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【新納忠元_市山の合戦その壱】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
さて、久々なのでサックリおさらい。
新納氏そのものは日向が本貫地でした。
ところが薩州家VS伊作の抗争に巻き込まれ、日向の新納本家は一家離散没落の憂き目に遭う。
新納本家に仕えていた新納分家は、伊作に嫁いでいた新納分家の姫・常盤関連の伝手を頼り伊作島津に仕えます。
伊作=島津宗家に仕えたのが島津の猛将『親指武蔵』の異名をとった新納忠元です^-^

人物・新納忠元 橘朝臣幸麿さま作画_晩年の新納忠元イメージ画像

大口城=新納忠元と島津ファンに認知されるようになるのは、永禄年間の島津による大口攻略からです。

大口は菱刈&相良と島津の間で領有経緯が複雑で一言では言えず、相良編でもチョイチョイ触れてます。
永禄10(1567)年11月24日、島津による菱刈討伐が開始。
島津の勢いに抗しきれなかった菱刈は、支城を捨てて大口城へと逃げ込みました。
大口城には相良勢が常駐してたので、菱刈&相良の方が逆に優勢となり島津に反撃。
永禄11(1568)年1月20日、飛田瀬・羽作瀬の戦いにおいて島津義弘公が菱刈に敗れたΣ(´Д`;)はぅ

初めの破竹の勢いから一転して、地元有利で自由に動き回る菱刈勢に手こずる島津氏。
つまり、大口城は元から相良の在番兵がいるので、菱刈勢は遊撃部隊としてフリーに動けるんです。
それで島津にとってはモグラ叩きのようなメンドクサイ状況になっちゃった( ̄ω ̄A;アセアセ

そこで市山城へ投入されたのが親指武蔵こと新納忠元(=^・ω・^=)v ブイ
なんですが、島津側・菱刈側どちらの記録でも新納忠元が市山に入った日にちがハッキリしてません。

ただ永禄11(1568)年2月には市山城入りしてたようです。
永禄十一年二月廿八日肝付弾正兼寛(貴久公国老)島津又五郎忠長(貴久公弟尚久子)貴久公の命を奉し市山城に入り新納忠元に面会し大口城攻めを議し忠元二人を小苗代原迄送りて別れ
相変わらず苦闘(句読)点がありませんな ( ゚Д゚)y─┛~~

ふと気づいたが、大正期になると欠字の習慣がなくなってるんだなぁ |菱刈史|・ ̄)じぃー
(欠字:相手への敬意として文脈無視で、貴人の名前の前は一文字空白スペースをあけること)

2月28日に貴久公の命令で上記二名が市山の新納忠元を訪ねたようです。
大口城攻略の作戦会議ですね^^

って、あり?
肝付兼寛は永禄元年生まれですわ。
こりゃ菱刈史の誤記~~~兼寛じゃなくて、その父の兼盛の方です。

島津側の二次史料・本藩人物誌ですと肝付弾正忠兼盛の項で同年2月28日、島津忠長同道にて、馬越より市山へ差し越し、
となっているんで島津側の方が正解でしょう。

馬越は元々は菱刈氏の城でしたが島津側の攻撃で落城し、今では大口攻略の為の拠点化しちゃったんです。
新納が活躍するということは、即ち菱刈一族没落の序章となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【伊作DE新納(にいろ)】

父を本家との戦で失い嫁ぎ先に従ったら、今度は夫と舅も失った。
かくして新納家庶流の姫だった美女・常盤は、完全に伊作家の人間となり細腕繁盛記よろしく伊作家を切り盛りをする。
美貌もさることながら、相当頭の切れる女傑だったのは想像に難くない。

そんな彼女の悩みは、我が子で伊作の大事な跡取りである菊三郎(=忠良の幼名)の養育だった。
子供は親の思い通りにならないとは言うが、菊三郎少年は思い通りにならなさすぎた。

とにかくクソガキ・・・ゲフゴホグホ
もとい、寺の柱に縛り付けられて折檻されるほど、元気な菊三郎少年の養育を任されたのが新納忠澄。
新納忠澄は、常盤からみて実の甥です。

新納是久には常盤の他に男子(つまり常盤の兄弟)がいまして、その息子の一人が忠澄なんです。
第二次飫肥役のあと、飫肥には島津分家の豊州家が入り、新納本家は元鞘で志布志に戻りました。
常盤の兄弟は、志布志に留まり新納本家の家臣として仕えていたんです。

