【終わりよければ全てカッコ(・∀・)イイ!】江上・八院合戦編17栞100


西軍も東軍も表看板は「豊臣家への忠義」だった。

勝った東軍が、西軍に【不忠】の烙印を押したにすぎない。

激動の戦国期を生き抜いた宗茂には、その辺の政治上のカラクリは良く判っている。

だが彼は西軍を選んで戦ったことを、一切(おそらく)後悔していない。

グチを言わない宗茂は、自分の出処進退に対しても手練手管を使おうとしなかった。

1600年12月12日~立花宗茂は黒田長政と面談した


関が原の戦後処理が片付くまでの一時期、黒田長政は西国大名の取次役だったんです^^b

徳川家康との拝謁は適わず、立花宗茂の柳川13万石は「西軍に加担した罪」で取り潰しとなり、
正式に肥後の加藤清正に身柄を預けられた。


加藤清正イメージ画像

宗茂の武勇と人柄に惚れ込んでいる加藤清正は、
預かり先の肥後・高瀬に宗茂と家臣たちのために屋敷を建て、預かり料も1万石とVIP待遇だった。

・・・のだが、不都合が起きた^^;

宗茂とギン千代が同居を拒否したんです~( ̄ω ̄A;アセアセ

二人の夫婦関係は完全に破綻していて、男性としての宗茂の愛情は側室の矢島氏に注がれていた。

ギン千代と生母(つまり道雪の未亡人)は、肥後・腹赤(はらか)村の庄屋屋敷を増改築して移り住んだ。

二人の世話をしたのは立花家臣である米多比鎮久(ねたび しげひさ)さん^^b

彼は二人の面倒を見るために、そのまま加藤清正の家臣となる。

それで治まるかと思いきや、うまく行かなかった。

加藤清正の家臣が、宗茂と立花の家臣をバカにし始めたんです(_´Д`)アイーン

勝った者の奢りというのは恐ろしい。

最初、抱いたいた宗茂への敬意は何処へやら~~

月日がたつにつれ、清正の本国留守中に加藤家臣たちと立花家臣たちに軋轢が出る。

そんな状況を憂いた宗茂は決心し、大名復活を目指して江戸に出ることになる。
(清正が進めたとか、いろいろ説があるようです)

