そのものに「"隠れ"キリシタン疑惑」があるんでつ~

この話の出所は、地元史家で人吉市文化財保護委員をされている原田正史氏の『ひとよし歴史研究第9号』です。
原田氏によると、日本在住の宣教師が本国に送っていた報告書に「相良氏がキリシタンであると明記していた」らしい(ただし上記寄稿文には記載してない)
さらに人吉城の地下遺構から十字架が後刻された宝塔も見つかっているようなんです~~~
人吉の願成寺には「相良燈篭」という、他の地域の石燈篭には見られない三ツ星状の穴が開けられ、ダイヤ型火袋を持つ燈篭があるとか。
で、三ツ星はキリスト教教義の真髄である三位一体を示すもので、隠れキリシタンの証しではないか~~ってことなんです。
ちなみに三ツ星ダイヤ型は藩主、及び藩主格の人物の燈篭だそうです。
灯篭は当主死後に供養のため造成されるとかで、21代・頼寛から始まり34代まであるそうな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すごい微妙・・・・

まず宣教師の書いた「相良氏」が、人吉藩主の相良氏を指すかどうかがハッキリしてない。

便宜上、犬童~~って書いてるけど、頼兄は主君・頼房から「相良姓」を拝領してて名乗ってたの。

宣教師は報告あるから筆まめなんだけど、勘違いが多いから「相良」が「頼兄」を指す可能性も無きにしもあらず。

禁教令が全国発布されるのは1613年で、21代・頼寛は数えで14歳。

産まれる前に秀吉が伴天連追放令を出しているから、頼寛が宣教師と接触する可能性は低い。

じゃ宣教師と接触できる世代で、頼兄以外の相良関係者・・・というと該当者がいます。

それは頼寛の曾祖母(義陽ママン)内城です。

内城(洗礼名ゴアン?)ではないか・・・といわれる十字架の後刻された宝塔があるそうな。

その内城は1605年に亡くなってる・・・頼寛クン数え6歳・・・この年齢で信仰を刷り込み?(-ω-;)ウーン


高橋家紋

え~と、ですね、実は縁戚の高橋元種にもキリシタン疑惑があるんでつ~~

さらに頼寛ママンの秋月竜子には、高橋元種娘説があるんでつ~~~

出典:相良家の「御當家日記」に「高橋元種の縁辺者」との記載あり

(嫁ぐ時に秋月家養女になったって寸法)

改易後の預かり先である棚倉に高橋元種の墓があるんですが、これは明治になって秋月家、立花家、相良家が建立したものなんです。

さらに元種の墓石(こっちは子孫が建立だったはず)には、十字架の後刻があるんです。

大蔵系高橋家に所縁がある立花宗茂は、元種の高橋家御家再興を幕府に願い出てるんですが、叶いませんでした。

子孫様は「元種がキリシタンだからダメ」だったのでは?と推測してます。

竜子が元種の娘で、元種がキリシタンだったと仮定して、竜子もキリシタン教義に慣れ親しんでいたと仮定する。

そうしたら曾祖母・生母からキリシタンの教えを頼寛クンが受け継いでも不自然じゃない。

って仮定だらけですがな~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

とにかく文献が少なすぎる、てか無い~~~~~~~~~~~~

もともと相良家は御家騒動が多い・・・それだけ秘密・黒歴史が多い家。

よしんば本当にキリシタンだったとしても、やばそうな文書は始末してるか、そもそも記さず口伝のみだったかも。

その口伝(そういうのがあったとして)も、途切れてると思う~~~

なぜなら相良家は血統が途絶えて養子(ちなみに秋月家)が継いでるからなんです。

「相良燈篭」には(キリシタンorそれ以外の)由来があったかもしれないが、代を重ねて行くうちに単なる慣習として造成することが続いていたのではないだろうか。

では、犬童頼兄が「島原の乱」で出陣を渋った・・というのはキリシタンだからなのか?


相良家紋

それも飛躍しすぎな気もする。

戦国時代って、キリシタンでなくても南蛮風の甲冑や意匠を凝らしたり、ローマ字の刻印作ったり。

現代人が十字架ネックレス・ピアスするみたいな、ファンションとしての南蛮コーデもあったからなぁ。

文献的資料が無い・・・となると、トンデモ説にしかないらないのよね^^;

頼兄は性格的に、戦となると慎重になるタイプなんじゃないだろうか?

