筑後蒲池氏3_上蒲池氏と下蒲池氏の系譜

参照文献:「柳川の歴史2」

まず上蒲池家「蒲池家譜」より
本拠地:上妻郡・山下城

初代・能久(天文16年2月11日死去)
2代・鑑誠、掃部頭、法名:覚船、母は太宰少弐の娘
3代・鑑廣、志摩守、法名:麟久、母は筑後所司代・豊饒(ぶにょう)永源の娘(天正9年死亡40歳)
4代・鎮連、兵庫頭、法名、覚照、母は柳川の蒲池宗雪の娘

2代目が史料で出てこないので、活動(当主)期間が短かった模様。

下蒲池家、上蒲池の系譜には出てこない。
本拠地:柳川(蒲池)城

初代・重久
2代・鑑盛、宗雪
3代・鎮漣

と、これは仮定の状態

史料の頻出し始める当主
上蒲池---3代・鑑廣
下蒲池---2代・鑑盛、宗雪

この二人の当主時代に筑後・・・ひいては北九州において重要な事が起きたということです。



え~~と、どうも自分が上も下もゴチャゴチャで中々覚えられない。
参照文献とニラメッコして整理してみました。

つまり、この記事はシオ用のカンペである(`・ω・´)キリッ
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筑後蒲池氏2_蒲池氏の分裂

相良家文書の蒲池美作守能久って方が登場するんです( ̄ko ̄)
ん~図書館からコピーした部分は戦国期の永禄年間以降なので、それよりは前の年代です。

作成者:(筑後国衆連著)
三池上総守親盛、溝口薩摩守長資、河崎出羽守鑑繁、蒲池美作守能久、西牟田播磨守親毎
あて先:進上 鹿子木三河守殿←肥後国衆
年 代:1月23日(書状のため年度不明)

この能久が蒲池がニ家に分裂した時の当主とされています。
相良家 申 29(筑後国人西牟田親毎他四名連署書状)か・・・【慶応大学アレコレ検索】・ ̄)じぃーぃっ

で、正月休館明けにさっそく図書館に行ったんですが・・無かったil||li _| ̄|○ il||l
「相良家文書・家わけ5-1、5-2」には収蔵されてませんでした。
「甲29」ってあるから、別分類の復刻版が地元にないor出版自体が未だのどっちかです。( ◢д◣)ショボン

「蒲池物語」では上下蒲池の分裂は、大友親治の命令で上妻郡の押さえのためと説明されています。
よく出回ってるネットで見かけたりするのは、蒲池の勢力を恐れて大友が分けたんだ~とか書いてます。

が、天文3(1534)年における大内の筑後侵攻において、
能久が肥後菊池&大内側
兄重久が大友側
と戦国アルアルの(生き残りのため?)分かれて行動したために、この後から分裂したとも考えられるし、
この段階で既に分裂してたとも考えることができます。

いずれにせよ、大友の命令でニ家に分裂したという確たる典拠(一次史料)はないようです。

「蒲池家譜」は、上蒲池の家譜であるため柳川の蒲池鑑盛(宗雪)との系譜関係は全く判らないそうです。

いずれにせよ
・蒲池能久が、上蒲池家の初代とされていること。
・能久に兄・重久がいて、別々の軍行動をしていること。

の二点から、この兄弟の代で柳川の下蒲池、山下の上蒲池に分裂したのは間違いないようです。
次は、もう少し詳しく系譜を辿る次章へと移りたいと思います^-^

参照文献:「柳川の歴史2」

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少し呟き

相良家文書の蒲池美作守能久って方が登場するんです( ̄ko ̄)
ん~図書館からコピーした部分は戦国期の永禄年間以降なので、それよりは前の年代です。

作成者:(筑後国衆連著)
三池上総守親盛、溝口薩摩守長資、河崎出羽守鑑繁、蒲池美作守能久、西牟田播磨守親毎
あて先:進上 鹿子木三河守殿←肥後国衆
年 代:1月23日(書状のため年度不明)

この能久が蒲池がニ家に分裂した時の当主とされています。
・・・相良家 申 29(筑後国人西牟田親毎他四名連署書状)か・・・【慶応大学アレコレ検索】・ ̄)じぃーぃっ

やばい~~~読み下したくてしゃーないよ!!:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ
続きは図書館で確認してからにします(`・ω・´)キリッ←おぃ


図書館、1月3日まで休館ですた・・・il||li _| ̄|○ il||l oh・・

(。-`ω-)ンー ちょっと呟いてみようっかな・・・

実は来年のGWに佐賀に行く計画してます。
上手く行くと飛び石じゃなく、3、4、5日連休とれそうなんです ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・
2日の最終便で地元⇒羽田⇒佐賀まで駆っ飛びできるかな~って( *´艸`)ウフフ
帰りの便予約も忘れないようにしないと・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

引越した今のアパート(5F)は駅の近くで、列車のアナウンスや列車の音が聞こえてきます。
電車も列車の音も、子供の頃から聞きなれているので『煩い』と感じたことは一度もありません。

