【大友氏の筑後支配】


大友家の筑後支配は応永23年(1416年)大友親著(11代目ちかつぐ)が足利義持(4代将軍)より筑後守護職を安堵されてからのことです。

途中で菊池持朝が筑後守護職となったが大友氏と戦って敗れたので、
再び大友親繁(15代目・親著の子)が守護職となり代々つづいた。


筑後は肥後と似て有力国人領主が支配し、一般に「筑後十五城」と呼ばれています

上蒲池(上妻郡)・下蒲池(山門)・問註所(生葉郡)・星野(生葉郡、竹野郡)・黒木(上妻郡)・河崎(上妻郡)・草野(山本郡)・丹波(高艮山座主)・高橋(御原郡)・江上(三瀦郡)・西牟田(三瀦郡)・田尻(山門郡)・五条(上妻郡)・溝口(下妻郡)・三池(三池郡)の大身一五家。

このうち大蔵系高橋が筑前へ、同じく大蔵系江上が肥前へと移動したので、実質は十三氏になります。


蒲池氏が上と下に別れたのは、蒲池氏の勢力が大きくなるのを恐れた大友親治(18代目・宗麟のひぃジーちゃん)が分家を立てたことから始まります。

嫡男が下蒲池(山門)←こっちが嫡流になります。

次男を上蒲池(下蒲池本領から600町割いて上妻郡に置いた)

大友家では蒲池氏を懐柔するために気配りバリバリでした。

自分の名前の一字をプレゼン(偏諱・へんき)したり、朝廷へ官位任官の手続きしたり・・・

つまり蒲池氏の官位である●●守とか●●輔ってのは、他所の戦国武将が自称したものとは違い、大友推薦による本物の朝廷ブランドです(=^・ω・^=)v ブイ

ただし天文年間に蒲池一族(系譜上の当主ではない)で、豊後参り(下記緑枠参照)を怠り成敗された者がいたということで、締めるとこは締め上げテ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ


え~~~それとですが大友って家は家格・格式に非常に喧しい所でして( ̄ω ̄A;アセアセ

配下の国人は、あくまでも何処までも外様(他姓衆)!
政治面への参入は一切認めず軍事面でのみこき使っッテ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

軍役も経費は自腹ですから、大友衰退で恩賞ゼロが続くと、筑後国人たちはR家やS家からの軍事的圧迫もさることながら、経済的にも逼迫しちゃんですよ~( ̄ω ̄A;アセアセ


筑後における大友直参衆

上妻・三原・安武・町野・小河・菅・麦生・酒見・津村・江島・酒井田・坂田・甘木・辺春・谷川・行徳・古賀・高三潴・林田・木室・荒木・水田・隈・稲員・諸富などです。

彼らは大友家では「高一揆衆」または「一揆合衆」、別名で「二四頭」あるいは「三三頭」と呼ばれた。

大友家が守護職になったころは、前時代の荘園制度は完全に破たんし、地頭職も有耶無耶状態でした。

大友家では、この「高一揆衆」に地頭的役割を与え、さらに官位も与えて権威づけしてました。
(筑後十五城で蒲池氏だけが特別扱い、大友推薦で官位をもらってた)

つまり筑後十五城の面々と、大友直参「高一揆衆」に待遇や役割面で格差をつけて、
互いに牽制させることによって筑後支配のパワーバランスをとってたんです。




「耳川の戦い」で大友が島津に敗れて衰退。

さらに有力国人で大友への忠義が厚かった蒲池宗雪が、耳川で戦死したことで大友の筑後支配が大きく崩れました。

島津も勢力拡大してますが、初手の段階では肥後でもたついてるんで(相良と阿蘇に粘られた)、
その僅かな間に竜造寺が筑後へ勢力拡大します。

筑後十五城は同族や婚姻関係で繋がった縁戚が多く、竜造寺の草刈り場となった為に同族・縁戚同士による争いで悲惨なことに。。。。・゜・(PД`q。)・゜・

いずれ記事にする予定ですが、あまりにもアレで涙なくして語れない感じでつ。。。ショボーン..._φ(・ω・` )


八朔太刀馬の儀式/豊後参り

大友領国内にある大小名が毎年八朔(旧暦の8月1日)に、良馬一頭を柞原(ゆずはら)八幡宮に奉納するため従者をつれて府内に上り、時の大友家当主の検閲を受ける儀式です。

