筑後田尻氏_4・菊池義宗の反逆

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」

最後の肥後守護職・菊池義武は幾度か改名してます。

菊法師丸(幼名)→大友重治→重宗→菊池義宗→義武→道誾(法号)
別名もたくさん~十郎(通称)重治、重宗、義宗、義武、義綱、義国、武宗
この中で自分が一番好きな諱は「義宗」・・・って、マニアックですいませんil||li _| ̄|○ il||l

永正15年8月に大友義長が亡くなりますが、生前に嫡子・親安(義鑑)へ残したと思われる「覚書」があります。
(正式名:大友義長条々)

第二に筑後星野氏に対する警戒
第三に肥後政策、特に阿蘇惟長への対策を強調している

『もし阿蘇惟長が肥後を競望すれば、筑後も意のままにならなくなると述べている』そうです。
※競望(けい ぼう )一つのものを望んで他人と競うこと。

つまり義長の脳内では肥後計略と筑後支配の安定化がSETだった。
※自分個人としては、この発想はなかったので頭の中を切り替え中です^^;

で、亡き義長の後を継いだ親安(義鑑)は、弟の菊法師丸に菊池家の跡を継がせました。

継ぐといっても菊池家には菊池武包(菊池分家詫摩氏出身)という当主がいたんだけど、
これまた菊池の家臣たちと折り合いが・・・・で肥前に出奔なぅだった^^;
元々、菊法師丸が成長するまでの繋ぎとして大友が介入して当主にしたんで、そこら辺が菊池家臣と折り合いダメだった部分なのかな~~~~~~~~って自分の感想^^b

参照文献によると、大友では肥後を分国化することも考慮してたらしい。
そんなこんなで送り込まれた菊法師丸クンだった。

当時の肥後では前(菊池武包)の前(阿蘇惟長)の前当主・菊池政隆の残党が蜂起してて、元服して大友重治となった菊法師丸は、この残党鎮圧を名目に肥後入りする。
で、正式に菊池当主となり、まず菊池義国と名乗った(永正17年3月)

ところが菊池義国で義宗は、実家である大友の肥後介入を拒み自分の独立を主張し続け、ついには謀反まで起こす。
具体的な義宗の構想は今となっては不明なんだが、筑後も欲しかったっぽい。
肥後菊池氏は筑後守護職だった時期があったからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

ということで、肥後・菊池義宗の2度の謀反に、筑後が巻き添えを食うのだが、それは またの話^-^
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筑後田尻氏_3・朽網親満の乱

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」

蒲池氏の史料が少ないらしく、次章で年代が飛んでいるので、先に田尻氏の方を進めます。
真面目記事ばかりですいません。
でも戦国初期ファンなので、書いてる本人は萌えてます ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

★朽網親満の乱
大友義長は永正12年頃に家督を親安(=義鑑=宗麟パパ)に譲ったとみられている。
翌年永正13年8月に朽網親満が家督を継いだ親安に対して謀反を起こした。

肥後守護職・菊池政隆討伐で手柄を立てた朽網親満だったが、親安(義鑑)を廃して大友一族で出家していた大聖院宗心に家督を継がせようとした。
(系図的な説明はパス!←ぉぃ)

筑後で朽網親満の謀反に呼応し挙兵したのが黒木筑後守・河崎刑部大輔など。
この乱で田尻治種は大友親安(義鑑)に味方し功績により永正15年3月に領地安堵を受けている。

が・・・ここでトラブルが・・・^^;

田尻氏が安堵された土地は「うちのもんじゃヾ(*`Д´)ノケシカラン!!by筑紫氏」とクレームが出た。
で、大友の奉行から「確認の上、クレーム通りなら代替地を与えます( ̄■ ̄A;アセアセ」と返事している。
(この流れは田尻家文書にあります)

てか、龍造寺の時も安堵したはずの土地が実際は足りないとかあったし、大友が大雑把というより本国から離れてるがゆえの齟齬や勘違いがあるんだろうと思う。

で、このときの蒲池氏だが、どうも謀反した朽網親満サイドだったようです。
ただ具体的に何か行動したって訳でもないみたい。(共謀してるって話の段階)
細かい部分は蒲池氏側の記録がないようなので不明。
ですが、田尻氏と蒲池氏が別行動をしていたのは間違いなさそうです。