おそらく・・・なんですが、志布志城の姫だった常盤から見れば、実家(是久系)が本家の家臣格に落ちた事に対し、忸怩(じくじ)たる想いがあったのでしょう(´・д・`)
実家の再興もあって、実甥の一人を伊作へ呼び寄せたわけです。

後の島津忠良の活躍を鑑みると、新納忠澄の養育は成功したようですな ( ゚Д゚)y─┛~~
で、この常盤の実甥・新納忠澄の孫こそ・・・
親指武蔵・・・ではなくて新納旅庵(にいろ りょあん)です^^/

同じ新納姓でも、旅庵は幼少期から三十代まで僧侶だったので、知名度が低いかも。
関ヶ原の合戦の後、徳川家康との間で折衝にあたった事で知られています。

常盤が呼び寄せた実甥・新納忠澄には兄(嫡男)がいて、それが新納忠祐。
新納忠祐は身軽に志布志を離れらない立場でした。
というのは、新納本家から正室を迎えてたから。

あぁ~なんだか段々ややこしくなってきた~~~つまり同族婚なんで島津アルアルのプチカオス系譜なのね^^;
常盤の実甥・新納忠祐の妻は新納本家6代目の娘で、常盤の従妹を妻にしてたんです。
新納忠祐から見ると妻は従姉叔母になります。
新納本家と分家は、敵味方で戦った過去があるので、一族融和のための婚姻だと思います。

あぁクラクラした・・・島津家臣として高名な新納氏を、これまで本格的に出してなかったのは、
日向戦後史も絡んで結構複雑でカテゴリが別に必要になる分量になるからなんです。

薩州家VS伊作家のころ、是久系当主は忠祐の子・祐久の代で、やっぱり新納本家に仕えてました。
で前回記事にしたように、薩州家サイドの島津分家たち+肝付連合にフルボッコにあって新納本家は一家離散で没落します。
新納祐久は嫡男を伴い田布施(たぶせ・南さつま市)へと逃れました。

で、島津忠良の養育係・新納忠澄の伝手で伊作家に仕えます。
その時に新納祐久が伴っていた嫡男こそ、親指武蔵の異名を持つ新納忠元、その人です
人物・新納忠元 晩年の新納忠元イメージ画像

新納忠元が初めて忠良にお目見えしたのは、天文(1538年)で13歳だったそうです。
以降、伊作島津、ひいては島津宗家の貴久、義久、義弘と仕えます。
ということで、新納忠元トリビア?は、新納本家6代目の曾孫ってことです^^/
で、前述した新納旅庵とは又従兄弟の関係になります^^b

ちなみに新納本家も、後に島津家臣として江戸期に続きます。
で、新納忠元が大隅~~~ってイメージになるのは、猛将・新納忠元の大口城攻略からが契機となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回からは菱刈史出典『大隅DE新納』(^ -)---☆Wink





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【本家没落_日向DE新納(にいろ)】

ひぃーん・゜・(PД`q。)・゜・編集中の記事消しちゃったぁぁ~やり直しでつ(´;ω;`)ウッ

日向在住の島津分家リスト
・飫肥(日南市)の豊州家
・都城の北郷氏
そして志布志の新納氏本家
(※志布志が鹿児島県に編入されたのは明治後です)

この分家三氏が協力して伊東氏に対抗していたら、日向戦国史の歴史は違っただろうし、そうなると猛将・島津義弘公の日向における戦歴も違ったかもしれない。
島津久逸とも不仲だった新納氏だが、どういう訳か北郷氏と豊州家とも不仲だった。
北郷氏に至っては、新納氏が伊東との戦でピンチになった為の救援依頼を無視し、それで新納氏が伊東に敗北したこともある。

ここまで来ると伊東が共通の敵だから分家同士で力を合わせ・・・などは到底無理。
豊州家・北郷家(プラスα国衆・北原氏)が連携して伊東氏に対抗しているのに対し、新納氏は彼らに与することなく己の領土拡大に専念しリア充。
新納氏の日向での活動が知名度低いのは、他の分家と違い単独行動だったのもあると思います。
とにかく新納氏本家の最盛期は、志布志の他に財部、大崎、末吉まで広がってました。
(ちなみに財部は北郷エリアの都城と目と鼻の先^^;)

