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感想「柳川の歴史_4・近世大名 立花家」

久々に読後感想^^/
正月休み利用して一気読み~

著者
中野等氏(柳川市史編集委員会副委員長・九州大学教授)
穴井綾香氏(柳川市史調査研究員・九州大学大学院比較文化研究院特別研究者)

てことで、柳川市が市史の通史を作ろう(`・ω・´)キリッ という一環で平成24年に発刊されました。
「読みやすい」ものを目指してますが、著書を見れば判るように真面目な本です^^/

だから千熊丸クンが毬栗グリグリされた痛い話とか、
江戸浪々時代の浮世離れした坊ちゃんネタとか「逸話系」を期待しちゃダメ(´・д・`)
通史という性格上、大津城とか朝鮮の役とか八院合戦とか、
個々の戦闘における踏む込んだネタ・・・「戦記系」も期待しちゃダメ(´・д・`)

一次史料の比較検証、二次史料からの引用、IFバナも最小限。
他地域・他家史料との比較などなど・・・・素晴らしい!!!

今まで見た市史の中で過去最高スペック!! (人´∀`).☆.。.:*・
自分が理想とする郷土史のスタイルなんですぅ~~(人´∀`).☆.。.:*・

てことで細かい知行配分とかの話になると、そこまで柳川に詳しくないんで自分も置いてけぼりくらいます(爆
ただ幾つか ( Д )  ゚  ゚ 目からウロコというか、面白いな~と感じた事を少々。

まず筑前・立花城って城郭群だったそうな・・・ここもか!il||li _| ̄|○ il||l
雷神・道雪が入ったのが西立花城で、当然ながら主城ね^^/

で豊後から引っ越す時に雷神さまが伴ったのは、実家である戸次の家臣じゃなかったんですって( ゚д゚)ンマッ!!
戸次家臣団のうち次男とか三男(=直参じゃない)、家臣から引き抜く場合は、系譜上で嫡流家を避けて庶流家からと実家への気配りが見えるそうな。

一番驚いたのは・・・千熊丸クンが養子入りしたのは、高橋家と雷神さまが同盟(軍事的連携)するにあたっての人質の意味合いがあった・・・という点です。

千熊丸クンが立花城に入った時に、実家から連れた家臣が少なかったのも、そういう事らしい。
婿養子候補として・・・って言うのは書いてなかったので、跡継ぎ云々を書いた一次史料がないって事です( ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!)
とにかく大友家は家臣の造反が多かったので、そういう配慮がなされても不思議じゃないのは確か。
で、城督である雷神様が筑前の頭(トップ)になるから、人質を出すのが高橋家側になるのも筋は通ってます。

とにもかくにも一次史料に基づきキッチリ学術的に検証してるんで、跡継ぎと見込んで云々は後世の編纂・軍記物発信ってことなんですぅ~~~~
ぐぁああああああああああああああああああ!!!
この本を読んでからカテゴリ「柳川藩初代藩主編シリーズ」を記事にしたかったよ~~~(_´Д`)アイーン

話は飛んで1600年~~日向で庄内の乱ウィキペディアが起きます。
で、鎮西無双は日向に出陣する気マンマンだったそうな^^;
もちろん鎮圧側支援ですよ~( ̄ko ̄)

ただ家康が戦闘が拡大するのを好まず、何とか和議で治めるのを希望してたんで、宗茂公の出陣は実現しなかったのだとか。
で、朝鮮の役で親しくなってた島津忠恒に宗茂公が励ましの書状を送ってるんです。
現存してて画像写真が添付してたんだけど、面白かったのが堅紙じゃなくて折紙だったことです。

儀礼上略式なのは、宗茂公が当主で忠恒が部屋住み(=家督を継いでない)だからなのかな??
添付写真が小さくて宛名が見えんげな!Σ(´Д`;)
全文を掲載してくれれば、もうちょいニュアンスとか読み下しできるんだけどな~(・A・)残念

あと関ヶ原あとの島津征伐で東軍に帰順した宗茂公が先陣を務めるんですけど、
このときも軍功よりも島津を説得する方を、家康側は期待してたそうです。

とにかく軍記物から発信の逸話は一切入れることなく、一次史料に基づく通史なんで色々勉強になりました。
史料の解釈は、違う解釈する研究者もいらっしゃるかもですが、とにかく現時点における立花氏の通史として最新です。
巻末付録に年表がついてるんですが、この本のスペックならデータとして安心して参照できます ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