江上・八院合戦の総大将だった小野鎮幸(おのしげゆき)は、加藤清正の家臣となって肥後に残った。

浪人がイヤで心変わりをしたのではない。宗茂を経済的に援助するためです(`・ω・´)キリッ

守銭奴・・・もとい小野は貯金に励み、江戸の宗茂に送金を続け、更には他国に散った立花家臣団の中継&まとめ役をした。


説明不要家紋

ちなみに徳川家康だが、実は立花宗茂の武勇と人柄をメチャクチャ評価していた。

宗茂ほどの武将が、天下に大乱を望む連中に利用されては大変だ。

ほとぼりが醒めた頃に、何らかの形で宗茂を復活させるつもりで動向を監視していたらしい。

はじめは幕臣となるのを辞退していた宗茂だが、度重なる要請に断りきれず、
まず慶長8年(1603年)に幕臣・書院番頭となり御家再興^^

さらに1606年奥州は棚倉2万石で大名として復活する^^

大坂の陣では、余裕で豊臣方を打ち払って2代将軍秀忠を守る活躍をし、
1616年には2代将軍の御伽衆(話し相手・相談相手)になる。

宗茂の旧領地・柳川は田中吉政が入っていたのだが、子供が絶えて絶家が確定となった。

1619年~立花宗茂は、柳川11万石の初代藩主として失った旧領地復活が決定する(=^・ω・^=)v ブイ

西軍で改易になった大名で、御家再興(大名・幕臣問わず)が成った家はあっても、
失った旧領地に復活したのは、立花宗茂ただ一人(`・ω・´)キリッ

これは、もう人徳としか言いようがありません~(人´∀`).☆.。.:*・

頑張れば報われる・・・そんな暖かい言葉が浮かびます^^

さらに1621年1月10日~宗茂弟・立花直次の息子、種次が三池藩大名となることが決定


三池藩は柳川藩の支藩ではなく独立した大名でして、兄弟で大名復活は珍しいです^^/

1621年2月28日~宗茂は柳川城を受け取りお国入り~バンザーイ♪ヽ(*´∀`)ノ~

旧立花家臣たちが、ぞくぞく柳川藩へ戻る・゜・(PД`q。)・゜・←嬉し泣き


お洒落な立花家紋

加藤清正に仕えた小野さんは、残念ながら柳川復活を見ることなく65才で亡くなるのだが、
子孫は宗茂に呼ばれ、小野家は家老職で復活(=^・ω・^=)v ブイ

千代と道雪未亡人の世話のため加藤清正家臣になった米多比さんも、1000石大番頭で柳川藩士で復活(=^・ω・^=)v ブイ

旧主だった大友家の家臣たちも、復活・柳川藩に仕えた者が多い^^



戦国時代は、みんな野心や生き残りのためにギラギラしてて、それが魅力でもあるが、
そんな中で高潔な立花宗茂&宗茂を慕う家臣は別段の異彩を放っている。

宗茂には、戦国武将にありがちな自己中な大言壮語や大袈裟な自慢話がなく、
いつも謙虚で己が勤めに一意専心。

安心・安定の名将クオリティの逸話の数々は、見ていて本当に爽やかでホッとします(*´艸`)

立花編と江上・八院合戦編でも、宗茂と家臣たちの逸話は全て紹介しきれませんでしたが、
ハッピーエンドの余韻とともに、ひとまず最終回とさせて頂きます^-^


さて次は肥前千葉氏編に集中しまして、その後に新章「打倒・大友!秋月編」スタートします。

己が野心と生き残りのためなら何でもします~キャラとしてはアンチヒーロー&ダークサイドな秋月種実(*´pq`)

敵からみた立花道雪と紹運とは? 

秋月のせいで巻き込まれ、超迷惑を受ける呪われた宗像氏。さらに大友VS毛利の10年戦争^^/

それは・またの話 by^-^sio

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【仮想・島津討伐軍】江上・八院合戦編16栞99


さて、話を少し戻って島津の薩摩までの帰還ルートです^^

1600年9月26日安芸日向泊(広島県)で偶然出会った立花軍と島津軍80騎~~

実父の仇である島津を宗茂が許し、立花の船に同船させて貰う。この日は船泊り~~~

9月27日⇒出航~~豊後沖で黒田軍の砲撃を何とかかわす(三隻が焼かれる被害有り)

9月29日⇒九州は日向(宮崎県)に辿り着く。

はっきりした記述が見付からなかったが、島津と立花は日向で別れたらしい。

9月30日⇒島津一行は日向財部(たからべ=現・高鍋)に到着。

ここまで一緒だった秋月種長夫人を秋月側に引き渡した(財部は秋月領^^)

同日⇒財部から佐土原まで移動。

ここで家久夫人(関ヶ原で討死した豊久ママン)を引き渡す(佐土原は島津豊久領)

10月1日⇒佐土原から八代へ移動。

逸話によると家久夫人は
「あなた(義弘)様という方は・・・息子・豊久を上方に置き捨てて、今度は佐土原を見捨てる気ですか?」・゜・(PД`q。)・゜・
と、義弘の袖に縋り付き泣訴したらしい。義弘が何と答えたかは不明。

10月2日⇒宗茂は本国・柳川城に到着~島津は八代から大隈へ移動

10月4日⇒大隈から薩摩本国に到着~~~バンザーイ\(≧▽≦)ノ生きて戻れた~~

もう移動移動の強行軍だったぉ~~と浸っている場合じゃない。

九州・東軍の動向を集めていたら、鍋島の大軍が立花を討つべく行動している情報が入る。

島津は「恩人の宗茂救援のために」兵1万を出兵させたとあるが、

実は1万は朝鮮の役で出兵した兵数と同じ、つまり島津軍の現有兵力なんです



島津家紋

援軍に全軍出して本国をカラにするなんて、どう考えても多すぎる。

西軍の立花が討たれたら、東軍の次なる標的は同じく西軍の島津になる。

島津は単なる恩返しでなく、島津自身の生き残りのために立花と連携して東軍と戦おうとしたのだろう。

が、鹿児島県と福岡県では情報入手から軍行動までタイムログがあり、
島津が国境まで来た時には宗茂が降伏して3日後だったと言われている(10月24日降伏だから27日?)


