史料における兄・千葉胤朝、弟・千葉胤盛時系列まとめ(最終稿)

河上神社文書№---兄・胤朝(青色)
河上神社文書№---弟・胤盛(緑色)
★マーク付---佐賀大学地域学歴史文化研究センターHP掲載の肥前千葉氏発給文書目録を一部改変のうえ転載。
○マーク付---サイト「千葉氏HP」参照
上記以外は北肥戦誌、歴代鎮西志、歴代鎮西要略、佐賀市史を参照



文安年間、長兄・政胤戦死後、次兄の胤朝は大内氏を頼っていた

○文明4(1473)年から文明8(1776)年までの間に、胤盛は兄・胤朝から牛頭山城を奪う

文書№204---文明8(1476)2・3、書下、河上山座主御坊宛
就神野仏性料田事、兵部少輔、背成敗、致違乱候之通、申談候之處ニ、被閣之上者、於末代、不可爲高木名字候、仍爲後日状如件、
意訳:兵部少輔が、神野(地名)仏性料田(ぶっしょうりょうでん=公田)の秩序を乱したので、末代まで「高木姓」の使用を禁止する

文明8(1476)2、千葉胤朝、大村家親を藤津郡で破り、大村領を併合する

○文明9(1477)10・7、千葉胤盛、河上社宝殿に「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納める

○文明10(1478)9・25、大内政弘、少弐政資を追放し大宰府を占拠
文明10(1478)10・7、千葉胤朝(次男)VS胤盛(三男)
 ※大内政弘~和与(条件:牛頭山城退去)を拒んだ胤盛を、秋月種朝等に攻めさせる。

文書№205-文明12(1480)6・19、胤朝「知行」安堵状、河上山後座主宰将公殿
文書№206-文明12(1480)6・19、胤盛「御知行」安堵状、河上山後座主宰将公殿

※同日に兄弟で同じ人物宛で同じ土地を安堵してます。
※連著ではなく、兄弟別々に安堵状を発給、文面も同じだが表現に相違あり

文明14(1482)少弐政資、肥前、与賀城へ入る
(同年4月3日、河上社へ寄進している)

★文明18(1486)4・5、胤盛書下写(寺領安堵)、河上山実相院

文明18(1486)10・3---兄・千葉胤朝が討死
文明18(1486)12・3---少弐政資が千葉氏の家督に介入、弟・胤資が胤朝娘と婚姻し家督を継ぐ

文明19(1487)---少弐政資、このころ大宰府を奪還し復帰している。

延徳3(1491)千葉胤盛、胤棟(興常)が大内の支援で千葉胤資と合戦し、牛頭山城をゲッツ。

明応元(1492)『千葉胤盛 同姓胤将を攻め落とす。胤資より和平す』(歴代鎮西志)

文書№208---明応6(1497)1・23、胤盛安堵状、河上山唯真坊律師宛
文書№172---明応6(1497)3・27、千葉興常禁制、河上社(興常文書初出)
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

肥前千葉氏_千葉胤盛データベース

※本業関連なのでデータベースは自分で確認とれたもののみを抽出してます。
(河上神社文書は、専用書庫の方でまとめます)
家系図・肥前千葉系図・決定

千葉胤盛、胤紹の子で東千葉氏興常の父です。
数年前に肥前千葉氏を記事にしたときは、WEBでは此の方の詳細データが入手できなかったんです^^;
河上神社文書入手で、ようやっと裏付けとれるので再リサーチなり~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

歴代鎮西志上巻_682頁、
(明応元年・1469)『千葉胤盛 同姓胤将を攻め落とす。胤資より和平す』
胤資が謎、千葉胤資のことなら未だ生まれてないので少弐政資の誤記かな?

