【再び九州へ】佐賀藩初代藩主編4栞68


もともと「九州の関ヶ原」で加藤清正と黒田如水は、連携とって軍行動していました

そこへ9月下旬から10月上旬にかけて肥前で留守番の鍋島直茂が、西軍加担の息子・勝茂の後始末のため如水に接触した

いよいよ加藤軍・如水混成軍・鍋島軍(竜造寺軍含む)が、タッグを組んで多面作戦行動に入ります~~Σ(´Д`;) うあ゙



鍋島直茂イメージ画像

1600年10月1日~関が原で敗れた石田三成・小西行長・安国寺 恵瓊が京都で処刑!大勢は決しました!

まずは一番分り易い加藤清正の動き

9月関が原本戦前から如水と連携とって九州の本国出陣。

如水の豊後戦線は助力不要ということで、隣の小西行長の本城・宇土城を攻撃
(小西本人は関が原です)

10月13日に宇土城が降伏~城攻めに手間取り、この日まで加藤清正は肥後に釘付け。

宇土城降伏後・城の接収など後始末~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

本城・宇土城を落としたものの、まだ小西の領地全域は完全制圧してません。

そこで支城(八代城など)と宇土城の守備のため、一部兵力を肥後に残し筑後・柳川の立花領へGO!

如水・混成軍の動き

9月~10月初旬まで豊後戦線で軍行動。

9月13日~石垣原の戦い(VS大友軍)で勝利!同月15日に大友軍降伏。

10月2日~富来城~徹底抗戦で10日粘るも、関ヶ原主戦場で西軍敗北を知り如水に降伏。

10月4日~太田一吉~降伏するなら恩人の如水でなきゃイヤと抵抗してたが、如水が来たので やっと降伏。

豊後の後始末(城の接収・大友軍の残党を吸収・太田にやられてボロボロの中川軍の収容などなど)終了。

筑前方面へGO!~毛利勝永(本人は関が原)の小倉城(豊前の小倉城とは別)や秋月城を落とす。

鍋島家紋

10月14日~鍋島直茂と連携とった如水は、混成軍のうち5000を筑後・柳川の立花領へGO

10月14日~鍋島直茂が佐賀城を出陣!如水と合流すべく進軍する!

10月14日~鍋島勝茂が大坂での謹慎解除で佐賀に戻り同じく出陣~筑後・柳川の立花領へGO!


10月15日~鍋島親子は寺で戦勝祈願をします^^b
あ、進軍コースは親子別々なので、日にちは同じだけど祈願した寺は別々です。

父・直茂(-人-)☆彡祈願~戦に勝ちますように~

子・勝茂(-人-)☆彡祈願~戦に(絶対)勝ちますように~そして徳川と上手く行きまうように~

西軍だった息子の勝茂です・・・祈願に受験生のような必死さが滲み出てます^^;;

10月16日~筑後・久留米城が落ちる

こちらは如水と合流した鍋島直茂が攻撃。

久留米城は毛利元就の庶子・9男の毛利秀包(もうりひでかね)の城です。

本人は本家に従がい西軍へ~大津城攻めに参加~そのまま在大坂城でした。

そのため久留米城には、秀包の奥方と留守を預かった家老の桂以下数百名の兵士しかいませんでした。

如水&鍋島の大軍に為す術もなく降伏し、落城です。

10月16日・梅津城が落城~これは立花の支城で既に柳川入りしてた息子・勝茂が攻撃です

10月17日・久留米城の後始末は如水に任せ、柳川入りした直茂と勝茂の親子が合流!

10月19日・城島城が落城!~領地の支城が次々落とされ、柳川城の立花が将棋のように詰まれて行く!