1599年6月から1600年3月まで、島津領内で勃発した「庄内の乱」

乱の後「国内が不穏だから」と義弘の出兵要請に応じなかった義久と忠恒。

何の事は無い。

島津TOPの3人が本気を出して協力すれば、短期間で全軍1万、耳を揃えて用意出来たんです。

降伏した立花軍は東軍の指揮下に入り、今度は島津討伐の先鋒としてやって来る!(_´Д`)アイーン

関ヶ原前の立花と島津だが、実は結構交流があったらしい。

作家の桐野氏のコラムによると宗茂は「先輩武将としての島津義弘に敬意を感じていた」そうな。

宗茂の性格ならアルアルって話だなぁ^^

その島津討伐の先手になる・・・・まぁ宗茂は戦が始まったら、戦の事以外は考えてなさそうだけど,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


立花家紋

一方、島津も手を拱いていたわけではない。言い訳・・もとい謝罪の使者を上方に派遣したんだけど~~~

11月4日⇒徳川家康は、やって来た島津の使者を門前払いにするo( ̄Д ̄θ★ケリッ!

11月16日⇒徳川家康~島津討伐令を発布。

11月初旬⇒立花宗茂は東軍の先鋒として肥後と薩摩の国境に軍を駐留させる。

この時の東軍の総兵力は3万とか5万とか、はっきりしない。なぜかというと↓↓↓

11月22日⇒九州の東軍全てに徳川家康が撤退命令を出したからだ。不発に終った島津討伐軍の全容は今となっては判らなくなった^^;


島津が本気で抵抗し領民がゲリラ化したら、どれほどの犠牲と日数を要するか予測が付かない。

家康は西軍の掃討戦・残党狩りが長引くのを嫌った。

10月15日には既に東軍の諸将に対して恩賞を与えている。

まだ豊臣政権は機能しており、家康が五大老筆頭の地位であることに変化は無い。

家康は自分の虚像を天下に対し、より大きく見せるため関が原以降の大戦を避けたんです。

でもって色んな意味で諦めの悪い如水が、撤退命令を無視して豊前に帰らなかったので、
家康の機嫌を損ねて、如水個人への恩賞がチャラにされました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


説明不要家紋

宗茂の城だった柳川城は東軍に接収されていて、もはや彼には帰還する城は無かった(;;)

12月2日⇒宗茂ら立花軍は肥後・高瀬に入り駐留した。

でもって宗茂は、この日に江上・八院合戦の感状を出しているんです。

主君たる者の務めとはいえ、自分の帰る城も無いという不安定な状態なのに、
何と云うか律儀というか真面目というか・・・ほんとに職務に誠実なんだなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ

家臣たちの労をねぎらうと、宗茂は大坂へ向けて出発した。

家康へ「西軍に加担した罪」を謝罪し、立花家存続を願い出るためなのだが、それは・またの話 by^-^sio

【武神落涙】江上・八院合戦編15栞98


1600年10月23日深夜・・・宗茂は数名の供を連れて 降伏のため加藤清正の本陣を訪れる

宗茂は、自身が出兵した戦では負けたことがない。

関が原のように主戦場が負けたりなど、諸事情で撤退したことはあっても敗軍であったことは無い。

「西軍」として「東軍」に降伏したのが、宗茂唯一の黒星だ。

土地勘が無いので加藤清正の本陣の位置がいまいち判りませんが、柳川城の三の丸から遠望できたそうです。

清正は降伏に来た宗茂を客人として丁重に迎い入れると、こう言った。

清正「此度のことは毛利輝元と宇喜多秀家に謀られたのでしょう(総大将と副大将だから名前を挙げただけで他意は無し)豊臣への忠義と信じての行動で、宗茂殿が徳川殿に含むところが無いのは判っています。徳川殿へは自分が取り成すので、この先は東軍の先手として尽して頂けませんか?