次回、自分が結構気に入ってる【最後の肥後守護職・菊池義宗】が歴史の舞台に登場します( *´艸`)

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筑後田尻氏_2・肥後の錯乱と筑後

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」

永正に改元する直前に肥後守護職で最後の嫡流当主である菊池能運が28歳という若さで死亡します。
この後の家督を巡るスッタモンダを「肥後の錯乱」と呼びます。
大友義長は、この肥後の錯乱を通じて「肥・筑対治の儀」と称し、筑後計略の一環にしました。

まず、能運の遺言により玉名郡・菊池肥前家より政隆が当主に迎えられた。

・・・のだが、菊池家臣が・・・ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
永正2年、庶流当主に不満の家臣が阿蘇大宮司家から阿蘇惟長を当主に迎えようと画策する。
(庶流がダメで他家ならOKな感覚は不明^^;)
とにかく、これで菊池家内部は政隆派と惟長派に分裂してしまった。

永正3、9月に惟長支援で大友義長が軍勢を送ると、
菊池政隆は山本郡・内空閑(うちこが)城で挙兵するのだが、阿蘇小国で敗れる。
この年の12月に惟長は、阿蘇家から菊池当主・武経(たけつね)となった。

永正4、3月になると大友義長は筑後・妙見城の星野重泰(反大友国衆)を攻撃する。
(結果として星野氏は負けました)

一方、敗れた元菊池当主・武経はというと、肥後と筑後を転々とし葦北から島原へと逃亡しました。
(なんか後年の菊池義宗の逃亡ルートと似てる^^;)
で、永正5に筑後に侵入し再起を図った。

どうも筑後に菊池政隆派国衆がいたらしいのだが、参照文献でも国衆が誰なのか判らないとなってます。

永正6、夏に大友は朽網親満(くたにちかみち)を派遣した。
菊池政隆は玉名郡臼間野(南関町)桜馬場で捕らえられる。
同年の閏8月17日に合志郡安国寺において自害させられた。

この間に田尻種久は大友派として協力したらしく
永正5・11・3日に大友義長から知行地を与えられています。「田尻家文書16・17・18」
(まだ読み下してない~~;><☆)
同日に草野氏と五条氏にも知行が与えられている。




大友義長は筑後における反大友国衆も一掃すべく、菊池政隆討伐を利用したようです。
白状すると相良編では手抜きして菊池政隆のことは飛ばしてたので、完全に盲点でした(。-`ω-)ンー
いまさら相良本編を修正できないので、年表でフォローしますil||li _| ̄|○ il||l

何せ星野氏の妙見城攻略には3年かかっちゃってたんで、肥後と連動してるとは気づかんかった(。-`ω-)ンー
星野氏は、大友が潰さず残した星野氏と大内が支援して残した糸の星野氏と分裂しちゃうので、そっちに気をとられたのもある。

うーん、歴史は全て繋がってる。勉強になりました。

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筑後田尻氏_2・大友との関係強化

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」

田尻系図(カンタン)
田尻恒種---種久---治種---親種

大友当主(カンタン)
大友政親---義右---親治(政親の弟)---義長---義鑑---義鎮(宗麟)


延徳2(1490)9月2日、大友義右は恒種の跡目として種久の相続を許した。
(田尻家文書:4号)

この種久の代で大友家で内紛が起きました。
明応3(1494)5月、筑前守護代の田原親宗が、当主・義右に背いて兵を挙げたんです。
手勢2000で府内を襲いました。
さすが田原氏・大友家分家筆頭の実力ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

これは返り討ちに遭い、田原親宗は討ち取られました。
が、明応5(1496)5月に大友当主・義右が病死(父・政親による毒殺説あり)
直後に大友の家督問題に介入した大内勢により、大友政親が討たれる。

政親と義右は、義右に毒殺説がでるほど不仲でした。
不和の原因は将軍家の家督問題で、大友親子は それぞれ違う将軍を押しメンしてたんです。

政親、義右と親子共に死亡したために、政親の弟・親治(ちかはる)が跡目を継ぎました。
親治は四男で肥後瑞光寺の僧だったんですが、還俗して当主になったんです。

この親治がキリシタン大名・大友宗麟の・・・・の・・・・曽祖父です(; ・`д・´)←一瞬漢字をド忘れした人
つまり政親、義右親子の不和がなければ、宗麟には当主の座は回ってなかったって事です^^b