歴代鎮西志上巻_692頁
(明応8年・1499)『千葉別駕(べつが=守護代)胤盛之子新介 大内義興に謁す。諱の字を受け名を「興常」と三郡に知れたり』
これを拾ったのは胤盛を「別駕(べつが=守護代)」でカウントしてるから^^b
但し、この明応8というのは編者の編纂ミス。明応6で既に興常と名乗ってます。

北肥戦誌_162頁
千葉興常の父という紹介のみ。
北肥戦誌には胤盛の記述は殆どなかった。

佐賀市史第1巻_528頁
面倒なので簡略に要点のみ時系列で抜粋
・文安年間、兄の政胤戦死後、同じく兄の胤朝は大内氏を頼っていた
・胤盛はは小城に戻る「文明8、2月3日、川上社へ安堵状出す」
・文明10、10月7日、大内政弘が筑前・秋月種朝を遣わし胤朝に助勢し胤盛攻撃を命じる
・大内では胤朝と胤盛を和睦させようとしていたのだが、牛頭山城退去を胤盛が拒みグダグダしてた。
胤盛は「兄・胤朝より先に死亡(市史では千葉系図を参照)」とされていたので市史も、それに則った記述です。
 が、河上神社文書により明応6(1497)1月までは存命していた事が確認されてます。
 同年3月27日に千葉興常が川上社へ禁制を出しているので、その間に胤盛が死亡したと思われる。

コッチの方が詳しいですな ( ゚Д゚)y─┛~~
う~~~脳に浸透しづらい~繰り返し読むしかにゃいぉ・・・il||li _| ̄|○ il||l

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

与賀城の話・・略して「与賀バナ♪」

何が出るかな♪何が出・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

凝り性がゆえに肥前史プチ挫折の管理人・・・(´;ω;`)ウッ
1562年と1563年の記録ループにも、ガチで取り組んだがゆえに脳疲労に拍車・・・il||li _| ̄|○ il||l
研究、頑張りすぎて視力が落ちて、メガネを変える羽目に・・・トホホ

(´;ω;`)ウッの与賀記事が、グーグル検索第5位・・・il||li _| ̄|○ il||l
凝り性・・・ってことは完璧主義気味なわけで、
現在「通説無視で考察爆走した記事全てを書き直したい欲求」と理性が戦ってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ほ・・ほんとにやり直したい・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'` ←←理性:最低でも1年分だぞヤメレ
やり直すなら、肥前千葉氏編からジックリと・・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`←←理性:おぃ2年分かよ!
読み下した古文書も盛り込みたい・・'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`←←理性:今後も出るゾ、我慢しなさい!

あzっざあああああざああああああああああああああ!!!やり直してぇええええええええぇええええええええ
と言う気持ちにフタをするのに必死^^;

道産子という地域ハンデがある自分は、一つの情報を得るのさえ、膨大な時間と労力を要する。
肥前史リサーチを本格的に始めたのは4年前で、与賀城の情報に辿り着くのには、3年かかった。
で、佐賀市史・・実はWEBで公開してます・・・途中から教えてもらって判ってたけど見なかった。

市史って、どこもだけど同じ県内の市史とでさえ、データの整合性をとってないんです。
同じ県内に起きた一つの戦がA市とB市では記述が違うなんてザラにあるし、
一次史料があるのに、なぜか二次史料が典拠だったりと、ヽ(。_゜)ノ へっ?と逆に迷う。
それでブログでは気楽に自由に書きたくて、市史の通説とは距離を置いてました。

それはさておき、ブログと違い史学論文の世界では、通説と違う持論を展開したければ、
典拠となる史料を出さなければならない。
でなければ、ただの妄想か思い込みとして査読の段階で弾かれる。

「査読の理解が不十分で・・」などという発言が、論文の世界で認められる事はない。

自分が困ったのは「与賀城が機能してた時代」が、「論文のテーマとして扱う時代」と、モロ被ってる点(-ω-;)ウーン
だから、もう一度、考察&推考しなおさないと先に進めず、肥前史に関する思考もソコでSTOPしてるという訳です( ̄ω ̄A;アセアセ




佐賀市史では与賀千町を「龍造寺先祖代々の領地(`・ω・´)キリッ」と記述している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鎌倉時代は少弐が与賀の地頭じゃなかったっけ?
まぁソレはいい。
少なくとも室町期以降は龍造寺エリアだったのだろう。

与賀が龍造寺エリアならば、少弐を迎い入れる為に与賀城を龍造寺が造ったという記述には妥当性がある。
困惑するのは、与賀神社にある境内社「少弐神社の由緒書」では、少弐政資が与賀城をビフォーアフターしたとされてることです。
湊を津へとグレードアップし津町へ禁制を出したと由緒にある。

ところが佐賀市史では、津の命名こそ少弐になってるものの、津町への禁制は龍造寺が出した事になってる。

あ、いま思いついた。
「今までの記事は少弐神社の由緒書が典拠だ」と入れればOKじゃん(・∀・)ピコーン★!

