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【御家騒動】薩州島津家7・栞歴15

宗家の座を巡って争う惣領五家~総州家(滅亡)・奥州家(=宗家)・相州家・伊作家・薩州家

記事内呼称簡略ルール::家名+番号(〇代目)+名前(諱)

例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
早わかり家系図(主要メンバーのみ抽出)◆別記系図~★現当主

島津奥州家=宗家⑧久豊の子供たち
 長男(庶子)用久(薩州①)⇒国久(薩州②)⇒重久(薩州③)⇒★忠興(薩州④
◆嫡男・忠国(宗家⑨)
 3男・季久(豊州①)⇒忠廉(豊州②)⇒★忠朝(豊州③)
 4男・有久(羽州①)⇒忠福(羽州②)
 5男・豊久(伯州①)⇒忠常

◆島津宗家⑨忠国⇒長男(庶子)★友久(相州①)⇒運久(相州②)
        ⇒嫡男・立久(宗家⑩)⇒★忠昌(宗家⑪)⇒忠治
        ⇒3男・★久逸(伊作⑧)⇒善久(伊作⑨)

戦国時代の人間に「今は戦国時代」という自覚は無いだろう。

「戦国向きじゃない」と後世の人たちに言われても、当の本人は真剣なんです。



第二次飫肥の役(1485年)に大敗北した伊東尹祐は、復讐に燃えて虎視眈々~

1495年(明応4)~島津宗家⑪忠昌は、しつこい伊東の報復を恐れ(日向)三股一千町を割譲して和睦した

だが、今度は伊東との和睦に分家・北郷(ほんごう)が不服~リベンジに燃えて忠昌の言う事聞かない件~


同年7月5日~島津家老・村田経安が謀反~忠昌により誅殺される


村田経安の子・経堯は(肥後)菊池氏へ出奔、宗家⑭勝久の代になって復帰、孫の経定は、宗家⑮貴久と宗家⑯義久の代で家老なってます。

同年?月?日~島津家老・平田兼宗が謀反~忠昌は豊州③忠朝に鎮圧を命じる


豊州③忠朝は、兼宗の居城である大隅岩弘城を攻略。この功績により大隅串良の領土を安堵される。

1496年(明応5)7月20日~忠昌の舅(正室・天真夫人の父)大友政親が処刑される


親子で揉めてた大友家だが、息子は13歳で早逝(父が毒殺説あり)し、ご本人も筑後へ逐電し逃亡中に捕えられて処刑されたんです(大内義興が裏で画策)

あぁ・・・忠昌の正室・天真夫人~実家が遠くなりにけり~~~おそらくダーリン・忠昌が慰めたことでしょう。

1497年(明応6)9月11日~(慰めた結果?)忠昌と天真夫人との間に次男・忠隆(宗家⑬)が産まれる

1499年(明応8)?月?日~薩州家②国久(59歳)が死亡





国久の死後、薩州家では家督を巡って御家騒動があった・・・のは確実。

なんだが、中身がヽ(。_゜)ノ へっ?ワカラナーイ~

3代目は重久(後に成久)なんだが、生年も没年も不明なマイナーぶり。

ただ、14年前の1485年(文明17)に、重久が東郷氏の高城水引を侵略し、東郷の湯田城を落城させている。
(ただし高城は東郷氏が守り通す)

ちなみに薩州家と東郷家は御近所さん^^b だもんで、しょっちゅう揉めてます^^;

後年ですが、ワンコ(犬追物/武家貴族スポーツ)のことで揉めて争ってます~東郷氏は犬追物の名手^^

てことは14年前に重久は成人に達してたってことになる。(てことは国久死亡時で30代後半くらい?)

でもって③重久から④忠興(生年不明)へ、おそらく国久没後に家督が移ってます。
【シオ推測】重久と忠興が親子で家督を争った?
(②国久には③重久の他にも男子がいたし、薩州家にも庶流があるんで、④忠興の対抗馬が担ぎ出されたかも)
皆が書き込むウィキペディアでは「分家を巻き込む騒動」とあるが、巻き込まれたのが伊作⑧久逸。

殆ど出番の無かった羽州②忠福が、そもそも薩州家御家騒動に首を突っ込み、薩州④忠興と敵対したらしい。

で、羽州②忠福に加勢した伊作⑧久逸が、薩州④忠興に攻められ死亡したんです。


ちなみに羽州家ですが、島津四兄弟の頃には宗家に従い、大口城攻略に参加してます^-^

ところが大口城攻防戦は余りにも激戦だったため、羽州家嫡流(③と嫡男)が戦死しちゃって御家断絶ピンチ。

宗家⑯義久の配慮で、女系の孫(男子・東郷氏庶流)を当主にして、永禄年間に大島を領したので「大島島津家」として残りました^-^

で、頼りの舅が血気盛んで戦死しちゃって、嫁で未亡人の常盤が暫定・女当主になったのは前回紹介した通りです^-^


コアマイナーな薩州家③重久だが、彼は歴史に一役買ってます

重久の娘・寛庭夫人は、島津中興の祖・忠良に嫁ぎ、島津4兄弟の父・貴久を産むからです


重久が④忠興当主後も子作りハッスルしてくれないと、寛庭夫人が忠良より「かなり姉さん女房」になっちゃうんで、【シオ推測】が出た^^b

さらに重久の、もう一人の娘が薩州⑤実久に嫁いでいる

実は⑤実久は、④忠興の子・・・つまり実久は実の叔母と結婚したんです(6代目義虎の生母~


シオ推測で重久と忠興が親子バトルじゃないかと、想像したのは娘の嫁ぎ先があったからです。

父と子の和解のために、実の叔母が甥に嫁いだのではないか・・・って考え。

血族婚の多い島津家じゃ「実叔母と甥の結婚」は、不思議じゃないの^-^

つまり宗家の座を巡って争った伊作・島津忠良(4兄弟祖父)と、薩州・島津実久は義兄弟の間柄!~


さて島津宗家は更にグダグダ迷走し、いよいよ伊作島津家が救世主として登場しますが、それは・またの話^-^sio
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テーマ : 歴史
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【魔性?】美女・常盤【女傑?】薩州島津家6・栞歴14

記事内呼称簡略ルール::家名+番号(〇代目)+名前(諱)

例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
宗家の座を巡って争う惣領五家「総州家(滅亡)・奥州家(=宗家)・相州家・伊作家・薩州家」
早わかり家系図(主要メンバーのみ抽出)◆別記系図~★現当主

島津奥州家=宗家⑧久豊⇒長男(庶子)用久(薩州家①)⇒★国久(薩州家②)
           ⇒◆嫡男・忠国(宗家⑨)
           ⇒3男・季久(豊州①)⇒★忠廉(豊州②)⇒忠朝(豊州③)
           ⇒4男・有久(羽州①)⇒忠福(羽州②)
           ⇒5男・豊久(伯州①)

★島津宗家⑨忠国⇒長男(庶子)★友久(相州①)⇒運久(相州②)
        ⇒嫡男・立久(宗家⑩)⇒★忠昌(宗家⑪)⇒忠治
        ⇒3男・★久逸(伊作⑧)⇒善久(伊作⑨)

1485年(文明17)~飫肥城へ出陣する気マンマンだった伊東祐尭(77歳)が清武城で病没~祐国が家督を継ぎます^^

同年「第二次飫肥の役」が起きる。結論から言うと島津の勝利!

伊東軍大敗北~当主・伊東祐国(35歳)が戦死⇒⇒尹祐(ただすけ・18歳)が家督を継ぐ

伊東側の北原氏~9代目・立兼が戦死⇒⇒甥の茂兼が家督を継ぐ

伊作⑧久逸は同じく敗れて降伏~日向・櫛間から撤退し、領地の伊作へと帰る

新納是久~宗家⑪忠昌の援軍に敗れて戦死


新納是久の戦死で困惑したのが娘・常盤だ。

父は伊作⑧久逸と共に、伊東側に与して新納当主・忠続(飫肥城主)を攻撃し、本家と主家に歯向かって死んだのだ。

彼女に実家は無いも同然になった。

たとえ新納家(当主・忠続は彼女の叔父)に戻ったところで、肩身の狭い日々が待っているだけ。

常盤は夫・善久(久逸の息子)に従い伊作へと旅立った。

そして彼女の決断が薩州家の運命・・・いや島津の、てか日本の歴史にすら影響する

絶世の美女・常盤は、伊作の地で「島津四兄弟の祖父にして島津中興の祖・島津忠良」を産むからです





1486年(文明18)~新納忠続に代わって、豊州②忠廉が帖佐から飫肥城に入る


「飫肥城=豊州島津家」となるのは、この年からです^-^

飫肥の役の発端は、共に島津家で味方同士であるはずの新納忠続と伊作⑧久逸が激不仲になったせいなので、やはり新納忠続を飫肥に据え置くのは色々アレでして^^;

1487年(文明19)7月20日~長享へ改元

豊後・大友政親(16代目で父親)と大友義右(17代目で息子)が和解する


この頃の大友家は親子で争いグダグダ^^;

もっとも息子といっても若年ですので、彼を取り巻く派閥が、父親と争っていたのでしょう。

で、なんで大友の話が出るのかといいますと、宗家⑪忠昌は大友政親の娘(天真夫人)と結婚するからです。

「飫肥の役」で敵になった伊作⑧久逸は大友家のバックアップを受けてました。

おそらく大友家との和睦の証として、結婚したのではないでしょうか^^

1489(長享3)2月17日~忠昌の嫡男・忠治が産まれる

同年8月21日~延徳へ改元

1492年(延徳4)7月19日~明応へ改元

同年9月23日~伊作で島津忠良が産まれる(生母は常盤

同年?月?日~豊州②忠廉が死亡~忠朝(生没年不明)が家督を継ぐ

1494年(明応3)~島津友久(相州①)が死亡~運久(ゆきひさ・26歳)が家督を継ぐ

同年?月?日~伊作・島津善久が馬飼の下男に殺される


またまた美女・常盤に悲劇が訪れる。

愛する夫が家臣(とも呼べない小者)に殺されてしまったのだ。

さらに話は飛ぶが頼みとしていた伊作⑧久逸が1500年に死ぬと、忠良が幼少のために未亡人常盤が一時的に女当主となる。

そんな魅惑の未亡人・常盤に相州②運久が言い寄って来た。

忠良の教育に人生捧げよう~と決意してた常盤には迷惑な話で、しつこい運久の求婚を断るために、

常盤「貴方様には御正室がいらっしゃるではありませんか。側室など嫌です」と言った。

ところが常盤の応えを聞いた運久は「正室ならOKなんだな」と、自分に都合良い方に解釈。

あろうことか、それまで連れ添って来た正室を焼き殺した。(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

運久はドヤ顔で再求婚~~これ以上、断ったら何をされるか解らない~常盤は条件付きで再婚を承知した。

常盤の再婚の条件とは「我が子(忠良)が成人の暁には、相州家の家督を譲ること」だった


時に常盤30歳~~~戦国時代で30歳子持ちなら、容色に陰りが出てくるころなんだが、よっぽど美人だったんだろうなぁ(往年の黒木瞳か松坂慶子?)

運久には実子(庶子で男子)が二人いたのだが、構わず承諾~継子の忠良にホントに家督を譲ってるんだから、よっぽど常盤に惚れこんでたようです^^;

ちなみに運久の庶子・二人だが、義兄弟の系譜が宗家になってしまったので、島津姓を遠慮して名乗らなかったそうだ。

ただし一人の系譜が幕臣となって、後藤島津氏となってます。

さて話を宗家⑪忠昌に戻そう~彼の苦難の人生は、まだ続くのだが、それは・またの話^-^sio

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【当主の】11代忠昌【覚悟】薩州島津家5・栞歴13

記事内呼称簡略ルール::家名+番号(〇代目)+名前(諱)

例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
宗家の座を巡って争う惣領五家「総州家(滅亡)・奥州家(=宗家)・相州家・伊作家・薩州家」
早わかり家系図(主要メンバーのみ抽出)◆別記系図~★現当主

島津奥州家=宗家⑧久豊⇒長男(庶子)用久(薩州家①)⇒★国久(薩州家②)
           ⇒◆嫡男・忠国(宗家⑨)
           ⇒3男・季久(豊州①)⇒★忠廉(豊州②)
           ⇒4男・有久(羽州①)⇒忠福(羽州②)
           ⇒5男・豊久(伯州①)

★島津宗家⑨忠国⇒長男(庶子)★友久(相州①)⇒運久(相州②)
        ⇒嫡男・立久(宗家⑩)⇒★忠昌(宗家⑪)
        ⇒3男・★久逸(伊作⑧)⇒善久(伊作⑨)

宗家⑪忠昌の生母は梶原弘純の娘・茂山夫人。

御祖父ちゃんにあたる梶原弘純は、梶原景時(義経と不仲な例の方)の三男・景高の後裔( ゚д゚)ンマッ!!

マイナートリビア~~~御祖父ちゃんの地位とかは不明ですが、ハッキリしてるのは間違いなく「家臣格」だということです。

父を亡くした若年当主・忠昌には、家中に政治的な後ろ盾が無かったということになります。

武家において、嫡男と庶子の扱いの差は、天と地どころか宇宙と深海くらいの差があります。

分家当主とは、庶子であるがために当主になれず、別家を立てさせられた男子です(出家するよりは、マシかどうかは当人次第

たとえ長男であっても、嫡子(正室の子)でなければ当主にはなれない(長子相続は江戸期から

分家たちは腹立たしかったでしょう・・「忠昌は庶子!・・宗家に男子が一人しかいなかったから当主になれただけで、本来なら家督を継ぐべき者ではないのだ!」心の奥底に渦巻く思いを彼らは時に抑えがたかったに違いない





1478年(文明10)?月?日~忠昌は桂庵玄樹(臨済宗僧侶)を招聘して朱子学を講じ、薩南学派の基礎を築いた


軍事より文学に優れていたと言われる忠昌だが、相次ぐ天変地異で乱れた人心を学問をもって治めたかったのかもしれない。

桂庵玄樹は豊州②忠廉にも招かれて講義したり、弟子の育成・著作活動もしている。

桂庵玄樹を始祖とする薩南学派は、18世紀に荻生徂徠や室鳩巣の門下生が薩摩に帰国するまでは盛んだった。

このまま穏やかな日々が続けば、忠昌は学をもって国内を安定させた名君と謳われたかもしれない。

だが戦国時代は、安逸な日々の方が短いのだ。

1484年(文明16)「第一次飫肥の役」が起きる

あろうことか島津分家・伊作⑧久逸が、敵として飫肥城を攻撃する側にいたのだ!



