相良家文書546_大友宗麟書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~
○コノ文書、端に切封ノ紐ノミヲ存セリ

龍造寺山城守(隆信)事、先年依詫言深重、令赦免候處、毎々一雅意之企、殊今度松浦表錯乱已来、逆心顕然之条、誅伐無余儀存、爲肥筑検使、成大寺(豪栄)森越前(宗智)入道差遣候、就中、至有馬表一行申催候間、此節別而可被忝御心事、可爲連々申談首尾候、猶年寄共可申候、恐々謹言、
  (永禄十三年カ)三月廿七日       宗麟(花押)
             相良殿 

龍造寺山城守(隆信)事、先年深重(しんちょう)な詫言依(よ)り、赦免令(せ)しむ候處、
龍造寺隆信の事ですが、先年 深い詫びがあったので許してやったのに、

毎々一雅意(我意)の企み、殊今度は松浦表錯乱(さくらん)已来(いらい)、逆心顕然(けんねん)の条、誅伐(ちゅうばつ)余儀無く存じ、
またまた企み、今度は松浦表の錯乱以来であり、大友に歯向かう心がハッキリしました。
これは誅伐(罪ある者を攻め討つ)以外ないでしょう(`・ω・´)キリッ

肥筑(ひちく)検使(けんし)を爲(な)す、成大寺(豪栄)森越前(宗智)入道を差し遣わし候、
肥前&筑前の(事実を調べる)検使として成大寺(豪栄)森越前(宗智)入道の二名を派遣します。

就中(なかんづく)、有馬表至り一行(いっこう)申催し候間、此節御心事別而(べっして)忝ら可(べ)く、連々(つらつら)首尾申談爲す可(べ)候、猶(なお)年寄共申し可(べ)く候、恐々謹言、
特に有馬表に着いて申し入れしてる間への御心はとりわけ忝く、細々とした首尾は申し談じます。
なお老臣にも申しておきます。恐々謹言。


宗麟がせっせと相良に北九州情勢を知らせてくれるので助かります,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
北九州が不穏なままだと宗麟の威信に関わるからっていうのもあるんでしょう。(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

で、龍造寺誅伐前に事実関係を調査する検使を二名派遣しました。
これが大友が守護職であり九州探題である所以(ゆえん)で、さっさと討伐すりゃーいいのに正規の手順は律儀に守るんですわ ・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

龍造寺は大友の力には神妙にしてるけど、大友という権威に服しているわけでなく、そのあたり太々しいというか図太いというか。
検使が来たからってビビったり動くのをやめるような、可愛らしさがないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、その検使が有馬表にいる間に相良が何か心遣いをしたようです。
それもあって書状を出したみたい。
詳細はあとで知らせますって言ってるし。

てことは有馬⇔相良間の海洋ルートは未だ機能してたってことかな?・・・|相良家文書|・ ̄)じぃー
ちょっと年表整理が未だ天文年間してるから、前後の事情は調べなおさないとわからんです。

島津とヤバいことになってる相良にとって、大友との友好関係は外交上必要な事。
逆もまた然り。
このマメなやりとりに、相良が大友に気を使い、大友も相良に気配りしているのが覗えます。
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相良家文書543_(また)木上宗心(からの)書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~

(折封ウハ(上)書)(封部分省略)
追而、中紙五束拝領、毎便如此之儀、忝次第候、萬々重畳可得貴意候、
今度東式部少輔方爲御番代参陣、尤目出候、於爰許相応不存緩疎之趣、彼御方御存知之前候、就中、小城表聊入目之折節、別而御馳走之段、御真実顕然之由、公私御沙汰条、珍重候、仍此表之事、龍造寺詫言深重候、未一着之儀無之候、将又天草嶋中之儀、無事之御調儀候歟、尤肝要存候、此節彼郡衆中不馳走之由、内々老中被存事候、猶東式部少輔方可被申達候、可得貴意候、恐惶謹言、
(永禄十二年カ)
   十月十六日        宗心(花押)
 相良殿参 貴報

入力だけで精魂使い果たしそうです・・・il||li _| ̄|○ il||l
えっと、相良が大友に援軍したのは一度だけではなかったようです。
あと龍造寺が何かやらかしたらしい^^;天草でも何かあったな・・・|相良家文書|・ ̄)じぃー
ちなみに文末の「恐惶謹言」は「恐々謹言」より相手に敬意を払う時に使う表現です。
相良の宛名の位置も日付より上になってます^-^
じっくり行きますわ~~