立花家紋ロゴ

さて、ここで西軍に入って活躍しちゃった勝茂の過ちを、徳川家康に謝罪した重臣・成富茂安が登場する。

成富茂安(なるとみ しげやす)~このとき仕事がノッテル40歳(=^・ω・^=)v ブイ

茂の一字は、もちろん主君・直茂から拝領したものです^^b

彼の佐賀における功績は大きすぎて語りきれないので_φ(.. )カキカキ=(φ ̄∀ ̄)ノペタ【ウィキペディア】どぞ~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%AF%8C%E8%8C%82%E5%AE%89

全国的な知名度は・・・多分低い^^;知ってても「佐賀の水神~治水・築城の名手」の方だと思う。

鍋島親子が彼を重用したのは、たんに築城・治水の匠だけでなく武勇も優れ、何より交渉名人だったことだ。

ただし成富の家柄は、いわゆる門閥ではなかったらしい(ちなみに大蔵系江上氏庶流)

そのため多大な功績がありながら、最終役職は家老ではなく着座(家老の次の役職)です。

竜造寺との絡みもあって、成冨を家老には出来なかったのでしょう( ̄ω ̄A;アセアセ

後年の話だが、加藤清正が1万石で成富をヘッドハンティングしようとした。

成富「たとえ何万石積まれようとも、佐賀藩以外に仕えるつもりはない(`・ω・´)キリッ


と即答で断り、加藤清正をして「そういう男だから欲しかったのだ」と感動させた。

10月16日~交渉名人の成富茂安が、柳川城の立花宗茂を引っ張り出すために「鍋島VS立花の決戦の果たし合い」を申し込む!


武勇で名高い立花家!そして道理(どうり=正論)の男・宗茂は、ガチ決戦の申し出を無視できないからです!

とはいえ既に西軍は敗北している(-ω-:)ウーン・・・宗茂、さすがに即答しかねた。

すぐに反応しなかった宗茂に対し、返答を迫るが如く上記に記した城島城が、19日に攻撃され落城した。

もはや決戦は不可避!鍋島VS立花の決戦の火蓋が切って落とされるのだが、それは・またの話 by^-^sio

決戦の前に柳川藩初代藩主編~立花家の皆さま紹介~^^/

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【謝罪の条件】佐賀藩初代藩主編3栞67

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病のため出発が遅れ、西軍の道路封鎖にひっかかった鍋島勝茂(なべしま かつしげ)。

軍事制圧下での道路封鎖~つまり今さら佐賀に引き返すこともままならない。

当初の予定だった東軍・徳川家康のもとへ辿りつけず、鍋島軍(竜造寺軍込み)は不本意ながらの西軍入り。

西軍が勝ちゃぁ問題ね~だろ!と言わんばかりに伏見城攻め~伊勢侵攻と奮戦した。

だが伊勢(三重県)侵攻のあたりから、だんだん勝茂も不安になってきた。

強力なリーダーシップを発揮するTOPがいない西軍は、いつまでたっても寄せ集め感が抜けないまま。

さらに「誰それが裏切ってる。いやぁ、あそこもヤバイ」とウワサが耳に入ってくるからだ。

勝茂:だ・・ダディ~このまま西軍に所属してて(・∀・)イイ!かな??

佐賀で留守番中の直茂(・A・)イクナイ!!止まれ!伊勢でストップ!