1)杭に、それぞれの家名、氏姓を記した立札を立て、知行の大小、官位の上下順に整列した後、
順次点検を受けていきます。

2)点検が終わったら柞原の森を出た神輿が、正装をした大宮司はじめ供奉者がつき従い、生石(大分市生石)の祭場へ向かう。

その行列は別府湾を左に見ながら、高崎山の麓を延々と長蛇の列をなしていたそうです。

当然、この儀式には本拠地・豊後以外の領国から参府した配下の国人らも参加します^^b

3)大友当主は生石の祭場まで動座して屋形桟敷の正面に着座。

左右の上座にお歴々が並び、さらの各国の使者はじめ、名ある武将が序列にしたがってズラーーーーーっと並ぶ壮観でつ^^

4)参府した諸侯らは大友家の威風にひれ伏し、忠誠を誓わされる。

5)不参加者は「大友に対し異心ある者」として成敗される。

全盛期の大友~~~まさにキングオブ九州です( ̄ω ̄A;アセアセ

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【筑後・星野氏】




星野氏は「調一党」調さんは笛の名手で感激した帝が「調」の姓を与えたそうです。

領地は筑後国の生葉・竹野両郡。城は鷹取・妙見・白石・山中・福丸の5つ。

筑後とありますが、現代日本の都道府県だと福岡県になります。

筑前と筑後は当時でも、またーり徒歩で2日程度の御近所さんです。

でもって当時の北九州の勢力である少弐氏に従ってました。

てことで南北朝は少弐が南朝(宮方)だったので、星野も南朝で頑張ってました^-^


星野氏は「南北朝の争い」の後も、北進し勢力拡大しようとする豊後・大友家を阻み続けた。

寛正六年(1465)にも、大友家臣・阿南惟久を o( ̄Д ̄θ★ケリッ!撃退してます。

でも文明十年(1478)ころには、大友氏の被官に治まったようです。

が・・・・これは大友家歴代の特徴なんですが、

大友家という家は、国人領主に超冷たい家なんです(怒


頑張っても領地を与えるのは家臣だけだし、国人領主を常に矢玉避けの最前先で捨て駒使いします。(雷神様も国人への対応は厳しかったなぁ)

大友直属の兵力は後方に置いて温存するというやり方を露骨にする。

家臣同士でさえ、譜代家臣と新参(外様)家臣の格差もあるし、名門意識が強く内部に問題ありすぎ~~だから戦国末期になると一族・家臣・国人の大量離反を招きます。

星野氏も大友家の体質に次第に不満が溜まり、大友に叛旗を翻す。

星野氏は大友へ「七代の間は謀反しません」と誓詞を出していました。

謀反を決意した星野氏は自身の葬儀を7回行って「七代クリアしだど~~(伯耆守の七葬式伝説)」と誓詞を反故にする。

大友義長(宗麟の祖父)の頃で、星野に手こずった義長は謀略を用いて星野を暗殺するんです。

ちと系図がカオスなんですが、暗殺された星野が、後に玉砕する星野ブラザーズの祖父にあたるようです(別の系図だと違う人の孫・涙目)

義長の跡を義鑑(宗麟パパ)が継ぐと、国人たちが大内に従い大量離反。
(このパターンは、もはやテンプレ)

星野氏は兄が大友側・弟が大内側に分裂(家系図によって兄弟の名前すら違う・涙目)

結果として大友側が勝利~~大内に従った星野弟は豊前に領地を貰い(豊前)糸の星野氏になります。

大友側になった星野兄ですが、やっぱ大友が不満で、またまた叛旗を翻します^^;

星野は天険を利用し巧み戦うので、なかなか落とせない^^;

色々諸説ある星野氏の没落ですが、ブチ切れた大友義鑑(大内義隆とする記録もある)が大動員かけて落城させました。


星野氏の家督は大友義鑑が星野一族から選んで継がせた(同族の黒木からの養子説あり)

それを見た(豊前)糸の星野氏(大内サイド)が、本家(筑後)星野氏を攻撃。

大友義鑑が選んだ星野本家当主は討たれちゃうんです(アンビリバボーな天文13年)

事を重要視した大友義鑑は亡き当主の娘婿(蒲池氏)との間に出来た子を新当主にします。
(上か下か、どっちの蒲池かはシオ検索では解りませんでした)

ここから先の流れは解ってるんでパス~

ザックリ行くと、星野は大友サイド⇒大友没落⇒島津サイド⇒九州の役でアボン

九州の役で玉砕した星野ブラザースには子供二人がいました。

まだ幼いからと助命され、一人は鍋島家臣に、もう一人も鍋島分家に仕えてます。

鍋島さんは星野と同族の黒木家生き残りの姫君も引き取ってます(鍋島家臣に嫁いだ)

一時期、直茂が柳川城主だった関係で、筑後浪人の受け入れ先になってたんでしょうね^^

豊前)糸の星野氏は「九州の役」で小早川隆景の保護下に入ることに成功し、領地安堵・星野家惣領になりました。

小早川隆景死後は解りません^^;運が良ければ毛利家臣or黒田家臣のどっちかに潜り込めたでしょう。

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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