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【薩州家_島津義虎までの その11】

あちこちのカテゴリや記事で何度か書いてますが、室町時代は緩やかな支配関係でした。
国衆であれ、分家であれ、実力さえあれば地元の守護職の被官になるだけでなく、室町将軍家の御家人になる・・・つまり両属が可能だったんです。
ですから、薩州家当主の拝謁を許した室町将軍家も、薩州家を島津宗家の分家で守護職の被官であると同時に、一つの独立した勢力とみなしていました。

1563年(永禄6)~義虎(27歳)は上洛し足利義輝公に拝謁し、諱のうち「義」の偏諱(※へんき=一文字拝領)を受ける川* ̄д ̄*川ポッ 

すいません~~便宜上(一番好きな名前)義虎で呼称を統一してましたが、実は薩州家6代目はチョコチョコ改名してるんです^^;
将軍家から偏諱前は島津の通字が入った陽久でしたが、義の字を拝領して義俊に改名し、最終的に義虎に改名します。
つまり、この時から義虎は足利義輝の被官になったわけです^-^

亡き父・実久も同じく足利義輝に拝謁しているので、6代目として踏襲したのかもだし、
(薩州家の)分家・家臣・国衆に対する総領ステータスとしての意味合いなどなど、理由は色々混ざってると思います。
義虎が上洛したのは一度だけで、その後に将軍家と交流あったかは判りませんが、記録としてはなさそうです。

宗家の座を巡っての争いや、そこまでじゃないけど政治的対立などで島津宗家と対峙してきた薩州家は、
ゴタゴタの都度に宗家と縁組を結んでるいるので凄い血族婚になり、
結果として平成現代の島津宗家にも改易されて滅んだ薩州家の血脈が流れているんです^-^

家系図・薩州家
それにしても、これだけ血族婚が数代続いたら、遺伝子学的にアレなはずなんですが、
どうゆう作用か島津はDNA良いとこどりに成功しまして、見事な戦闘民族シーマンズが完成しちゃいました(@@;)
実は戦国ニュータイプだったりして,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、前回紹介した宗家から義虎に嫁いだ御平ですが、嫁いだ時期は不明です。
ただ御平の生年月日(天文20年8月22日)とハッキリしているのと、嫡男誕生が永禄9年なので、結婚は永禄6~7年くらいじゃないかな~と推測^^

というのも、永禄5(1562)年に相良義陽が島津を裏切り 日向・伊東義祐に寝返るという事態が発生しているから。
1565年(永禄8)3月20日~島津義虎は長島領主・天草越前守を攻め殺し、長島を押領しています。

裏切った相良氏に打撃を与えるために、もっとも効果があるのが財源である明との交易ルートを脅かすこと。
具体的には相良氏配下である天草地方に侵攻することです。(←交易ルート必須の制海権がヤバくなる)
天草地方の一つである長島は、薩州家本領の出水とは目と鼻の先でして、平成現代は国道389号線で陸路で移動できるくらい近いんです。

義虎の長島押領が島津宗家からの指示なのか薩州家の独断なのか、ハッキリと判る文書は残っていません。
が、宗家から姫が嫁いでいるのを鑑みると、島津宗家が無関係とは考えづらいです。

少なくとも御平が嫁いだのは、相良義陽の裏切りという不測の事態が起きた為に、
相良エリアと隣接している薩州家との関係を、より一層強化する必要が生じたからじゃないでしょうか。

自分は薩州家と伊作で島津宗家が、本当に和睦したのは御平が嫁いだ時なのだと感じています。
年は15歳も離れていましたが、二人は仲睦まじかったようで、義虎の6人いた息子は全て御平が生母。
出産ペースも16歳、19歳、21歳、25歳、29歳、31歳と凄いハイペースです(@@)
床上げ早々からハッスル・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ゲフゴホ、・・・乳母がいるとはいえ良く身体が持ったなぁ ( ̄ω ̄A;アセアセ
この出産ハイペースは、御平が実家である島津宗家と薩州家の融和に尽力した結果かと・・・^^;

