【肥前・今川⇒⇒持永氏】
清和源氏今川氏流~実は持永家は超ぶっちぎり名門・今川家の庶流の、そのまた末裔で系図はガチです。
そもそも今川家は「足利将軍家の血統がヤバくなったら、吉良さんとこ、吉良さんとこが該当者無なら今川から将軍ネ」と言われた足利准一門。
今川という苗字も「今川家オンリーワン」で他所が使っちゃダメぉ~と足利将軍家から認められているほどです。
時は南北朝時代から室町初期~
九州は南朝ブッチギリ、既に室町幕府が開幕してるんだが「そんなん知るか」とばかりに勢い盛ん。
コネ(叔母が室町将軍家に嫁いだ)で九州探題になっただけの渋川義行(18歳)が、任地下向不可なほどだった。
それで「僕ちゃん渋川」は解任、変わって室町幕府から指名抜擢されたのが、名将の誉れ高い「今川貞世入道了俊(範国次男)
んで、肝心の持永氏の祖は今川貞世の弟・仲秋ですが、兄・貞世に従い一緒に九州へ下向。
有能すぎた兄・貞世は九州南朝を鎮圧したものの、やりすぎて九州の大名たちと不和になり、
さらには室町幕府からも勢力を警戒されて九州探題を解任。
兄を支えた仲秋も、一緒に駿河へ帰りましたが、仲秋の子・国秋が、そのまま九州に土着し肥前今川氏の祖となったんです。
肥前今川の本拠地は小城郡中郷にある牟田城。
肥前千葉氏は九州探題渋川満頼(今川貞世の無難な後任)と、親戚の今川国秋にコンタクトをとり、
= 応永11年(1404年)~少弐氏を撃破 =
肥前千葉・渋川・肥前今川連合軍の勝利となったのですが、今川国秋が戦死しちゃいます。
肥前今川にとって不幸だったのは、肥前千葉氏の内紛に巻き込まれたことです。
国秋の後を継いだ今川国治は、肥前千葉の内紛に関わり弟支持派でした。
一時は千葉氏兄が追放されたけど、家臣らが反撃に転じて盛り返し千葉弟は討死。
その争いで弟派だった今川国治と息子も討死し、肥前今川領の佐嘉・杵島の両郡は押領されてしまった。
父と兄が戦死したため衰退した肥前今川ですが、弟の胤秋が千葉氏のバックアップ(胤の字を偏諱)で与賀・川副両郡の地頭として復活。
寛正六年(1465)~大内と渋川は今川胤秋が小城郡に攻め込もうとしているといううわさを流した
これを信じた千葉教胤の家宰中村胤頼が佐嘉郡新庄にあった今川館を攻撃~今川胤秋らはこれを迎え撃ち、激戦の末に双方とも兵を引いた
文正元年(1466)~千葉教胤はふたたび今川胤秋を攻撃
応仁元年(1467)~今川胤秋は今度は九州探題渋川氏と結んで肥前・千葉氏の小城に進攻~渋川・今川連合軍の敗戦
今川胤秋は弟胤弘とともに戦死~肥前今川一族瓦解!所領は全て肥前千葉氏に奪われる!
今川胤秋の子義秋は勢力回復を狙って旧臣を集めて挙兵。
だが肥前千葉氏の前に敗れ、肥前今川氏の嫡流は断絶した。
肥前千葉氏は、今川義秋の叔父にあたる今川秋秀を召し出し肥前今川の名跡を継がせた。
それ以降、今川秋秀の子孫は肥前千葉氏の家臣となり、今川秋秀の子・秋景は名字を今川から「持永」に改めた。
持永秋景の孫にあたる・盛秀、茂成が勇将で戦国の荒波の中で持永の家を保った。
持永家は肥前千葉が衰退すると竜造寺へ、竜造寺が衰退すると鍋島家に仕え近世へと続いた。
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自分は嫡流が滅んでも、本貫地や所領を失っても、生き残っていれば「零落した」とは思いません。
家名を残すこと自体が凄いことだと思います^-^
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