で、田尻家では大友親治の時に、種久から治種(ちかたね)へと跡目相続します。
治の一文字から判るように、治種の諱は大友親治からの偏諱(へんき)です。

田尻家が大友家から偏諱を受けたのは、このときが初めてのこと。
跡目相続後も田尻種久は健在だったそうなので、種久&治種親子による二頭体制で田尻家を動かしていたようです。
跡目で偏諱を受けるということは、健在だった父・種久と大友親治の間で関係強化が為されたということになります。

文亀から永正年間にかけて、大友の筑後支配が大きく進展した時期でした。
それに「肥後の錯乱」が大きく関わります。

筑後を半分こ支配で揉めた肥後菊池氏と豊後大友氏。
筑後一国支配をゲッツしたのは大友氏でしたが、文亀元年に再び菊池氏と対立したのです。
弱体化しつつある菊池氏に対して、食い込もうとする大友氏。
両者の争いに筑後国衆が巻き込まれていくのだが、それは またの話^-^

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筑後田尻氏_1・筑後守護職

えっと~ちゃんと参照してます(爆
時系列順なんで、こっちも筑後守護職ネタになっちゃうんです^^;
ちなみに今更だけど、念のため~守護職は(しゅ_ご_しき)と読みます。

参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※引用部分は緑文字部分にて表記します


南北朝の争乱期だが、参照文献によると蒲地氏と同じく田尻氏も当初は南朝方だった「らしい」
(傍証からの類推)
で、稀代の名将・今川了俊が投入され北朝に鞍替えし、その後に足利義満に解任され~の。
筑後守護職は大友なり~の。って流れは蒲池氏と同じで、あんまり足跡がない田尻氏。

蒲地氏1で書いたように、大内盛見を討って足利義教を激怒された大友氏が筑後守護職を解任されて、新たに菊池氏が任命される。
肥後菊池氏の筑後支配は30年ほどなのだが、史料が乏しく領国支配の中身は良く判っていない。
とりあえず守護代には、城(じょう)氏と石貫(いしぬき)氏が任じられた。
さらに家臣や被官(=配下の国衆)などに領地を安堵している事例があるそうです。
田尻家文書には菊池氏からの文書は残ってないんですが、他史料で田尻家が菊池氏から領地安堵を受けてたらしいのが推察できるそうな。

足利将軍が代替わりし、銀閣寺の足利義政が菊池と大友を筑後【半国】守護にしたのが寛正三年(1465)。
菊池氏は実力で残り半国をゲッツしようとして出兵したのが寛正六年(1465)二月。
菊池勢と大友勢は高良山一帯で激突し、菊池側は大将が討死するという大敗北を喫する。
世間は負けた側に冷たい・・・菊池氏の軍行動は非法行為とされ、筑後半国守護職は召し上げとなり、筑後守護職は大友氏が改めて任じられた。

筑後守護職を諦めきれない菊池氏は【半国の権利】を主張して来るので、大友家では足利義政に莫大な金額を献金して対抗。
結果、菊池氏の主張は退けられて、筑後の領国支配から手を引くこととなる。

家紋・大友 ロン様作成_大友家紋ロゴ

大友氏では一門の田原親宗(たはら_ちかむね)を筑後詰郡代に任命しました。
前回書いたように、大友家の職制では郡代と守護代は同等の権限を有するので、田原親宗が実質の守護代です。

田原親宗は在任中に筑後で起きた一揆の討伐をしているそうですが、田尻氏の動きは史料として残っていません。
田尻家文書から察するに、田尻家が大友家被官として関係が成立したのは文明年間のようです。
過去記事_田尻家文書2_大友親宗知行預ケ状
おほほほ~この読み下しの時期は大友親宗と田原親宗が同一人物か判断に迷ってたのよ~~~
○○を先に読んでおけば~~~は、いつものパターンですな ( ゚Д゚)y─┛~~

もっとも、この時に100町足りなかったり、後から検視が派遣されたりで、なんかスマートに行ってないですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
とにかく戦国初期に入って、大友氏と田尻氏は主君と被官としての繋がりが強くなっていきます。

そうなると蒲池氏と同じく、豊後本国で「何か」あれば筑後田尻氏にも波及するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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