薩州家の歴史に長々と御付き合いありがとうございました。
この後の薩州家の歴史はカテゴリ「島津薩州家編」に譲り、相良と絡むあたりまで追い付いたところで、
次回から相良義陽・本編に戻りたいと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【薩州家_島津義虎までの その10】

カテゴリ薩州家1~15話までのうち、なんとか5話縮めて義虎まで来たです ( ̄ω ̄A;アセアセ

●義虎の正室・御平
 四兄弟の長兄・島津義久(後の16代目宗家当主)の長女。
 1551年(天文20)年8月22日生まれで、夫・義虎より15歳年下です。
 晩年に隅州上井ノ平に住んでいたので「御平/おひら」と呼ばれたので、それ以前に彼女が何と呼ばれていたかは解りません。


家系図・薩州家
島津実久が実叔母(祖父の次女五女)と結婚したのは何度か書いてます。
で、伊作・日新斎(=忠良)が実久正室の姉・御東を正室にしてるので、
宗家15代目・貴久と薩州家6代目・義虎は、母系で辿ると従兄弟の関係になります。
父系だと貴久は、義虎の祖父の姉の子だから・・・大叔父?ヽ(。_゜)ノ?

複雑なんでガン見してもピンと来ないかもですが、実久以外にも実の叔母と結婚した人物がいます。
それが島津貴久の嫡男・義久です^^;

えっと~日新斎が嫡孫の器量を見込んで、側室との間にこさえた四女を嫁がせたんです( ̄ω ̄A;アセアセ
薩州家と言い、なんなんでしょうね~~島津じゃ出来が良い孫に娘を嫁がせる交配神話でもあるんだろうか^^;
で、その実叔母・甥のカップリングで生まれたのが御平で、実叔母が産んだのは娘のみで数年後(永禄2.11.18)に亡くなってます。

つまり島津義虎は従兄の孫と結婚したわけです^^;
御平が嫡男を産むのは15歳くらいなので、義虎は三十路まで正室がいなかったことになります。
戦国時代には珍しく晩婚ですが、なんで正室がいなかったのかは判りません。

1545年、島津貴久が三州守護となった時、義虎は数え10歳でした。
ウィキペディアには、父・実久は薩摩国の守護職の座を巡り、伊作家の島津忠良・貴久親子と対立したが、義虎は逆に従う姿勢をみせていた。
と書いてますが、えっと十代の少年が逆らうも何もないわけで^^;
家長である父・実久が和睦したんで、そのままの路線を引き継ぎ従ってたものと思います。

ただ肝心なのは和睦であって降伏じゃないって点です。
ですから薩州家は伊作側に人質を出したわけでもなく、領地や城も割譲してないので勢力キープ(=^・ω・^=)v ブイ
ウィキペディアに「臣従した」って書いてるけれど、それは我々が認識している感覚においての臣従ではないわけです。
簡単に言うと三州守護職である宗家の意向に大筋では従うが、自家の利益保持・面子・義理ごとがあれば、そっち優先で独自に動からね!って感じです^^/

そういう状況ですので、天文22(1553)年閏1月、実久は宗家の頭越しに上洛して、将軍・義輝公に拝褐してます。
ちなみに銘菓・八ツ橋は戦国時代には未だありません^^/
帰国の途中で発病し同年7月7日に出水に帰ったのですが、22日に亡くなりました。享年42の若さ。
義虎は数え18で家督を継ぎます。

御平と結婚するまでの宗家と島津義虎の関係が、どんな感じか本音の部分では判りません。
ただ義虎は東郷氏と揉めてガチンコ長期敵対関係に突入してるので、宗家に敵対はしてないものの、単独で動いてるような節はあります。
島津氏№2の勢力である薩州家は、将軍家と独自のルートがあったようです。
父に続いて義虎も、宗家と関係なく将軍家に拝謁しているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その9】