以下出典元ソース:島津歴代略記


伊作の領地から日向・櫛間へ、伊東家に対する備えとして入った伊作⑧久逸だったが、

同じく志布院から日向・飫肥院(城)に入った新納元続と不仲になってしまった。

領地で揉めたとあるが、一番の理由は久逸の日向における勢力拡大を、味方であるはずの新納元続が恐れたことによる。

新納元続は主君・忠昌に「久逸を伊作へ戻して下さいな♪」と要請した。

忠昌は飫肥城の守りを重視し、新納元続の申し出を受けて「久逸叔父上~伊作に帰って下さい」と命じた。

が、これに久逸が激怒・反発「おのれ~新納~~~忠昌様にいらざる進言したなぁ~赦さん!」

久逸は敵だった伊東祐国と連合ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!と飫肥城を攻撃

これに便乗して祁答院重度・入来院重豊に菱刈氏・北原氏も蜂起~たちまち大乱となった

忠昌は飫肥に援軍を送ったが失敗する


ネットの一部では、この時飫肥城は一度落ちて翌年に奪還した。という記述もあったが、結果からいうと新納元続は何とか飫肥城を守り通した。

新納元続の弟・是久は、娘・常盤が久逸の息子・善久に嫁いでいたこともあり、久逸サイドになってます。

はじめは和睦を謀った帖佐の豊州②忠廉までが忠昌に叛旗を翻す

豊州②忠廉は、大隅の菱刈氏重や相良長輔らと同盟して、もはやあちこち大炎上~~~


あ、相良長輔は当主じゃないです~ちと来歴わかりませんでした^^

これを憂えた薩州②国久は水俣に相良為続を訪ね、相良為続と共に豊州②忠廉の説得に努めた為、忠廉も遂に当主・忠昌に帰順した


薩州家~渋い~~重鎮の魅力~~~ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・

このころ宗家⑪忠昌は、病身多病で京都の名医・竹田法印昭慶を招いて療養に努めていた。

だが、事態を収拾するために病身を押して出陣を決意する。

竹田法印はΣ(´Д`;)「と、、とんでもない!ドクターストップ!!お命に係わります!どうか他の者を派遣し、ご自身の出馬は思いとどまってください!」

忠昌は「身を愛するの故をもって、国の大事を廃せむや!」と主張し出陣


逆に竹田法印に要請して、同行してもらうこととなった。

学問好き忠昌は、しっかと当主としての覚悟を腹に収めた人物だった。これでこそ島津当主です。

宗家11代目忠昌・・時に数え22歳、この時点で彼には未だ男子がいない


あ~~~ぁ、5回で終わるって言ったの誰だったっけ~~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

それは・またの話^-^sio

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【鳴動!桜島】薩州島津家4・栞歴12

記事内呼称ルール::家名番号名前(諱)

例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久

代替わりしていくと各分家当主・宗家当主が入り乱れて来るので、簡略表記で行きます~
宗家の座を巡って揉める惣領五家「総州家(滅亡)・奥州家(=宗家)・相州家・伊作家・薩州家」
早わかり家系図(主要メンバーのみ抽出)

島津奥州家=宗家⑧久豊⇒長男(庶子)用久(薩州家①)⇒国久(薩州家②)
           ⇒★嫡男・忠国(宗家⑨)
           ⇒3男・季久(豊州①)⇒忠廉(豊州②)
           ⇒4男・有久(羽州①)⇒忠福(羽州②)
           ⇒5男・豊久(伯州①)

★島津宗家⑨忠国⇒長男(庶子)友久(相州①)⇒運久(相州②)
        ⇒嫡男・立久(宗家⑩)⇒忠昌(宗家⑪)
        ⇒3男・久逸(伊作⑧)⇒善久(伊作⑨)

宗家⑪忠昌の生母は梶原弘純(←誰?)の娘・茂山夫人で嫡出子(正室の子)ではない、もしかしたら生母の家格が低かったかもです~




島津ウォーリー~桜島はどこだ?!

1470(文明2)1月14日~宗家⑨忠国が死亡~嫡男・立久が家督を継ぐ

1471年(文明3)9月12日~桜島大噴火~~~

1473年(文明5)?月?日~桜島噴火~~~

1474年(文明6)4月26日~当主在位4年~宗家⑩立久が43歳の壮齢で死亡~

父・立久(宗家⑩)の死で家督を継いだ忠昌は、数え12歳の若さだった


さて、速足で薩州家特集をやってたせいか、史料を思い切り読み間違えてたシオシオil||li _| ̄|○ il||l

まず宗家⑨忠国の三男・久逸(ひさやす)ですが、1441年(嘉吉元年)産まれです。
(オタには覚えやすい年号なのに、スコーンと抜けてたww)

1458年(長禄2)に島津家の分家で、宗家⑨の正室の実家・伊作家の当主が、わずか7歳で死亡してしまいます。

少年当主の突然の死に毒殺説が浮上してますが、それは別にして空いた伊作当主の座に久逸が入ります^-^

で、伊作⑧久逸の話が何故出るかといいますと、それは伊東家との対立が絡んでくるからです。

宗家⑨忠国・宗家⑩立久と二代続いて日向・伊東家とは和平路線でした。(立久は伊東家の娘を室にしている)

ところが伊東家の勢力が増大するにつれ、伊東家と島津は対立しはじめ、特に飫肥城を巡っては100年近い年月、抗争を繰り返します。

その始まりが、ちょうど宗家⑪忠昌の代に起きるんです。

島津忠昌は日向・飫肥城の守りに新納忠続を派遣します

新納氏の本拠地・志布院は、忠続の弟・是久が任されました

さらに島津久逸が、伊東に対する抑えとして、伊作から日向・櫛間に入りました


同じ派遣隊同士です^-^

新納家と伊作島津家との繋がりを強くするために、固めの婚儀が執り行われます。

久逸の嫡男・善久と新納是久の娘が結婚しました。二人の間に産まれるのが「島津中興の祖・島津忠良です^^/


まぁ忠昌は僅か12歳の少年ですから、このあたりは一族・家老・重臣の協議で決まったものでしょう。

1475年(文明7)8月15日~桜島噴火~~隔年噴火(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

1476年(文明8)9月12日~桜島南西部で大噴火!死者多数!沖小島と烏島が形成された!


少年当主には、余りにも過酷な大自然からの試練だった。

天地を覆う火山灰は作物を全滅させ、その後数年にわたり薩摩に冷害と不作をもたらす。

天変地異が起きると人心が乱れる。

戦国に不向きで学問好きと言われる忠昌だが、大人になる多感な時期に天変地異の連続だったことが、学問にのめりこむキッカケになったかもしれない。




1476年(文明8)薩州家②国久が忠昌に叛旗を翻し挙兵!豊州①季久・相州①友久が呼応!


えっと・・・忠昌からみて、御祖父ちゃんの兄と御祖父ちゃんの弟と叔父さんが謀反を起こしたんです^^b

これには相良家が絡んできます^^b

1476年に日向・北原氏と肥後・相良氏が争ってた時に、薩州家②国久と豊州①季久が相良に与するように進言したのですが、忠昌が用いなかったことに対し挙兵したんです。

もともと薩州家と豊州家は相良家を支援していたのですが、そのことが忠昌を警戒させてしまったかもです。

相州が便乗した理由は不明ですが、シオ推理だと「忠昌が当主なことに不満」だったんじゃないでしょうか^^

なんてったって相州①友久は、宗家⑩立久とは同い年で、庶子だったために家督を継げなかったという経緯があるからです^^

忠昌は嫡子じゃありません。もし忠昌ママンの家格が低かったのなら、友久にとっては余計に面白くないと思います。

挙兵した薩州家②国久は、大隅国分城に侵攻~忠昌が援軍に駆け付けた(初陣かな?)ので撤退。

豊州①季久は帖佐(ちょうさ)で挙兵~忠昌は一時、伊集院に避難してます。

それぞれの挙兵した細かい時期までは解らなかったです。

ただ、相州①友久が鎮圧されると、豊州①季久も降伏、薩州家②国久は半独立状態となりました。

半独立というのは、薩州家の宿命なんでしょうか・・・

1477年(文明9)6月27日~豊州①季久が死亡する

同年11月20日~応仁の乱が終息した


戦国は、これからがスタートなのだが、それは・またの話^-^sio

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【暗雲】薩州島津家3・栞歴11

記事内呼称ルール::家名番号名前(諱)

例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久

代替わりしていくと各分家当主・宗家当主が入り乱れて来るので、簡略表記で行きます~
宗家の座を巡って揉める惣領五家「総州家・奥州家・相州家・伊作家・薩州家」

総州家は奥州家に滅ぼされ滅亡。宗家嫡流は奥州家がゲッツ
早わかり家系図(主要メンバーのみ抽出)

島津奥州家=宗家⑧久豊⇒長男(庶子)用久(薩州家①)⇒国久(薩州家②)
           ⇒★嫡男・忠国(宗家⑨)
           ⇒3男・季久(豊州①)⇒忠廉(豊州②)
           ⇒4男・有久(羽州①)⇒忠福(羽州②)
           ⇒5男・豊久(伯州①)

★島津宗家⑨忠国⇒長男(庶子)友久(相州①)⇒運久(相州②)
        ⇒嫡男・立久(宗家⑩)⇒忠昌(宗家⑪)
        ⇒3男・久逸(伊作⑧)⇒善久(伊作⑨)



島津ウォーリー~薩州家の城を探せ!(ヒント:出水が領地)

宗家⑨忠国は生涯現役だった・・・守護職の地位から離れるのが怖かったのかもしれない。

1449年(文安6)7月28日~宝徳へ改元


1450年?月?日~島津忠国は室町幕府より遣明船への参加を許可される

他にも忠国は琉球貿易に乗り出し、島津家の経済基盤を作って行く(器量はイマイチだが商才は有り~

同年?月?日~忠国は支族の実力者・伊集院熙久(いじゅういん ひろひさ)を追放~


伊集院と島津宗家のアレコレ入れると先に進めないので、理由が一言「領地問題で揉めた」です。

ちなみに伊集院家は、この当時で島津宗家より領地が多かったのですが、追放により凋落します。
(孫の代で島津に帰参する)

忠国の娘は伊集院熙久に嫁いでいたのですが、実家に戻ったかは解りませんでした。

とにかく忠国は国内の不満分子を黙らせることに成功し、領内は安定を取り戻したんです。

1452年(宝徳4)7月25日~享徳へ改元

1455年(享徳4)7月25日~康正(こうしょう)へ改元

1457年(康正3)9月28日~長禄へ改元


忠国の嫡男・立久は家督こそ譲られてなかったものの、1459年から守護的活動をしていたという。

1459年・・・・・それには意味があります・・・・

1459年(長禄3)庶子だったために家督を継げなかった忠国の兄・用久が死亡する


用久と忠国の兄弟は1448年に和解し、その証として用久の娘が立久に嫁いでいた。

だが、忠国は本心から兄を信じていたわけではなかったのだろう。

用久が死んでから、やっと安心して、立久が跡目として行動するのをOKしたのではないだろうか。(でも家督は譲らないぉ~by忠国)

無能ではないのだが、つくづくケ●の穴の小さい男ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

用久(薩州家①)の胸中は、いかばかりであったろう・・・察するにあまりある(;;)




1464年(長禄4)12月21日~寛正へ改元

1463年(寛正3)5月21日~島津忠昌(宗家⑪)立久に嫡男誕生~

忠国:立久、おめでとう~ワシの初孫だネ~でも家督は・・・(略

1466年(寛正7)2月28日~文正へ改元

1467年(文正2)3月5日~応仁へ改元

1467年(文正2)1月17日~戦国時代突入「応仁の乱」始まる


応仁の乱って、実は「応仁」に改元する前に始まってるんです^^b

この時に島津は東軍・西軍の二つに分かれました。

ケンカしたんじゃなくて、どっちが勝っても良いように敢えて別々の陣営に属したんです。

宗家⑩立久が東軍・豊州①季久が西軍です。もっとも要請されても出兵しなかったので名ばかり参加でした^^

同年?月?日~島津善久(伊作⑨)~伊作⑧久逸の嫡男が産まれる


といいつつ、忠国の三男・久逸は、この時期は未だ伊作家当主じゃありません。

その時の大騒ぎは、物語の少し後の話になります^-^

1468年(応仁2)?月?日~島津運久(相州②)~友久(相州①)の嫡男産まれる

1469年(応仁3)4月28日~文明に改元

1470年(文明2)1月14日~島津忠国が死亡


なんだかんだいいつつも、宗家⑧久豊と宗家⑨忠国(用久の助力含む)の積み上げた土台が効いて、宗家⑩立久の代も比較的平穏だった。

立久は父と同じく伊東家とは和平路線を進め、伊東祐堯(いとう すけたか)の娘を妻にしている。

「継室(後妻」ではないから、用久の娘と伊東家の娘は同格に扱われたのだろう。
(外交上の政略結婚なら有りえる話)

だが一見、安穏そうな島津氏に暗雲が垂れ込める。

1571年(文明3)9月12日~桜島が大噴火する


打ち続く桜島の「文明大噴火」とともに、島津家の内輪もめが始るのだが、それは・またの話^-^sio

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【男の嫉妬は海より深い?】薩州島津家2・栞歴10

え~コホン!ここで各当主表記を統一したいと思いまつ~~~

記事内ルール:家名№諱

例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久

代替わりしていくと各分家当主・宗家当主が入り乱れて来るので、簡略表記で進めて行きます~
基本データベース~宗家⑧久豊の息子たち

忠国(陸奥守)~家督を継いで9代目当主・正室は伊作島津勝久娘
用久(薩摩守)~薩州家初代⇒7代目で豊臣秀吉によって改易
季久(豊後守)~豊州家初代
有久(出羽守)~羽州家初代⇒後に嫡流が絶えて大島島津家として存続
豊久(伯耆守)~伯州家初代⇒2代目が出奔し豊州家3代目の家臣となるので断絶

相州家は久豊の孫(忠国の子)が初代。
伊作家も久豊の孫(忠国の子)が継ぐ。

宗家の座を巡って揉める惣領五家「総州家・奥州家・相州家・伊作家・薩州家」

宗家⑨忠国の器量レベルはイマイチ不明なのだが、名門坊ちゃんにありがちな「試練が苦手・打たれ弱いタイプ」のように思う




家系図とにらめっこ~忠国と用久を探せ!

