【兵士急募!素人可、火縄銃貸与あり】石垣原の戦い/九州関ヶ原1栞37

黒田家には謎が多い。

近年の研究では、如水が「嫡男でない疑惑」が浮上しているらしい。

つまり兄を差し置いて黒田家の家督を継いだようなのである。

そして如水には、黒田家が存在を公にしたがらない、早死にした次男もいる。

今回からは数奇に満ちた如水の人生で、最大の謎である関が原の時の行動を、時系列の史実と逸話を元にシオ風に検証したいと思います。

素人なんで お手柔らかに(*´pq`)クスッ

関が原の時、黒田家の領地・九州は中津の城には、長政の父・如水が留守番してた。

如水は自分の手許に4人の家老を残してました(母里・栗山・黒田(親族)・井上)

母里は、大坂の屋敷から如水と長政の妻たちを脱出させて中津に戻ったので、まだ解る。

だが栗山まで一緒に大坂から中津に戻っている。

母里と栗山は他家にも名が通っている黒田家老というだけでなく、如水の両手のような存在でして、如水の思考法や戦ぶりを最も心得ている側近なんです。

でもって4人とも黒田家最強メンバー「黒田二十四騎」から更に選抜された「黒田八虎」のメンバーでガチ武闘派。

本戦に投入せず留守番にしちゃうのは、あまりにも勿体ないメンツで、これは如水がヤル気満々だった証拠だろう。


黒田如水イメージ画像

1600年7月17日に三成が挙兵したことを知ると、如水は直ちに貯めこんでた金蔵を開き、金で兵士を募集した。

だが領内にいるのは、既に息子・長政が目いっぱい動員をかけて関が原に連れて行った後の、いわば残り粕。

初期応募で集まったのは、商人とか職人などの3500名ほどでした。

如水が動員をかけているのは、西軍・東軍に所属している各大名から、それぞれ三成・家康の元へ報告が届く。

大人しく留守番してると思ってた天才軍師の行動に、三成・家康の双方が困惑した^^;;

よく往年の小説などでは、如水の動きを長政が知らなかったような風に書かれているが、それは絶対ないと思う。

てか、そもそも長政が家康に近付いたのは、如水の指示だと推測してました。

黒田家は播州(近畿圏)出身で、中国~九州がフィ-ルドワーク。

領地も九州なので東海~関東の家康とは、直の接点がなくて親しくもない。

長政単独で表高12万石(実収18万石)の黒田家では、250万石の五大老筆頭・徳川家康の懐深く入るのは難しいだろう。

長政は武断派の中で、特に尾張(家康・本貫の血である三河の隣国)出身の大名たちを一つにまとめることで、家康に近付くことに成功したんです(西国の武断派には元々人脈がある)

よく「武断派リーダーは加藤清正」と言われているが、それはムードメーカーというだけ。

実際に彼らを結束させていたのは長政です。

長政は前哨戦から本戦にいたるまで、誰もが持て余す福島正則を東軍に引き寄せる役目をしていました。

そして父・如水は、加藤清正を東軍に引き寄せる役目をしていたんです。

九州・肥後の加藤清正は、本国に本軍を留める島津対策のために、自身も肥後に留まっていました。

ですが実はギリギリまで「家康につくか」「三成につくか」迷ってたんです。

三成は嫌い~~~だけど家康が天下に野心があるかも~~と、やはり不安に思うのは当然でしょう。

迷う清正を東軍につくように、と説得したのは如水でした。




とにかく挙兵した三成は、各地の大名たちに「西軍につくように」と手紙を出し、それは如水の元にも届いた。

三成曰く「如水に西軍になって欲しい。でもって、父である貴方から息子・長政を西軍の味方になるように説得して欲しい」と、ありました。

つまりホントに欲しいのは息子・長政が連れている精鋭・黒田軍で、如水自身じゃないよ~~

という実に三成らしい書面だった( ̄ω ̄A;アセアセ

ふと想ったが、三成は長政の離婚→再婚の情報を入手できていたんだろうか???


奉行時代に家康を糾弾したときですら、加藤清正の再婚情報が抜けていた(戦国も再婚は地味なのか?)

奉行でなければ情報は更に入手しづらいだろう。

それに黒田家も徳川家も上杉征伐の準備で忙しい~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

結婚式に友人・知人を招待するなんて時間的余裕ないだろうから、黒田・徳川両家の地味婚だったと思う。

もっとも挙兵後の「ガラシャの悲劇」にビックリで人質作戦中止した三成には、その手の情報は重要では無いかもです。
(てか知ってたら、ハナから如水に声かけてないかも)

如水は三成に「7カ国くれるんなら味方してもいいよ♪」って返事して時間を稼いだ。

ふっかけられたと怒ったのか?その後の三成は如水に接触していない。

とにかく急募した混成軍~軍とつけば聞こえは良いが、商人と職人・・・早い話ド素人。

イザって時は自衛のために武装する農民(地侍含む)の方が、遥かにマシ。

まぁ、ド素人でも戦国時代の人間なんで、さすがに黒田家紋や旗印は解ってる・・・はず(多分)

だが学校で団体行動の訓練を受けている現代人とは訳が違う。

一ヶ所に集合させるだけで大変だ(武家は命令で動く事を日常で訓練されている)

常日頃、鍛え上げた精鋭を率いてる母里ら八虎の方々がですよ。

(O ̄∀ ̄)尸「この旗を見たら集合」だよ~~という幼稚園レベルからスタートするんです(涙目

母里にとっては悪夢で、周囲から見ればコメディですな ( ゚Д゚)y─┛~~



光雲(てるも)神社の母里の銅像
(ふぅペディアより~拝殿と狛犬は福岡市内を守護し、母里は黒田の殿様を守護するために拝殿の方角に向いてます。

集めた者たちを数十人単位の組=グループに分けて、組頭には留守番家臣を置いてっと、にわか作りの軍編成「勝手に組を離れるな~組頭に逆らったら教育的指導だ バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!」

火縄銃の扱いができる者は鉄砲隊に回して火縄銃を貸与~~「銃は買い取りOK~そうでない奴は後日返却~ここの紙にサイン・・・あぁ字が書けない?んじゃ拇印しろ~」アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

えっと陣太鼓の合図を教えて「進軍・停止・攻撃・退却」これがキチンと出来るように仕込む・・・「って退却は黒田の旗印のとこに集合だ!村に帰ってOKってことじゃねぇ!!ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」

理想を言えば「軍の展開」の動きが出来ればベストですな( ゚Д゚)y─┛~~

そんなこんなで慌ただしく一か月経過。

1600年9月!遂に九州でも西軍が動き始めた!

日本で最後のチキン(秀吉命名)と呼ばれた男!大友義統(おおとも よしむね)が豊後(大分県)で挙兵する!~


如水も出撃を決意する。

ところが家老の母里が大反対!!

天下を狙うどころかスタートからつまづいた?!Σ(´Д`;) うあ゙

どうなる如水混成軍?!それは・またの話 by^-^sio

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北肥戦誌【1533年】

★天文2年(1533年)1月、道麒は味方を催し、星野の後詰を差し置いた上で、大友・少弐と戦うべく筑前から筑後へ打ち入る。
三原を過ぎて諸所を撹乱し、豊後に帰った大友の城を攻めた。

まず久留米城・安武城が落城、城主・豊饒永源は肥前国・東津村へ引き退き、安武鑑教は何方ともなく逐電する。
道麒は更に西方・筑前国内へ入り、少弐に味方する筑紫正門の武蔵城を攻め落とし、肥前国に入ると宗秀恒の鏡山城をも落とした。
此れを見た勝尾城主・筑紫惟門は開城して軍門に降った。
原田五郎などは、中国の仁保加賀守と勢を合わせ、怡土・志摩両郡の者共、上松浦の者らを打ち従えて道麒に同心、佐嘉・神埼に討ち入り、少弐一家を退治せんとする。

このとき資元・冬尚親子は多久の梶峯城にあったが、そこへ馬場氏・横岳氏・姉川氏・龍造寺氏らが同心して、資元親子を城原へと迎えると勢福寺城へ入れた。
江上石見守元種をこの守護とし、中野・西島・千葉・蓮池・崎村・直鳥らの城へ銘々立て籠もって、大内勢を待ち構える。

道麒は敵に打ち勝ちつつ進軍し、神埼郡三津村籾岳に陣を布き、少弐勢と戦った。
馬場・横岳・宗・出雲・小田・犬塚は各々支えたものの、大内方は多勢であり敵いそうもなかった。
12月に入り、道麒は綾部城と朝日山城を攻め落とした。
このとき、探題・渋川尹繁の長男・義長が、大内勢に加わり討ち死にしている
この年10月8日の暁、萬星半天に流動し、悉く海陸に落ちる

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【G(後)T(藤)S(出奔)!】福岡藩初代藩主11栞36

後藤又兵衛が黒田家を出奔したのは、引越しで揉めて以来、仮想敵となった細川忠興が手引きしたらしい。

忠興は高禄で後藤を雇うことを快諾し、待遇などは「委細面談」という状態だった。

「我が主・長政は執念深いので追手がかかるかもしれず、国境を無事に越えられるか判りません」

と後藤が言うと、忠興は「長政ならそうであろう。案ずるなワシに任せろ」と頼もしい返事。

後藤が一族・家臣を連れて国境近くまで来ると、そこにはガチ合戦準備万端の細川家臣と百名の鉄砲隊が華麗に後藤を出迎えに来ていたそうだ。

後藤が出奔(しゅっぽん=主君から勝手に離れる事)した時、黒田家から16000石という大名級の待遇を受けていた。

家老の母里が18000石なので、黒田家においても家老クラスの厚遇だったことが判る。

その上、筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)の一つ、大隈(おおくま)城の城主だった。

筑前六端城は、VS細川忠興用に豊前と筑前の国境沿いに造られた城でした。

それだけでなく、益富(ますとみ)城と呼ばれていた小城を、大隈城に大改造したのは後藤本人なんです!

その軍事情報&黒田家の内部情報を全て抱え、とうの仮想敵である細川忠興の下へ走ったのだ。

主君・長政と大恩ある黒田家に対して、これ以上の不義!不忠!嫌がらせは無いでしょう。

奉公構(ほうこうかまえ=家臣の再就職を妨害し社会的に抹殺すること)の処分は当然の処置です。

http://www16.ocn.ne.jp/~sironoki/100fukuoka-no-shiro/117kurosaki/chikuzen-6hajiro003.jpg(画像はサイトより拝借)
筑前六端城⇒黄色△印~上から若松城、黒崎城、鷹取城、大隈城(益富城)、小石原城、左右良城

城主つまり指揮官不在の城は、もはや空き城も同然!

後藤は直接雇用している自分の家臣も連れて出たので、大隈城の主だった家臣(仕官クラス)も消えた!

その上、国境沿いには完全武装の細川鉄砲隊100名が来るド派手なパフォーマンス!

(これは長政への嫌がらせに細川忠興が考えたアイデア^^;;)

大隈城下と近在の村は「今にも戦が始まる」とパニックになった。

後藤が抜けた大隈城の守りを固めるため、ただちに家老の母里自らが入った。

実は母里は六端城の一つ鷹取(たかとり)城の城主だったのだが、それを他の者に預けて大隈城に入ったんです。

後藤の引き起こしたパニックが、いかに大きかったが想像できる。


黒田節で紹介した名槍「日本号」・・・これは母里から後藤に譲られていた。

「朝鮮の役」でピンチになった母里を助けてくれた後藤への礼と友情の証だった。

だが後藤は黒田家を出る時に、この「日本号」を黒田家に返還している。

家老として、報告を受けた母里は全てを覚っただろう。

後藤が飛び出したのは一時の感情ではなく、黒田には戻るつもりはない。

二度と戻らないために、これほどの騒ぎを起こしたのだと・・・

万が一、細川家と戦になった時に、先鋒となって攻めてくるのは後藤又兵衛だろう。

その猛攻に勝てなかったとしても、何とか防衛ラインを死守し退かずに踏ん張れる男は、家中人材多しとはいえど家老の母里だけだからだ。(黒田美作でもいけるが別の六端城城主なんで抜けられん)

互いに思う存分戦うために、友情の証である日本号を持ち続けるのは心苦しかったのではないだろうか。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/c/c9/Mori_Tomonobu_statue.jpg/200px-Mori_Tomonobu_statue.jpgウィキペディアより母里銅像

後藤の出奔の理由には諸説あり明確になってはいない。少なくとも黒田家にとっては想定外・寝耳に水のビックリ仰天な出来事だった。 

シオ推測するに、後藤ファンが熱く主張する「長政の資質が如水より劣ってる云々」だけでなく、黒田家中での意識のズレが根っこにあると思う。

後藤は如水に愛弟子のように可愛がられ、8歳下の長政のことも弟のように一緒に育った・・それが不味かった・・・

自負心の強い後藤は、長政のことを主君とは思えない。。。そのくせ嫌いなわけじゃないという屈折した心境になったようだ。

黒田家を出た後も、自分は長政の事を言いたい放題で批判するのに、自分以外が長政の悪口を言うのは許さない(なんちゅ~メンドクサイ男)

譜代家臣が多い徳川や累代続く上杉や佐竹なら、家臣の分際・身の程というのを幼少期から躾けられる。

だが黒田家のように一代で大きくなる家は、どうしてもその辺りがファジーになる^^;;


黒田家紋

何度か言ったが、如水が幽閉されてしまい黒田家には当主不在の期間があった。

その時、後藤は一族が黒田を裏切り敵方に走ったので後藤本人も疑われ、一時期、黒田を離れている。

一度でも仲間に疑われてしまったので、如水個人に忠誠を捧げる気持ちは、より強くなっただろう。

如水不在を協力して乗り切った家老たち(母里や栗山など)は「黒田家(組織)と自分たち家臣は一心同体」であるという意識が自然と根付くことが出来た。

そのお蔭で如水死後、長政に不満・不足があっても「自分たちが支えて頑張るぞ!」と切り替えられたのだろう(如水自身も、家中のムードがそうなるように生前から配慮している)

だが如水個人に忠誠を捧げていた後藤は、どうしても自分を変えることが出来なかったんだと思う。

後藤ファンは「もっと長政に器量があれば・・・」と云うけれど、それは違う。

泰平の世で家督を継ぐのとはワケが違う「ザ・戦国」なのだ。
長政が如水タイプの天才だった場合⇒武田信玄公みたいに親を追い出して自分の思い通りにする。(信玄公ファン様すいません)

長政が如水とは違うタイプの名将だった場合⇒島津家みたいに両殿体制化~家中が派閥争いで血の雨が降る。

同じ時期の一つの家に英雄・天才は二人もいらない


父が「偉大な天才」ならば、息子は「父の作った体制を壊さず継承できる器(例・2代将軍秀忠)」であれば充分なんです。(親子とも天才で、かつ上手く行くのは特殊例)

その証拠に何だかんだ言われてても、如水死後に黒田を離れたのは後藤だけじゃないですか。

長政は長政なりに「如水の作った黒田」の家風を繋いでいるんです。(ホントにヤバかったのは長政より後だし)

まぁ如水なら?そもそも細川忠興を怒らせる下手しないけどね~~∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


長政が執念深いっていう元ソースは、おそらく冒頭に挙げた後藤発言だろうけど、情念・執念深さなら細川忠興の方が上だと思う。

統治能力はズバ抜けているし、武勇優れて、教養あって、芸術方面だけでなく築城もバッチリ!

「普段」は温和で気遣いも細かい忠興だが、一度怒りのスイッチが入ったら相手を絶対許さない。
(だから石田三成とも、ぜ~~~ったい!仲直りしなかった)

宣教師曰く「日本一短気」で、ガラシャ曰く「引く事を知らない人」なんです。

家臣にもメチャ厳しく「失敗は2度まで許すが3度目は成敗」という規則で、忠興が生涯で手討ちにした家臣は36人いると言われいる。
(ガラシャの顔を見たのに嫉妬して忠興が殺した庭師がカウントされているかは不明)

さらに家臣を成敗した時の刀にも、36歌仙にちなんで銘(めい=タイトル)付けていたというヤバイ伝説もある男なんです。

晩年の如水は「長政を赦してあげて(:´人`)オネガイ」って自ら出向いて忠興に頼んでるんです

でも忠興は「他ならぬ貴方様の申し出なので叶えて差し上げたいが、ソレだけは絶対無理」と即答拒否

如水は「そうですか・・・無理ですか」と虚しく引き上げたそうな・・(゜-Å) ホロリ


長政の後藤に対する奉公構の処分と、幕府からの仲裁で表向きは大人しくしていた忠興だが、長政を許すつもりはサラサラ無かった。

どこまでも「長政への嫌がらせ」のために、後藤を雇うことを諦めてはいなかったんです。

忠興が自分の息子・忠利にあてた手紙には、ちょいちょい長政や黒田家の悪口が書いてまして、文中・長政のことも「策士を気取る男」と手厳しい評価www

長政が何か失敗すると、忠興は息子への手紙に「あいつ失敗しやがった!ざまぁ!。・゚・(ノ∀`)σ・゚・。ヒーッヒッヒッヒッヒ」と喜びのコメントを書いてます^^;
(律儀に返事を出す忠興の息子が大変そうだなぁ~返事しないと忠興は催促してくるのよ~)

もし長政が奉公構を解除したら、後藤の再就職第一候補だった忠興が大喜びで後藤を雇うだろう。

そうなったら黒田家の全てを知られ、長政は首根っこを押さえられた子猫のように、忠興に生涯頭が上がらなくなる。(下手すりゃ潰される)

忠興を怒らせたために報復が怖くて奉公構を解くことができなかった・・・とシオは推測しています。

さて、福岡藩初代藩主編はこれにて終了。次回からは新書庫・九州の関ヶ原「石垣原の戦い編」スタート!それは・またの話 by^-^sio

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【筑後・星野氏】




星野氏は「調一党」調さんは笛の名手で感激した帝が「調」の姓を与えたそうです。

領地は筑後国の生葉・竹野両郡。城は鷹取・妙見・白石・山中・福丸の5つ。

筑後とありますが、現代日本の都道府県だと福岡県になります。

筑前と筑後は当時でも、またーり徒歩で2日程度の御近所さんです。

でもって当時の北九州の勢力である少弐氏に従ってました。

てことで南北朝は少弐が南朝(宮方)だったので、星野も南朝で頑張ってました^-^


星野氏は「南北朝の争い」の後も、北進し勢力拡大しようとする豊後・大友家を阻み続けた。

寛正六年(1465)にも、大友家臣・阿南惟久を o( ̄Д ̄θ★ケリッ!撃退してます。

でも文明十年(1478)ころには、大友氏の被官に治まったようです。

が・・・・これは大友家歴代の特徴なんですが、

大友家という家は、国人領主に超冷たい家なんです(怒


頑張っても領地を与えるのは家臣だけだし、国人領主を常に矢玉避けの最前先で捨て駒使いします。(雷神様も国人への対応は厳しかったなぁ)

