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【新納忠元_来た(菱刈)来る(相良)勝った(親指武蔵)_市山の合戦その六_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)

※菱刈史以外を参照した時は別色文字で表記します。

『南藤蔓綿録』では大口城より大勢がまかり出て、東藤左衛門・上村弥五郎・的場自休その他数十人で追い掛かって市山城の本丸まで忠元を追い込んだとあります。

菱刈史に話を戻すと
・・・四面を囲み、球磨の士・東藤左衛門、愛甲助三郎、佐牟田守念等、先登に進み壁を越えんとした。
市山城側の鎌田壱岐守、税所右衛門兵衛、四元太兵衛、之を斬殺し門を開いて出撃つた。

ふむ・・・人物名で共通しているのが、相良側家臣の東藤左衛門だな・・・|菱刈史&他データ|・ ̄)じぃー
東藤左衛門は、岡本頼春(ウィキペディア)の次男で、相良義陽の祖父・上村一族の縁戚になります。
相良側のほうでも東藤左衛門が討死したとあるので、二次史料同士とはいえ記述が一致してるから、東戦死は確定ですね。

で、続いて市山の城兵も突き出でて戦ひ勢いを得て、菱刈軍■き破れ大口に退いた。
(■部分は、印刷の字が潰れて判読不可^^;)
なるほど~~親指武蔵を討ち取る、せっかくのチャンスを活かせなかったわけか^^;

再び『南藤蔓綿録』によると、上記の「追い込んだ」・・・の記述に続き、
後に相良が島津に従属した際に犬童頼兄が忠元にこのときのことを聞くと、忠元は小耳の根にある傷を見せ、本丸で的場自休と槍を合わせたときの傷だと述べ、頼兄は大いに笑った・・・
という内容で終わってました。
なんか笑って話を換えたか、その場を誤魔化した感じで、それ以上は深く触れてないんです。

島津きっての猛将として名高い新納忠元が、小勢で城外に出てて首尾よく手傷も負わせて、
こんな好条件は滅多になかったのに、逃げられた上に反撃されて・・・
結果として菱刈&相良の大敗だった。それで相良側二次史料がモヤっとした書き方になっちゃったみたい。

市山の城兵北くるを追ひ首級数多(あまた)得て勝った。(=^・ω・^=)v ブイ
「北くるを追い」って何ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
来たくる・・・かな?^^;
忠元、此の日、傷を蒙(こうむ)る事、六ヶ所然も痛を忍びて諸軍を指揮したので
貴久公、長谷織部佐を市山に遣はし、忠元が功を賞された。

本藩人物誌によると負傷は頭と腹で六ヶ所だったとかで、
頭の傷の内一つが、南藤曼綿録にある小耳の根なわけね (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)フムフム
・・・ってリンパ腺の周辺じゃん~~~すっごい痛そう^^;

のちに新納忠元は「我ながらこの時は随分と働いた」と述べた・・・確かに。さすが猛将です。

人物・新納忠元

この永禄11年(1568年)2月28日における合戦は島津家臣・新納側の勝利に終わった。
だがノンビリする間もなく翌月に、再び菱刈からの攻撃が曾木(伊佐市大口曽木)で展開する。
「戦士に休息なし」ですな( ゚Д゚)y─┛~~

島津の菱刈討伐が膠着した一番の原因は、菱刈勢が相良から支援を受けているからです。
菱刈討伐が始まった永禄10(1567)年~11年にかけて、一次史料である相良家文書は二通しかありません。
残っている江戸期二次史料だけでは、当時の相良義陽が何を考えていたかサッパリ判らない^^;

相良ファンとしての個人的な推測は、義陽自身は島津とのガチ戦を望んでいなかったように感じます。
永禄12年に島津と相良の和睦バナが出るのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【新納忠元_市山城包囲_市山の合戦その五_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)

※菱刈史以外を参照した時は別色文字で表記します。

新納忠元の背後から進み寄って左脇を刺したのは、菱刈史では相良家臣・竹添丹後守となっています。
編者の有川国千賀は相良側史料として求麻外史と南藤曼綿録を参照していたようで、
求麻外史には的場後藤右衛門 忠元と槍を接して之を刺すとあり
と( )で補足を入れていました。

この市山の合戦は、永禄11年(1568年)2月28日として話を進めているんですが、
永禄10年(1567年)4月9日説(ウィキペディア赤池長任を参照)もあるそうで、島津側と相良側では人物名など細かい部分に相違があります。
まぁ、史料アルアルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

相良と島津、いずれにしても「忠元が負傷した」って記述は共通です^-^
主君・忠元を小苗代薬師堂から引っ張り出した家臣・久保勝八。
彼は負傷した忠元を助け【忠元の刀を抜いて】丹後守を退けた。

なんで忠元の刀を?と不思議だったが、その答えは本藩人物誌にあった。
本藩人物誌によると、忠元が左の片腹を槍で突かれた際に、久保筑前(通称が勝八)が忠元を坂の下に引き下ろした。
その際に自分の槍を手放しちゃった
とかで、それで咄嗟に忠元の刀を借りたんでしょう。