良かった・・゜・(つД`q。)・゜・自己完結~~これで記事やりなおししなくて済む(←気持ち的な落としどころ)

ところで、佐賀市史と神社の由緒・・・・どっちが正しいのだろうか・・
佐賀市史の典拠は江戸期二次史料です。
神社の由緒が一次史料典拠なら、与賀城に関する記述は少弐神社に軍配があがる。
(ただし由緒を補完する他史料がないので、100%史実認定は厳しいかも)

実のところ「与賀庄が元から龍造寺エリア」という大元の部分をシオは疑ってます(爆

①与賀が龍造寺エリアの場合⇒没落した少弐を受け入れ支援した忠義の家
(それを滅ぼそうとした少弐って酷い!の意が含まれる)
②与賀が少弐エリアの場合⇒⇒主家が衰退した隙に与賀を侵食した龍造寺がチャッカリしてる

自分は少弐神社由緒に②のパターンを混ぜ込んで考察してました。
「与賀大明神御鎮座記」によると建長2(1250年)の時点では、少弐氏2代目・少弐資能が地頭として少弐神社の鐘を鋳造し寄進してます。
龍造寺が龍造寺村地頭になったのが、文治元年(1185)。
村中城という由来は「龍造寺村の中」の意。

鎌倉時代は少弐が与賀の地頭だった・・・室町初期の動乱のなかで、少弐氏が没落。
一方で台頭したのが龍造寺で、室町後期に名前が出るのが13代目・龍造寺隠岐守家氏。
長生き剛忠(家兼)の祖父なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

13代目は、亡命してきた少弐教頼を受け入れ与賀の館を造って迎い入れた人物。
室町後期~戦国初期に、少弐と所縁が深くなるのは、この13代目・龍造寺家氏からなのよね。
むろん、このころすでに与賀庄は龍造寺エリアだったのだろう。

というのは、龍造寺が与賀庄をゲッツしたのなら、
少弐(鎌倉期与賀地頭)が衰退した室町初期の頃になるはずだからです。

さすがに、そこまで論文に盛り込もうとは思いません^^
考察を重ねた推論なので典拠ゼロですもん^^;

与賀庄を龍造寺がゲットしたのが、いつごろなのか?
それが自分の中で4年前からの疑問だったんですが、
佐賀市史と龍造寺文書から手繰っていくと、室町初期には上手いことやってったって事になるwww

ただ、そうなると少弐政資の功績を記述した少弐神社由緒書と矛盾してくるんだよな~
とはいえ、少弐政資が少弐中興に成功するまで、龍造寺が何らかの寄与してたのは間違いないだろう。




あ~~やっぱ、こうやって記事に書いてくと、推考・考察がまとまるわ~~
あとは、どうやって序論・本論と盛り込んでまとめるかだな~~
詰め込みすぎて「こいつ何が言いたいんだ?」ってならないようにしなきゃだし・・・

通説と(気持ち的に)折り合いつけたので、またジックリ取組みます♪ヽ(*´∀`)ノ
あ、記事再開は論文が落ち着かないと、年代が全然違うんで同時進行無理~~
もうしばらく肥前戦国史記事は、お休みしますので、何卒ご了承くださいm(__)m

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プチ挫折・・・あぁ、与賀城や、与賀城よ・・・(´;ω;`)ウッ

連休中に論文にとっかかろ~
その前に佐賀市史と県史を確認確認と、まずは市史を楽しく読み進んでたんです(*´ー`)フンフンフン~~♪

そしたら、与賀城の記述の下りまできたら、思考がストップ。

今の今まで、少弐氏が築城してたと思ってた与賀城(現:龍泰寺)・・・
それが龍造寺家氏が、少弐教頼を迎い入れる為に用意した館、と佐賀市史に記述されたんです。

ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ×MAX100倍α的な?

