亀裂




文禄4年(1595年)1月・・・朝鮮にいる相良頼房の元へ「石田三成家臣・黒川右近が検地の為に下向した」旨が伝えられた。

相良家も島津家と同じく、当主が朝鮮出兵で留守の間に検地が実行されたようだ。

その時に主君・頼房は、犬童頼兄を帰国させている。

どうやら前年の竹下監物(深水一族)誅殺以降、深水一族と犬童一族の対立は如実化しており、

それを懸念した頼房が、頼兄を帰国させたらしい。

石田三成家臣・安宅秀安は5月に犬童休矣へ下記のように伝えた。

(安宅秀安~石田家において主に島津・相良との折衝にあたった家臣)
「頼房の在陣は大事(竹下監物誅殺)の前のこと。

犬童休矣・頼兄父子と深水織部・頼蔵父子の諸事に渡る熟談を勧める。

両者の対立は大人げなく、第一に頼房の為にも宜しからず、

検地の実施に於いても、休矣・織部(ダディ同士)で熟談の上で、頼兄を上方に差し向けたのであろう。

そうでなければ、三成も非常に心配している」

相良家中における深水一族と犬童一族の相克は奉行たちの耳にも達しており、相良の御家取り潰しの可能性が示唆されていたらしい。

文禄4乙未年(1595年)黒田甲斐守(長政)が帰国し、その陣所が空いたので(相良頼房は)そこに移って翌申年まで在番した。

そのうちに、清正の陣に自分勝手な振る舞いが秀吉の耳に入ったので、その申し開きのため清正は帰国した【※】。

頼房も翌年5月に帰国し、直に京都に上り、太閤秀吉にお目見えのうえ事情を説明して、同年9月に球磨郡に帰着した。

(出典:南藤蔓綿録)

【※】清正の帰国

明との和平交渉について、小西行長・石田三成らから弾劾された清正は、秀吉の怒りをかい、
慶長元年(1596年)6月に帰国を命じられ、京都伏見屋敷に謹慎となった。

朝鮮から帰国してるのに、地元の土を踏まずに自ら京都へ報告・・・律儀なんだなぁ。

いや、そのくらいしないと宮仕えは務まらないか・・・。。。( ゚Д゚)y─┛~~

とにかく相良勢は9月にやっと故郷に戻り、戦塵の垢を落とし、マタ~リお茶 ~~旦(-^ )頂きます♪

じゃなくって、その前に出陣前に参詣した社に御礼参詣デショ! (._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

母上(義陽の正室)&ママン(生母)に帰国の挨拶した?
留守中の検地の報告に目を通して! アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

忙しいながら、日常を取り戻しつつある時に「事件」が起きた。

慶長元年(1596年)10月13日~深水頼蔵が加藤清正の元へ出奔!




(監修様作画による、深水頼蔵と犬童頼兄のイメージ画像)

深水一族と犬童一族の確執は、抜き差しならぬものとなり、ついに最後の一線を越えて「頼蔵出奔」に至った。

深水頼蔵の実父・深水織部も息子に続いて出奔。

[球磨]ε=ε=(* ̄ー)ノノ[佐敷(現:熊本県葦北郡芦北町)]に住んだ。

家老の犬童頼兄は、頼蔵・織部の妻子を捕えて監視させたが、これに深水一族は反発。

恨みから町屋を殺掠する事件にまで発展する(犯行に及んだ9人が討ち取られ、残りは逃亡)。

また頼蔵の移り住んだ佐敷が深水氏縁故(★)の土地であった為に、

出奔を企てる深水一族が後を絶たず、犬童頼兄はその通路に待ち伏せさせ、一挙に73人を殺害した。

(★葦北は亡き深水宗芳(頼蔵の叔父で養父)が、豊臣秀吉に抜擢されて郡代官を務めた地です)