大友直属の兵力は後方に置いて温存するというやり方を露骨にする。

家臣同士でさえ、譜代家臣と新参(外様)家臣の格差もあるし、名門意識が強く内部に問題ありすぎ~~だから戦国末期になると一族・家臣・国人の大量離反を招きます。

星野氏も大友家の体質に次第に不満が溜まり、大友に叛旗を翻す。

星野氏は大友へ「七代の間は謀反しません」と誓詞を出していました。

謀反を決意した星野氏は自身の葬儀を7回行って「七代クリアしだど~~(伯耆守の七葬式伝説)」と誓詞を反故にする。

大友義長(宗麟の祖父)の頃で、星野に手こずった義長は謀略を用いて星野を暗殺するんです。

ちと系図がカオスなんですが、暗殺された星野が、後に玉砕する星野ブラザーズの祖父にあたるようです(別の系図だと違う人の孫・涙目)

義長の跡を義鑑(宗麟パパ)が継ぐと、国人たちが大内に従い大量離反。
(このパターンは、もはやテンプレ)

星野氏は兄が大友側・弟が大内側に分裂(家系図によって兄弟の名前すら違う・涙目)

結果として大友側が勝利~~大内に従った星野弟は豊前に領地を貰い(豊前)糸の星野氏になります。

大友側になった星野兄ですが、やっぱ大友が不満で、またまた叛旗を翻します^^;

星野は天険を利用し巧み戦うので、なかなか落とせない^^;

色々諸説ある星野氏の没落ですが、ブチ切れた大友義鑑(大内義隆とする記録もある)が大動員かけて落城させました。


星野氏の家督は大友義鑑が星野一族から選んで継がせた(同族の黒木からの養子説あり)

それを見た(豊前)糸の星野氏(大内サイド)が、本家(筑後)星野氏を攻撃。

大友義鑑が選んだ星野本家当主は討たれちゃうんです(アンビリバボーな天文13年)

事を重要視した大友義鑑は亡き当主の娘婿(蒲池氏)との間に出来た子を新当主にします。
(上か下か、どっちの蒲池かはシオ検索では解りませんでした)

ここから先の流れは解ってるんでパス~

ザックリ行くと、星野は大友サイド⇒大友没落⇒島津サイド⇒九州の役でアボン

九州の役で玉砕した星野ブラザースには子供二人がいました。

まだ幼いからと助命され、一人は鍋島家臣に、もう一人も鍋島分家に仕えてます。

鍋島さんは星野と同族の黒木家生き残りの姫君も引き取ってます(鍋島家臣に嫁いだ)

一時期、直茂が柳川城主だった関係で、筑後浪人の受け入れ先になってたんでしょうね^^

豊前)糸の星野氏は「九州の役」で小早川隆景の保護下に入ることに成功し、領地安堵・星野家惣領になりました。

小早川隆景死後は解りません^^;運が良ければ毛利家臣or黒田家臣のどっちかに潜り込めたでしょう。

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或る時鍋島公・・・葉隠・聞書第三・一



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或る時、鍋島公の仰せに

「義理ほど感深きものはない。従兄弟とか死んでも泣かない時もある。でも50年・100年も前の人の話を聞くと、義理に叶う話は落涙する(意訳)」

と言われた。

だって、直茂は武士だもん!涙が出ちゃうの~


確かに戦国時代じゃ従兄弟が戦死ってザラだろうなぁ。

当時で50年前100年前ってことは、室町時代だなぁ~

鍋島公~誰の話で泣いたのかは、葉隠には書いてません^^


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竜造寺&鍋島家用


鍋島直茂

竜造寺隆信
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ジーちゃんとババ・監修様提供^^b


竜造寺家紋

鍋島家紋
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佐賀城・鯱の門(内側から)


少弐氏「寄懸り目結」


大内花菱



筑後地図

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【仁義無き戦い?】福岡藩初代藩主10栞35

「関が原の戦い」で裏も表も大活躍した長政に、

徳川家康は「どの国でも望みの場所を与えよう」と、ご機嫌~破格の待遇をした。

長政は父・如水と相談し、貿易港・博多がある筑前(ちくぜん=福岡県)を選んだ。

ちなみに、如水が「お前の左手は何をしていた」と叱責した例の有名な逸話は、大正時代から出始めたもので江戸期の記録には見当たらないそうだ。

研究者の間では「後世の創作の可能性がある」と言われている。

「な~が~ま~さぁ~やりやがったなぁ~~」


1601年~黒田長政が筑前に引越した後に、丹後宮津(現在の京都府の北)から豊前・中津城に入った細川忠興は激怒した。

中津城が未完成だったからではない。城の米蔵が空っぽだったからです。

武家の作法というか慣習というか「領地引越しの時は次の藩主の為に租税を半分残す」というものがありました。

これは強制力のある法度(法律)ではなく、どうやら武家の心得・マナーのようなものだったようです。

名門・細川様は、ちゃんと作法通り丹後宮津に租税を半分残して来ました。

ところが長政は「そんなのイチイチやってられっか~」とばかりに、全部持ち出してしまったんです。
(関ヶ原で金がかかったんだ~~~でも金無いから、、とは面子があるから言えない、忠興なら友だちだから・・・と思ったかもだが、そういうケジメに関し忠興は超厳しい男)

「力づくでも取り返せ!」激怒した忠興は、関門海峡を通過する筑前の廻米船を襲い、実力で租税を奪い返すべく行動しようとした。

近隣住人は「明日にも戦が起きるぞ」とパニックになり、その騒ぎは家康の元にまで届いた。

驚いた家康(まだ江戸幕府が開く前です)は、片桐且元と山内一豊に仲裁を命じました。

細川忠興は泣き寝入りする男ではありません。やられたら倍返しするタイプ。 

そこを何とか片桐&山内が仲裁し、長政が持ちだした米(租税)の代金を、分割払いで忠興に返済することで決着しました。

分割払いは慶長7年・1602年に完済人したのですが、細川家と黒田家の争いは終りませんでした。

黒田の領地・筑前の農民が、細川の領地・豊前へ逃亡する事件が相次いだからです


長政に対し怒りが治まっていない忠興は、逃亡した農民を黒田家に返還せず、豊前の新田開発や築城の人足などに回してしまいました^^;

筑前の農民が逃亡したのは、別に忠興の陰謀ではありません。

原因は黒田家の方にありました。


黒田家紋

農民逃亡の原因は検地による大増税でした


教科書に書いてる太閤検地~これは納税者を確定し農民の身分を定める方が目的です。

検地によって「朝鮮の役」での軍役・諸役も決められて行きました。

その割に、実は数字そのものは結構アバウトなとこが多かった^^;

長政が筑前52万石に入った時の実収も、ホントは50万石にも達していませんでした。

そこで長政は1602~1608年までにかけて、筑前の隅から隅までズズズィーっと検地を敢行。

まずは実収50万石を目指して大増税したんです。

増税による負担に中には、福岡城の築城と城下町の造成の課役もあって、筑前百姓の負担は逃亡したくなる血涙レベル!

とはいえ筑前の農民が、逃亡先に豊前を選んだのにはワケがある。

この当時の戦国大名は、隣国との間に条約を交わしています。

それは「お隣の誼みですから、互いに逃亡した罪人・農民を引き渡そうネ」って条約です。(正式名ド忘れ)

黒田家は鍋島家とは取決めをしてましたが、不仲の忠興とは取決めしてなかった(出来なかった)んです。

だから農民たちは「隣の細川領なら捕まっても黒田領に戻されずに済む」と思ったのでしょう。

それだけではありません。

忠興は豊前に入領した時に、検地(つまり増税)を行わなかった


忠興が豊前にいる時、長政が未完成だった(朝鮮の役で進捗が遅れた)中津城を改修し、さらに小倉城も築城し、さらに新田開発もしています。

けど、すぐには増税しないで前領主・・・つまり長政時代と同じ租税率で据え置きにしたんです。

筑前百姓には、大増税のない豊前細川領は天国に見えたでしょう。

もちろん築城しながらの増税無しで藩財政が足りるはずがなく、忠興はアチコチから借金してます。

関が原のあとの慶長と元和年間は、後に起きる寛永大飢饉の前兆で九州各地で飢饉が発生していました。

忠興は自領で飢饉が起きると、父・幽斎から受け継いだ茶器・・その全てを売って金に替えて食糧を買い、農民の救済に回していました。

長政を弁護すると「まず検地ありき」で「自分の欲しいだけ増税する」というやり方は、大名の引越しの激しい江戸初期には、どこでも普通にやってることでした。

1638年に「島原の乱」が起きてから、やっと各藩も「まず増税」って方法を自粛するようになるんです。

増税しないで辛抱し続けた忠興は、検地帳を作り直し開発した新田分を含めて祖税率を改めます。

それは、大坂の陣も終り家康も死んで、さらに11年後の1626年~息子忠利に代替わりしてからです。
(ちなみに3代将軍家光が将軍になる年)

公共事業(新田開発・街道などインフラ整備)を推し進め、民力が回復するまで増税しない。

現代の政治家でも充分通じるバランス感覚を、戦国時代の細川忠興が身に着けていたのは驚きです。


おっとっと~いつまでも忠興を褒めてたら、長政に怒られる(*´艸`)クスッ

とにかく逃亡した農民を返還しない忠興に激怒した長政は、豊前との国境沿いに筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)と呼ばれる支城を作ります。

(※筑前六端城⇒北から若松城、黒崎城、鷹取城、大隈城(益富城)、小石原城、左右良城)

(※城主には黒田二十四騎の面々が入ります。)

六端城は、1601~1609の間に造るんだけど、見事に検地の時期と被ってるんですよね^^;;

たぶん農民の逃亡を水際で防ぐ目的もあったと思います。

緊張状態の続く筑前と豊前で更に大きな事件が起きる・・・黒田家臣・後藤又兵衛の出奔だ!!・・・それは・またの話 by^-^sio

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【首都脱出】福岡藩初代藩主9栞34

さて、母里友信(もり とものぶ)話、続く(司馬遼太郎風~)

大男なのは昨日の黒田節で書きましたが、彼は槍の名手でした。

生涯で落とした首の数は76で、黒田武士団ダントツ1位!

一日に7つ首を獲った者にのみ与えられる「朱槍」保持者。

それだけでなく、通算で33の首を獲った者だけに許される「首供養」を執り行ってます。

「首供養」とは早い話、自分が討った武将の供養をすることですが、命のやりとりをする戦場では明日の命は知れません。 

33達成だから~~って即効カッコ良く首供養して、すぐ次の戦場で戦死したら逆に不名誉。

だから本当に強い武将でなければ行うことは許可されないんです。

でもって、これだけ強い武将にありがちで、若いころの母里は見事なイノシシ武者でした(爆

そこで主君・如水は母里に言いました。

「お前は短気だから年長の栗山(くりやま=幽閉されてた如水を救出した人)を兄と思い、何かするときは栗山の意見を参考にしなさい」

母里は如水の言いつけを良く守り、栗山と母里は実の兄弟のように終生親しかったそうです。

慎重派の栗山も短気な母里と組むことにより更に能力を引き出され、二人は黒田家の家老として成長するのです。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/c/c9/Mori_Tomonobu_statue.jpg/200px-Mori_Tomonobu_statue.jpg(ウィキペディアより母里の銅像)

1600年の7月・・・大坂の天満屋敷には栗山・母里・宮崎の3人の家老が留守番してました。

主君・長政は既に会津征伐の動員命令に応じて出発してます。

母里ほど豪の者が留守になったのは「三成が挙兵した時」に、如水夫人と栄夫人を脱出させるためです。

栄夫人は徳川家康の姪にして養女。長政が関が原直前に前夫人を離婚し再婚した新妻。如水夫人は如水の正室で同時に長政の生母。

もし二人を三成の人質に奪われたら、長政が頑張っても黒田の名誉回復は二度とできません。
(見捨てて家康に従軍しても外聞が悪すぎ)

そんな失態を犯したら、現時点で跡取りのいない黒田家は潰される可能性がある。

長政は「脱出が不可能であれば二人の夫人を殺し家老達も切腹。屋敷も火を付け処分せよ」と命令しています



1600年7月17日・・・石田三成が挙兵



戒厳令が敷かれた首都・大坂では、天満屋敷の周辺も西軍兵士が大勢いたので、三家老は夜を待った(母里・栗山の他に留守番家老がもう一人いた)

夜になると夫人たちの身をそれぞれ俵にくるんで隠した。

そして館の裏手の湯殿(バスルーム)の壁に穴を開け、そこから(夫人入り)俵を出した。

さらに(夫人入り)俵を籠に入れ、籠を天秤棒の前後に括りつけると「ふん!」っと怪力の母里が担いだ!

戒厳令下~夜の大坂市中を油断ならない目つきの大男が天秤棒を担いで移動・・・どうみても怪しい気が・・・(爆

とにかく黒田家出入りの商人・納屋小左衛門の屋敷までは何とか移動できた。

そこから川船で下る予定で手はずはできていたのだが、予想以上に西軍の検問が厳しく船を出せない!

こんなことなら天満屋敷にいて様子を見た方がマシだったか? 

万事休す!!

そのとき玉造方面から火の手があがった!!


ただの火事ではない!西軍の兵たちの慌てようは尋常ではなく、あっという間に玉造方向へ移動してしまった。

その火事こそ人質になるのを拒んだ細川ガラシャ夫人が自害し、屋敷を燃やしたものだったのです。

とにかく細川屋敷の火事による混乱のお陰で、川の検問警備が手薄になった。

母里は(夫人入り)俵を船荷に隠して、大坂を無事脱出したのです。


黒田家紋

三家老のうち一人は大坂に残り、母里と栗山は夫人たちを中津に送り届けると、そのまま如水の側にいました。

九州で怪しい動きをしていた如水の元へ届いた「三成挙兵」の第一報は、おそらく母里の報告でしょう。

とにかく三家老が一致団結して、無事に黒田家はピンチを潜りぬけたのです。

え?「三成挙兵の前に逃げていれば?」ですって?

戦も起きてないうちから屋敷から逃げたら天下の笑いものですよ~~大名って看板背負うのは大変なんです^^;

母里さんは武勇一辺倒だけではなく築城スキルも身に付けて、後に江戸城の築城でも活躍します。

で、徳川家康(秀忠説もある)から感状(感謝状みたいなもの)を貰うのです。
(感状は転職の時に「職務経歴書(推薦状付)」の役割を果たすので、出した相手・所持してる枚数は超大事)

そのときに宛名を「毛利・・・母里(もり)」と書き間違えされちゃうの。

将軍家に間違いを突っ込むわけにもいかず、それじゃぁ~いっそ記念だから改名しちゃえってことで毛利但馬(もうり たじま)と変えてます^-^



「関が原の戦い」で活躍した黒田家は、中津18万石から福岡52万石に大栄転~~♪

長政の人生の大きな分岐点でもあり、それは振り返ると「青春の終わり」だったかもしれません。

大大名となった長政を待っていたのは「友情の終り」でした・・・それは・またの話 by^-^sio

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【黒田家の黒田家による黒田家のための黒田節♪】福岡藩初代藩主8栞33

黒田家の家老・母里友信(もり とものぶ)は、弘治2年(1556年)生まれ。 

身長は 約180cm~加藤清正くらいの大男で、体格に相応しく大酒飲みでした。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/c/c9/Mori_Tomonobu_statue.jpg/200px-Mori_Tomonobu_statue.jpg
ウィキペディアより母里友信の銅像

朝鮮の役(文禄の役・1592年)の少し前、主君である黒田長政は、友人の福島正則へ、母里を使いに出した。

登場シーンは酒を呑んでるところばかりの福島正則ですが、本当に酒クセが悪い人でした。

長政は、同じく大酒呑みの母里が、福島正則と(酒で)トラブルを起こすのを恐れた。

そこで出がけに「福島家で酒を勧められても、絶対(酒を)飲まないように!」って約束させました。

母里が福島家へ行くと、案の定~正則は朝から飲んでてすっかり出来あがってた^^;

酒飲み仲間が来たと御機嫌の正則は、使いの用向きを伝えようとする母里を制して「いーからマズ呑め!」酒を勧めます。

が、母里は主君との約束があるし、使者という役目の途中・・・つまり公用だったので、丁重に断った。

すると正則は母里に絡み始めた(悪い酒癖だなぁ)

正則「あぁ~ん?ワシの酒が飲めないだと?お前、そのデカイ体は見せ掛けか?黒田家の侍は臆病者!チキン!鮒侍!有名な黒田の武勇も大した事はないな!?


酒を断っただけで、なんでバカにされるんだ?って感じですが、泥酔した正則に理屈は通じ無いんです^^;;

(公用中・公用中・・)と、最初は我慢してた母里も、福島が主家を侮辱し始めたので、これ以上断るのは黒田の名に関わると酒を受けた。

ところが正則が出したのは、直径が一尺(約30cm)の大きな杯!(゚ロ゚屮)屮 ぅお!

正則「これを飲み干したら、望みのものを何でも与えてやろう( ̄ー ̄)ニヤリ~


居並ぶ福島家臣らも(下手すりゃ血を見る・・)と固唾を飲んで見守るなか、母里はググゥ~~と一気飲み!

飲み干した母里は、更に同じ杯で「これは美酒でござるな。いま1杯所望致したい!」と言い出した。

福島家臣たちも(Σ(´Д`;) うあ゙、1杯で止めとけよ~~次で失敗したらどーすんだ~)とハラハラ。

母里は、皆の視線を余所に2杯目も、ぐーーーーーーと一気に飲んだ!

正則と福島家臣が (*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ!っと思わず歓声を上げる。

更に母里「ワンモアプリーズ^^b」そして3杯目も見事に飲み干した~~~~~~~~~~~~~~~

場内・もとい広間は、ヤンヤ拍手喝さい「お見事!」の声が飛び交い、盛り上がった~~

母里「(ゲフ)飲み干したら何でも与えるという、お言葉でしたな!では福島家所蔵の名槍「日本号」を頂戴いたしたい


正則、「日本号」と聞き一瞬怯むが、ここまで盛り上がって後には引けない。母里に渡した。

母里は使者の役目を無事果たし、手に入れた名槍「日本号」を肩にかけ、悠々と「筑前今様」を謳いながら帰路に着いたとさ。


黒田家紋

酒は呑め呑め,呑むならばぁ~日本一(ひのもといち)のこの槍を~呑み取るほどに呑むぅならばぁこれぞ真の黒田武士ぃ♪(*´○`)o¶~~♪


「筑前今様」の筑前とは地名の事です。黒田家は後に筑前の藩主になる事から付いた名前です。

今様(いまよう)とは、現代の流行歌のようなもので戦国時代に流行ってました。

ベースのメロディに、それぞれが思い思いの歌詞を付けて、仲間同士で歌い合うんです^^b

ちなみに、この「今様」は毛利輝元もハマって「オリジナルソング」をシャウトしすぎて、叔父上の小早川隆景から御叱りを受けてます(*´pq`)クスッ

筑前(黒田家で)今様(流行った流行歌)・・・・つまり現代で言うところの御当地ソングになります^-^


この時の歌が、歌い継がれ、現在の黒田節として残ったんです。

さて翌日、酔いが覚めた正則は日本号が無くなっててビックリ仰天!