古文書を読み下せば読み下すほど、自分の基礎知識不足を痛感するんで、頑張ります(=^・ω・^=)v ブイ
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【新たなる戦い】柳川藩初代藩主編12栞83

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大津攻めで勝利しながら「関が原の戦い」で西軍が負けたために、大坂城を出て帰国することになった立花軍。

途中に防衛の為、京の要衝である瀬田の唐橋を焼き落とそうとする兵に対し、
宗茂は「古来より京を守るために、この橋を落とした軍が勝利した事は無い。 
     民達の通行を妨げるだけ無益であろう。」と止めさせた。
 
後日、この話を聞いた家康を感心させたという。

1600年9月26日~安芸日向泊で立花軍と島津勢が偶然出会う!

そのとき宗茂の近習が囁いた「殿!島津義弘です。あちらは小勢、亡き実父・紹運様の仇をとる好機ですぞ」

宗茂は「バカを申すな!お前は相手が少数だからと討って、それを手柄にすると云うのか。それに島津は同じ西軍、お味方ではないか!」

そう近習を叱責すると、馬首を廻らし僅かな供回りのみ連れて島津勢に近付いた。

近付く宗茂の真意を測りかね、島津勢に緊張が走る。

宗茂「そう固くならず義弘殿にお伝えください。かつて我が実父と島津が戦い、父が討たれたことは遺恨には思っておりません。それより見たところ島津勢の御人数では、この先心もとないと存じる。よろしければ我が手勢で護衛申し上げたい」

宗茂の思いがけない好意に、島津の当主の義弘が進み出た「立花殿・・・かたじけない・・」

頭を下げようとする義弘に対し「ともに互いの本国目指して力を合わせましょう^-^ニコッ」

と、爽やかな笑顔で答えた宗茂だった。


立花宗茂イメージ画像

あぁぁ~めちゃくちゃカッコいいです!笑ったらマンガか歯磨き粉CMみたいに、白い歯がキラーンと光りそうだ!

同行することになった立花&島津と夫人たち。 

宗茂は、この安芸日向泊で、実弟・高橋統増と与力大名の筑紫広門(弟の舅でもある)を別船で帰国させたらしい。

らしい、というのは、そういう記述を幾つかのサイトで見たのだが、それらには元ソースが記載されてないためイマイチ確証が持てないんです ( ̄ω ̄A;アセアセ

だが ここで二人を返したのが本当なら、この時点で宗茂は東軍と戦う意思が無かったことになる。

翌日の9月27日~海峡を警備していた黒田水軍の砲撃を受ける!島津船籍三艘が撃沈!(焼き沈めた

水夫たちに力の限り漕がせて何とか振り切った^^;;まさに行きは良い良い帰りは恐いだ。

島津勢(夫人たち込み)&秋月夫人の帰国コースは、またいずれ改めて語ります。

10月2日~立花宗茂は無事、本国の柳川城(福岡県)に帰還する

主君の帰国に喜ぶ立花家中だが、帰国した宗茂のもとへ訃報がもたらされた



話は少し戻って、立花宗茂がムコ養子として実家の高橋家から立花家へ行く時のことだ。

つねに冷静沈着・動揺という言葉に縁が無い宗茂だったが、
嫡男でありながら相続を外され、他家に嫁・・もといムコ養子というのは流石に凹んだらしいショボーン..._φ(・ω・` )

宗茂出発の門出を祝うの宴の席で、実父・紹運は一人の家臣を呼び寄せた。

紹運「そなたに我が短刀を与える。養父となられる道雪様は、大変に厳しい方だ。宗茂が跡継ぎとして恥ずかしくないよう、そなたが薫育せよ。宗茂に不始末があらば、そなたがこの短刀で腹を切って道雪殿にお詫びするとともに、死をもって宗茂に諫言するのだ。
今日より我が名前、紹運の紹の文字を与える。これよりは紹兵衛(じょうべい)と名乗るが良い」

家臣の名前は世戸口紹兵衛(それまでは十兵衛だった)

彼は高橋家から立花家へ行き、宗茂付きの家臣として仕えた(500石)

世戸口は実家を離れて寂しい宗茂の胸中を察し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紹運の申付け通り)厳しく接した ( ̄ω ̄A;アセアセ
(実家も養子先もスパルタ教育)

さらに紹運が選んだだけあって、世戸口は水練と弓の名手。

先の大津城の戦いで、世戸口は宗茂直筆の降伏勧告の矢文を放った。

その矢は数町離れた大津城壁にある京極の旗に描かれた馬印に、見事クリーンヒット!