やばぃ・・・相良に中々戻れない・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編全18話参照です。


守護職に復帰した島津宗家14代目・勝久(元・忠勝)は、今風に言う所のダメンズだったそうです。
薩州家と伊作家(相州家含む)と、島津分家二大勢力が争うのを後目に、遊興に耽り佞臣を侍らせた。

享禄2(1529)年には、分家、庶家、国衆たちが伊作の日新斎(=忠良)と和解するよう進言したのだが、勝久は聞く耳持たずだったそうです。
天文3(1534)年、宗家の家老、家臣たちは勝久が諫言を受け入れないので、ついに思い余って勝久の佞臣をヤッちまいました( ゚д゚)ンマッ!!
天文4(1535)年4月3日、ビビっていったん逃げた勝久ですが、舞い戻ると自分の寵臣(=佞臣)を殺した島津家老を、追いつめて自害させてしまう。
さらに家老の城まで攻撃しまして、、、家老の未亡人が城兵らと頑張って防いだそうです( ̄ko ̄)

このグダグダな状況に、ついに島津家臣が宗家当主で主君である勝久を見限り、薩州家の実久に与した。
天文4(1534)年9月末~10月にかけて、薩州家・島津実久(数え23)は、宗家当主である勝久を追い出す!
ここまでの島津当主は『総領五家(総州家(=室町期に滅ぶ)、奥州家、薩州家、伊作家、相州家(=伊作が吸収)』のうち、奥州家でした。
追い出され逃亡した勝久は、自業自得で二度と薩摩の地に戻ることが出来ず、奥州家から宗家当主が出る事は二度とありませんでした。

鹿児島に入った実久は、諸氏に自分を「御屋形」様と呼ばせようとしたんですが、御膝元で吉田衆の謀反が起きたので止む無く出水に戻ります。
(ちなみに「屋形」号とは国主(=守護職)に対する呼称でして、これも勝手に自称は出来ず室町幕府の承認いります)
で、鹿児島には島津貴久(5月生まれだから23歳かな?)が入ります。^^;

天文5(1536)年5月1日、伊作と薩州家の抗争の真っ最中に、薩州家6代目となる義虎クン誕生ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

で、自分がIFバナで黒幕じゃね?と想像してた薩州家3代目・重久が、同年9月15日に73歳で亡くなってます。
法名が天倫才賢だから切れ者だったんだろうな~孫で曾孫の顔は見れたようですね(-人-)☆彡

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ちょっと気になるのが、重久死去直後から薩州家サイドの城が次々と伊作の日新斎(=忠良)に攻略され始める事です。
それと今まで割愛してたんですが、マンモス氏族な島津なので分家の そのまた分家ってのがあるんです。
で、薩州家の分家は全てが5代目当主である実久に従ったわけではなく、伊作サイドについた分家もありました。
自分の重久黒幕説をIFバナしてたのも、こうした時系列の流れや、薩州家が一つにまとまりきれてない現状があったからでした。
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天文6(1537)年12月?日~実久(26歳)は自ら薩摩守護職にならん、とするが新納氏の反対にあい断念。
この12月の間も伊作・日新斎(=忠良)は、ガンガンと城攻略して伊作エリアを広げてるんで実久の方に焦りがあったかもです。
天文8(1538)年閏6月、伊作側は市来(現・日置市)を制圧し、同年に実久弟の城が落ちます。
1538(天文8)年(閏6月か?)~ついに実久は日新斎と和睦し出水へと退いた
って、系図に実久の弟っていないじゃんΣ(´Д`;) あれ?
このへん伝承がオカシクなってるかも~~~

薩州家・実久と伊作・日新斎(=忠良)が和睦した月日も、本藩人物誌では年度のみで月日不明になってます。
ただ市来が伊作に制圧されたことが、心理的にil||li _| ̄|○ il||l モウ ダメダ・・・となり、和睦に傾いたようです。
1545年(天文14)3月18日、島津貴久(数え32)正式に三国守護となる
え~~と、この年に島津分家の豊州家が(やっと)貴久を当主と仰ぎ従うことを誓います^^;