日向における島津分家の対立の構図は、そのまま「薩州家VS伊作家」の宗家の座を巡る抗争に持ち越されました。
伊作側が薩州家側の城を攻略し始めた事に対し、薩州家・島津実久は日向における諸氏を味方につけて対抗しようとしたんです。
天文6(1537)年12月、実久(26歳)は自ら薩摩守護職にならん、とするが新納氏の反対にあい断念。
時の新納氏本家当主は新納忠勝。
彼が大嫌いな豊州家と北郷家が薩州家サイドだったので、反対したのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
そのため、天文7年(1538年)、薩州家・実久押しメン連合な島津忠朝(豊州家)・北郷忠相・肝付兼続らにフルボッコ攻撃を受ける
さすがの新納本家も、これには抗しきれず伊作の忠良・貴久親子へ援軍を依頼したのだが間に合わず(´・д・`)
城が次々と落とされた為、ついには新納本家降伏・・・(´・д・`)ショボーン
新納忠勝と次男は、忠勝が嫌っていた飫肥の豊州家を頼る羽目になる(´・д・`)ダブルショボーン
ちなみに長男は伊東の佐土原に亡命で新納氏本家は一家離散となった(´・д・`)トリプルショボーン
新納氏本家の領地は、北郷と豊州家で分捕りな件~~

実のところ、実久派が日向で新納を攻略してる間に、伊作の忠良と貴久は薩州家の喉元目指して攻略続行中だった。
新納の要請を受けて伊作の忠良が兵を日向に割いたら、実久の狙い通り?思う壺?だったかも。
このあたり伊作側の新納救援が本当に間に合わなかったのか、薩州家エリア攻略を優先して新納を後回しにしたのか、細かい時系列が判らないので何とも言えないところだ。
もっともシオが伊作・忠良なら、実久側の陽動にも似た動きには乗らず、気の毒だが新納の日向戦線は切り捨てる。

没落した新納本家に代わって、歴史の表舞台に出るのが新納家庶流。
それには伊作島津に嫁ぎ、忠良の生母となった美女・常盤が大きく関わっている。
なぜなら忠良に仕えた新納氏庶流は、常盤の実甥の系統。
そもそも彼らを忠良に介したのは常盤だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【日向DE新納(にいろ)分家編】

いままでの前中後編は新納氏本家のことなのです(←おぃ)

新納氏5代目・忠続には兄弟がいました。
長禄2年(1458年)に新納忠続が飫肥に入ったので、新納氏の領地である志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!
もとい、志布志城には忠続の弟・是久が入ったんです。

文明6年(1474年)、伊作家の島津久逸が島津宗家の命で櫛間(串間)へ入城すると、結びつきを強めるため新納是久は久逸の嫡子・善久を養子とし、娘・常盤の婿に迎えた。
実は宗家10代目・立久が同年の4月に亡くなってるんですが、伊作の久逸が串間に入ったのが、立久の命か忠昌の命か特定はできなかったです。
もっとも文明6年だと、忠昌は数え12歳ですから命じたのがどちらであっても、忠昌本人の意思は介在してないでしょう。

新納是久の娘にして美女・常盤が島津善久と結婚したのは1474年以降ということになりますが、正確な年度は不明です。
ただし文明17(1485)年より前には嫁いでいたと思われます。

文明17(1485)年に「第二次飫肥役」が起きて、宗家・島津忠昌は伊東氏に寝返ってた島津久逸を攻撃します。
(久逸ってば、新納忠続と揉めたあげくに逆切れして伊東と組んでたの^^;)
此の時に島津久逸の縁戚だった新納是久は、兄が当主の新納本家ではなく島津久逸側へついたんです。
でもって島津宗家の軍勢に敗れて戦死(-人-)☆彡、島津久逸も敗北する


戦後処理として領地移動~~~ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
敗者・島津久逸---日向・串間は没収、元々の領地である伊作へ引っ込む
勝者・新納忠続---久逸側に走った弟・是久戦死で空いた元の領地でもある志布志へ戻る
飫肥には新納氏に代わって同じく島津分家である豊州家が入った。

新納是久の戦死で実家を失った娘・常盤は、夫の実家である伊作へと移住した。
で、伊作の地で長女・次女・長男を産む。
この常盤の産んだ長男が島津氏中興の祖と言われる島津忠良(後の日新斎)です。

島津忠良(日新斎)の話は一先ず置いて、マニアックなんで実は常盤の次女の嫁ぎ先に萌え'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
常盤の次女は、薩州家の分家(大田氏)に嫁いでいるんです。
「薩州家VS伊作」の時に、この常盤の次女も嫁ぎ先が嫁ぎ先になんで巻き込まれるんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
常盤次女が嫁いだ薩州家分家(大田家)の、そのまた分家から関ヶ原の戦いで大坂を脱出する亀寿(初代薩摩藩主夫人で常盤の玄孫)の身代わりとなった侍女が出るんだと思うと感慨深い(==)