とにかく忠元の従兵・川畑藤七兵衛、春成外記らも駆け付け、負傷した忠元を回収。
だが、忠元には ゆっくり休んでいるヒマはなかった。
菱刈勢の方でも、市山城番・新納忠元が小勢で城外にいる事に気づいたらしく、それを狙って軍勢が増して来たんですΣ(´Д`;)はぅ

忠元は負傷しつつも指揮をとり、時に戦い、時に退くなど時間を稼いでいたら、市山城兵が忠元ピンチの連絡を受けて馳せ寄った。
これで漸く忠元は急を脱し、市山城へ入ることが出来たのだった。

たぶん、この話のことだと思うけど
菱刈史でも南藤曼綿録でも、新納が詠んだという和歌も出てないし、雰囲気がかなり違う^^;
大口を巡る争いは何度もあったので、伝承されてるうちに混ざっちゃったのか、2ちゃんスレに投稿した人が端折ったかのどっちかです。

とにかく忠元が市山城に戻っただけじゃ話が終わらなかった。
勢いの増した菱刈勢は、そのまま市山城の四面を囲んだ。


誰が大将だったのかとか、どのくらいの兵数で囲んだのかとかとか、全く書いてません^^;
ただ大口城には元から相良の在番兵が詰めていたし、菱刈側は他の支城を捨てて大口に集結しているので、
新納の市山城単体の兵力より「菱刈+相良連合勢」の方が兵数としては優勢だったはず。

島津本軍の攻撃で八城を失い、
この2月28日の戦いで、将を鉄砲で撃ち取られていても、
菱刈の士気が衰えず、強気な姿勢を崩さないのは、大口在番の相良から援兵が来るからです。
ちなみに、この時の相良側・大口城在番は赤池 長任(あかいけ ながとう)
相良における島津交戦派の旗頭ではないか~と思われる人物。

いくら菱刈の残党をモグラ叩きしても、彼らを支援する相良をどうにかしない限り、島津は大口を完全に掌握することは出来ないのだ。
相良からの援兵を得て、市山城を囲んだ菱刈勢。
負傷した新納忠元のピンチは続くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【新納忠元_主君の余裕は家臣の大変?_市山の合戦その四_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)


永禄11(1568)年2月28日、大口の地理偵察をしていた市山城兵が見つかり、大口城から出た菱刈兵&相良兵と小苗代原にて交戦!
ちなみに交戦は、市山の城番である島津家臣・新納忠元が、小苗代薬師堂で参詣中の間に起きてました。

猛将にして教養人の新納忠元は興を催したらしく、堂の壁間(=壁面)に「牡丹花下睡猫心在飛蝶」と書き始めた。
鎌倉時代からある由緒ある薬師堂の壁に落書き・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

小苗代原という地名は現在残ってないようなんですが、小苗代薬師堂が伊佐市菱刈市山なので、その周辺(菱刈花北)のようです。
新納の家臣・久保勝八が、地理偵察部隊が交戦中&だんだん薬師堂の方にも敵兵が近づいて来てますぅ~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
と、主に急を告げたのだが、忠元自若(じじゃく)として尚年月日を書き畢るので
落書きした年月日まで書いてたようです^^;
【自若(じじゃく)---落ち着いていて,物事に驚いたり慌てたりしないさま】
さすが猛将、驚かない。
人物・新納忠元 晩年の新納忠元イメージ画像

勝八頻(しき)りに呼ぶも忠元動く様子がないから
家臣の久保勝八が、何度も声をかけても忠元は壁に__φ(.. ) カキカキする方に熱中。
久保勝八・・・・・・(-ω-怒)ブチッ★
(勝八が)急に忠元が手を執(と)りて牽(ひ)き出した。
頭に来たのか焦ったのか、新納家臣・久保が薬師堂から新納を引っ張り出した。
コッチコイ!( ̄- ̄ )o―――――∞C
故に其題字の末字体(てい)をなして居なかったといふ
全部書き終わる前に、引っ張り出されたので最後の文字が~~~~~、って感じで流れちゃったそうです(爆
小苗代薬師堂は江戸期(明和年間)に焼失してるので、残念ながら新納の書いた壁も現存していません。
残っていたら、逸話の臨場感いっぱいだっただろうに,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

新納家臣・久保が必死だったのは、ほんとに敵が目と鼻の先まで来てたからだった。
薬師堂から出てきた新納の背後から、相良兵が襲ってきて新納の左脇を刺した!(゚ロ゚屮)屮
余裕かましすぎて不意を突かれた猛将だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【新納忠元_面高真蓮坊鉄砲?_市山の合戦その参_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)


永禄11(1568)年2月28日、市山城にて大口攻略のための打ち合わせの後、二人(壱を参照)を見送った新納忠元は、
小苗代薬師堂に詣でて「牡丹花下睡猫心在飛蝶」と壁間に題して居た。
よく判らんけど、猛将にして教養人の新納忠元なんで何か和歌でも苦吟してたのかな?
「題して居た」・・・は、この後の話の流れを見るに、つまり壁に(たぶん堂守には無許可で)バッチリ墨で書いちゃってたのです^^
ここらあたりに何もないと、空間的に寂しいとかでも思ったのかしらネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく城主が外出して落書き参詣してる間に戦が起きてた^^;
是より先・・・と菱刈史にあるけど時間にして、どのくらい前になるのか。