なんというか、戦国時代の分家って宗家の家臣じゃないんです。
だから伊作と和睦した薩州家も、従っているだけで家臣になったわけじゃないんです。
勝者として新宗家となった伊作・島津氏が当主権を確立するには、江戸初期・薩摩藩初代藩主の時代まで待たねばならないのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その八】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編全18話参照です。


薩州家を抑えるだけの器量がない宗家・忠勝は、困って伊作の島津忠良に国政を委ねた。(大永6年)
状況は違うけど、肥前の龍造寺政家が準一門である鍋島直茂に国政を委ねたのと似てます^^b

鍋島直茂と島津忠良の違いは忠良自身が表に出ないで、嫡男の貴久を宗家当主・忠兼の養子にしたことです。
ここは相良の上村頼興が協力するかわりに、我が子・晴広を当主の養子にしたのと似てます^^b

例に挙げた二つの家の対応をMIXして実行した忠良は、とても賢い人物だと思いませんか?(^ -)---☆Wink

宗家・忠兼は伊作に隠居することになり、正室だった薩州家の姫君を離縁し、実久と義兄弟の関係を解消しています。
離縁され出戻った姫様の、その後は判りません。
が、姉の不縁に激怒した実久は、忠兼の後ろ盾となった伊作・島津忠良とガチンコに突入
ちなみに同じく実家が薩州家の御東は義弟で甥を非難し、迷うことなく夫である伊作・忠良につき従ったそうです。

始めは伊作に有利だった状況が激変するのは翌年、大永7(1527)年のこと。
なんと、こともあろうに伊作に泣きついて国政を委ねた、とうの島津忠兼が薩州家・実久に寝返ったんです。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
薩州家・実久は、うまく伊作・島津日新斎を戦場へ誘い出し、伊作にいる忠兼の説得工作した。

その誘い文句が「守護職に復帰しませんか?^-^」みたいな事だったらしい。
*****IFバナの小部屋*********************************************
ちょっと思うのが、この1527年の段階で実久は、まだ数え16。
前回もIFバナしたが、やはりこれだけの事を実久少年一人で実行できたとは考えづらいのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
いかに薩州家が守護代の家柄であっても、慣例を飛び越えて10代の少年を守護職という権威ある地位に据えるのは難しい。
忠兼を守護職に復帰させたのは、実久の祖父で義父の重久なんじゃないだろうか?(-ω-;)ウーン
武家の子弟が家督を継ぐのは、トラブルなければ二十歳前後が慣例なんです。
だから実久が守護職を継いでも不自然じゃない年齢になるまで、いわば「繋ぎ」として忠兼を復活させたんじゃないかな?
実際、島津貴久(=忠良の嫡男)が正式に三州守護になるまで、守護職は宙ぶらりん~だったようなんです。

いっぽう、日新斎(=忠良)の嫡男・貴久も未だ数え14。
薩州家の対抗馬として忠兼も養子にはしたけれど、コッチも守護職になるのは若すぎ^^;
でもって、忠兼自身も若い。還俗さえすれば、この先男子に恵まれる可能性は十分あるんです。
忠兼が「その気」になるのは、無理ないよな~と思ったりする^^;
******IFバナ終わり*******************************************

この時、忠兼は数え25歳の若さで、目先にブラ下がったニンジンを見たとたん、過去に困ったり頼ったりした記憶が吹き飛び、食いついた。

隠居して出家&隠棲してた島津忠兼は、アッサリ還俗~勝久と諱を改め守護職に復帰。
勝久の行動が「伊作家と薩州家の争いを更に激化させた」ことは、言うまでもないだろう。
そして隠居したり復帰したりと迷走する宗家当主に、国内騒乱となるのだが、それは・またの話~by^-^sio

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【薩州家_島津義虎までの その七】

※本稿に入る前の予備解説なので記事ルール割愛します。
  ザックリ駆け足予備解説につきブログ内カテゴリ・島津薩州氏編全18話参照です。


宗家の座を巡って争う島津氏総領五家、うち戦国期まで生き残ったのは「宗家(=奥州家)薩州家伊作家(相州家含む)」の三氏!
そして宗家の椅子は一つだけ!