1425年・・・偉大な父・宗家⑧久豊の死で忠国が家督を継ぎ9代目となる


1428年4月27日~応永35年~正長(しょうちょう)へ改元

1429年9月5日~正長2年~永享(えいきょう)へ改元~あぁバリバリ室町時代な件~


1430年(永享2)~総州家の生き残り・島津久淋を討ち取り、名実共に「島津宗家」は一つ(奥州家)に統一された


当主の忠国は28歳~「偉大な父」がやり残した仕事を終えて、意気揚々。

が、その鼻っ柱を打ち砕く出来事が起きる。

1432年(永享4)薩摩に国一揆発生~


国一揆の「国」とは、国人のことです。

早い話、守護職である宗家⑨忠国に対し、被官(家臣よりも緩やかな支配関係)である国人たちが一斉に反旗を翻したんです。

この時の一揆の原因は、シオ検索では解りませんでした。

想像できるものとしては、奥州家と総州家の争い終息後ですので、恩賞で揉めたんじゃないでしょうか^^

この事件は忠国のプライドを打ち砕くのに充分で、彼は領国経営に自信喪失して隠居~~妻の実家(伊作)に引き籠ってしまいました。

で、用久(庶子なので家督を継げなかった兄)を守護代に任じて、一揆の後始末を丸投げしちゃいます。

一揆のさ中~忠国の長男(庶子)友久が誕生

同年11月5日~正室(伊作島津氏の娘)が、忠国の嫡男・立久(たつひさ)を産む


Σ(´Д`;) うあ゙~~庶子の長男と嫡男の次男が同い年~~~こりゃマズイ~家族計画に問題有り!

1434年(永享6)~(国内が混乱してるので)忠国と日向・伊東祐立(すけはる)が和睦


島津氏の内輪もめが続く間を利して、日向・伊東家は勢力拡大期に入ります^-^

1439年(永享11)~豊州②忠廉(ただかど)が産まれる(家系図に名前あるよ~


この間、用久は勤めを果たし、国一揆を治めた。

さぞ、忠国から定めし褒美や労いの言葉が下されることであろうと思いきや、正反対。

責任丸投げ当主と、現場で采配を振るう者と、どちらが家臣の衆望を集めるかは調べるまでも無いだろう。

忠国は、自分から守護代に任命したくせに「兄は家督を狙う狼心あり」と勘繰った。

要するに用久の器量に嫉妬したんです。

これには焦りもあったと思います。

忠国の嫡男・立久チャンは「袴着の儀式」が終わるか終らないかの子供で、兄が実力で家督を奪いに来たら幼い嫡男は太刀打ちできません。

※袴着(はかまぎ)現代感覚だと小学校入学くらい~この儀式を終えると武家の子弟として本格教育がスタートします^-^

たちまち兄(用久)弟(忠国)は揉め始めました。

1441年2月17日~永享13年~嘉吉に改元

同年3月13日~度重なる足利義教の要請に屈し、島津忠国は大覚寺義昭(義教の弟で日向・野辺に亡命)を殺す


足利義教は「万人恐怖」と言われるほど苛烈な人物だったので、危険分子は弟といえども容赦が無かった。

忠国は不本意だったようだが、このことが功を奏し「用久VS忠国」の争いに対し、室町幕府が忠国サイドに対し有利に働いたんです。

同年6月24日~室町将軍・足利義教が暗殺される(嘉吉の乱~

同年?月?日~島津久逸(ひさやす・伊作⑧、家系図に~略)忠国の三男が産まれる

同年?月?日~島津国久(薩州家②)~用久(42歳)に待望の嫡男が産まれる


用久は弟で当主⑨忠国の疑念を晴らすために、産まれたばかりの嫡男・国久に全権を譲って出水に隠棲しました。

ところが忠国は用久に嫡男が産まれたことで「嫡男に宗家を継がせる気だろぉ!ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」とますます疑い、用久を追放しようとした。

そうなると用久も黙ってられない~~~忠国へ叛旗を翻したため、領内は混乱する。

1444年2月5日~嘉吉4年~文安に改元

1448年(文安5年)ようやく兄と弟は和解し、その証として用久の娘と忠国の嫡男・立久が結婚する


和解後に忠国は、兄・用久に「分家・薩州家」を立てさせた。

用久は隠居号を「出水薩州」と名乗る・・・シオは、このネーミングが大好き^^

両者の和解で一旦は落ち着く島津家だが、再び内乱が続き混乱する。

なぜなら宗家⑩立久が、まだ43歳という働き盛りで死んでしまうからです。

家督を継いだ忠昌は、数え12歳・・・おそらく初陣も未だだったことだろう。それは・またの話^-^sio

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薩州島津家_1【宗家になれなかった分家】

以前、2ちゃんの「オタとファンの違い」というスレに、何気なく投稿した。

「普通の島津ファンは4兄弟」
「オタは薩州家・相州・奥州・総州・豊州・北郷と分家を列記し、伊集院・川上は分家というより支族だな~と一人ナットク(ウロ覚えだから、もっと併記したかも)

そしたらレスが入って「それはオタじゃなくて研究者レベル」と書きこまれた。

・・・・・・そうなん?でも島津オタなら「惣領五家」くらいは知ってるもんじゃない?

う~~~ん、自分の中のオタレベルが進行しちゃったかなぁ~~~

初めは普通に島津4兄弟から入って、3男の祁答院・歳久ファン(←ここで既にマニア臭)だった。

で、ネットサーフィンしながら調べてるうちに、末弟の家久・豊久親子ファンに至る^^

前置き失礼。

島津家のことを、ちょいっと調べると必ず出てくるのが「宗家・当主の座を巡る御家騒動」だ

その争いは必ずと言って良いほど、分家・家臣・周辺国人を巻き込む大騒動グダグダドロドロになる

そしてその中心にいるのが俗にいう惣領五家「総州家・奥州家・相州家・伊作家・薩州家」です


ちなみに自分が好きな惣領家は薩州家~~~てことで島津別伝~薩州家特集行きます^^

まずはテンポ良く家系図逝ってみよう~~~~




この程度でビビっていては島津記事は書けないよ~~これに女系の系譜が入ると物凄いことになるからね!

といいつつ、遡ると名前(諱)が被ってくるから、自分も家系図見ながらでないと間違う・爆

島津の御家騒動で最大のものは「総州家VS奥州家」

この争いに関しては薩州家より遡ってしまうのと、鳳山様の記事が詳しいのでリンク貼ります。
(ちなみに家系図も鳳山様より拝借)
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/50394283.html

壮絶な争いを制したのは「奥州家当主・島津久豊」

島津久豊の強引な宗家乗っ取り(実力でゲッツ)は、室町幕府も快く思ってなかったのですが、総州家が奥州家・島津久豊に滅ぼされてしまっては致し方ありません。

奥州家・島津久豊を島津当主として認めます。

奥州家の由来はというと~細かいの省いてザックリと「陸奥守」を名乗ってたから^^b

ちなみに陸奥守の官位名は島津家が引き継いで(他の武家が名乗ってた時もある)いた。

が、江戸時代に入り奥州の例の方が「陸奥といったらウチに決まってるだろう!!ゴルァ!!!(# ●Д゚)・;'」とクレーム出した。

それ以来は「●達家オンリーワン」の官位名になったという経緯があります。

そして奥州と総州の争いが、島津家の歴史の区切りになることには理由があります。

惣領五家のうち、総州家を除く他四家が「奥州家当主・島津久豊」の系譜から出ているからです。

ぶっちゃけ言うと島津久豊の息子たちが、それぞれ分家を立てたんです。

今も続く島津氏のDNA天辺~久豊の息子たち

忠国(陸奥守)~家督を継いで9代目当主・正室は伊作島津勝久娘
用久(薩摩守)~薩州家初代⇒7代目で豊臣秀吉によって改易
季久(豊後守)~豊州家初代
有久(出羽守)~羽州家初代⇒後に嫡流が絶えて大島島津家として存続
豊久(伯耆守)~伯州家初代⇒2代目が出奔し豊州家3代目の家臣となるので断絶

相州家は久豊の孫(忠国の子)が初代。
伊作家も久豊の孫(忠国の子)が継ぐ。

シオ萌えの薩州家は、島津宗家によって黒歴史扱いとなり、5代目実久に至っては「国賊」認定。

従って薩州家に関する文献は極めて少なく(分限帳はある)各家の中に出てくる記録や、領地である出水の郷土資料を掘り起こすしかない状態だ。

だから本記事も現在ネット上で調べられる範囲で抽出したデータを元に投稿しています。

まず、上記家系図にオタツッコミを入れると、忠国の息子・友久のとこに【相州家】の記述が抜けてます。
(たぶん元ソースが端折ってるんでしょう・鳳山様~借りといてすいません^^;)

それと忠国は嫡出子ですが、長男ではありません。

久豊の長男は島津用久・・・長男ですが庶子だったため家督から外れ、それが兄弟間の悲劇の遠因にもなります


薩州家初代となる島津用久は、1401年(応永8)に産まれました。

宗家9代目となる島津忠国は、1403年(応永10)5月2日に産まれました。

庶長子と嫡出子の差って大きいなぁ~誕生日は嫡男の方しか解らなかった^^;

年齢も近い・・・揉める要素大^^;

ちなみに4男以下は生年すら検索しても出て来ない件~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

応永32年(1425年)父・久豊の死亡で嫡男・忠国が家督を継いだ


弟・忠国は数え23歳、兄・用久は25歳だったのだが、それは・またの話^-^sio

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北肥戦誌(1491年~1500年)一部抜粋

★明応3年(1494)、下松浦を従えた少弐政資は1月に、今度は弟・千葉胤資・龍造寺康家・高木家重ら多勢を以って上松浦へ攻め入る。
すると、波多・鶴田・相知・有浦らは戦う前に従った。
政資は留守永恒の青山城をその日に落とし、すぐ引き返して筑前に入ると、原田興種の高祖城を攻める。
この戦いの半ばに有馬貴純も少弐に同心し、下松浦から佐々城を攻め破ると、平戸弘貞の平戸城を攻めて、4月4日に降伏させた。

★少弐の動向を伝え聞いた大内介義興は、
「少弐は勘気の身であるのに公儀を軽んじ、私に弓箭を為す意味を心得ていない。
急ぎ吉木御所へ言上し、少弐一族を悉く誅殺すべし」
と、その頃に淡路島へ下向していた足利義尹に申し出て、少弐退治の上意を賜る。

★隔して明応6年1月、義興は 石見の吉見正頼(?頼興の誤記)・安芸の熊谷膳直・備後の小早川詮平・陶一族ら20,000余騎を自ら率いて筑前へ討ち入った。
少弐政資の嫡男・高経は、先陣の杉興正が布陣前の隙を突いて攻撃、興正を討ち取ったが、二陣の陶興房・熊谷膳直が入れ替わって戦うと討ち負けて大宰府へ退く。

大内勢は勝ちに乗り、50,000余騎に膨れ上がった軍勢で箱崎へ攻め来る。
少弐父子は相談の上で軍を二つに分けて大宰府から退くと、政資は岩門城へ立て籠もり、高経は勝野尾城へ入って大内勢を待ち構えた。

大内勢は大宰府を本陣とし、陶興房・陶安房守に率いらせた20,000を勝野尾城へ、陶弾正忠の20,000を岩門城へ差し向ける。
岩門城では少弐一族10余人が討ち死に、雑兵も大半討たれ落城。
政資は密かに城を出て、千葉胤資の小城晴気城へ入った。
これに陶興房・陶安房守が1月11日、勝野尾城へ攻め掛かる
城兵は討ち負け、筑紫満門・東尚頼は大内に降る。
高経は勝野尾城を落ち延びて勢福寺城へ入ったが、ここも3月下旬に攻められ、4月8日に高経も父の逃れた晴気城へ入った。

大内勢は千葉興常勢を加えて、4月13日に晴気城を攻める。
千葉胤資は防ぎ難く感じ、政資の妾の父である多久宗時を頼る様申し出て、
18日の夜半に政資を逃し、すぐさま高経とその弟の頼高を城から逃したが、
翌19日に頼高は千葉興常勢に討たれ、高経は落ち延びる途上の市の川で敵に追い付かれ、もはや逃れ得ぬと、
21日に市の川の山中で切腹して果てた。享年36。

一方、少弐父子を逃した千葉胤資は、19日に城を打って出て討ち死に、晴気城は落城した。

また、政資は多久宗時を頼ったが、宗時が心を変じて自害を勧めた為、同日に切腹した。享年57。

少弐を滅ぼした義興は、千葉興常を肥前守護代とし、東尚盛に佐嘉郡の一部を宛がい、筑紫満門には三根郡と神埼郡を守らせ、陶弾正忠を博多に置くと山口へ帰陣、
自らも従三位太宰少弐に任じられる。

★明応7年(1498)、千葉胤資の養子である千葉胤繁が、大内が豊後に攻め入り大友政親に敗れた隙をついて、本領の小城郡に返り咲いた。
大内はこれを捨て置けぬと、筑紫満門・東尚盛の軍勢を小城へ差し向ける。
胤繁は無勢であった為に下佐嘉の川副へ逃れたが、龍造寺胤家・光益光廣・渋谷河内守・壬生新左衛門ら旧交の武士が馳せ参じた。
隔して筑紫・東の勢に千葉興常勢が加わると、2月24日に川副へ攻め掛かった。胤繁らは討ち負けて敗走、胤繁は弟の胤治・龍造寺胤家と共に筑前山中へ逃れて隠れ住んだ。