Q・なぜ、佐賀城から数百mの場所に少弐が築城したのか不思議でした。
A佐賀市史・龍造寺が少弐のために築城・・元から龍造寺の城ですよ^-^

Q・少弐が衰退して佐賀郡から神埼郡に移転した後の与賀城は?
A佐賀市史・龍造寺の城ですから、龍造寺一門が城主ですよ^-^

佐賀市史(それが何か?)
・゜・(PД`q。)・゜・  ・゜・(PД`q。)・゜・  ・゜・(つД`q。)・゜・ もはや号泣・・・
与賀城に関する自分の考察は根底・根幹から崩れますた・・(茫然)

佐賀市史の出典は、藤龍家譜で江戸期二次史料なんですが、そもそも与賀城に関する一次史料が絶無に近い状態なので、与賀城の考察は佐賀市史が通説です。

とにかく大元が違ったので、新たに脳内整理するのにプチパニック(@@)
過去記事の方は、すでに相当の字数を割いているので、加筆でどうにか修正できる状態じゃありません。・゜・(PД`q。)・゜・
かといって、今更二年分の過去記事すべてを書き直すこともできない ・゜・(PД`q。)・゜・  ・゜・(PД`q。)・゜・

あぁ・・・いっそ全て記事をやりなおし・・・(._+ )☆\(-.-メ)オチツケ
亜ぁ…書庫うぉずべて非公開に・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメナサイネ
ちょっと、ショック過ぎて、いまは冷静な思考力を失ってます(´;ω;`)ウッ

こんなのは序の口・・・古文書を読み下していけば、後から判った~が今後も出るのは必至。
一々動揺しないでタフにならねば。。。と頭ではわかってるんです。
でも気持ちと、資料整理がおいつかない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

新たに収集した年表を入れて、再考察しないとなんで、肥前史がプチ挫折状態です。
今は年表の手直しに追われてます アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

論文のテーマは変化なしですが、序論・本論と考えてた内容を一部変えないとならないので、
色々頓挫してます ( ̄ω ̄A;アセアセ
正直、かなり動揺してまして、龍造寺隆信歴史記事再開も目途が立たない状況です。
とりあえず年表修正を進めていくなかで整理したいと思います。

動揺しすぎて佐賀市史が脳に浸透してないので、またシオ的衝撃部分から読み直さねば・・・
あ!
佐賀市史で[間違い]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケン

肥前千葉氏初代・宗胤は、千葉県の千葉本家嫡男なのに、佐賀市史では次男って間違ってる。
自分も間違った私年号・永亀を、佐賀市史でも文亀年間と解読間違いしてる~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

細かい間違い探しして、溜飲下げる未練がましい自分・・・il||li _| ̄|○ il||l
小城のデータを調べれば、一発なのにな~
佐賀市史も他市町村とデータ連携してないのね・・・|佐賀市史|_ ̄)じぃー

それはそれ、これはこれ、与賀城の佐賀市史通説は動かないのだ・・・il||li _| ̄|○ il||l

また佐賀市史&県史から衝撃受けて愚痴・・もとい訂正記事が入るかもだが、ガン( ゜д゜)ガレ

それは・またの話 by(T^T)sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【河川から見た水ヶ江城・後編】

国人領主が被官から自立した勢力に成長(戦国大名化)するには、「津(港)」が必要というのは、あくまでも肥前の場合です。
例えば甲斐国のような山国では適用しないと思います。

肥前における物資流通で河川を使った舟便は欠かせません。
何故なら、満干潮による河川逆流現象で浸水被害が必ずあるため「安定した陸の輸送」が困難だったからです。
逆を言うと肥前において一定の勢力がある国人領主は、物資流通の要である河川港か河口港を何らか形で保持してたんじゃないでしょうか。

龍造寺初期台頭時代は、位置的に八田江川流域にあった八田橋の津を利用してたと推測出来ます。
剛忠(家兼)の代で勢力拡大し、少弐氏が開港した今宿・今津・相応津は龍造寺が支配下に治めた・・・と思う。
思う~~になるのは、剛忠(家兼)が兵馬を用いず政略結婚などで「周囲の豪族を手なずける」という長いスパンをかけたからです。

剛忠(家兼)という人物は、とても強かで、凄く慎重で、相当に用心深い。
自分の調べた範囲ですが、剛忠(家兼)の方から大内氏に接触した事はないでしょう。
(和睦の仲介を「大内の方から」頼まれた事はある)
でも少弐の資産だった今宿・今津・相応津(周辺領地含む)を支配下に治める行為は、
龍造寺が「主君に対する重大な裏切り」を働いた証です。
剛忠(家兼)も、それを判ってるから少弐に気付かれないように、ゆっくり、じんわりと勢力を広げてた。
勢力拡大の分岐点は、鍋島様の赤熊武者が活躍し龍造寺の武勇を肥前中に轟かせた「田手畷の戦い」です。