父・直茂は、勝茂のもとへ使者を派遣し進軍をストップさせた。

もっとも使者が来る前に勝茂本人が自主的に止まったと言う説もある。

とにかく行軍が止まる言い訳に「伊勢・長島城を牽制しますから~」と石田三成に報告した。




伊勢・長島城(1万石)~城主は福島高晴(ふくしまたかはる)猛将・福島正則の実弟です

兄の正則とは12歳違いで天正元年産まれ、ただいま27歳と若い~~

若いといっても初陣(ういじん=戦場デビュー)は「小牧・長久手の戦い(1584年)というから、意外に戦歴は長い。

武将スタートは兄・正則の家臣~兄に似て武勇の持ち主で順調に加増(かぞう=ベースアップ)してた。

文禄3年(1594年)になると、秀吉が高晴を大名にした。

それが伊勢・長島城1万石で、さらに尾張知多郡10万石の代官に任命する。

代官とは、天下人or主君の直轄領の行政を代行する役目だ。

預かった代官地を、万が一にも赤字経営にしちゃったら切腹もの~

能力もさることながら、不正を行わないように信頼のおける人物が配置される。

兄・正則は尾張・清洲24万石だから、この兄弟の配置には徳川家康対策が入っていただろう。




だが高晴は、兄と同様にガチ東軍でした。

当然、高晴も上杉征伐に従軍していた~~ところに、三成挙兵の情報が東軍にもたらされる。

家康<高晴殿~おことの領地の伊勢は要衝で、必ず西軍が侵攻してくるだろうから、帰国して守備に当って欲しい(-人-)☆彡オネガイ

と、家康に頭を下げられたので、福島弟・高晴は伊勢・長島城に戻った。

けっこう有能な高晴は、大人しく留守番はしてなかったんです。

同じく伊勢にある西軍の桑名城を攻撃し落とし、さらに自身の長島城も数百の兵力で防衛・死守に成功。

活発に動くことによって、西軍の兵力を引きとめる役割を果たし、戦後、1万石から3万石(大和・宇陀)に出世する。

だが「大坂の陣(1614~1615年)」で豊臣に内通(真偽不明)した罪により取り潰し。

不遇のまま61歳で生涯を終える。

晩年は道牛と名乗り、前田慶次の風流仲間として人々の記憶に残った。


鍋島家紋

この福島高晴の抑えに「伊勢に残ります」と鍋島軍が居座ったのだ。

家康が来るということで、一刻も早く伊勢方面の軍に戻って来て欲しい三成が、どれほどホゾを噛んだか想像に難くない。

父・直茂は、家臣に命じて名古屋周辺の米を全て買い占めて待機させていた

1600年9月15日~直茂の予想通りに、関が原本戦で三成が敗れる~

ここまでは予想できたが、さすがに一日で決着つくとこまでは予測不能~~直茂は慌てた。

一刻も早く家康に頭を下げて許しを得ないと、鍋島軍が落ち武者狩りのエジキになってしまうアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

父・直茂は謝罪のために、後に「治水の神」と祀られた重臣・成富茂安(なるとみ しげやす)を派遣した

勝茂:認めたくないものだな・・・若さゆえの(以下略)

息子・勝茂は大坂の鍋島屋敷に引き篭もり・・もとい自主的に謹慎( ̄ω ̄A;アセアセ

鍋島家臣の成富は、買い占めた米を兵糧として家康に献上し、勝茂の未熟さ故の過ちを謝罪した。

家康は早くから自分に接触してた直茂に好意を持っており、兵糧献上というベテランらしい気遣いにも満足し鍋島を許した。

許した・・・が、条件をつけた。

家康<大坂から筑後・柳川に帰国した立花宗茂(たちばな むねしげ)を討て!

家康が条件を[言った・言わない]のニ説あるが、いずれにせよ鍋島家は「東軍へ忠義の証」として九州における西軍大名の城を落とす義務が生じたのだ。

立花宗茂~鎮西無双・2ちゃんでは西のミスターパーフェクトと謳われ「立花兵3000は他家の1万に匹敵する(小早川隆景調べ)と言われた。個人戦では無敗の若き名将!

立花の本城~柳川城~攻撃されても「名将なら3年・凡将でも1年は耐えられる」と称賛された九州きっての難攻不落の城!!


(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ「鍋島VS立花」の決戦の日近し!

ウィキペディアを見れば結果はわかる。

だが、そこに至るには夥しい血が流れるのだが、それは・またの話 by^-^sio 

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【父が東で子が西で~】佐賀藩初代藩主編2栞66

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佐賀の名ばかり主君・竜造寺家~1600年度の早わかり超カンタン系図

19代・隆信(死亡)⇒20代・政家(隠居した病弱な40代)⇒21代・高房(現当主15歳)

佐賀の実権を握る男~鍋島直茂63歳

彼は19代当主・隆信の従弟です。(義理弟説は怪しいらしい)
中央の政情に敏感な直茂は、豊臣秀吉が死ぬと早い時期から徳川家康に接触していたらしい。

1600年(慶長5年)5月に家康が上杉征伐の動員命令を出すと、直茂はさっそく~~

鍋島直茂「徳川殿~~ワシも会津に連れてって」(-人-)☆彡オネガイアピール~

徳川家康「だぁめ~~直茂は佐賀で留守番ね。息子の勝茂を出兵させなさい」

という返事だった。家康の本音として、不穏な九州にはベテラン直茂にいてもらいたかったのだろう。

家康が勝つ!と見込んでヤル気満々だった鍋島家が、フタを開けると所属は西軍・三成の味方。

もちろん、それには訳がある。

結論から言うと勝茂は、西軍の道路封鎖にひっかかってしまったのだ~~←おバカさん・爆


鍋島家紋

はるか九州は佐賀から東北の会津へ行くぞ~と兵士の大動員をかけたので、まず準備に手間取った。

さらに肝心の軍を率いる大将の勝茂が、病に倒れてしまったんです。

それも「腫れ物が痛くて馬に乗れない」という現代人からみるとカッコ悪い理由だ^^;

