推考---龍造寺家文書120_小代親伝書状(切紙)

龍造寺隆信が勢力拡大するのは喜ばしいが、自分の引き出しゼロの国衆がガンガン出始めるので、必然的に「補足」だの「推測」だのが(自分が)必要になる。^^;
手持ち史料がないので、概略などは各種サイトの参照です__φ(.. ) メモメモ
じっくりやると数話になるんで、いきなり戦国に飛びます。

北肥後の国衆・小代(しょうだい)氏。
佐賀県史料集成第三十巻_成松家文書11
天正八年肥筑豊太守龍造寺山城守藤原隆信公御一家并(ならびに)家中幕下之侍付写、
千町、小代、(←該当部分のみ抜粋)

・・・てことで天正8(1580)年の段階で最盛期版図の千町だった小代氏。
その最盛期で当主だったのが、表題の書状を認めた小代伊勢守親傳です。
一般的には親忠の諱の方で知られています。

エリアは玉名市長洲町~荒尾市にかけてで筑後まで食い込んでたらしい、海岸沿いの国衆。
史料的な裏付けがとれないので推測ですが、有明海沿岸がエリアで菊池川も近い有力国衆となれば、自前の水軍があったんじゃないでしょうか。
筑後の三池鎮実の娘と小代親傳は結婚してて、その関係から筑後方面にも動員されていたようです。

肥後の国衆としての小代氏は、肥後守護職である菊池氏に従属していました。
様相が変わるのは戦国に入ってからで、北肥後の国衆は菊池氏に対し反抗的になります。
一つには大友氏による菊池氏家督への干渉が始まったのもあるでしょう。
誰が菊池当主になっても気に入らないのが北肥後国衆,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

そんな小代氏が大友氏に感謝されるほどの忠義者になったのが、菊池義武の謀反からです。
菊池義武の謀反に対し、小代氏が加担せず大友に与したのは・・・
あくまでも想像なんですが南肥後で戦国大名化しつつあった相良氏が菊池義武を支援したからじゃないかなぁ~です。

相良氏自体は、菊池義武の謀反支援に対し熱心ではなく、それにかこつけて名和氏から豊福城を奪還する方に熱中してました。
菊池義武謀反当時、相良氏は天草と国衆を配下にしてて八代海の制海権を握ってました。
八代の制海権と天草国衆を配下にするということは、有明海へも出られるということです。

明との交易の方が利益が大きいので、相良氏が有明海に関心を持つ可能性自体は低いでしょう。
有明に入る前に島原に有馬がいるしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
宇土名和氏というワンクッションがあるので、相良氏が緑川を超える可能性は低いものの、
南肥後の勢力が北上してくるのが愉快であろうはずがなく、ましてや海からなら何時でも攻められるとなると・・・(´・д・`)ダメヨ~ダメダメ

ちょっと自信ないのは長洲町史を見てないから^^;
玉名市、荒尾市、南関町にまたがる山、小岱山には二つ城がありました。(正確に言うと3つ)
小代氏の筒ヶ嶽城
大野氏の日嶽城での別名「鶴城」と「亀城」。
日嶽城=鶴城の方が本丸。玉名市岱明町開田字小代。
日嶽城=亀城の方が二の丸。熊本県玉名市岱明町開田。

住所が違うことからも判るように、大野氏の日嶽城の本丸(鶴城)と二の丸(亀城)は、それぞれ独立した城です。
二の丸な亀城の方が古城に手を入れたものだったそうな。

霊峰に二つの国衆が城を置く・・・当然、両者は宿命のライバル。
菊池義武の謀反で大野氏は菊池サイドでしたの・・・( ̄ko ̄)
小代氏が菊池義武謀反に与しなかった理由としては、大野氏が菊池謀反に与した事の方が重要だったかも^^;

とにかく小代氏は、菊池義武の謀反、さらに小原鑑元の謀反と、大友氏側として奮戦し大友氏から忠節・軍功に対する恩賞として加増(三百三十町余)を受けているそうです。
小代氏が宿敵・大野氏を破るのは別の話になるので、ここからは【龍造寺家文書120_小代親伝書状】の話。