★明応8年(1499)、この年より九州は飢饉が続き、餓死者が多数出た。
少弐・大友に圧迫されてきた渋川刀彌王丸であったが、大内義興が将軍家に訴え出たことにより、元服の上で探題に任じられた。但し、御行書が降っていなかったため、

★翌年(1500)に義尹の諱を賜り「渋川右兵衛佐尹繁」と名乗り探題職に補された。
3~5月に降雨が一切なく、8月2日に台風に見舞われ、明応10年4月20日には栗の様な大きさの雹が降った。

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北肥戦誌(1452~1490年)一部抜粋

★宝徳3年(1452)、2年前に内裏が炎上した為、この年に新造。
 年号も享徳と改元し徳政があった。
 だが、3月から6月まで大地震発生、子供が多数死んだ。

★享徳4年(1455)、7月26日に康正と改元。
 この年も大地震と落雷で人が多数死に、人心が乱れるあまり都では蘇我入鹿の屍が和泉から入洛するとの噂がたった。

★康正2年(1456)、悪い星が現れ、5月に洪水で田畑が浸水被害。
また凶事が多い為に程なく長禄と改元。

★長禄2年(1457)1月29日、太陽が二つ現れた(翌3年6月2日にも出現)。

★長禄4年(1458)、寛正に改元。
この年は100日間大雨に見舞われ、3月に洪水、8月24日は台風により田畑がやられた。
これにより九州のみならず、五畿・七道に飢饉が発生、10月から道路に屍が並ぶ始末。
飢饉は翌年の7月まで続き疫病も発生、骸や骨が街に満ちた。

★寛正3年(1462)、太陽が三つ並んで出現。翌年の1月1日も現れる。
同月6日は太陽が二つ東西に現れ、3月に疫病で地下人が多数死亡。
諸国の国人らも浮足立った。

★寛正6年(1465)、前の探題・今川仲秋の子である今川胤秋が、親しかった千葉介教胤を討とうとしているとの風聞が聞こえる。
千葉の執権である中村胤頼はそれを確かめもせず、5月20日に2,000余騎で今川の城を三日間攻撃する。
が、今川はこれを退けると今度は逆に、24日に胤頼の陣へ攻め掛かった。
双方に手負いが出たが日没となり両陣退いた後に和睦に至る。
6月18日より雨が一滴も降らず、7月29日に大風夥しく吹き、大潮となり田畑が浸水、肥前の南海より三里内陸は船で往還する状況となった。
9月13日、西の空に大星が流れ、東の空に至って迅雷の様な音を発し、見聞した者らは地に伏す程に取り乱した。

★文正元年(1466)、再び今川勢と千葉勢は河上に戦って遺恨は深まり、

★翌年応仁元年(1467) 6月、今川は探題の渋川氏へ援軍を乞い、更に佐嘉の領民を味方につけて20日に小城境の民家を放火、翌日に千葉勢がこれに打ち掛かると、今川勢は討ち負けて胤秋以下が悉く討ち死に、渋川も散り散りに逃げ去った。
千葉介は今川領を残らず奪い権勢は高まった。

★応仁3年(1469)の夏、千葉介教胤は小城・佐嘉の兵を率いて、大村家親を攻めるべく出陣し6月15日に浜松に着陣。
この日はここの祇園会であったが、千葉勢は社内に乱入し儀式を妨げる。
すると不思議な事に晴天が俄かに曇り暗闇と化し、雷鳴が轟くと共に冷たい篠突く雨が降り始めた。
千葉勢は神雷に掴み殺されると動揺し、急ぎ船に乗って帰陣する。
だが暴風雨の為に船が悉く沈没、教胤始め家臣100余人全員が水死した。
教胤はまだ18歳で子が無く、千葉家の嫡流がこれにより断絶、一族も入道したり領地を捨てて行脚となるなど衰退していく。
やむなく一族の胤紹の次男・胤朝を国府に迎え入れた。

★応仁3年(1469)、胤朝が千葉家を継ぎ、岩部常楽と中村胤明がその執権となっていたが、
7月に岩部が佐嘉郡静謐のために府中へ赴いていた際に、中村が岩部を妬んで胤朝に讒言する。
胤朝はこれを信じて岩部を誅殺する用意を始めた。
これを知った岩部は、神文を書いて申し開きするが聞き入れられず止む無く、大宰府の少弐政資へ訴える。
政資が千葉介を宥めた為、一時的に静謐が保たれたが
9月9日、胤朝は仁戸田近江守を大将に、府中の岩部へ軍勢を差し向けた。
これに、この年に年貢を免除されていた百姓や山伏10,000人が御恩返しと岩部に合力、仁戸田は一戦に及ばず、夜中に国府へ逃げ帰った。

岩部は胤朝に憤り、大宰府へ千葉介退治を申し出る。
が、中村が岩部に与した百姓らを懐柔、岩部を追放させた。

★文明2年(1470)、高来の有馬貴純が串山を攻撃、大村家徳は討ち負け上松浦の草野へ落ち延びたが、そこで程なく死去したという。

★高木村へ逃れた岩部は文明2.10.19の夜、妙法院に出家している胤朝の弟を還俗させ、千葉胤将と名乗らせ大将とすると、少弐の加勢を得て進軍する。

11月14日、中村は岩部・少弐勢と激突するも打ち負けて討ち死にした。
千葉胤将は国府へ侵入、城下を焼き払う。
少弐から更に1,000余騎が加勢に入り、11月28日より牛頭城を攻めたが落とせず、20日ばかり過ぎた処へ足利義政より使僧が派され、騒乱を急ぎ静謐せよと下知されたため双方和融する。

12月23日に寄せ手は陣屋に火を掛け府中を引き払うが、城の郷民は仔細を知らず、これを敵の退散と勘違いし攻め掛かる。
不意をつかれた岩部ら400余人が討ち死に、少弐勢は大宰府へ去り、胤将は金立へ逃れた。
以上を「土一揆合戦」という。

★文明3年(1471)7月19日、今川義秋という者が一揆を企て、佐嘉の植木に於いて戦うが討ち死に。
この年、天下に赤瘡(はしか)が流行し多数死去。また10月2日の朝、大彗星が現れる。その長さは一町ほど。

★文明9年(1477)2月、千葉介胤朝が藤津郡に出陣し、大村家親の有尾城を攻める。家親は防ぎかねて没落する。

★文明10年(1478)5月、洪水で肥後国阿蘇山スカルの橋が流される。9月18日、菊池重朝が筑後へ討ち入り、国人らを斬り従えて自領とする。

★文明12年(1480)1月15日の酉の刻、流星が出て西方に渡る。その長き事敷丈(?)、色赤くして火の如く、その音は水の漲るのに似て虚空に暫く鳴動し、消滅すると忽ち白雲となった。稀代の珍事である。

★少弐政資は、大内介の為に対馬に蟄居していた処を、宗貞国が足利義政へ訴え出て御行書を賜ったことで文明元年(1467)に御家再興を果たし大宰府へ安堵され、宗盛見・宗貞房を執権と定め、筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬五州の太守と仰がれていた。

だが、政資は次第に奢り、宗像家の大宮司へ代々伝わる宝物の中に、金の猫があるのを所望、宗像大宮司はこれを献上したが、政資は、もう一匹あるはずだからそれも献じるよう命じる。
無い物をあると言われ求められた宗像は大いに腹を立て、神前で小指を噛み切り、流れる血で少弐を呪詛する歌を社殿の扉に書いた。
更に政資は、少しの罪に事寄せて、青山城主・留主左衛門大夫の所領を没収して追放した。
留主は中国へ渡り大内介政弘へ訴えると、大内は義政へ言上する。

★政資は勘気を蒙り文明14年の春に大宰府から肥前へ移った。
このとき肥前の綾部に、前探題・渋川教直の子である渋川萬寿丸(15歳)が家督を相続していたのだが、大内と同心し、度々少弐と合戦に及んだ。
秋に政資は綾部城を攻撃し落とすと、萬寿丸は筑前に落ちる。
大内はこれを公儀へ申し立てると、近隣の御家人へ渋川に合力するよう御行書が下される。
政資は敵うまじと、何方かへ落ち延びた。

★文明14年(1482)5月27日、周防国の大内介の城内で、吉見勝頼と陶弘護が喧嘩し、両人刺し違えて死んだ。これに吉見の家臣18人が営中に斬り行って即座に斬り死にした。山口の城下は大騒動となった。
吉見は清和天皇の正統・蒲冠者三河守範頼の後裔で、陶は百済国・斎王の24代の末裔であり、両者は自らの先祖の高卑を言いだして座席の上下を争論して喧嘩に及んだとも聞こえる(「武家家伝_石見吉見氏」では別内容)。

★文明17年(1485)、戦乱により破壊されていた千布の住吉大明神の社を神代勝利(宗元の誤記?)が再興する。
同年5月2日、肥後の阿蘇大宮司惟忠が卒去すると、球磨の相良氏が打って出る。

★文明18年(1486)5月17日・18日に洪水。豊後・筑後・肥後の人民・牛馬が沢山流れ死ぬ。
★文明18年(1486)、深山に蟄居していた千葉胤将が蜂起、実兄の小城千葉介胤朝のいる国府を10月3日に夜襲した。
胤朝は討ち死に、千葉本家は断絶の憂き目に遭わんとする。
胤朝死去を聞いた少弐政資は、胤将を討伐しようとしたが、胤将はこれを聞き逐電した。
政資は千葉本家断絶を憂い、12月3日に実弟を胤朝の娘と娶せ、千葉胤資として千葉家を継がせた。

★だが長享元年(1487)、詳細不明であるが、萬寿丸は家臣・足助森戸により移住していた亀尾城にて生害される。
その頃、政資は大宰府に帰っていたが、これを聞き亀尾城を攻め落とした。
次に探題の末子・渋川刀彌丸がいる綾部城を攻撃、刀彌丸が幼少なのもあり、城兵らは筑後へ落ち延びた。

★延徳元年(1489)11月23日、少弐政資は肥前養父の城山で渋川刀彌丸と戦う。
千葉興常と云う千葉庶流の者が大内介義興を頼っていた。
興常は、千葉胤朝の弟で胤将の兄に当たる”千葉胤盛”の子で、加冠して小城郡赤目城にいた。
興常と千葉少弐に着いていた嫡流は不仲で、興常はこのとき渋川方に加勢している。
だが渋川方は討ち負けて、刀彌丸は筑後の犬塚城へ逃れた。

★延徳2年(1490)、少弐政資は西肥前を攻めて降参せしめ、次に東肥前も征して筑後へ打って出る。これに大友政親が合力、多勢に膨れ上がった軍勢は刀彌丸を犬塚城から追い落した。

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『征韓録』「島津義久主朝鮮渡海恩免之事(附)家臣梅北一揆之事」

『征韓録』「島津義久主朝鮮渡海恩免之事(附)家臣梅北一揆之事」
の記述から・・・


修理大夫義久は年老の為、起居が思いに任せず、その上、持病があった。
殿下はそれを聞き及ばれ、兵庫頭義弘父子に命じて、領国の士卒を率いて朝鮮に渡海させた。
故に義久は、この御礼の為に6月5日名護屋に参陣し、殿下に褐し奉る。
饗応と丁寧な御言葉を賜り、喜悦浅からざる処へ、
家臣・梅北宮内左衛門国兼・田尻但馬という者が、義弘へ従軍する筈が、肥前国平戸の辺りに留まり、更に逆心を企てると、
主君の仰せと偽って、薩・隅・日の悪党らを招き、都合2,000余人を糾合し、
6月14日に肥後葦北郡・佐敷城を攻め、同国の八代の城をも陥れんと協議して、田尻は松橋(まつばせ)を放火、
小川に至って八代の城へ立て籠らんとする処に、その辺りの松羅筑前という者が、
田尻を始め、その子・荒次郎・荒五郎、並びに従う者100余人を討ち果たした。

★松羅はすぐに八代の城に入って堅く守った為、田尻の残党は佐敷城へ引き退かんとした。それを松羅の人数が追い掛け、肥後国・赤松太郎と云う処で悉く打ち殺す。

★梅北国兼は佐敷城に在って、家臣の山蜘(やまくも)という天性の狼藉者を近郷へ遣わし、賛同者を募らせる。

★佐敷住人の境善左衛門・安田弥左衛門は国兼の無勢を悟り、若き女房らに酒などを持たせて、炎天の苦労を慰めさせようとする。
国兼はこれを容れて終夜の宴を開き、数盃の興により忽ち危難を忘れた。
すると境・安田は頃合いを見て相図の声を発すると、隠し置いていた者らが四方より集まり、遂に国兼の首を斬り、与した者達も共に討ち果たした。

★これを国元からの注進により知った義久は大いに驚き、すぐに石田正澄に依って聴取された。
殿下はこれを聞き召されて、
「朝鮮渡海の始めに不意の変に及ぶ事は吉兆ではない。これは義久の罪である」と怒り心頭である処、大納言(徳川)家康卿が御前に現れ、
「御怒りは御尤もですが、義久は当陣に参り、義弘父子は朝鮮に渡海し、その上、義久の息女と義弘の妻女は聚楽に勤めておりますれば、誰がその子弟を忘れて反逆を企てましょうか。
義久を罰する事は如何なものでしょうか」と頻りに言上した為、殿下も怒りを和らげ義久の帰国を許した。

★隔して義久は薩摩へ馳せ帰り、梅北と与した者の一族を罰しようとしたが、その命が下る前に、既に留守居の者らによりその者らは悉く誅殺されていた。
故に、その旨を記して名護屋へ送ったものの、殿下は憤激しており、その災いは遂に歳久へ及んだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『梅北一揆始末書』には、
梅北国兼一党が6月15日、佐敷城へ名護屋よりの御意として城の受け取りを迫ったものの、
安田弥右衛門ら留守居が「この城は肥後守(清正)の端城であるから、隈本城の留守居衆からの書状を持参せよ」との返答、
これに当地の町人・庄屋・百姓らが加担して城へ攻め入り、留守居衆の妻子らを人質にとって田浦付近を封鎖したそうです。

