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渋谷氏_7【東郷氏・後編】

渋谷・東郷氏にとって、島津氏分家筆頭の薩州家は《薩摩に事あるとき》に『東郷の領土を窺う・危険な隣人』でした。

そんな伏線があった薩州家と東郷氏が本格ガチンコになるのが天文16(1547)年のこと。
薩州家は6代目・義虎の代。
東郷氏は15代重治の頃と言われています。

で、原因はワンコ ▼・×・▼彡
犬追物の説明を全部すると長くなっちゃうんで ほいドン (*´∀`)ノウィキペディア・犬追物
で、名門・名族のステータスたる伝統競技に使用されるワンワン▼・×・▼彡から諍いが起きたんです。

犬を的にして弓で射ることから、動物愛護の観点で現代では再現不可と言われていますが、犬を殺すわけじゃないんです。
専用の殺傷力のない矢じりを使用してます^-^
(ただしスピードはあるんで、当たり所が不味いと★彡になる場合あり^^;)
使用されるワンコは薩摩国・御当地産であるSatsuma Dog
ちなみに上野の銅像・西郷ドンが連れているワンコも薩摩犬です ( ̄ko ̄)

中型犬ですが、もともとが猪狩に使う狩猟犬のため非常に戦闘意欲旺盛でフットワークも軽やかで敏捷です。
訓練された薩摩犬150頭が決まったサークルの中に放され、俊敏に動き回る彼らを揺れる馬上で射るので、相当の弓術の持ち主でないと騎手は務まりません ( ̄ω ̄A;アセアセ
しかも、ただ当てりゃ良いってもんじゃなくて、ワンコのボデーの決まったポイントにHITさせないと、得点にカウントされないという難易度の高さ ( ゚д゚)ンマッ!!

てことで出場する騎手も名誉がかかっているが、使用される ▼・×・▼彡 薩摩犬も栄えある競技に向けて手塩にかけて訓育されます。
ちなみに薩摩犬は、獲物や敵に対しては獰猛ですが、心を許した主には温和で従順という犬好きには堪らない「萌え要素」があります。川* ̄д ̄*川ポッ(←ワンコもヌコも飼った経験がある管理人)

で、肝心の原因ですが、
東郷側の家臣が、薩州家6代義虎の家臣・湯田兵庫成重の秘蔵の犬を盗み出し、それを取り返しに来た成重に殺害される事件が発生したんです。
※この「秘蔵の犬」というのが、犬追物用にと大事に訓育してた自慢のワンコだったそうな^^;

犬追物って非常に経費がかかりまして、財布的に可能な将軍や守護職とか錚々たる家柄の方々主催なんですね。
国衆である東郷氏は主催側でなく、射手・・・つまり出場選手として選抜された方です。
選ばれるって事は武人として誉れ目出度いことで、それだけ東郷氏は代々武芸に秀でていたようです。
盗んだワンコも武技を磨くための練習用だったんじゃないかな~と( ̄ω ̄A;アセアセ

これがキッカケで抗争状態になった薩州家と東郷氏の争いは20年にも及びました。
で年度不明ですが、薩州家と抗争中に東郷氏は代替わりします。

15代目・重治に男子がおらず、菱刈氏から養子を迎えます。
それが菱刈重州の三男・重尚(別名・重綱)です。
そして16代目となった東郷重尚は、菱刈氏の上位者である相良氏から妻を迎えるんです。


薩州家と菱刈氏と相良氏と東郷氏の相関関係が繋がったところで、再び話を相良義陽編に戻しましょう。
それは・またの話 by^-^sio
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渋谷氏_6【東郷氏・前編】

渋谷一族、ラストを飾るのは、一族で一番最後に島津宗家に降伏した東郷氏です。
日露戦争、日本海海戦・連合艦隊司令官の東郷平八郎は、こちらの子孫って話ですが、専門外なので詳細は知らんです^^;

この東郷氏は6代目が子だくさんで男子が十人くらいいたんです。
で、昔にしては珍しく子弟が健やかに育ち、この6代目から派生した庶家が多く把握しきれん^^;

元々は相模で~~は渋谷ファミリアと同じなんで割愛。
島津配下として落ち着くのは室町中期で、島津氏奥州家のドン久豊が島津宗家を総領家として掌握するのと推移が同時進行になります。