相良頼房は朝鮮の役で、加藤清正の陣に所属した。

頼房が国境の城を守り抜いたことに感動していた清正が、相良家を出奔した深水頼蔵・織部親子を匿った。

これは加藤清正と石田三成の確執・政争が絡んでしまった事によるらしい。

朝鮮でも加藤清正は(頼房が戦死した)と、早とちりしたりするあたり、意外と思い込みが激しいっぽい。

深水親子と対立している、犬童頼兄に「大嫌いな石田三成が肩入れしている」とでも思ったのだろう。

あるいは深水頼蔵が清正に対し、そのようなことを言外に匂わせたかもです。

相良家の検地は石田三成(正確に言うと家臣を派遣)が行っており、その時期に頼兄も帰国してるので、

傍から見れば「一連ナカマ!((( ^-^)爻(-)))ナカマ!托生」に感じたかもです。

主君・頼房が案じて頼兄を帰国させたのに、既に関係が拗れまくってたので、悪意でしか物事を判断できなくなってた。

一族が殺されたことを知った頼蔵は「頼兄の深水一族への行為は私怨によるものである」として石田三成に訴え出た


相良家中の争いが「公儀の俎上」に乗っただが それは またの話^-^

記事で使用の画像についてはコチラ
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/3214393.html
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【肥前・今川⇒⇒持永氏】

清和源氏今川氏流~実は持永家は超ぶっちぎり名門・今川家の庶流の、そのまた末裔で系図はガチです。

そもそも今川家は「足利将軍家の血統がヤバくなったら、吉良さんとこ、吉良さんとこが該当者無なら今川から将軍ネ」と言われた足利准一門。

今川という苗字も「今川家オンリーワン」で他所が使っちゃダメぉ~と足利将軍家から認められているほどです。

時は南北朝時代から室町初期~

九州は南朝ブッチギリ、既に室町幕府が開幕してるんだが「そんなん知るか」とばかりに勢い盛ん。

コネ(叔母が室町将軍家に嫁いだ)で九州探題になっただけの渋川義行(18歳)が、任地下向不可なほどだった。

それで「僕ちゃん渋川」は解任、変わって室町幕府から指名抜擢されたのが、名将の誉れ高い「今川貞世入道了俊(範国次男)

んで、肝心の持永氏の祖は今川貞世の弟・仲秋ですが、兄・貞世に従い一緒に九州へ下向。

有能すぎた兄・貞世は九州南朝を鎮圧したものの、やりすぎて九州の大名たちと不和になり、

さらには室町幕府からも勢力を警戒されて九州探題を解任。

兄を支えた仲秋も、一緒に駿河へ帰りましたが、仲秋の子・国秋が、そのまま九州に土着し肥前今川氏の祖となったんです。

今川国秋は肥前千葉氏・胤泰の孫にあたります

今川範国⇒⇒嫡男・範氏、次男・貞世、★3男(?)仲秋

★今川仲秋⇒国秋⇒国治⇒胤秋⇒義秋

肥前今川の本拠地は小城郡中郷にある牟田城。

肥前千葉氏は九州探題渋川満頼(今川貞世の無難な後任)と、親戚の今川国秋にコンタクトをとり、

= 応永11年(1404年)~少弐氏を撃破 = 

肥前千葉・渋川・肥前今川連合軍の勝利となったのですが、今川国秋が戦死しちゃいます。

肥前今川にとって不幸だったのは、肥前千葉氏の内紛に巻き込まれたことです。

国秋の後を継いだ今川国治は、肥前千葉の内紛に関わり弟支持派でした。

一時は千葉氏兄が追放されたけど、家臣らが反撃に転じて盛り返し千葉弟は討死。

その争いで弟派だった今川国治と息子も討死し、肥前今川領の佐嘉・杵島の両郡は押領されてしまった。

父と兄が戦死したため衰退した肥前今川ですが、弟の胤秋が千葉氏のバックアップ(胤の字を偏諱)で与賀・川副両郡の地頭として復活。

ところが肥前千葉の弱体化を狙う大内政弘・渋川教直が悪巧み


寛正六年(1465)~大内と渋川は今川胤秋が小城郡に攻め込もうとしているといううわさを流した

これを信じた千葉教胤の家宰中村胤頼が佐嘉郡新庄にあった今川館を攻撃~今川胤秋らはこれを迎え撃ち、激戦の末に双方とも兵を引いた

文正元年(1466)~千葉教胤はふたたび今川胤秋を攻撃

応仁元年(1467)~今川胤秋は今度は九州探題渋川氏と結んで肥前・千葉氏の小城に進攻~渋川・今川連合軍の敗戦

今川胤秋は弟胤弘とともに戦死~肥前今川一族瓦解!所領は全て肥前千葉氏に奪われる!


