君は良い友人だったよ。だが君の父上がいけないのだよ・・・by初代藩主・忠恒
慶長5年(1600年)3月に、徳川家康の仲裁で降伏した伊集院忠真(いじゅういん ただざね)。
彼の降伏によって「庄内の乱」は鎮圧された。
伊集院忠真は都城から帖佐2万石へ移動となったのだが、実際には領地には赴かず島津義弘の屋敷にいた。
というのも、忠真は義弘が溺愛する次女・御下(おした)と結婚していたので、義弘の保護下に置くという名目で、厳重に監視されてたのです。
忠真と御下の間には1子・千鶴姫が産まれてるので、夫婦仲は悪くはなかったと思う(むしろラブラブ)
御下は乱の間も父・義弘の元へは戻らず、夫・忠真の側に留まっている(男親てのは寂しいもんだ)
が、忠真は大人しくしてなかったらしい。旧領の都城の回復をあくまで狙ってた(元々の本貫地は伊集院なんだが)
忠真にすれば、殺された父に対する「不忠者」の汚名を晴らしたかったのだろう。
だから父が拝領した「都城」に拘ったのではないだろうか。
忠真は「庄内の乱」で食糧支援をしてくれた加藤清正に「旧領地回復のための助力を願う手紙」を出している。
この手紙は加藤清正には渡らず、ビビった使者が島津忠恒に渡してしまう。
なにやら出来すぎた話で、このあたり島津に都合の良い情報操作があったかもです。

島津十字
じりじり焦る忠真のもとに「石田三成挙兵」の話が耳に入る。
旧領復活のチャンス!!忠真,行きまぁぁぁ~~す!
義久(よしひさ・前当主で義弘の兄)行かせてたまるかァァ
伊集院家は石田三成と親しいので、参陣するなら西軍になるだろう。
「庄内の乱」で8千を集めた伊集院家だ。降伏で勢力が衰えたとはいえ、1千くらいは集められるのではないだろうか。
(伊集院氏は島津家の支族でして、家臣団の中でも最も構成人数が多い一族、その数は伊集院本家・分家・庶家合わせて30家以上)
三成も島津(の中の伊集院)をあてにしてたので、余計に義弘の兵力の少なさにガッカリしてしまったのだ。
が 伊集院が関が原で活躍し旧領復活したら、島津宗家の面目丸潰れ、家中の分裂に歯止めがかからなくなる。
前当主・義久は島津本軍を本国に留め、伊集院が動こうとするのを全力で阻止したのだ。

島津忠恒(ただつね)イメージ画像
忠恒に殺された家老・伊集院忠棟(忠真の父)は、早くから豊臣政権に積極的に近付いていた。
島津VS秀吉の「根白坂の戦い(天正15年/1587年)では、利敵行為ともとれるサボタージュをしてます。
この戦いで劣勢に焦った義久の孫が無理な突撃をして戦死しています。
伊集院忠棟は「島津家のため」と思っていても、とうの島津宗家にとって豊臣政権に近づきすぎる家老などは「獅子身中の虫」でしかない。
そして「宗家に歯向かい乱を起こした伊集院忠真」も、父・忠棟同様に「赦すべからざる人物」だった。
慶長7年(602年)「関ヶ原の戦い」で西軍だったことの謝罪のために、忠恒は伏見へ上洛することになり、忠真もこれに従っていた。
しかし忠真は忠恒に狩り誘われ、日向野尻で鉄砲の「誤射」により死亡してしまう。
忠真の死は、表向きは「誤射による事故死」として処理され、忠真を撃った藩士は切腹してますが、これは忠恒が命じた上意討ちです。
なぜなら忠真の弟たちが、それぞれ別の屋敷に預けられたにもかかわらず、同日に全員殺されているからです。
それだけでなく、養子縁組などで家名を継がせないためでしょう、忠真の母親まで殺されてます。
さらに忠真を撃った藩士も、孫の代だったかで以前より高い身分で復活してるんです。
= 哀れ御下姫・・・華の盛りに未亡人(;;) =
伊集院の遺児である千鶴姫が尼寺に行くこともなく、母親の御下姫の手許に残すことができたのは、
末娘の御下を溺愛していた義弘が健在だったからでしょうし、
もしかしたら義弘は「御下(娘)と千鶴(孫娘)の無事を条件」に伊集院の始末を黙認したのかもしれません。
そして未亡人となった御下は、島津家の幕府に対する人質として江戸へ行くことになります。
ウィキペディアで検索すると出てくる「薩摩藩は参勤交代にいちはやく呼応し~」ってあるのは御下のことです。
忠恒は長い旅に出る妹に手紙を出してます。
忠恒~30代以上続いた島津家が(鎌倉の頭デカい人からカウント)こんなことになるとは思いもしなかったよ~女の身で良く決意してくれたね~ありがとう!!頑張ってね!
愛娘と離れ離れの猛将・義弘は涙目(@@)心配し、たびたび手紙を出してます。
御下姫[お父様^^私も娘も元気よ~最近、屋敷でワンコを飼ってるのよ♪]
なんてやりとりをしてる。
静かに暮らしてた御下姫だが、兄であり藩主の忠恒の命令で、娘・千鶴姫の婚儀が決まる。
愛娘と別れるのは辛いが、反乱を起こし殺された伊集院の血を引く娘が、兄の養女として晴れて譜代大名の家に嫁ぐのだ。
嫁ぎ先で疎略にされることはない。と、自らを慰めた。
さらに御下の元へ父・義弘の病の知らせが届く。慌てて幕府の許可をもらい薩摩へ戻ると、
父・義弘は既に亡くなっており、葬式までもが終ってた。
・゜・(PД`q。)・゜・お父様~~~歎く御下に兄の忠恒が云う。
忠恒[御下,お帰り~お前に良い再婚話があるんだよ~島津久元~知ってるよね!]
御下[ええ?!この話は平成じゃないのよ~アラフォーで再婚って・・てか相手は奥様いるでしょ]
忠恒[ダイジョウブ!!離婚することになってるから!!]
御下[~--------------!!! ]
実は再婚相手の方の奥方は、亡くなった義弘の忠臣として名高い新納(にいろ)さんの娘。
忠恒は義弘系家臣を自分に付けるために政略結婚を仕組んだのです。
島津久元はイヤも応も無い、忠恒に逆らう者は薩摩藩お家流~示現流創始者・東郷重位の刀のサビ(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
泣く泣く妻と離婚して御下姫と再婚です(--;;)
人質として江戸にいた御下が薩摩に戻るんで人質変わります^^;
今度は、忠恒・御下兄妹の「母方だと叔父の孫」で「父方だと従姉の孫」にあたり、
さっき話した「根白坂の戦いで戦死した義久の孫の忘れ形見」でもある、
まぁ、簡単に言えば「日置島津家の若様」が人質として江戸に行きます^^;;
こんなややこしい人選になったのは、藩主である忠恒と正室・亀寿の間に子供がいないせいでもありますが、それは・またの話(^-^sio)
テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術