つまり「総領家の座」を巡って大バトルになった島津の内訌に巻き込まれてたわけです^^;
敵になったり味方になったりと渡り歩き、何とか「勝ち組」に乗り換え成功し渋谷一族は領地維持しました。
(この時に脱落するのが渋谷鶴田氏)

キナ臭くなるのが戦国初期でして、当主が壮齢で死亡し庶子で僧侶だった忠昌が当主になってからです。
但し、文明8年(1476年)1月、薩州家の国久が忠昌に謀反した時には、渋谷一族は守護方・・・島津宗家に従ってます。

てことで、ここらあたりまでは守護と被官の筋目はキープできてたみたいです。
ちなみに東郷氏2代目(重理)が、薩州家・国久の娘を室に迎えているんですが、文明年間の何時頃かは判りませんでした^^;

本格的にグダグダになるのは・・・室町期と同様に島津氏の内訌が引き金でした。
伊東氏に対抗するために日向の守りに入ってた新納氏と伊作島津氏が、仲間割れの大ゲンカしちゃいまして・・・
この時に当主で守護職の忠昌は、日向の守りを優先し、新納氏の意見の方を尊重したんです。
ブチ切れした伊作島津が日向に寝返り、それによって誘発したのが、第一次と二次と続いた「飫肥の役」でした。

忠昌もピンチで大変でしたが、この内訌というには余りにも規模のデカい争いに、薩摩国衆である渋谷一族も巻き込まれます。
(この時に脱落したのが渋谷高城(たき)氏で、同族の祁答院(けどういん)氏に吸収されます)
伊東氏との争いは島津氏の勝利に終わり、敵側に内通した伊作島津も討伐されて ショボーン..._φ(・ω・` )と伊作に引っ込み静かになった。

が、一度開いたパンドラの箱(国衆たちの旺盛な自立心)というのは、元鞘(もとさや)に戻ることはありません。
文明17(1485)年、渋谷一族VS島津宗家・文明の大合戦が起こる。
これって「キチンとした鎮圧」って形がとれてないように感じます( ̄ω ̄A;アセアセ
で、サイト武家家伝によると、薩州家の嫡男・重久(後の3代目)が高城水引に侵略し高城氏をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
更に東郷庶家・白浜氏の守る湯田城を落としてるそうです。

(-ω-;)ウーン・・・ホントに何時ごろ国久娘と東郷氏が結婚したんだろう~
政治状況が二転三転しすぎてサッパリ判らん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

薩州家の国久が死亡するのが明応7年(1498年)で、家督を巡る騒動が起きて伊作と羽州の島津分家が巻き込まれてます。
その時に縁戚だった(はず?)東郷氏が、どのような動きをしたかは記録が残っていません。

思うように国内統治が出来ず絶望して忠昌が自害するのが永正5(1508)年。
縁戚関係だった薩州家と東郷氏が対立するのは国久の死後なんですが、重久が侵攻するなど潜在的なモヤモヤはあった事になります。
というのは薩州家・重久が侵攻した温田(出水市)も高城水引(川内市)は、思いっきり東郷エリアだからです。

永正元年(1504)東郷重朗(14代)は島津忠治に忠節を尽くし、高城水引を拝領します。
水引には13代目・重信の弟が入り、東郷流高城氏初代となります。
(正式拝領の前か後かは不明)

薩州家と東郷氏の潜在的なモヤモヤは国境や領地に関するものだけに、根っこは深いです。
薩州家にすれば「先に高城をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!したのはウチだから、高城郡水引村(現:川内市)はウチのもんだ~」
東郷氏にすれが「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.守護職から拝領した領地だ!後先もあるか!所有権はコッチが優先じゃぁ~」

通常であれば「守護職の御墨付」で領地問題にはケリがつくんです。
が、時代は戦国で、ここは薩摩だ^^;
島津宗家の当主が自害だ病だとコロコロ変わるために求心力が落ちまくってました。

「総領&守護職の座」を巡って、元々の当主・島津勝久と薩州家・実久と伊作の島津日新斎・貴久親子の三つ巴~
で、最終的に「薩州家・実久VS伊作・島津日新斎・貴久」になる流れで、東郷氏では大きな動きはありません。
(派手に動いてたのが祁答院と、伊作サイドの入来院)