これには西軍・東軍の双方が「源平の那須与一の扇の的も、かくの如し。さすがは立花家臣だ」

と、しばし歓声と喝采が鳴り止まず、立花の武名を一段と上げる手柄を立てた。

ちなみに矢文は14日の出来事で、京極高次が本当に降伏を決意したのは、宗茂直筆の降伏勧告を見たためらしい。


その世戸口も西軍の敗北で柳川に帰還となり、
上記に書いた安芸日向泊で弓隊30数名を乗せ、宗茂と別船で旅立った。

ところが長門・壇ノ浦で暴風に遭い、世戸口の船が難破してしまう。

無事に岸まで泳ぎついたのは、水練の名人である世戸口と彼の従者だけだった。

世戸口「あぁ!主君から預かった弓隊の兵士を無駄死にさせてしまった!これでは申し訳が立たぬ!お詫びにワシは切腹する!従者のお前は生きて柳川の殿に事の次第を知らせてくれ!」

と本当に切腹して死んでしまった(_´Д`)アイーン

亡き紹運から預かった短刀を使ったんだろうなぁ・・・責任感も忠義も熱過ぎるが故の自害です。

宗茂「世戸口~~生きておれば挽回できるでは無いか!ワシを置いて先に死ぬとは!・゜・(PД`q。)・゜・~

年少のころから自分を支えてくれた家臣の死は、宗茂を悲しませた。

だが何時までも歎いている時間は無い。

西軍である宗茂を討つために、東軍の鍋島軍、加藤清正軍、黒田如水軍が、立花領へ侵攻してくる!

国境から次々と入る各軍の動きは、決戦が近付いているのを否応なしに知らせていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回より新章「江上表・八院合戦編」

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【島津義弘~敵中突破・・・の後なぅ】柳川藩初代藩主編11栞82

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島津家編で何度か述べたが、関ヶ原当時の島津宗家相続権は、義久(16代)の末娘・亀寿(かめひさ・30歳)に あった。
亀寿の席次は 義弘(17代)と同格で「御上(おかみ)様」と呼ばれ家中の尊崇を受けていた。

また、島津家には宗家当主の証として「御重物」と呼ばれる重宝が存在する。
戦国は勿論のこと、太平洋戦争~幕末の薩英戦争と歴代宗主が命がけで守ってきた重宝。 

天下分け目の「関が原の戦い」の時には、宗家正統相続者として亀寿が所持していた。
古文書に記された「御重物」とは、現在国宝指定を受けている「島津家文書」のことである。

1600年(慶長5年)7月14日~島津義弘(17代目)と仲良しの甥・豊久は、御上様(亀寿のこと)の脱出の方法を相談していた

話はチト前に遡る。

亀寿と義弘夫人は人質として大坂にいたのだが、
前年の夏ころから本国で起きた戦(庄内の乱)を案ずる心労で、二人共ダウンしていた。

亀寿は祈祷も効果ないし、義弘夫人は食事が喉を通らず~10月ごろは一時、重態に陥った。

今年になって反乱が収束し安心したのか、二人は5月ごろになると、やっと起き上がれるほど回復した。

まだ無茶はされられないから、どこぞの大名みたいな奇抜な方法が出来ない(-ω-;)ウーン

同年7月17日~石田三成が挙兵!大坂は西軍に制圧され戒厳令が布かれる!

あぁ!悩んでいたら戦が始まった!脱出できなくなった亀寿と義弘夫人!(_´Д`)アイーン

同年8月~本国は薩摩にいた義久(16代目)が、自分が西上し娘の亀寿と人質役を交換しようと相談していた

ところが既に関が原前哨戦が各地で勃発。

とても義久が大坂に行けるような状態じゃなく、上洛を諦めざるを得なかった。

同年9月15日~関が原で西軍が敗れる!

