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【大隅_蒲生(かもう)氏(室町な中編)】

さて、南九州は大隅の国衆行くよ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
出典:本藩人物誌
(黒太文字が意訳・補足・要旨、緑文字は原文ママで( )部分がシオ補足)


まったり室町期の話です。
島津家で大きな分岐点となった島津久豊の宗家相続。
ちなみに『葬儀の真っ最中に亡き兄・元久公の位牌を強奪し、自分が葬儀強硬して奥州家当主となった方』です^^;
その家督争いで久豊公のライバルであったのが、伊集院頼久。
伊集院頼久は、久豊公が菱刈討伐のために出陣でして留守の清水(鹿児島)城をゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ

(落城の知らせを聞いた⇒)久豊公御憤リノ余リ御一騎掛ケ遊被候処ニ
と、ブチ切れした久豊公が(大将で当主なのに)一人飛び出した・・・って云うのが前回の話^^b

(蒲生)清寛吉田若狭守申候
此節御一身ノ御働ヲ可被遊時節ニ無御座候由段々申上候ヘハ


蒲生清寛と吉田若狭守がΣ(´Д`;) はぅ!っとなって、久豊公を必死で宥めたみたいです。
「いまは、お一人の働きを遊ばす時じゃないです~~(´・д・`)ヤメテ」

両人(蒲生&吉田)ハ身命ヲ全仕候終ノ功ヲ専ニ可仕旨
両人は身命を全(まっとう)仕(つかまつ)り候、終(つい)ノ功を専(もっぱら)に仕(つまつ)る可(べ)く旨(むね)、

うーむ・・・読むだけならOKなんだが意訳のほうが・・・
とにかく「身命を投げ出す勢い」って感じかな?必死に止めたらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

(空白スペース)御意候テ唯御一騎御掛被成候間(蒲生)清寛申上候ハ
この場面って、たぶんだけど久豊公は馬上ってことだよな・・・
蒲生さん、馬の引き綱を掴んだのか、自分も馬上で並走してたのか、御、御、御~と敬語気遣いしまくりなんで細かい場面状況が判らん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ちなみに久豊公の名前が出たり、その様子を書くたびに「一文字分の空白スペース」を入れてます。
これは「欠字」と言って相手へ敬意を払う場合の書き方なんです。
相手への敬意の表現として、書状も諸記録も一緒です。
ちなみに一文字スペースの場合と、段落を変えて相手の名前を書く場合と、2パターンあります。
自分の手持ち史料では、今のところは「一文字スペース」パターンしか見たことないっす^^
何せ変体漢文には句読点が「ほぼ無い」ので、欠字があると句読点代わりになるんで助かる^^;

さて久豊公一騎掛けしてる間に蒲生清寛が説得(叫んだ?)してます^^
右之趣御疑被遊候事残念至極ニ奉存候由申上嫡子三郎太郎忠清ト御駕ニ奉付僅五六十騎ニテ鹿児島ヘ御進入被遊候伊集院頼久退散仕原良ニ陣ヲ取罷在候間少時諸軍ヲ御待揃被成
ほらね (^ -)---☆Wink
久豊公の敵だった伊集院頼久には「公」って敬称も、欠字(一文字スペース)も無いでしょ~♪ヽ(*´∀`)ノ
って、読みづれぇーんだよ!!!(# ゚Д゚)・;'.

えっと~「右の趣き」・・・・一揆掛けするタイミングじゃないって言った事ですね
って言うのを疑われる(聞いてくれない)のは残念至極⇒超残念(´;ω;`)ウッ

こんなやりとりしてる間に、蒲生清寛の嫡男、三郎太郎忠清と兵5、60騎が追い付いて、その勢いで鹿児島へレッツGO!
伊集院頼久は占拠してた城から退去、久豊公も諸軍を待って陣を整えたそうな(ざっくり手抜き意訳^^;)

島津家文書に久豊公関連があったなぁ。
かといって読み下しても、当時の細かい情勢が判らないから中身を分析できないしなぁ。←未練がましいwww
・・・・時間あれば図書館で閲覧したい~~てことで後編へ続く、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【大隅_蒲生(かもう)氏(前編)】

えっと~肝付氏のデータを見てると、蒲生氏が気になってしゃーないんで、我儘言ってデータを譲って頂きました^^;