名将・立花宗茂は、清正の言葉に涙を流したと伝えられている。


立花宗茂イメージ画像

宗茂タイプの武将は、実は生き残るのが難しい。

武勇を同僚や主君に嫉妬されて途中で粛清されたり、
その忠義ゆえに実父の紹運のように主家のために玉砕してしまうから・・ネ^^;;

領土的野心が皆無の宗茂には下克上なんて無縁の話。

秀吉と出会わなければ大友家の一家臣で生涯を終えるだろうし、それで満足の根っからの武人なんです。

宗茂は、自分の武勇を満天下に推奨し大名に取り立ててくれた秀吉に対し、本気で恩義を感じていた(らしい)


譜代家臣と呼べる部下が少ない秀吉は、宗茂の一種無垢な性格に目をつけ、
彼を股肱の臣とすべく何かにつけてエコヒイキした。

柳川に入る時も大名として統治に不便な旧法を秀吉の命令で撤廃し、宗茂が遣り易いように配慮している。

官位の任官スピードも清正どころか旧主・大友氏より早くした(これは多少迷惑かも)

「朝鮮の役」では軍役の一部(博多警固)を免除している。

真面目な宗茂は、それらのことに真っ直ぐに感謝していたんです。


豊臣家の御為にと参加した西軍の内容はグダグダだったが、そんな事には動じない。

誰が裏切ろうと関係無し!人は人・自分は自分の宗茂です^^b

宗茂が落胆したのは西軍総大将の毛利輝元~~~o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

輝元が大坂城に籠城すると決意してくれれば、宗茂は命に従い城を枕に討ち死にしただろう。

どんな時でも誠心誠意に忠義を尽くす宗茂タイプの武将にとって、
それを受け止めてくれる主君or大将の器が残念でアレなほど辛いことはない。

大切な家臣を大勢死なせ、何のために西軍になったのか、そのやるせなさは言葉に出来ない。

それらを察した上での清正の言葉が胸に沁み、思わず感涙してしまったのだろう。

宗茂は清正に謝意を述べると、今後は東軍として働くことを約束した。

一件落着~のはずが トラブル発生Σ(´Д`;) うあ゙~



立花家紋

清正の本陣で繋いでいた馬一頭が、なぜか興奮し突然暴れ出したんです。

馬は引き綱を千切って本陣内を駆け回り、それを押さえようとして加藤家中が騒然となった。

柳川城では主君・宗茂の帰りを今か今かと待っていた。

三の丸の兵士が加藤本陣の騒ぎを見て「さては主君・宗茂を謀って殺したのか!」と勘違い!

緊迫した状況なのだ無理はない。 

柳川城内は大騒ぎになり、加藤本陣の様子を見ようと三の丸に家臣達が集まり出した。

清正は自陣の騒ぎの報告を聞くと直ちに柳川城へ使者を派遣した。

清正の使者は柳川城兵に向かって叫んだ。
「ただいまの騒ぎは暴れ馬の為です!和睦は無事整ったので、貴殿らの主君・宗茂公は間もなく戻られる故、落ち着きあれ!!」

疑心暗鬼の立花勢だったが、留守を預かる薦野増時(こものますとき)が城内を駆けずり回って何とか抑えた( ̄ω ̄A;アセアセ

そして「ただいまぁ^-^ニコリ」と無事帰った宗茂を見て、
家臣一同~(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォっと歓声が上がったそうです。

                   


1600年10月24日~柳川城は正式に降伏した

鍋島と立花・・・生き残りと武門の意地をかけた、どちらも譲れない戦「江上・八院の合戦」は終った・・・

11月3日~薦野増時が全ての後始末をして、柳川城は東軍・黒田如水に接収された。

この時の薦野増時の手際に惚れ込み、如水が薦野増時をスカウトする。

薦野は望郷の念が抑えがたく如水の申し出を受け、
父の気持ちを汲んだ息子・薦野成家も、福岡藩黒田家に仕えて生涯を終えた(そのまま子孫も黒田藩士)