で、17日に安田ら留守居衆が登城し、国兼に酒と鮒寿司で接待し油断した処を井上弥一郎が国兼を討ち取ったそうです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この国兼叛乱の理由は判っていませんが、史家・"紙屋敦之"氏に依ると領地問題に端を発しているのだろうとの事。


一つ前の記事に、島津は領地を失った者へ、領地を失わなかった者の土地から補填しなかったと書きましたが、実は天正20年4月に、寺社領整備と共に地頭職分の返納について評議が持たれています。
結局は寺社領整備のみが実行に移されていますが、地頭の地位を脅かす様な政策が実施されようとしていた可能性を紙屋氏は指摘しています。
実際にそんな政策があったわけではありませんが、湯之尾地頭であった梅北国兼がこの議題を切っ掛けに憤りを感じ、同じく不満を抱く者らを糾合し秀吉への叛乱に及んだ可能性はあるだろうと思います。

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人国記

筑前は

「筑前の国の風俗、大体 飾り(うわべ)多くして、人の心十人は十人、皆思ひ思ひに違えり。
勇気も一応は勤め遂ぐるといへども、飾りある風俗ゆゑに、終には何事も成就すまじき国風なり。
西国(近畿から西)に珍しき花奢(きゃしゃ:上品で優雅)の国なり。
酒色を好むこと、千人に七、八百人かくの如し。
惣じてこの国は万時の風俗、我がために徳のつく事なれば、我が親 中絶(断絶の意)する人をも親しみ寄り、親を捨ててもその人に親しむの風儀、甚だ然るべからざるなり。」


筑前人は、本気で取り組まないから願いが成就しない。
西国に珍しく酒や色事が好きな人が多く、身内を蔑ろにしても他人との交友を優先するからけしからん!・・・といった感じでしょうかね。


筑後は

「筑後の国の風俗、筑前に替り、実儀なる者十人に八人かくの如し。
常に義理を談じ、得失を沙汰し、費を慎んで、言語に飾ること猶以て鮮なし(すくなし)。
然りと雖も下劣(下品)は一概(頑固)にして、無体の事のみ多し。
譬へば(たとえば)その堅固なること、鉄石を以てこれを云ふに、鉄に非ずして石の如し。
その練れる事無うして、分れて再び遇ふといふ事なきは石なり。
武士も大形この風儀に和あるものと知るべし。」

筑後人は義理を知っていて、損得を考え出費を抑えて、素朴で正直。だけど下品で頑固。鉄は二つに割れてもくっつけるけど、石は割れたらくっつかない・・・それくらいの頑固さ。
武士もそんな感じに穏やかさが加わった程度。ってとこですか。


最後に肥前は

「肥前の国の風俗、山陰(丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の八国)を合わせたるより猶(なお)勇国にして、勇に赴く時は、義を知りて怯む色なし。
誠にその国の湿土(風土のこと)生まれ得たると云ひながら、百人にして九十人かくの如くなり。
若し一人不勇の人あるは珍しき事どもなり。
武士の風俗、猶以ってかくの如しと知るべきなり。
然りと雖も無風に偏屈にして、底に佞を含み、外に温和をつくらふ故に、その勇は却って義理なき血気のみなり。
されども上としても下を哀れみ、下としても上を敬ひ、主君のために命を捨てん事を常に願ひて志すこと、士(さむらい)より国民に至るまで皆かくの如くなれば、
百姓・町人と云へども、義理強うして、身に遁れ(のがれ)難き罪科ありて、死に究まると知る時は、男女に限らず死を致すこと、露ほども惜しまざるなり。
音声卑劣なり。
風儀は信州にして智の少なき国風なれども、人の一和することは信州を越えたり。」


信州人ですが、人国記では「律義で正義感が強い。だが、辺鄙(辺境)な国にいるせいか頑固」と評されてます。
それを踏まえると、「肥前の人間は律義で勇気がある。男女ともに死を惜しまない。ただ、偏屈且つ頑固で、義理はあるけど戦ってる時は頭に血が上って関係なくなるし、野蛮な喋り方する上にオツムが足りてない」となりましょうか

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【決定~後継者!】島津氏8・栞歴8

古き血族の頂点に立つ者(妻・亀寿)が上か?!

公儀が認める初代藩主(夫・忠恒)が上か?

政治的に立場を異にする夫婦は、真向から対立した


対立は憎悪となった。忠恒は妻をババァと呼び、亀寿(かめひさ)は夫をアレと呼ぶ。 

もはや二人が普通の夫婦関係に戻るのは不可能だった(--;)

ここに一人の娘が国分城(きりしま市)の亀寿にお目見えし、忠恒の側室となった。

娘は2代藩主・光久を産み、亀寿の死後に忠恒の継室となる。

光久の生母はウィキペディアで検索すると「島津忠清娘」とある。

この島津忠清というのが、秀吉の怒りに触れ改易された分家・薩州島津家の残った男子。

実は島津忠清の母親は亀寿の姉(義久・長女/御平)でして、とどのつまり16代当主・義久の曾孫にあたるのが光久の生母だ。

絶望的な不仲の藩主夫妻が、互いの血流を残すべく接点を見出したのが、薩州家の血を引く娘だった。

父・義久を失い追い詰められた亀寿はともかく、忠恒の方が妥協をしたのには当然ながら理由がある。

そして、ここからが島津家の秘事に属する事柄になるのだ。 




島津家には、当主だけが所持を許される「御重物」という、家宝中の大家宝があった。

御重物とは、現在「国宝」の指定を受けている「島津家文書」のことである


話は遡って天正15年(1587)に島津が秀吉に降伏したとき、16代当主・義久は秀吉への恭順の証として隠居し、家督を弟・義弘に譲った。

だが心から秀吉に臣従していなかった義久は、「御重物」を義弘に渡さず末娘・亀寿に渡してしまった(姉たちは既に分家に嫁いでいた)

※島津家文書は現在は東大にある(時の当主が個人所有の限界を感じて預けた)戦後に文書の研究が飛躍的に進み、義弘が正規の家督相続を受けていないことが判明したんです。

そのため島津家は「義久・義弘の両殿体制」になり、秀吉が家督問題に介入したせいで、更に「義久・義弘・忠恒の3殿体制」になってしまう。

対外的には「藩主=イコール当主は忠恒」だが、薩摩内部では3殿体制で、家中への発布は3人の連名になっています。

義久が亡くなり政治的に逼塞していても「御重物」を所持する亀寿が島津宗家・正統相続者であることに変化はなく、あくまでも次期当主指名権は亀寿にあるんです




島津忠恒~~イメージ画像

隠居した義久が「御重物」を渡してくれない事に対する義弘の胸中は、島津家の秘事に関するデリケートなことなので解らない。

ただ義弘の息子と正統相続者の亀寿が結婚することで、本来なら時間が解決する・・・はずだった^^;; 


さらに言うと、何かにつけて庇ってくれた義弘が死んだ後も、亀寿が忠恒に殺されずに済んだのは、亀寿が「御重物」を隠し持ち、夫には絶対に渡さなかったからです。

2代藩主・光久をウィキペディアで検索すると「亀寿の養子」とある。

つまり光久は「藩主・忠恒の息子」だから当主になれたのではなく、「亀寿の養子」だから跡を継げたの^^b

寛永7年(1630)、亀寿は病を得て60歳で苦難の人生を終えるのだが、そのさい家老に固く固く遺言したのが、

亀寿の遺言:「御重物」をアレ(忠恒)には絶対渡さないで!!光久に渡して!絶対に間違えないで!光久よ!!


当時の忠恒には、光久より溺愛する5男がいて「家督は5男じゃね?」ってウワサが出てた。 

忠恒にウッカリ渡したら、光久を廃嫡して後継者を変えるかも~って心配したんです。

結局、忠恒は当主でありながら「御重物」を、終生自分の物にすることが出来なかった^^;




御重物を無事受け取り・家督を継いで・諸行事終り・難問山積ながらも、ほっと一息の光久の下へ、家臣が血相変えて報告に来た。

家臣:殿!!一大事です!!亀寿さまの墓がありません~~~!!

光久:???養母さまの墓は遺言で高野山でしょ?本国にまだ建ててないの?

家臣:高野山に墓を建てたって御隠居(忠恒)様のウソっぱちです!!亀寿さまの遺骨は葬儀もされないまま国分城で放置されてます




天地がヒックリ返り・心臓が口から飛び出て・ヘソが茶を沸かす・アンビリバボーの世界~~~

あろうことか、亀寿の遺骨は約2年も放置されていたのである。

とにかく呼吸するのを忘れるほど、ビ~~~~ックリした光久。

即効で葬儀を行い、高野山に墓を作って納骨、本国に菩提寺も建てて、家臣らに月命日の5日には墓参に行くように厳命した。

一説には「亀寿の祟り」を恐れたとも言われているが、祟るなら忠恒の方なのでは・・(--;;)



忠恒は、幕末の雄藩となる薩摩藩の土台を作った男で、そういう意味では名君です。

が、余りにも「偉大な父」と「偉大な叔父たち」を持ち、さらに「若死にした優秀な兄」がいたため性格が屈折する^^;

亀寿から見れば精神的DV夫だが、忠恒を慕う家臣も多数いて、彼が死去したときは殉死者は9人もいるし、

信賞必罰・薩摩人らしく武勇を愛し、家臣を庇って将軍連枝と大喧嘩するくらいの気骨もある。

何より「西軍・副大将の宇喜多秀家公を匿う」のは、相当の胆力が無いと出来る事では無い。

が 財政難でありながら鹿児島(鶴丸)城を作り、農民に重税を課してもいる。

鹿児島城築城は父・義弘は大反対だったが、言う事聞かない息子は強行^^;

義弘:あんな要害悪いとこに造って,いきなり[背水の陣]ですかぁ!?書院だの茶室だの数寄屋造りだの,自分の趣味の部屋ばっかり先に作って,まだ風呂が出来てないって、なんじゃそりゃぁ!!


と,お叱りを受けてます^^;

まぁ要害悪いとか、天守が無いとかは、幕府に遠慮したんじゃないかなぁ(風呂が後回しなのは謎)

忠恒は、良い方にも悪い方にも極端で、評価が難しい複雑な内面の持ち主です。

ただ島津家久・豊久ファンとしては、忠恒が改名してるのは承知しているが「家久(こっちの家は家康からの偏諱)」とは呼びたくないんだなぁ^^

とにかく別居生活20年に及ぶ夫婦の愛憎は終り、秀吉が口出ししたせいで拗れまくった島津の後継者問題は落着した。

亀寿は法号・持明(じめい)夫人~薩摩言葉でジメサァと呼ばれ、現地では「ジメサァ祭り」という祭礼が残っています。

亀寿の墓は忠恒の側にはなく、仲睦まじいと伝えられている最初の夫・久保の側にあります^-^

参考資料(国分衆)町田家正統家譜

さて、次回からは島津別伝~宗家になれなかった分家筆頭~薩州家です。それは・またの話^-^sio

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【最悪な夫~by亀寿】島津氏7・栞歴7

薩摩お家流剣法・示現流(じげんりゅう)創始者・東郷重位(とうごう ちゅうい)彼が主君・忠恒(ただひさ)の命令で殺した家臣の数は19名~


忠恒:こりゃシオシオ~~ワシだけ悪者にすなっ!バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
   叔父貴(義久)もMr重位・東郷に依頼しとるのを書け!!

シオシオ:あ~あ~聞こえない~薩州家書きたい~~~相良も書きたい~~~佐賀もやりたい~~~~




亀寿(かめひさ)は、島津16代当主・義久(よしひさ)の末娘で、島津家の正統相続者だった。

そのため女の身ながら、島津家の中では「別格(当主クラス)の扱い」を受けていた。

残念ながら現存していないが、藩主同様に肖像画も描かれていたし、彼女付の家老も数名いる。

島津家中は勿論のこと、17代当主・義弘(よしひろ)でさえ、

姪にして嫁でもある彼女に対して、名前を呼ばず「御上(おかみ)様」と尊称で呼び敬意を払っていた。

「亀寿」というのは彼女の幼名でして(女性で幼名が残っている例も少ないのだが)尊称で呼ばれ続けていたので成人後の亀寿の名前が不明なほどだ。
(残された文書も「亀寿」のことを書く時は「御上」と敬称で記して「名前」を書いていない)
(「名前」を声に出して呼ばない・・・記録にすることすら遠慮する・・・このことを持ってしても亀寿が薩摩きっての貴人として最高級の待遇を受けていたことが推察できます)

亀寿は最初、義弘の次男・久保(ひさやす/亀寿より2歳年下)と結婚していた。

大変に仲睦まじいラブラブ夫婦で、久保との結婚生活が亀寿にとって最も幸福な数年間だったろう。

優秀な武将・久保は、島津家中から慕われ将来を嘱望されていたのだが「朝鮮の役」の戦地で病死してしまう(文禄2年・1593年)




悲嘆にくれる亀寿へ、追い討ちのように秀吉が島津後継問題に首を突っ込む。

正統相続者である亀寿は勿論、亀寿の父・義久の意思も完全スルーして、久保の弟で義弘の3男・忠恒を後継者に指名!

石田三成に命じて二人を無理矢理に結婚させてしまう。これで夫婦関係が上手く行く筈が無い。

亀寿と忠恒は「夫婦」とは名ばかりで、もしかしたら一度も実質的な夫婦関係が無かったのではないだろうか。

天正15年(1587年)に秀吉に島津が降伏してから13年間、亀寿は人質として伏見と大坂で寂しく暮らしていた。

もちろん秀吉が亀寿の上洛を要求したのだ。

細川忠興の仲介で一度帰国しているが、まもなく再び人質として上洛している。

秀吉死後、不穏になる政局を危ぶんだ父の義久は「亀寿を薩摩に返して!!」と、石田三成に何度も懇願している。

だが、亀寿の島津での地位を知っている三成の返事は当然「NO!」

義久の三成に対する不快・不満の一つとなった。

そう・・・1600年「関が原の戦い」の時、亀寿は大坂の島津屋敷にいたのだ。
(病み上がりの身体だったので、本戦前に脱出しそこねた)

西軍が負けても「豊臣家」は亀寿の帰国を許さない。

やむなく厳しい監視と検問の中、侍女を身代わりに大坂脱出!