いやいや腫れ物と侮るなかれ~後年、直茂が死んだ時も腫れ物の悪化のせいだし。

徳川家康だって、伊達政宗だって、腫れ物で死にかけた逸話があるんです~~~

抗菌剤はもちろん、まともな消毒薬もなく、薬といえば薬草だし(薬効は一応ある)

名医という触れ込みで来る医者が、なぜか坊主で祈祷を始める~それがこの時代の医療(てか呪いレベル)


ちなみに冒頭であげた竜造寺21代目・高房も出陣する。

この時に高房が抜け駆けして、家康の元へ馳せ参じていたら・・・・

あるいは佐賀の藩主は竜造寺だったかもしれない。

だが竜造寺の親族は頼りない本家に見切りをつけて、宗家を完全に飾り当主へとに棚上げしていた。

だから高房を担いで抜け駆けしよう~~などとする者がいなかった。

まだ15歳の高房は、状況がわからないまま大人しく勝茂の回復待ちをしてしまった。



鍋島直茂は、どういう訳か子宝になかなか恵まれず、一度離縁し再婚している。

で直茂が40済んでから、やっと生まれたのが勝茂クン・ただいま20歳~高房と5つしか違わない。

後年に高房が自分の将来に絶望して自殺するのも、勝茂と自分の運命を比較してしまったのだろう。

名目だけの主君・高房と、実権を持つ鍋島の息子・勝茂の近すぎる年齢に、とうの直茂も気を使った^^;

嫡男の勝茂を一時期、江上(亡き隆信の実子)へ養子に出したことがある。

ただし、勝茂の養子に関しては「父の直茂のトコにいた説」と「養子に行ってた説」の二説ある。

もちろん関が原の時期には勝茂養子話は解消になってて、鍋島家嫡男に戻ってます。

「鍋島の嫡男として頑張れ!だが竜造寺には遠慮しろ!」って複雑なプレッシャーがかかっていた勝茂。

彼の病が癒えて出陣したのが7月中旬~三成挙兵の時期とバッチリ、かぶっちゃった~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

勝茂が大坂に着いた時~もはや周辺は完全に西軍制圧下~~( ̄ω ̄A;アセアセ


石田家紋

石田三成( ̄□ ̄)<勝茂クン。。。キミの奥方は亡き太閤殿下の養女だから、もちろん西軍についてくれるよね。。。

鍋島勝茂・゜・(PД`q。)・゜・だ・・ダディが(ホントは東軍で)頑張れって送り出してくれましたぁぁ~~~~~


え~~実は前回、1605年に勝茂が家康の養女と結婚~って記事にしたが、それは再婚なんです。

最初の奥方は、秀吉の養女(戸田勝隆の娘)です^^;;二人には子供はいません。

戸田勝隆は、関が原本戦で大谷とともに活躍する戸田勝成の兄です。

戸田勝隆自身は四国は伊予の大洲7万石でしたが「朝鮮の役」で陣中で病没~男子いなくて改易。

勝茂の最初の奥方は、関が原の時点で既に実家を失っているんです。

関が原のあと・・・肩身せまかったろうなぁ・・・この奥方の最期がどうしてもわかんなかった^^;;

とにかく右も左も西軍だらけで見動きがとれなくなった勝茂は、不本意ながら西軍になった。

そして勝茂が西軍だったために、鍋島家はとんでもない苦労をする羽目になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回~佐賀の神様~川* ̄д ̄*川ポッ 

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【to竜造寺? or not to竜造寺?】佐賀藩初代藩主編1栞65

竜造寺家~早わかり超カンタン系図
19代・隆信⇒20代・政家⇒21代・高房/弟がいます⇒高房Jr

竜造寺分家⇒諫早、多久、須古、武雄(分家は龍造寺姓)
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1584年「沖田畷の戦い」で19代当主・竜造寺隆信が討死するのが、不幸の始まりだった