これまで、ずっとGAMOUと読んでいたんですが、大隅の蒲生さんの読みはKAMOUだったのをデータで知った^^;
先入観って怖い・・・il||li _| ̄|○ il||l

本藩人物誌より
(黒太文字が意訳・補足・要旨、緑文字は原文ママ)
藤原鎌足から12代目、藤原教清の子・舜清を祖とする。
藤原教清は宇佐八幡の留守職で豊後に下向し大宮司の婿となって一子を儲ける。
それが上総介舜清で号は真光坊。


保安4(1123)大隅ニ下向、垂水(たるみ)ニ居ル。其ノ後、蒲生及ビ吉田ヲ領す。
宇佐八幡宮ヲ蒲生ニ勧請(かんじょう)シ代々蒲生ヲ領ス


ふむふむ・・・φ(.. ) メモメモ
蒲生氏は宇佐八幡系武家か~となると氏神は分祀した【蒲生八幡神社】になるわけだ。

(島津)忠久公御下向、(蒲生)清直ヨリ六代美濃守清寛ハ元久公 久豊公ノ御家老ニテ候。
忠久公というのは島津氏初代のことで、九州へ下向したのは1186年のこと。
その時の当主が蒲生氏3代目清直だったのかな?(@@)
つまり大隅蒲生氏は島津氏より前に大隅の地に土着していたんです。
で、カウントが変なんで判りづらいけど清寛は蒲生氏11代目で、元久公 (←兄)久豊公(←弟)とは島津氏奥州家っす。

ふむふむ・・・蒲生氏は後に島津宗家の座を独占する奥州家の覇業を支えていたわけか・・・
島津目線で蒲生氏が島津の幕下になった・・・
と言えば聞こえは良いが、宗家の座を巡る争いの中において、島津奥州家は先に土着した有力国衆である蒲生氏の力を必要としてたんでしょう。

応永八(1401)年、元久公 山北ニ御出張ノ節 別テ抽 軍忠候に付為、賞谷山和田村三十町被宛行候
なはは~一部判んなくって監修様に教えてもらった~
でもって、やっぱ地名に読点ないし・・・il||li _| ̄|○ il||l
肥前関連だと句読点や文節に迷うことないから、やっぱ島津関連に読みなれてないからなんだろうなぁ^^;

とにかく奥州家の島津元久公が御出張・・出陣したときに【別して抽(ぬき)んでた軍忠】があったらしい。
賞・・・恩賞として谷山と和田と併せて三十町が安堵されたそうな。
ふーむ、、、本貫地の蒲生が姶良(あいら)市で、恩賞で与えられたのが鹿児島市だから10km以上離れてるな・・・。

えっと~本藩人物誌では時系列の流れが途切れてます~
補足で元久公が1411年8月6日に陣中で病没して家督争いになった
応永二十(1413)年十二月上旬 菱刈凶徒為御誅伐 久豊公御発向被成候処 
其の御跡に伊集院頼久 鹿児島の本城(清水城ノ事)に寄り来り候由相聞得


え~っと、久豊公の頃も逆らったんですね菱刈さん^^;
で久豊公が討伐のために本城を留守した間に伊集院頼久が寄り来り
って端折って書くと何やら楽しそうな表現ですが、実は留守を良い事に城を奪っちゃったのさーーーー( ゚д゚)ンマッ!!

伊集院頼久----島津氏一族伊集院氏7代目、妹が亡き元久に嫁いでいたので久豊公から見て義兄弟にあたります。
久豊公と実兄の元久公は不仲だったんですってネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

伊集院頼久は病床の元久公から『家督はソチの息子に~』って遺言を受けたと主張してました。
後継者レースから外れた久豊公は、伊集院から葬儀の真っ最中に亡き元久公の位牌を強奪し自分が葬儀強硬して奥州家当主となったそうです。
さすが、ドン久豊公~キャラが立っておりますな ( ゚Д゚)y─┛~~

(落城の知らせを聞いた⇒)久豊公 御憤りの余り御一騎掛け遊被候処に
ありゃ、よほどブチ切れたのね~大将が一人で飛び出したとな^^;

一話で室町時代まで終わらせたかったけど、本藩人物誌の記述が面白くて楽しく編集してたら一話で収まらんかった(爆
また、時間あるときに続きやります~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

激怒のあまり立場を忘れて飛びだした奥州家ドン・久豊公・・・それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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