そして宗茂はというと、今度は「東軍」として島津征伐の先鋒軍に選ばれた。

11月初旬に立花軍は柳川城を出発したのだが、次に柳川へ戻るのには19年の歳月を要するのである。

それは・またの話 by^-^sio

【清正】水田の会見【如水】江上・八院合戦編14栞97


加藤清正は出会った当初、立花宗茂に対抗意識があったらしい。

豊臣秀吉が宗茂を可愛がり、徳川四天王の本多忠勝と並び称して「鎮西無双」と褒めたのが負けず嫌いの清正には面白くなかった。

天正18年(1590年)に立花家と加藤家が揉めた時に、前後の事情を調べずに立花家へクレームを捻じ込んだのは、
そもそも清正が宗茂に好意を抱いていなかったからではないだろうか?

秀吉が申請して朝廷から任官される官位も清正より宗茂が先でして。。( ̄ω ̄A;アセアセ

とある真夏の行事で宗茂は身分上、許された朱傘を差していたが、
まだ清正はその身分ではなく、炎天下のなか大汗を掻いていた。

見かねた宗茂が「こちらの朱傘の日陰に入りませんか?^-^ニッコリ」と勧めた。

清正は「お気遣い無用でござる。拙者には肥後という傘がござる!(`・ω・´)キリッ」と突っぱねた。

まぁ、あれだ。清正も若かったんですね^^


清正イメージ画像

そんな状態の清正だったが「朝鮮の役」でピンチになった時に宗茂に助けてもらう。という大きな借りができてしまった。

この頃になると宗茂の人柄も判っているので、心から敬意を払うようになっていたのです。

1600年10月20日~水田口(現・筑後市付近)で東軍の加藤清正と黒田如水が合流した。

この時に二人が率いていた兵数は、シオペディアでは判りませんでした^^;;

黒田如水は、10月14日に自分の混成軍から5000名を割いて柳川へ先行させていました。

立花軍が清正より如水が先に来ると思い、けん制の兵を出していた(薦野成家隊)のは、
この5000名の情報を先にキャッチしていたからでしょう。

如水混成軍は降伏した西軍の兵力を吸収して増えていってるので、一体全体何万になっていたのやら~(@@;)コンガラガル

とにかく清正軍+如水軍なんで1万以下ということは無いでしょう^^;

合流すると清正は如水に「宗茂の助命に協力して欲しい」と懇願した。


如水イメージ画像

清正「恩人の宗茂と戦いたくない!彼ほどの武将を鍋島の手柄稼ぎの戦で死なせたくありません!説得するから宗茂のことは自分に任せて下さい!」(-人-)☆彡オネガイ

9月15日に関が原で東軍が勝利を収めているので、その後の西軍掃討戦に時間をかけるのは家康の機嫌を損ねる。

VS島津が念頭にある如水~~宗茂相手の長期籠城戦は出来れば避けたい(-ω-;)ウーン

でもって32000の鍋島の大軍をVS島津戦に使いたいから、立花戦で兵力を損耗して欲しくない。

ここは清正の顔を立てて戦を避けよう~如水「OK~任せるよ」となった。

これが後の世(郷土史ワールド界)に云う清正と如水の「水田の会見」です


如水との話が決まると、ただちに清正は五反田の鍋島軍本陣に使者を出した。

清正(の使者)「もはや勝敗は決した!これ以上の戦闘は無意味であるゆえ鍋島軍は兵を収めよ!」(`・ω・´)キリッ

鍋島直茂ベテラン63歳(なにを若造が(清正39歳)!朝鮮で貴様のピンチを救った援軍は立花だけじゃないぞ!ワシにも恩があるだろう!)(# ゚Д゚)


突っぱねようと思ったが、直茂にとって不味いのは如水も宗茂助命に協力している事だ。

元・西軍の鍋島家は、徳川家康への取り成しを如水に頼むつもりだったので、
今の如水に逆らえないという弱みがあった。


鍋島イメージ画像

勝ち戦に調子に乗った鍋島家臣の中には「このまま柳川城を攻撃しちゃいましょ~♪」と言い出す始末。

直茂(アホか!立花宗茂相手に籠城戦なんて始めたら攻撃するワシらが地獄を見るだろぉ!)