とにかく新納忠元の市山城兵が大口で地理偵察してたそうな。
市山から島津側の偵察が来るのは、これが初めてではないので大口の方でも常に警戒を怠っていなかったのだろう。

大口城から菱刈の将・牧野次郎左衛門と相良の将・竹添丹後守が出陣し、市山からの偵察兵を追った。
見つかった新納旗下の市山兵は撤退したのだが、小苗代原で追いつかれたらしく此処で合戦となる。

小苗代原( ゚д゚)ンマッ!!
合戦になった場所って、忠元さんが詣でている小苗代薬師堂の側じゃありませんこと( ゚д゚)ンマッ!!

新納側の偵察兵の中に鎌田尾張守政年がいた。

いたっけ?( ゚д゚)
この時期に新納配下で市山城にいたか検索したけど判んなかった^^;
でも前年の菱刈攻撃から始まり大口攻めで活躍した武将なんで、いても不思議じゃない知ってる人は知ってる鎌田さんでした^^

とにかく鎌田が菱刈の将・牧野と交戦。
面高真蓮坊鉄砲を以て牧野を射殺

面高真蓮坊鉄砲とは(`・ω・´)キリッ 
面高真蓮坊という者が鉄砲でもって牧野を撃ち取ったんです(*´pq`)
原文ママだと句読点ないから「謎の兵器」みたいだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

面高頼俊(おもだか_よりとし)----代々山伏の家系で通称が真蓮坊。
数々の功績のなかで、この牧野を撃ち捕ったのも その内の一つ。
山伏ということで、使者としてアチコチ派遣されることも多かったようです。

菱刈の将を撃ち取ったことでヤッタ~と思ったのも束の間。
激した菱刈兵は、益々猛り攻めて寄った。

そうなると新納忠元が参詣している小苗代薬師堂も安閑としていられない。
忠元の家臣・久保勝八が敵が攻めてくるのを知らせたのだが、忠元は全く動こうとしない。
いや正確に言うと新納の手元は動いてる。
家臣の注進にも関わらず、新納は相変わらず壁に落書きちゅうだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【新納忠元_ニャンコ睡る?_市山の合戦その弐_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文)


さて、永禄11(1568)年2月28日、市山城にて大口攻略のための打ち合わせがあったそうな。
貴久公の命で新納の元へ来た肝付兼盛、島津忠長の忠元二人を小苗代原迄送りて別れ

この小苗代原という地名表記は現在では残ってないようです。
例によって伊佐市の下水道関係の記録ですと伊佐市菱刈花北・・・の一部でした。
市山城のあった伊佐市菱刈市山からみると西の方角です。
(城跡の正確な位置が判らないので、距離感も不明^^;)
凄いなぁ~御近所は忠元公園に忠元神社で、菱刈市山は新納カラーでいっぱい^^;

帰途小苗代薬師堂に詣でて「牡丹花下睡猫心在飛蝶」と壁間に題して居た。
新納さん、二人を送った帰りに薬師堂に参詣したようです。
えっと・・・・牡丹の花の下で・・・・・睡猫・・・気持ち良く寝てそうだwww
これ、もしかしたら『禅林集句 :牡丹花下睡猫児 正宗賛。方語云、心在舞蝶』をアレンジしようとしてたのかも。
(※禅林集句は室町期から編纂が始まった禅に関するアレコレ集めた本・・・らしい^^;ヨクワカラン)
新納忠元は教養人ですからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

この小苗代薬師堂は三国名勝図会に載るほど古くからあり、島津氏も初代から大事にしてた由緒ある堂だったようです。
(※伝教大師一国一寺自作像薬師を祀る)
(三国名勝図会:江戸後期に薩摩藩が編纂した地誌)
明和六年(1769)、乙丑、二月廿一日、此堂火に罹て焼く。
同九年、壬辰、四月、邦君命あり、此堂を建つ


ということで江戸期に一度火災にあって、再建されてました。
そのために新納さんが題したという壁間は残っていません^^;
菱刈史には簡単に「其壁間は往年火災に逢て今無」とだけあります。
江戸期の明和年間が「往年」とは、壮大なロングパスですな ( ゚Д゚)y─┛~~
※日本語として間違いじゃないんだけど、現代と使い方のニュアンス違う感じかな?^^

位置は伊佐市菱刈市山2500で、小苗代薬師堂は現在、松原神社(通称:薬師サマ)となってます。
明治の神仏分離で難を逃れる為に松原神社に改称したんです( ̄ω ̄A;アセアセ
はぁ、神仏分離のせいで呼称が変わったり廃寺になったりで、現代人・・・まして他県人となると調べるのに難儀します(´・д・`)
薩摩藩に神仏分離については、しばやん様の記事が詳しいです^-^

睡る猫・・花札・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
萌えて調べたら、いろいろ芋づる式に出てしまって、結果、長文になってしまうのは自分的に何時ものパターン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

新納さんが苦吟?してる間に、戦が始まっていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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