例によって例の如く、酔っ払ってた時の自分の言動を綺麗サッパリ忘れてた!

ゴホン!咳払いして、正座して、管理人~居住まいを正しますm(__)m

え~そもそも日本号と呼ばれるこの槍は、かの京の都におわします正親町(おおぎまち)天皇の所有物でございました。

帝から織田信長に渡り、信長から豊臣秀吉の手に渡り、秀吉から正則に下賜された、重宝中の重宝だったのです。

それを宴会芸の景品のノリで他家の家臣に渡しちゃったと聞いて、正則は顔面蒼白~慌てて黒田家に返還要求をした。

黒田家&母里の返事は当然「NO!」

丁重に酒を断ってた母里さんを侮辱した正則が悪いんですからね^^;;

朝鮮の役(文禄の役・1592年)に、陣中で一緒になった長政に対し、正則は再び槍返還要求を蒸し返しケンカになります。

が、結局は和解し、仲直りの印として互いの兜を交換したんです。


とうの「日本号」ですが「朝鮮の役」で母里がピンチになったときに、同じく黒田家臣の後藤又兵衛に助けられ、母里が感謝の印として後藤に渡してたんです。

正則が槍を諦め仲直りに応じたところを見ると、もう母里から後藤に渡った後だったかもしれません。

さて黒田節の部分が突出して有名な母里さんですが、黒田二十四騎のメンバーで、さらにその中から選抜された黒田八虎の一人。

次回は更なる母里の活躍です「首都脱出」それは・またの話 by^-^sio

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【再婚】福岡藩初代藩主7栞32

無嗣断絶(むしだんぜつ)~跡取りがいなくて、家が堪える事。
子供がいない時、前もって養子を届け出ないまま当主が死亡すると、これを理由に大名が潰される。
それは戦国時代も江戸時代も変わらない。
ぶっちぎりの名家や将軍連枝の家などだけが、超特例として当主不在のまま家名が存続する事がある。


如水自身には兄弟がいるが、息子は長政と次男の二人だけだった。
次男は「慶長の役(1597年)」に朝鮮へ行く途中、船が嵐にあい水死したそうだ。
如水は幽閉された時の後遺症で下肢に障害が残り、体調もイマイチな状態が続き(一説として梅毒説アリ)、またキリシタンでもあったので側室はおらず、これ以上の子作りは望めなかった^^;
黒田家の男子は実質、長政一人だったんです。
人物・黒田如水

長政が結婚したのは、天正12年(1584年)16歳の時。
太閤記に必ず出てくる、蜂須賀子六(はちすか ころく)の娘と結婚した。
子六の娘は結婚の時に秀吉の養女になっている。
秀吉の娘(養女)が妻なので、黒田家は(一応)豊臣政権の一門に入った。
だが天下が豊臣に定まってみれば、如水には中津18万石しか与えられなかった。
秀吉が如水に大きな領地を与えるのを恐れた・・いわば「名誉ある冷遇」と世間では、いい話っぽくウワサする。
だが当の黒田家・・・特に息子の長政にしてみれば、これほど割りに合わない話はない。
必死で働き、なおかつ秀吉の養女と結婚してるのに、これ以上の出世の見込みが無いからだ。
「朝鮮の役(1592~1598)」で「頑張るぞ!」と思ったら、親父も自分も処罰される(なんてこったい!)
不仲の石田三成が仕切る豊臣政権では、黒田家のお先真っ暗。
長政が徳川家康に接近したのには、三成に対する個人的な感情の他に、黒田家の生き残りも懸かっていた。


徳川家康は自分の派閥作りのために、せっせと政略結婚に励んでいる。よっしゃ~この流れにワシも乗るぞ!
と、長政が思うのは自然な流れだが、長政には小六の娘との間に女子一人しか子供がいなかった。
突撃バカの長政に対し、黒田家老たちや後藤又兵衛は「主君らしく本陣に大人しくいろ!」と諫め続けた。
それは嫡男がいない長政に万が一があったら、無嗣断絶で取り潰しの危機があり、涙目の切実なものだったんです。

正室は秀吉の養女なので、側室は遠慮しないければならない。
(しかも女子が産まれてるから夫婦には可能性がある⇒⇒余計に側室を置きづらい)
「娘にムコ養子すれば?」と思われるでしょうが、関が原の時に長政は33歳。
この先、男子誕生は充分ありえる若さなので、他家から跡取りを入れるには早すぎる。
たぶん悩みに悩んで一大決意!秀吉の養女であり、蜂須賀家の姫様と離婚!
三成挙兵の直前!1600年6月6日に徳川家康の養女・栄姫と再婚!!
666!ぜんぜん関係ないが、長政の洗礼名はダミアンだ!(爆
離婚→再婚しているから、長政は完全にキリシタンを棄教したことの証明にもなります。

家康の養女となった栄夫人は、家康の姪で保科正直の娘です。
黒田家譜では栄姫の事を「顔良し、スタイル良し、性格良し!長政を支えた賢夫人!」と大絶賛。
実際、長政死後に起きた御家騒動の時には、病を押して尽力していました。
とにかく栄夫人が、長政との間にポコポコ3人も男子を産んでくれたのです。
後継者問題が密かな悩みだった黒田家では、存在自体が有りがたいでしょう^^;;
一方、離縁された蜂須賀のお姫様のその後は、シオ検索では調べ切れませんでした。
家康の養女(栄姫)と結婚するから、秀吉の養女と離婚って、かなり失礼な話です。
でも蜂須賀家の方も、家康の養女(氏姫)と政略結婚している、いわば同じ穴のムジナ。
妻を通して縁戚関係なことに変化はない。
調べた限りでは、蜂須賀家から黒田家へ、正面きってのクレームは無かったようです。
(男子を産んで無い、という負い目もある)

離縁が原因で両家不仲説もあります。
ですが、慶長9年(1604年)に蜂須賀家臣の八木家が、長政に請われて黒田家臣となっているので、表面上は普通通りに社交していたのかもしれません。
家紋・黒田
5月に上杉征伐の動員命令が出ているので、長政の結婚した6月は、いつ三成が挙兵しても不思議ではないギリギリの情勢でした。
この時期に嫡男がいない長政が家康の養女と再婚したのは、自分に万が一があった時を真剣に考えたのだと思います。
自分が戦死した時、残る未亡人が「秀吉の養女」では話にならない。
「家康の養女」を正妻にして、もし未亡人になったら、その未亡人に親族からお婿さん、または養子を迎える。
・・・までを想定したんじゃないか~ってのがシオ私見なんです^^

この先、父の如水に子供が望めないという理由には、体調だけでありません。
どうやら如水は、表面上は棄教したように振舞っていたけれど、どうも内面での信仰心は捨ててなかったらしい。
側室(愛人)作って、子作りに励む可能性はゼロ^^;
となれば(長政戦死の場合)無嗣断絶・取り潰しのピンチを避けるには、上記の方法しかないでしょう。
(もっと最悪の手段は徳川家から養子を入れる)
三成と家康・・・どちらが勝っても単なる派閥争いで、豊臣政権が継続するのなら「秀吉の養女」が妻のままの方が都合が良いはずです。
でも政権交代なら、妻は「徳川の養女」でなければ黒田の家の生き残りは難しい。
父が有名すぎて影が薄い長政だけれど、この戦いが三成派と家康派の派閥争いではなく、豊臣から徳川への政権交代になることに、途中から気付いたのではないでしょうか?
でなければ、秀吉養女と離婚して徳川養女と再婚など、露骨でゴマすりも甚だしい事を強行する理由がみつからない。
とにかく オーメン・・じゃなかった6月6日に婚儀をあげたばかりの初々しい花嫁・栄姫様は、如水夫人とともに黒田家の人質として豊臣政権の首都・大坂にいた。

慶長5年・1600年7月17日!ついに石田三成が挙兵する。
大坂城下は 戒厳令~~~新婚早々の栄姫も波乱万丈だ!それは・またの話 by^-^sio

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【養子はツライぉ!】福岡藩初代藩主編6栞歴31

藩組織が完成された江戸時代になると、他家から養子を迎えても大きな動揺は起きない。
(家名・藩存続が最優先)

だが、まだ過渡期の戦国時代は、家(組織)の他に「主君」という血肉の通った忠誠の対象を欲した。

当主に子供がいなければ、男系・女系のいずれであっても親族から養子を迎え、血筋を繋いでいくのだ。

係累の少ない豊臣家では、政権樹立当初から後継者問題が根底にある。

そして、それは黒田家の問題でもあったのだ。

毛利家の分家・小早川家に、秀吉の甥・秀秋が養子として入るのは、長政の父・如水が斡旋したと言われている。

実は、豊臣政権初期五大老の一人・小早川隆景は「如水の親友」だった。

ちなみに小早川隆景は、佐賀の鍋島直茂とも親友で、その繋がりで黒田家と鍋島家も親しい。

(ただし、小早川隆景は「軍師としての黒田如水」への警戒心はキッチリあった^^;)

文禄3年(1594年)に、秀秋が小早川家の養子となり家督を継ぎました。

当時まだ13歳の甥がポカしないか心配で、秀吉は家老を二人(稲葉&平岡)付ける(付家老と言います)

その内の一人・平岡が如水の姪、つまり長政の従姉妹の夫だった。

付家老に黒田家の縁戚が付くのだから、やはり養子問題には如水が一枚噛んでいたかもしれない。

とにかく如水は、小早川家の後継問題に突っ込んで話せるほど、隆景と親しかったのは確かです。



戦国のフェアリー?黒田如水

隆景には実子はおらず、毛利本家から養子(元就の庶子)を迎えていた。

本家から来た養子は、血統だけでなく大変に優秀で、家中から慕われていた。

なのに、それを押しのけて、天下人・秀吉の権力で秀秋が養子に入ったのだ。

文字通り、どこの馬の骨ともしれない秀吉の甥を「主君」と呼ばねばならない「不幸」に、家中は慟哭した


「不幸」は「不幸」を呼ぶのか,隆景も間もなく病で死んでしまう。

秀秋を見る小早川家臣たちの目は、刺すように冷たかった・・・・


かつては「関白候補」だった秀秋は、大坂城で贅沢・ワガママに育っており、環境の変化についていけない。
(正規の武家の出自ないからか天性か、秀吉の子育ては単なる猫可愛がりで躾下手) 

さらに秀秋には、友達や仲間がいなかった。

三成にですら「生死を共に」と誓う大谷のような真友がいるのに、秀秋は武断派の誰からも声がかからずポツーン(ω・`))

秀吉が(豊臣の権威付けで)秀秋の官位をガンガン高くしたので、同世代の大名の子弟と遊ぶことがない。(席次が違いすぎて近寄りがたい)

さらに出世目当ての取り巻きに囲まれている秀秋の側には、心ある大名は近寄ったりしない。

実子・秀頼が生まれると、取り巻きはアッという間にいなくなり、秀秋は一人ぼっち。

さらに養父の隆景が死んだ時に、小早川家臣の主だったものは毛利家へと帰参してしまう。
(隆景の遺臣引き受けで、毛利家は少なからず混乱する)

秀秋が頼れるのは、北政所(秀吉の正妻)と、秀吉が付けた家老(平岡&稲葉)だけだった。




後に大名となった稲葉家の記録によると、1600年5月の会津征伐の時点で「小早川は家康に味方します」って伝えていたそうだ。

時期がホントかどうかは別にして、小早川家は両家老たちの決定で「徳川側として」ヤル気マンマンで戦の準備をしていた。

平岡&稲葉「なのに、なんで三成に「味方する」って勝手に返事しちゃうんですか!!

秀秋「だって~筑前なんて田舎(失礼)やだ!畿内に戻りたい~三成が秀頼チャン成人まで関白にしてくれるって~~三成に味方するんだぉ~当主の決定だぉ~

平岡&稲葉「わぁぁ~そんな話を真に受けるから、おバカキャラにされるんです!!

(天●人でのキャストはイメージピッタリだったかも・爆)
以下、平岡と稲葉の説教なんでスルー可

「秀頼君成人まで政務を執るのは、亡き太閤の遺言で「五大老・五奉行・十人衆と決まってます!関白なんてなれるわけないでしょ~~」
「慶長の役(1597年)で秀秋様が軍令違反をして処分されたのを、徳川家康様に不問にしてもらった御恩を忘れたんですか?!越前に飛ばされるとこを助けてもらったじゃないですか!」
「友達いないから相談する人いない~~~って、北政所様に泣きついて、徳川様を紹介してもらったんですよ!」
「小早川は毛利の分家なんだから、本来は毛利本家に取次を頼まなきゃ~なのに、本家の頭越しに徳川様に取り次いでもらってるんだから、そのまま徳川様の組下に入るのが筋ってもんです!!」

(o>ロ<)<ガミガミ!ケンケン!バゥバゥ!  とまぁ、こんな感じで秀秋はガッツリ叱られ、とにかく「適当な所で西軍を裏切ろう」という事になった。

平岡は親戚コネで黒田家に接触、その時に同僚の稲葉も誘った。

そして西軍を裏切る証として両家老は、それぞれ人質を出した。

さらに関が原本戦当日は、徳川家から奥平、黒田家から大久保が目付として派遣され、小早川家を監視していたんです。

つまり小早川秀秋は「東軍」を裏切れる状況じゃなかった


******秀秋が三成との約束通り、東軍に攻めかかるためのハードルは最低でも2つ******

1)人質に出してる家老の身内を見捨てる。
2)目の前の奥平(徳川家臣)大久保(黒田家臣)を血祭り・・・もしくは拘束する。

*****************************************************************************

実は小早川家には、平岡・稲葉の両名の他に家老が2名いるのだが、後年に一人は出奔、一人(杉原)は秀秋が手討ちにしているので、関ヶ原当時から良好な関係ではなかった。

13歳から6年間・・・自分の側にいてくれた平岡と稲葉の両家老以外、秀秋には家中で頼れる人がいないんです。

上記のハードルをクリアするのは到底無理だったでしょう。



小早川の精強な15000の兵力が何としても欲しい三成は、秀秋に影響力を持つ二人の家老にも誘いをかけていた。

恩賞として近江あたりに、それぞれ10万石+当座の支度金として黄金300枚づつ渡してた。

予想より多く集まった西軍と、本戦当日予想以上に奮戦する西軍に、やっぱ普通に迷ったらしい^^;;

なかなか西軍を攻撃しない小早川に「イラっ」とした大久保(黒田家臣)が平岡に叫んだ。

大久保(黒田家臣)「なぜ西軍に打ち掛けない??我が主君・長政を欺いたのか?!八幡菩薩に起請した上は疾く兵を進められよ!!


平岡は「い・・いまタイミング計ってるの!ちゃんとヤるから見てないさい!」と返事したそうですwww

平岡さん~カッコつけてるけど迷ってただけじゃね?(爆)

とにかく、大久保の声で(やっと)踏ん切りがついたらしい・・・大谷隊への攻撃命令が出たんです。



さて、盛りあがったところで冒頭にもあげた後継問題に話を戻そう。

実は黒田家でも真剣な悩みでした。

突撃バカで、どこの戦場でも最前線で戦う長政(当主)です。

いつなんどき、昇天☆彡になるか分らないのに、なんと黒田家には未だ嫡男がいなかったぁぁ。

次回「戦国の地味婚」それは・またの話 by^-^sio

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【取次】福岡藩初代藩主編5栞歴30

愛しの吉川広家と益田元祥に捧ぐ~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

福岡・黒田藩は、幕末まで藩が存続した勝ち組のイメージだが、家康は・・というと終生、長政を警戒し続けた。

大坂・冬の陣(1614年)~福島正則と同様に江戸留守。代わりに長政の息子・忠之が出陣。

同じく夏の陣(1615年)~従軍したものの、将軍・秀忠の配下で幕府の監視下にあった。

それどころか「大坂の陣」の後、本国・福岡へ帰る事を許されず、そのまま5年間も江戸在府を命じられる。

「関が原の戦い」で大きな手柄を立てる長政だが、その功績ゆえに家康に恐れられたのです。

ブログ炎上のように、あちこちの大名と揉めまくる石田三成。

彼は、毛利家の分家・吉川家(武断派の一人)ともガッツリ揉めていた( ̄ω ̄A;アセアセ

それも当主の広家だけではない。

ご丁寧にも、吉川家の家老・益田元祥とまでガチで揉めていた ( ゚д゚)ンマッ!!

吉川軍が「関ヶ原の戦い」で西軍を裏切ることができたのは、吉川家老・益田が、全面的に賛成(てか裏切りの話は益田から切り出した件~~)した「吉川家の総意」だったからです。

だから西軍から怪しまれつつも、ギリギリまで裏切りを隠し通すことを可能にしました。

裏切りは吉川の総意!だが一つ問題がある。

西国大名の広家には、東海道~関東がフィールドワークの徳川家中に親しいコネが無い!!(_´Д`)アイーン


「直接言えば良いんじゃね?」って思う方「とんでもありません!!」

武家や大名において「取次=仲介してくれる人」無しで、やりとりすることは平時でも、まず無いです。

カオスでフリーダムの戦国時代~いつ誰が寝返るか解らない時代だからこそ「取次」は絶対不可欠でした。

「取次=仲介人」は、それぞれの主張の生証人でもあるからです。

重要な役割を持つ「取次」に選ばれることは、その武将にとって大変な名誉でもありました^ー^

(交渉がうまくいけば、それなりの礼金も入る)

吉川広家は、徳川家への「取次」に黒田長政を選びます。

長政が断ることは200%ありません。 

「取次」役は長政にとって名誉なだけでなく、吉川を裏切らせることは長政の手柄になるから・・です。



黒田家紋

毛利家の本領安堵~この家康の約束を無邪気に信じるほど、吉川広家は愚かではない

吉川広家が考えていたのは「関が原の戦い」の後に来る戦後処理の方です


毛利輝元が西軍の総大将を引き受けた時点で、毛利家が無傷ではいられない事は百も万も承知の上。

戦後、その傷をいかに軽くするか、1カ国でも多く毛利家の領地を残したい!

「本領安堵の約束」は、あくまで交渉のカードの一つにする予定だったはずです。

もし、吉川が黒田長政の「取次」なしに、裏切りの交渉を直接、徳川としたらどうなったと思います?