今川胤秋の子義秋は勢力回復を狙って旧臣を集めて挙兵。

だが肥前千葉氏の前に敗れ、肥前今川氏の嫡流は断絶した。

肥前千葉氏は、今川義秋の叔父にあたる今川秋秀を召し出し肥前今川の名跡を継がせた。

それ以降、今川秋秀の子孫は肥前千葉氏の家臣となり、今川秋秀の子・秋景は名字を今川から「持永」に改めた。

持永秋景の孫にあたる・盛秀、茂成が勇将で戦国の荒波の中で持永の家を保った。

持永家は肥前千葉が衰退すると竜造寺へ、竜造寺が衰退すると鍋島家に仕え近世へと続いた。

***********************************************

自分は嫡流が滅んでも、本貫地や所領を失っても、生き残っていれば「零落した」とは思いません。

家名を残すこと自体が凄いことだと思います^-^

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【渋川氏】

フィールドワーク:筑前国

清和源氏足利氏流で、この系譜から「畠山氏」「吉良氏」「斯波氏」「渋川氏」が出ます。

室町二代将軍足利義詮に娘が正室となったことから、渋川氏は重用されるようになります。

1365年(正平20年)~伯母にあたる2代将軍正室の引き立ててで、渋川義行は18歳の若さで九州探題に抜擢されました。

当時は未だ南北朝の争いが治まらず、九州は南朝が圧倒的に優勢。

そのため渋川義行は九州探題でありながら、九州の地を踏むことなく5年後に九州探題を解任。

失意のまま出家し28歳の若さで没する。


渋川の後任に今川了俊が任命されたが、有能すぎて色々やりすぎた( ゚д゚)ンマッ!!

室町幕府に警戒されて解任~~~後任の九州探題に渋川義行の息子・渋川満頼がなる。

だが九州探題の存在は、九州の大名たちには快いものではなく、少弐氏を始め反発する。

そんな渋川満頼を支えたのが中国地方の大内氏。

これがやがて大内VS少弐に発展していく。


1423年(応永30年)~渋川義俊(渋川満頼の子)は少弐満貞に敗れ、博多を追い出される


室町幕府は筑前を直轄領とし、大内氏をその代官に命じた。

ここに大内氏は晴れて九州介入の大義名分を得る。

少弐氏は大友氏と結んで大内氏に抵抗した。

博多を追われ肥前国に逃れたた渋川義俊は、大内氏を頼って再起を企てた。



1428年(正長元年)~渋川義俊は従兄弟の渋川満直に九州探題職を譲り、満直は肥前守護に任じられた


ただし大内氏の傀儡に過ぎず、実権は無し。

1434年(永享6年)~少弐の横岳頼房に攻撃され肥前国神埼郡で渋川満直は戦死した


これにより九州探題渋川氏の権威は完全に失墜~渋川氏は東肥地方の一領主として大内氏の配下になりさがった。
(一応名目上として九州探題の地位は、その後も渋川氏が任じられてます)

1467年(応仁元年)~「応仁の乱」が起きる


大内と少弐の争いは激化し、渋川は大内サイドとして自領の維持だけで手一杯の状態。

渋川氏、最後の当主は渋川尹繁(しぶかわ ただしげ)


兄の万寿丸が家臣の裏切りによって殺された為、家督を継ぐ。

ぐだぐだ部分は略。

少弐と大内の争いは竜造寺一門の活躍で、一時期は少弐が優勢だった。

そのため渋川尹繁は大内サイドから、少弐サイドを鞍替え~[大内]ε=ε=(* ̄ー)ノノ[少弐]

1534年(天文3年)~大内軍によって綾部館を攻められ渋川尹繁が自害~渋川氏滅亡




天正年間より、明応とか永正とか文明年間が面白くなってる今日この頃です~( ̄ω ̄A;アセアセ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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