FC2ブログ

【後篇・如水について】九州関ヶ原12栞48


今シリーズはサイト「黒田武士の館・黒田如水墓の謎」を参照にしました^-^
http://www.geocities.jp/kazzuki2001/

関ヶ原を本気で調べようと思ったら、黒田親子の調査は避けて通れない。

どこまで調べるかは人それぞれだが、ガンガン調べてるうちに、遡り過ぎて黒田家から離れてしまい、

ついに九州の郷土史まで首を突っ込んで、抜けられなくなった~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハ!


さて1604年・・死の床で如水は、息子・長政に言った。

「そなたが死んでも、家臣たちは大殿(如水のこと)がおられるから大丈夫、と思うだろうが、ワシが死んだ後は、家臣たちは長政について行く者はいないだろう」

病でも口は達者・毎度ながら辛辣な如水、長政は身もふたもありません^^;

今風に言うとツンデレ親子なのが如水と長政。

黒田家中がアットホームすぎる(家臣が長政に対して言いたい放題)のは、如水が息子に対しての不満や辛口評価を(家臣の前でも構わず)言い過ぎたからかもしれない。

だが足が不自由で戦場で槍働きが出来ない如水にとって、武勇優れた長政は自慢の息子だった。

ただ長政は大将のくせに本陣にジッとして無くて、兵卒と一緒になって前線に突撃しちゃう。

でもって黒田二十四騎の猛者たちと(本気で)武功を争うから、ダディ如水の御小言が出るんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

関ヶ原の前哨戦でも(本気で)一番槍を(家臣と)争ってる長政33歳( ̄ω ̄A;アセアセ

政略の才能も如水に比べると見劣りするが、決して凡人ではない。

例え如水のアドバイスがあったにしても、小早川や吉川の裏切り交渉を遣り遂げたのは長政の実力だ。

熟慮断行と言えばカッコいいが、実は「ケンカ早くて、見栄っ張りで、超負けず嫌いで、すぐ調子に乗る息子」を、如水は死の間際まで心配した。

病床の如水は、わざと怒ったり、理不尽な命令を出して、家臣の人望を長政に集めようとしたそうだ。

如水の悲痛な思いは家臣に伝わっていたのだろう(だって如水本人が黙ってられなくて、話しちゃうんだもん・爆)家臣たちは長政に突っ込み入れつつも、良く仕えた。

父・如水は長政にとって神にも等しい存在だった・・・誰よりも敬愛し、如水への薬湯は長政自身が服用して効果を試した。
(( ̄ko ̄)<健康な人が服用しても意味が無いんじゃ・・・と突っ込んではなりませぬ)


黒田如水イメージ画像

1604年3月20日・・如水が福岡で没した時、遺言で葬儀はキリシタンで行ったとある


ちなみに福岡城は完成が1607年・・・如水は福岡のどこで没したのだろうか・・・居住スペースは出来てたのかな?

これは当時・福岡にいた宣教師の記録です。

宣教師の記録は一次資料ではあるが、日本の風習が解らず勘違いしてたり、異教徒を憎むあまりエキセントリックな表現があって鵜呑みには出来ない。

だが「出来事」はマメに記載している(ローマに活動報告するから)

1604年3月24日~博多教会堂で如水の葬儀を執り行い・黒田長政一家も参列、感激した長政は教会に米4俵を寄進したとある

実は如水の没した地には「福岡説」と「伏見説」の二説・・いや宣教師の記録を入れると3パターンある

黒田家譜・・・福岡没⇒崇福寺で埋葬
寛政譜・・・・伏見没⇒ 同上
宣教師報告書・福岡没⇒博多教会に埋葬

宣教師の記録だと、如水の墓はキリシタンの墓地に埋葬したことになっている。
では如水の墓は?というと、

博多崇福寺・・・大宰府にあったのを博多へ移築して再興
博多教会堂・・・1613年の禁教令で破却

もし教会に埋葬されたのなら、如水の遺体(遺骨?)は禁教令による破却により、崇福寺に埋葬しなおしたことになる。
ちなみに京都・大徳寺・龍光院(三成は三玄院)にもあり、こちらも如水の死後、数年後に長政が建立したものだ。

そもそも黒田家を作り上げた偉大な藩祖の没した地が、二説あるというのも不可思議な話だ。

黒田家譜には病床の如水と長政のやりとりが幾つもあるのに、葬儀や没した地の記載は簡素。

如水の葬儀がキリシタンで行われたのなら、「黒田家譜」で深く触れないのも、寛政年間に幕府に提出した「寛政譜」に、違う地で没したと記載した理由が頷ける。

黒田家は如水の葬儀がキリシタンで行われたことを、必死で隠そうとしたのではないか?


如水が内面の信仰心を捨てなかったのは、長政が男子がいないにも関わらず側室を作らない事でも解る。

秀吉の養女である正室に遠慮・・・というが、江戸時代ではないのだ。

当の秀吉が正室と子宝に恵まれず、側室を抱えているのに遠慮もクソも無いだろう。

1606年に後藤又兵衛が出奔し細川忠興が一時、身柄を預かった

この時、長政は初めて父の葬儀をキリシタンで行ったのを後悔したかもしれない

後藤は旧主を売る様な下種な男ではない、だが何かの拍子で漏れないという保証はない

長政は後藤が細川家に仕官できないように「奉公講/ほうこうかまえ=再就職を禁止する措置」の処分を下したのではないだろうか?


キリシタンの禁令は豊臣政権で追放令が出されたのが始まりだが、それは廃止になっていないので有効のままだった。

でも、だんだんザル法になってて「個々の大名の判断に委ねられた状態」で、けっこうキリシタンが領内にいるのを黙認している武将はいたのだ。

1602年に江戸幕府が開かれ、最初のころキリシタンは「新政権が布教を認めてくれるのでは」と淡い期待をした。

だが幕府が欲しいのは豊臣家に代わって「貿易の利益を独占」することであって、布教を認めるつもりは無かった。

禁令を出した時に、世上不安定になるのを恐れて様子見してただけだ。

長政は幕閣の要人と親しくすることで情報収集(どこの大名もやってるが)し、キリシタンへの締め付けは変わらないことを察知してただろう。

中津から福岡への引っ越しの時に細川忠興とケンカして以来、粘着タイプの忠興は黒田家のアラ捜しを鵜の目鷹の目で狙ってた。

忠興にバレたら、奴は報復のために幕府に絶対チクる!細川家には如水の葬儀がキリシタンであることを知られてはならない・・・!


すぐ墓を移転すれば・・・と思うかもだが、そんなことをすれば逆に目立ってしまう。

1601年から1607年の福岡城築城の間に、黒田家は検知を行って従来から2倍以上の増税している。

耐えかねた農民が田畑を捨てて、福岡から中津の細川家へ逃散しています。

細川忠興は長政への嫌がらせのために、「農民返して」の要求をガン無視してた。

如水の墓の移動なんてして、領民の目に留まる様なことがあれば、、下手すれば忠興のとこにウワサが流れるかも・・・

黒田家が如水の墓を教会から移転したのは1613年から1620年の間だじゃないだろうか。

幕府が天領に対しキリシタン禁教令を出したのが1612年で、翌年の1613年に全国へ発布する。

墓を移動しなきゃアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ と黒田家が判断するのはこの時しかない。

そして1620年に長政は幕府に遠慮して「福岡城の天守閣を破壊した(細川家文書)」とある。

この間に黒田家では如水の死に関するアリバイ工作したのではないか?(土木工事は墓移転のチャンス)

福岡城には「天守閣があった・無かった」の二説あるが、近年になって細川家文書が解読されて、「あった説」が有力視されている。

「大坂の役」の時に長政は江戸留守を命じられている(忠之ちゃんが初陣)。

幕府は完全には黒田家を信用していなかったからこそ、見栄っ張りの長政も天守閣を破壊するというゴマすりをしたのではないか?


黒田家紋

とまぁ、これらの話は「如水の葬儀がキリシタンで・・・」という宣教師の記録が史実だと仮定した場合だ。

だがそう踏まえると、何となく色んなことが符号するような気がするのが、歴史をアレコレ考える醍醐味である。

さて、九州の関ヶ原自体は、島津軍の動きや「鍋島VS立花」の戦いがあるのだが、それは別章でガッツリ語ることにします。

今はいったん、美濃は関ヶ原・・・・ではなく、大垣城へ飛びます(=^・ω・^=)v ブイ

なんで大垣城かって?シオ的戦国ドリームチーム「秋月・高橋・相良」がいるからです 川* ̄д ̄*川ポッ 

欲を言えば「伊東祐兵」も欲しいが、あやつは大坂で死にかけ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

次回より新章「関ヶ原・大垣城編」それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1542年(要旨抜粋)】

天文11年(1542)

千葉喜胤は予てより悪瘡を患っていたのであるが、その苦痛に耐えかね、3月29日に自害に及んだ。享年34。

冬尚の実弟・胤頼が喜胤の息女と婚姻し、その後を継いだ。

また、彦法師(鍋島直茂)は胤連の養子に入っていたが、胤連に実子が生まれた為、胤連の父・胤勝が彦法師を伴い牛尾に隠居。

自らの隠居両・美奈岐80町を彦法師に譲った。

彦法師は後の天文14年、領地を返還した上で千葉家を辞する。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【中々篇・如水について】九州関ヶ原11栞47


今シリーズはサイト「黒田武士の館」を参照にしました^-^

あらゆる難問を神のごとき知謀でクリアできたとしても、黒田政権は絶対作れない

理由はカンタン。1600年当時・黒田家には後継者がいないからです


こういうと、息子の長政・御年33歳がいるだろう~って反論されるだろう。

だが、その長政は未だに嫡男に恵まれていないのだ。これには幾つか理由がある。

1)長政の正室(当時)蜂須賀小六の娘は、嫁ぐ時に秀吉の養女となった。

その正室と長政の間には娘が一人いる・・・・てことは正室は全くの不妊体質ではないということだ。
なまじ可能性があるがゆえに、正室の養父である秀吉に遠慮して側室を作らなかった

2)如水&長政親子はキリシタンだった。

秀吉が禁教令を出したために、二人は表向き棄教したが信仰心は完全には捨ててなかったらしい。
その後も側室を作らず子宝に恵まれないまま、1600年になっちゃった~><;アウチ☆

3)「朝鮮の役」で、正室と離れたので子作りできん!