むしろウトウトと夢見心地で寝ている時に、列車の音を聞くのが好きです。

えっと・・・別に鉄子ではない^^;

実は子供の頃、市電路線の真ん前が自宅だったの。
2番目の引越しで離れるまで、一番路線の市電の音で目が覚めるのが子供の頃からの習慣だった。
今の引越しで3度目で、今度は市電じゃなく駅の近くになった^^

子供の頃の楽しい記憶が揺ら揺らするようで、列車の音を聞くとホッとする。

と、同時に どうも旅情的な部分が刺激されたらしい (; ・`д・´)
佐賀に行きたい気持ちが押さえ難い。
(現代、少しでも貯金を崩さないように、節約ガンガルなぅ)

ちなみに一番の目的は「藤龍家譜」の閲覧とコピーだ!!(。-_-。)vブイッ♪
佐賀で半分、時間があれば福岡に寄って半分、と分割コピーの離れ業したい。
福岡の某研究者に会えたら嬉しい ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

但し、この日程だと城廻りの時間がとれないのが目下の悩み(。-`ω-)ンー
もしコピーが失敗したら、史跡を巡り倒します(ワハハ)

来年の夢の話・・・ちょっと早いけど皆様も良いお年を・・・:*:・**・:*:・・・☆

筑後蒲池氏_筑後守護職

他の過去記事と重複する部分はあるのだが、筑後守護職は外せない^^;

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※引用部分は緑文字部分にて表記します


参照文献では蒲池氏の出自について色々触れているのだが、管理人がオバカ専門外なので脳に浸透しない^^;
結論からいうと「よく判らない」らしい。
プロローグに書いたように「蒲池物語」は信憑性が低く、さりとて他のとなると文書が少なすぎて明瞭な痕跡がない。
ただ薩摩の旧記雑録の方から、江戸期に島津家臣となった蒲地氏と筑後蒲池氏が同族なのが判明したと書かれています。

鎌倉期~南北朝と記録が殆どない蒲池氏なのだが、どうも当初は南朝だったらしい。
あくまでも傍証からの推論なので参照文献でも「らしい」という控え目が書き方です。
南朝が優勢だった九州へのテコ入れで、名将と謳われた今川了俊が九州探題職として投入され、蒲池氏も北朝方へ鞍替えした(じゃないかな~と参照文献が推測してます)

で、九州において功績が大きすぎる今川了俊の存在を危惧した足利義満によって、了俊は探題職を解かれて駿河へ帰国。
当時、筑後守護職は今川了俊が兼務していたのだが、こちらも解任。
今川了俊に代わって筑後守護職となったのが、鎌倉期に筑後守護職の先例がある大友氏だった。
以来、筑後と大友氏は深い繋がりを持つようになる。

家紋・大友 ロン様作成_大友家紋ロゴ

その大友氏が一時、筑後守護職を外された事がある。
原因は大内氏との対立で大友が勝っちゃったから ( ̄ω ̄A;アセアセ
時の大内氏当主は11代目・盛見(もりはる)

大内盛見は、足利義満とは政治的に対立していたのだが、義満が病死し将軍職が代替わりすると相伴衆として幕政に参加するようになり、特に足利義教に重用された。
で、大内盛見は筑前が幕府の御料所となると筑前の代官に任命された。
このあたりの政治の裏までは調べきれてないのだが、何せ「万人恐怖」「悪御所」と言われたほど苛烈な足利義教がバリバリの頃だから^^;

そうとなると筑前を本貫地とする少弐氏と博多の利権で分け合う大友氏が黙っていられない。
デジャヴュなパターンで大友と少弐が ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!! と「打倒大内タッグ」を組む。
で、戦国期とは違い少弐・大友チームが勝って、大内盛見は討死する。

激怒した足利義教によって、大友氏は筑後守護職を解任され、代わって肥後守護職だった菊池氏が筑後守護職に任命されました。
それが永享四年(1432)のこと。
足利義教が嘉吉の乱で暗殺され、7代目も早世した為に8代目将軍職となったのが、銀閣寺で必ず教科書で紹介される足利義政^-^
寛正三年(1465)、その足利義政が大友氏と菊池氏に、それぞれの筑後半国の守護職に任命するという中途半端なことをした^^;
足利義政らしいというか・・・当然のごとく「半分ってなんじゃそりゃーーー」と、たちまち大友--菊池間で揉めた^^;

筑後に出兵した菊池氏が敗れたために、最終的に元鞘の大友氏が筑後守護職で治まるのだが、
治まらないのが肥後菊池氏だ。
肥後菊池氏は、筑後に関心を持ち続け、筑後国内にも菊池氏に従う者もいたりで、肥後の政治情勢が筑後に波及する状態は戦国期まで続き、結果として筑後は常に政治的に不安定でした。

で、大友氏ですが戦国期に入り筑後国統治に関し決め事をしてます。
「一、当国(豊後)の者、一人二人づつ、筑後在国あるべきの事」
(永正12・1515、大友義長置文、追而書第三条)