薩州家と東郷氏が本格的なガチンコに突入するのは、全く別のキッカケからだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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渋谷氏_5【祁答院(けどういん)後編】

現代風に言うと「自己ちゅうで下半身のモラルが底辺」とこきおろされた祁答院良重。
記述は「本藩人物誌」なのだが、実は「本編」ではなく「国賊伝」の方に祁答院は記載されいます。

偉大な島津氏中興の祖・伊作の日新斎と宗主・貴久親子に初めから最後まで抵抗し続けていたので、
祁答院良重と戦死した嫡男は「カテゴリ・国賊伝」の殿堂入りしちゃってるんです^^;
しかも「島津側の記録」しか残っていないので、祁答院良重の人品・人柄に対する酷評は「脚色」の可能性があることを念頭に入れておく必要があります^^;

では引き続き「本藩人物誌・国賊伝/祁答院良重」より抜粋
永禄九年丙寅 正月十五日良重夫人ノ為ニ殺セラル
永禄9年とは1566年のこと・・・
まだ正月気分も抜けぬ15日に、祁答院良重は正室である虎姫に刺殺されたんです。( ゚д゚)ンマッ!!

虎姫というのが、前回紹介した薩州家・島津実久の次女です。
これには「入来院氏が虎姫を唆した説(サイト武家家伝で紹介してた)」があるらしいんですが、
出典元がハッキリしてないだけでなく、自分は「それ(ヾノ・∀・) ナイナイ」派です。

渋谷ファミリアと薩州家と島津宗家の縁戚関係は入り組んでいるので、接触する親戚・知人ルートはあるでしょう。
が、入り組んでるだけに「計画が漏れるリスク」も高く、「漏れた場合に入来院がヤバい立場になるリスク」も高い。
祁答院町史と入来院町史がWEB非公開なんで「何か他の要因があった」が判らないんで、いまわかる範囲だと可能性は低いとしか言いようがない(´・д・`)

「鹿児島県史」によると「虎姫は嫉妬して亭主をやっちまったんだ~」といった内容の事が書かれています。
嫉妬の動機とは「本藩人物誌」に記載された「良重の荒淫」でしょう。

この刺殺事件の根底には、良重と虎姫の夫婦関係の破綻があると思います。
良重が側室を迎えていたなら、本心はともかく表面上、虎姫は嫉妬する必要はないのです。
他家から政略結婚で迎えた側室ならば別ですが、基本として側室は女奉公人であり正室の宰領下にあるからです。
それが手当たり次第に女たちに手をつけられては、正室としての虎姫の対面もヘッタクレもない状態。

が、ちょっと待て・・・冒頭の脚色の可能性を思い出せ(・∀・)
更に更に「夫婦関係の根底にあるのは相続問題だったんじゃないか」なんです。

嫡男が戦死したあと良重は次男(養子説アリ)を後継者にするでもなく、『嫡子の椅子』は空席のままだったみたいなんです。
これは良重自身が「子作りハッスル」を諦めてなかったからじゃないでしょうか?
散弾銃のごとくバラまいてHITしたら側室に・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
いずれにせよ「分家筆頭で守護代の家柄で薩州守の次女」である虎姫には、蔑ろにされ続けるのは耐え難い屈辱だったはずです。

で、前回挙げた文節が続く。
良重生平放逸荒婬ニシテ畋遊ヲコノム
この熟語は「畋遊・てんゆう」と読みます。
畋(てん)とは「狩り」を意味してまして、良重は狩猟・・・ハンティングぅ~が趣味だったんですね^-^
問題は、この後に続く文節です( ̄ko ̄)
去年ノ冬ヨリ上宮山ニ狩猟シテ是日城ニ帰ル
去年の冬から狩猟し続け?( ゚д゚)ンマッ!!
一族の当主ともあろうものが、大事な年末年始の行事をスッポカシですって?( ゚д゚)ンマッ!!