相応津・今津を支配したのは、肥前石井氏が龍造寺家臣になった頃(田手畷合戦以降)になると思います。
剛忠(家兼)は肥前石井氏に海岸警固を命じてます。
当然、警固対象には河口港である今津と相応津が含まれます。
何故なら肥前石井氏の飯盛城は、今津と相応津の中間地点に位置してるからです。

今宿が龍造寺勢力圏に入ったのは、シオ推測で1536年の少弐資元自害以降。
この時に蓮池城の肥前小田氏が「御父上(資元)が自害になったのは、龍造寺が裏切ったから」と、少弐冬尚に讒言してるからです。

佐賀江川流域が勢力圏だった肥前小田氏にとっても、今宿は喉から手が出るほど欲しかった河川港だったはず。
ショートカット工事前の佐賀江川は、物凄く蛇行してて浸水被害も広範囲。
戦国期は大きな津を作るほどの治水土木技術が未だ追いついてません。
治水の神と称えられた成富茂安ですら「佐賀江川の蛇行には手をつけるな」と遺言してたほどです^^;
従って肥前小田氏は、佐賀江川と八田江川の分岐点である河川港・今宿に、物資流通ライフラインを依存してたでしょう。
今宿には商人たちが移り住み後世の繁栄を予測させる商業圏が育ちつつありました。
運上金とかの利権が絡んできまつよね・・・( ̄ko ̄)
肥前小田氏と龍造寺は、今宿の支配を巡るライバルだったと思います。

その肥前小田が龍造寺を讒言するって事は、今宿が龍造寺勢力圏に入って、経済的に肥前小田を脅かす危機が高まったからじゃないでしょうか。
少弐資元自害で少弐がゴタゴタ混乱してる頃なら、龍造寺が今宿をゲットする絶好のチャンスですよね(^ -)---☆Wink

神埼に拠点を移した少弐氏は佐嘉郡に目が行き届かなくなり、龍造寺の勢力拡大に対する認識が遅れたと思います。気づいていても大内へ対抗する為には「龍造寺の武勇」が必要で、切り捨てる事が出来ませんでした。
ジレンマの果てに我慢の限界に達し、馬場頼周立案「龍造寺抹殺計画」が遂行されます。


さて、
剛忠(家兼)がリフォームした水ヶ江城は、クリークを利用しており5つあった館(曲輪)は、それぞれ独立してたそうです。
その為、5館全部を合わせた広さは30町(約3.3km)という広大さでした。( ゚д゚)ンマッ!!

無数にあるクリーク。広大な場所にある独立した各館。
火縄銃・大砲のない時代なら充分に「攻めづらい城」です。

少弐氏が剛忠(家兼)を裏切り水ヶ江城を囲んだ時に、万単位の兵力を揃えたのは数の盛りじゃないでしょう。
この広さなら、そのくらい要ります~本館だけ囲むって都合良くいかないですもん~( ̄ω ̄A;アセアセ
それを思うと、少弐が有馬と組んだのも、万単位の軍勢が必要だったからだったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

いや~面白かった~
地形と城って密接な関係があるんですが、肥前は独特ですね。
パッと見は無防備そうに見える平城でも、戦国当時は城周囲がクリークや湿地帯で守られてて、敵が簡単に攻略できないように工夫されてるんです。

これは干拓・灌漑・護岸工事が終わった平成現代の地図からでは、イメージ出来ません。
戦国時代の海岸線・河川蛇行・逆流現象浸水被害の範囲・クリークの有無が予備知識として必要になります。
もちろん周辺にある山の標高とかも必要なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
地理嫌いだったので初めは大変でしたが、今は楽しく地形を調べてます^^
西肥前の河川も順次リサーチ中ですので、そのあたりも愉しんで頂けるように精進したいと思います。

末筆ですが、ブロ友様へ~水ヶ江城をリサーチするヒントをありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げますm(__)m

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
381位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
56位
アクセスランキングを見る>>