適当に発散してた連中は病気をもらって・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
如水はともかく、長政まで側室がいなかったのは、長期間の外地遠征のせいじゃないかなぁ

黒田長政が、1600年6月6日に蜂須賀小六の娘を離縁して、家康の養女で10代のうら若き乙女の新妻を迎えた。

それは政治的な理由の他に、ぶっちゃけ子作りのためです。

姫君を離縁された蜂須賀家が、黒田家に対しノンクレームだったのも、姫君が嫡男を産むことが出来なかったのもあるだろう。

長政が新妻・栄姫様との間に子供が出来るのは、関ヶ原の2年後で1602年のことだ。
(福岡城が未完成だったので、家老の家で産まれた黒田家の問題児・忠之チャン)

前述したように黒田家は当主二代がキリシタンで、親族にもキリシタンがいたせいで係累が少ない。(キリシタンは一夫一婦制)

黒田政権を作っても、係累の少ない黒田家は御三家に充当する藩屏が(すぐは)作れない

天下に野心ある者が如水か長政のどちらかを暗殺すれば、残るは赤ん坊忠之チャンで黒田政権は忽ち瓦解する



黒田家紋ロゴ

天才肌の如水に比べ、長政には如水と同じ事は出来ない。

出来るのは如水の作った物を継承するだけで、そういう意味では徳川秀忠に似ている。

「1600年に嫡男がいない」という点では、徳川秀忠も同じだが、徳川家と黒田家では中身が違う。

徳川家康がハッスルして「息子の分も引き受けた」と言わんばかりに、庶子だけでなく隠し子伝説までワンサカ∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

関ヶ原で家康と秀忠の二人が戦死しても、家康の子供(スペア)に不足はない。

戦の勝敗に関係なく家康が寿命を全うすれば、関ヶ原以後も側室に男子(初代水戸藩主)を産ませてる( ̄ω ̄A;アセアセ

( ̄ko ̄)<ちなみに家康の打ち止めは1603年産まれの市姫ちゃまです

( ̄ko ̄)<限界じゃなくて、健康のために閨を控えて、趣味の鷹狩りで筋肉ほぐして夜は熟睡ね

さらに如水一代で大きくなった黒田家と違い、徳川家には三河・安祥以来の譜代家臣がいる。

家康&秀忠に万が一があっても、徳川家が即・潰れる心配はない

それは武将たちにとって、約束された恩賞を取りはぐれる心配はないということだ

この徳川家の安心・安定のクオリティだけは、如水の代で大名になった黒田家には作れないものだ


家康が(長政の)右手を取った時に、そちの左手は何をしていたか(超意訳:殺れば良かったのに~

如水の野心を現すとして有名なセリフ・・・これはおそらく後世のフィクションです

なぜなら家康を殺したら、その場で長政は徳川家臣に殺される・・・如水が長政を犠牲にするなど前提としてありえない・・・!

長政は如水のたった一人の男子なのだ(もう一人いたが病弱で早逝

長政(後継者)が死ねば、天下どころか黒田家は無嗣断絶(後継者がいない)で、改易の憂き目にあう


長政の娘に婿養子を迎えるという方法はあるが、それでは男系ではなく女系になる。

武家における理想の嫡流とは、嫡男から嫡男への継承で、女系で繋ぐのは止むを得ない時なんです。

係累が少ないと言っても、如水には姪も甥もいるし、彼らを養子・養女に・・・って、それってデジャ・ヴュ~~~

どこかの太閤殿下と同じじゃね?(_´Д`)アイーン


黒田如水イメージ画像

亡き秀吉の係累が少ないために豊臣政権は迷走した。

晩年産まれた我が子・秀頼のために、いったい何人の人々が振り回されただろう。

あげくの果てに秀次切腹事件だ・・・この時、家康の取り成しで処分を免れた大名は、関ヶ原で東軍に走っている。

そもそも「関ヶ原の戦い」が起きたのも、豊臣秀頼が幼いから家康の付け入るスキがあるんです。

基盤が脆弱で不安定な政権に、諸大名はウンザリして疲れている。

子供が長政一人しかいない如水を、諸大名が天下人として推戴することは、おそらく無いだろう

例え、そのような動きがあったとしても、その時は長政か如水のどちらかを暗殺すればいい

長政では政権を創り上げるほどの器は無いし、55歳の如水だけ残っても、これから子作りするのでは豊臣政権と同じ運命を辿るだけだ


それは如水が一番解ってたはずです。

如水ほどの器量があれば「天下というキャンパスを己の色に染めたい」という欲求はあったはずだ。

だが秀吉のように土台を急ごしらえし無理を積み重ねても長続きしない、何よりも築き上げた黒田家を次世代に継承することが最優先だ。

だから関ヶ原で如水が考えていたのは、地道にレッツGO100万石(=^・ω・^=)v ブイ

長政を家康の手元に置いて手柄を立てさせ、自分は九州を切り取る。

石田三成の誘いを断る方便として如水は「七か国くれたら味方するよ」と返事した。

だが案外、如水は本気だったのかもしれない。

七か国あれば100万石は優に超える。

三成が担いだ神輿の毛利は120万石。家康が潰そうとした上杉は120万石。伊達政宗への誘いの言葉が100万石のお墨付き。(当時の前田家は未だ100万石弱)

100万石あれば、天下に何事か号令をかけることが出来る基盤になる。

如水は無理せず、ホップ・ステップ・ジャンプ~しようとしたのだろう。

その過程として天下が回ってくれば貰えばいいくらいの「ゆとり気分で」^-^

如水の唯一の計算違いは自分の寿命


幽閉の後遺症もあり、決して頑健とは言えなかったが、関ヶ原の僅か4年後の1604年に死ぬとは思ってなかっただろう。

もし如水が黒田政権を創ったとしても、わずか4年で死亡では長政だけで政権を支えるのは難しい。

なぜなら「中津19万石⇒黒田政権」では、閣僚・官僚を生粋の黒田家臣のみで構成することは出来ず、政権中枢は余所者が大多数を占める。

黒田政権は、豊臣政権と似た体質のものしか出来ない・・・つまり同じ宿痾(しゅくあ)に懊悩するということだ。

政権の土台を完成させるには、やはり家康のように長命でなくてはならない。

いや、如水のことだ。もしかしたら「自分の寿命が長くない」と気付いていたかもです。

それならば尚のこと無理せずに次代・長政に繋ぐ安全な道筋を作ることを考える。

頭の良すぎる如水は、口では息子・長政に辛口だが、実は結構な子煩悩だった。

そういう意味でも、如水が己の野心のために、息子を犠牲にすることは絶対にない。

さて、どこまで本音か如水の謎・・・次回ラスト~その死について。それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1541年】

天文10年(1541)

水ヶ江城へ冬尚が唯一人で来訪し、剛忠(家兼ジーちゃんのこと)へ面会を求めた。

奥へ通された冬尚へ剛忠は
「正気の沙汰とも思えぬ有り様ですが、何用にて御渡りに御座いましょうや」

と問えば、冬尚は「私は今、大内に家を削られ断絶の憂き目を見んとしている。これを天運と言いつつも遺恨は止むものに非ず。昨今、国中を見廻すに、御辺は末頼もしき御仁なれば、亡き父・資元の頃と変わらず、龍造寺が御家に何卒お力添え頂き、廃れいく少弐が家を取り立てて頂きたく御頼み申す。もし承らざれば命を白刃に縮め、根を黄泉に報じます」と述べた。

剛忠は恨みを思いつつも、旧恩を安んじこれを承るとした。

結果、剛忠の次男・家門を後見とし、江上元種、馬場頼周と共に補佐する事となった。

その頃、多久城主・多久宗時が少弐冬尚から有馬晴純へと誼を変じた。

不意の恭順に晴純は喜び、千葉胤勝・千葉胤連親子と不和である千葉喜胤の小城へと派兵、千葉氏を討ち果たし、その先の佐嘉・神埼へも討ち入り、少弐・龍造寺を滅ぼさんと欲する。

須古城主・平井経治、前田家定 並びに、昌永左近大夫が先陣となった。

東に少弐、西に有馬と敵を抱えた千葉氏の危難を知り、龍造寺家門は小城へ赴くと千葉喜胤へ、千葉氏が少弐・龍造寺と合力しあう方針を提案。

冬尚の弟(胤頼)を千葉喜胤の養子に入れ、不和である千葉胤連の養子に鍋島清房の次男・彦法師(後の直茂)を入れるとした。

千葉氏はこれを了承、それを知った有馬勢は勝利得難しと軍を退いた。




・・・・・・・・佐賀戦国史を始める時は、千葉の自作家系図がいりますな ( ゚Д゚)y─┛~~

種の字ならホイホイ頭に入るのに、胤だとサパーリ脳に浸透しないぉ il||li _| ̄|○ il||l

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【中篇・如水について】九州関ヶ原10栞46


今シリーズはサイト「黒田武士の館」を参照にしました^-^

黒田政権が無理な理由

如水が天下に号令をかけると想定した場合~兵を動かす大義名分と公的資格が無い


群雄割拠の戦国真っただ中でも、戦には何らかの名分が必要だったが、一度天下が定まれば、なおさら大義名分が必須となる。

東軍・総大将の徳川家康は「上杉征伐」の名目で兵力を集め、

西軍・総大将の毛利輝元は「その家康を討つ」ために兵力を集め、

豊臣家は「両軍に頑張ってね^-^」とエールを送って双方の軍行動を認めた。

家康は五大老筆頭で、毛利輝元も五大老のメンバーで、天下の兵を動かす盟主としての資格は申し分ない。

西軍の実質盟主である石田三成では、石高の多寡以前に「隠居の身」で私人。

彼が兵を起こしても「正義の戦い」にはならず「個人的な私闘」扱い。

「大名間の私闘」を禁じた豊臣政権の掟違反になり、その時点で三成の方が討伐の対象となる。

私人の石田三成には五大老メンバーの誰かを盟主として担ぐ必要があったんです


同じことが如水にも言える。彼は息子・長政に家督を譲った隠居の身です。

「豊臣政権における功労者」ではあるが、閣僚(大老)でも官僚(奉行)でもなく、公的資格は無い。

中津城で留守番の如水が勝手に兵を動かせば「単なる私闘」で懲罰の対象になるだけなんです



黒田如水イメージ画像

その如水が兵を動かす法的根拠は、1600年7月に徳川家康が言った「九州は切り取り次第与えよう」という約束です。

五大老筆頭のGOサインが出たことで、如水は貯め込んだ金を放出し「如水混成軍」を作り出した。

後に(戦の長期化を恐れた+如水の予想以上の快進撃ぶり)に不快感を覚えた家康は、「撤退命令を無視した」ことを取り上げて、如水個人への加増をチャラにしている。

如水の動きに警戒する家康が、それでも軍行動をOKしたのには、理由がある。

家康は元々は東海が本拠地で、さらに関東の太守になってからは東北大名の取次で、西国大名との接触が少ない。

徳川家康は「長年築き上げた西国大名に対する如水の人脈ネットワーク」を利用したかったのはないか?