直接交渉の場合の想定問答~

徳川家臣:あ・毛利は取り潰しですよ~~「総大将の毛利本軍が不戦しますっ」て、どーみてもワナだと思って殿に知らせてなかったの~~~ワシが腹切るからして勘弁ね~

吉川広家:え~~~伝えてた事すら「知らぬ存ぜぬ!?」ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!


ってなるだろうなぁ^^;

ちなみに、この手の自己犠牲的忠義は、にわか出世・急造大名の家臣においては滅多に出てきません。

やはり累代続く譜代家臣を抱えた「武門の家」なればこそなんです。

吉川広家は、万が一の用心として長政を通じて ( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<毛利家は不戦!不戦!!HUSENN~~~と、家康の耳の穴を,よぉ~く,かっぽじって伝えてもらったんです。

吉川家単独の裏切りなら、むしろ直接の方がアピールするだろう。だが、事は毛利本家の存続がかかっている。

家康が「相手の名誉を潰す事が出来ない・大名の取次」が、保険として必要だった


「関が原の戦い」の段階で家康は、あくまで豊臣政権の五大老筆頭の資格で戦争し、戦後処理も行っています。

急速に勢力を拡大しつつも、まだ家康は微妙なミリタリーバランスの上にいました。

つまり、家康は「毛利家を潰すためにウソを言え」と自分の家臣には命令できる

だが、自分の家臣ではない大名の黒田長政には「長政自身のメンツを潰して陰謀に加担してくれ」とは命令できないんです




徳川家紋

それを言ったら御仕舞よ~~「豊臣家のため」って、東軍集めた苦労が水の泡~~~野心バレバレです^^b

吉川広家は、事が露見し交渉が失敗したら、全ての責任をとって腹を切るつもりでした。

家老・益田とも、その覚悟を確認し合い、互いに誓紙を認めています。

誓紙を交わしたのが黒田長政に接触する前で、慶長5年(1600年)の7月15日!三成挙兵の僅か2日前の事です。

「毛利の内情」も「吉川の立場」も全て胸中に飲み込んだ上で、西軍が負けた後も毛利家存続のために最後まで取次してくれる人物。

それは十数年来の親友・如水の息子、黒田長政を置いて他にはいない。

義兄弟になるほど親しくとも「取次」は如水じゃダメ!

なぜなら如水は隠居=私人だからです。 

平時ならいざしらず、戦時下での「取次」は公人である現役当主でなければならない。

でなければ「あれは隠居ジジィの世迷言だ」って後日スルーされる可能性がある。


「取次」である長政の面目・メンツを考慮に入れなければならない家康は、様々な交渉の末、毛利を周防・長府二カ国に減らすことで妥協します。

長政は「豊臣恩顧の友人」と距離を置き、幕府に忠義を尽くしました。

江戸に置く人質だって、長政の奥方は当然、子供も・男子3人を全て出してます。

それでも家康は長政を警戒し続けました。

見るからに知恵の塊のような父の如水より、パッと見、鈍そうで戦バカと思っていた長政の意外な交渉能力の高さの方を恐れたんです。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_2?1335013318

毛利本軍の動きを止めたのは、吉川の裏切りだけでなく、毛利の家老たちも複数名、仲間にしています。

そのうちの一人、熊谷はキリシタンでしたが、その洗礼には長政の父・如水の勧めがあり日頃から親しかった。

毛利本家の家老たちにも、黒田親子の太い人脈があったのです。

本戦当日に、毛利本軍が無理でも、安国寺恵瓊までが動かないことに「ヘタレ」と揶揄する人がいますが、そうではありません。

恵瓊は動きたくとも動けなかったんです。

僧侶である恵瓊は自前の兵力が少なく、毛利家から援軍を受けてました。

その借りた兵というのが、吉川軍からで、しかも益田が派遣されてたんですよ^^;アチャー

***関が原の戦い本戦の日****

長政の元へ、徳川の使者が「毛利・不戦」は間違いないか、と確認に来ました。

長政は「ワシが知るか!後は弓矢が決めることだ!」と叫んで使者を追い返します。

使者の報告を聞いた家康は「長政の云う通りだ」と、己の焦りを苦笑したそうです。

毛利と吉川における事前交渉は全てやり尽くした・・・後の勝敗は時の運なのだから・・・

さて長政の本戦前の活躍は続きます。それは・またの話 by^-^sio

記事協力
ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen

相互リンク
ばんない様HPアドレス
(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
(b様ぶらんど。) 
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北肥戦誌(1528~1532年)

★少弐資元は永正の頃に大内の為に藤津の山中に蟄居していた。従うのは宗氏茂のみ。

然るに資元は、管領・細川高国を頼んで将軍家へ訴え、
大永8年(1528)の夏に息子の松法師丸を元服させ、興経(後に時尚、更に冬尚と改名)と名乗らせ太宰少弐として屋形号を申し給わると、勢福寺城へ入れて馬場・江上を後見とした。

資元は上松浦へ旗を進め、獅子・日割の両城の他、諸所の松浦党を皆切り従えると、累代の地・大宰府へ討ち入らんと先ず西筑前へ出陣する。
これを知った大内介義興は急ぎ将軍・義晴へ訴え、少弐父子を退治しようとしたが許されなかった。

そして義興は病に伏して、享禄元年(1528)12月20日卒去した。

★その跡を継いだ周防介義隆は頻りに少弐父子退治を将軍家へ訴え続け、
享禄3年(1530)に許しが出るとすぐさま筑前守護代・杉興連へ下知し筑前の兵を集めた。
西筑前にあった資元はこれを聞くと勢福寺城へ戻った。
4月下旬、大内勢が東の基肄郡、養父郡、三根郡へ討ち入れば、少弐方の筑紫尚門・朝日頼貫・横岳資貞を始め東肥前の者達は悉く城を開いて降参する。
浪人していた千葉胤勝も大内方に馳せ参じた。

これを聞いた少弐父子は、ならば半途に討ち出て戦うべきと軍兵を集め、龍造寺家兼・蓮池政光・直鳥家清、他に馬場頼周・江上元種・宗秀恒・出雲頼通・姉川惟安・本告頼景・執行兼貞らと佐嘉郡・神埼郡の軍兵が参陣した。

8月15日、大内方は野路宿に打ち出す。交戦すぐに大内の先陣は打ち負け、朝日左近が討たれる。大内二陣と戦いの最中、龍造寺方の鍋島勢は手勢を3つに分け、田手畷の南方に廻って、大内勢に打ち掛かる時分を見定める。
大内方の筑紫・横岳・千葉の手の者、一戦に利を得、少弐を追い立て野路宿の西の畷に至る。
これを見て鍋島勢の中にも野田清孝の赤熊武者2-300人(100騎)が南の方より横合いに大内勢に討って掛かる。
大内勢打ち負けて、頼みの横岳・筑紫が討たれ、千葉方の内にも討ち死にし大内勢は悉く敗北、首級は800余に及んだ。

少弐は龍造寺の軍功を賞し、龍造寺家兼も鍋島を賞し、清久の次男・清房に家重の嫡女を娶わせ、中佐嘉の本庄80町を引き出物とした。(田手畷の戦い)

★享禄4年(1531)、豊後の御屋形・大友義鑑が、筑後国・星野親忠の妙見城を三年に渡り攻囲していたが落城せず、挙句に菊池義国が星野に同心し、中国に渡り大内義隆に加勢を請うた。
義隆は杉興連に急ぎ星野に加勢する様に命じる。興連は早速、筑後へ軍勢を差し向ける。

その頃、少弐資元は多久の城に居たが、これを聞き及び、自ら筑後へ発向し大友に与力せんとする。
資元は3月14日に多久を発って、上筑前に入らんとした折に龍造寺家兼、高木右京大夫、松浦の相知・広瀬らが馳せ加わり、3,000騎に達した軍勢は筑前の岩門に着陣、小田部・重松・曲淵らも加わり多勢と成ると、閏4月に岩門を発って三笠郡を打ち通り、上筑後の生葉に着陣した。
資元は大友勢の陣所で義鑑と対面、敵征伐について評定する。
帝都に注進し、管領・細川高国、幕府引付方・大館晴光に、星野以下の逆徒追罰を上意として賜れるよう将軍家に訴えた結果、御行書を賜り、隣国に喧伝した上で星野を攻囲した。

★ 享禄5年(1532年)に入ると、大友・少弐・千葉の3家が合同して、杉興連の大宰府岩屋城を攻める。
興連は危難に陥り、周防国の義隆に加勢を頼む。
驚いた義隆は、周防・長門の軍勢を陶興房(道麒入道)に率いらせ筑後国へ差遣する。
道麒が大挙筑前に向かうと聞いた連合軍は一兵残らず退散、道麒は一戦も行わず大宰府に入った。

道麒勢は興連勢と共に少弐勢と多々良浜にて戦うと、少弐勢は敗色が見え立花城へ引き籠る。
興連の子・杉隆連は少弐を追いつつ、博多・筥崎に陣を布く。
これに伴い、高祖の原田隆種、青山の留守氏、鏡の草野氏ら近隣の多数の武士が悉く隆連の陣に馳せ来る。
大内勢は二手に分かれ、博多を発って那須郡に入ると、粥田庄の秋月を打ち通る。
だが、少弐勢から宗・横岳・馬場・出雲・筑紫以下が、道麒勢が通るのを待ち受け打ち掛かった。
道麒は不意を突かれ、仁保将監以下600余人が討ち死に、敗兵は慌てて豊後へ退路を取り、玖珠郡に至って息を継いだ。道麒らは星野を援ける事が滞り、この年はそのまま無為に帰した。
大友義鑑は豊後に帰ったものの、少弐への合力の為にと、臼杵三郎右衛門と真光寺の両将を筑前に残した。

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薩州家_義虎と息子たち(データベース)

永禄年間
6年、上洛し義輝公に御目見えし諱を拝領し義俊と改名。
8年3月20日、長島領主・天草越前守を攻め殺し、長島を押領する。
10年11月23日、貴久公父子の菱刈御退治の際に馬越城を攻め落とした。その夜、横川城が自ら落ち、
24日の夜に本城・湯尾・曽木・市山・青木・山野・羽月・平泉の8城は悉く城を棄て、大口城のみに籠った。
翌24日に番兵を本城・曽木・湯尾・市山に差し送り籠らせ、山野・羽月・平泉には義虎の勢を籠らせるよう仰せがあり、これに出水の人数を入れた。
11年6月18日、阿久根東郷と合戦し味方63人が戦死する。
12年8月18日、阿久根深迫村にて東郷と合戦、義虎方・村尾安房守重利が弓にて東郷の家老・白浜上総介重陣の股に矢を射当て、馳せて首を取らんとしたが重陣は尚も戦い、所々手負いとなるも遂にその首を討ち取った。
このとき東郷方の者共83人を討ち取る。
同年9月10日、菱刈は降参し、城ヶ江地頭を仰せ付けられるにつき、山野城を義虎へ拝領するよう仰せつけられた。
元亀年間
元年1月5日、東郷大和守重尚ならびに入来院石見守重副が、押領していた地を進上し降参したため、居城は返してそれ以外は召し上げた。
百次・平佐・隅ノ城・宮里・天辰・碇山・高江は入来院より進上、中郷・高城・水引・湯田・西方を東郷より進上。
よって高城・水引・湯田・西方・京泊を義虎が拝領した。
天正年間
4年8月、義久公は日州高原へ御出馬、義虎も罷り立ち19日より城攻め、22日に降参、城主・伊東勘解由は城兵を召し連れ退去。
同年9月9日、太守公が御凱陣。

6年10月、豊後の大友殿6万余の大軍にて日州へ攻め入る。
同25日、義久公日州表へ御発向。
出水は肥後の境目であるから、肥後口の固めとして参陣しなかった。
然る処、11月12日に新納院高城の下にて合戦に及び、大友大敗してこれを耳川まで追い打ちして大勝利。
同28日、義久公は鹿児島へ御帰陣される。
この戦いで降参した筑後国住人・星野長門守ならびに尾山法印を薩摩へ召し伴わせており、これを義虎へ差し送って来た。その為に奔走し、船にて筑後国へ差し送った。

同年12月(一説には8年春とも)、肥後国熊本の城主・城越前守親政が大友家に背き、飽田・詫摩・川尻を押領する。
宗麟は人数を遣わして征伐する。
城親政は商人を通じて薩州へ御味方すると義久公へ申し入れたが、薩摩口の事ではなく、肥後の奥の事であるから往還もならず、加勢も人数を出せないため、鎌田尾張入道寛栖に足軽を扶助して差し送ると決した。
義虎にはその準備が命じられ、義虎は自らの婿の親である志岐兵部を味方につけ、更に栖本・上津浦・大矢野・天草と五人衆を味方につけて出水に呼び、以後は薩摩の騎下に入るとの誓紙を書かせた上で、隈本へ差し渡らせるよう命じると、鎌田寛栖に田尻荒兵衛を差し添え足軽300人を召した勢を熊本へ差し越した際に出水から警固の船を出して彼の地へ到着させた。
すると、宇土の伯耆(名和)鑑高も味方に参じた。

9年8月上旬、相良方七浦へ発向するよう達しがあり、境目を領する義虎は先ず陣場を確認するよう申し付けられたので、先陣として横川平に陣を取った。
翌日、義虎一家の出羽守実忠ならびに切通左馬允が足軽を召し連れて水俣城の麓に差し掛かった処、城中から敵が出てきて合戦に及ぶ。味方は討ち負け退いたが、前川の渡瀬にて実忠と左馬允は戦死した。
同17日、薩州の先陣が葦北に乱入、
同18日、義久公が大口から小川内へ御発向。
翌19日水俣城を取り囲む。義虎は勝泉岡というところに陣を布いた(出水陣ともいう)。
義久公は初めに八景ヶ尾に御成りし御座、その後に出水陣へ移られた。都合25,000人なり。
その勢は間の垣を結い廻し、昼夜間隙なく城へ攻め掛かった。
この城は深水・犬童・蓑田・東ら700余人にて籠城なり
(相良側の記録では1,000人で籠城、降伏時に700余人だったような・・・)。
数日の防戦に弱り城も危うくなると、相良義陽は後詰の為に佐敷まで出向いたが、殊の外大軍であったため力及ばず、子息二人を人質として葦北七浦を進上して降伏し、城兵を八代へ差し送った。
義久公は佐敷へ陣替えされ、
26日義陽は佐敷へ罷り出て御目見え、彼の表(領地?)を残らず平定したためその後に御帰陣された。

10年冬、肥後国八代に在陣し、
翌11年1月12日に八代より出水へ帰陣する。

14年夏、筑紫広門の征伐の為、
義久公6月13日に御出馬にて、
7月2日八代へ御着きにて御滞留。
筑紫へは図書頭忠長・伊集院忠棟らを差し向け、義虎は出水衆を筑紫へ差し遣わし、自身は太守公の御供にて八代に罷り在る。
7月6日、筑後の鷹取城を攻め落とし日当山城は自ら落ちた。
同10日に広門降参、同27日筑前国岩屋城を攻め落とし宝満下城、
9月20日に諸軍八代に帰陣。
但し、義虎は天正13年に死去している為、忠辰の代の事ではないか。

知行高31,905石。9城。村36。居城:出水 野田城 高尾野城 阿久根城 長島 高城 水引 網津 山野
天正13年7月25日に卒去する。享年42。法名「大通玄広庵主」。義虎老中:市来肥前守・古垣大炊助。

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●和泉太郎忠辰(一作・忠永)
実久の孫で薩摩守義虎の子なり。永禄9年生まれ。或いは天文22年生まれともあり。
祖父以来、出水郡及び高城(たき)・水引・山野らを領する。禄高は31,900石余。

天正15年4月、太閤秀吉公自ら6万の勢を率いて征西し、肥後佐敷より船を発して出水に入る。
忠辰は大いに恐怖し、一矢をも発せずに出でて降る。
太閤はすぐに忠辰を郷導とし、また船を発して川内に着陣する(4月25日)。
更に進軍して猫嶽に陣を布き、また泰平寺に陣を布く。
高城・水引・高江・隈之城の諸城は相次いで降る。独り平佐城主・桂忠のみは堅守して降らず。
5月、龍伯公が太閤と和睦すると、太閤は兵を退いて帰る。
太閤は忠辰が早急に降って郷導と成ったのを賞して、朱印を下賜して昵懇となる。
これより忠辰は、島津姓を避けて和泉を氏としたという。
文禄元年、朝鮮の役では、義弘公に属して渡海せよとの命が下ったが、忠辰は釜山浦に至って病と称して進まず。
同2年5月1日、太閤はこれを聞いて大いに怒り、忠辰を小西行長預かりとして、その領地を収しめた。
同8月27日、忠辰は病にて朝鮮の加徳島にて没した。ここに至って薩州家は滅亡する
(公儀断絶の事に候えば、重く見て右一筋(一族)を御取り立て成るまじき由が龍伯公御譜に見える)。享年28。
但し『知譜秘略』に41歳にて死去とあり(案ずるに天文22年誕生とあれば文禄2年は41歳なり。永禄9年なれば28歳なり)。

●島津 忠隣(しまづ ただちか)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。
島津義虎の次男であった忠隣は、天正12年(1584年)、男子のいなかった島津歳久の養嗣子となり、歳久の長女と結婚した。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐において島津氏は一方的な防戦となり、重要な戦略拠点である日向国の根白坂(現・宮崎県木城町)を宮部継潤に占拠されてしまう。
忠隣は、夜襲を掛け根白坂を奪回することを提案するが、あまりに無謀な攻撃であり、叔父の島津家久に猛反対されたという。
しかし、その制止を振り切り根白坂を攻撃するが、それを予測していた宮部軍の反撃により忠隣率いる島津側のほぼ全員が戦死するという大敗を喫した(根白坂の戦い)。享年19。
なお、その年の1月に生まれたばかりの長男・島津常久は歳久によって養育された。

●島津 忠清 (しまづ ただきよ、元亀2年(1571年) - 元和6年1月5日(1620年2月8日))は、薩摩国島津氏庶流(薩州家)の武将。通称は又助。官位は備前守。父は島津義虎。母は御平(島津義久の娘)。
義虎の三男として誕生する。
しかし文禄2年(1593年)に長兄の忠辰が豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、弟の重富(義虎五男)、忠豊(義虎六男)と共に小西行長に身柄を預けられる。
そこで行長の家臣である皆吉続能の娘を娶り、長女と長男を授かった。
この妻は再婚であり、連れ子として娘がおり、喜入忠政の後室となっている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に小西行長が処罰され、宇土を召し上げられると、忠清は加藤清正を頼るべく熊本に入ったが、慶長14年(1609年)12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻った。
その後、長男は新納久元の後継となり新納忠影と名乗った。
長女は島津家久の側室となり、薩摩藩2代藩主・島津光久、北郷久直、島津忠紀らを生んだことで家族の地位は向上するが、のちに忠清の死後、妻は隠れキリシタンとして連れ子の娘(喜入忠政室)およびその娘共々種子島に流刑となる(堅野カタリナ)。
元和6年(1620年)に病没した。法名は如岳院節翁玄忠大禅定門。忠影以外に男子がいなかったため、跡目は忠影の孫・新納久珍の次男である新納久基が継いだ。

●島津越前守忠栄(忠俊・藤四郎・大膳亮)。 子孫: 島津矢柄
義虎四男・天正3年誕生。母は兄と同じ御平様。

天正15年、太閤御下向の砌、兄・忠辰の人質として罷り出て、細川幽斎の預かりとなり豊前小倉へ罷り在り。
忠辰御改易以後は小倉を立ち退き日州・佐土原へ差し越し、中務豊久を頼り彼の地に在って、豊久の姉に取り合い居候していたが、豊久の戦死以後に豊久の家人らが忠栄を殺害しようと企てた為、佐土原を発し、隅州富隈へ参上仕り、龍伯公を頼り申し上げた処、母・御平様の領地である踊の内、中津川村 1,200石を御平様の跡目として受け継いだ。
その後に飯野末永村に御繰り替えとして賜り候。
寛永19年9月30日、牛根にて卒去。享年68。法名「大雲源龍」。

●頴娃氏を継いだ義虎五男・入来院重高は、wikiの通り。
頴娃久虎の子である久音が無嗣のまま朝鮮で病没した為、重高が名跡を継いではいますが
(どうやら重高が継ぐまでの頴娃氏の名跡は御平が継いでいた模様・・・)、入来院の婿となって入来院を名乗り、実の孫に入来院を、養嗣子である鎌田政近の四男に頴娃氏を継がせています。

●六男・忠豊、人質となって以降の事跡は不明。

●薩州家の再興
義虎三男・忠清の系統で別名:島津仲家という寄合衆、もう一つ、義虎四男・忠栄の系統の矢柄家という一所持格で、そこから薩州二男家の栗川氏、矢柄二男家の岩越氏、支流として西川・大野・吉利・寺山・大田という家が出ている。
三男忠清の後を継いだのが孫の島津(新納)孫四郎久基、忠栄の後を継いだのが子の島津民部少輔久基です。

※庶流の大田氏から御平が関ヶ原で大坂から脱出したおりに、身代わりの大役を果たした侍女が出ている。

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【対立】福岡藩初代藩主編4栞歴29

三成が「朝鮮の役」の早期講和派だったのは、当時の武将たちは知っていた。

だから戦争を早く終らせるために、三成の秀吉への報告には、何らかの工作をしているのではないか?