混乱し情報が錯綜するなかで、宇喜多秀家も死亡説が出ていたのだが、島津義弘も戦死の誤報が大坂に舞い込んだ!

激戦だったから無理もない。島津家は誤報を利用!葬儀のための帰国を豊臣家に願い出る。

豊臣家も「尤も」と義弘夫人の帰国を許可したが、VIPな人質・亀寿には許可が下りない。

島津家老平田(義久派)は「御上様を侍女に変装させて逃がそう」と、時代劇定番のベタな方法を思いつく。

そこに「わたしが御上様の身代わりになります!」名乗り出たのが侍女の於松だ

於松(おまつ)このとき22歳。大田家の息女で慶長年間より亀寿付きの侍女となる。

ちなみに於松の大田家は、秀吉に改易された島津分家筆頭・薩州家の分家、大田氏庶流の家柄だ。

彼女は後に身代わりの功績で、女ながら300石の知行地を拝領している。
(但し、於松は生涯独身だったので、彼女亡き後の遺領は弟が継いでいる)


島津家紋

9月19日~義弘夫人・侍女に変装した亀寿・秋月夫人・家久夫人が大坂を出発~

(秋月家と島津家は親しく、日頃から交流ありました)

9月22日~身代わりの大役を無事務めた於松が、大坂を自力脱出~亀寿たちに追いつき合流!

同日・摂津西宮に何とか辿りついた義弘以下、数十名の島津家臣が、夫人たちと合流~

さぁ、九州は薩摩へ帰るには船をゲッチュしなくちゃならない

9月26日~安芸(あき=広島)日向泊で、立花宗茂とバッタリ出会った!(゚ロ゚屮)屮

どっちも九州を目指しているから、どうしてもコースがかぶる( ̄ω ̄A;アセアセ

だが、ここで出会うのはドラマチックすぎる!

島津家と立花家と、さらに地味に一緒に同行してる秋月家の奥方(と家久夫人)

この4つの家は共に西軍だったが、歴史の大きな流れの中で幾度となく槍を合わせた因縁の家!

ややこしいことに秋月家は西軍から東軍に寝返っていたのだが、居合わせたメンバーで主戦場以外の最新情報を知る者はいない。

同じ西軍だったとはいえ、負けた今となっては互いの去就は予測不能!

島津義弘の脳内は過去の因縁が走馬灯状態~~~~ヽ(。_゜)ノ

もはやこれまでと島津家臣に緊張が走るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【天然素材~TERUMOTO】柳川藩初代藩主編10栞81


大津城を落城させたものの、関が原本戦で西軍が敗れたのを知った立花宗茂は、ひとまず大坂城へと帰還した。

大津攻めの軍は士気が高く、主戦論が殆んどのメンバーだ。

宗茂も西軍・総大将の毛利輝元に、大坂城に籠城して戦闘の続行を~と、訴えた。

だがどれほど宗茂が熱弁を奮っても、輝元の態度は煮え切らない・・・それもそのはず。

1600年9月17日~毛利輝元は黒田長政と福島正則の連署で「徳川家康が領地安堵を約束した」旨を認めた書状を受け取っていたからです

常識で考えて、負けた西軍の総大将が無傷であるはずがない。

だが外交オンチの輝元は、書状を素直に信じた(バカボンボン)

そもそも件の書状は、輝元がヤケになって籠城させないための「表向きの約定」だったらしい。

実際は吉川広家が裏交渉済で「120万石のうち半分を所領として残す」ってことで、ほぼ話がまとまっていた。

が、それには「但し」書きがあった。 

「毛利輝元が飾り・傀儡の総大将で、何も企んでいないコト」という付帯条件付きだったんです。


毛利家紋

9月24日~毛利輝元は大坂城を東軍に明け渡す

いざ東軍が大坂城に入ったら、毛利輝元が総大将として積極的に活動していた証拠になる文書がワンサカ出てきた。

石田三成に頼まれてホイホイ__φ(.. )~と、ただサインしただけのものなら、まだしも。

自分が扇動した九州大友軍&伊予水軍に関する下書きまで、そのまん~ま残ってて城を接収した徳川を呆れさせた。

て~~る~~~も~~と~~ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.アホの子ですか?!城を出るってお出かけじゃないのよ!

城を明け渡すってことの意味が解ってる?解ってないから、そんなんなんだよね!??
バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!