巷説言われる武断派・武将たちは、ムードメーカーとして加藤清正と福島正則が有名だ。

諸大名に「家康の方が正義」とアピールする駒として、豊臣秀吉子飼いで親戚の清正と正則を味方にしたい。

そのため家康は二人にメチャクチャ気を使い、両家とも政略結婚して繋がりを濃くしている。

家康にとって厄介なのは、清正と正則も「自分たちの価値」を自覚していることだ。
(そのくせ最終的には利用されるのだから、やはり家康とは器が違いすぎる)

黒田如水・長政親子は、その武断派を繋ぐ人間関係の中心にいたんです。

福島正則

黒田長政との友情を表す逸話は「名槍・日本号」「兜の交換」などなど事欠かない。
酒が入れば前後不覚の正則を、宥め透かして関ヶ原まで引っ張ったのは長政の功績。
加藤清正

如水をリスペクト~如水が城井家抹殺した時にも、消極的ながら片棒担いでいる。
西軍か東軍か迷った清正は「最終的な判断」を如水に委ね、家康に味方することを決めた。
細川忠興

如水と忠興の父・幽斎が親友。
忠興は自身の飛び地である豊後・杵築城の留守居役たちに「九州で何かあったら如水を頼れ」と命令していた。
佐賀の鍋島直茂

小早川隆景を通じて親しくなった。如水混成軍と連携をとって軍行動をする。
日向の伊東祐兵~如水を頼って西軍から東軍に寝返る。
小早川家

亡き隆景と如水が親しく、秀吉の甥・秀秋を小早川家の養子にと斡旋したのは如水だと言われている。
秀吉は若い秀秋を心配して家老を付けたが、その家老の一人・平岡が如水の姪を妻にしている。
同じく家老の稲葉も個人的に井伊直政に接触していたが、小早川家が裏切る時は平岡の縁戚である黒田家を取次に選択した。
関ヶ原本戦では「裏切りの監視役」として、黒田家から軍目付が派遣されている。
阿波・蜂須賀家

息子・長政の正室が小六の娘で縁戚、豊臣政権の創業を支えた功労者同士。
1600年6月に長政が小六の娘を離縁して、家康の養女・栄姫(保科家)を正室として再婚する。
これにより江戸期は両家不仲説が出るが、実はそんなことなくって関ヶ原後も家臣(八木家)を譲ってもらったりして普通に交流してる。
蜂須賀家でも関ヶ原の前に嫡男が家康の養女(小笠原家)を正室に迎えている。
両家は「豊臣政権における縁戚関係」から「徳川家を軸とした縁戚関係」に、スライドして外交ルートは健在だった。
毛利輝元

秀吉の中国攻めの時から関わりあるが、広島城築城の時に秀吉の肝いりで黒田如水が指南役・アドバイザーとして参加している。
実は毛利輝元は朝鮮の役の出費が大変で、黒田如水から借金してた∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

吉川元春

秀吉も嫌いだが、安国寺恵瓊も嫌って如水の方と接近~息子の広家に「戦の作戦指揮は如水を頼れ」と言ってた。

吉川広家

家督を継いでから国内統治のノウハウを伝授したのは如水~ちなみに結婚した時の仲人も如水。
元春が死んだ後の広家は、偉大な叔父・隆景を別格として、個人的には如水を父のように慕い義兄弟の盟約を交わす。(衆道的な意味ではない)
西軍を裏切る時に接触する相手は、迷うことなく黒田家オンリー。

これだけの人脈があれば、西国大名に対する人脈が弱い家康を十分にリカバーできる。

もっとも、せっかく作った如水の人脈を、孫(忠之)子(長政)の代で、ケンカしまくって台無しにしますけど∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ! ナニヤッテンダカ・・・


黒田家紋

家康は如水のフリー行動を許可しないわけには行かなかった。

だが「切り取り次第」は九州のみ、西上して良いなんて一言も云ってない。

如水が上方に駒を進めようと思えば、石田三成のように大老を抱きこまなきゃならない。

家康以外の大老だと・・・

上杉景勝~(無実だけど)罪を得て討伐軍を迎え撃つ立場だし、如水とは深い交流が元々無い。

前田利長~父・利家亡きあとは大老職を継いだことになってるが、本人にやる気無しで完全に家康サイド

となると残るのは、三成と同じで毛利か宇喜多を抱き込むしかない。

その辺の駆け引きなら、如水は得意中の得意(=^・ω・^=)v ブイ

小早川隆景を初めとする「切れ者の叔父様(元就ジーちゃんの庶子)たち」も既に亡くなってるから、往年の「中国攻め」の頃よりやり易いですな ( ゚Д゚)y─┛~~

毛利家内部の派閥争いは、西軍を裏切るほど深刻で、恵瓊に従うくらなら如水の方がマシって家老達がいる。

もっとも大老を神輿にしなくても、ぶっちゃけ大義名分なんざ、実はどうにもでなル・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

関ヶ原が長期化さえすれば「カオスになる上方の治安維持・秀頼君外護」という立派な言い訳・・・もとい名分が成り立つからだ


さて前提も理由もクリア出来たとしよう

だが、それでも如水が天下人になれない・・・絶対クリアできない決定的な要因がある


如水ファンの夢も希望も全力で否定~それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1540年】

天文9年(1540年)

6月4日、千葉興常が死去する。

興常は始終大内家に属して、肥前国の守護代に任じられていた時期もあった。

その子・千葉喜胤は興常と相容れず、度々干戈を交えている。

同年、有馬義貞が小城の千葉氏を攻め、杵島郡以西を奪った。




千葉興常~東千葉氏初代・肥前守護代・大内サイド(大内義興が烏帽子親&興の字も偏諱)

死亡には1532年6月5日説もある

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【前篇・如水について】九州関ヶ原9栞45


今シリーズはサイト「黒田武士の館」を参照にしました^-^


黒田如水が天下に野心を持ち「九州の関ヶ原」で己の野望を形にしようとした・・・

という黒田ファン垂涎の夢を小説化したものでは、司馬遼太郎氏の「播磨灘物語」が最も有名だろう。

黒田ファンというより、如水ファンの氏は作中で黒田家の都合の悪い話(城井家抹殺)には殆ど触れていない。

また如水が息子・長政に対して言った「家康が、そなたの右手を取った時、そちの左手は何をしていたのか」(原文を意訳)

という名セリフも氏の作品で有名になったのだが、実はこれは後世のフィクションではないかと言われている。

少なくとも一次資料には無いし、江戸期にの文書にも見当たらず、囁かれ始めたのは明治以降らしい。

シオは司馬氏とは違い、如水よりも後藤又兵衛よりも、息子・長政が好き 川* ̄д ̄*川ポッ 

だから、ぶっちゃけ長政の評価が低い「播磨灘~」には不満なのだ。

もちろん作品自体の面白さを否定してるわけじゃありません。自分も全巻持ってる(*´pq`)クスッ

シオは(如水ファンの夢を壊すようで悪いが)如水が天下に野心があったというのは、あくまでも小説を面白くするためのネタに過ぎないと考えてます。

でもって、その理由を素人が勝手に考えて呟いてますが、興味無い方スルーしてね^^


黒田如水イメージ画像

無理な前提~関ヶ原が長期化


関ヶ原が僅か一日、数時間で片付くとは誰も考えてはいなかった・・・それは確かだろう。

だから何事かを期待してた伊達政宗などがガッカリする(*´pq`)クスッ

だが当事者の徳川家康(東軍総大将)と、毛利輝元(西軍総大将)が、長期戦闘を望んでいなかった。

だから一日でカタが付かなくても、(石田三成スルーで)どこかで妥協した可能性が高い。

家康が戦闘の長期化を嫌ったのは戦後処理で解る。

彼は1600年11月16日に「島津討伐令」を出しながら、同月22日に「撤退命令」を出して全ての戦闘行為を止めるように通達している。

だが如水が兵を直ぐ引き揚げなかったので、家康は如水の息子・長政を通じて叱責している。

さらに家康が美濃・関ヶ原本戦の長期化を嫌ったことの理由に、兵糧調達の問題がある。

日本人は民族性として兵站(武器・兵力・食料など全ての補給)が苦手らしい。

携帯用兵糧も、多くて2・3日分で「あとは現地調達ネ」というのが普通。

「朝鮮の役」も「九州の役」も「信長の甲斐侵攻」だって、常に慢性的な食糧不足で末端の兵卒はプチ飢餓状態。

そもそも人口が数万・数千単位で膨れ上がった時に、それを養えるだけの備蓄がある土地などあろうはずがない。

そのため兵の士気を維持するためには、雑兵たちの略奪行為は見て見ぬフリするしかないんです。

鍋島家が西軍から東軍に寝返る時にも、兵糧を買い占めて家康に献上して、その機嫌をとった。

また福島正則は関ヶ原本戦前に、清州城を駐屯地として明け渡し、諸侯にも40数日に渡って兵糧を提供した。

徳川家康が戦後・福島正則に加増したのは、兵糧に関する功績も含まれているんです。




兵糧といえば、こんな逸話がある。

実は意外かもだが、加藤清正はギリギリまで東軍か西軍か迷っていた。

小西も石田も、だぁぁぁい嫌いだが、西軍が豊臣秀頼という玉を握っていたので、西軍が正義のようにも思える。

徳川家康が天下に野心が無いと言い切れるか、判断つきかねていたのもある。

そこで清正は大坂の毛利輝元に家臣を派遣した。

清正の使者「今度の内府と石田冶部との弓矢の事、輝元様は石田冶部少輔に御一味なされたそうですな。
ところで、我々に大和国を頂けるのなら、我ら早速上方に上がり、近江、三河、美濃、へと攻め上がり、輝元様に御馳走仕ります。
その上でどうぞ、家康の事は我ら加藤家にお任せくだされ。
清正が罷り出でましたら、今回東国に下った上方、西国の諸侯も多くは我らに味方するでしょう。
そうなればこの戦、我らの勝ちであります。」