と、武将たちは疑っていました。

そして実際に三成が握りつぶした訴えもあったんです。

それは吉川広家の家老・益田の訴えでしたが、三成は自分と同心している安国寺恵瓊のために、益田の訴えを取り上げなかったの。
(毛利家中で恵瓊と吉川広家&家老の益田は不仲)

だから武断派大名が「三成はエコヒイキする(怒」って言うのは、全くのデマではないんです。


文禄の役(1592年)で 父・如水や長政の友人たちも処罰され、揉めまくる三成。

慶長の役(1597年)では、長政とも揉めています(当然 揉めるのは 長政一人だけではない)

「第一次蔚山城の戦い」の時、加藤清正たちがピンチに陥り、その援軍として蜂須賀家政と長政が戦った。

ところが合戦後に「戦闘に参加していない」と報告されてしまうんです (゚ロ゚屮)屮ぇえっ!

蜂須賀家は秀吉との関わりが深く太閤記でも有名ですが、実は(朝鮮の役当時)長政の妻は蜂須賀家政の妹です。

その辺りの事情は、おいおい黒田長政編で語って参ります^^

で、実際には蜂須賀隊は浅野長政を救出するなど活躍しているし、長政も自分の軍から応援部隊を差し向けているんです。

長政本人が援軍に行かないのが悪いとのだとしても、長政だって自分の持ち場があるんです。

ゲームじゃあるまいし、右から左にスイスイ行けませんよ(怒)


報告したのは軍目付(ぐんめつけ=監視役)の福原長堯(妹の夫)・熊谷直盛(妹の夫)・垣見一直(近江出身)~

そろいもそろって三成の縁戚と三成の出身地の近江人(爆


他にも早川長政・竹中隆重・毛利高政も帰国の上、逼塞させられた。

長政は父のことがあるので、裏で三成が糸を引いていると思い込んでしまう。

これだけの規模で、しかも海外派兵ですから、軍目付だけで各陣営を回りきることは出来ません。

実際の現場の監視は検使(けんし)が派遣されます。

おそらく誤解とミスやタイムログが重なり、間違った報告が福原たちに届いたのでしょう。

そして不幸なことに、そのミスは精査されることなく秀吉の元へ届いてしまった・・・!




黒田家は父・如水の代で急成長したので、家老は如水の元同僚・同郷人が多い。

それだけなら名門以外の戦国武将みんながそうなんだけど、黒田家は他家とは事情が違う。

織田時代の時~信長に謀叛を起こした家臣の説得のために如水が乗り込むが、そのまま幽閉されてしまいます。

如水も裏切ったと早とちりした信長は、人質として預かっていた息子・長政の処刑を命じました。

幸い長政少年は秀吉の軍師・竹中に助けられ匿われていましたが、信長の手前、公式には死んだものとされた。

如水は良くて殺されているか、悪ければ織田を裏切ったと思われていた。

黒田家臣は織田家中で気まづいし、バカにされるしで、悔しさに歯噛みしつつもリベンジを信じて耐え抜いた。

そして、まだ身分の低かった家老の栗山が、如水・奇跡の脱出を成功させるのです。

「主君不在と嫡男不在」という武家としての異常事態を乗り切った黒田家中の結束は、非常に固い。

それは大変に結構なのだが「黒田家はワシらが守った!」という自負の強すぎるあまり、家老たちの長政への突っ込みは遠慮・容赦が無くなってしまった^^;;(愛情はあるけどね)

それでなくても父と家臣・後藤が天才なので、長政にかかる重圧は人一倍どころか、人千倍くらいのプレッシャーがかかった。

気が弱いものなら人格が歪みかねない環境で、長政が「自分らしさ」を主張できるのは戦場だけだったろう。

必死で頑張って上を目指して登ってきたのに「戦闘に参加していない」と報告され、長政は登ってきたハシゴを外されたような心地だったに違いない。

負けず嫌いの長政は凹む代わりに三成を激しく憎むようになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【●ブン、●レブン、父処分♪】福岡藩初代藩主編3栞歴28

タイトルは単なるゴロ合わせ~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

長政(ながまさ)の父・如水(じょすい)は、秀吉の命令で五奉行筆頭の浅野長政(あさの ながまさ)と共に朝鮮へ行くことになりました。

実は「長政」って名前(諱)は、戦国武将では割と多く「野球チーム・ながまさ~ズ」が作れちゃうほどです^^;

紛らわしいのでフルネームじゃなくて、名字で浅野と呼び捨てにします~~

で、この「浅野」は秀吉の正妻・北政所(ねね)の義弟にあたります。

北政所は、この浅野家で養女として育ったので(生家は別にある)浅野家が実質的な実家になります。

ただし浅野の五奉行筆頭は北政所の七光りではありません。

石田三成が有名すぎて地味な浅野ですが、とっても優秀な官僚で太閤検地でも辣腕を奮ってます。

秀吉の信頼も厚く「表(おもて・行政)のことは浅野に聞け」とまで言われるほどの権勢を持ってました。

つまり当時の三成の上司にあたるのですが、そこは安心?安定?の三成テンプレート^^

あの出過ぎ者め!ってことで、ものの見事に嫌われ、北政所の実家を味方に出来ずにいた(爆


ですが、三成は北政所個人とは親しかったので「朝鮮の役」前までは、細川忠興とかを除いて武断派とも(概ね)上手くいってました。

後年、三成が「淀派」だってウワサが出るのは後世の創作ですが、あんがい北政所の実家・浅野家との不仲が出所かもです^^b

如水と浅野の二人は、文禄2年(1592年)の7月には朝鮮の陣中にいるので、同年8月3日生まれの豊臣秀頼誕生の時は、日本にはいません。

そして、事件が起こった・・・


作戦会議までの時間つぶしに、二人は囲碁をしていたのだが(特に浅野が囲碁にハマってた)

ちょうど勝負が佳境に入り、時間になっても会議の席につかない。

几帳面な三成が催促したけど、浅野は三成が嫌いで奉行職では上司で先輩だから、そのまま待たせたのね。

怒った三成が帰ろうとしたので(マズイっ)と、さすがに二人も止めて三成を引きとめた。

けど三成は「あんたらは、囲碁でもやってろo( ̄Д ̄θ★ケリッ!」と捨てセリフ残して自陣に帰ってしまった。

さらに「あいつら、遊んでて会議に来なかったんです!」と秀吉に報告してしまった。

如水は、渡海前に大口叩いているし、まずいことに浅野も「朝鮮の役」に大反対して秀吉の機嫌を損ねる、ということがあったの。

秀吉は「悪意によるサボタージュ」と受け止め、二人に帰国・謹慎命令の処罰を下した!





正直なところ、二人を処分した後の影響を三成が自覚してたかどうか、どうも怪しい^^;

世間は「三成が自分にとって用済みの軍師と邪魔な上司を排除したんだ」って思った


この処分を怒った武断派大名の中に、吉川広家(きっかわ ひろいえ)がいる。

「関が原の戦い」で、三成のいる西軍を裏切る吉川広家・・・

その吉川広家と如水は、実は義兄弟の間柄でした


あ、衆道(しゅうどう・ホモダチ)的な関係じゃないです^^;;

今風に云うとマブダチ(これも古いか?)真友・心友ってやつです^^b

年齢は15も離れているんだけど、広家の亡き父親・元春を通して交流があったの。

でもって大親友・如水の紹介で、武断派大名とも親しく交際してた(だから前回のような逸話がある)

黒田長政が「関が原の戦い前」に、広家に対して接触&裏工作ができたのは「大親友の息子」ってことで、7つ年下の長政を弟みたいに可愛がってたからなんです。

吉川(も)いろいろ理由あって(もともと)三成が嫌いだったんだが、この朝鮮の役で「心の底から三成が嫌い」になってしまった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

吉川が西軍を裏切るのは諸要因あるのだが、前提として「石田三成が大キライ」ってのが根っこにあるんです。

二人が処罰されるキッカケを作った石田三成は、両名と縁のある武断派大名の全てに嫌われてしまった。

もともと三成は「朝鮮の役」の軍監(ぐんかん・各武将が命令通りに働いているか監視する役目)で、秀吉へ大小さまざま報告するのが職務でした。

ですが、あまりにも仕事に忠実すぎたために、武断派大名たちに「いつか殺す!」と思われるほど憎まれてしまった。

如水への謹慎処分は、息子・長政の手柄を考慮して解除されたが、そんなことで長政の怒りが収まるはずもない。

それどころか今度は長政まで処分されるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【ケンカを止めて~♪】福岡藩初代藩主編2栞歴27

朝鮮の役は、休戦をはさんで1592年~1598年まで戦闘行為が続いた。

天下の支配者・豊臣秀吉の領土的野心から始った(諸説あり)侵略戦争です。

従って朝鮮国李王朝が日本に対して異心があったという事は無い。

もともと秀吉本来の目的は唐(当時は明国)征服で、朝鮮は通り道(それも失礼な話)感覚。

秀吉は英雄の晩年にありがちの「自己肥大妄想」で「朝鮮が自分に従う」と決めつけていたようだ。

朝鮮にすれば、中国とは常に文化的影響下にあり、陸続きの大国に逆らうなどアンビリバボーで秀吉の「事業」は迷惑極まりない話だった。
一方、秀吉に動員された戦国武将たちも、戦争にかかる費用は全て自己負担なので金策に腐心した。

「朝鮮の役」は、新たに赴任した大名や太閤検地によって定められた租税率に、民力が追いつく前に起きた戦争だった。

そのため農民には従来の3~5倍以上の税率が重くのしかかり、大名たちを恨む声が出る。

大名たちは「民から絞れる限界(反乱の起きる一歩手前)」というヤバイ状態なんだが、それでも金が足りない~~~

戦費調達で借金をするものもいて、マジでケツに火がついていた。

この財政難を解消するには「唐入り」で手柄をたてて、恩賞をもらうほかはない。

武将たちは平和だった朝鮮国を戦場にして、その大地を血の色で赤く染め上げていく・・・


という事情で、武将たちは戦地で苦楽をともにする戦友であると同時に、手柄を熾烈に争うライバル!

特に「文禄の役(第一次朝鮮の役)」のメンツは絶望的にチームワークが悪く、作戦そのものにまで影響した。

戦国武将はプライドが高いし、自己主張も強いのでケンカが絶えなかったけど、今回は長政に関することを紹介します^^

黒田長政VS立花宗茂


作戦会議終って小宴になったとき、長政・鉄砲と宗茂・弓が「どっちが武器として優れているか」で大ケンカ。

「表へ出ろ!」ってことで、腕前を勝負することになった。

ちなみに審判は、日本軍総大将の宇喜多秀家^^

勝負は弓の名人・宗茂の勝ち~まぁ戦国時代の鉄砲の性能じゃ限界あるもんね。

長政は潔く負けを認め、勝負に使った鉄砲を記念として宗茂に進呈した(鉄砲は立花家所蔵で現存)

立花宗茂VS福島正則


元明智光秀家臣三羽烏の一人・安田国継は、武勇自慢しすぎて同僚にウザがられ、あちこち転々としてた。

で、宗茂のとこに再就職決定するのだが、安田を正則も以前から欲しがってて、宗茂に先を越されたとケンカになったの。

二人を仲直りさせるため「吉川広家と黒田長政」が、宴を開いたんです。

宴で誤解がとけて、めでたく仲直り^^ 

機嫌良くなった宗茂は舞を躍った。

それは拳(こぶし・手の平グー)を振り回す豪快なもので、宗茂の拳は酒が入って目つきが危なくなってきてる正則の鼻先をブンブン掠めた^^;

広家と長政はハラハラして「頼む~~穏便に~穏便に~」と、祈るような気持ちで観てたらしい。

ちなみに安田は人格に定評のある宗茂の元でも、大口叩いていずらくなり飛び出してます。 

最終的には長年の友人である寺沢(島原の乱の原因作った人の祖父)のとこに落ち着く。

確か安田さんの最期は、腫物が出来て、それにイライラして発作的に切腹しちゃったはず^^;

でもって、今度は黒田長政VS福島正則


もともと朝鮮渡海前にケンカしてたんだけど、朝鮮に行って長政の方から正則に仲直りを申し出た。

納得さえすれば、正則は後を引きづらない気性の良い男・めでたく和解^^

二人は友情の証に互いの兜を交換した。

福島正則の使用している「一の谷の兜」は、もともとは長政の命の恩人・竹中半兵衛のもの。

長政が「恩人の兜を是非~」といって交換した・・・・・というのは後世の脚色だったらしい。

二人は友情の証・兜交換を約束して帰国後に、それぞれ同じデザインのレプリカ兜を造って交換したの。

オリジナルは、それぞれ自分の手許に残したままなんで、本当に友情からの交換だったようです。

もっともこれにも尾ひれがあって、長政の渡したのがレプリカで、正則はオリジナルを渡した説もあり良く解りません。

「関ヶ原の戦い」で、二人とも友情の証・交換した兜で出陣してます。

後に福島家が改易になると、福島家は黒田家に譲り受けた兜を返還しているそうです。


黒田長政の甲冑画像

長政の父・如水(じょすい)は、武将たちがケンカするのを見越していました。

如水:若い宇喜多殿が総大将では、荒大名をまとめることは出来ぬ!海外の戦地で武将たちにニラみを効かせられるのは、徳川殿か前田殿。でなければ、このワシだ!


確かに秀家公は、育ちが良すぎて揉め事仲裁とか向いてないタイプ^^;

とにかく、この如水の言葉が秀吉の耳に届き、戦況がイマイチの現状を打破すべく、如水にも秀吉から朝鮮への出陣命令が下ります。

文禄二年(1593年)夏・・・豊臣秀頼が誕生する、この年に如水は朝鮮に行くことになったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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北肥戦誌(1511年~1527年・要旨抜粋)

勝尾城主・筑紫満門は元来、少弐の一族で少弐恩顧の者で、主家に二心なく仕えていたが、千葉高経が勝野尾城へ入った際に大内に降伏してより大身となり、只今は少弐残党を誅罰する側である。

また、その婿に馬場頼周という者がいる。
これも少弐一族で東肥前の綾部城に住んでいた。

頼周は元より少弐股肱の臣で、満門が大内に着いて少弐家を蔑ろにしたことに骨髄に徹して憤っていたが、舅であるからと気持ちを押さえて年月を送っていた。

時折、満門へ「何卒、元の様に少弐方になって下さい」と述べたが、満門は承諾しなかった。

更にその嫡子までが大内へ忠節を尽くすので、頼周は遂に堪えかね、満門を自身の館へ呼び寄せて誅殺せんと企む。
だが、満門も古兵である為、これを推量して頼周の元へは行かなかった。

★そんな折の大永4年(1524)1月半ば、頼周の子が疱瘡を患う。
頼周は妻女に向って云う。
「おことが父である満門は、我らに異心あるものと疑い、ずっと訪ねてこない。
我らには些かも別心などない。
いま子供が疱瘡で痛がっているのを、おことより知らせて父を招き、孫らを見舞う様に誘ってくれぬか」と述べる。
妻はそれが企てと知らず、急ぎ満門へ文を書き送った。
満門は疑いなき娘の筆跡を見て、1月18日に父子3人と家臣らを召して綾部城へ赴いた。

満門らはすぐに寝所の孫の体を見る。
その時に及び頼周の妻は、頼周の風情が怪しく、心中に邪謀あると悟り、頻りに涙を流したのであるが、満門はそれに気付かなかったのが運の極みである。
満門は外の広間に出て座った。
満門は隠形の法を行い「木の葉隠れの妙法」を得ていた為、(マジで?)頼周は寸分も油断せず合図を定め、易々と満門父子3人を逃さず討ち取った。
少弐に対しての忠心がなした処とはあるが、情けあらざる振舞いである。
頼周の妻の嘆きは量り知れず、その後に夫へ暇を乞い、髪を剃って仏門へ入った。

満門の家臣の生き残りは、すぐさま勝尾城へ戻ってこれを知らせると、筑紫一族・家臣数百人で綾部へ馳せ向かう。
だが、頼周は既に用心し、半途に大勢を伏せ置いていた為、これを追い崩した。
頼周は多年の鬱屈を一時に晴らし、悦ぶこと際限なかった。

満門が討たれた後、その怨霊が粗ぶり恐ろしい事が多かった。
現代(北肥戦誌が書かれた江戸時代)でも、月が曇り雨暗き夜は、綾部城の旧跡に叫喚の声が聞こえ人心を悩ませている。

或る時、ここの領民が草を刈りそれを馬に積んで乗馬していた際、満門の墓の辺りを通ると、忽ち逆さに落ちて悶絶した。
近くの者は驚き、山伏を呼んで祈祷させると、「我は筑紫満門という者なり」と口走り始めた。
更に「昔ここで命を失い、多くの年月が過ぎたと雖も魂は尚も留まりて、折しも今朝卯の刻より猿楽を興行し自らも舞い遊んでいたところ、下々ながら馬に乗り、舞台の前を通るなど奇怪の至りである。
だがこれを許し命は助けよう」と発した。
領民は汗水流して寝入るかと見えていたが、また息をしだした。

200余年の星霜は送ると雖も、その魂は尚も青苔に残る事、不思議な次第である。

★千葉介胤勝は少弐の親族・横岳資貞の子で、童名は満童丸、千葉介胤資の後家・日光明胤尼の養子である。
この頃、胤勝が少弐に背いて大内に従うとの噂があった。

馬場頼周はこれを諌めようと胤勝の長臣3人へ送り状を出した。
だが、大永4年(1524)の夏に胤勝は、頼周の諌めを聞かず大内に通じたと聞こえれば、頼周は佐嘉の龍造寺・蓮池の小田と共に4月に小城へ出陣し、
5月12日に落城、胤勝は密かに落ち延びた。

その数年後、胤勝は筑前へ浪人している。

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筑紫ファンだったが、満門が「木の葉隠れの術」の使い手だったとは知らなかった ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

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【二代目の葛藤】福岡藩初代藩主編1栞歴26

知名度は父に喰われているが、関ヶ原で欠かす事の出来ない立役者!