逸る家臣を宥め鍋島直茂は全軍に撤退命令を出すと、五反田の本陣を引き上げ城島方面へ引き上げた


あと一歩で完全な勝利を手にしたのに加藤清正が「待った」をかけたから、
鍋島の方が勝ったのに影が薄い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てか、カッコいい場面は立花と清正に取られてるし ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

まぁ生まれ持ったスター性の差ですな( ゚Д゚)y─┛~~

ゴホン、え~~、とにかく直茂は「名より実」をとった。世間からの評価よりも御家存続を優先させたんです。

主家・竜造寺を立てつつ佐賀を実質支配していた鍋島「らしい」判断だと思います。


一方の立花側だが鍋島軍が撤退したから、これで安心というわけじゃない。

立花にしてみれば、清正も如水も東軍であることには変わり無い。

一難去って、またまた一難?

立花宗茂は、今度は「加藤清正+如水」に対し【柳川城で籠城するか】【降伏するか】の決断を迫られたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【漢(おとこ)には行かねばならぬ訳がある!】江上・八院合戦編13栞96

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鍋島軍陣容(参照:千葉氏HP、出典:勝茂公譜)

  先陣:鍋島茂里(&全軍指揮官)、鍋島茂忠
 第二陣:竜造寺茂綱←関ヶ原遅参の汚名回復のためハッスル中
 第三陣:須古信昭
 第四陣:諫早家晴、諫早直孝、竜造寺安順
 第五陣:多久家久
 第六陣:鍋島勝茂(直茂の嫡男・後の初代佐賀藩主)
 第七陣:本陣右脇に展開
 第八陣:本陣左脇に展開
 第九陣:鍋島直茂
 第十陣:直茂の右脇に展開
第十一陣:直茂の左脇に展開
第十二陣:小川直房、馬場茂員、千葉胤信、神代家良、内田茂堅、成冨茂安、出雲茂通、
     犬塚茂虎、鍋島道泉、倉町家秀、鍋島種巻、久納茂俊、田尻房種
 留守居:鍋島房茂

遅ればせながら、鍋島軍陣容データ入手出来ました( ̄O ̄A;アセアセ

馬場に神代に千葉と・・・因縁のある家が見事に揃ってるなぁ^^;
さすがに後方配置だけど~~~
これじゃ、鍋島直茂は家中のバランスとるのに苦労しただろうなぁ (゜-Å) ホロリ

最初、各将の当時の石高調べて換算すれば、兵数解るじゃん(=^・ω・^=)v (=^・ω・^=)v ブイ
と思ったが、そんなコアデータを県外在住者には入手困難だし、
解ったとしても第七、八、十、十一陣の兵数(旗本衆か?)が解らないから、やっぱ謎です^^;

参照サイト&出典元によると、立花軍大将・小野鎮幸は、この戦で死ぬつもりだったらしい





話は開戦前に遡る。

とにかく家康の御機嫌を損ねないようにするには「短期決戦」が絶対条件の鍋島家。

鍋島家では立花軍を柳川城から引っ張り出すために、成冨茂安を使わして果たし状を出したりしてたんだが、
( ̄ko ̄)<他にも画策してたんでつよ・・・


画策というのは離間工作で、罠にハメられたのが立花家次席家老・小野鎮幸です

鍋島家は小野と親しく交流があった鍋島茂里と石井茂賢の名前で、小野あての書状を捕虜に託して放したんです。

ワンパターンというか、よくある離間工作なんだが、これに立花家中が釣られた~~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

「名将なら3年、凡将でも1年は持ちこたえる」と謳われた名城・柳川城。

だがこれは「援軍が来る見込み」が前提の話だったのだろう。

この時期の柳川は、敵に囲まれ支城も次々落とされた「孤城」の状態なんです。
(島津は同じ西軍だが、この段階ではアテにならない)