吉川広家の裏交渉は、すべて帳消し&台無し。

広家は徳川家に対し、畳に額を擦り付けるようにして「毛利輝元の助命を懇願」しなければならなくなった。

結果、広家は自分が恩賞として貰うはずだった防長二カ国を毛利家に譲って、毛利家は存続を許される。

おっかしいなぁ~~父亡きあと両川の伯父たちに鉄拳のスパルタ教育受けているはずなのに~~

外交オンチというのは、教育では矯正できないらしい。。。( ̄ω ̄A;アセアセ

この前後に毛利輝元は、人質として預かっていた小西行長の息子を殺害している。

まだ12歳の少年で、しかも「安全なところへ移動しましょう」と嘘を言って連れ出し殺したのだ。

さすがの徳川家康も毛利輝元の現金さにドン引きし、送り届けられた子供の首を見るに忍びず首実検を拒否したそうだ。

御人好し・ボンボン・お坊ちゃまのイメージが固定キャラの毛利輝元だが、実は意外と家臣の粛清は多い。

ボンボンであるがゆえに、政治的な失敗をしても自分が腹を切ることはない。

身代わりとなって犠牲になるのは常に「家臣」と「他家の誰か」なのだ。


立花家紋

9月17日の時点で、冒頭の手紙の件に関し輝元はダンマリ(* ̄* ̄*)を決め込んだ。

主戦派の・・・特に立花宗茂にバレたら立花軍が騒ぐに違いないから危険だ~と吉川広家に固く固く口止めされたからだ。

宗茂は煮え切らない輝元に不審を抱きつつも、説得を諦めざるを得なかった。

このように性根の座らぬ男が大将で戦に勝てるはずもない!豊臣への忠義と思い奮戦したのに何ということだ!戦わないのであれば大坂城に用はない急ぎ退去すべし!

ぐずぐすできない。

一刻も早く大坂を離れなければ、押し寄せる東軍に全ての街道を制圧されて、九州の本国・柳川へ帰ることができなくなる!!

考えてみれば大津城の落城が1~2日遅ければ、宗茂は本国どころか、大坂城に戻る前に東軍に囲まれ退路を断たれていた可能性がある。

9月26日~関が原から命がけで脱出し、同じく九州の薩摩を目指していた島津軍と宗茂が偶然出会った!!


亡き養父・立花道雪の宿敵の島津。

亡き実父・紹運を岩屋城で玉砕、戦死させた島津。

愛弟の統増をワナで捕らえて10ヶ月も人質にした島津。

この偶然の出会いの結果・・・それは・またの話 by^-^sio


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【ホタルノヒカリ・後篇~大津落城】柳川藩初代藩主編9栞80

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大津城~この城は長期籠城に耐えられる城ではなく、そもそも本来が軍事用ではない。 
琵琶湖の側にある水城で、琵琶湖の水運を利用し運ばれる船荷・物資保管用の城です。

それが籠城戦を頑張れたのは、京極高次の奮戦もさることながら、
淀君&北政所からの和議(わぎ=調停)が入るということで、
攻撃側は重火器の使用を手控えていたらしい。

根っからの軍人である宗茂は、この生ぬるい状態に軽くイライラ(--怒)していた。

とはいえ高次たち京極勢は、奮闘しました。

9月11日~京極側が西軍に対し夜襲を行い戦果をあげる(=^・ω・^=)v ブイ

9月12日~だがジリジリと追い詰められ、この日には大津城周辺の堀が埋められた(_´Д`)アイーン

ここで西軍は軍議を開き、大津城までの障害が無くなったので「明日、総攻撃しよう」

「それじゃ体力をつけなきゃ~」ってことで休息を取ることになった。

嵐の前の静けさ・・・敵味方、双方に生じた弛緩した時間帯・・・ハプニングとは、こんな時に起きる。


大津城には京極側が雇ったフリーランス忍者たちがいた。

諜報専門の彼らは、戦が始まると仕事がなくてヒマしてたらしい。

休憩中の西軍の陣営に忍び込むと、軍旗を2本盗み出し大津城へ持ち帰った。

ニンニン'z「西軍の奴らダラしね~な♪軍旗が盗まれたのに未だ気づいてね~ぜ♪バァ~カ」

と「城壁の上で」軍旗を振り回し、ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ□ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪ と、遊んでいたが場所が不味かった( ̄ω ̄A;アセアセ

ニンニン'zが遊んでいた城壁は、立花軍の陣地の真ん前だったからだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

( ̄ko ̄)<ちなみに盗まれたのは毛利秀包の軍旗でつ


立花宗茂イメージ画像

大津城の城壁で翻る味方の [軍旗]スッ≡( ̄ー『+』ゝ宗茂が発見!!