それが黒田長政~武断派七武将の一人にして、後の福岡藩52万石初代藩主です^^/


御当地・福岡では大宰府天神様に観光客を完全に食われています^^

理由の一つとして「江戸期は養子で跡を継いでいったので殿様に馴染みが無い」。

他の理由としては、福岡商人に制限つきながら自治権が与えられていたので、藩という支配者層の圧力や重みが軽く済んだ・・・という幸運に恵まれたせいでもあります。

福岡藩経済の活性化のため、福岡商人に自治権を与えて商売を奨励したのが、藩祖・黒田如水と初代藩主・長政親子です^-^



天才軍師・黒田如水

息子の長政は決して凡庸ではなく優秀な武人で「関が原の戦い」における裏工作では、大器の片鱗も感じる。

ですが、何しろ「天才軍師」と言われた父・如水が余りにも偉大すぎました。

家臣たちも・・・時には父でさえ、長政が物足りなく感じてしまったようです。

黒田家は、元は播州という近畿圏の出身だったせいか、家老や家臣までズケズケ言う者が多い。

本音ぶっちゃけて、情容赦なく父と息子を比較し、長政にダメ出しをして来るんです。

そのため負けず嫌いで短気な長政は、しばしば家臣と大喧嘩をしてました。
(でも友達家中なんで、すぐ仲直りします)

親にとって子供は、どもかでいっても永遠に子供。

親子を比べても、勝ち負けなんて結果が出るもんじゃない。

同じ道を通っても違う人間になるのが「親子」なのだ。

だが親の人生を子供が受け入れ理解できるようになるのには、やはり年月と人生経験がいる。

後年、長政は嫡男に訓戒している。

長政:いいか息子よ、じーちゃん(如水)の良いトコを真似しようったって、ジーちゃんは並みのレベルじゃないんだから、できっこね~ぞ!それよか、ジーちゃん大雑把なトコあったから、そういう悪いトコをマネしないように努力しろよ。な!


実は長政の嫡男は、後にお家騒動を起こすほどの問題児で、長政は真剣に悩んでいたんです^^;

自分が親と同じ年代になって初めて、当時の親の切なさや心境が理解できるものです。

長政は、繰り返し自分に小言を言ってた家老たちの忠言が正しかったのを、息子を見て感じたと思います。

若いころの長政は、無鉄砲だし、すぐ調子にのる軽薄なとこもありましたからね^^b



黒田長政・甲冑

「関が原の戦い」の時、長政は32歳の立派な大人♪

子供のころのような、親に対する反抗期は終る代わりに、社会に出て世の中の仕組みや世間の大きさが判るようになり、親の凄さが具体的に判る年代です。

なんとかして「父を超えたい」という願望は、より具体的にもなっていたでしょう。

「オヤジを超えるのは無理でも流石オヤジの息子と言われたい」

「家老の栗山や母里や後藤又兵衛に“長政は我らが自慢の主でござる”と言わせてみたい」

※管理人:本人には気の毒だが全くイメージできません(爆

とはいえ豊臣秀吉が天下を取ったので、一揆の鎮圧とかあるものの大きな戦は最早ない。

「オレの人生、このまま尻すぼみかよ。。(ω・`))」

となっているとこにドカっと来るのが「朝鮮の役」です。

そして長政が父・如水に対し「2代目の葛藤」を抱いていなければ、三成をあれほど激しく憎むこともなかったかもしれないでしょう。

歴史上・空気を読めない男でダントツ筆頭の石田三成と、黒田長政の間に何があったのか、それは・またの話 by^-^sio

次週 黒田長政と朝鮮の役 たぶん その1  ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

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【改易】薩州島津家18・栞歴26

戦国・・・欲望の祭典は終わった。天下統一の後にあるのは、生き残るための椅子取りゲーム。

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」「参照サイト・戦国島津の女たち」^^/

参照サイト「戦国島津の女たち」URL
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html



薩州家7代目忠辰・・・彼は「九州の役」で、島津宗家より一足早く降伏し、秀吉の先導役も引き受けた。

それを喜んだ秀吉から薩州家は領地安堵の朱印状を貰い、そのことが忠辰の独立志向を強めたのだろう。

豊臣政権に配慮し、忠辰は「島津姓」を遠慮し「和泉姓」を名乗ったんです。

だが肝心の秀吉は「薩州家を島津宗家から独立した大名にしよう」などと、微塵も考えていなかった。

九州を「唐入り」の前線基地と捉えていた秀吉は、九州の統治が無用に混乱することを嫌ったからだ。

いざ「唐入り」が始まると、忠辰には「島津家臣の一員として動員命令」が下った。

忠辰は「島津義弘と別にして欲しい」と申し出るが、もちろん秀吉の答えは「NO!」

んなことしたら島津の動員兵力が減っちゃうじゃん!

このころの島津家は「16代目義久派」と「17代目義弘派」に分かれて反目しあっていた・・・

ってされてるが、果たしてそれほど単純な色分けだったかどうか・・・(悩~

一つだけハッキリしているのは「宗家17代目義弘(弟」は「16代目義久(兄」から「正規の家督相続を受けてない」ってことです。

忠辰の生母・御平は16代義久の長女。そういった立ち位置から行くと「義久派」になる。

正規の家督相続を受けていない次男から命令を受けるのも、薩州家としては愉快なことではなかっただろう。

結果として忠辰は、義弘の命を拒んで「病」と称して引っ込み、戦をサボタージュした。

忠辰のサボタージュは「唐入り」に超夢中~秀吉の逆鱗に触れた、今風に言うと地雷踏みました

1592年(文禄元)12月31日~師走の慌ただしい日に御平と忠辰妻子への名護屋連行命令が下る


忠辰を取り調べる間の人質でした・・・

1593年(文禄2)5月1日~薩州家の改易処分が決定!

御平の三男・忠清、五男・忠富・六男・忠豊が小西行長に連行され、宇土に送還

名護屋にいた忠辰の妻子は処刑

同年8月27日~小西行長預かりだった忠辰は、朝鮮の加徳島にて病没


忠辰の死には自殺説と毒殺説があります。
毒殺説の犯人?もち殺るのは島津宗家ですよ。
島津に関する噂で「誰かを毒殺する時」には「一緒に杯を交わす家臣に因果を含めて死んでもらう」ってのがある。
相手が油断するように「一緒に毒杯を飲む役目」で、もちろん妻子には相応の見返りを約束します。(その辺は義理堅く約束守る島津宗家)
まぁホントに病死かもだけど^^

生母の御平は16代義久長女であることが考慮され薩摩へ戻される

自分だけ助かっても喜びや安堵なんてゼロだろうなぁ・・・どれほど苦渋の思いだったことか・・

龍伯公(=義久)御譜より

公儀(豊臣政権が薩州家を)断絶の事に候えば、重く見て右一筋(一族)を御取り立て成るまじき由

島津宗家という家(伊作系になってから)は、いかなる理由があっても宗家の意向に逆らった分家・家臣は絶対に赦しません。

それが「薩摩藩士は上に従う」という強固な士風を作った元の一つなんです。

戦国時代・・・分家や配下の国人に散々、散々~~~苦労した島津宗家の断固たる・一貫した態度で、それは幕末の「寺田屋事件」などにも垣間見えます。

その後の御平の子供たちですが、預かり先の関ヶ原で小西行長が敗北し改易になるのでバラバラになります。

★6男・忠豊~完全に消息不明です。

★4男・忠栄~薩州家の人質として細川家預かりだったんですが、薩州家改易後は小倉を出て佐土原の島津豊久を頼りました。
関ヶ原で豊久が戦死すると、亡き家久長女と組んで佐土原領を狙った(らしい)ので、旧豊久家臣が一揆を起こし佐土原にいられなくなって義久に泣きついて、母・御平の領地を受け継いだ。
寛永年間に死亡するんだけど、宇喜多秀家公が潜伏してた牛根で没してます^^

★5男・忠富~小西の元を早々に脱走し朝鮮の義弘の元に駆けつけて従軍した。
その功績で頴娃氏の家督を継ぎ、のちに入来院の婿となって入来院を名乗り、実の孫に入来院を、養嗣子である鎌田政近の四男に頴娃氏を継がせています。
御平の最期を看取ることが出来たのは、この5男だけでした。

★3男・忠清~小西の元で小西家臣の娘と結婚~一男・一女を授かる。
小西改易後に加藤清正を頼るが慶長14年(1609年)12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻った。
その娘が島津忠恒の側室(亀寿死後は継室)となり、薩摩2代目藩主光久を産む。
男子は新納家(支流)の家督を継いだ。
ただ・・・忠清の奥方・隠れキリシタンだったらしく、忠清の死後に妻は種子島に流刑になってます。

「一族は取り立てるな(怒」って義久は言ってましたが、薩州家は武家として御家再興してました。

もちろん島津姓は名乗れませんが、島津家臣として残ることが出来たのは、やはり忠清娘が二代藩主の生母になった事が考慮されたのでしょう。

義虎三男・忠清の系統で別名:島津仲家という寄合衆。
義虎四男・忠栄の系統の矢柄家という一所持格。
そこから薩州二男家の栗川氏、矢柄二男家の岩越氏、支流として西川・大野・吉利・寺山・大田という家が出ているそうです。

・吉利家~実久VS伊作・日新斎&貴久の時に、伊作サイドだった薩州家分家です。
・矢柄家~一所持格は江戸初期には薩摩藩に14家しかなかった家格ですから、悪い扱いじゃありません(嬉
・大田家~関ヶ原の時に亀寿が大坂脱出する時に「身代わりになった侍女・大田於松」の本家です^-^
【後書き】
島津氏を調べるうちに(いつものごとく)深みに嵌り、薩州家を中心に宗家8代から17代までオタの戯言をシャウトしました。

島津家で国賊扱いされた分家筆頭・薩州家に関する通史は未だ出てはおらず、
バラバラなパーツをパッチワークの如く紡ぎ合わせるのは、マニアとしては非常に楽しい作業でした^-^
島津家の文献は専門家が「一生かかる」と言うほど膨大ですので、今後も新たな発見が出る可能性を秘めた家です。
いつの日にか、さらに詳細な薩州家の歴史が表舞台に出る日を期待しつつ、まずはひとまず筆ならぬマウスを置きます。
5話の予定が18話・・・4倍弱で収まって良かった・・・一時は終わらなくなったらどうしようかと・・・大爆
次回からは関ヶ原の話です。それは・またの話 by^-^sio

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【落日】薩州島津家17・栞歴25

禁断の恋とえいば、叔父と姪のカップル・ドラマ「蜜の味」にハマってました(菅野美穂ファン)

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/


参照サイト「戦国島津の女たち」URL
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html





戦国時代の姫様の結婚は、家と家の繋がりを強化するための政略結婚が基本。

だからといって、彼女たちを「可哀想」と思うのは現代目線の感覚。

御姫様たちは実家の利権を守るために派遣される外交官。

そのために幼い頃から覚悟を叩きこまれ、家の為に働く使命と誇りを胸に嫁ぐのです。

政略結婚だけに、嫁いだ姫様にとっての幸福は「実家と婚家の蜜月」です


御平の夫・薩州家6代目である義虎は、概ね御平の実家である島津宗家に従っていたのだが、

時に独断で行動することもあったらしい。(この時期の分家は独立精神旺盛)
永禄12年(1569年)、相良氏が島津方の和睦の使者を殺害、相良・菱刈氏の連合軍が挙兵した。
これに対し義虎は詰めていた羽月城を退去し、本領の出水へ退却したため島津義久の怒りを買っている。(ウィキペディアより)

この1569年は義虎は東郷氏とガチンコしてるので、義虎は義虎の思惑があって羽月城を退去したのでしょう。

同年に大隅・菱刈氏が降伏すると、義虎は山野城を拝領しているので、宗家は薩州家にアレコレ気遣いしてたんだろうなぁ~と感じます^^;

1575年(天正4)~御平25歳~四男・島津忠栄を出産~1574年説あり


大友VS島津の「耳川の戦い」では、義虎は出水で肥後への備えとして留守番です^^

1579年(天正7)8月20日~御平29歳~五男・島津忠富(後の入来院重高)出産する


天正9年の肥後・相良氏との戦いで、義虎は先陣を務めてます^-^

1581年(天正9)~御平31歳~六男・島津忠豊を出産


戦から戻るたびに仕込んで・・・ゲホグホ・ブハ

1585年(天正13)7月25日~島津義虎が死亡。享年42(ウィキペディアだと50歳



家督は嫡男の忠辰が継ぎました。

薩州家は出水郡及び高城(たき)・水引・山野らを領し、禄高は31,900石余。

天正14年の島津軍北上(岩屋城が玉砕した時)では出水衆の派兵のみでした。

天正15年の「九州の役」が始まると、薩州家7代目忠辰は宗家16代目義久より先に秀吉に降伏している。

それだけでなく、秀吉軍の先導も務めたそうだ。

忠辰の降伏は島津が「根白坂の戦い」で敗れたことが関係しているかもです。

この戦いで御平の次男・忠隣が戦死しています。

秀吉は忠辰の降伏・先導役を務めた事を喜び、朱印状を与え領地安堵した。

忠辰は「島津姓」を遠慮して「和泉姓」を名乗ったそうだ。(出水の当て字かなぁ^^)

薩州家の人質として、御平の4男・忠栄が細川幽斎預かりとなった。

このまま何とか収まってくれれば良かったが、秀吉が朝鮮の役を始めることで、薩州家の運命が狂いだす。

義虎や実久が存命であれば、違う結末だったのか・・・それとも避けられない宿命だったのか・・・それは・またの話 by^-^sio

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【正室・御平】薩州島津家16・栞歴24

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3376680_8?1334146142

1554年(天文23)9月3日~「岩剣城の戦い」で島津義久・義弘・歳久が初陣^^

1555年(天文24)10月23日~弘治へ改元


1557年(弘治3)11月7日~薩州家6代目・島津義虎は阿久根深迫・尻無両村の間にて東郷と合戦。

義虎方の田代淡路が草道村の地頭・肬岡左近を討ち取り、白男川因幡は水引地頭・津田将監を討ち取った。

義虎方は湯田兵庫ならびに長寿寺住持・雪渓和尚ら数人戦死する。

ワンコが盗まれたのを憤り、東郷へ乗り込んで相手を殺して奪い返した湯田兵庫さんは、その東郷との戦で戦死しました^^;

諍いのキッカケの人だから、集中的に狙われちゃったかもです^^;

1558年(弘治4)2月28日~永禄へ改元~元亀天正は目の前だ~

同年4月20日~島津16代目当主・貴久~大隅国を(ほぼ・概ねザックリと)統一


蒲生さんが本城を捨てて逃げたんでウィキペディアでは「大隅統一」って表現してますけどね。

肝付も菱刈も抵抗を続けてるので、完全に制圧するにはマダマダ~手こずってます^^;

でもって、義虎なんですがウィキペディアには「父と違い早くから宗家に従い~」的な表現されてます。

が、どうもこの時期は従いつつも半独立っぽい感じです。

1563年(永禄6)~義虎は上洛し足利義輝公に御目見えし諱を拝領~義俊と改名する


すいません~~便宜上(一番好きな名前)義虎で統一してましたが、薩州家6代目はチョコチョコ改名してるんです。

それまでは島津の通字が入った陽久でしたが、義の字を拝領して義俊に改名し、次に義虎に改名します。

亡き父・実久も死ぬ直前に足利義輝に拝謁してるんですが、義虎も拝謁したんです^^

でも分家の身で、宗家の頭越しに拝謁して、偏諱まで受けちゃうって宗家的にはどうよ?!