輝元の返事が「清正殿のご内意、承知いたした。大変満足いたしました。
ただ、大和の国のことは、ご存知のように、増田長盛が郡山を所領いたしており、これを与える事、我々が勝手に出来ることではありません。
清正殿は、秀頼様への御馳走をいたさなければ叶わぬ御筋目でござれば、そのような条件をつけず、御忠節を励まれるべきです。
そうすれば後々、どんなお望みも叶う事でしょう。
我々は清正殿を粗略に扱う事は決してありませんから、どうぞ早々に上方へとお上りあるように。」
(逸話ブログ「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」より引用しました)

報告を聞いた清正は西軍への加担を「物理的」に諦めたんです。

「大和を預かる」というのは「兵糧調達のためと遠国から来る兵たちの駐屯地」として預かりたいという意味だったからです。

家臣や兵たちの寝泊りする場所を確保し、その糧秣を心配するのはリーダーとして当然のこと。

てか清正は朝鮮では食料が届かず苦労したから、身に染みてたんだろうなぁ (6 ̄  ̄)ポリポリ。。

お役所の模範回答みたいな返事した毛利輝元だが、彼も戦の長期化を望んでいなかった。

それは毛利輝元が関ヶ原で敗れたと知ると、立花宗茂らの籠城案を蹴って、引き上げたことで解る。

籠城する・・・ということは前提として援軍が来なければ成り立たない。

いくら諸侯の妻子が大坂城下にいても、秀頼・淀親子が大坂城にいても、援軍が無ければいずれは立ち枯れる。

もちろん亡き秀吉自慢の大坂城は数万の人口を数年養えるだけの余裕はある。

だが籠城したその間・毛利輝元は本国をカラにし続けているのだ。

家康が大坂城をスルーして広島城に兵を向けたら・・・当時、それが可能かどうかは問題ではなく、それを考えただけで戦慄したことだろう。

なぜなら毛利家は元就の代で「本国をカラにして出兵してて御膝元を敵に侵攻される」という手痛い失敗があるからです


毛利VS大友との争いで「絶対大丈夫」と思っていた「関門海峡の守り」を突破され、山口を占拠された。

頼みとする息子たち・吉川・小早川兄弟は九州に出陣してて、元就ジーちゃん大慌て~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

幸い山口を占拠した大内残党(大友のバックアップ受けてた)が大したことなかったので、短期間で鎮圧できた。

だが同時期に尼子残党が活動し(これも大友が支援)すぐ後に嫡男・隆元が急死して、文字通り毛利の屋台骨が揺らぎ、元就は九州への干渉を諦めた。

そして毛利家の方針を本領の死守に専念する「保守主義」に大変換した。

毛利家では、この失敗以来「長期間本国をカラにする」がトラウマになったと思う。




関門海峡の制海権は、既に黒田如水が抑えてしまった。

本島から九州への便船は全て黒田家が検閲し、かつ怪しい船は砲撃している。

毛利側から九州へ迂闊に行けないだけでなく、如水混成軍が関門海峡を超えて西上するという可能性も否定しきれないのだ。

さらに毛利軍は本軍の殆どを上方に引き連れており、本城の広島城は総構え(城の一番外郭部分)を守る守備兵すら不足している状態だった。

「関ヶ原で負けた」と聞いた輝元が「広島城に戻らなきゃ!」って思い立つのは無理もない話なんです。

如水が、はるばる九州から数万に膨れ上がった混成軍を持って、一路・天下統一で大坂を目指すには、関ヶ原が長期化するのが前提として必要になる


本戦で勝敗つかずにカオスになるか、家康・輝元が潰しあってカオスになるか、もちろん小うるさい石田三成にも戦死してもらうのが望ましい。

つまり不確定要素に頼り過ぎなんです。

広島へ帰国するであろう毛利をスルーして、陸路でなく船で西を目指すと言う手もある。

ところが旧暦の9・10月といえば台風シーズン。うまく全軍が辿り着くという保証は無い。

ん?島津?^-^それは何とかなるよ~~

死にもの狂いの薩摩っぽと戦わなくても、大隅・薩摩(さらに日向も)の本領安堵を約束すれば妥協しあえるもの。

多少の戦闘行為して、後は如水得意の駆け引きですな ( ゚Д゚)y─┛~~

九州で「如水独立王国」を作る方が、まだ可能性ありそうだけど、そうなれば息子の長政はどうなるの?ってことになる。

さらに関ヶ原のドサクサで如水が天下を狙うには、無理な前提があるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【宇土城降伏】九州関ヶ原8栞44


さて、しばらく登場のなかった加藤清正だが、彼は島津本軍が薩摩に残っている為、その警戒として肥後本国に留まっていた。

同じ東軍の如水とは連携をとっており、如水が豊後へ進軍すると清正も出陣した。

当初は如水のアシストしようと、清正も兵3000を派兵した。

だが1600年9月15日に、如水が大友軍を倒したので(石垣原の戦い)予定変更。

隣国で、西軍で、大っ嫌いな小西行長の本城・宇土城を攻撃することにした。


加藤清正イメージ画像

小西行長は関が原本戦のために本国を離れていて、宇土城には留守番だけ。

とはいえ加藤清正が攻撃してくるかも・・・ってことで精鋭の一部を宇土城に残しての出撃でした。

宇土城の城代は小西行景(こにし ゆきかげ)小西家・三家老の一人にして、小西行長の弟


留守番だけだから楽勝と思いきや、清正は意外に手こずった( ̄ω ̄A;アセアセ

宇土城は現在では埋め立てられて平地になってるけど、当時は湿地帯だったらしく、足場が悪くて攻撃しづらい城だったようだ。

さらに清正対策のために留守番となっただけあって、小西・弟は名将だった。

「正面がダメなら海からだ!」と清正自慢の水軍で攻撃。

小西・弟は同じく水軍を出して、海戦で清正の水軍に勝利する。

小西家の水軍は、もともとは天草国人一揆で改易になった国人衆を吸収したものです。

だから肥後近海は庭みないなもので、さらに「朝鮮の役」の遠征でスキルアップ(=^・ω・^=)v ブイ

小西行長が朝鮮上陸一番乗りに大いに貢献してます。

清正も水軍充実に努力してたと思いますが、やはり小西水軍のほうが練度・経験に「一日の長」があったのでしょう。

宇土城の防御戦でも、小西・弟は敵味方の双方から絶賛を受けるほどの、鮮やかな采配を振るった。

結局、加藤清正は宇土城を武力で落とす事が出来なかったんです


宇土城が降伏したのは、関ヶ原本戦での西軍敗北、そして主君が処刑されたことを知ったからです。

城代の小西行景は「これ以上の抵抗は無意味」として降伏。

彼は城兵の助命を条件に切腹しました。

宇土城の落城は「10月8日」「20日」「23日」と諸説ありました。

ですが2004年になって清正が家臣にあてた文書が発見、解読。

宇土城落城が「10月13日」で、ほぼ確定となったそうです。

宇土城は関が原以降に加藤清正が接収~将来の隠居城として改築~その後、幕府の命令で破却されてます。

そのために「小西時代の宇土城」の構造はハッキリ判りません。

熊本城の宇土櫓も「宇土城からの移築説」は近年は否定されてます。

清正は小西の家臣を多数、再雇用してるけど、なにせ小西家はキリシタン大名として有名で、家中にキリシタンが多数いた^^;;

清正のキリシタン嫌いに閉口し、加藤家を離れた人もいたようです。

さて、これで「九州の関ヶ原」の大勢は決定しました。

後に残るのは西軍残党の掃討戦です。そのクライマックスである「江上表・八院合戦」は書庫を別に改めて語りたいと思います。

ここからは番外編?「如水は果たして天下を狙ってたか」を、シオなりに推理したいと思います^^b


長政と如水が連携してた・・・とシオが推測するのは如水自身の動きもあります。

親子が連携してたのを匂わせる使者の往来があったんですが、その出典が探せない~~毎度の如くド忘れトホホ)

とにかく中津の留守番だった如水が本国をカラにするには、中津のセキュリティが安全であることが前提になるからです。

隣の筑前・小早川秀秋は、公式には西軍所属でした。

にも関わらず如水が中津をカラにして出陣している。

ということは、小早川が西軍を裏切り長政に接触した時に(実際の交渉は家老二人)、それぞれの本国同士も相互不可侵の約定を交わしてるんじゃないかなぁ~

と、想像してるんです。

つまり、如水は関ヶ原前後の長政の行動を把握していた(てか、そもそも如水の指示で長政が動いていた・・・の方が自然かも)

西軍がIF勝っていたら~


三成は頭数をそろえるために、戦後の報酬の約束を大盤振る舞いしてるので、論功行賞で必ず揉めるでしょう。

総大将が外交オンチ毛利輝元・副大将が自家の御家騒動を治められなかった宇喜多秀家・実質盟主が人望のない石田三成ではまとめきれない。

また、後顧の憂いを断つために、三成は必ず徳川250万石の完全解体を要求すると思います。

東軍が負けた場合に、徳川家を無傷で残すはずがない。

「関ヶ原」の後には「関東討伐」が始る・・・・としても、西軍の足並みが揃うか・・・となると、かなり怪しい。

TOPが徳川家康一人の東軍と違い、西軍は船頭が多過ぎる。
(家康の徳川家臣団は、内部に多少の軋轢らしきものがあっても、家康がニラミを利かせてる限りは崩れない)

如水が天下に野心を持ち、九州で集めた兵力で何事かを為そうと思えば、突っ込みどころ満載の西軍を勝利に導く方が、面白い工作が思うままできるはずです。

だが史実の如水は、徹頭徹尾(表向きは)東軍として行動していて、一度もブレたことは無かった。

果たして如水の目的は何だったのか・・・それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1539年】

天文8年(1539年)、

龍造寺家の正統・龍造寺胤久が卒去した。

その死後は嫡子・胤栄が継ぎ、家門の娘(剛忠=家兼の孫娘)を室とした。

またこの年は、37度もの大風に見舞われ、天下は飢饉に瀕した。

8月より領民の餓死が増加し、路傍に死体が散乱した。




φ(.. ) メモメモ~~せっせとアップっプ~~~でないと何時までも佐賀戦国史が始まらん~

龍造寺胤久~~17代目で家兼ジーちゃんの甥にあたります。

兄の16代目が早逝し、父が再び当主になったんですが、その父が無くなり次男の胤久が当主になりました。

胤は西千葉からの偏諱。

当主といっても実権は家兼ジーちゃんでした。

現在カテゴリ6位です^^/
にほんブログ村 地方・郷土史

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【如水、うち来る?富来(とみく)城】石垣原の戦い/九州関ヶ原7栞43