西宮(大阪府)で、敵中突破して退却してきた義弘と合流した。

義弘の薩摩への撤収は、亀寿と義弘の妻と(どういう経緯か謎だが秋月家の妻女も同行)侍女数名の女連れだったので、非常に困難を極めたのだ。

義弘と薩摩兵は、命に代えても「島津宗家正統相続者・亀寿」を無事に薩摩へ帰さなくてはならなかった。

とはいえ、女の足では行軍速度は思うように行かない。

そこへ同じく西軍に属し九州目指して脱出中の立花宗茂と偶然に出会った!

敵中突破でボロボロの島津勢と違い、まとまった軍行動してた立花さんの協力で無事・薩摩に帰還したのだ。


江戸幕府の時代になり「亀寿を人質として江戸へ」って話は何度か出るが、そのたびに父・義久が話を握りつぶし、亀寿を守っていたようだ。
(かわりに義弘の娘・御下姫が人質として下向^^;)

夫・忠恒は「自分より格上」で「藩主より敬われる妻」亀寿の存在を既に憎悪していた。

慶長14年(1609年)忠恒は幕府に「将軍家の跡取り竹千代の弟・国松を養子に欲しい」と申し出る。

島津家老:うちの藩主の奥さん,もう44のババァで女終ってて,藩主もアレじゃナニが出来ない~無理って感じで、子供できそうにないんです

幕府:ブハゲホグホ~将軍家には男子が二人(2代様の隠し子は未公表)しかいないから養子無理だよ~奥方が高齢でも藩主は七つ下の30代でしょ、愛人作って頑張りなさい~


もちろん幕府が断るのは折込み済みで、これは宗家正統相続者の妻を差し置き、愛人作るための大義名分ゲットするための作戦でした。

そして慶長16年(1611年)多病ながらも長命だった義久が、国分城(現きりしま市)で病死した。



島津忠恒~~イメージ画像

忠恒は、父の葬儀のため鹿児島城から国分城へ訪問した亀寿を、そのまま国分に押し留め強引に別居。

かねてから用意してた愛人を一気に8人置いて子作りに励んだ。

そして義久派閥の家臣たち、平田増宗(家老)平田宗親(家老)比志島国隆(家老)を処刑!!

冒頭に上げたように、次々と義久に忠実だった家臣を(Mr東郷が)殺していく。

後ろ盾の父・義久を亡くし、頼みとする家臣が次々殺され、亀寿は為す術もなかった(;;)

気質優れた亀寿は秀吉夫妻の覚え目出度く、北政所からは帯や着物を下賜され、秀吉からは1万石の化粧料(亀寿の個人資産)をプレゼントされていた。

その亀寿の化粧料を忠恒は奪い、さらに国分城の家臣(国分衆)に圧力をかけて亀寿への生活費の仕送りを完全ストップ!

16代当主の娘で、17代当主の姪で、18代当主の正室で、島津宗家正統相続者の姫様が、お城の中で餓死寸前(リアル・ほんとに怖い童話)

義弘:いい加減にせんか!!こんバカ息子が!!バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!


加治木で隠居生活してた義弘の元へ、忠恒の厳重な監視を逃れて駆けつけた家臣の知らせが間に合い、

亀寿は義弘の手配で国分城で暮らせるように配慮してもらうことができた。

忠恒は亀寿への嫌がらせのために、側室との間に子供ができるたびに、いちいち知らせていたらしい^^;

元和2年(1616年)庶子の中で一人の男子が誕生する。

源氏物語の「光る君」のように、宮中の女官たちまでが胸キュンさせたイケメンボーイ。

その男子こそ、のちの薩摩藩2代藩主・光久なのだが、それは・またの話(^-^)sio


参考資料(国分衆)町田家正統家譜

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【御下(おした)の受難】島津氏6・栞歴6

君は良い友人だったよ。だが君の父上がいけないのだよ・・・by初代藩主・忠恒


慶長5年(1600年)3月に、徳川家康の仲裁で降伏した伊集院忠真(いじゅういん ただざね)。

彼の降伏によって「庄内の乱」は鎮圧された。

伊集院忠真は都城から帖佐2万石へ移動となったのだが、実際には領地には赴かず島津義弘の屋敷にいた。

というのも、忠真は義弘が溺愛する次女・御下(おした)と結婚していたので、義弘の保護下に置くという名目で、厳重に監視されてたのです。

忠真と御下の間には1子・千鶴姫が産まれてるので、夫婦仲は悪くはなかったと思う(むしろラブラブ)

御下は乱の間も父・義弘の元へは戻らず、夫・忠真の側に留まっている(男親てのは寂しいもんだ)

が、忠真は大人しくしてなかったらしい。旧領の都城の回復をあくまで狙ってた(元々の本貫地は伊集院なんだが)

忠真にすれば、殺された父に対する「不忠者」の汚名を晴らしたかったのだろう。

だから父が拝領した「都城」に拘ったのではないだろうか。

忠真は「庄内の乱」で食糧支援をしてくれた加藤清正に「旧領地回復のための助力を願う手紙」を出している。

この手紙は加藤清正には渡らず、ビビった使者が島津忠恒に渡してしまう。

なにやら出来すぎた話で、このあたり島津に都合の良い情報操作があったかもです。



島津十字

じりじり焦る忠真のもとに「石田三成挙兵」の話が耳に入る。

旧領復活のチャンス!!忠真,行きまぁぁぁ~~す!

義久(よしひさ・前当主で義弘の兄)行かせてたまるかァァ


伊集院家は石田三成と親しいので、参陣するなら西軍になるだろう。

「庄内の乱」で8千を集めた伊集院家だ。降伏で勢力が衰えたとはいえ、1千くらいは集められるのではないだろうか。
(伊集院氏は島津家の支族でして、家臣団の中でも最も構成人数が多い一族、その数は伊集院本家・分家・庶家合わせて30家以上)

三成も島津(の中の伊集院)をあてにしてたので、余計に義弘の兵力の少なさにガッカリしてしまったのだ。

が 伊集院が関が原で活躍し旧領復活したら、島津宗家の面目丸潰れ、家中の分裂に歯止めがかからなくなる。

前当主・義久は島津本軍を本国に留め、伊集院が動こうとするのを全力で阻止したのだ。



島津忠恒(ただつね)イメージ画像

忠恒に殺された家老・伊集院忠棟(忠真の父)は、早くから豊臣政権に積極的に近付いていた。

島津VS秀吉の「根白坂の戦い(天正15年/1587年)では、利敵行為ともとれるサボタージュをしてます。

この戦いで劣勢に焦った義久の孫が無理な突撃をして戦死しています。

伊集院忠棟は「島津家のため」と思っていても、とうの島津宗家にとって豊臣政権に近づきすぎる家老などは「獅子身中の虫」でしかない。

そして「宗家に歯向かい乱を起こした伊集院忠真」も、父・忠棟同様に「赦すべからざる人物」だった。

慶長7年(602年)「関ヶ原の戦い」で西軍だったことの謝罪のために、忠恒は伏見へ上洛することになり、忠真もこれに従っていた。

しかし忠真は忠恒に狩り誘われ、日向野尻で鉄砲の「誤射」により死亡してしまう。

忠真の死は、表向きは「誤射による事故死」として処理され、忠真を撃った藩士は切腹してますが、これは忠恒が命じた上意討ちです。

なぜなら忠真の弟たちが、それぞれ別の屋敷に預けられたにもかかわらず、同日に全員殺されているからです。

それだけでなく、養子縁組などで家名を継がせないためでしょう、忠真の母親まで殺されてます。

さらに忠真を撃った藩士も、孫の代だったかで以前より高い身分で復活してるんです。

= 哀れ御下姫・・・華の盛りに未亡人(;;) = 



伊集院の遺児である千鶴姫が尼寺に行くこともなく、母親の御下姫の手許に残すことができたのは、

末娘の御下を溺愛していた義弘が健在だったからでしょうし、

もしかしたら義弘は「御下(娘)と千鶴(孫娘)の無事を条件」に伊集院の始末を黙認したのかもしれません。

そして未亡人となった御下は、島津家の幕府に対する人質として江戸へ行くことになります。

ウィキペディアで検索すると出てくる「薩摩藩は参勤交代にいちはやく呼応し~」ってあるのは御下のことです。

忠恒は長い旅に出る妹に手紙を出してます。

忠恒~30代以上続いた島津家が(鎌倉の頭デカい人からカウント)こんなことになるとは思いもしなかったよ~女の身で良く決意してくれたね~ありがとう!!頑張ってね!


愛娘と離れ離れの猛将・義弘は涙目(@@)心配し、たびたび手紙を出してます。

御下姫[お父様^^私も娘も元気よ~最近、屋敷でワンコを飼ってるのよ♪]


なんてやりとりをしてる。



静かに暮らしてた御下姫だが、兄であり藩主の忠恒の命令で、娘・千鶴姫の婚儀が決まる。

愛娘と別れるのは辛いが、反乱を起こし殺された伊集院の血を引く娘が、兄の養女として晴れて譜代大名の家に嫁ぐのだ。

嫁ぎ先で疎略にされることはない。と、自らを慰めた。

さらに御下の元へ父・義弘の病の知らせが届く。慌てて幕府の許可をもらい薩摩へ戻ると、

父・義弘は既に亡くなっており、葬式までもが終ってた。 

・゜・(PД`q。)・゜・お父様~~~歎く御下に兄の忠恒が云う。

忠恒[御下,お帰り~お前に良い再婚話があるんだよ~島津久元~知ってるよね!]

御下[ええ?!この話は平成じゃないのよ~アラフォーで再婚って・・てか相手は奥様いるでしょ]

忠恒[ダイジョウブ!!離婚することになってるから!!]

御下[~--------------!!! ]



実は再婚相手の方の奥方は、亡くなった義弘の忠臣として名高い新納(にいろ)さんの娘。

忠恒は義弘系家臣を自分に付けるために政略結婚を仕組んだのです。 

島津久元はイヤも応も無い、忠恒に逆らう者は薩摩藩お家流~示現流創始者・東郷重位の刀のサビ(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

泣く泣く妻と離婚して御下姫と再婚です(--;;)



人質として江戸にいた御下が薩摩に戻るんで人質変わります^^;

今度は、忠恒・御下兄妹の「母方だと叔父の孫」で「父方だと従姉の孫」にあたり、

さっき話した「根白坂の戦いで戦死した義久の孫の忘れ形見」でもある、

まぁ、簡単に言えば「日置島津家の若様」が人質として江戸に行きます^^;;

こんなややこしい人選になったのは、藩主である忠恒と正室・亀寿の間に子供がいないせいでもありますが、それは・またの話(^-^sio)

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【不本意な再婚】島津氏5・栞歴5

「暗君無し」と謳われた島津家だが、全ての当主がそうだったわけではありません。

ダメ当主として真っ先に名前があがるのが、14代当主・島津勝久です^^

そして島津宗家のピンチに現れるのが「島津中興の祖」と呼ばれる、島津忠良(隠居後は日新斎/じっしんさい)~~伊作島津家の当主です。 

日新斎が宗家を継ぐのではなく、息子・貴久が勝久の養子となって島津15代当主となります。

貴久の子供が高名な「島津4兄弟~義久(長兄・16代当主)義弘(次男・17代当主)歳久(三男)家久(末弟・庶子)です。

貴久の知名度は「中興の祖」と「4兄弟」に喰われてますが、彼も優れた武将ですよ^-^

とはいえ、15代貴久以降は分家筋から出た当主、一大血族である島津を束ねるのは容易ではありませんでした。



島津十字

義久(16代当主)が、長女と次女を島津の分家に嫁がせたのは、一族の繋がりを強くするため。

そして宗家の支配権を強化するために必要なことだったのです。

長女と次女が分家に嫁いだので、島津の相続権は義久の末娘・亀寿のものとなりました。

「ん?17代が義弘だから義弘の息子が相続1位じゃないの?」という疑問の方・・・当然です^^;

天正14年(1586年)の九州征伐で島津は降伏~~16代当主は隠居し、弟が家督を継ぎます。

・・・・が、それは天下人・秀吉・・つまり豊臣政権の意向です。

島津家中:秀吉の意向なんか知るか!長男・義久様の血筋こそ島津宗家本流だ!


とはいえ、次男で17代当主・義弘が、とっても魅力ある武将なのは、皆さん御存知です。

島津家は家中分裂し「義久・義弘の二頭体制」になってしまいます。

秀吉には、仲良し兄弟だった義久・義弘の仲を裂こうという意図もありました。

とはいえ家中が二つに割れたままじゃ、不味い^^;

義久の娘・亀寿と、義弘の息子・久保(ひさやす)が結婚します。

二人は仲睦まじく「朝鮮の役」さえ無ければ・・・夫婦には子宝が恵まれたかも・・・亀寿は幸福な生涯だったはずです。

で、島津4で記事にした通り、久保は朝鮮で病死してしまいます(_´Д`)アイーン

あ、久保は別に病弱じゃないです。

清正たちが無事帰還してるから、イメージが湧かないけど、「朝鮮の役」は慣れない海外での長期戦闘のためか、武将たちの病死が多いんです。

久保は父に似た猛将タイプで、朝鮮の戦地でも活躍してたの^^

久保の弟で、後の初代薩摩藩主となる忠恒(ただつね)は、このころまで優雅ニート生活してました。



島津忠恒(ただつね)イメージ画像

だってアニキいるんだよ。自分の順番来ないと思って、頑張るより趣味に生きることにしてた。

が、アニキの病死でラッキー自分のチャンス来た~~~

ってことで「朝鮮の役」で、さっそく武功を立てます(つまり本来は有能)

忠恒は秀吉に時期当主の指名を受けました。

ただし、条件付きで。



それが島津宗家の相続権を持つ、亀寿との結婚です。

秀吉の肝いりで結婚媒酌人は石田三成。忠恒に拒否権なしです。

さらに亀寿の意思も無視、亀寿の父・義久へも秀吉から打診は無く、一方的に決められた再婚でした。

豊臣政権は「嫡流(長男)ではない義弘の血筋から当主を選ぶ」という恩顧を与えることによって、島津をコントロールしようとしてました。

忠恒:なんで結婚しなきゃ家督継げないんだよ!オレ以外いないだろ!正室がアニキのお古!!6つも年上!ババァじゃねぇか!