イメージ・花


佐賀市史によると、小代親傳が肥後に侵攻した龍造寺に降伏したのは、天正7(1579)春のこと。
(※前年に大友氏が耳川で島津氏に大敗してます)


そして筑後・蒲池氏を佐賀において殺したのが、天正9(1581)5月29日。
この時の柳川城攻めにおいて、小代伊勢守親傳も出陣していました。


書状の形式に倣い年欠ですが日付は六月十二日
蒲池氏を成敗した祝賀を述べていることから、蒲池成敗の同年と推定されます。

輙御成敗
(たやすく_ごせいばい)というのは、佐賀で誘殺したことを指しているのでしょう。

殘黨於佐良塩村楯籠候
(蒲池の残党が佐良塩村で立て籠もった時)・・・佐留垣城、塩塚城といった蒲池氏支城を落とした時の話です。

冒頭に貴礼とあるので、働きに対し隆信から褒められた小代伊勢守親傳。
お褒め内容に残党退治の話など織り交ぜられていたようで^^
蒲池と縁戚関係にある田尻に討伐を命じるという、あまり後味の良い戦でなかったのは、小代も承知していたのでしょう。

態被仰下候、外聞之至忝候、
(わざわざ仰せいただきましたが、外(隆信)にまで聞こえたのは恐れ多い事と思っております)
と、気を使うというか、謙虚というか、隆信の機嫌をとるような?ちょっと微妙な言い回しだと思いませんか?^^

やはり冒頭にとあるので、何か達し(令)もあったようで、
達し(令)の内容については石田内記助を通じてあるんだ・・・ってことを事前に隆信が報せたらしい。


参貴報
(貴(=隆信のこと・相手への敬称)報(しら)せ参(まい)る)・・・ドストレートに「報告します」です。
つまり、隆信からの書状を読んだ~~って報告と、今後もガン( ゜д゜)バルって、自身の豊富を添えてる訳です。

武家のやりとりって、けっこう面倒~~~
ラインの「既読」と同じですね(*´pq`)プププ
読みっぱなしで、相手から返信なしはモヤモヤするでしょう?(^ -)---☆Wink

隆信は蒲池退治直後で配下国衆の動静にピリピリしてたはずなので、小代は急いで返信したはずです。
だから「切紙」という簡略な方法をチョイスしたんじゃないでしょうか。

肥後関連の龍造寺家文書は、まだ始まったばかりですので、新たにデータが増えたら加筆します^-^
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龍造寺家文書120_小代親伝書状(切紙)

貴礼令拝見候、仍蒲池鎮並事、連々就悪行顕然、今度輙御成敗候、千秋万歳候、彼殘黨於佐良塩村楯籠候之處、筑州衆申談、即時討果候、被聞召付、態被仰下候、外聞之至忝候、弥可抽忠貞覚悟候、不可有緩疎候、猶石田内記助方可有御達候、可得御意候、恐々謹言

(天正九年)
六月十二日            親傳(花押)

龍造寺殿
   参貴報

(奥上書)
「                   小代伊勢守
龍造寺殿                  親傳
    参貴報                  」



原文
読み下し(てるつもり)
超意訳(*´pq`)クスッ
※文節、段落に関しては、読み下しの段階で判断しています。
※句読点は佐賀県史料集成原文ママ。

貴礼令拝見候、
貴礼令 拝見し候
御礼と令、拝見しました~

仍蒲池鎮並事、連々就悪行顕然、
仍(よっ)て蒲池鎮並の事、連々たる悪行顕然(けんぜん)に就(つ)き
蒲池鎮並の事ですが、数々の悪行が明らかでしたので、

今度輙御成敗候、千秋万歳候、
今度(このたび)輙(たやすく)御成敗候、千秋万歳(せんしゅうばんざい)候
今回 容易に成敗されたとの事、幾久しく寿ぎます♪ヽ(*´∀`)ノ