前回、臼杵城の太田一吉を中立と書きましたが「違うガチ西軍」と言う方もいます。

太田が甥を東軍(如水軍)に派遣したのではなく、如水の甥が臼杵城へ向かったのを史料読み間違えだ~と、黒田家子孫のHPにありました^^;

さらに太田一吉は細川家の杵築城も攻撃している・・・ともHP(黒田武士の館)は唱えています。

HPには出典元の記載が無いので、シオ検索では確認できませんでした。

いずれにせよ情報が錯綜してるみたいです。

実のところ「中川の旗を田原紹忍が盗んだ」って話も、田原が「佐賀関の戦い(中川VS太田)」で戦死した今となっては死人に口なし。

江戸期を生き残った中川家が、関ヶ原当時を言い訳するために「大名として残らなかった大友家」を都合よく利用した可能性も否定しきれません。

それほど大友家は、各方面(毛利とか伊東とか)に言われ放題だったんです。



如水が攻撃した富来城は、元々は大友家臣・富来氏の城でした。

富来氏は大友氏の鎌倉下向に随行した譜代中の譜代家臣。

ちなみに富来城は大分県国東市の海沿いにあります。

郷土史オタなら国東市・・・と聞くと「大友家分家筆頭・田原氏」を連想することでしょう。

富来氏は、大友家最大勢力だった田原氏を抑えるほどの実力がありました。

その大友内部の微妙なミリタリーバランスが崩れるのが、御多分に漏れず「耳川の戦い」

島津軍に大敗北した戦いで、他の大友家臣同様に富来氏も当主と嫡男が戦死しちゃうんです。
・゜・(PД`q。)・゜・(←実は大友家臣団ファンの管理人)

庶流が残り、富来氏は「朝鮮の役」にも出陣してます。ですがそれも主家の大友家改易でドボン・・・il||li _| ̄|○ il||l

富来氏は僅かな希望をかけて「佐賀関の戦い」に出陣し(田原紹忍と一緒だったらしい)戦死。

ツテが無くなり本当に武家としては没落・・・生き残りは国東の地に姓を替えて土着したらしい・・・と伝承されています。


天才軍師如水・イメージ画像

大友家改易後の富来城城主は、垣見家純(かきみ いえずみ)。

三成の下で「朝鮮の役」で軍目付の任務してたんで、武断派に超嫌われてました^^;

垣見は西軍として関が原に出陣してましたが、本戦には参加せず美濃・大垣城の守備に入っていました。

だから富来城には城代家老の垣見理右衛門(かきみ りえもん~主君の垣見とは同族)が残ってた。

如水は豊後進軍当初から富来城の包囲をしようとしました(海沿いの城を抑えて確実に制海権をゲッツするためと思われる)

でも細川の杵築城の救援要請があり、いったん富来城の囲みを解きました。

で、その時の富来城は抵抗してません。如水軍は大軍だから素通りする分には関わらない~ってことです。

ホッとしたのも束の間、大友軍を倒した如水軍が再び富来城を包囲したんです。

富来城は「富来浦を見下ろす崖の上に立つ要害の城」と言われていた


まともに攻めたら損害が大きくなると、如水は降伏勧告の使者を出した。

城代家老・垣見の返答は「NO!城は主君の命が無い限り明け渡すわけには参らぬ!欲しくば弓矢に訴えるがよろしかろう!~


主君の垣見家純は、石田三成の仲間という事で武断派から嫌われ、無能・凡将と評判が悪かった。
(ウィキペディアにも、ちと情けない逸話が紹介されている)

だが垣見本人の性格は篤実で、家臣にとってはニなき大事な主君。

富来城は、城代家老の垣見を中心に良くまとまっていたらしい。

いかに要害の城とはいえ、城代家老の垣見は天才如水と大軍相手に10日も粘ったんです


一方、彼らの主君・垣見家純は大垣城で「関ヶ原本戦で西軍が敗北」との知らせを受けて、豊後の富来城宛てに手紙を出した。

垣見家純・最期の手紙~西軍が敗れたので、私が守備している大垣城も何時まで保つか判りませんが、私は逃げずに最期まで守って戦います。もはや生きて逢うことないでしょう。お前達の忠勤に対し、これ以上、酬いてやることができません。だから城を東軍に明け渡して生き延びてください。いままで本当にありがとう・・・^-^。。。。


垣見家純の悲痛な手紙は富来城へは届かず、すでに海峡封鎖していた如水の検問にひっかかった。

如水は富来城へ手紙を届けるとともに再び降伏勧告。

1600年10月2日・・・主君からの開城OKの手紙を見て、城代家老垣見が降伏した


如水は、この垣見理右衛門の戦いぶりに惚れ込んだらしい「ワシに仕えぬか?」と誘った。

だが垣見理右衛門は如水の申し出を断ると出家、主君や一族の菩提を静かに弔ったそうだ。

如水が天下に野心があったか、なかったか・・・如水ファンには悩ましいところだが、いずれにせよ富来城で粘られた10日間のロスが大きかった。

10月1日!石田三成・小西行長・安国寺 恵瓊が京都で処刑


関ヶ原のゴタゴタが長引くのを嫌った徳川家康は、首謀者の処断を早々に行っていたんです。

次回、如水と連携していた加藤清正登場です。それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1537・1538年】

天文6年(1537年)特になし

天文7年(1538年)
2月中旬、家兼は入道し、以後は「剛忠」と名乗る。
3月3日、家純の子息にして中納言(隆信)の師である高僧・宝琳院豪覚が遷化し圓蔵院に葬られた。
(3代目住職には源覚が就任。詳細不明ながら、法琳院には龍造寺一族が住職に充てられる為、おそらく同族)




書庫説明にも記載してますが、この北肥戦誌書庫は「北肥戦誌」の全文ではありません。

少弐、竜造寺、鍋島関連のみを抽出したものです。

だから本文にはあっても、こちらには記載してないものもあります(てか鎌倉時代は全スルー)

それと【ココから重要】「北肥戦誌」は江戸期に書かれたものです。

肥前の貴重な郷土資料ですが、いかんせん成立年月日が江戸期。

北肥戦誌は、よ~~~~~~く見ると、ちょこちょこ間違ってます


本腰入れて肥前戦国史を扱う方は、ここを鵜呑みにせず、自分でもリサーチすることをお薦めします。

今日は少ないんで呟いてます(*´pq`)クスッ

家兼じーちゃん、家兼のほうが有名だけど、歳が歳なんでとっくに入道(髪型スキンヘッド)し「剛忠」って名前を変えてるの。

だから史料では「剛忠」って出てきます^^b

シオの方でもなるべく(注釈)入れますね~あと、1536年に少弐の最期の逸話を加筆しました。

お時間あれば、そちらもどうぞ^^/

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【後篇・佐賀関の戦い】石垣原の戦い/九州関ヶ原6栞42

ははは・・・ストックしてた記事・・・ここ数回は全書き直しでつ( ̄ω ̄A;アセアセ




中川秀成は自分が ( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<東軍・とうぐん・TOUGUNN~~~

と証明する必要に迫られた。でなければ西軍として逆に討伐されてしまう。

東軍としての忠義アピールに、一番手っ取り早いのは西軍の城を攻撃することです。

相手が中立だろうと構やしません。態度をハッキリさせないほうが悪いんです。
(当時は中立=西軍とみなされていた)

戦国生き残り椅子取りゲームは早い者勝ち~~^^b

中川秀成が攻撃目標として目をつけた、臼杵城の太田一吉は中立でした。

太田は自分の甥を東軍に、息子を西軍にと出陣させ、自分は病として臼杵城に引っ込んだ。

関ヶ原本戦が「東軍の勝ち」となったのは勿論知ってます。

だから太田も生き残るために「東軍であること」をアピールしなきゃならないはずでした。

ところが・・・

太田:よく来たな若造!元、織田家重臣・丹羽長秀の家臣にして 亡き太閤殿下・馬廻衆だったワシの武勇を見せてやる!!ワ~~ハハハハ!!


てな感じでヤル気満々( ̄ω ̄A;アセアセ

太田は、自分の子供くらいの年齢の中川に対し、降伏開城するのが何としてもイヤだったんです


御家の存亡がかかってる時に意地張ってる場合じゃないはずなんだが、この手の「武士の一分」は戦国武将によくあって、周囲もそれを容認する空気がありました。


実は太田一吉の妻は蜂須賀正勝の娘。

関ヶ原直前に黒田長政が離婚した、元奥方の姉君です。

太田が秀吉の馬廻衆時代だった頃は、縁戚ってこともあり隠居前の如水の下で働き、弟みたいに可愛がってもらった。

その後、太田は才覚を石田三成に見出され、大名として引き立てられたんです。

石田と如水・・・どっちにも恩義がある太田は、西軍か東軍か選べず中立してた。

とはいえ西軍が本戦で負けたら、いつまでも石田に義理立てする必要はない。

若造・中川に降伏するのはイヤだけど、如水が来たら降伏しようと決意し、家臣にも通達していた。

だが、肝心の如水がなかなか来ない~~~~( ̄ω ̄A;アセアセ

如水は富来城で足止め食ってましたil||li _| ̄|○ il||l


如水のほうは、あとで話しますね。

ところで中川に迷惑かけた田原紹忍(田原が中川の旗印を盗んだせいで中川は西軍と疑われた)

この男、大友軍が「石垣原の戦い」で負けると、ノコノコ中川家に舞い戻った。

どういう神経してるんだか・・・戦死した吉弘の爪垢を呑ませたいぉ o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

諦めが悪いって点では、戦国武将らしいとも言えるのか?・・・( ̄ω ̄)ウ~ム

中川が呆れたかどうか判らないが、とにかく田原の帰参条件として「臼杵城攻撃に参加する」を提示した。

1600年10月3日~太田・中川の両軍は佐賀関で激突


とにかくハッスルした太田軍の強さは半端なかった。

後年は石田三成が取り立てた官僚系家臣だったが、元太閤殿下馬廻衆(親衛隊)の武勇はガチ。

中川側は家老中川平右衛門、田原紹忍(自身の戦死で帰参の希望は潰えた)、柴山重祐(重成の養父)ら230人あまりが戦死し、負傷者も200人以上を出す大敗北。

だが中川秀成は、多大な犠牲を払ったことで家康に(やっと)信用されて、領地安堵することが出来た。

10月4日~~~中川に勝ってスッキリした太田が如水へ降伏の使者を出す^^;