息子の20代・政家は病弱で凡庸~~到底、国を保つことができない。

と親族会議の結果、鍋島直茂に政務を預ける事に決定した。

あとあと揉めそうな申し出を直茂は何度も固辞したので、親族代表が直茂を佐賀城に迎え入れた。

が、案の定「鍋島が主家を乗っ取るのでは?」と中傷されて、キレた直茂が自邸に引き上げ蟄居しようとした。

そこで1588年:20代目政家が起請文を書いて、鍋島直茂に正式に政権を移譲しました

起請文は各分家も出し、直茂の命令に従がうことを誓ったんです。

と、なんとか治まった家中が 豊臣秀吉の介入でややこしくなる^^;;

1590年:豊臣秀吉が竜造寺政家(35歳)に対し、まだ5歳の嫡男・高房に家督を譲るように命令したのです

肥前・佐賀31万石は高房が継ぎ、4万石強が鍋島直茂へ、9千石が直茂の嫡男・勝茂へ、鍋島親子は大名及び世子と同じ官位を与えられました

秀吉は自分の前でキョドって応対できない竜造寺政家に見切りをつけた。

竜造寺の名跡は残したものの、佐賀の実質支配者として鍋島家の地位を大名待遇にアップしたんです。

この時点で鍋島親子の領地は、竜造寺宗家の蔵入地(個人領有地)を超えてしまい、それが分家には面白くなかったらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

直茂に反抗的な態度をとって、直茂を悩ませました。

が、親族の反発も「朝鮮の役」まででした。

1592年「朝鮮の役」における肥前への動員命令は、竜造寺ではなく鍋島に下ったからです


竜造寺家紋

竜造寺は名護屋で留守番ですらない!完全スルーされたΣ(´Д`;)ガーン

秀吉も認めた直茂の圧倒的な実力を前に、分家&家臣団は鍋島に心からの忠誠を(一応・以前よりは)持つようになった。

実は直茂は1588年の政権移譲のとき、21代・高房が15歳になったら政権を返上する起請文を書いていた。

1600年:約束の高房15歳の時に「関が原の戦い」が起きてしまう!ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

高房も初陣(ういじん=戦場デヴュー)で従軍してたが、もちろん飾りで役に立つはずも無い。

鍋島の関が原は次回に書くとして、とにかく利用価値の無い竜造寺宗家の事は徳川家康もスルー。

高房クンは、徳川家康に拝謁すら出来なかった il||li _| ̄|○ il||l~激しく凹む高房クン

慌てたのは直茂だ。なんとか竜造寺宗家をアピールしようと家康に (-人-)☆彡オネガイ~~~

1604年:21代・高房に官位を与えて大名格にしてもらい、更に2代将軍・秀忠の近習として仕えるよう手配した

直茂は自分の孫娘を養女として高房と結婚させ、二人の間にはJrも誕生。

もしかしたら直茂は、このJr(直茂にとって曾孫)を佐賀藩主に~と考えた時期もあったかもしれない。

なにしろ直茂は60をとうに超え、成人した息子・勝茂がいるのに未だ家督を譲ってなかったんです。

武家の男子は通常、二十歳前後で家督を継ぐ(実権はパパン)ので、これは異例なの。

高房夫妻の江戸藩邸は、もちろん直茂が用意。

20代・政家の隠居料5200石の他に、高房に8000石を与え、そのうち2000石を殿中での交際費に~って直接、お小遣いとして渡してた。

この待遇に高房も満足し直茂に「叔父か兄のように思います___φ(.. )」と感謝の手紙を送っている。

このまま穏便に行くかと思われたのだが、事態が変わる。

1605年:直茂の嫡男・勝茂が、家康の養女と結婚したからです~~ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!