彼殘黨於佐良塩村楯籠候之處
彼(か)の残党 佐良塩村に於(お)いて楯(たて)籠もり候の処、
蒲池の残党が佐良塩村で立て籠もった時、

筑州衆申談、即時討果候、被聞召付、
筑後衆が申し談じて、即時討ち果たし候、聞こえ召しられに付き
筑後衆が申し入れて、ただちに撃滅しましたって話が、お耳に届いたと、

態被仰下候、外聞之至忝候、
態々仰せ下らせ候、外聞の至り忝(かたじけな)く候
わざわざ仰せいただきましたが、外(隆信)にまで聞こえたのは恐れ多い事と思っております( ̄ω ̄A;アセアセ

弥可抽忠貞覚悟候、不可有緩疎候、
弥(いよいよ)忠貞(ちゅうてい)抽(ちゅう)す可(べ)く覚悟し候、緩疎(かん_そ)有る不可(べからず)候
ますます忠義と貞節を出すぞって覚悟でいます!(`・ω・´)キリッ
緩(ゆる)みや疎(おろそ)かも無しです!(`・ω・´)キリッ


猶石田内記助方可有御達候、可得御意候、恐々謹言
なお石田内記助方 お達し有る可(べ)く候、御意を得る可(べ)く候、恐々謹言
なお石田内記助から報せがあるとのこと、御意に叶うようにします。恐々謹言


精魂使い果たしたんで、分析などは次回~~il||li _| ̄|○ il||l

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龍造寺家文書_149_城親賢起請文

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原文
読み下し(てるつもり)

○前書ヲ闕クモ、第130号文書ヲ承クルモノ、如シ
 梵天帝釈四大天王、賢窂地神、稲荷、祗蘭賀茂、春日大明神、

梵天帝釈四大天王、堅牢地神(けんろうちしん・大地を司る)、稲荷、祗蘭賀茂(大山祇神社・日本総鎮守)、春日大明神

殊者阿蘇大明神、藤崎八幡大菩薩、松尾大明神、
殊(こと=他)者(は) 阿蘇大明神(肥後国一宮)、藤崎八幡大菩薩(千栗八幡宮=肥前国一宮)、松尾大明神(鎮守)、

天満自在天神、惣而日本国中六十余州大小神祇冥道、神罰冥罰至身上可罷蒙者也、仍起請文如件、
天満自在天神(天神様です)、総而(そうじ)して日本国中六十余州大小の神様、身上(=自分の身)に神罰冥罰至り罷(まか)り蒙(こうむ)る可(べ)く者也、仍(よっ)て起請文 件(くだん)の如(ごと)し 

天正九年辛巳三月十七日           越前守親賢(花押)
龍造寺山城守殿←隆信
龍造寺民部大輔殿←政家

**********************************************************

起請文の何がメンドクサイって、この最後の神様パレードです^^;
原文は段落を分けてないで、ダーーーっと書き連ねてますが、こちらのほうで判りやすいように分けました。

一行目・・・日本全国の神様
二行目・・・それぞれの国の一宮で肥後国一宮は阿蘇神社、肥前国一宮は藤崎八幡=三養基郡にある千栗八幡宮。
で、その後に続く松尾大明神が城本人が大事にしてる御当地鎮守です。

このように起請文は日本国中の神様、起請する側とされる側の国の一宮(国の総鎮守)、起請する本人が大事にしてる御当地鎮守にと誓うわけです。
だから面倒ですが神様パレード(神文部分)を丹念に拾うと、武将が外護してた御当地鎮守が判るんです^^/
てことで自分も何処が武将にとっての御当地鎮守なのかは、必ず確認してます^-^

実は・・・・肥前国では川上社と千栗八幡宮が「一宮争い」してまして・・( ̄ko ̄)
で、江戸期に裁判?争論になったらしいんですが、まぁ結論を出さずに「大人の対応」で落ち着いたらしい^^;