亀寿には美人説と不美人説があって、不美人説が主流のようですが、別段、根拠はなさそうです。

プライドの高い忠恒は、自分より格上の妻が不満だったので、亀寿に指1本触れず顔すら合わせようとしませんでした。

もっとも亀寿のほうも、元から忠恒を好んではいなかったかもです。

何せ再婚は秀吉の命令で、当人同士の意思はガン無視なんです。

意に沿わぬ正妻でも「家督を継ぐ条件」では、離婚は絶対できない。

叔父にあたる義久(16代当主)が健在では、側室も持てない。 

ストレスたまりまくりの忠恒は、酒で紛らせてたようで、父・義弘(17代当主)に注意されてます。



秀吉の死後、忠恒が親豊臣派の筆頭家老・伊集院を惨殺したのも(結果として庄内の乱を引き起こす)

家康に積極的に近付こうとしたのも、豊臣に見切りをつけただけでなく、

そもそも亀寿との結婚を命じた豊臣政権に、好意を持てなかったのが遠因かもしれません。

義久(叔父で舅)と義弘(実父)の晩年の悩みとなった子供たち・・・

亀寿にとって悪夢の結婚生活が始まるのですが、それは またの話^-^

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あ~~~~~~~なんちゅ~ザックリとした説明だぁ~~~~~オタ心がシャウトしそう~~

もっとコアでマニアックに書きたい~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

てことで書き足りなかった部分は「島津別伝・薩州家偏」で行きます~~~~~~~byシオ

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【三成の誤算】島津氏4・栞歴4

島津氏16代目当主・義久は「賢弟愚兄の見本」と、よく言われているが、バカ殿に島津当主は務まらない。

実は義久は体も弱く、しばしば体調を崩し寝込んでいる。

そんな義久が当主でい続けたのだ。「愚かな兄」であるはずがない。

現実に島津氏の勢力が最も拡大したのは、義久の代だ。

シオ脳内イメージでは「西郷隆盛が戦国に産まれたら、義久みたいだったかなぁ」と思う。

どっちも肖像画(写真含む)を嫌って残さず、素顔が不明なとこも似てる^^

つまり「自分は口出しせずに、部下の力を2倍3倍発揮できるように配慮する」典型的な「薩摩型リーダー」です。

天才・猛将そろいの弟たちは、ノーブル長兄・義久が大好きでメチャクチャ尊敬していました。

その義久には息子がおらず、娘が3人いました^-^



島津十字

末娘・亀寿(かめひさ):義久の弟で、現当主・義弘の息子(久保)と結婚^^wedding anniversary~~

亀寿の夫が朝鮮の役に出兵!朝鮮で病死!!末娘が未亡人に!!Σ(´Д`;)

次女(名前?諸説あり):分家/垂水(たるみ)島津家に嫁入り^^wedding anniversary

次女の夫が朝鮮の役に出兵!巨斉島で病死!!Σ(´Д`;)次女まで未亡人!

長女・御広(おひら):分家/薩州家に嫁入り~^^wedding anniversary

ダンナ(義虎love)は、普通に病死~息子が成長し「朝鮮の役」に出兵~~

長女の息子が,島津当主義弘に従がわず,戦に出ないΣ(´Д`;)ちょ~おま~それヤバイ

怒った秀吉により長女の息子は捕らえられ小西行長にお預かり~そのまま失意の病死!(ただし自殺説と暗殺説あり

とどめ!長女の残る息子は家督を継げず,そのまま小西行長の宇土にお預かり薩州家は改易処分!


ひーーーーん!娘たちが・・・孫たちが・・・涙ドバーッ(┬┬_┬┬)

前当主・義久の晩年の苦悩、苦痛、懊悩は全て秀吉から端を発している。

弟の一人、祁答院領主・歳久は「朝鮮の役」に反対して起きた「梅北一揆(1592年)」の黒幕として、秀吉の命令で処刑されてます。
(※梅北一揆については、最新の研究で「地頭(梅北氏は国人出身の地頭)の領土問題がある」と指摘されています)

慶長3年(1598年)その秀吉が死んだ。

兄の義久は、秀吉の死を待ち焦がれたかのように、罪人として処刑された弟の菩提を弔っている(現・平松神社)

我慢に我慢を重ねていた義久は「庄内の乱(1599~1600年3月)」で遂にブチ切れ、当主・義弘が出した出陣命令を本国で握りつぶした。


当主・義弘:にーちゃん,気持ち判るよ!でも上方はケツにも足元にも火が着いてるんだよ~頼むから兵士送って~~~

前当主・義久:絶・対・イ・ヤ!徳川とか奉行衆とか島津には関係ない!

次期当主・忠恒:ちーーっす!自分,内府さまに謹慎しろって言われてるんス ( ゚Д゚)y─┛~~


義弘の息子で、後の初代・薩摩藩主となる忠恒(ただつね)は、実はシッカリ家康とやりとりしてた。

家康:忠恒ちゃん、今回(庄内の乱)は大変だったね~国許が落ち着いたら伏見で会おうね~^-^待ってるからね~

忠恒:マジっすか?謹慎終ったら自分、ぜってー行くんで、いろいろ頼んまス


元々揉める要素を抱えていた島津家は、さらに秀吉が引っかき回したせいで、完全にグダグダになっていた。

さて、経緯はともかく、島津本軍は「一部・義弘大好き家臣」を除き、薩摩に残った。

島津本軍がいるため、島津と揉めた加藤清正も肥後本国で足止め。


そこで困ったのが小西行長だ・・・加藤と島津が残るから、自分も本国をカラにできなくなった。

小西は肝心要の「関が原の戦い」で、常日頃鍛えた精鋭たちを、万が一に備え肥後に留守として残す羽目になってしまった。

関が原本戦で、小西の活躍がイマイチ地味なのは、小西の指揮に問題があったのではなく、頭数を揃えるために急遽集めた傭兵の混成部隊だったからです。

小早川の裏切り・さらに大谷軍が崩れたのを見て、傭兵はサササ~と戦場から逃げてしまい、小西は自軍を支えることが不可能になった。

でもって、石田三成です^^

島津軍が来たとき、兵数の少なさに島津を軽んじてしまう失敗を犯します。

三成が奉行を退いたのは、慶長4年(1599年)閏3月。

「庄内の乱」は同年6月。ちょうど境目。

奉行時代なら、大小細かな報告が全て手許に来ます。

でも隠居しちゃえば、情報は味方からしか入りません。

島津と加藤が「庄内の乱」で揉めたことを、ひょっとしたら三成は知らずにいたんではないでしょうか?

家康の「庄内の乱」に対する裁定は、島津家と反乱おこした伊集院へのもの。

加藤清正には触れていないので「公式発表がない+奉行でもない」だから島津の内部事情は手に入らない。



石田三成~

三成の島津の兵力に対するガッカリ具合から察するに、かなり九州の情勢に疎くなってる感じです。

「関が原の戦い」の発端は「会津(上杉)征伐」で、そのとき家康から動員かかったのがスライド~東軍になります。

つまり「肥後(九州)を本国にする加藤清正が、「会津征伐(東北)」で動員命令が下らなくても不自然じゃないの。

だから、島津家内部の意見が割れて、加藤や回り回って小西にまで波及しているとは気づいてなかった。

あるいは知った時には手遅れだったかの、どちらかでしょう。



島津が来ると聞いて三成の脳内算盤が弾いたのは、奉行時代の朝鮮の役での島津の動員兵力1万。

まぁ、それは元から無茶な数だし、本国カラにはできないし~

まぁ2~3千は行くか?な~んて甘い予想してたんだろうなぁ(6 ̄ ・ ̄)ポリポリ 

「庄内の乱」の時に三成が奉行のままだったら、加藤清正が伊集院へ食糧支援したことに対し黙ってはいないだろう。

清正を処分し島津と関係を深めるか?はたまた清正との仲直りのチャンスとするか?

いずれにせよ大事な切所に関われず、三成は甘い予想のまま運命の関が原を迎えてしまったのだった。

さて、次回は島津氏5・初代薩摩藩主についてです。それは またの話^-^

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【加藤清正が不穏な件】島津氏3・栞歴3

現在・肥前戦国史とともに薩州島津家データを収拾中でつ。

それで年表に大量追加が発生するんで、年表関連の記事更新が止まってました^^

え?「今までも充分あるだろ」ですか?

あぅ~凝り性なんで初代の用久から調査中なんでつ(【涙目】室町時代に突入【大爆】)

【予告】この島津氏が終わったら、島津別伝として薩州家連載します


分家と宗家のドロドロを御堪能?下さい(大爆)

マニアックすぎなんで、あんまり細かくやりません。

ザックリ(←ホントか?)と、長くても5回程度(←大丈夫?)に納めます (`・ω・´)キリッ

こちらの島津氏本編も、後日リサーチで判明した部分を加筆修正してますので、お時間ありましたらご一読下さい^-^

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庄内の乱(1599年・慶長4年6月~)で、加藤清正は反乱側の伊集院を支援していた


清正の行動には説明がいる。

竜造寺・大友・島津の戦国九州三国志~無類の強さと結束で島津は九州統一まで、後少しだったのだが、

中央で「豊臣政権誕生」で薩摩・大隈の二カ国に押し込められる。

その時に島津家では肥後・日向などの現地雇用者を解雇しないで国へ連れ帰ったそうだ。
(放置したらしたで、ひと騒動になるからだろう)

そのため肥後(熊本県)+日向(宮崎県)には、個人レベルの地縁・血縁・人脈キープしたままでして、

「島津で騒動が起きると肥後・日向に波及する」というテンプレートが出来上がってしまい、

肥後を統治する者にとっての、この迷惑な関係は明治に入っての鹿児島県の反乱「西南の役」まで続くこととなる。

某〇川家「島津は基本仮想敵です」




1592年には梅竹一揆が起き、首謀者の島津家臣が「朝鮮の役」で出兵し留守だった肥後・加藤清正の支城を占拠する事件が起きている!

反乱は一月ほどで鎮圧されたが、この反乱を重要視した秀吉は島津家に厳しい処断を下した

反乱の黒幕として(処断の内容を秀吉に働きかけたのは細川幽斎)島津4兄弟の三男・祁答院領主・歳久の処刑を命令!

1594年~1596年の間、薩摩・大隈全土の検地を実施

潜在的に不穏な肥後・日向に対する抑えとして、島津家筆頭家老・伊集院忠棟を日向の庄内の地に8万石で配した


伊集院は豊臣政権に反抗する不満分子にニラミを効かせる、いわば秀吉の代弁者だった。

島津の筆頭家老を務める男だ。自分の役割は当然知ってる。本人は「これが島津存続の道」と信じていただろう。

そしておそらく家老の分を越える言動をしたのだろう・・・島津義弘の息子忠恒に殺された。

つまり伊集院忠棟が殺されたことで、島津家内部には【親・豊臣派】は消滅したのである





驚いたのは清正だ。梅竹一揆のように肥後にも庄内の乱が飛び火するかも!

親豊臣派の伊集院一族には、島津家中の「不満分子に対するフタ」として留まって欲しい。

てことで清正:伊集院ファイト~~~つ【寸志・食糧☆】贈るね~

義久(前当主):げ!なにすんだ!!ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.余計なコトするな!!と、清正に厳重抗議


え?支援が何故バレたって?

反乱起こした伊集院忠真(いじゅういん ただざね・忠棟嫡男)が降伏したからです。

伊集院側は粘りに粘り、降伏したのは慶長5年(1600年)3月・・・なんと「関が原の戦い」の僅か半年前


五大老筆頭・家康の裁定で、伊集院の一族は助命され2万石で移動。

庄内には島津分家で重臣で、もともと庄内を納めていた北郷(ほんごう)が復活。

伊集院パパを殺した忠恒は1年の謹慎処分。

この間・当主義弘は「反乱にも伊集院パパ殺しにも無関係」と証明するため、大坂に留まってた。

清正の謀反支援行為への処罰ですか?