宗茂「おお!あれは毛利殿(秀包のこと)の軍旗ではないか!さては抜け駆けされたか!それっ立花軍も攻撃だ!遅れを取るな!((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~

9月13日早朝~大津城総攻撃は、このハプニングから始った

立花軍・先鋒は薦野増時(このもますとき~2話目「雷神の墓守」参照)の嫡男・成家だ!

彼らは阿修羅のごとき勢いで大津の城壁をよじ登り、大津城一番乗りを果たす。

3千が1万に匹敵するといわれた強兵・立花軍(by小早川隆景調べ)

それが火の玉のように攻めてくるのだから、腰がぬけるほどマジで恐い(;;)ノ

立花軍に遅れるな~~~と他の西軍も一気に総攻撃に掛かる。


どうも・・・その・・・宗茂、ほんとは軍旗がヒラヒラ~は、ハプニングだって気づいてたみたい。

でも、この生ぬるい状況に早くケリをつけたくて、わざと勘違いしたフリしたっぽい(*´pq`)クスッ

一方、西軍総攻撃に京極側は慌てた~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

まさか自分たちが雇ったニンニンが、おバカなイタズラしてるとは夢にも思わない~~突然の攻撃で初動の対応が遅れた。

西軍の本気モードの攻撃は凄まじく、二の丸・三の丸がアッという間に制圧される。

京極家臣たちは、主君・高次に和睦開城を申し出るのだが、高次は意地を見せて拒否(`・ω・´)キリッ

14日も抵抗を続け、高次自身も槍キズを二ヶ所負う。

この状況に、高次の正室・初姫が悲鳴を上げた。 

過去、落城で何度も身内を失っている彼女には耐えられなかったのだ。
(賢婦人と称えられる彼女は、途中まで甲斐甲斐しく城兵たちを鼓舞してたが、夫の負傷に動転したらしい)

再び淀&北政所の使者(前回とメンバー同じ)が入り、和睦を申し出る。

大津城は本丸を残すのみの裸城となり、落城は時間の問題だった。

妻だけでなく、家臣団も開城を願う状態では戦い続けるのは無理です。

9月14日夜~大津城は降伏

9月15日~京極高次は城を明け渡し、自身は高野山で謹慎することになった

だが時すでに遅く、関が原では本戦で西軍が敗れていた・・・

あ~~~~~~~~惜しい!あと二日粘ればなぁ~~~蛍大名の汚名は完全返上できたのに~~

関が原本戦前で高次は、要所・要所で家康に自分の行動をアピールしている。

妻の人脈を上手く利用し和睦をチラつかせ、本来軍事用ではない大津城の籠城を長引かせることにも成功。

加増は大津6万石⇒若狭8万石と微増だが、これは本戦に参加していないので止むを得ない。

ニックネーム(蛍大名)が有名すぎて、知名度も軍功に対する評価もイマイチ低い。

だが一度、没落した京極家を大名として復活させたのだから、基本スペックは高い人物なのだろう。

家康の信頼もあつく、直筆の手紙をもらっている。

まぁ妻の妹が2代将軍・秀忠の正室だから人間関係に恵まれてますしね(*´艸`)

ただ、もっと頑張っても近江一国は無理だったと思います。

何故なら近江は守護職だった京極の本貫地。家康は近江に京極を留めることはしないでしょう。

他の元守護職の武家も、本貫地からは引き離してますからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー



とにかく、この戦闘意欲抜群・元気な17000の猛者たちを、関が原本戦に投入できたなら間違いなく西軍勝利は確実だった。
(勝つだけならね~大津攻め兵力あれば勝てるだろうけど~~~でも戦後処理で西軍は揉めるだろうなぁ^^;)

鎮西無双・立花宗茂は戦の勝利者でありながら、主戦場が敗れたために敗軍の将となったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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