官僚としては非常に優秀だが、それだけに戦場という不確定要素の多いところでも「確実さ」を求めるあまり、ある意味臆病になるかもしれない


かつて「朝鮮の役」で明軍の大軍が来る・・・ということで、犬童頼兄はじめ家老たちは、守備していた城を放棄し撤退を進言した。

それに対し主君・相良頼房は「敵は兵糧は携帯用のみで長期対陣する気はない」「こちらから討って出るべし(`・ω・´)キリッ」と決断。

相良勢は頼房の指揮の元、見事に明軍を撃退し、城を守りとおしたんです。

この鮮やかな采配ぶりに家臣たちは口ぐちに「まれに見る大剛の将」と主君を褒めたたえた。

武将としての能力は、頼兄より主君である相良頼房の方が、おそらく上だろう

頼兄の異能は、惣領として家中を束ねる頼房のリーダーシップ力とは別種のものです

相良頼房は感覚として、そのあたりの違いを解ってて、自分の力量に対しても自負・自信があったはずだ

だから犬童家に大きな権限を与えても畏れなかった・・・なぜなら「犬童の行動は自分の掌中にある」という自信があるからです


だが、嫡男の頼寛では、そうはいかない

頼兄は、かつて上司だった深水に「頭を出させず」と言われたほどの切れ者(仕事モードに入ると妥協無しのキツイ性格そう)だ

頼寛では、犬童頼兄に性格的にもキャリアでも、とうてい太刀打ちできないだろう

何より犬童頼兄は、頼寛の正室・亀鶴姫の父・・・つまり舅なんです( ̄ω ̄A;アセアセ


頼兄の建てた隠居所に、住民の一部が移住し市が立つ。

老いの坂を迎えた頼房は、この時に「自分の死後」を懼れた。

そして嫡男に犬童一族排除の方法を授けたに違いない。

「島原の乱」勃発ででタイミングがズレたが、それは実行された。

清兵衛頼兄よ・・・犬童の栄華を赦すのはワシ一代のみだ。。。相良家に忠義を尽くすなら、引き際を違えるな・・・・by地獄にて頼房

それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)(球磨の部屋)(田舎暮らし/古文書館)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^;

【遺言】人吉藩初代藩主編6栞60

(-ω-;)ウーン、と悩んでも言霊降りて来そうにないので、ぽつらぽつら~と考え入力しつつ、まとめてみます^-^

1620年(元和6)6月20日~相良義陽の正室・千代菊が死亡

相良16代義滋の娘・千代菊・・・相良家の全盛期から江戸期を、どんな思いで生きて来たのか・・

1628年(寛永5)10月28日~人吉藩初代藩主・相良頼房長女、於鶴が伯耆左近との結婚準備中の26歳で病没

うぅ・・・気の毒だなぁ~~

同年11月13日~犬童頼章(頼兄孫)と於万姫(頼房次女24歳)が結婚

( ̄ω ̄A;アセアセ・・・藩主の長女が亡くなって一月も経ってないのに・・・変更しないんだ・・・

「飛ぶ鳥を落とす勢い」とは、この頃の犬童頼兄のことを言うのだろう。

主家である相良家と家老である犬童家は、まるでコインの裏表のようだ。

1629年(寛永6)7月11日~頼房実母・了心尼が死亡

同年9月22日~犬童頼安の妻で、島津家久三女が死亡

家久三女の死亡時期には、寛永5年9月22日説がある(出典:垂水島津家家譜)

でもそれだと、頼章は母親の死亡直後に結婚したことになる。

家久三女は初代薩摩藩主・島津忠恒の養女ということも考えると、彼女の喪中に結婚は考えずらい。

やはり南藤蔓綿録(相良側の記録)の年月日が妥当だと思う。

1630年(寛永7)4月8日~犬童頼章と相良於万の間に長女・万徳誕生^^/

1634年(寛永11)1月18日~相良頼房正室・秋月竜子(63歳)で死亡


1635年(寛永12)?月?日~犬童頼兄が岡本に隠居所を建てる

頼兄は、ここに翌年移り住み、その時に人吉の住人を一部移住させ町を形成。

3月13日に市が立ち、中球磨の者達が参集したらしい。

頼兄が隠居所を建てたのは、主君の頼房も隠居を考えてたからじゃなかろうか。

正室が亡くなって、ショボーン..._φ(・ω・` ) と弱気になったかもです。(あくまで想像ネ)

1636年(寛永13)5月4日~犬童頼章の妻・相良於万が32歳の若さで死亡

同年6月13日~人吉藩初代藩主・相良長毎(頼房)が63歳で死亡



相良家紋ロゴ

相良頼房(改名して長毎ですが、便宜上このままで行きます)は、死に際し遺言を託した。

★頼房の遺言

一、清兵衛(頼兄)、内蔵助(頼安)、喜平次(頼章)、三人之者共之儀ハ、兼而貴所と内談申置候通題目ニ候、時分を以、分別専一に候事

遺言を託されたのは阿部四郎五郎・渡辺図書助の両名

ですが、実は両名は相良藩士ではなく、幕府から派遣された目付です


自分は頼房が「犬童一族の排除」を考えたのは、頼兄が隠居所を建てた前後くらいじゃないかと考えてます。

激動の時代・・・相良家が生き残るためには、犬童一族の力が必要だった。

だが、自分の代以降も犬童一族をそのままにすれば、将来必ず相良家にとって禍根になると考えたのだろう。

幸いにして犬童頼章と相良於万の間には娘しかない。

さらに、その於万も死亡し、縁戚としての直の関わりは無くなる。

「自分の死」がチャンスだと、息子・頼寛に指示したに違いない。

ところが実際は「頼房の死」直後には何も起きなかった

起きたのは「島原の乱」~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮~


これでは犬童排除どころではなく、むしろ犬童が必要~~( ̄ω ̄A;アセアセ


犬童頼兄には「キリシタン疑惑」があり、根拠の一つとして「頼兄は島原への出陣を渋った」と言われているそうだ。

が、実際の相良家は乱に出陣しており、相良勢を率いていたのは頼兄の子の頼安、並びに孫の頼章でした。

この時期には頼兄の隠居所は完成しているので、頼兄本人は既に隠居状態だったと思います。

「渋った・拒んだ」ウンヌンは、頼兄の預け先となった弘前藩で言われていた頼兄の罪状。

でも史実の相良家&頼兄一族は、ちゃんと出陣してるので、頼兄に罪状らしい罪状というのは実際には無かったのではないでしょうか。


1639年12月14日・・・相良頼寛は、父・頼房から遺言を託された二人に書面を出したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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