1565年(永禄8)3月20日~義虎は長島領主・天草越前守を攻め殺し、長島を押領する


シオとしては、この長島攻撃も宗家の意向か、義虎の独断か判断つきかねてます^^;

長島攻撃は、当時島津が敵対してた肥後・相良家にとってダメージになるので、宗家の意向のような気もするしなぁ・・・

義虎と正室・御平の結婚時期は不明です。案外、この1565年くらいかもです。

そして義虎が宗家の命令に服すようになったのは、貴久(義虎の従兄弟)の孫娘・御平が嫁いでからではないでしょうか(内助の功ってやつ)

1566年(永禄9)~島津義虎と御平の間に嫡男・忠辰が産まれる~


嫡男・忠辰の生年には異説(1553年説)があるんですが、それだと御平が三つの童女^^;

義虎の代で、生母が御平以外の子供を嫡子認定は考えずらいので、やはり1566年説が妥当でしょう。

1567年(永禄10)~義虎は相良への備えとして羽月城に入ります。
同年11月23日~義虎・菱刈氏の馬越城を落とす。

馬越城を失った菱刈氏は、大口城に逃げ込むんです^^

1568年(永禄11)6月18日~阿久根東郷と合戦し味方63人が戦死する。
1569年(永禄12)8月18日~阿久根深迫村にて東郷と合戦。
     同年9月10日~菱刈氏が降伏~山野城を義虎が拝領する。


なんか、合間合間で東郷とガチンコしてますね~~^^;

1569年(永禄12)~御平は次男・忠隣を出産^^/城は拝領・子供が産まれる~いいことづくめ


次男の忠隣は4兄弟の3男・歳久の気の強~~い娘の婿養子になります。

えっと(家系図ガン見してね)義虎は、従兄弟(貴久)の長男(義久)娘(御平)と結婚し、従兄弟(貴久)次男(歳久)娘に、自身の次男・忠隣を婿養子に出してるんです。

どんだけ濃いんですか・・・・il||li _| ̄|○ il||l

1570年(永禄13)1月5日~東郷大和守重尚ならびに入来院石見守重副が、押領していた地を進上し降伏。

百次・平佐・隅ノ城・宮里・天辰・碇山・高江は入来院より進上。
中郷・高城・水引・湯田・西方を東郷より進上。

よって高城・水引・湯田・西方・京泊を義虎が拝領した。
前回話したように、東郷さんちは家久の次男を養子にします^^b

1570年(永禄13)4月23日~元亀へ改元^^/

1571年(元亀2)~御平~三男・又助(島津忠清)を出水で出産~


なんか御平の出産ペースを見るてると、義虎との仲睦まじさを感じます。

実家の島津宗家は着実に勢力を広げ、夫・義虎も宗家に貢献し領地も増える。

子供も次々生まれ薩州家の前途洋洋かに思え、御平の人生で最も充実した時期だったのではないでしょうか。

彼女の幸福が哀しみに彩られるのは、夫・義虎の死からなのだが、それは・またの話by^-^sio

参照サイト「戦国島津の女達」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html

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【6代目・義虎 川* ̄д ̄*川ポッ】薩州島津家15・栞歴23

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~【勝利・伊作家(相州含む】【敗北・薩州家】【(滅亡)総州家・奥州家】

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3376680_7?1333974416

●義虎の正室・御平
系図にあるように島津義久の長女。
1551年(天文20)年8月22日生まれで、夫・義虎より15歳年下です。
晩年に隅州上井ノ平に住んでいたので「御平/おひら」と呼ばれたので、それ以前に彼女が何と呼ばれていたかは解りません。

マニアック系図をガン見していただけると、義虎パパン・実久が実叔母と結婚していることに気付くと思います。

が、島津家では実叔母と結婚した人物が、もう一人います。それが島津義久です。

4兄弟長兄・義久の器量を見込んだ祖父・日新斎が、末娘の花舜夫人を嫡孫・義久の嫁がせたの。

義久と実叔母・花舜夫人との間に産まれたのが長女・御平です。

花舜夫人のことは記録が殆どないのですが、御平を産んで間もなく亡くなったそうです。

ちなみに義久の継室も血族婚で従姉妹ちゃん(種子島氏の娘でして、生母が花舜夫人の姉)^^;

日新斎と結婚した薩州家・御東からみて、御平は曾孫で義虎は妹の子になります。

もう何親等なんだかグチャグチャでワカラン~血統が濃すぎて眩暈がしそう~~~~

妻がらみといえば、1544年(天文13)8月5日に島津貴久の継室・雪窓夫人が病没している。

なんか湿っぽい空気なんで入れ替えますか~||ヽ(゚∀゚*)ノミ|Ю バタン

1545年(天文14)3月18日~島津貴久~正式に三国守護となる


この年に島津家の分家・豊州家(当主は忠広)が、(やっと)貴久と当主と仰ぎ従うことを誓います。

それまでは肝付と組んで、貴久に逆らってたんです^^;



島津貴久・晩年のイメージ画像

1547年(天文16)?月?日~4兄弟末弟・島津家久が誕生

ウィキペディアが年度間違ってるなぁ^^;

さて、家久が産まれた年に薩州⑥義虎は、御近所の東郷氏とケンカになっちゃいました。

その発端は、義虎の家来・湯田兵庫が阿久根に秘蔵していたワンコを東郷重治の家臣が盗んだ為でした。

ワンコ~~たぶん犬追物に使うために大事に育ててたんだと思います。

湯田兵庫は立腹し、東郷へ向って犬を盗んだ者を斬り殺して犬を取り返して帰った。

これにて両家は不和と成り、永禄年中までの20余年の間、国境を争うことになります。

伊作に負けた薩州は、宗家(当主・貴久)に従うようになってたので、その薩州家と東郷がガチンコになる~~~

て、ことは広義として東郷氏はアンチ宗家・・・という色分けになります。

ワンコがきっかけで抵抗を続けてた東郷家でしたが(薩州家と和解するのがイヤだった^^;)

最終的には宗家に従うこととなり、子供がいなかったことから、4兄弟末弟・家久の次男を養子に迎えます^-^

1551年(天文20)~御平の産まれた年に豊州家④忠広が死亡します。

惣領5家・ウィズ分家たち

1)総州家~奥州家に滅ぼされ断絶。
2)奥州家~当主・勝久が薩摩を出奔。
3)薩州家~宗家家督を狙った5代目実久が1553年に死亡~6代目・義虎は宗家に従う
4)相州家~2代目運久が死亡~伊作⑩日新斎の息子・忠将が継承します。
5)豊州家~4代目忠広が死亡~嫡男が死んでるので、北郷から養子を迎え伊東への備えとなる。
6)羽州家~宗家に従い大口城攻防戦で奮闘。
7)伯州家~何かやらかしたらしく勝久と同じころに当主が出奔~豊州家臣になったんで実質断絶

勝利を手にしたのは伊作島津家!以降の島津当主は伊作系の血統が独占します

1552年(天文21)6月11日~島津貴久が修理大夫に任官される


五月蠅い分家のオヤジたちも世代交代が進み、やっと島津家の力は一つに糾合されようとしていた。

だが、周辺国人たちは島津に従わず、まだまだ抵抗を続けている。

悲願の「三州統一」から「九州統一」に邁進していくなかで、薩州家の運命も大きく変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【逆襲!鮮烈の日新斎】薩州島津家14・栞歴22

ギレン実久:奥州家は何故滅んだか?

シャア日新斎:勝久が坊やだからさ( ゚Д゚)y─┛~~~

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~【(滅亡)総州家・奥州家】【(統合⇒)相州家&伊作家】VS【薩州家】

記事内呼称簡略ルール:家名+番号(〇代目)+名前(諱)
(例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久


1536年(天文5)5月1日~薩州家6代目・義虎誕生~


え~~~義虎は後に島津義久の長女・御平と結婚するんですが(汗
義虎ママンと伊作⑩日新斎の妻・御東が実姉妹であるからして(大汗
義虎から見て、正室の御平は「従兄弟(貴久)の孫娘」になります~~~~ゴシゴシ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚) ス、スゲー!

これだけ血族婚が重なると遺伝的にヤバいはずなんですが、島津に限っては「DNA良いとこどりに成功!」
「江戸期・島津暗君無し伝説」が出来るほど見事な「戦闘民族シーマンズ」を完成させました。
宗家8代目久豊か、伊作⑨久逸の遺伝ファクターが奇跡かもしれん~~~時々、家来筋妻が入るのが相乗効果なのかなぁ~


同年
3月~日新斎は伊集院を征伐し、一宇治城を落とす。
9月~大田原塁落ちる。
11月~長崎塁及び神殿塁落ちる。
12月~石谷伊賀守が日新公に降る。

1537年(天文6)
1月~竹山塁落ちる。
2月~福山・大迫の二塁も落ちたため伊集院は全て日新斎に属した。
   日新斎は続いて鹿児島に入り、犬迫に陣を布いた。
   薩州⑤実久が来て戦うと敗走して谷山に赴く。
4月~実久は加世田に在った。
   日新斎は領内での干戈が止む事無く、領民が兵役に苦しむ事を憂いて、
5月上旬に実久と会う。

日新斎「川辺・加世田を我に与えたまえば鹿児島・谷山・伊集院・吉田を実久に進上し、守護と仰いで以後は水魚の交わりなさん」と説いたが実久は聞かなかった。

同年7月10日~貴久の三男・歳久が産まれる


同年
12月?日~薩州⑤実久は自ら薩摩守護職にならん、とするが新納氏の反対にあい断念する。
同月19日~日新公加世田を攻めたが利はなく、
同付29日~夜陰に乗じて再び加世田を襲う。
     城兵は皆戦没して城は遂に落ちた。
     この際、川辺・山田の賊徒が来援していたが敗れて帰った。
     日新斎は遂に加世田五城を取った。

1538年(天文8)
3月13日~実久は貴久公と谷山紫原に戦って敗れた。
  14日~苦莘(くらら)城主・平田式部少輔宗秀が貴久公に降る。本城もまた落ちる。
24日~神前城が降ると実久の一党は皆、川辺に退去した。
  28日~日新斎公が川辺に入り故殿に陣を布く。
     高城城主・鎌田加賀守が降る。本城・平山は皆降った。
閏6月?日~貴久公は市来を征服される。
   17日~平城を落とす。
 8月28日~串木野城が降る。
 9月 1日~市来城が降り城兵らは出水に帰った。

この市来城は実久の弟・忠辰が城主でした。

市来城に篭城し貴久を迎え撃ったが、島津久定(薩州家分家・吉利)に(弓矢で)射殺されました。

どうやら、この頃になると薩州家の分家のなかには伊作サイドに走る者が出てたようです。

ちなみに、この島津久定の娘は後に伊集院忠棟に嫁ぎ、嫡男・忠真を産みます。

皆さん覚えてますか?島津編で紹介した「伊集院忠棟が島津忠恒に殺される事件」と「庄内の乱」。

久定娘は薩摩初代藩主によって、夫(伊集院忠棟)を殺され、息子(忠真)も謀殺され、自身も島津忠恒に殺されるんです(自害説あり)

華やかな表の系譜とは別の、島津暗黒面の悲しい系譜です・・・


1538年(天文8)閏6月?日~薩州⑤実久は日新斎と和睦し出水へ退く

同年7月1日~日新斎の養父で相州②運久が没する


本藩人物誌には実久が日新斎と和睦したのは不明だとしていますが、シオ検索では太文字の月日でした。

月日は多少前後するかもですが、弟の守る市来が制圧されたのが衝撃だったのではないでしょうか。


その後の実久は自ら庄内(日向)に至り、北郷・本田・豊州・肝付・禰寝らに会ってこれに応じると、

勝久公に属していた新納忠勝を山東(日向国の鰐塚山より東側の意。宮崎平野方面を指す)へ追いやってます。

そして1553年(天文22年)閏1月、実久は上洛して、将軍・義輝公に拝褐し、その帰国の途中で発病。

同7月7日に出水に帰ったのですが、22日に亡くなりました。

宗家に近かった分家・薩州家・・・その最盛期当主・実久、享年42。法名:昌岳源久大禅伯。

家督を継いだ義虎は18歳の若さだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

参照サイト「戦国島津の女達」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html

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【滅亡・奥州家】薩州島津家13・栞歴21

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~【(滅亡)総州家】【(宗家⇒)奥州家】【(統合⇒)相州家&伊作家】VS【薩州家】

記事内呼称簡略ルール:家名+番号(〇代目)+名前(諱)
(例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
マニアック薩州島津家・女系譜(メインのみ抽出)

①用久・娘----------------宗家⑩立久と結婚(二人には子供なし)
 ↓
②国久
 ↓
③重久・娘、御東-----------【結婚・貴久誕生】---------------伊作⑩日新斎
 ↓                              ↓
④忠興・娘(⑤実久の姉)----宗家⑭忠兼と結婚&離婚      (実久と忠良は義兄弟)
 ↓                              ↑
⑤実久---------------------【結婚・義虎誕生】---------------③重久・娘(御東妹)

1533年(天文2)2月9日~島津貴久の嫡男にして四兄弟長兄・島津義久誕生


ちなみに毛利の小早川隆景も同じ年産まれ^^b



(島津貴久イメージ画像~隠居後ネ^^)

島津貴久の初陣は嫡男誕生と同年で、年齢は二十歳と戦国では遅い部類に入る。

なんでかなぁ~と不思議に思いつつ調べてなかったのだが、何のことは無い。

父である日新斎が薩州⑤実久に対し反撃を開始したのが、この年だったからだった^^

同年2月10日~南郷の城主・桑波田孫六栄景が実久サイドになり兵を起こした

同年3月29日~日新斎は、これを襲って奪い返す~城主の孫六は逃亡し行方不明~以後、南郷城を永吉城と改める(=^・ω・^=)v ブイ

同年4月~薩州⑤実久は永吉城を襲うが敵わずして帰る

同年8月14日~島津貴久が初陣~無事に勝利で飾る(=^・ω・^=)v ブイ

同年12月24日~日置城主・山田有親が薩州⑤実久から離れて日新斎に降ったので、薩州⑤実久が誅した


激化する薩州家と伊作家。分家同士の争いを尻目に、不和の種を撒いた張本人である宗家⑭勝久は遊興にふけっていた。

ちなみに、この間も日向・伊東家は徐々に勢力を広げ、島津分家の北郷家や豊州家らとバトル真っ盛り^^;

1534年(天文3)~国が傾くのを嘆いた島津家老・川上昌久は同志15人と連盟書を奉じて宗家⑭勝久を諌めたが、勝久は拒否。

さらに佞臣・末弘伯耆守が勝久に川上昌久を讒訴した。

同年10月25日~川上昌久らは互いに謀って、谷山皇徳寺で佞臣・末弘を殺害する。

これにビビった勝久は鹿児島・清水城から根占に遁走~~はぁ~ぁ情けない(トホホ

1535年(天文4)4月3日~コショーリ鹿児島に舞い戻った⑭勝久は、川上昌久を追い詰めて自害させた。

これが島津当主のすることか・・・情けなくて泣けてくる。

さらに勝久は川上の妻子がいる城も攻撃したが、妻はじめ城兵が一丸となって守り貫いた。

川上未亡人は、後に伊作⑩日新斎に「烈女・賢婦人」と称され領地を安堵されている。

殺された川上の同士らは「もはや我らに逃げ場は無い。この主君(勝久)は頼み難し(T^T)」と、薩州⑤実久に与した。

そして勝久への謀反を進言し、それを受けて薩州⑤実久も遂に叛意を露わとした。

1534年(天文4)7月23日~貴久次男にして4兄弟次兄・島津義弘誕生^^/

同年9月30日~宗家⑭勝久~薩州⑤実久に敗れて清水城を脱出~~

同年10月10日~薩州⑤実久が鹿児島へ乱入~村市を放火すること7日間に及ぶ


チキン勝久は密かに小舟で逃れて祁答院(けどういん/この場合は地名ではなく国人ネ)を頼って帖佐(ちょうさ)へ向った。

薩州⑤実久は鹿児島へ打ち入って、諸家に自らを「御屋形」と仰がせようとしたが、吉田衆の謀叛が起きて止む無く領地の出水に引き返した。

そのため島津貴久が鹿児島に討ち入ってこれを領した。

⑭守護職はトンズラだわ、⑮貴久が入って来るわ、薩州⑤は独立状態だわ、お蔭で分家・国人もてんでバラバラ争乱状態。

国内の乱れるのを見て、すっかり怖れをなした⑭勝久は、日向・真幸院へ行き北原を頼り、

また都城(同じく日向)に赴いて北郷氏(島津の分家)を頼み「(勝久を)鹿児島へ連れてって!」とおねだりするが応じてもらえず(当たり前)、遂には豊後国に逃れたという。

豊後の大友家は勝久ママン(天真夫人)の実家なんです^^;

このみっともなさは、どうにもフォローできない^^;;

勝久は薩州⑤実久姉との間には子供はいなかったんですが、逃亡中に再婚した夫人との間には子供が出来たのね。

日向にいた勝久の子供たちは、後に真・島津宗家に見つかって僧侶にする措置がとられたが、いつの間にやら還俗して武家に戻ってます。

もちろん島津姓を名乗れるはずもないんですが、諱が・・・忠良だったり良久(読みが、よしひさ)だったり忠恒だったり、メチャクチャ意識してるのがイジマシイ(;;)

もっと惨めったらしいのは、勝久ってば鹿児島脱出時に宗家什宝の一部を持ち逃げしてたらしいんです。

江戸期に生活困窮すると、時の藩主に持ち逃げした什宝を売って生活費にしてたそうな・・・

勝久本人が流浪先で死ぬのは自業自得なんだけど、子孫が気の毒な話^^

ちなみに宗家である奥州家ですが、初代藩主となった島津忠恒が「陸奥守」を名乗ることで、一応は継承してたんです。

ところが例の東北の方(●Д゚)y─┛~~ からクレーム来まして「陸奥守」を名乗れなくなったので、名実共に奥州家は滅亡します^^

さぁ~奥州家は薩摩から遁走~宗家の座は、残る薩州家と伊作(相州含む)の争いとなるのだが、それは・またの話。by^-^sio

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北肥戦誌(1501年~1510年・要旨抜粋)

★文亀2年(1502) 1月16日、千葉興常の吹挙により、龍造寺家和が将軍・義尹へ御礼を遂げた。
家和は龍造寺康家の子で父の家督を継いでいたが、今回軍忠あって加増され、大身となった為の御礼であった。
家和には7人の兄弟があり、
1は豊前守胤家(千葉胤繁に属したため家を継げず)←(実際は継いでましたがゴニョゴニョ~)
2は女で内田左京亮に嫁ぎ、
3が家和、
4は宝琳院 初代住職の澄覚法印、
5は大炊助、
6は孫九郎家兼(後の剛忠)、
7は水上山住持の天享長老である。

★文亀4(1504)
筑前へ逃れていた千葉胤繁は、頃合いを伺い龍造寺胤家と共に肥前に帰ると、小城の高田の古城に入った。
だが、東に大内・渋川、南に渋江と敵を抱えている。
そこで、そのころ上松浦の鴨打秀の勇武が評判であるため、これを蘆刈に招いて領地を与え、その息子である筑前守を婿にする盟約を交わして、西の防備を頼んだ。
更に徳島一族、空閑・前田らを味方につけ、佐留志・蘆刈の間に置いて渋江の押さえとし、龍造寺胤家・鹿江・南里・渋谷らを東の押さえとした。

またこの頃、少弐政資の末子で、父の討たれた頃に9歳であった子が、
横岳資貞に秘匿されながら西島城で成長していたのを旧臣らが大将に取り立て、
また大友親治に頼んで公儀からの赦免を蒙ると、元服させて太宰少弐資元と名乗らせて少弐を再興させた。
隔して資元は、大友の加勢を得て東肥前で旗揚げすると、勢福寺城から大内方になっていた江上興種を追い落とし、そのまま在城した。
次に、綾部白虎城の渋川尹繁を追い落とすべく、千葉胤繁と共に攻める。渋川尹繁は防ぎかねて筑後へ逃れた。