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相良家文書542_足利義昭御内書

小難しいのが続いたので軽めなので^^/

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

(折封ウハ(上)書)  「相良修理大夫とのへ」

今度凶徒等令退治、遂入洛乞、然者、此節柳営申付条、至諸国殿料申遣候、於馳走者、可喜入候、爲其、差下上野紀伊守候、猶藤孝可申候也、
(永禄十二年)九月廿七日  (足利義昭)花押
                相良修理大夫とのへ

将軍の公式レターが御教書
プライベートレターが御内書
プライベートなので基本直筆です。
敬称が「殿」じゃなく「との」なので礼としては軽いです
文末が「也(なり)」だから命令口調ね^^b

≪意訳≫
このたび凶徒らを退治し遂に入洛しました。(=^・ω・^=)v ブイ
てことで、幕府造営を申しつけます(`・ω・´)キリッ
諸国に負担分を申し遣わしました。馳走してくれれば超嬉しいな(*´pq`)
そのため上野紀伊守(=上野豪爲・将軍御供衆)を派遣しました。そう藤孝(細川)にも伝えておきます^-^


このころは未だ信長と揉める前です( ̄ko ̄)
義陽は幕府造営のために献金したらしく、御供衆・上野豪爲とのやりとりが数通ありますが、割愛させて!Σ(´Д`;)ムズカシイ

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相良家文書541_木上宗心書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
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(折封ウハ(上)書)(封部分省略)
追而、御茶箱百袋拝領、忝畏入候、毎篇御芳情、難盡愚翰候、殊此表御弓箭之様躰、彼方可被申宣候、替儀候者、可申入候、
爲此表御加勢之儀、植田下野守方被差立候、遠路之儀候處、被顯御心底候段、公私御祝着之由、直  被仰出之条、不及口能候、如貴礼、帰国之刻、於人吉、以御面談細碎承候続、至老中度々申述候、其首尾弥顯然仕候間、至拙者満足仕候、爰許相応不存緩之趣、淵底植田下野守方可被申達之条、閣細筆候、恐惶謹言、
(永禄十二年カ)七月十六日           宗心(花押)
      相良殿  参 貴報

※ちょっと調べるのが大変な人からの書状と、年度推定が難しい(=無理)書状はパスしたので間が空いてます^^;
毛利VS大友で相良が大友に援軍を出してた事は、前回の吉弘鎮信の書状にありました。
今回は具体的に「誰が」派遣されたのか名前が記載されています。
う・・・読み下し・・・が・・・頑張る(´;ω;`)ウッ

追而、御茶箱百袋拝領、忝畏入候、毎篇(まいへん)御芳情、難盡愚翰(ぐかん)候、殊此表御弓箭之様躰、彼方可被申宣候、替儀候者、可申入候、
※愚翰(ぐかん)=自分の手紙を相手に対して謙遜して使う言葉
追伸、茶箱100袋頂きました。忝く畏れ入ります。常々のご芳情に書状だけでは尽くし難いです。
特に此の表(筑前・豊前)における戦いの様子は、彼方へ申し述べます。替わって申し入れします。

此の表御加勢の儀為し、植田下野守方差し立てらせ候、遠路の儀候ところ、ご心底顕(あきら)からせ候段、公私御祝着の由(よし)、
今回の加勢に植田下野守を派遣し遠路のところ来て頂き、ご心底は判りました事、祝着なことです^-^

(宗麟が)直(じか)に仰せ出らせ之条、
我が主が直に言われた事ですが

口能(こうのう=斡旋)に及ばず候、貴礼如く、帰国の刻(とき)、人吉に於いて、御面談以て細碎承り候 続けて、老中に至り度々申し述べ候
まず毛利への斡旋には及びません。帰国の時、人吉で面談し詳しくお聞きします。それは何度も老中へ申しております。


其の首尾は弥(いよいよ)顯然(けんぜん)仕り候間、拙者満足の至り仕り候、爰許(ここもと)相応緩やかな趣存ぜず、淵底(えんてい)植田下野守方 申し達しべらせ之条、閣細筆候、恐惶謹言、
其の首尾は増々明らかになっていくでしょう。自分も満足です。この辺りも緩やかな状況(戦況?)です。
淵底(えんてい)・・・深い話は植田下野守へ伝えます。(宗麟の言葉はここまで)閣細筆候、恐惶謹言(書止めの定型文)

ぜーはーぜーはー・・・・よ・・読み下し怪しいけど、意訳としては大体あってると思ふぅ~~( ̄ω ̄A;アセアセ

まず相良が大友へ援軍として派遣した将は植田下野守という人物です。(監修様分かりますか?^^;)
それに関し丁重な礼を述べており、それやこれやで相良の宛名が日付より上という礼をとってます。