固い結束を誇る立花家中ですら書状一つで動揺したのだから、
籠城における心理状態は、普段の戦よりも超デリケート&超神経過敏になるんでしょう。

実際、もし自分だったら籠城一日目で疲労困憊(精神的に)しそうだ( ̄ω ̄A;アセアセ

あ、もちろん主君の宗茂は「この程度の離間工作」ではビクともしません。

だから大丈夫だったんです^-^

が、内通?(*´・д・)ヒソヒソ(・д・`*)裏切? と一度は家中で噂された事で小野が逆切れした。

小野(# ゚Д゚)・;'.「サラハ討死シテ見スベシ」

と、出陣し壊滅状態の先陣を救おうと(無謀とも言える)突入し~自軍が壊滅して本人も品詞・・・もとい瀕死の重傷です( ̄ω ̄A;アセアセ

このまま討死した方が本望だッタンジャ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ


立花家紋

小野さんって立花家中では中途採用者で「生え抜きの家臣」って出自じゃないんです。

実力で次席家老に出世した小野さんを、快く思ってない譜代衆がいても不思議じゃない。

あと小野さん本人も誤解を受けるタイプ(守銭奴)です( ̄ω ̄A;アセアセ

守銭奴って言っても、集めた金は全て主君に献上しており、忠義からの発露なんですが、
ガメツく集めすぎて批判されたでつ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


それはさておき、その小野さんを救うために牽制部隊として別行動してた薦野成家隊が突入。

小野を包囲する鍋島隊を蹴散らし、生き残りの味方を自隊に回収したところまでは良かった。

だが鍋島からの発砲で被弾した薦野が裂傷を負い、一度落馬してしまう。

怪我にめげず即復活した薦野だが、動きが乱れたところを鍋島の追撃にあい、薦野隊も包囲されるのは時間の問題という大ピンチ!!!

もうダメポ・・・と思った、その時。

なぜか突然に鍋島軍が撤退しはじめた・・・ヽ(。_゜)ノ へっ?


薦野は「勝ってるのに何で大将首を取らずに撤退??ヽ(。_゜)ノ へっ?」とワケワカメ。

「上層部で和睦の動きでもあったか?」とも思ったが、主君からは特別の指示はない。

とにかく柳川へ撤退するのが先決と、重傷の小野を抱えて引き上げた。

戦後、生き残った小野の報告を聞いた立花宗茂は、
「薦野成家が「江上・八院」における一番の働きである。」と、感状(かんじょう=戦の手柄の内容を賞した書面)を出した。

薦野は被弾で左頬に残った傷跡を誇りとし「これがワシの江上・八院の戦だ」と語っていたそうだ。


鍋島家紋

この「江上・八院の戦」は、先の大津城攻めの活躍とあいまって、立花の武勇に対する評価は倍増。

名将・武神・鎮西無双などなどの立花宗茂の名声を不動のものにした。

一方、勝ったはずの鍋島軍の評判は冴えなかった。。。。il||li _| ̄|○ il||l

鍋島32000VS立花3700~
ジャイアンとのび太ほどの勝って当然の兵力差で、鍋島側から撤退&大将を討ち洩らしたからです。

これで小野の首を討ち取った後の撤退なら格好がついたんだが (-ω-:)ウーン

おまけに立花家臣の口から鍋島軍が何度も崩れたのが洩れて、カッコ悪さ倍増^^;

それとなんですが、兵力差から見て立花側が壊滅状態なのは当然として、
その壊滅状態の中ですら、立花の精鋭たちは鍋島軍から200以上の犠牲者を出しているんです。

犠牲者200は雑兵ばかりですが、それは鍋島軍の層が厚すぎて兜首に肉薄出来なかっただけのこと。

立花軍は、鍋島の約11%の兵数で、鍋島から0・6%の損害を叩き出してます。

対比計算でいくと「IF兵数が同じ=立花は鍋島の半分を討ち取れた」事になる。

そうなれば圧勝したのは立花のはずだ。と誰もが思うでしょう。

世間がどう評価するか、鍋島直茂は重々承知の上で、それでもなお「引かねばならない理由」があったのだが、それは・またの話 by^-^sio

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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