で、自分も参照文献で初めて知ったんですが、大友氏の職制として知られた「方分(ほうぶん)」という役職。
これは加判衆(大友用語で他家でいうと家老にあたる)の一部が、分国を一つずつ担当する方式。
(豊後国内においては郡単位)
つまるところ「守護代」みたいなものです。

この方分は戦国期になってから文献に登場し始めるそうで、初めからあった職制じゃなかったようなんです( ゚д゚)ンマッ!!
で、加判衆と方分の兼務のほうも、自分が見てる範囲ですと大友宗麟は兼務を嫌ったような感じを受けます。

それは置いておいて、方分の前は?というと普通に守護代、郡代が派遣されていました。
が、命令系統としては「守護代⇒郡代」ではなく、郡代が守護代と同等の権限を保持してたようです。

なるほど・・・それで郡代が安堵状を発給してたわけか・・・|田尻家文書|・ ̄)じぃー

何故、戦国期になってから「方分」」という職制が創設?されたのか、そのあたりの推移や職制の変遷となると、武家としての大友家が滅んでしまった為に明瞭になっていません。

戦国期と室町~戦国初期あたりで大友の職制が変化してるというのは、ちょっと驚き(@@)
古文書の読み下しの上でも非常に参考になりました。
守護代であれ、郡代であれ、大友家臣が派遣されている以上、豊後本国で「何か」あれば筑後にも波及するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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筑後蒲池氏_プロローグ

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肥前を調べるに当たり要リサーチなのが、少弐氏の本貫地である筑前。
更に、もう一つが筑後です。
筑後は龍造寺隆信が登場した肥前のように一国を統一する、いわゆる「英雄」は出ませんでした。
代わりに筑後十五城と呼称された有力国衆がいました。

筑後守護職は他国人である豊後大友氏。
筑後国衆は大友氏の支配を嫌い、たびたび謀反を起こし大友氏を悩ませましたが、大友氏の力の前に屈し、その支配体制にガッツリ組み込まれます。

筑後には大友から配された守護代がおり、大友直参衆がいました。
(「高一揆衆」または「一揆合衆」、別名で「二四頭」あるいは「三三頭」)
てことで、筑後史は物凄く複雑です^^;

資料を読んでたんですが、ぶっちゃけ読んだだけじゃサッパリ判らん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
てことで資料の要点を自分なりにまとめて記録したいと思いますので、宜しくお願い致しますm(__)m

***************************************

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※参照部分は緑文字部分にて表記します


蒲池氏は二つに分かれるのですが、柳川城の下蒲池家は龍造寺に滅ぼされたために伝来の文書は失われました。
今日「蒲池文書」と呼ばれて残ったのは、山下城の上蒲池氏の子孫が所持していたものだそうです。

滅びた家ってノンクレームだからアレコレ書きやすい。
だから柳川の蒲池に関して記した「書物だけ」は数多いわけです^^;
下蒲池氏に関する参考文献というのが、江戸時代に成立した「蒲池物語」と「宇都宮蒲池系図」をもとに記述されています。

「宇都宮蒲池系図」は「筑後将士軍談全五十六巻」の中にあります。
筆者は久留米藩の学者だった矢野一貞。
彼は筑後各地を綿密に調べ、岩戸山古墳と磐井の研究には欠くことのできない基礎文献とも言われています。
城跡の現地取材も豆で171の城を書いてて、筑後史の研究に大いに貢献してるのですが、宇都宮蒲池系図は・・・^^;
だって、筑後蒲池氏は宇都宮からの系譜じゃないからして、前提そのものが崩れてるんです( ̄ω ̄A;アセアセ
矢野一貞は幕末期の学者なので、おそらく混同するような底本が当時あったんでしょう。

たぶん柳川の蒲池氏を知ってる人の間で知名度があるのは「蒲池物語」の方だと思います。
蒲池物語は享保7(1722)に著され、作者は蒲池豊庵(かまちほうあん)。
蒲池宗寿(蒲池鎮並娘と大友家臣との子)の子孫で・・・ズバリ言うと庶流。

蒲池豊庵は先祖の事を記すに当たり史料がない部分は、当時流行してた「通俗史書」「軍記物」を参考にしたそうな( ゚д゚)ンマッ!!

そのため蒲池物語の記述は史実と合わない点が散見される
ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!←蒲池物語をあてにしてた
ということで、蒲池氏の史料としては上記二つは使えない・・・il||li _| ̄|○ il||l←蒲池物語(意訳)をダウンロードしてた

一方、上蒲池さんですが江戸期は黒田家や細川家に仕えて生き残ってて、子孫の一人が松田聖子なわけだが。
こちらが残した蒲池家譜が他の比べると精度が高い^^
ということで、参照文献では上蒲池氏の蒲池家譜と同家に伝わる古文書、他の史料などを併用して編纂されました。

そのため一般に流布されている蒲池氏とは、かなり違い、
情報量の多さから来る既存知識の書き換え更新作業が、管理人脳内のみでやろうとしたらパンク状態でお手上げ。
時間はかかるけど、記事という形にして頭に入れていきたいと思います^^
ちなみに同様の理由で田尻氏もやります~~それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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