太田を討たなかったのは如水の配慮だったらしい。晩年の太田は京都で隠棲してます。

さて大友軍を「石垣原の戦い」倒した如水ですが、思うように進軍できませんでした。それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【前篇・佐賀関の戦い】石垣原の戦い/九州関ヶ原5栞41

関ヶ原本戦が、わずか一日で決着したせいで、日本全国の方が困った。

特に困るのが西軍・東軍のドッチにも「いい顔(家臣や息子を派遣)」して、そのくせ自分は中立だった人たちだ。

一刻も早く旗幟鮮明にしなければ、「西軍認定」で東軍から袋叩きにあう(゚ロ゚屮)屮

「九州関ヶ原/石垣原の戦い」の余波・・・「佐賀関の戦い」は、そうして起きた。

東軍で登場するのが中川秀成(なかがわ ひでしげ)、中川清秀の次男です。

兄が「朝鮮の役」で戦死したので家督を継いだ。

が、兄の戦死は華々しいものではなく、朝鮮側に待ち伏せされて不意打ちで死ぬという【士道不覚悟=カッコ悪い】死に方だった。

そのため中川家は危うく改易になるところを、故中川清秀の功績を鑑み、と次男の秀成に領地半分の相続が認められた。

しかも、そのあとで中川家は豊後岡城に飛ばされる。

・・・・・どうも、このあたり意図的な気がしないでもない。

秀吉は、これ幸いと旧織田系家臣を中央から遠ざけたかもです。

意図的といえば、秀吉の選んだ秀成の妻は、ななななんと佐久間盛政の次女・虎姫。

佐久間盛政は柴田勝家の甥で「賤ヶ岳の戦い」で、秀成の父・清秀を討った男です。

親の仇の娘を妻にする・・・島津(親の仇)を助けた立花宗茂よりハードル高いっす( ̄ω ̄A;アセアセ

秀成は「戦に勝敗はつきもの、親は親・娘は娘」と虎姫を受け入れ、夫婦仲は睦まじかった。

だが、姑(虎姫の父に夫を殺された未亡人)は虎姫に心を開くことが出来ず、家臣団も亡き主の仇の娘に反発が強かった。

嫁姑和解説もあるが、とにかく中川家臣団にも遠慮した虎姫は、生涯領地に行くことは無く、姑とも同居しなかったそうだ。

太閤殿下・・・仇同士を娶せるなんて悪趣味~実は故中川清秀への嫌がらせですか?www

ちなみに佐久間家は虎姫の遺言(生前から強く願ってた)で、息子の一人が継いで御家再興を果たす。

佐久間家の菩提寺も建立されて、中川家客分の家として存続し、子孫は現在も大分県にお住まいです^-^




さて、肝心の関ヶ原ですが中川秀成は豊後在国で様子見~保険として西軍に家臣を派遣してた。

どこでもやってることなんで、とやかく言われる筋合いじゃない。

が、家臣の派兵先がチト不味いとこでした^^

中川が家臣を派兵したのは、細川幽斎が籠城する田辺城攻撃陣だったんです~


不味いというのは、戦後処理で一悶着したから^^;

この時期の細川忠興は、愛妻ガラシャを失って、いつも以上に普通じゃなく、各方面(身内含む)に八当たりしてました。

細川忠興は父には「開城だなんて、みっともない!ざけんな!城を枕に討死しろよ!」と怒ってた。

かと思えば「オヤジを攻撃した諸将は全コロス!」と息巻き、周囲が忠興を宥めるのにメチャクチャ苦労したらしい。

結局、忠興は取次だった井伊直政の面目をブッ潰し、田辺城攻撃の総大将を自害に追い詰めてます。(他の諸将は幽斎の和歌の弟子だったりと、人脈フル活用で何とか助かった)

「ガラシャの死」は東軍諸将に戦への覚悟を決めさせたものなので、徳川家康も細川忠興の暴走が止められなかったようです^^;

中川が関ヶ原本戦の結果を知って慌てて「ワシは東軍です!」って取り繕うとしたんだけど、忠興が騒ぐから徳川家康の機嫌が中々直らなかった( ̄ω ̄A;アセアセ

さらに中川にとって不幸が重なった。

中川家の客将に田原紹忍(たばら じょうにん)という人物がいました。

元大友家家臣・・・というだけでなく大友家の分家・武蔵田原家の当主です。

大友家が豊臣秀吉に改易されると、田原紹忍は中川家に身を寄せたんです。

岡城自体が、そもそも大友家家臣志賀家の城でして、新たに任地に赴く中川秀成としては旧大友家臣の持つ情報が欲しかったのでしょう。

その田原紹忍・・・能力的にはアレなんですが、旧主・大友氏への忠義はあった。

大友義統が西軍として挙兵すると、田原紹忍も中川家を飛び出し馳せ参じた。

ここまでは「いい話」・・・・ここから中川家にとって「悪い話」になる。

田原紹忍は、中川家を出る時に、世話になった中川家の旗印を盗んだんです

中川家「ギャァァ!旗ドロボーー!

母里(黒田家老)松井(細川家老)有吉(同家臣)「やや、あれなるは中川家の旗・・・中川も西軍に加担したか~大殿(如水)へ報告だ~

大友義統「さすが叔父上(田原紹忍)グッジョブ♪~


ったく、田原紹忍ってセコイとこに智慧が回るというか、ろくなことしない男ですな( ゚Д゚)y─┛~~
武家が旗を盗まれただなんて ネー(*´・д・)(・д・`*)ネー 言い訳にしても酷すぎる。

てことで、黒田如水も中川家が西軍だと思い、加藤清正に中川攻撃を命じる。

中川「ひーーーアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ~~~~」

彼は加藤清正に人質を差出し、必死に言い訳・・・もとい弁明。

清正も完全に信じたわけじゃないが「先に(大嫌いな小西行長の)宇土城を攻略する」と、ひとまず中川攻撃を保留にした。

如水は違う城を攻撃中~清正は宇土城に張り付いてる・・・中川は今のうちに身の潔白?を証明する必要に迫られた。

てことで、中川は中立を決め込んでた太田一吉の臼杵城を攻撃したのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【相互】キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★【リンク】

先日来、相互リンクを依頼してた「戦国島津の女達」に「時乃栞」が登録されました。

ここです
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/

TOPページの「リンク」ってとこの「島津周辺」に載ってます^^

なにせ、本物の史家・作家が登録してるくらい、レベルが高いHPなんです。

開設間もない、記事数も少ない、そんな自分が入るのは図々しいとも思ったりもしました。

ですが「マイナーな郷土史・国人領主を広く紹介したい」という思いから依頼し(えっと、ちと濃いメールしちゃったかも)承諾いただいた次第です。

なんか自分で自分の首を絞め・・・もといハードルあげちゃった気が・・・ゲホグホゴホ

とにかく、今後もマニアックロードを驀進しますので、なにとぞ宜しくお願いします^-^

[http://history.blogmura.com/his_chihou/ にほんブログ村 地方・郷土史]

北肥戦誌【1536年】

天文5年(1536年)の秋に入り、道麒は千葉興常と示し合わせ、資元を討つべく筑前を発って多久へ派兵する。
それを聞き知った塚崎の後藤、上松浦の波多・草野がこれに加勢。
9月初旬に大挙して攻め込んだ。

資元は僅かな供廻りだけであったため防ぎ戦えるべくもなく、もはや自害すべしと思い、
同月4日に専称寺に忍び入り、譜代の家人・今泉朝覚、窪、平原の三人を呼び出し、
「我ら智慮なくして一昨年敵を恐れて城原の居城を去って後、付き従う者らにも見捨てられ、勢いは微々と成り果て此処に来た。このような是非無き害に合う事は、世の宿業ながら口惜しき次第である。然れども悔いても益無し。唯々自害を急ぐべし。さても汝ら三人は多くの家人の中で今まで心を違えず付き従い嬉しい事である。必ず黄泉に入っても忘れはしない。この期に及び、(汝らは)死を共にしようと思うだろう。だが子息・冬尚は蓮池に忍んで居り、その他、幼稚の子供は佐嘉の傍に隠し置いている。汝ら三人はこの場を逃れ、彼所へ赴き子供を撫育させよ」

と申されるがは、今泉は涙ながらに
「御運既に傾き、この期に及んでは悔いても仕方ありません。そんな中、我らに落ちよと申されますが、御父・政資公御生害のとき公は九歳になられ、横岳の元に忍んで御成長された。その後、藤津へ御蟄居のときは、某が父・宗春入道と宗伊賀守ばかりが付き従いました。その身、不肖ながらも、その子としてその最期を見捨てて、何処へ逃げて誰を頼めと申されますか。皆、死出の御供こそ望んでおります」と述べる。

左右を見れば、窪・平原も共に涙に咽び、「我々も同意に候」と頭を垂れていた。
資元は重ねて申すに
「死は近くして易く、生は遠くして難し。幼稚が者共の事こそ心許ない。曲げて命を全うし、彼等を養育させよ。さもなくば七生までの勘当である」。と大いに立腹すれば、三人は主命に背く訳にいかず、涙ながらに退出した。
隔して資元は心安く思われ、専称寺の仏前に鎧脱ぎ捨て、もろ肌脱ぎ、生年48にして腹を十文字に掻き破り、桐葉落ちる夕凪の9月4日、その一生は夢となられた。法名:心月本了と申すは、この資元の事なり。

然るに今泉・窪・平原は、泣く泣く佐嘉へ赴き、亡き君主の幼子達を或る寺へ忍ばせ、住持を頼み年月を重ねていった。
三人の中でも今泉は、発心して髷を切り、66箇所を巡礼し、後に上洛して竹苑椒房・摂家・清華の方を頼ったという。これは再び少弐家を興す為の縁を求めての行為である。

資元はもはやこれまでと、同月4日に専称寺に入り自害に及んだ。
それを見届けた譜代の今泉朝覚、窪、平原の三人は、亡き君主の幼子達の世話をしながら年月を重ねていった。

道麒は九州支配を整えて、10月29日に周防に帰国、大内義隆は西国を安んじた功により大宰大弐に任じられた。
さて、資元死去を知った大友は後悔し、資元の嫡子・冬尚を世に出すべしと、龍造寺氏の嫡流・胤久と談合に及ぶ。
蓮池城主・小田覚泒(資光)も少弐再興を企図して、自らの城に冬尚を隠した。