で、どうも相良は毛利との仲介を大友へ申し出てたみたい。
相良には毛利からも(上から目線の)手紙が来てたので、仲介できなくはないですから。
ただ、大友宗麟が「それには及ばない」と拒絶してて、あくまでも毛利とは弓矢で決着つけるつもりだったようです。

大友が若林水軍を使って関門海峡を突破し、大内輝弘や尼子への支援を送ったのは同年10月。
おそらく宗麟には、その構想が既にありウィキペディアによると事前偵察は6月から始まってたそうです。
宗麟が植木に伝えた淵底(えんてい)・・・深ぁ~い話っていうのが、その秘密作戦のことだったかも~~~ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク
相良は宗麟の壮大な作戦を知っていたか、中身は知らなくても大友が毛利へ何か大きな反撃をするのを知っていた可能性がある・・・その傍証となる文書でした'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`

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相良家文書534_吉弘宗鳳(鎮信)書状

※吉弘鎮信~高橋紹雲の兄、つまり立花宗茂の伯父にあたります。

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
漢字だらけ~~゜ ゜( ∀ )ぅ!?って方は意訳の赤文字部分のみ読んでくださいませ~

(折封ウハ(上)書)(封部分省略)
追而、嶋織物一端、茶箱百袋、被懸御意候、御懇情恐悦至極候、
御礼之趣、具令披閲、本望之至候、然者、今度御人数被差立候、御馳走之次第、尤珍重候、爰元相応之儀、何様不可存疎意候、此表之事、時々刻々御勝利之条、可御心安候、自今者節々可有御到来之条、毎事期来喜、令省略候、恐々謹言、
   (永禄十二年カ)六月十九日       宗鳳(花押)
 相良殿御報 


宛名の相良が日付より上の位置だ!
相良が大友に援軍を出したって~~~( ゚д゚)ンマッ!!


追而(ついじ)、嶋織物一端(反)、茶箱百袋、御意懸かさらせ候、御懇情恐悦至極候、
追伸;嶋織物一反、茶箱100袋、御丁寧なお気持ちありがとうございます。とっても嬉しいです^-^

御礼の趣、披閲(ひえつ)具し令(せ)しむ、本望の至り候、
御礼の書状、じっくり読ませて頂きました。本望なことです。(=人=)

然者(しかれば)、今度(こたび)御人数差立(さしたて)らせ候、御馳走の次第、尤も珍重候、
さて このたびの兵を差し向けて頂いたこと、尤も大事な事です^^b

爰元(ここもと)相応之儀、何様(いかさま)疎意(そい)存じ可(べ)から不(ず)候、
こちらからも、それに相応して(相良を)粗略にすることはありません(`・ω・´)キリッ

此の表の事、時々刻々御勝利の条、御心安可(べ)く候、
毛利との戦ですが、日々こちらの有利、勝利に向かっておりので御安心下さい^-^

自今(じこん)者(は)節々御到来有る可(べ)くの条、毎事期来喜、省略令(せ)しむ候、恐々謹言、
今後は、たびたびいらして下さるとのことですが、都度の御礼や挨拶などは省略させて下さい。恐々謹言なぅ


兵数や細かい時期など不明ですが、大友へ相良が援軍を出していたようで、その御礼書状です。
そのため書状では、相良の宛名を日付の上に書くという、最上に近い礼を用いています。

相良にしてみれば、毛利(超上から目線)と大友(名門らしい丁寧さ)双方から「うちが勝ってるから(`・ω・´)キリッ」と言われ、今後どういいうスタンスにしたら良いのか判断がつきかねたのでしょう。
大きな戦は数度、そのまま数ヶ月対峙のロングラン長丁場でしたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
援軍することで、情勢の偵察したんじゃないかな~というのが自分の推測^^

大友の方に援軍した理由は、自分の想像だけど、長年の交際&大友が九州探題だからでしょう。
何より、毛利からの書状が無礼すぎて(上位者のような振る舞い)ハッキリとした決着もついてないのに、相良を毛利の被官同然のような態度だったので、まともに相手する気がなくなったのかと・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

相良が どう判断したかまでは不明ですが、吉弘へ今後も行くと言ってたようなので、最終的には大友が勝利すると分析したのかもしれません。

それにしても北九州の戦に、肥後は人吉から援軍を送っていたとは意外でした。
だって相良は菱刈VS島津の戦にも援軍してましたから。
相良にとって永禄12年は、北も南も修羅場だったようです。

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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