夫人 島津実久カ女ナリ 平日其所行ヲ諌レトモ用ヒス
虎姫は常日頃(夫の)其の所行(しょぎょう=行動)を諌れとも(夫は)用いず。

於是此夜酒ヲススメ酔伏タルヲ夫人手自良重ヲ刺殺ス
是に於いて、此の(帰城した)夜 酒をすすめ(良重が)酔い伏したるを夫人自ら良重を刺殺す。

虎姫は、よほど思いつめていたのでしょう。いかに正室とはいえ当主を殺してただすむはずがないからです。

此時良重カ小姓村尾亀三 後に源左衛門重侯トイフ 左右ニ直宿ス
即屏風ヲ以夫人ヲ押ヘマタ刺殺ス

小姓といっても時代劇で太刀持ちしてる坊やじゃないです(´・д・`)
宿直するってことは、ボデーガード兼務っす(´・д・`)
ちなみに当時17歳だった村尾クンは、祁答院を出て島津義弘公に仕え華麗なる戦歴を残る勇者となりました^^

村尾クン17歳は、咄嗟に屏風をo( ̄Д ̄θ★ケリッ! っと蹴倒して虎姫を押さえこみ、そのままズブリと殺ったようです( ̄ω ̄A;アセアセ
犯行の凶器である刀を持ったままの虎姫が尋常な状態でなかったのか、もしくは村尾クンが主筋の奥方を直接に切り殺すのを遠慮しての屏風越しと推察してます。
ココニ至テ祁答院氏滅フ 祁答院ノ所領悉ク入来院重嗣ノ有トナル
跡継ぎを指名しないまま祁答院良重が没したために、祁答院氏は没落しました。
次男の他に三男もいたので兄弟で家督を争ったのかもしれません。
結局、祁答院氏の家長3名の申し出により祁答院領は、入来院重嗣が領有することになったんです。

祁答院は滅び、入来院も後に島津宗家に降伏します。でもって残るのは東郷なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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渋谷氏_4【祁答院(けどういん)中編】

薩州家で伊作島津と壮絶な宗家争奪戦を繰り広げた5代目・実久には4人の娘がいました。

三女は巽(たつみ)氏、四女は小川氏に嫁いだのですが、詳細不明の武将に嫁いだので割愛^^;
で、次女・虎姫が祁答院(けどういん)13代目・良重に嫁いでいるんです。
子に長男重経(田中と号した)、次男重種(養子とも)、三男重加と、娘が一人(←ここWIKIから)
子供たちの生母の記録はないのですが、祁答院良重に側室がいた記録もないので、おそらく・・ですが実久次女・虎姫が生母と思われます。

ちなみにウィキペディアでは実久ではなく、何故か息子である義虎の娘(←出典元不明)になってます^^;
ですが本藩人物誌ではハッキリ実久次女と明記されてますので、それを典拠に進めますね^-^
※義虎娘説ですと色々と不自然でつぉ・・( ̄ko ̄)

虎姫が祁答院家に嫁いだ時期は不明です。
嫡男の生年が天文7(1538)年で、実久が伊作島津氏に降伏したのが同年なので、伊作島津との攻勢の最中で縁組された政略結婚と思われます。
養子説のある次男は詳細不明。
娘は天文10(1541)年に生まれ同23(1554)年に若死にしてます。

虎姫の女として母としての不幸は、娘が数え14という、戦国なら花の盛りを迎える年頃に失ったことです。
更なる衝撃として嫡男が戦死します。
しかも娘と同じ天文23年です。

前回話した島津兄弟が初陣デヴューの「岩剣城の戦い」に於いて帖佐高樋で、嫡男が戦死(天文23年10月2日)するんです。
気の毒すぎて「お悔みの言葉も思いつかない」(´;ω;`)ウッ

もし・・・・ですが、虎姫が精神(こころ)のバランスを崩したとしたら、この時の衝撃から立ち直れなかったから他ならないでしょう。
虎姫の夫である祁答院13代目・良重は、優れた武将でした。
良重「人ト為リ驍勇(ぎょうゆう)ニシテ能強弓ヲ引ク」(出典:本藩人物誌)
※良重は、驍勇(ぎょうゆう)ニシテ(=強く勇ましい)、強弓を能(よ)く引く人為(な)り

その一方で、色々と問題があった人物のようです。
良重生平放逸荒婬ニシテ畋遊ヲコノム
※良重、生来 放逸荒淫にして、畋遊を好む
(放逸・ほういつ~勝手気まま・・自己ちゅう)
(荒淫・こういん~情欲にふける・・・手当たり次第に浮気し放題 ( ゚д゚)ンマッ!!)