★永正3年(1506)10月17日、筑紫満門が突然高田城を攻め、翌日に落城せしめる。千葉胤繁は密かに逃れ出奔した。

★永正4年(1507) 3月、大友義長は、下知に従わない妙見城の星野重泰を攻めるべく、10,000余騎で筑後へ入った。
これに少弐資元も馬場・横岳らを召して加勢として入った。
大友・少弐勢は城下を放火し夜襲を仕掛けるも、城は要害で容易く落ちず、攻めあぐねて日を送った。
だが城内に異心を抱く者が出て、重泰を殺害してその首級を寄せ手に送り、降参を願い出る者が出たため、大友はこれを幸いと許した。
しかしながら、星野氏の先祖である物加波助能(調助能)は、高倉院に仕え徳大寺左府の推挙を以って名誉の笛を吹き世に知られた者で、
その子孫の家を絶やすのは本意ではないと、一族の星野親実を重泰の跡目と定め、大友・少弐は帰陣した。

そんな折(同月)、将軍家より、九州の諸侯である大友・少弐・菊池・伊東・島津・渋川、更に大内に対して、急ぎ宿意を忘れ鎮西の争いを止めよとの御行書が下された。
これを各々了承し、大内は少弐との、島津は伊東との、渋川は少弐・千葉介との合戦を止めた為、一時的に静謐となった。
このとき大友義長は従四位下に叙され、少弐資元は肥前守となり、菊池義国は肥後守に改め、千葉興常に屋形号が下された。
(屋形号は国主待遇です。殿様~って呼び方から「お屋形様」って呼ばれるステータスな呼称)

★足利義尹はこの頃、都を追われて大内家を頼り、島の公方または吉木御所と云われていた。
隔して永正5年1月、義尹は大内の力を借りて帰洛せんとしたのだが、これを聞いた九州の国人が供を申し出る。
筑前の秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重、筑後の星野親実・草野親永・蒲池治久・田尻種久、肥前の渋川尹繁・少弐資元(名代・横岳資誠)

・千葉介興常・龍造寺家和・龍造寺家兼、唐津の波多治・草野永信、平戸の松浦興信、高木の有馬尚監、彼杵の大村純治、肥後の菊池義国・相良義滋、薩摩の島津忠昌(名

代は子の勝久)、日向の伊東祐秀、豊後の大友一族、豊前の城井長門、対馬の宗義盛らが集まった。

だが準備に滞り、義尹ら数千艘が出船したのは5月下旬となった。
兵庫和田の御崎に着船すると陸路を取り、6月8日に入洛を果たした。
今回、海路・陸路共に入洛の用意を取り繕った宗義盛は特に忠節があったとして、翌年に義尹から屋形号が下された。

★永正7年(1510) 4月4日、宗義盛は宗盛弘と相談の上、朝鮮国を攻めるべく渡海した。
宗家は嘉吉年中から数十度、朝鮮に船を渡していた。

義盛らは彼の国の者共が怯弱であることを知っていたので大いに侮り、釜山浦に着船し陸へ上がるとすぐさま貝鉦を鳴らして鬨の声を上げ、民家に火を掛けて所々へ討ち入

った。
すると朝鮮人10万人以上が義盛らを取り囲み、弓矢を雨の如くに射掛ける。
義盛らはこれを打ち破って馳せ通らんとするが、朝鮮人は十重・二十重に囲んでおり、義盛は死を覚悟した。
すると、盛弘が打ち物を捨てて敵中へ割って入った。盛弘は無双の怪力で、敵を引っ掴み打ち散らした。
これに敵が恐れをなして少し引いた隙に義盛を船に乗せ、盛弘自らは敵を防いで討ち死にした。


だが6月から、盛弘が居宅に居るのが目撃された。
対馬の老若男女はこれを怪しみ、亡霊であろうと伺い見たが、紛れも無く生きた人間であった。
しかしながら、その人物は食事を取らなかった。
村老はこんな事は前代未聞と恐れたが、義盛は盛弘を憐れみ霊魂を祭って一社の神と崇めた。
今の対馬高崎大明神である。

その後、朝鮮の兵船数十艘が対馬の豊崎へ着いた。
義盛は悦び、「一人も生かして帰すな。盛弘の孝養に悉くを海底に斬り捨てよ」と自ら進み出て、対馬勢は数百人の朝鮮兵を一人残らず打ち殺した。
以後は商船も渡さず、しばらく通略も絶えた。

******************************************

・・・・・宗氏も調べなきゃならんな・・・・

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黒田氏用画像


家紋



黒田如水

黒田長政・甲冑

黒田長政・晩年

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【急転直下・宗家の裏切り】薩州島津家12・栞歴20

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~【(滅亡)総州家】【(宗家⇒)奥州家】【(統合⇒)相州家&伊作家】【薩州家】

記事内呼称簡略ルール:家名+番号(〇代目)+名前(諱)
(例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
マニアック薩州島津家・女系譜

①用久・娘----------------宗家⑩立久と結婚(二人には子供なし)
 ↓
②国久
 ↓
③重久・娘、御東-----------【結婚・貴久誕生】---------------伊作⑩日新斎
 ↓                              ↓
④忠興・娘(⑤実久の姉)----宗家⑭忠兼と結婚&離婚      (実久と忠良は義兄弟)
 ↓                              ↑
⑤実久---------------------【結婚・義虎誕生】---------------③重久・娘(御東妹)

ライバルの分家(or家臣)を噛み合わせ、国内パワーバランスをコントロールする。

いっけん良案のようだが成功するのは難しい。

これには宗家当主の器量が肝要なのは当然だが、宗家そのものにも「知(財)力・体力・時の運」が必須。

さらに宗家の基盤が脆弱だった場合は、余程の幸運に恵まれてないとヤバイことになる。

なぜなら、ライバルを蹴散らし這い上がった分家の実力が宗家を凌駕してしまい、獅子となって宗家の喉笛に噛みついて来るからです。



(入荷ほやほや~島津貴久公(隠居後の御姿)

宗家⑭忠兼が伊作⑩日新斎の嫡男・貴久を養子にして家督を譲った。

と知って、薩州⑤実久は⑭忠兼に猛抗議したそうだ。
(しかも忠兼の正室だった実久姉を離縁してよこしたので怒り倍増)

実は忠兼は実久の圧迫に負けて、一度は実久に家督を譲っていたらしい。

二重相続www現代でも裁判沙汰確実。

これはシオ推理なんだが「当主の証・御重物(島津家文書)」は、忠兼から15代貴久に渡ってたんじゃないかしら。

「嫡男・貴久が宗家の家督を継いだのを確認して」から、実父・伊作⑩日新斎は隠居している。

「確認事項」に「島津歴代当主所有の御重物」が含まれていなければ「相続を受けた」と言っても自称扱いされかねない。

一方、「当主だ!」と頑張っても実久の立ち位置が弱かったのは「御重物」を所持してなかったからだと思う。

「正統性」では「15代目となった貴久」に勝てない。

だから対抗手段として「前当主である忠兼」に「復権することを願い出た」と睨んでるww

忠兼・・・復活後・勝久は未だ25歳の若さで、守護職に未練があるのも無理はない・・・が、傀儡当主にバラ色の未来なぞあろうはずがない。

勝久は自業自得・・・島津歴代当主で一番惨めな晩年を迎えることとなる。


玉(ぎょく)・・・⑭勝久を手中にして「大義名分」を得た実久は、まず日新斎の領する日置・伊集院の両城を襲ってこれを落とした

1527年(大永7)6月11日~日新斎公はその頃、加治木(伊地知)・帖佐(島津昌久)の両城を抜き、兵を分けて守らしめたのだが、船で鹿児島へ帰り戸柱ノ津に至ったとき初めてこの変を聞いた

同日の夜、田布施に帰る実久はいよいよ威を振るい「大翁公(勝久のこと)の命」と偽って貴久クンを襲わんとする


時に島津貴久14歳・・・この時、彼は城を枕に自害しようとしたそうだ。

それを必死に宥めて、生きて落ち延びることを進めたのが園田氏。

園田氏の娘が後に島津義弘に見初められて妻となり、薩摩藩初代藩主を産みます^-^

貴久クンは僅か8人の家臣と夜陰に紛れて城を落ち延び、小野村に走り更に田布施の亀ヶ城(貴久生誕の城)に逃れました。

実久は追いかけたけど間に合わなかったそうです^^b

6月15日~島津忠兼改め勝久~守護職に返り咲き(脳内は春)、実久は自ら政を執り権勢を専らとしたそうな

7月23日~日新斎公は勝久の隠居城と譲ってた伊作城を攻めて、これを取り返しました^^


1528年(大永8)8月28日~享禄へ改元



1529年(享禄2)~豊州③島津忠朝、新納忠勝、禰寝清年、肝付兼演、本田薫親、北郷忠相、樺山幸久、相州②運久(日新斎の義父)らが鹿児島清水城に集まり、島津勝久に島津日新斎と和解するよう求めるが、勝久が拒否!


いっぽう、裏切られた伊作⑩日新斎は着々と実力を蓄え反撃のチャンスを窺っていたのだが、それは・またの話by^-^sio

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【アレも義兄(あに)♪コレも義兄♪たぶん義兄♪きっと義兄♪】

薩州島津家11・栞歴19~タイトルのネタ元は、女優・松坂慶子のヒットソング(*´pq`)クスッ

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~【(滅亡)総州家】【(宗家⇒)奥州家】【(統合⇒)相州家&伊作家】【薩州家】

記事内呼称簡略ルール:家名+番号(〇代目)+名前(諱)
(例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
マニアック島津女系譜(主要部分のみ抽出)

薩州家①用久・娘----------------宗家⑩立久と結婚(二人には子供なし)
 ↓
薩州家②国久
 ↓
薩州家③重久・娘、御東------------------------------伊作⑩忠良と結婚
 ↓                              ↓
薩州家④忠興・娘(⑤実久の姉)----宗家⑭忠兼と結婚      実久と忠良は義兄弟
 ↓                              ↑
薩州家⑤実久----------------------------------------薩州③重久・娘と結婚
伊作⑧久逸
 ↓
伊作⑨善久-----------------------新納是久・娘、常盤と結婚
 ↓
長女・島津昌久と結婚
次女・吉田位清と結婚~二子あり、夫は謀反を起こして滅亡。

※娘たちは伊作⑩忠良の姉たちです

身内で揉める島津家は、身内の結束を固める&和解のための血族婚が多い。

女系譜まで調べるレベルになったら超絶マニアな件,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!




最新の島津研究では「薩州家⑤実久は島津宗家の家督を継いでいた」ことが判明している。

当主在位期間は推定で10年。

伊作系統が島津当主の地位を独占するに至って、「薩州家⑤実久は国賊扱い」になった為に「実久当主期間」の歴史が闇に葬られていたらしい。
(えぇ!島津じゃ珍しいことじゃありませんのよ)

父・兄が立て続けに死んだために急遽、養子先からカムバック当主になった宗家⑭忠兼。

政治基盤が弱かったのをフォローするために、実久の姉を正室にと迎え、薩州家のバックアップを受けた。

ところが⑭忠兼は父・兄たちよりも芯から器量が残念な男だったため、実久の力の前に圧倒されてしまう。

実久は子供のいなかった忠兼に「自分を養子にしろ」と迫り、守護職として振る舞うようになった。

どうやら、この時はホントに当主だった(らしい)。

とにかく当主として書面上の体裁は整えていた。と言うからには全くの詐称ではなかったようだ。

耐えかねた宗家⑭忠兼が、伊作⑩忠良へ泣きついた・・・ってとこは前回までの荒筋。

この時に⑭忠兼は、実久の姉を離縁し「当主の義兄弟」という実久の大義名分を解消したんです。

だが「解消されなかった義兄弟の間柄」がある。

それが薩州家⑤実久と伊作⑩忠良の義兄弟の関係だ。

あ~~~女系譜ガン見すると気づくと思うが、実久は実叔母と結婚してるんですが、血族婚の多い島津じゃ(以下略)

弟・実久と夫・忠良の争いに板挟みになったのが、忠良の妻・御東(ちなみに4兄弟祖母)です。

御東は薩州家と伊作家の戦いが始まると、迷うことなく夫・忠良に付き従った剛毅な女性だったそうだ。

「島津中興の祖・忠良」に、それだけ男性としての気概と魅力が溢れていたのでしょう。

残念ながら御東は、息子・貴久が宗家15代目になる日を見る前に亡くなっている。

忠良は貴久が宗家家督を継いだのを確認すると、33歳の若さで隠居し「日新斎(じっしんさい)」と名乗ります。

亡くなった御東(寛庭夫人)の位牌に報告したんだろうなぁ・・・(゜-Å) ホロリ

一方、御東の妹・・・つまり実久の妻だが、詳しいことは解ってない。

もしかして、この時期は未だ実久に嫁いでいないかもです。実久・妻は嫡男・義虎を産んで間もなく死亡したようだ。(義虎が産まれるのは、この話から10年後)

御東と妹は、かなり年齢が離れていたようなので、薩州家と伊作家の関係を考えると姉妹の対面ってあったのかなぁ~って感じです^^;




1527年(大永5)5月~帖佐地頭・島津下野守昌久と加治木城主・伊地知周防介が実久サイドになったのを受けて、伊作⑩忠良は再び討ち手を出して両者を討つ

前回、記事にした部分ですが、二人の行動は薩州家⑤実久の差し金です。

それは「島津昌久がコチラ側として動いたら、忠良は必ず伊作から出てくる」という自信が実久にあったからです。

なぜなら忠良の祖父・久逸が討死した遠因が島津昌久にあるからだ


伊作・女系譜にあるように、島津昌久は忠良の姉と結婚した義兄(あに♪)

で、島津昌久自身は薩州家の分家です。

薩州家ってば、まだ5代目だってのに歴代ハッスルしたのか、やたら支族・分家が多くて把握しきれんちゃ!

で、薩州家②国久亡きあとにスッタモンダ御家騒動が起きて、羽州島津家②忠福にグランパ久逸が味方して、薩州家④忠興に討たれた。

で~~って久逸が羽州②忠福に味方した理由ってのが、孫娘が嫁いだ島津昌久と羽州②忠福が兄弟だったからなの。

いかに薩州家分家とはいえ、忠良の姉夫だし、久逸の死に関わってるんだから「当然、伊作サイドにゃ」とカウントしてた。

あにはからんや、しょせん分家は分家でして「あやつ薩州家本家に従いやがった!裏切り者~成敗!」って感じで忠良は出陣!

貴久に家督を譲って伊作に隠居してた忠兼はノーガード

島津実久は「待ってました!」この隙に未来の舅・川上忠克を忠兼のもとに派遣し、守護職復帰を説かせた

(後年ですが、実久は正室(実叔母)死去後に川上の次女を継室に迎えて男子を儲けます)

宗家⑭忠兼の愚かなところは、実久の求めに応じて守護職に復帰したことです


自力では出来なくて泣きついたくせに、筋も道理も通すだけの根性が無い。眼先の利益に踊る、つくづく小賢しい男です。

忠兼は隠居して出家してたくせに、あっさり還俗して勝久と改名し復活・復権・復職した。

勝久の行動が「もともと因縁のあった伊作家と薩州家の争いを激化させた」ことは言うまでもないだろう。それは・またの話~by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【薩州か?】宗家のミカタ【伊作か?】薩州島津家10・栞歴18

出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~総州家(滅亡)・奥州家(=宗家)・薩州家・(統合⇒)相州家と伊作家

記事内呼称簡略ルール:家名+番号(〇代目)+名前(諱)
(例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
早わかり家系図(主要メンバーのみ抽出)◆印・別記系図、★印・現当主、~印・養子

島津奥州家=宗家⑧久豊の子供たち
 長男・用久(薩州①)⇒国久(薩州②)⇒重久(薩州③)⇒忠興(薩州④)⇒★実久
◆嫡男・忠国(宗家⑨)
 3男・季久(豊州①)⇒忠廉(豊州②)⇒忠朝(豊州③)⇒★忠広(豊州④)⇒忠親(豊州⑤養子)
 4男・有久(羽州①)⇒★忠福(羽州②)⇒忠明
 5男・豊久(伯州①)⇒忠常(伯州②)

◆島津宗家⑨忠国⇒相州・友久(①)⇒運久(②)⇒★忠良(③)⇒忠将(④)
        ⇒宗家・立久(⑩)⇒忠昌(⑪)⇒忠治(⑫)忠隆(⑬)勝久(⑭)~★貴久
        ⇒伊作・久逸(⑧)⇒善久(⑨)⇒★忠良(⑩)⇒貴久

宗家14代目・島津忠兼(勝久)のシオイメージは、ひとこと「小賢しい男~





1519年(永正16)5月12日~兄・忠隆の死で末っ子の忠兼(勝久)が、島津宗家14代目となる

同年~大隅・曽於城の伊集院尾張守が背き、翌年にこれを降伏させる

⑭忠兼~家督を継いで早々に謀反があったようですが、翌年に鎮圧できました。

1520年(永正17)?月?日~伊作⑩忠良の次男・忠将(後の相州④)が産まれる

?年?月?日~島津忠兼と薩州⑤実久の姉が結婚

1521年(永正18)8月23日~大永に改元

1525年(大永5)10月9日~薩州④忠興が死亡(生年不明のため享年不明~

同年10月10日~伊作⑩忠良の生母・常盤が死亡


一日違いで死んでたんだ・・・薩州も伊作も喪中でつ^^;

公(⑭忠兼のこと)はまた君子に非ずして国治まらず、実久は寵臣として権威を募らせ、公が政道を怠るを見て守護職を奪わんと志した為、封地は大いに乱れて背く者多し。
「本藩人物誌」より抜粋

能力や向き不向きは別にして、懸命に頑張った父・兄と違い、忠兼は妻の弟・薩州⑤実久にオンブに抱っこだったらしい。

次第に実久は宗家当主の義弟として、権勢を振るうようになったそうだ。

そうなると困ったのが忠兼。彼には義弟を政治的に抑え込む器量など皆目無い。

1526年(大永6)?月?日~⑭忠兼は伊作⑩忠良に国政を委任、南郷・日置の両村を加増する

同年11月18日~伊作⑩忠良嫡男・貴久が、⑭忠兼の養子となり宗家の家督を継ぐ、貴久は13歳の少年だった

同年12月~帖佐城主・辺川筑前守(忠直)が実久に与して背く。実久が援軍を出す

伊作⑩忠良は軍勢を発して辺川を討つ。殺された城兵は500余人

宗家⑭忠兼は喜び、伊集院の地を忠良公へ進呈した(←大盤振る舞いww


1527年(大永7)4月?日~宗家⑭忠兼は伊作で隠居~代わって養子・貴久(14歳)が鹿児島・清水城に入る


同年5月~帖佐地頭・島津下野守昌久と加治木城主・伊地知周防介が実久サイドになったのを受けて、伊作⑩忠良は再び討ち手を出して両者を討つ


薩州⑤実久は、忠良が出陣し伊作を留守にした隙に、自ら伊作へ赴いた


薩州家が歴史の勝者であれば、実久の行動は「英雄の壮挙」と称えられたことだろう。

だが記録は彼を「乱賊・奸計」と罵ることになるのだが、それは・またの話^-^

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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