家康の大事な武断派のコマだもの。処分なしですな ( ゚Д゚)y─┛~~

豊臣政権に色々不満が堪っていた前当主・義久は、裁定にブチ切れヘソを曲げた

[庄内の乱の後始末のため]と言って、関が原の時に本国の島津軍へ動員命令を出さなかったのだ

(ただし、乱の規模が大きかったので「後始末ウンヌン」は丸っきりのウソではない)

そして島津本軍が本国にいるために、備えとして加藤清正も肥後本国を動けなくなった





島津中心に話を進めているが、この時期の九州は「何時・何処で」一揆が起きても不思議じゃなかったんです。

秀吉が起こした「朝鮮の役」で、九州はいわば最前線基地でした。(てか九州の役の時から、そのつもりだった)

朝鮮出兵のための軍費調達・労役のための人員確保、九州の農民は太閤検地の絡みもあって、税負担が実質5~10倍にハネ上がったそうです。

とても耐えられるものではなく、村まるごと田畑を捨て逃亡するところが続出してました。

逃げても生活のあてがあるわけでなく、流民になるので治安は悪化。

秀吉の死で「朝鮮の役」は終ったものの、人の手が入らなくり荒野になった田畑・里山が、元に戻るのは何年後になるか・・・ちょっと想像のつかない状態~

だから清正が出兵したとしても、全軍引き連れるのは難しかったでしょう。


島津軍が本国⇒清正も備えで本国・・・これが他にも波及し、 

石田三成にとって想定外のことが起きるのだが、それは またの話^-^

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【兄と妹】島津氏2・栞歴2

忠恒(ただつね)には妹がいた。名前を御下(おした)と云う


慶長4年(1599年)3月9日~「伊集院忠棟殺害事件」は、ただちに豊臣政権に報告された。

奉行の石田三成は忠恒に「どういうことだヽ(゚Д゚)ノゴルァァア!!」と手紙を出してます。

え?「3月9日じゃ、三成は家康に助けてもらってたんじゃね?」と、お思いの方。

明治以前・・日本の暦は太陰暦(月の満ち欠けが基準)でして、閏年ならぬ閏月がある。

つまり慶長4年には、ふつうの3月と閏(うるう)3月があるの^^b

伊集院の事件は普通の3月の出来事で、前田利家は存命中で三成も奉行なんです^^;

とにかく忠恒の身柄は高雄山で謹慎、豊臣政権の処分を待つ身になった。




さて忠恒の父・義弘(よしひろ)は、50を越えてから女の子を授かりました。

老いてから生まれた娘の可愛さに貴賎はない。義弘はデレデレだったらしい^^;

家臣:あの~年頃なんで、末の姫君の結婚、そろそろ決めたいんですけど~

義弘:ヤダヤダ~政略結婚なんかしたら、御下に毎日逢えなくなるぉ(;;)←駄々をこねる猛将

家臣:(ダメだこりゃ)じゃ~家臣とこに嫁がせましょ~いつでも逢えますよ~

まぁ戦国の姫君の嫁ぎ先に、何ひとつ政略が無い・・・と言うのはウソになるだろうが、

こうして御下が嫁いだ相手が、伊集院忠真(いじゅういん ただざね)。

そう、兄・忠恒が殺した伊集院の嫡男です。

身内で敵味方になるのは「戦国の世の習い」・・・なんだけど、それとは少し違った。

島津忠恒という男は、目的のためには手段問わずで、妹を犠牲にするのを全く躊躇わない冷酷・非道な男だったのです





ただし、自分は忠恒の全てを否定するつもりはありません。

分家や国人が五月蠅い島津家で当主の権限を強化するには、忠恒のような人物は必要だったと思うからです。

結局、事件は五大老筆頭の徳川家康が裁断を下した。

家康:自分の家臣で主家への不忠者を斬っただけ~従って忠恒は無罪



そう・・家康は、ここぞとばかりに島津家へ恩を売ろうとしたんです。

知らせを聞いた伊集院の嫡男・忠真は、身に覚えのない父への不忠者の烙印にブチキレた!!

とはいえ、最初は義弘に対し「自分の忠誠は変わらない」と手紙を送っている。

が、既に関係は拗れていたので、伊集院領との境の関所では交通がストップされた!

伊集院家中会議の結果「このままでは 滅ぼされる」ということで 決起!!

後の世にいう「庄内(しょうない)の乱」の勃発です





御下の夫・忠真と兄・忠恒は「朝鮮の役」で共に戦った戦友でもありました。

忠恒の妹姫・お下は実家へ戻らず、夫に付き従ったらしい。

翌年には二人の間に娘が産まれてます^^

そして妹姫の人生は、兄・忠恒のために翻弄(ほんろう)されることとなる。

伊集院の領地は日向の庄内(宮崎県都城市)という土地でした。

都之城(みやこのじょう)を本城に支城が12!

戦を避けるための住民・兵士も含めて、それぞれが城へ立て篭もった。その数・約8千!!

島津どころか、近隣大名(立花・小西・高橋もろもろ)にまで動員命令が下る大騒ぎに発展した!
この間に前田利家が死に、三成は武断派の襲撃受けて奉行職辞任~佐和山へ帰っているので、

この問題に口出し・関与できなくなった。

慶長4年(1599年)6月~忠恒自ら出陣し反乱の鎮圧に乗り出した。動員は約3万~4万。

プライドの高い忠恒は、諸大名の介入を拒んだので、応援大名は実際には戦には参加していない。

ちなみに関が原で戦死する島津豊久も従軍してます~川* ̄д ̄*川ポッ~豊久好き~~~

支城っても、戦国時代だから土塁かきあげた実践用の簡素なものだけど、

地形うまく利用し、それぞれ連携とって防衛ラインを敷いてたんで、鎮圧側は城攻めに手間取った。

隠居してた叔父・義久(よしひさ・前当主)も出陣したけど、城落とせない~~

膠着状態のなか、怪しい動きをする大名がいた・・・

それは肥後半国を治める加藤清正で、

そして庄内の乱が「島津の関が原」だけでなく、

回り回って「加藤清正の関が原」にも関わるのだが、それは・・・またの話^-^

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【肥前千葉氏】

マンモス氏族・千葉氏・・・それが九州に土着した理由は「ズバリ元寇・蒙古襲来」

時は鎌倉時代~幕府では元寇に備えるために、九州に領地を持つ御家人の下向を命じた。

一度目の蒙古襲来で千葉当主討死、二度目の蒙古襲来では家督を継いだ嫡男が九州へ下向。

元寇そのものは、神風だの何のと元兵が撤収したのだが、

鎌倉幕府では「また来るかも~」ってことで、千葉氏の帰郷を認めず大隅国守護職に任じる。

そのため下総千葉氏では当主不在となってしまい、窮した家臣達は弟を当主として名跡を継がせた。

以降の下総千葉氏は、本来であれば庶流である弟の血統が当主。

嫡流だった兄当主が、肥前(千葉氏の領地が肥前にあった)に土着し、肥前千葉氏の祖となった。

う~~~ん「ワシ嫡流だったのに~」てな感じで、枕を涙で濡らしてたんじゃなかろうか^^;


鎌倉・北条氏VS足利尊氏では、初めは北条氏に従ったが、途中で足利尊氏に鞍替え。

南北朝の動乱では目立つ記述は無いものの、肥前千葉氏は周辺国人を従え、室町期には少弐氏と勢力を二分する実力をつける。

雲行きが怪しくなるのは、肥前千葉氏に内紛・・御家騒動が起きるからです。

永享9年(1437)~大内氏に内通した肥前千葉家重臣・中村胤宣が、千葉胤鎮(当主)の弟・胤紹を奉じて謀反を起こした


大内のバックアップで謀反は成功、兄・胤鎮は国を追われてしまう。

謀反の功労?者・中村胤宣は、スッカリ天狗になって千葉家中で専横の限りを尽くしたと言う。

文安2年(1445)~中村胤宣の仕様にブチ切れた家臣らが、千葉胤鎮(兄・謀反のせいで追放されてた前当主)を擁して、千葉胤紹(弟)・中村胤宣追放の兵を挙げた


両軍は各地で戦いを繰り返したが、兄の千葉胤鎮方の勝利となり、敗れた弟の胤紹・奸臣の中村胤宣は国府に退却し、ともに戦死をとげた。

肥前千葉の全盛期は、復活した胤鎮の息子・元胤の代で、杵島郡、小城郡、佐賀郡を支配して小城城下は大いに賑わった。


寛正5年(1464)~全盛期の当主・元胤が早世し、わずか14歳の教胤が家督を継いだ


当主若年とみて、胤朝(教胤の祖父・胤鎮(兄)に討たれた胤紹(弟)の子)が千葉家の家督を狙った。

大叔父・胤朝は大内氏に接近~千葉家弱体化を狙った大内は、肥前今川と渋川を抱き込んだ。

大内の企みは成功し、親戚だった肥前今川と肥前千葉が争い、結果として肥前今川の嫡流が絶える。

文明元年(1469)~千葉教胤は大村家親を討たんとして藤津郡に出陣したが、おりからの悪天候によって乗船が転覆して水死を遂げてしまった(数え20歳)


てことで執念&念願かなって大叔父・胤朝が家督を継ぐ。(=^・ω・^=)V ブイ

ところがこれで家中は治まらず、重臣同士が大ゲンカ。胤朝の弟を担ぎ出して謀反起こした。

兄弟同士の争いは室町幕府の裁定で、いったんは治まるのだが16年後に弟が兄・胤朝を殺して出奔してしまう


肥前千葉氏断絶の危機に介入したのが少弐政資


亡き胤朝の娘に自身(つまり少弐政資)の弟を配して家督を継がせた。これが本家で晴気城主の西千葉氏


さらに亡き胤朝の弟(出奔した弟とは別)の子・胤棟(興常)が大内氏のバックアップで別家を立てる。それが牛頭山城主で東(祇園)千葉氏


大内サイドが東千葉氏
少弐サイドが西千葉氏←こっちが本家
彦法師(鍋島直茂)が一時期養子入りしたのは西千葉氏です~

読者的には最後の緑枠三行だけあれば充分です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

文安・寛正年間とか、とにかく千葉・少弐・今川・千葉のグダグダ全般が自分的はツボなんですよ~~

これに歴代の大内当主が首を突っ込み、肥前戦国史を引っ掻き回し、

小勢力である地侍(国人)たちは、生き残りのために有為転変の政局の中で、必死に本貫地を守り抜こうとします。

竜造寺・鍋島家も、地侍(国人)たちの中で多少なりとも力をつけた・・・という状態に過ぎません。

戦国の明日はドッチだ~~~~~って感じで混迷した時であればあるほど、地侍(国人)は本領発揮します~~

もうワクワクです!!'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`ァ







オタ記事に御付き合い感謝です。
可愛らしいニャンと桜画像で和んでくださいませ~

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【筆頭家老の死】島津氏1・栞歴1

慶長4年(1599年)3月9日~京都・伏見の島津邸で殺人事件発生!!

被害者は島津家・筆頭家老の伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)氏・年齢不明!

加害者は島津家・跡取りの島津忠恒(ただつね)23歳!

命を受けて家臣が犯行を行う上意討ちではありません!御曹司自らの御手討ちです!!





そもそも揉めたのは検地のトラブルが原因だった。

検地は物凄~く簡単に言うと、土地台帳の実態調査・それにより米の収穫高を決め、租税額を決定する。

島津の検地は文禄3年(1594年)です


地元の反対・反抗に困った17代目当主・島津義弘(しまづ よしひろ)は、

検地の実施を【三成お任せコース☆】にしてもらった。

この時に三成が数字マジックで、わざと多く見積もり重税になるようにしたとかウワサもあるが、

とにかく終わって領地を家臣に配分する段になって、その役目を島津家筆頭家老の伊集院に命じた。

島津は秀吉に負けるまで、九州統一まで後一歩だったのだが、

敗れたことで「薩摩・大隈・日向一部」に押し込められてしまったので、改めて家臣の領地を決めなきゃだったの。



島津十字

伊集院は、その再配分を「朝鮮の役」で皆が出兵してる間にやってしまった(いる間じゃ揉める)

今で言うと、土地登記簿謄本を総入れ替えで「太郎所有の甲町⇒⇒一郎所有の乙町」になるって感じ。

で、島津家臣らが朝鮮から帰ってみると・・・「先祖代々の オイの土地が無かっ!!ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」という事態になり、島津家中は大混乱~~


困った島津忠恒(ただつね)は、奉行に(三成以外の人だったみたい)オネガイ~~

「朝鮮の役」で活躍した家臣に加増(かぞう・領地をあげて所得アップ)する許可ください~っと申請。

奉行:え~~おたくは検地の処理で揉めてるじゃん。そんなのにクビ突っ込むのヤダ。

と、渋る奉行を説得し「島津が個人的にやるなら~」って、やっとOKもらったのだが・・・

家臣:じゃっどん、所得増やすっとは どげんすっつもいごわんそか?

忠恒:財政のムダを無くして・・・

家臣:こん薩摩で、ムダぁ忠恒サァの蹴鞠フィールドじゃっど!(c=(c=(c=(c=(゚ロ゚;c=アチャチャチャチャチャ-!!~


実現性の薄いマニフェストでは、家臣の不満は誤魔化せなかったil||li _| ̄|○ il||l



18代目となる島津忠恒

豊臣政権は空気読まないのか、揉めさせるためにワザとなのか「検地の功績(?)だ」と伊集院に領地を与えた。

が・・・これが、マジ本当に不味かった(_´Д`)アイーン

豊臣政権が伊集院に与えた土地は、島津家の分家にして重臣・北郷(ほんごう)家が代々治める土地だったからだ。

かつて日向の伊東家との争いの中で、死にもの狂いで死守してきた本貫地を、一片の通知で奪われた。
(島津家では北郷を宥めるために、代替え地として宗家領地を削って与えてます)

さらにトドメのように宗教問題までが絡む。

一揆を恐れた島津では、一向宗を禁じてたのだが、熱心な一向宗信者だった伊集院は禁令を無視。

多額の献金を続けたため、島津当主の義弘・前当主の義久・次期当主の忠恒のイライラも募って来たのだ。

いつしか豊臣への不満が、伊集院への不満に変わり、島津家中に不穏なウワサが飛び交った。

ウワサ1:伊集院な怪しっちゃ~あんワロが貰っさ北郷サァん土地な日向じゃ~肥後とン国境やぃぞ。肥後にゃ秀吉子飼いン加藤清正がおっど。もへ豊臣ん犬に成い下がっちょとじゃなかか?

ウワサ2:伏見の伊集院の屋敷は、殿サァお屋敷よりデカかそうじゃ!伏見じゃ宴で、毎日米ば食うちょったげなぞ





伊集院は豊臣政権に近付きすぎたのだろう・・・

島津が秀吉の降伏したばかりの時は、伊集院の政治力は必要だったのだが、

三成とも個人的にも親しくなりすぎて、癒着(ゆちゃく)してるように思われた。

不満が頂点に達し、秀吉が死んだことで統制がゆるんだところに事件が起きたのだ。

実はこの事件・・加害者と被害者だけは明快だが、真相(背後関係)はいまだ解明されてない。

江戸期の説には、伊集院忠棟が石田三成(徳川家康説もあり)と忠恒(ただつね)暗殺を企んでいるのを、
当の忠恒(ただつね)が立ち聞きしたのが発端だという、ウソっぽい話がある。

で、肝心の殺す時も「忠恒(ただつね)単独説」「義久OK+忠恒(ただつね)実行説」「義弘OK+忠恒(ただつね)犯行説」「義久+義弘OKで。。。きりないわぃ!!(/--)/ ┷┷ちゃぶ台返し

とにかく伊集院の死によって、薩摩に再び不穏な風が巻き起こり、 

島津の関が原に大きく影響するのだが、それは・・・またの話^-^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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