ものごとには限度というものがあり、一族の当主ともなれば節度も求められます。
武将として有能だから、全てが許されると思ったら大間違い。
一番身近で見聞きする妻・虎姫としては、やりきれない思いが募り憤懣がMAXになるのは無理からぬことだったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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渋谷氏_3【祁答院(けどういん)前編】

なかなか義陽に戻れない~( ̄ω ̄A;アセアセ

自分が祁答院(けどういん)を始めて知ったのは、島津四兄弟の三男・歳久公がキッカケでした。
歳久公は官位である左衛門督の唐名である「金吾」殿と、通称されることが多かったのですが、
元亀年間から祁答院を領した事により「祁答院」殿とも呼ばれていたのです。

歳久公・・・祁答院殿・・・・カッコイイ~川* ̄д ̄*川ポッ 
と刷り込まれた萌えバカです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

宗家(=伊作)島津氏が薩摩国を(再)統一するにあたり、障害となったのが渋谷一族でした。
「東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏」のうち、室町中期に没落したのが鶴田氏
渋谷四氏と総称された「東郷氏、祁答院氏、入来院氏、高城氏」のうち、戦国初期に没落したのが高城氏
ちなみに「高城」は「たき」と読みます^^/(←調べるまでシランカッタ人)
高城氏を攻撃したのは薩州家2代目・国久です。
敗れた高城氏は同族の祁答院を頼り、以後、祁答院家老として続きます。

戦国初期の文明14(1482)年、東郷重理(12代)・祁答院重慶(10代)・入来院重豊・菱刈道秀・北原立兼らが島津氏討伐を謀ります。
(※このころの入来院氏は、島津宗家に逆らってた^^;)

で、そのグダグダのまま、文明17(1485)年、渋谷一族VS島津氏の『文明の大合戦』が起きます。
高城氏が島津国久に敗れて滅ぶのは、この時なわけです^^/

領国統治がままならず、悲観絶望し宗家当主・忠昌が自害するのが永正5(1508)年。
入来院氏が島津宗家に帰順するのは、永正7(1510)年に隈之城を与えられた頃くらいかと思います。

で、入来院に書いたように島津勝久・薩州家・伊作家の三つ巴の中で、入来院は娘を嫁がせた伊作サイド。
薩州家・実久に o( ̄Д ̄θ★ケリッ! と追い出された島津勝久は祁答院に逃げ込んだ^^;
勝久なりに何とか復権しようとしたらしいんですが、もはや人心を失ってしまってて無理で、最終的にママン実家である豊後・大友家へと亡命した訳です。

祁答院と東郷は、宗家争奪戦で勝者となった島津貴久・日新斎に帰服せず、抵抗を続けます。
渋谷ファミリアが厄介なのは、大隅の国衆と抵抗タッグを組むことです。(その中に菱刈も入ってる^^)

で、この抵抗タッグに雪窓夫人死去から島津貴久と不協和音になった入来院重朝が参戦。
【渋谷ファミリア】ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!【大隅国衆】

転機となったのが、天文23(1554)年「岩剣城の戦い」で島津貴久が勝利を治めた時。
ちなみに島津四兄弟のうち「義久・義弘・歳久」が初陣デヴュー(*´pq`)
日本戦史上で初めて鉄砲が使われた城として有名です^-^

普通、名門の子弟の初陣となると「必ず勝てるような局面」を御膳立てしてから出馬を促すものなのです。
が、兄弟たちの初陣デヴューは、
祖父である日新斎が「兄弟のうち誰か死なないと落とせない(それくらい激戦になる)」と言わしめるほど過酷なものでした。

弘治3(1557)年には大隅国衆・蒲生氏を破ったことで、大隅国のほうが一先ず何とかゴールが見えてきます。
んが!
それでも薩摩の祁答院と東郷は帰順を拒み、更に抵抗を続けます( ̄ω ̄A;アセアセ

そんな祁答院氏ですが、実は薩州家と縁戚関係でして不和から「衝撃的な事件」が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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