江上尚種は「今の大内は武備廃れ、蹴鞠・和歌のみ持て囃し、栄華に満ち油断しきっており攻め時である」と述べた。
が、龍造寺家兼は同意しながらも、
「大内の武威は廃れたと雖も、公方様の覚え目出度く、朝廷の御恩厚く、陶・杉・鳰・相良ら老臣が揃い、非を諌めるに身を囲わず、軍に臨んでは命を惜しみません。義隆は事々を彼らに任せて居る為、国は治まり、民は安んじられておりますれば、まだ天の時に至って居らぬということでは御座いますまいか」。と柔らかく述べた。
皆是に納得したが、唯一人、小田覚泒のみは冬尚へ「家兼は大内へ内通と思われます」と述べ、水ヶ江城を攻めるべしと勧めた。

隔して同年冬、小田は800余騎を引率し、家兼の居城・水ヶ江城へ迫った。
家兼はこれを聞きつけ、されば半途に出迎え戦うべしと一族らを急遽動員、水ヶ江の東・木原村で戦端を開いたが打ち負け、勝ちに乗る小田勢は執拗に追い立てる。
そこへ鍋島の赤熊武者100騎が突入し先手の将一人を討ち取ると、逆に小田勢が崩壊、蓮池方面へ潰走し始める。
龍造寺・鍋島勢は蓮池城下まで追い縋り、首級数十を討ち取って水ヶ江城へ戻った。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【嗚呼、よしな川悲話】石垣原の戦い/九州関ヶ原4栞40

「石垣原(いしがきばる)の戦い」は、九州における「関が原の戦い本戦」に匹敵する。

これは単に東軍が西軍に勝ったというだけではなく、九州における豊臣政権の支配力が大きく衰退することを意味するからだ。

そして天才軍師・黒田如水は、東軍が勝ったら後に豊臣政権がどうなるか解った上で行動しているとシオは推測してます。

西軍・大友義統に攻撃を受けた杵築城(細川家の飛び地)。

城を守る松井康之(筆頭家老)と有吉立行は、東軍の如水へ援軍を要請。

如水は混成軍から母里以下3000を派兵した。

援軍到着の知らせに大友義統は杵築城の囲みを解いて、西南24k先にある立石城に入った。

松井・有吉・母里らの軍議の結果、如水本軍を待たずに攻撃し石垣原を押さえよう!という事になった。

東軍~母里率いる黒田軍3000名!有吉率いる細川軍200名!他の援軍200名の計3400!

西軍~豊後の元大名・大友義統の大友軍2000名(900という説あり

1600年9月13日、石垣原の制圧を巡って両軍が激突した!!


前回も話したが、石垣原(いしがきばる)という土地は、日露戦争における旅順・203高地か天王山のような場所。

そこを「制圧した方が勝つ」という戦略的要地でした。

当然、どちらも譲らず激しい戦いになりました。

地元有利で大友軍は激しく抵抗し、数では有利とはいえ寄せ集めの東軍(黒田軍自体が寄せ集めな上にに更に他家との連合軍)

そのため「一気に大友を踏み潰す」ということが出来ず、2陣・3陣と兵力を投入しなければならないほどの激戦でした。


黒田家紋

大友軍の方は兵力を二つに分け、右軍・左軍と軍を展開していた。

その将の一人に吉弘統幸(よしひろ むねゆき)という勇将がいました。

吉弘(名前っぽいけど名字)は、主君・大友が秀吉によって領地没収されると、一族を養うため 大友の元家臣で一大名として独立してた立花宗茂(たちばな むねしげ)に仕えていました。

(立花宗茂と吉弘は従兄弟の間柄^^)

旧主・大友が西軍として行動しようとしている情報を、地元コネでキャッチした吉弘。

彼は涙ながらに旧主を諫め、必死で止めたんです オネガイ( ̄人 ̄;)ヤメテ~~

でも御家再興のニンジンに目がくらんだ大友の決意を変えることが出来ませんでした。

(毛利輝元に幼い3男を人質にとられていた、という裏事情もありました)

吉弘は「この上は旧主と共に行動するしかない」と立花に別れを告げて、大友軍に身を投じたのです。

石垣原の決戦の日、吉弘は「もはや大友に勝ち目はない」と死を決意しました。

大友に兵の余力はありません。いまが手一杯の一張羅なんです。

だから例え目の前の黒田軍3000+他400を撃破できたとしても、その後に押し寄せる如水本軍に勝てる見込みが無い。

「同じ死ぬのなら、せめて石垣原で死に花を咲かせよう」と思い至った。

吉弘は大将で旧主である大友に、累代仕えたことの礼と永遠の暇乞いをし別れを告げました。

そして一手を率いる将でありながら、わずか20~30騎の供で最前線に出てしまいます!

ベテランの猛将・母里と有吉は、この絶好のチャンスを見逃さない!!

激しい戦闘の末、黒田二十四騎の一人・井上が躍り出て、ついに吉弘を討ち取った!!

指揮官の一人である吉弘を失った大友軍は動揺し、大きく崩れ敗北!立石城に逃げ込んだ!

大友義統:もぉダメよ!終った!切腹よ!それしかないわぁぁ!!


大騒ぎする大友義統を残った家臣が必死で宥め、抱きかかえるように麓の寺へ連れて行き出家させた。( ̄ω ̄A;アセアセ

実は黒田軍の将・母里の妻は大友義統の妹だったので、縁戚コネにスガって降伏することにしたんです。

大友の降伏を母里と如水は受け入れました。

大友義統は、如水の助命運動が効いて死罪だけは免れた。

さらに意外にシッカリ者だった大友~事前に長男を徳川家に人質に出していた「保険」が成功。

息子の代で高家(こうけ・武家典礼を司る家)として家名存続が出来ました(=^・ω・^=)v ブイ


金宗院跡にある吉弘の墓

戦死した吉弘統幸の首は罪人として石垣原で晒されていました。

吉弘家の菩提寺・金宗院の住職は不憫に思い、首を取りに石垣原まで行きました。(こっそり盗んだらしい)

帰り道に風呂敷から血がしたたり落ちるので、首を取り出し川で首を洗っていると、死んでる統幸の首が目を開き言いました。

「ああ 和尚よしな(吉名:やめなさい)」

「ぅひゃぁ!(゚ロ゚屮)屮」住職は驚き、寺に帰り手厚く供養をしました。

以来都甲川の事を「よしな川」と呼ぶようになりました。

地元に残る民話で、写真と話の提供はブログ友の東高家男様です^-^
http://blogs.yahoo.co.jp/muneshigetatibana

大友が旧臣を集めてると知った時に、如水は「東軍にしなさい」って忠告してたんですけどね・・・

東軍になっていれば2~3万石の小大名でも残れたかもです。

まぁ結果として高家で家名は残せたのだから、吉弘は全くの無駄死にでは無いでしょう。


とにかく、西か東か迷ってた九州の大名たちも、この戦いの結果を見て大きく東軍に傾き、如水軍による豊後平定の動きが加速していきました。

1600年9月15日~大友が黒田軍に降伏したこの日~関が原本戦で西軍が敗北したことを、如水は未だ知らない・・・

それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1535年】

天文4年(1535年)、長法師丸(後の龍造寺隆信)は宝琳院に入って、豪覚法印(2代住職)の弟子となり、中納言円月と称した(後に4代住職)。

同年、陶父子は大宰府より下知し、少弐の所領・東肥前の「三根」、「神埼」、「佐嘉」を悉く没収する。

12月晦日、やむなく資元は密かに多久へ、冬尚は蓮池に入った。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北肥戦誌【1534年】

★そして肥前にて年を越し、翌年(1534年)の4月6日に原田隆種の勢を石動村(いしなりむら)に働かせて、少弐方と争わせた。
このとき道麒は、石動但馬守を案内者として、千栗山の衆を攻め、諸所に放火し神社を悉く焼失させた。
道麒は三津山に陣を布き、5月16日に龍造寺家兼の居城・水ヶ江城を攻めさせる。
福地家盈らは持口を守って城を死守した為、大内勢は三津山本陣へ引き返した。
また、7月13日には有馬晴純の軍勢が少弐の留守を狙い、多久城を攻めるが、こちらも城番・龍造寺盛家の死守により守られる。

さて、その翌日の夕方から俄かに風が吹き出し、翌15日の朝には大雨となる。
南の海から大潮となり、風に煽られ高波となると、須古・白石・佐嘉・神埼の村々を洪水が襲い、死者は一万余に達した。
この夜、家兼はこの有り様を見て、子息・家門に対し
「この大風と大雨で、三津山の陣に居る者達は合戦の事など考えられぬだろう。ならば今夜、風雨に紛れて敵陣を夜襲し、陶を討ち取るべし」と述べた。
家門も同意し三津山陣へ夜襲を仕掛けた。
その頃、陶の陣中では、佐嘉・神埼の民家が浸水している様を遠く見ながら、龍造寺の者達が自滅すると笑いながら酒宴に興じていたのであるが、そこへ龍造寺勢300余が鬨の声を上げて押し寄せた為、矢兵具を放ったままに我先にと逃散し始めた。
龍造寺勢は敵を追い崩し千余の首級を得て勝ち鬨を上げた。

16日の朝に帰城すると、潮に流れて何やら流れて来た。
それは観世音菩薩の木像であった。
家兼は、「大敵を追い崩し、帰陣に及んで仏像を得る事、偏に子孫繁栄すべき瑞相なり」と木像を懐中にしまって帰城した。
その後、城の南に堂を建てて木像を安置させた。
この木像が後の、水ヶ江慈教院の観世音である。

8月15日 家兼、法華経万部を修読する。

先の敗戦に立腹した大内義隆は、10月初旬に自ら30,000余を率いて筑後へと渡ると、大宰府を本陣と定めて少弐へ打ち手を差し向けた。
道麒は汚名返上と先陣を申し出、嫡子・隆房(後の陶晴賢)と共に肥前国へ打ち入った。
勢福寺城の少弐親子は、味方を諸所の要害へ差し置き、大内勢を防いだが、少弐冬尚は打ち負けて、小田氏の蓮池城へと入る。
蓮池城は長い川の流れを巡らせた要害で、大内勢は俄かには攻められない。
そこで、唐津の波多隠岐守を家兼に遣わし、
「公方様より命を承り、義隆が逆徒を平らげました。少弐は我意を恣にし、国家の動乱が治まりません。
そこもとは少弐と年来の誼が御座れば、少弐を諌めて争乱を止めさせて頂きたい。
この儀、整うならば義隆の計らいにて少弐に休息処を与えるでありましょう」と述べた。