どうも武将たちの起請文を見てると、戦国当時の認識では「千栗八幡宮が肥前国一宮」のようなんです。
ただ時の権力者が自己都合で川上社を一宮に格上げすべくプッシュしてたんで、歴史的にややこしいことに^^;
このあたり神社と武将の関係性は、非常に興味深いところです。

宛名は隆信と息子の政家ですね。
でも条件の中で「隆信に尽くす」とあるので、やはり実権は隆信にあったのでしょう。

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龍造寺家文書_130_某(城親賢カ)起請文(断簡)

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番号は飛びますが 龍造寺家文書_117_木庭教心城統勝連著書状(折紙) の関連です。
(城親賢カ)とあるのは自分じゃなくて佐賀県史料集成で入れてます。
でもって、また途中で文書が切れてるらしい^^;

原文
読み下し(てるつもり)

一薩摩衆帰宅之儀、預御入魂候、得其意候、必不可有緩事
一、薩摩衆帰宅の儀、預け御入魂候、其の意(い) 得(え)候、必ず緩む事 有(あ)る可(べ)から不(ず)候、

一質人可差出之由候、即雖可申付候、俄之儀ニ候之条、以時分可進入事、
一質人 差出す可(べ)く之(これ)由(よし)候、即(すなわち)申し付く可(べ)く雖(いえど)も候、俄(にわ)か之(の)儀ニ候之条、時分(じぶん)以(もっ)て進じ入り可(べ)く候、

一對隆信盡未来際不可有別心事、
隆信に対(對・たい)して未来尽(盡・つ)くす際(さい)して別心(べっしん)有(あ)る可(べ)から不(ず)事、

右条々於有偽者、
右条々に於いて偽(にせ)有(あ)ら者(ば)、
○以下神文ヲ欠クモ、第一四九号文書ニ続クモノ、如シ

**********************************************************
うーん、始めの一行目が状況としてイマイチ・・・読み下す(だけ)なら問題ないんですけど・・・
研究の方が追い付いてないので、ここは現段階においての意訳保留します^^;

二行目~~まず前段階として、どうも隆信がゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.「とっと人質を差し出せ~」と圧力かけてたようです^^;
それを受けて城親賢の返事というか起請したのが二行目になります。
てことで二行目を超意訳すると
人質を出せって話、即ち・・・速攻でって言われたけど、とにかく俄(にわ)か・・・急な事で~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
時分(じぶん)・・・頃合い見てやります~~~(`・ω・´)キリッ


・・・・頃合いって何時だよwwwこいつ舐めてんのか?
と、突っ込みたくなるが、城親賢の方でも人選とか人選とか人選とかで、アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタなのは本音なのでしょう。
これ以上の圧力回避のために起請文の中に盛り込んだんだと思います。(研究が追い付いてないから違ったらゴメン^^;)

三行目は・・・まぁ神文(しんもん・・・起請文)を書くときの定型文みたいなものです。
起請するのに、時と場合によってはダメかも~~なんて正直に書くアホはいません。
てことで三行目を超意訳すると、
未来永劫、浮気なんてないわ、隆信に尽くします (* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪
だから、この手の文節が来たら、その前までが重要案件という事です。

で、右条々(みぎじょうじょう)・・・ここまで書いた事に、
偽(にせ)有らば・・・神様に誓ってるから嘘ついたらハリセンボンなわけです^^
後半が切れてるけど、この書き方は起請の時のスタイルを踏んでます^-^

ちょっと気になるのが『隆信』って限定してることです。
もう政家が家督を継いでるころですから、隆信に限定しちゃうと政家相手にも起請が必要になります。
宛名を連盟にしてても『起請の有効期間は隆信存命中』になる。

もっとも、安堵や相続などの権利関係も当主が代替わりすれば新当主の名で再交付されます。
起請の方も新当主に対し再提出するので、あんま神経質にならなくても良いのかも。

いま深堀とか田尻とか、同時進行で読み下し開始してるので、年代が追い付いてくれば諸情勢が明瞭になってくる・・・はず^^;
PC前で検索討死(寝落ち)しない程度に頑張ります,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

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(補足)117_木庭教心城統勝連著書状

ようやくデータ整理終わったです ( ̄ω ̄A;アセアセ

城主計助統勝と木庭隠岐入道教心は、熊本県玉名市(旧玉名郡天水町)所縁の武将・・・
という所まで突き止めて、ちょっと自力では確認できず、某氏のご協力を仰いで追加調査してもらいました。

天水町史に上記の人名が記載されてまして、確認してもらったところ出典元が龍造寺家文書だった^^;
町史アルアルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

で、某氏様は更に調べて下さり
天水地区は山上三名字(田尻、牛島、内田)という豪族の領地で、
天水地区の中央部分(小天地区)は田尻氏の所領だった模様。

というところまで調査して下さいました (*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ

で、自分のデータと某氏さまのデータを総合した結果として、あくまでも推測ですが、

「木庭氏」というのは、田尻氏か内田氏のどちらかが、
城親賢が隈本城主として入った時に臣従or与力として従属した時に拝領した姓っぽい。

てことで田尻家文書や! アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
肥後田尻氏自体は、筑後田尻氏の庶流と言われてます。
が、系図上で別れたのが何代目からなのかは探せなかった(´・д・`)

で、筑後田尻氏が肥後に領地安堵うけてるかな~
とガーーっと田尻家文書を手繰ってみたが、ザッと見た限りは無さそう。
となると筑後田尻氏と肥後田尻氏は、戦国期の前・・・最低でも南北朝のころ位に分かれて、それぞれに動いてたんじゃないかな~と。
ただ筑後は肥後と連動した動き(特に謀反時)チョイチョイがあるんで、記録上で混同されてる可能性もなきにしもあらず^^;

実は・・・肥後田尻氏って、関東に末裔がおられるんです ( ̄ko ̄)
子孫なら系図とか由緒の伝承あるかもだな~伝手がないから聞けないけど^^;
詳細は個人情報なので、ここで書くのは控えさせてもらいます^^

で、山上三名字のうち牛島氏(天水南部から金峰山南麓あたりが領地)が肥前牛島氏庶流です。
てことで、こりは自分が本業なぅ (`・ω・´)キリッ

とはいえ肥前側からでは辿れず、肥後のほうでみっけ。
肥後文献叢書. 第3巻「新撰事蹟通考」近代デジタルライブラリでWEB公開してました^^
系図に書かれた由来よると牛島氏の祖から38代目の孫・三郎左衛門尉俊政の時に、菊池義武(義宗)の謀反に加担して討死したそうです。
で、俊政の子・彦五郎公俊は(元亀天正の頃)、城親賢隈本城主の時に城に属し、城親賢から「城姓」を拝領したらしい。

牛島彦五郎公俊は、大友義鎮に「三郎左衛門を所望」しており、どうやらパパ俊政と同じ通称を公式に名乗る事をオネダリした強調文ようです。
年度不明・12月12日に義鎮の花押もらってます。
同日に田尻善左衛門が「駿河守」の呼称を義鎮に許されてる。

どうも牛島彦五郎公俊の三郎左衛門&肥後田尻氏の駿河守の名乗り自体は、天文年間・・19年か20年からのようです。
牛島三郎左衛門や田尻駿河守とある書状の中に、小原鑑元(天文年間の肥後方分(=守護代)の名前があるから。
参照:小原鑑元のウィキペディア

てことで、城主計助統勝は、肥前牛島氏の流れを汲む牛島彦五郎公俊の可能性が大です。
某氏様~~お蔭で、かなり判りました。
忙しい中、調べて頂き本当にありがとうございますm(__)m
裏付けとるのに時間がかかって、記事にするのが遅くなって申し訳ありませんでした。
この場を借りて、改めて御礼申し上げます^-^

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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