この三氏は三氏ともに当主の正室が薩州家の姫君で、薩州家を軸に縁戚関係でした。

家系図・薩州家

永正11(1514)年5月5日、島津忠良(=日新斎)と薩州家・御東との間に島津貴久が生まれます。
永正16(1519)年5月12日、相次ぐ兄の死で末っ子三男の忠兼(=勝久)が、島津宗家14代目となりました。

本藩人物誌によると
公(=忠兼のこと)は また君子に非ずして国治まらず、実久は寵臣として権威を募らせ、公が政道を怠るを見て守護職を奪わんと志した為、封地は大いに乱れて背く者多し。


かいつまんで言うと、薩州家5代目・実久は、宗家当主・忠兼の義弟として、次第に権勢を振るうようになったそうなんです。
具体的に言うと、当時まだ実子がいなかった忠兼に対し、自分を養子にしろ~と迫ったそうです。
島津研究によると、どうも実際に宗家の家督を継いでたらしい。
期間は推定で10年。
文書上の体裁も整えてたそうですが、守護職への正式任官はなさそうです。

というのも、守護職になるには室町幕府の承認が必要だからして、そこまではゴリ押しできなかったかと・・・

このあたり、詳細は未だハッキリしてません。
薩州家の記録が改易で四散したのと、「実久=国賊認定」により「実久の当主期間」が、闇から闇へって感じで埋もれてたそうです( ̄ω ̄A;アセアセ
(具体的に、どう葬り去られたかもワカランです~)

さらに、もう一つ重大な疑念があります。
権威を募らせる寵臣・実久が、未だ15~6くらいの少年だと言う事です。
実久の受けた寵愛が、寵童的なアレだったとすれば権勢もありえる・・・ちゃ、ありえる^^;
島津は衆道が盛んだったことで・・・ゲフゴホ

が、「実際に宗家の家督を継いでたらしい」この部分は無理です。
10代の少年が当主然と振る舞うことを、他の分家や諸氏が黙ってるような・・島津は、そんなヤワな氏族じゃありません。

で、可能性のIFバナとして少年・実久をプッシュできるだけの人物として浮かぶのが、実久の祖父である薩州家3代目・重久です。

父である4代目忠興が40歳の若さで亡くなった時、実久は数えで14くらい。
武家子弟の元服って15歳前後なので、元服も未だだったかも。
若年ですから、祖父の重久(いなければ近い親族)が後見するのが武家の慣例です。

重久が黒幕なら、いろいろな矛盾に説明がつきます。
一番の根底は、宗家14代目・忠兼に嫁がせた重久孫娘(=実久姉)が、男子を授かることが出来なかった・・・・が、あると思います。

孫である実久に自分の娘を嫁がせたのも、宗家当主・忠兼に実久を養子へと捻じ込むのも、
薩州家3代目・重久に宗家乗っ取りの野心があったからじゃないだろうか。

では本藩人物誌が間違いか・・・と言うと丸っきり違うわけじゃない。
伊作・島津忠良と薩州家・島津実久の対立構図を見ていると、初期段階(実久が少年)では重久主導だったのが、
途中から実久主導に変化してるような節がありそうなんです。

赤文字・可能性のIFバナからの話は、全てシオ推測です。
でもって、これは論証できません~~~薩州家の中でも更に3代目・重久の記録が物凄く少ないからです!!


推測はさておき、宗家14代目・忠兼(=勝久)に、薩州家を抑える政治力がなかったことが、
薩摩・島津氏の歴史を複雑にするのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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