すいません。自分一人だけで萌え浸ってました( ̄ω ̄A;アセアセ
で、伊作に移住した常盤ですが、次は夫を失い(下男に殺される)、更に舅である島津久逸(戦死)までも失います。
まだ年少の忠良では当主の任は務まらず、未亡人となった常盤が伊作島津を采配することになりました。

ちなみに戦国期では夫を失った妻って、割と再婚してます。
それだけ当時は政略結婚が多かったのでしょう。
でもって、子供が幼く常盤のように実質的に切り盛りしなきゃ~って場合も未亡人だからと出家しません^-^

常盤は島津分家である相州家の運久と再婚し、伊作家は島津氏総領五氏の中でも有力家として飛躍していくのです。
そして宗家の座を巡る争い・・・薩州家VS伊作(相州家含む)の中で日向・志布志にいた新納本家の運命も激しく翻弄されるのですが、それは・またの話 by^-^sio

次の記事タイトルをどうしよう・・・・il||li _| ̄|○ il||l

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【日向DE新納(にいろ)・後編】

日向史は詳しくないので、ファ~っとウィキペディアとか武家家伝参照です^^

日向・伊東氏は島津氏の内訌の隙間を縫って、巧みに勢力拡大していきます。
その大きな契機となるのが「第一飫肥役」です
ちなみに飫肥を巡る島津と伊東の攻防カウントは、シーズン9まであるらしい__φ(.. ) メモメモ
自分が把握してるのはシーズン1と2と最後に伊東が飫肥をゲッツしたシーズン9(第九飫肥役)っす(・∀・)

で、「第一次飫肥の役」は島津内部の仲間割れがキッカケで始まった。
てことで使い回しの日向地図↓

地図・日向
毎度のことだが、描いた後から「○○も入れておけば良かったーーー」と騒ぐ計画性のない管理人です(爆

勢力拡大を始めた伊東氏への押さえとして、
飫肥に新納氏、串間に伊作島津氏が入ります。

串間は飫肥より南の大隅国沿いで、地図に入りきらんかった^^;
長禄2年(1458年)、時の島津当主・10代目、立久の要請で、島津氏の分家がテコ入れされたわけです。

なのに、新納氏と伊作島津が不仲になるΣ(´Д`;)はぅっ
これは串間にいる伊作島津が勢力を得るのを、飫肥の新納氏が危惧したからとされています。
新納氏5代目・忠続は、宗家11代目・忠昌(立久死去で代替わり)に伊作の島津久逸を伊作へ戻すようにと頼み、忠昌はコレをOKしちゃいます。

ちなみに新納忠続と伊作島津・久逸は義兄弟の関係です。
島津久逸は島津宗家9代目・忠国の三男。
新納忠続は忠国の娘が正室。
義兄弟ってことで、いろいろ張り合ってたかもだなぁ

ちなみのちなみに島津氏9代目・忠国本人は新納氏3代目の娘を室に迎えてます。
何やらカオスな系譜ですが、忠国の子供の生母が判らないので、同族婚とはいえ濃度がどのくらいかまでは不明^^;

ここでポイントになるのは宮崎市に、伊東氏の本拠地・佐土原(さどわら)があるってことでして。
伊東が御近所の飫肥に固執したのは、貿易港に適した油津湊(=油津港)があったからだそうです。
で、飫肥で硫黄が産出してたそうで・・・こっちはガッツリ利益あるほどの産出量だったか疑問なんですけど。
ただ永享6(1434)年に室町幕府が硫黄の海外輸出を制限する禁令を出しているので、むしろ密貿易としての魅力があったかも。
というわけで伊東氏からみて、飫肥は押さえておかなければならない土地なんです。

だから宗家・島津忠昌も飫肥にいる新納の方の意見を優先した。
これに怒った久逸が敵である伊東氏に寝返り、伊東氏と連合して飫肥城を攻撃!
戦国初期、文明16(1484)年、これが「第一次飫肥役」です。
で、翌年の文明17(1485)年がシーズン2な「第二次飫肥役」

此の時、日本史に大きく貢献した女性が父の戦死で、複雑な御家事情となるのだが、それは・またの話 by^-^sio
前中後でも終わらんかった・・・il||li _| ̄|○ il||l

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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