鍋島家紋

いや、江戸で殿中勤めしてるから、その情報は耳に入るよ。凹んだのはソッチじゃない。

鍋島と徳川の絆が強くなったのを機に、竜造寺分家たちと家臣たちが、 自ら進んで鍋島に対する忠誠を誓った起請文を出したんです

この話が回り回って高房の耳に入り、分家や家臣が自分を無視したと、将来に絶望しちゃったの。

( ̄ko ̄)<殿中で他の小姓たちから、鍋島に全て御膳立てされたのを冷やかされたそうでつよ~

1607年:楽しい3月3日ひな祭り~~~高房は奥方を殺し、自殺(切腹)未遂した

幸い発見が早く高房は一命を取り留めたのだが、幕府の役人が調査に来てもダンマリ^^;

心臓が飛び出るほどビックリしたのは、父の20代・政家と鍋島直茂だ。

名目だけとはいえ竜造寺は主君!それが江戸城勤めを無断欠勤して自殺騒ぎ!下手すりゃ佐賀藩取り潰し!

直茂が四方八方手を尽くし「佐賀藩と高房には、お咎めなし。高房は本国で養生せよ」と寛大な処置が下った。

1607年:7月26日~鍋島直茂は、佐賀の竜造寺政家に手紙を出した

今まで誠心誠意仕え・竜造寺のために良かれと計らってきましたのに、こたびの高房様の為されようは一体、どなた様に対するあてつけでしょう?
本国に戻られたら、お父君の政家様から高房様にお尋ねください(涙目)~
これが後の世に云う「お恨み状」です。

高房は本国に戻ることは無かった・・・ 

彼は、自分が殺した奥方の亡霊が見える~~と完全にノイローゼ。

1607年:9月6日~高房死去~当時食用を禁止された毒魚・フグを食べ、さらに馬を走らせるという無茶をして、再び腹の傷が開いて失血死したんです

同年:10月2日~政家が病死~息子の訃報のショックに、もともと病弱な彼は耐えられなかった

この間、鍋島が陰謀したとか暗殺とかは、まずありえません。

「主家乗っ取り」とウワサされるのを最も恐れたのは鍋島家だからです。

竜造寺宗家の家名が穏便に続くことが直茂の願いで、そのために様々世話をしていたのです。

事態を重く見た江戸幕府は、佐賀から竜造寺分家4家のうち、実力者3家を江戸に呼んで下問した。

to 竜造寺?or not to 竜造寺?~佐賀藩の家督は竜造寺か?否か?

冒頭にあげてるように、高房には実弟とJr4歳がいたからです。

竜造寺の分家達の回答は「鍋島は傍流とはいえ竜造寺の血を引いております。またすでに1588年に政権移譲しています。更にその後の実績などなど~~~

竜造寺分家らの結論「家督=佐賀藩の藩主は鍋島直茂が順当であるが、すでに高齢なので息子・勝茂を藩主に」と言上した。

徳川家は佐賀藩が鍋島家を中心に結束してるだけでなく、息子への継承も完成していることに満足した。

肥前・佐賀藩は藩祖が鍋島直茂!初代藩主は勝茂で決着する!

初代藩主・勝茂は知名度がイマイチだが、藩祖・直茂の路線を継承し佐賀の基礎を立派に作りました。
(偉大な藩祖を持って苦悩する初代藩主萌えなので批判は聞こえなーーーい)

他藩は家臣を粛清し殺しているが、勝茂は無血で領内統治を完成させている。

ちと藩主の直轄領(無血だと家臣の領地が多くなるから)が少ないんで、地味に上知(あげち=家臣に領地の一部を返上させること)して支藩を作ったりしてるの^^b

「竜造寺の分家」は竜造寺姓を改姓「鍋島家の親族」として生き残り栄えて行きます。

明治後に分家たちは再び龍造寺に戻りますが、鍋島家では昭和初めまで分家たち&関係者に仕送りをしていたそうです(ほんとに気を使い続けて・・゜・(PД`q。)・゜・)




さて鍋島家が主家・竜造寺を乗っ取っていないことを、ご理解いただけましたでしょうか?

ことの本質は、そもそも竜造寺本家に国を保つだけの人材がいなかったとことにあります。

親族たちは無能な君主と共倒れしたくなくて、鍋島の庇護の下で生き残る選択をしただけです。

家名を残すことが絶対の正義である武家にあって、この選択は完璧に正しい。

道徳云々は、泰平の世だから言える事なんです。

分家を残すか、はたまた分家が犠牲になって宗家を残すか。 

関が原では、この究極の選択を迫られる家が多々あったことでしょう。

次回、佐賀藩初代藩主編2~父が東で息子が西で?!それは・またの話 by^-^sio

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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