家兼も少弐が断絶するに忍びなく、少弐の老臣・千葉興常、千葉喜胤、波多下野守の3人へ、
「中国の軍兵雲霞の如し。然るに此度は千に一つの勝利も得られますまい。和融に及び居城を渡されれば、一には公儀への忠心、二には敵味方諸人の安堵、三には累代の名家を相続あり、これらの大幸を為します。然るに御辺らは少弐氏の近臣なれば、これを宜しく評議致され」と申し送った。
これは大内義隆の命を受けての発言との風聞もあったが、資元へその旨を伝え、江上・馬場・小田・横岳・龍造寺らで評定に及んだ。

資元曰く「大内と当家との怨恨は一朝一旦の事ではない。御主らが存ずる如く、大内は先祖累代の難敵・・・殊に父の仇である。幸いにも義隆は来陣した。此の上は我が屍を野首に晒すとも一戦に及び、勝敗を決する外なし。されど、また案ずるに、我が憤激の為に万人を死なすも流石に不憫である。求めに応じよう」と述べる。
而して、10月に和睦に至り、資元・冬尚は勢福寺城を大内へ渡して去った。
これを聞いた大友も大内と和融に至った。義隆は周防に帰り、陶父子は大宰府に戻った。


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【勃発】石垣原の戦い/九州関ヶ原3栞39

秀吉の死後、前田利長が徳川家康に謀反の疑いをかけられ糾弾された。

前田家のピンチに利長の生母・芳春院(おまつ)が、自ら人質として江戸に下向した話は有名だ。

が、実は同時期に細川忠興も地味?に謀反の疑いをかけられていたそうな^^;

忠興は家康の疑惑(罠とも言う)を晴らすため、三男の忠利を江戸へ人質に出した。

忠興の「誠意」に満足した家康は「故・太閤殿下の遺言」という名目で、豊後は杵築6万石を与えたのだった。


細川家の記録では杵築城を別名の木村城と書いてるんで、ちと解りづらいぉ


細川家筆頭家老・松井康之と重臣・有吉立行は、城受け取りの使者として豊後入りした。

さて、杵築城は筆頭家老が残るほどの要衝地だったのか?・・・んなことあるわけない、ない!

松井康之が「九州の関ヶ原」に巻き込まれたのは、主君・細川忠興にとって全くの想定外でした

1600年7月21日付の細川忠興の書状によると、「松井康之は豊後から丹後に戻り、有吉四郎右衛門(立行)には豊後木村(杵築)城を守るように。」とあり、
また、「九州の状況に応じては木村城を放棄し黒田家を頼れ。」とも伝えている。
(この頃は仲良しの黒田家と細川家^^/)

忠興はゲットしたばかりで勝手の解らない豊後の地で、籠城するつもりも、させるつもりも無かったんです。

忠興の命令1)筆頭家老・松井康之は丹後に戻りなさい~~

石田三成挙兵の余波で水夫が全く集まらない~~~丹後へ帰り損ねた筆頭家老Σ(´Д`;) うあ゙~

命令2)九州の状況に応じては城を放棄し⇒続く

大友義統が西軍だ~旧家臣を集めてる!Σ(´Д`;) うあ゙~

続き⇒黒田家を頼れ~

その黒田如水が兵を集めてる件~~Σ(´Д`;) うあ゙~


やばい・・・超やばい!もしかしなくても九州で最初に戦の火の手があがるのはブンブン豊後!!

松井康之と有吉立行は大急ぎで城の補修・防備を強化! アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ




挙兵した九州の西軍・大友義統は、旧領を奪回すべく杵築城を攻撃した。

あっと言う間に三の丸・二の丸が落とされる (゚ロ゚屮)屮ぇえ!

ですが城跡図を御覧あれ~~杵築城は海に突出する台地に築かれた為、天然の要害になってるんです。

そのため途中まで順調だった大友軍なのだが、本丸が何としても落とせない!

大友軍は夜襲を仕掛けるも、ベテラン有吉が o( ̄Д ̄θ★ケリッ!! っと見事・撃退。

粘ってる間に細川家の使者が如水の元へ走る。

1600年9月11日~「如水から援軍が来る」との知らせに囲みを解いた大友軍は、杵築城の西南24k先にある立石城に入った。

立石城は周囲を山・川・渓谷に囲まれた天然の要害の地であり、非常に攻撃しづらい城だった。

が、城の北側にある石垣原(いしがきばる)を押さえてしまえば、城方が袋のネズミになる・・・という場所でもありました。

如水は豊後の諸城を落とすべく行動中だったので、救援に来たのは母里率いる3000名。

松井・有吉・母里らの軍議の結果「如水本軍を待たずに攻撃し石垣原を押さえよう」という事になったのだが、それは・またの話 by^-^sio

今回の写真はブログ友・おしょう様から拝借しました。
おしょう様のブログはコチラ↓(元記事はトラバ先を参照してください)
http://blogs.yahoo.co.jp/shouta059

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【出陣】石垣原の戦い/九州関ヶ原2栞38

「関が原の戦い」とは、本来は1600年9月15日に起きた戦の事を指す。

ところが、それに絡んで西軍・東軍の動きが全国各地で活発になり、それぞれの地で戦闘が勃発する。

そのため近年では関ヶ原本戦だけでなく、各地で起きた合戦・前哨戦を含めた全体で「関が原の戦い」と呼ぶ動きがあるそうです。

大友家の栄枯盛衰は一言で語りきれないので、ザックリ関が原当時の状況~~~

当主の義統(よしむね)は、元は豊後37万石の大名でしたが「朝鮮の役」で大失態を犯し、豊臣秀吉が怒って領地没収。

その後は各地の大名家に身柄を預けられ、あちこちを転々とする。

その預け先の一つに、西軍の総大将・毛利輝元がいたんです。

毛利は大友に資金を提供し、御家再興を条件に「西軍として挙兵」を唆した。

大友は息子の一人を徳川家に差し出しており、東軍寄りの態度もしてまして、西軍になったハッキリとした理由は謎です。

一説には庶子を毛利に人質にとられていたともあります。

如水が金で兵士を公募したとき、中津領内だけでなく、旧大友領地の豊後(現在の大分県)にも 声をかけてました(^^b

でも豊後には鎌倉以来の名門・大友ブランド力が残ってて、如水の誘いは振られて大友に兵が集まってしまったの。

大友義統の元に集まったのは、旧大友家臣や浪人・・・地元出身の国人衆たちで約3000人です。

つまり検索ぐぐ~る様の力を借りればHITできる、名のある武将が大友の旗の元に参集しており
、即席インスタント・混成軍の如水より遥かに(中身が)まともな陣容でした。

当初・戦未経験のド素人3500だった如水軍でしたが、ウワサを聞いた浪人たちがポツポツ応募しはじめました。

結果・最終的には9000ほど集まり、それを如水はハッタリ・・・もとい公称1万人と触れ込んでたのです。

9月9日に豊後へ出陣するという如水に、混成軍の内容に不安だった家老の母里(もり)が反対しました


如水&長政と祀る、光雲(てるも)神社の母里の銅像
(ふぅペディアより~母里の銅像は博多人形師だった子孫の制作~~拝殿と狛犬は福岡市内を守護し、母里は黒田の殿様を守護するために拝殿の方角に向いてます。)
・・・のはずなんだが、母里が長政を睨んでるように見えるシオは、黒田家譜の逸話に毒されてまする(爆

母里「まだ 早いです!もうちょい後!えっとそ~だ!9日は悪日(あくじつ)です!出撃には縁起悪いんです!(悪日の根拠出典ド忘れ^^;

如水「はぁ?ざけんな(←切れた軍師)!てか今までだって9日に出て勝ってただろ!もぉいいよ~ワシ一人で先に出るから!お前らは後から「いい日旅立ち」しろ!

母里「(ウルウル涙目)主君が先に出陣して家臣が後なんて話ありますか!殿に仕えて幾星霜~ワシは、そのような情なき戦をしたことはございませんぞ!!ワァァァン・゜・(PД`q。)・゜・号泣~

如水「ワシが言い過ぎた・・・母里、まずこれを飲んで少し落ち着け(。・ω・)_【酒】


大泣きして大興奮してた母里は、如水から酒を出されて飲んで仲直りしている内に、なんとはなしに丸め込まれ結局出撃することになった^^;



大友の旧領である豊後は、大友改易後は分割されてしまい豊臣直轄領or小大名が統治していました。

その中の一つに杵築6万石があります。

実は、ここ・・・丹後宮津(現京都府の北より)の細川忠興の飛び地(本領から離れた場所にある領地)

この領地は、1599年3月に起きた「三成襲撃事件」の後に、家康がコソーリ忠興にプレゼントした土地なんです(ただし家康・自腹は切らず、豊臣家直轄領から加増した)

シオ検索では加増(かぞう=ベースアップ)の名目が判らなかったです^^;;

ただ本音としては、細川家を家康の味方に引き入れるためにしたことでしょう。

細川忠興も「上杉征伐⇒関が原」のために動員をかけられてて、宮津の田辺城には 父・幽斎と わずかな兵しかいなかった。

本領ですらそうだから、飛び地の豊後・杵築城は留守番の家老と僅かな兵を残すのみ。

留守とはいえ不穏な九州の地ですから、半端なヤツは置いてないです。

細川家・筆頭家老の松井康之と重臣・有吉立行だ(`・ω・´)キリッ

有吉には、こんな逸話がある↓


(ゆるふわ戦国マンガ~ゲ!有吉の名前間違ってる~四郎右衛門が正解です^^;)

若年のころは「鈍き男にて・・・」とハッキリ書かれるほどパっとしない男だったらしい。

少年だった忠興クンの遊び相手をしてたそうな。

若君の命令とはいえ、馬鹿正直に突っ込み川で溺れかけるようなドジっ子有吉だが、酸欠が逆作用したのか、見違えるほど活躍する武将へと成長し、忠興を支える重臣の一人となったんです。

この有吉四郎右衛門立行、晩年の逸話にこんな話があります。

戦のない時代になってから、家臣たちの間で自分の手柄を家伝として書くのがブームになりました。

有吉の息子は、自分のとこもメモリアル残そうと思い、父に手柄を尋ねたそうです。

有吉は笑って答えました。

「細川家臣にワシの名があればそれで良い。手柄をワザワザ書き残すなぞ新参者のすることだ。そんなことを考えるより、しっかり奉公せよ!」

話は戻って、挙兵した大友軍に杵築城が包囲された!!


後に有吉は、この時の功績で細川忠興から3000石加増・忠興ブランド具足拝領・さらに「武蔵守」と名乗るのを許可されるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
822位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
120位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR